第23話:計算の正当性
「あ……、あ、ア……」
財務局次官補ヴァルターの口から漏れるのは、もはや言葉にすらならない絶望の喘ぎだった。
目の前で、特命監査官エレオノーラが堂々と掲げている『7―0―3』の闇帳簿。
そこに記された数千の署名と、自分が今から連れてこようとする『身代わりの局長代理』の氏名を突き合わせる。その冷徹な「照合手続き」を突きつけられた瞬間、王都の官僚機構を牛耳っていたはずの彼の牙は、根元から粉砕されていた。
「どうしました、ヴァルター次官補」
アルノルトが、黒革の手袋を嵌めた手で、デスクの上の外部監査請求書を静かに叩く。
「夜明けまで、もう数時間もありません。早く『清廉潔白な代理人』の氏名を提出してください。国家の血流を止めてはならないのでしょう?」
「う……、く、ぅ……」
ヴァルターは一歩、また一歩と後退りした。彼の背後に控える財務局の官僚たちも、完全に戦意を喪失し、互いに顔を見合わせて震えている。
誰の名前を出しても、あの帳簿の数字と繋がっている。繋がっていれば、その瞬間に「新たな横領の当事者」として監査局に身柄を押さえられる。
彼らがハインリヒ局長を強引にハメ殺すために作った完璧な利権のシステム。
そのシステムそのものが、今や彼ら全員を逃がさない、底なしの底無し沼(檻)へと反転していた。
「憲兵……! 憲兵、何をみている!」
ヴァルターが、ついに狂乱したように叫び声を上げた。
「こ、こいつらは不審者だ! 地方の不法分子だ! 罪人ガロフの仲間だ! 構わん、今すぐ全員を『国家反逆の共犯』として捕らえろ! 物理的に排除しろ!!」
その怒号に、エレオノーラを包囲していた王都憲兵たちが、ぎり……と抜き身の細剣を握り直し、一歩前へ踏み出す。
どれほど手続きの上でチェックメイトをかけようが、相手は国家の武力そのものを握っている。最後に「暴力」という力技で踏みつぶされれば、集めた数字も、正当な書類も、すべて血に染まって闇に葬られる。
「そこまでよ、ヴァルター次官補」
凛とした、しかし室内の誰もが聞いたことのない「重厚な声」が、第一執務室の開かれた扉から響き渡った。
憲兵たちの動きが、ピタリと止まる。
回廊の闇から、静かに歩み出てきたのは、白銀の甲冑に身を包んだ一人の騎士──王都守備隊総監の、厳格な面持ちをした老将だった。その後ろには、財務局の憲兵たちを遥かに凌ぐ数の、重武装した王宮近衛兵たちが、音もなく回廊を埋め尽くしていく。
「し、守備隊総監……!? なぜ、なぜあなたほどの重鎮が、こんな夜更けに監査局の奥底に……!」
ヴァルターの顔が、今度こそ完全に土気色に変わった。
守備隊総監は、ヴァルターの問いには答えず、ただアルノルトの隣に立つ、書類を抱えて震えていた受付嬢リーザへと視線を向けた。
「──北部辺境ギルドからの、公式な『利害関係者による外部監査請求書』。および、それに伴う財務局の不正還流の『告発状(複製)』。確かに、我が守備隊本部の公式窓口にて、先ほど正式に受理いたしました」
「え……?」
ヴァルターが、信じられないものを見る目でリーザを見た。
リーザは、涙目のまま、しかし誇らしげに胸を張った。
「ヴァルター次官補、あなたさっき言ったわよね。自分たちが途中の窓口を握っているから、私たちの書類は絶対に王宮の上層部には届かないって」
彼女は、アルノルトから事前に手渡されていた、もう一通の『請求書の控え』を握りしめていた。
「だから、アルノルトさんに言われた通りにしたの。財務局や監査局の窓口が塞がれているなら、今回の『7―0―3』の予算削減によって、もっとも直接的、かつ物理的な被害を被る『別の国家機関』へ、直接書類を叩き込めばいいって」
アルノルトが、眼鏡の奥の瞳を冷酷に光らせ、守備隊総監へと一礼する。
「──王都守備隊通常予算、そのうちの30%を占める『北部辺境防衛駐屯費』。それらが、財務局の都合の良い二重帳簿によって、今年度一律で『削減執行(間引き)』される予定となっていました。……総監、これがその動かぬ証拠(帳簿)です」
守備隊総監の目が、猛禽のようにヴァルターを射抜いた。
「我が守備隊の末端の兵たちが、この冬、防寒具も兵糧も足りずに凍え死ぬところだった。その予算が、貴様らの極秘闇口座へと還流していたわけだな、ヴァルター」
「ち、違う! あれは国家安全保障のための──」
「国家の盾たる我らの予算を削り取ることが、安全保障なわけがあるか!」
総監の怒号が、執務室のガラス窓を激しく震わせた。
「中央査問会がハインリヒ局長を拘束したと聞き、不審に思っていたが……すべてが繋がった。ヴァルター、貴様ら財務局は、自らの不正を隠蔽するために、国家の軍事予算を盗み、それを指摘しようとした監査局長を逆恨みでハメ殺したのだ!」
「ち、違う……! 違うんだ……!」
「近衛兵! 財務局次官補ヴァルター、および、この帳簿に関与している官僚全員の身柄を、国家財政法違反、および軍事予算横領の容疑で現行犯拘束しろ!」
「はっ!」
一斉に、重装の近衛兵たちが室内へ踏み込み、ヴァルターや官僚たちの腕を乱暴にねじ上げていく。抜き身の細剣を構えていた憲兵たちは、近衛兵の圧倒的な威圧感の前に、自ら武器を床へと落とし、ひざまずいた。
「アルノルト……! エレオノーラ……ッ!」
ヴァルターは、床に顔を押し付けられながら、血を吐くような叫び声を上げた。
「勝ったと思うなよ……! 局長のハインリヒは、すでに中央査問会の『最奥の地下監獄』へ送られた! あそこは王室会計監督官の直轄、軍の権限すら及ばない絶対の暗黒だ! 拷問によって今夜中に『偽りの罪状サイン』を捺させれば、明日の朝にはハインリヒの失脚は公式に確定する! お前たちがどれだけ暴こうが、ハインリヒはもう、二度とこの地上には戻れんのだよ!!」
邪悪な執念。
自分たちが破滅しようとも、ハインリヒさえ殺してしまえば、監査局の「全権」は完全に消滅する。そうなれば、後からいくらでも身内の罪を揉み消せるという、官僚機構の最後の足掻きだった。
「最奥の地下監獄……。あそこは、一度入れば二度と手続きの光が届かない、法の死角……」
エレオノーラが、再び顔を強張らせ、手元をぎゅっと握りしめる。
だが、アルノルトは、黒革の手袋を嵌めた手を静かに挙げ、近衛兵に連行されていくヴァルターの正面へと立ち塞がった。
「ヴァルター次官補。あなたたちは、本当に最後まで『数字の力』を理解していない」
「……何だと?」
アルノルトは、エレオノーラのデスクの上に残された、完璧に整合された『7―0―3』の最終逆算シートを、堂々と手に取った。
「ハインリヒ局長が拘束された理由は、あなた方の捏造した『国家機密漏洩の嫌疑』だ。……ですが、我々が守備隊を通じて、この『7―0―3』が国家機密などではなく、ただの【会計詐欺(横領)】であることを証明した。つまり、局長を拘束している査問会の『前提条件(数式)』そのものが、たった今、完全に崩壊した」
アルノルトの眼鏡の奥で、青い知性の光が、かつてないほど強固に、そして静かに輝き出す。
「前提の数字が間違っているなら、そこから導き出される『拘束』という結論(答え)もまた、完全なエラーだ。……エレオノーラ、リーザ、ガロフ」
アルノルトが振り返る。
その視線に応えるように、天才会計士の少女が、辺境の受付嬢が、三十年泥水をすすった老事務員が、力強く頷いた。
「これより、王都中央査問会へ直接『計算の正当性(エラー修正)』を突きつけにいく。国家の最高権力が作った歪んだ数式を、俺たち現場の数字で、丸ごと叩き潰すぞ」
深夜の監査局を抜け、彼らは今、本当の最前線である「査問会地下監獄」へと走り出す。
国家システムが仕掛けた完璧な罠を、ただの「帳簿の事実」だけでハメ返した会計士たちの、最高峰の奪還劇が、今幕を開ける。
(つづく)




