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第22話:監査対象外

「ハハハハハハ! 財務局、査問会、王室会計監督官、宮廷上層部……全員がこの国のシステムそのものなのだよ! 好きなだけ王宮へ上奏するがいい、アルノルト! その上奏文が、国王陛下の机に届く高みにまで届くと思うか!?」

ヴァルター次官補の狂ったような笑い声が、深夜の第一執務室の壁に反響し、冷たく響き渡る。

それは、正論を並べ立てた辺境の者たちへの嘲笑であり、何よりも、国家という巨大な歯車を前にした個人の無力さを突きつける絶望の宣告だった。

「……うそ……」

リーザの足が、小さく後ろへ引けた。

抱え込んでいた財務諸表を持つ手が、恐怖で細かく震え始める。

「そんな……じゃあ、私たちがどれだけ正しい数字を集めても、ハインリヒ局長がいないなら……この『7―0―3』の予算停止命令書は、ただの紙屑になるっていうの……?」

ガロフもまた、苦虫を噛み潰したような顔で歯噛みした。

「チクショウ、これが中央のやり方か……! 監査の窓口そのものを塞がれちまったら、俺たちみたいな現場の人間は、ただ大人しく踏みつぶされるのを待つしかねえってのかよ……!」

憲兵たちの抜き身の細剣が、回廊の微かな明かりを反射して冷たくギラついている。

勝負は決した。ヴァルターの言う通り、どれほど見事な検証を行おうとも、それを承認して執行を止める行政のトップたるハインリヒ局長が拘束された以上、この場にいる全員が「不審者」として処理されて終わる。

その──絶対的な静寂と絶望の最中だった。

カツン。

あまりにも静かな、しかし奇妙に響く硬質な音が、室内の笑い声を切り裂いた。

「……あ……」

官僚たちの視線が、エレオノーラのデスクへと集まる。

エレオノーラの指先から、一本の万年筆が零れ落ち、重厚な絨毯の上へと転がっていた。

ハインリヒの失脚──その極大の絶望の報告を聞いたその瞬間だけ、常に完璧な姿勢を崩さず、氷の如き合理的正義を執行してきた特命監査官エレオノーラの指先が、明確に、人間らしく取り乱した。

だが、彼女はすぐに、落ちた万年筆を自らの手で拾い上げ、デスクの上へと戻した。

そのガラス玉のような瞳は、激しい衝撃に揺れながらも、まだその知性の光を完全に失ってはいない。ハインリヒという絶対の盾を失ってもなお、彼女は背筋を伸ばし、冷徹にヴァルターを睨み据えた。

ヴァルターがそれを見下ろし、極上の愉悦に浸った笑みを深くする。

「終わりだ、エレオノーラ。君の信じた数字の神とやらは、この王都の権力システムの前には無力だった。ハインリヒが消えた以上、明日の朝にはこの『7―0―3』に基づき、地方予算は一律に削減執行される。行政は止められない。国家だからな。……君たちがどれだけ喚こうが、予算執行は止まらんのだよ」

「ええ。止まりません」

地を這うような、しかし驚くほど冷徹で、強固な声が室内の空気を凍らせた。

ヴァルターが不快そうに眉をひそめて視線を巡らせる。

声を上げたのは、アルノルトだった。

彼は自身の右手に嵌められた**【黒革の特製手袋】**の皺を伸ばすように、もう一度ゆっくりと嵌め直した。その眼鏡の奥の瞳には、絶望など微塵もなかった。あるのは、かつて宮廷を追われ、泥水をすすり、現場の底辺で「手続き」という現実の武器を知り尽くしてきた男だけが持つ──冷徹な確信だった。

「アルノルト、君は何を言っている?」 ヴァルターが不快そうに目を細める。

「次官補殿、あなたの言う通りです。国家の行政予算執行は止まらない。止めてはならない。……だから、あなたは負けたんですよ」

「何……?」 ヴァルターの口元から、余裕の笑みが消える。

「ハインリヒ局長が拘束された。ならば、明朝の行政を止めないために、あなた方は今すぐにでも『局長代理(後任)』を立て、この予算執行の承認印を捺させなければならない。……そこでお尋ねします、ヴァルター次官補。あなたは、誰をその代理に据えるつもりですか?」

「……フン、そんなものは決まっている。財務局筆頭監督官だ。すでに手続きの書類は回っている。それがどうした」

「その人物の名前は、この帳簿にあります」

アルノルトは、エレオノーラがゴミの山から引き抜き、自身が現場の数字と照合した『7―0―3』の極秘執行書を、静かにトントンと指で叩いた。

「……何だと?」

「この闇口座の承認印の欄をご覧ください。彼、財務局筆頭監督官の個人印が捺されています。裏金の還流処理の書類にも、はっきりと彼の直筆の署名がある」

「それがどうした!」 ヴァルターが声を荒らげる。

「今回の裏金還流における、明確な監査対象者だと言っているんですよ」

アルノルトは、眼鏡の奥の瞳を冷酷に光らせた。

「ヴァルター次官補。あなたは、裏金の監査対象者を、その監査責任者の椅子に据えるおつもりですか?」

「……っ!」

「それとも何か? その監査対象者に、自分自身の潔白を証明させるのですか? ──そのあまりにも滑稽な人事の説明を、明日の朝、予算を削られて冬を越せない地方の民や、王都のすべての窓口に、堂々と公表できますか?」

「う、く……」

ヴァルターの喉が、引きつったように鳴った。

背後にいた官僚たちの顔から、一瞬で血の気が引いていく。

法律など関係ない。ただの常識だ。泥棒に身内の取り調べをさせるような人事が、まかり通るはずがない。それをやった瞬間、財務局の信頼は完全に失墜し、王都のシステムそのものが大炎上する。

だが、ヴァルターはまだ、牙を失ってはいなかった。

脂汗を流しながらも、その邪悪な脳細胞を激しく回転させ、ニタァ……と、狂気的な笑みを再びその顔に貼り付けた。

「……ハ、ハハ。ハハハハ! 舐めるなよ、地方の落ちこぼれが……! 身内がダメなら、外部から人間を呼べば済む話だ! 今回の件に全く無関係な、清廉潔白で通っている他部署の監査官を、今から臨時で呼び寄せて局長代理の椅子に座らせる! それなら文句はあるまい! 勝ったのは、やはり我々だ!!」

ヴァルターが狂喜の声を上げる。

これなら利益相反の常識にも反しない。王都の広大な官僚機構なら、いくらでも替えは効く。官僚側の、完璧な反撃だった。

リーザが「あ……」と絶望に目を見開く。

だが。

「どうぞ」

アルノルトは、あっさりと、拍子抜けするほど静かに首を縦に振った。

「な……?」 ヴァルターの笑いが止まる。

「国を止めないために、今すぐその外部の方を連れてきてください。我々は行政を止めろなどと、一言も言っていません。どうぞ、その無関係な方を代理に据えて、サインを捺させてください」

そこへ、アルノルトの隣で、万年筆を完全に握り直したエレオノーラが、氷の微笑を浮かべて一歩前に出た。

「ヴァルター次官補。では、今すぐその新しく据える代理候補者の氏名を、ここに提出してください」

エレオノーラは、手元の『7―0―3』の闇帳簿を堂々と掲げた。

「この帳簿に記された数千もの裏金還流口座、および署名。そのすべてと、提出された氏名を直ちに照合いたします。もし、その人物の名前が、この闇の数字と1箇所でも、たったの1レアルでも繋がっていた場合──その時点で、彼もまた『当事者』となります。当然、その瞬間に局長代理の候補資格を失います。さあ、誰を呼びますか?」

室内に、夜の闇よりも深い、完全な静寂が落ちてきた。

「あ……、あ、ア……」

ヴァルターの口から、今度は本物の、掠れた絶望の喘ぎが漏れた。

呼べるはずがなかった。

財務局、査問会、王室会計監督官、宮廷上層部、全員がグルで作り上げた完璧な利権のシステム。外部の人間をこのハインリヒ抹殺の計画に引き込むということは、その人間もまた、この甘い汁を分け合っている「仲間」でなければならない。

本当に何も知らない、清廉潔白な人間をこの椅子に座らせてしまえば、その瞬間に、ハインリヒが残した『7―0―3』の不正がその新しい代理の手によって本物として告発されてしまう。

自分たちの利権を守るためには、身内を座らせなければならない。だが、身内を座らせようと言及した瞬間、その人間の名前は手元の帳簿の事実と照合され、一瞬で『新たな泥棒』として引きずり出される。

アルノルトたちは、ヴァルターを力で倒していない。ただ、「ルールに従って、潔白な人間を選べ」と言っているだけ。

だからこそ、私欲にまみれた権力者たちには、選べる選択肢が最初からどこにも残されていないのだ。

ヴァルターはガタガタと顎を震わせ、目の前の男──7年前に自分たちが宮廷から落ちこぼれとして追い落としたはずの会計士の姿に、本物の恐怖を見ていた。

「お前は、お前たちは……、監査の権限を停止されたはずだ……! 特命監査官エレオノーラも、地方の貧乏ギルドも……、我々の計画の、監査の対象外だったはずだろう……!!」

激昂し、狂ったように叫ぶヴァルターに対し、アルノルトは眼鏡の位置を静かに直すと、冷徹極まりない声で、王都の寄生虫へ最後の宣告を下した。

「勘違いしないでいただきたい、ヴァルター次官補」

アルノルトの眼鏡の奥の瞳が、青く、深く輝く。

「この国に、監査対象外の人間など存在しない」

一歩、アルノルトが前に出る。その姿に呼応するように、エレオノーラが、リーザが、ガロフが、現場の人間たちが、一歩ずつ前へと歩みを進める。

「そして今、監査対象になったのはあなた方です。──我々ではない。あなた自身が作った制度が、あなたを裁いているんです」

深夜の第一執務室。

巨大な権力という牙を剥いた国家システム。だが、その権力者が最も誇り、最も私物化してきた『制度の檻』そのものによって、今、国家の寄生虫たちが逆に完膚なきまでにハメ殺されようとしていた。

二人の天才会計士の、本当の逆襲が、今ここから始まる。

(つづく)

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