第9話:見えざる牙、逃亡のカウントダウン
すみません、再考して一日遅れました。
「……だから何だ? ロットが一致した? それがどうした!」
ギルド長室に、闇商人の狂ったような冷笑が響き渡った。
アルノルトに『廃棄在庫の横流し(横領)』の証拠を突きつけられながらも、裏社会を泳いできた男は、机の上の利権譲渡書をバシバシと叩いて逆論破を仕掛ける。
「そんなもの、辺境の落ちこぼれ会計士が勝手に捏造した数字だと言えば終わりだ! 王都の【法魔術裁判所】はお前らの味方などしない。それどころか、中央の公認商会を侮辱した罪で、てめえら全員処刑台行きだぞ!」
「そうだぞアルノルト! 証拠があっても、中央の権力に握りつぶされたら俺たちの負けだ!」
リーザが悲痛な声を上げる。
法と権力、そして巨大な資本の壁が、アルノルトたちの前に重く立ち塞がった。
だが、アルノルトは冷や汗を流しながらも、不敵に、狂気すら孕んだ笑みを浮かべた。
「ええ。ですから『賭け』だと言ったのです。私があなた方に金貨30枚をバラまいた時、ただ薬を買っただけだと思いましたか?」
アルノルトは、闇商人に支払った金貨の『シリアルナンバー(魔力刻印)』の控えを提示する。
「私が支払ったのはギルドの正規予算。つまり、中央監査局の『追跡魔術』がかかっている。非合法の闇商人がそれを受け取って懐に入れた瞬間――王都の【中央監査局】の自動防衛システムに、使途不明の不正金流出としてアラートが飛ぶように仕込んでおいたのですよ。……今頃、王都の本会には、システム検知の通知が届いているはずです」
「な、中央監査局……!? まさか、あのアラートを鳴らしたのか!?」
闇商人の顔から、一瞬で血の気が引いた。
【中央監査局】。
司法・軍・財務の三権すら超越した独立特権を持つ、王都の最凶機関。彼らが発行する【赤印監査】が一度でも動けば、王族すら逆らえず、いかなる大商会も3日で完全解体されるという、国家の生んだ都市伝説。
その時、闇商人の懐の通信魔術具が、狂ったような赤光を放って起動した。
スピーカーから溢れ出たのは、王都の黒幕、あの冷静沈着だった【黄金の盾商会】の幹部レナードの、聞いたこともないような錯乱した絶叫だった。
『おい!? 闇商人、お前何をやったんだ!! なぜ我が商会の財務魔術盤に、中央監査局からの【自動警告】が灯っている!?』
「レ、レナード様!? 落ち着いてください、まだ警告が鳴っただけで、奴ら(監査官)が動いたわけでは――」
『バカ野郎!! あの怪物どもはアラートが出た時点で裏付けを終わらせているんだ! 監査官が動いたら我が商会は3日で死ぬ!! ……おい、誰か、今すぐ辺境の闇商人を切り捨てろ!! 関連する帳簿をすべて燃やし、辺境支店の【記録庫】をすべて焼き尽くして、我が商会との繋がりを跡形もなく消去しろォォォ!!!』
「な……レナード様!? お待ちくださ――」
『私は今から、全資産を持って王都の地下へ潜る! 監査局の目が逸れるまで、表舞台からは消える! 巻き添えを食らうわけにいかん、死ね、辺境のトカゲめ!!』
――ガッ、ツーツーツー……。
通信は冷酷に途絶えた。
王都の巨大商会の幹部が、ただ「監査局のアラートが鳴った」という恐怖(名前)だけで完全にパニックに陥り、自ら資産を隠し、記録庫を灰にして逃亡する――。
リーザは、ガタガタと震えながらその場にへたり込んだ。
「たった一つの警告で……王都の巨大商会が、自分から崩れていく……。中央の、中央監査局って……一体どれだけ恐ろしい場所なの……?」
それは、ただの驚きではない。
数字一つで国家の構造すら変えてしまう「絶対的な権力(怪物)」を垣間見た、本物の恐怖の言語化だった。
「あ、あ、あああ……」
すべてを失い、一瞬でトカゲの尻尾として切り捨てられた闇商人は、ガタガタと震えながら床に崩れ落ちた。己の破滅を悟って土下座の姿勢のまま硬直する敵の姿に、かつての威風は微塵もなかった。
「……勝負あり、ですね」
アルノルトは、ゆっくりと黒革の特製手袋を脱いだ。
その瞬間。
「……っ、はぁ、はぁ、はぁ……!」
アルノルトは、ガクガクと激しく震える自分の右手を、左手で必死に抑え込んだ。彼の額からは、滝のような冷や汗が流れ落ち、眼鏡のレンズを濡らしていく。
「ア、アルノルトさん……? 手が……」
リーザが息を呑む。
アルノルトは、弱みを見せないように唇を噛み締め、消え入りそうな声で呟いた。
「……リーザさん、ガザル氏。もし……レナードが恐怖に負けず、冷徹に法魔術で反撃してきていたら……私たちは、今頃本当に処刑台の上でした。奴らが『監査局』の名前だけで自壊してくれたから繋がった、人生最大の……狂気の綱渡りだったのですよ……」
完璧超人の仮面が剥がれ落ち、恐怖に震える、一人の人間の姿。
だが、その瞳には、中央へ逃げ延びたレナード、そしていつか本当に対峙するであろう「国家の怪物」を見据える、不敵な光が残っていた。
ガザルはその震える肩をドン! と豪快に叩き、ガハハと笑った。
「馬鹿野郎、勝てば官軍だ! 泥水をすすって、命を賭けて、あんたは数字で奴らをハメ殺したんだ。――見事だ、俺たちの監査官殿!」
アルノルトは叩かれた痛みに顔をしかめながらも、ようやく、いつもの冷徹な眼鏡の奥に、確かな人間の光を灯して小さく微笑んだ。
「……ええ。これで、貸し借り(帳尻)は合いましたね」
(つづく)




