第15話:調査開始
北部辺境から王都への帰路。馬車の中は、不気味なほど静まり返っていた。
カタコトと揺れる車内で、エレオノーラは膝の上に置いた書類鞄を、白くなるほど強く握りしめていた。
脳裏に焼きついて離れないのは、アルノルトから手渡されたガロフの『現場の生データ』。そして、何も知らずに自分に野花を差し出してきた、あの3歳の幼児の無邪気な笑顔だ。
(……何かが、致命的に狂っている)
王都へ到着したその足で、エレオノーラは自らの執務室へは向かわなかった。
向かったのは、中央監査局の地下深く、歴代の国家予算書が眠る【大公文書保管庫】である。
ひんやりとした地下の空気。
魔法灯の薄暗い光の中、エレオノーラは一人、埃臭い棚の奥から『過去5年分の北方開発局・予算承認書』の束を引きずり出した。
ドサッ、と重い音が静まり返った空間に響く。
「……ここにある数字が、すべてだ」
彼女は震える指先で眼鏡を押し上げると、取り憑かれたようにページをめくり始めた。
アルノルトのギルドにあった『現場の数字』と、王都の『公式の数字』。その2つの数式を、彼女自身の卓越した頭脳で、もう一度、1から組み立て直していく。
パサ、パサ、パサ……。
計算魔術の数式が、彼女の瞳の中で目まぐるしく回転する。
だが、調べれば調べるほど、冷酷な真実が輪郭を現していく。
北方開発局が提示していた「北部防衛費」のインフレ。
現場には届いていない、毎年10%ずつ増額されていたはずの莫大なクローネ。
それらはすべて、精緻な計算式の裏に隠された、完璧な『ダミーの流通経路』を通じて、中央のどこかへ吸い上げられていた。
「そんなはずはない……。監査局のチェックを、これほど巨大な不正が素通りできるわけが……」
呟いたエレオノーラの声が、微かに上ずった。
監査局は無能ではない。自分を筆頭に、国家最高峰の数字のプロが集まっている。
こんな歪んだ数字が並んだ予算書が、最終審査を通過して執行されるなど、構造上あり得ないのだ。誰かが必ず、承認の段階で「異常値」として弾くはず――。
パサッ。
最後の1ページをめくった瞬間、エレオノーラの思考が、完全に停止した。
そこは、5年前――この二重帳簿のシステムが初めて構築され、王都から最初の補助金が増額された際の、最終承認の書面だった。
書類の最下段。
そこには、国家予算が正当なものであると証明する、中央監査局の『最終承認印』が、鮮烈な赤で捺されていた。
そして、その印章のすぐ横に、見慣れた、しかし今この瞬間、世界で最も忌々しい【署名】が刻まれていた。
『――監査官 エレオノーラ・ヴァイス。精査の上、承認済』
「…………ぁ」
エレオノーラの喉から、細い、かすれた声が漏れた。
自分の筆跡だ。
5年前、まだ新進気鋭の監査官として頭角を現し始めた頃の、自分が最も誇りに思っていた『完璧な仕事』の証。
脳裏に、激流のように記憶が蘇る。
確かにあの時、自分はこの書類をチェックした。北方開発局から提出された、完璧に整合性の取れた、1クローネの誤差もない『美しい数式』。だから、自分は胸を張ってサインをしたのだ。
だが、違った。
あの美しい数式こそが、現場の予算を絞り尽くし、ガロフのような男に規律違反を強いて、辺境の人間を飢え死に寸前まで追い詰めるための、冷酷な【包囲網】の始まりだったのだ。
自分が、あの男の人生を狂わせた。
自分が、あの母親を死にかけさせた。
自分が『正義』だと信じて下してきたすべての冷酷な処分は、自分が5年前に通した『巨悪の数字』を隠蔽するために、体よく利用されていたに過ぎなかった。
「……私が」
魔法灯の光の下で、エレオノーラの手が、見たこともないほど激しくガタガタと震え出した。
「私が……この不正を、通していた……?」
今まで彼女が信じてきた世界が、彼女自身の署名という、最も強固な現実によって、音を立てて粉々に砕け散っていく。
暗闇の中、エレオノーラは自らが座らされた『被告席』の冷たさに、ただ息を詰まらせるしかなかった。
(つづく)




