第17話:一致しない数字
北部辺境ギルドの夜は、静まり返っていた。
ギルド長室の円卓の上に広げられたのは、王都の中央監査局から持ち出された極秘の予算書、そしてガロフが遺した現場の生データ、輸送ギルドの受領書、果ては過去数年の北部人口統計にいたるまでの、膨大な『数字の死体』である。
「……話になりません」
部屋に響いたのは、エレオノーラの冷徹な声だった。
彼女は羽根ペンを走らせ、王都の【北方開発局】から提出された『北部国境資材置き場・維持費』の項目を指し示した。
「この送金先と、購入された防衛資材の項目は『存在する』。中央登記局に完璧なシリアルコードで登録されており、法律上、1クローネの不備もありません。王都の数式は完璧です」
「存在しませんよ」
対面に座るアルノルトが、眼鏡の位置を静かに直しながら、現場の物資調達記録を淡々と突きつけた。
「現地には、そんな資材を保管する倉庫などありません。それだけの鉄材と木材がこの北部に運び込まれているのなら、中型馬車が延べ数百台、このギルドの前を通らなければ計算が合わない。ですが、現場の通行税記録は完全にゼロだ。資材があるなら、現場の私が知らないはずがない」
「……中央登記局のデータが、嘘だと言うのですか」
「いいえ。法律が嘘をついているのです。彼らは書類の上にだけ『完璧な壁』を作り、そこに予算を流し込んでいる」
エレオノーラは息を呑み、即座に次の書類をひったくった。
パササササササササササッ!!!
二人は同じ敵(黒幕)を追っていなかった。ただ、目の前にある『帳簿』という名の巨大な怪物を、それぞれのメスで解剖していた。
「ならば、この『ウルフ討伐補助金』の増額分はどう説明しますか。王都の統計では、北部の人口動態に合わせて、支給額の係数が跳ね上がっている」エレオノーラが制度のロジックを展開する。
「人口統計が間違っています」アルノルトが現場の血を突きつける。「この2年、北部辺境の冬は厳しかった。この戸籍データにある『増えたはずの住民』の分だけ、現地の穀物流通量が増えていない。飯を食わない人間が、国境でウルフを狩れるわけがないでしょう」
「……っ!」
重ね合わせる。
王都の帳簿A、現場の記録B、輸送量C、税記録D、人口統計E。
エレオノーラが絶対の正義と信じた「制度(法律)」が提示する数字の上に、アルノルトが握る「現場(現実)」の数字を重ねた瞬間、完璧に噛み合っていたはずの数式が、まるで鏡が割れるように、醜い『嘘の姿』を現していく。
「法律上は問題ない。……だからこそ、制度の隙間を完璧に突いている。これは個人の汚職などという生ぬるいものではない。北方開発局そのものが、一つの『集金システム』として機能している……!」
エレオノーラの背中に、冷たい汗が伝う。
数字と現実のズレを暴く、恐ろしくも圧倒的な快感。だが、その快感の先にある「歪み」の深さに、彼女の理性が警鐘を鳴らしていた。
「……おかしい」
夜が更け、最後の計算魔術の数式を解き明かした瞬間、エレオノーラの手がピタリと止まった。
アルノルトが微かに眉をひそめる。「どうしました、監査官殿」
「金額が、合いません」
「北方開発局が中抜きした差額なら、先ほどのダミー倉庫の件で説明がつくはずですが」
「違います! 多すぎるのです!」
エレオノーラは血走った目で、王都全体の高等財務諸表のページを狂ったようにめくり始めた。
「北方開発局の規模、北部の予算枠、そのすべてを合算しても、この二重帳簿によって生み出されている『浮いた金』の総額が、一桁狂っている。この規模の金は、北部だけの予算から絞り出せる量ではない!」
アルノルトが、初めて眼鏡の奥の目を鋭く見開いた。「……いくらです」
「北部辺境だけじゃない……」
エレオノーラはページをめくる。その指先が恐怖で震えていた。
「西部開発局の帳簿も、同じ数式で組まれている。……南部もだ。東部も……」
彼女は、自分が中央監査局で5年間にわたって目にしてきた、王国全土の予算ネットワークの光景を脳裏に立ち入らせ、そのすべてが「同じバグ」で汚染されていることに気づいてしまった。
「北方開発局の汚職ではない。……これは、王国全土の予算を吸い上げる、国家規模の『巨大な二重帳簿』だ……!」
部屋を支配したのは、底知れない沈黙だった。
これまで見上げていた敵の影が、辺境の役人から、国そのものの輪郭へと拡大していく。
二人の怪物が暴き出したのは、触れてはならない、この国の『真の数字』だった。
(つづく)




