第4話:不器用な数字の裏に隠された血
その夜、アルノルトはギルドが直営する二階の簡易宿舎の一室にいた。
カビ臭い木壁、擦り切れた羊毛の毛布。階下の酒場からは、安酒をあおる荒くれ者たちの怒号に近い笑い声と、大皿がぶつかる粗野な音が床を伝って響いてくる。
ここ『鉄拳の咆哮』は、ただの魔獣討伐の仲介所ではない。
かつて中央の騎士団が見捨てたこの辺境を、開拓民と元兵士たちが命を出し合って守り抜いた歴史から生まれた、血の通った『互助会』。怪我で剣を置いた者に宿番や酒場の仕事を斡旋し、死者の遺族の生活を支えるセーフティネットそのものだった。
その部屋のボロ机で、アルノルトは一本の羽根ペンを冷徹に走らせていた。
トントン、と遠慮がちなノックの音がして、扉の隙間からリーザが申し訳なさそうに顔をのぞかせる。
「あの……アルノルトさん。起きてる?……これ、ギルド長から『これでも食え』って。ただの干し肉だけど……」
「頂きます。ちょうど脳の糖分が切れるところでした」
アルノルトは受け取った皿を脇に置き、ペンを止めずに言った。
「リーザさん。あなたが昼間、涙と鼻水で汚したあの帳簿の復元が終わりました。……そこで、一つ確認したいことがあります」
「うぐっ、鼻水は余計だよ……。な、何を確認したいの?」
「ガザル氏が一晩で使った金貨50枚――約500万ゴールドの件です。……彼は本当に、ただの飲み代としてこれを消費したのですか?」
リーザは一瞬、気まずそうに視線を泳がせ、それから小さくため息をついて自身の二の腕をさすった。
「……やっぱり、バレちゃうんだね。アルノルトさんは数字の魔法使いみたいだから」
「魔法ではなく、ただの複式簿記です。酒場の親父への聞き込みと、過去の支出傾向を照合すれば、一晩で消費できる酒量と金額の辻褄が絶望的に合わないことくらい一瞬で分かります。……本当は、何に使ったのですか」
「……オーツおじさんの、退職金だよ」
リーザはボロ椅子の背もたれに体重を預け、ぽつりぽつりと紡ぎ始めた。
「オーツおじさんはね、このギルドが開拓期の一番辛い頃から、ずっとみんなを守ってきた凄腕の戦士だったの。でも先週、フォレストベアの群れから新人たちを庇って、右腕を無くしちゃって……もう、剣は握れないの」
「……なるほど。元兵士たちの互助会である以上、本来なら相応の傷病手当が出るべき案件ですね」
「そうなの! でも、うちの金庫はいつも空っぽでしょ? 国からの補助もないし、私が計算を間違えまくってたから、手当に回せるお金なんて1ペニーも残ってなかった。オーツおじさんには奥さんも小さい子供もいるのに、このままだと来月には宿を追い出されて、路頭に迷うことになってたの」
リーザの拳が、悔しそうにギリ、と握りしめられる。
「それを見かねたギルド長が、なじみの酒場を貸し切って『送別会』を開いたんだよ。みんなを集めてカンパを募って……それで、酒場の親父に金貨を叩きつけたの。**『これでオーツの一家が死ぬまでの宿代と飯代、俺が全額前払いしてやる! あいつを絶対に飢えさせるな!』**って」
「……」
「ギルド長、すっごく不器用だから。リーザに言ったら『そんな予算ないよ!』って泣かれるの分かってたから……『景気づけの飲み代だ!』って言い張って、全部自分の責任にしようとしたの。……アルノルトさん。それでもやっぱり、ギルド長のお給料は8割天引きにしなきゃダメ……?」
リーザの潤んだ瞳が、すがるようにアルノルトを見つめる。
だが、アルノルトは眼鏡をかけ直す仕草のまま、一切の感情を排した声で言い放った。
「当然です。天引きの処分は1ミリも変えません」
「なっ……! あんた、やっぱり冷酷な数字の悪魔だよ! ギルド長がどれだけの気持ちで――」
「感情論で組織の財布を語るなと言っているのです、リーザさん」
ピシャリと冷たい声が響き、リーザが息を呑む。
アルノルトは立ち上がり、修復された帳簿の1ページを彼女の前に突きつけた。
「ガザル氏の行動は、リーダーとしての『人情』としては満点でしょう。しかし、経営者としては【最悪の悪手】です。一時の感情で手元の現金をゼロにすれば、明日ドラゴンを持ち込まれた時に買い取り拒否が起きる。そうなれば冒険者たちは離れ、互助会そのものが崩壊し、結果的にオーツ氏も含めた【全員が野垂れ死ぬ】ことになる。それが彼のしたことの現実です」
「それは……そう、かもしれないけど……っ」
「いいですか。本当にオーツ氏の生活を救いたいのであれば、そんな不透明な『使途不明金』で処理してはいけないのです」
アルノルトは羽根ペンを掲げ、不敵に、だがどこか確信に満ちた笑みを浮かべた。
「ガザル氏の給与から天引きした500万は、ギルドの現金ショートを防ぐ『準備金』としてプールします。その上で、私がこの泥沼の帳簿の無駄を徹底的に削ぎ落とし、来月から正規の【傷病手当・福利厚生費】として、オーツ氏に毎月固定の支援金を支給できる仕組み(システム)を作ります。人情の腕力ではなく、組織の財務体質そのものを強くする。……それが、私の言う『複式簿記での再定義』です」
「毎月、ちゃんとしたお金として、おじさんを支える……?」
「ええ。これならガザル氏も、毎月ビクビクしながら使い込みをしなくて済む。……さあ、リーザさん。干し肉を食べたら作業再開です。明日までに、この街の市場の『適正関税』と、うちのギルドの『買い取りレート』の異常なズレをすべて洗い出しますよ。誰かが意図的に、この互助会を潰そうと数字を操作している形跡がある」
アルノルトの瞳の奥で、知力のステータスが怪しく、頼もしく輝いていた。
(つづく)




