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第21話:利害関係者

王都中央監査局の最奥、第一執務室。

そこは、夜明かりのランプすら届かない、法と権力が作り出す冷徹な檻だった。

「そこまでだ、特命監査官エレオノーラ」

重々しい声と共に、回廊の闇から現れたのは、財務局幹部──次官補のヴァルターだった。彼の背後には、抜き身の細剣を携えた王都憲兵たちが、無言の威圧感を持ってエレオノーラの周囲を完全包囲している。

エレオノーラのデスクの上には、先ほど彼女が官僚たちの嫌がらせであるゴミの山から逆算して掴み取った、『7―0―3』の真の還流先を示す決定的な極秘執行書が置かれていた。

「……何か御用でしょうか、ヴァルター次官補。私は今、ハインリヒ局長の全権委任に基づき、今年度予算の健全化調査を行っている最中ですが」

エレオノーラは万年筆を握ったまま、微動だにせず、氷の声を返す。

「全権委任? 局長の犬が、不遜な口を叩くな」

ヴァルターは冷笑し、懐から一枚の、血のように赤い蝋が捺された命令書を突きつけた。

「君が今手に入れたその資料は、最高機密に指定された『国家安全保障に関わる防衛費執行書』だ。ハインリヒの権限が及ぶのは一般会計まで。国家機密の領域に無断で侵入し、データを閲覧・複製した行為は、明確な──『国家機密漏洩罪』に該当する」

「な……」

エレオノーラの指先が、初めて微かに震えた。

各部署の窓口で、嫌がらせのために積まれたあの膨大なゴミ書類の山。あれは単なる官僚の保身や嫌がらせではない。

端数の『銀貨3枚(3レアル)』で騒ぎ立てる彼女が数字を追い、その最奥にある『本物』に触れた瞬間、それを合図に「国家機密の檻」を落として合法的に圧殺するための、最初からの仕掛けだったのだ。

「特命監査官エレオノーラの全権限を、本日付で一時停止する。証拠物件はすべて我が財務局が押収する」

ヴァルターの合図で、憲兵たちがデスクの上の執行書を乱暴に奪い取った。

「待ちなさい……! その帳簿の数式を止めなければ、今年度、末端の地方が──」

「黙れ、地方上がりの小娘が」

ヴァルターが冷酷に言い放つ。その目は、彼女を人間とも思っていない、システムそのものの冷徹さだった。

「中央の、国家のシステムを相手に、たった一人で戦えると思ったか? 君の監査はここで終わりだ。連れて行け」

憲兵の手が、エレオノーラの細い肩にかけられる。

書類は奪われ、権限は剥奪された。

ハインリヒから与えられた『全権』という盾すら通用しない、国家機密という絶対の壁。

すべてが終わった。彼女のガラス玉のような瞳から光が消えかけ、諦めと共にゆっくりと頭が垂れ下がっていく。

──その、絶望の極致の瞬間だった。

重厚な執務室の鋳鉄の扉が、ギィィ、と重苦しい音を立てて開かれた。

「誰だ、ここは財務局の立ち入り禁止区域──」

不機嫌そうに振り返るヴァルターと言葉を詰まらせる官僚たちの前で、回廊の明かりを背に、一人の男が静かに足を踏入れた。

その男は、自身の右手の指へ、ぴったりと嵌められた**【黒革の特製手袋】**の端をカチリと引っ張り、眼鏡の奥の瞳を青く光らせた。

男の背後には、必死に書類を抱える受付嬢リーザと、王都の地図を睨みつけるベテラン事務員ガロフ、空間の緊張感に息を呑む北部辺境の人間たちの姿があった。

「失礼。……地方の部外者が、王都の中枢へ口を挟む無礼をお許しいただきたい」

アルノルトの低く、しかし驚くほどよく通る声が、静まり返った室内を支配する。

「誰だ貴様らは! 憲兵、この不審者どもを叩き出せ! ここは中央の監査領域だ、外部の者に発言権などない!」

激昂するヴァルターに対し、アルノルトは懐から、一通の、泥とインクにまみれた辺境ギルドの『財務公式請求書』を滑らせた。

「発言権なら、ありますよ」

アルノルトは冷徹に、しかし傲然と言い放った。

「本日付で、我々北部辺境ギルドは、今年度の国家予算執行における『利害関係者』として、中央監査局に対し、正式な【外部監査請求】を提出いたしました。中央会計法第十四条──予算執行により直接的かつ重大な不利益を被る民間組織には、執行プロセスの正当性を検証するため、外部監査を請求する法的権利が保障されている」

「アルノルト……」

完全な敗北の淵で、エレオノーラがハッと息を呑み、ゆっくりと顔を上げた。

その視線の先には、7年前に自分が宮廷から追い落とした男、アルノルトの姿があった。

アルノルトもまた、まっすぐに彼女の瞳を見つめ返す。

二人の間に、劇的な言葉は一切なかった。ただ、数字という孤独な戦場でしか生きられない二人にしか分からない、静寂のシンクロニシティ。

エレオノーラは、微かに唇の端を上げると、手元の僅かなメモをデスクに残し、静かに言った。

「……資料を共有してください、アルノルト監査官」

アルノルトは黒革の手袋を嵌めた手でそれを受け取り、眼鏡を押し上げた。

「ええ──始めましょう、エレオノーラ」

「お、おいアルノルト! リーザも!」

一歩前に出たリーザは、ヴァルターの冷酷な目を真っ向から睨み返し、震える声を張り上げた。

「あなたたちが何気なく書類の端っこを削ったその『7―0―3』のせいで……私たちのギルドが、私たちの村が、この冬を越せずに丸ごと潰されるんです! たかが数字じゃない、そこには人が生きてるのよ! 突っぱねられると思わないで!」

「ふん、罪人のガロフまで引き連れて、辺境の貧乏人どもが感情論を喚くな」

ヴァルターの視線が、背後に立つ老事務員へ向く。ガロフは不敵に笑い、鼻を鳴らした。

「ああ、俺の個人口座は確かにそこのお嬢ちゃんに凍結されちまった。だがな、次官補殿。三十年間、ド泥水をすすりながら辺境の帳簿をつけてきた、俺たち地味な事務員の『意地と会計知識』までは凍結できんのさ。あんたらの作ったその『7―0―3』って数式、現場の仕分けに直すと、あまりにもお粗末な『二重帳簿』の形跡が丸見えなんだよ」

アルノルトが黒革の手袋をはめた指で、エレオノーラから共有された極秘執行書の数式をなぞる。彼の眼鏡の奥で、青い光が爆発的に輝きを増した。

「ヴァルター次官補。あなた方は『国家安全保障の防衛費』という都合の良い盾でこの数字を隠蔽しようとした。だが、エレオノーラが逆算し、俺たちが現場の帳簿から照合した結果──この『7―0―3』によって間引かれた30%の予算は、防衛費のどこにも計上されていない。王室会計監督官、およびあなた方の管理する極秘の闇口座へと還流している。……これは国家機密などではない。王家の権威を不当に利用した、ただの『会計詐欺』だ」

アルノルトの背後に、青い計算数式が激しく展開され、財務局の不正な仕分け線を次々と上書きしていく。

『領域展開・会計監査魔法──挟撃仕訳』

エレオノーラが、アルノルトの隣へと並び立つ。

「正当な外部監査請求に基づき、この『7―0―3』の不正は白日の下に晒された。財務局次官補、言い開きはありますか」

勝った。

二人の天才会計士の正論が、現場の叫びが、中央の歪んだ帳簿を完全に粉砕した──はずだった。

しかし。

「……くっ……」

一瞬、顔を歪めたヴァルターだったが、次の瞬間、その口元が、歪に、歪に吊り上がった。

「は……ハハ……」

冷たい、乾いた笑い声が、静まり返った執務室に漏れ出す。

「ヴァルター、何がおかしいのよ!」 リーザが身構える。

「だから何だ、と言っているんだよ。アルノルト君」

ヴァルターは冷徹極まりない目で彼らを見下ろした。その目には、先ほどまでの動揺など微塵も残っていなかった。

「君たちは一つ、致命的な勘違いをしている。それがどれほど完璧な逆算だろうが、それが不正な二重帳簿だと証明しようが……君たち地方のしがない監査官やギルドごときに、国家予算の『予算執行を停止する権限』など、最初からないのだよ」

「……何だと?」 ガロフの顔が強張る。

「君たちの行う外部監査は、どこまで行ってもただの検証に過ぎん。そして、それを実際に受けて執行を止めるかどうかを決めるのは、我々『行政』の領域だ。数字を見つけただけで、国家が止まるとでも思ったか? たかが銀貨3枚の端数から始まった監査の紙切れ一枚で、国家の血流が止まるわけがないだろう!」

アルノルトの眼鏡の奥の瞳が、微かに揺れる。

正論を叩きつけたはずの空間が、システムという巨大な壁によって、一瞬にして窒息しそうな絶望へと反転していく。

「誰が執行停止の命令書に署名する? 誰の承認印を捺す?」

ヴァルターは嘲笑を浮かべ、彼らを冷たく見据える。

「ハインリヒ局長か?」

「……」

「残念だったな」

その瞬間、激しい足音と共に、執務室の扉から財務局の息がかかった査問官の部下が滑り込んできた。

「報告します! 中央査問会の決定により、国家転覆の容疑として、ハインリヒ局長の身柄をたった今、完全拘束いたしました!」

「──っ!?」

エレオノーラの身体が、氷を突きつけられたように凍りついた。

最高責任者を失った監査局の書類など、明日には誰も従わんゴミ屑だ。ヴァルターはここで初めて、声を上げて狂おしく笑い出した。

「ハハハハハハ! 財務局、査問会、王室会計監督官、宮廷上層部……全員がこの国のシステムそのものなのだよ! 好きなだけ王宮へ上奏するがいい、アルノルト! その上奏文が、国王陛下の机に届く高みにまで届くと思うか!? その途中の窓口パイプラインを握っているのは、我々だ!!」

ヴァルターの邪悪な勝利の笑みが、深夜の執務室を満たしていく。

完璧な数字で勝ったはずのアルノルトたちの前に、さらに巨大な『権力』の絶望が、底の抜けた闇のように広がっていた。

(つづく)

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