第16話:共同調査の契約
王都の中央監査局、地下公文書保管庫。
夜が明け、魔法灯の魔力が尽きかけてもなお、エレオノーラは書類の山に埋もれていた。
彼女は泣かなかった。ただ、血走った目で、自分が5年前に承認してしまった予算書から、北方開発局が仕組んだ「ダミーの数式」を、狂ったような速度で逆算デバッグし続けていた。
(私は数字を見ていた。……だが、数字の向こうにいる人間を見ていなかった)
完璧な整合性。美しい帳簿。その美しさに目を奪われ、現場で生み出される数字の血の匂いに気づけなかった。それが、自分の敗因。
「……この泥を拭えるのは、私だけです」
かすれた声で呟き、エレオノーラは冷え切った身体のまま、一晩で書き上げた逆算資料の束を鞄に詰め込んだ。向かう先は、ただ一つしかなかった。
――数日後。再び訪れた北部辺境ギルド。
「ふざけんな! 今さら何しに来たのよ!」
ギルド長室に現れたエレオノーラを、リーザが激しい怒声を上げて遮った。周囲のギルド職員たちも、一斉に敵意の視線を向ける。
「ガロフさんを追放して、街の予算まで削り取って、今度は何! アルを犯罪者扱いして連れていくつもり!?」
詰め寄るリーザに対し、エレオノーラは一歩も引かず、その怒りを真っ正面から見つめ返した。
「アルノルト様を犯罪者扱いしたのは、私です」
「……は?」
リーザが毒気を抜かれたように動きを止める。言い訳も、保身も、国家の規律という盾すらも使わないエレオノーラの態度に、部屋の空気が張り詰めた。
「ガロフの件も含め、私の監査は間違っていた。私は北方開発局の敷いた二重帳簿を盲信し、結果として彼らの巨悪の片棒を担ぎ、この現場を傷つけた。……すべての責任は、私にあります」
「だったら……っ」
「ですが、謝罪や許しを請いに来たのではありません」
エレオノーラはリーザの横を通り過ぎ、デスクの奥に座る男の前に、王都から持ち帰った書類の束を叩きつけた。
「アルノルト。北方開発局が5年間でこの街から盗み出した、毎年10%の増額予算。その『金の流れ(ルート)』を追う。そのために来ました」
部屋の奥、静かに書類を見つめていたアルノルトが、ゆっくりと目線を上げた。眼鏡の奥の瞳は、どこまでも冷徹だった。
「……だから何ですか」
エレオノーラは眉一つ動かさない。
「謝罪ですか。それとも自己満足の告発ですか。そんなもののために監査局の最高機密を持ち出したのなら、今すぐお引き取りを。我々には、あなたの感傷に付き合っている暇はない」
「違うと言いました」
エレオノーラはデスクに両手を突き、アルノルトを強く睨み据えた。
「これは、私自身の数字に対する落とし前です。私にしか追えない金の流れがある。そして、あなたにしか分からない現場の不一致がある。……私の持つ『監査の知識』と、あなたの持つ『現場の知恵』を合わせる。協力してください」
沈黙が、ギルド長室を支配した。リーザも息を呑んで二人の対峙を見守る。
アルノルトはしばらくエレオノーラを見つめていたが、やがて、差し出された王都の書類を、黒革の手袋をした手で自らの手元へと引き寄せた。
「断ります」
エレオノーラの瞳がわずかに揺れる。
「協力、という言葉は反吐が出る。これは馴れ合いではない。……共同調査です」
アルノルトは引き寄せた書類をトントンと机で揃えると、ペンを手にとった。
「我々は、互いの持つ数字を利用し合うだけの関係だ。……あなたの持ち帰ったこの王都のデータ、不完全ですね。北方開発局の資金洗浄ロンダリングの痕跡が、一箇所だけ現場の物資調達数と矛盾している」
アルノルトが指し示した数式を見た瞬間、エレオノーラは言葉を失った。
(……浅い。私の計算が、この男の読みよりも、一手遅い……?)
中央監査官である自分すら気づけなかった、北方開発局の「数字の隠し場所」。それを、この辺境のギルド長代理は、一瞥しただけで見抜いてみせた。
「成果は、数字で証明してください。監査官殿」
アルノルトが、冷たく、しかしプロとしての視線を向ける。
「……望むところです」
エレオノーラもまた、眼鏡の奥の瞳に猛烈な闘志を宿して応じた。
握手はない。笑顔もない。友情など、そこには1ミリも存在しない。
だが、エレオノーラは確信していた。
(この男は、被監査者(守られる側の人間)ではない。……私と同等、あるいは私以上に数字を読む、本物の『監査官』だ)
天才会計士と、天才監査官。
二人の怪物が、ついに同じ「金の行方」を見据えた。
(つづく)




