第14話:バグの拡大
ガロフの処分から数日。北部辺境ギルドの空気は、完全に凍りついたままだった。
「……あの冷酷女、ガロフさんを追い出して、今度は俺たちの宿代補助までケチり始めやがった」
「中央の役人にとっては、俺たちの命なんてただの数字なんだよ」
酒場から漏れ聞こえる冒険者たちの呪詛を、ギルド長室のエレオノーラは一瞥だにせず、かつてない異常な速度で帳簿をめくり続けていた。
パササササササササササッ!!!
部屋に響くのは、紙が擦れる暴力的なまでの音。
その顔は蒼白で、額には微かに汗が浮かんでいる。
(おかしい。計算が合わない。どうしても、数式の辻褄が合わない……!)
ガロフの事件以降、彼女は「辺境の違和感」の正体を突き止めるため、ギルドの過去5年分の全データを再精査していた。数字を、より細かく、より厳密に。
だが、精査すればするほど、バグは消えるどころか、不気味にその「容積」を拡大させていく。
「……待ちなさい」
「……待ちなさい」
エレオノーラがピシャリと声を上げた。
部屋の隅で、張り詰めた空気に耐えかねていたリーザがビクッと肩を揺らす。
「は、はい……? 何かまた、不備でもあったの……?」
エレオノーラはリーザを見ようともせず、指先で一枚の財務諸表を激しく叩いた。
「この数字は何ですか。……直近5年間、この北部地域におけるウルフの討伐総数は、年々15%ずつ減少しています。……違いますか?」
「え? ええ、そうよ。みんなが命がけで間引いてるから、生息数は確実に減ってるわ」
「ならば何故」
エレオノーラは、別の数枚の書類を机に叩きつけた。
「ウルフの討伐数が減っているにもかかわらず、王都の【北方開発局】からこのギルドに支給されているはずの『防衛補助予算』は、毎年10%ずつ増加しているのですか? 駐屯兵の数も、防衛税の徴収額も増えている」
「それは……国が北の開拓や防衛を大事に思って、予算をたくさんくれてるんじゃ……」
「あり得ません!」
エレオノーラは冷酷に、しかしその声に微かな戦慄を隠せずに言い切った。
「予算が増え、討伐数が減っている。ならば、ウルフ1頭を仕留めるためにかかっている『討伐単価』だけが、5年前の3倍以上に跳ね上がっている計算になります。いくら辺境の物価変動を考慮しても、この係数は異常です。こんな歪んだ数式、中央の審査を通過できるはずがない。……何より!」
エレオノーラは、ギルドの実際の金庫の残高報告書を突きつけた。
「その『毎年増額されているはずの余剰予算』は、このギルドの口座には、5年間1クローネも入金されていません!」
リーザは完全に置いてけぼりになり、目を白黒させる。
「な、何言ってるのよ……。予算が増えてるのに、現場のギルドには届いてないってこと……?」
「……私には、証明できませんでした」
その時。
部屋の奥で、これまでずっと沈黙を守っていたアルノルトが、静かに顔を上げた。
黒革の手袋をした右手が、ゆっくりと眼鏡のブリッジを押し上げる。
「現場の人間として、上から降りてくる予算の額と、実際に届く物資の量が、どうしても噛み合わないとは常々思っていましてね。ですが、現場の感覚だけでは、王都の二重帳簿を立証することは不可能だった。……中央の高度な監査知識を持った『あなた』でなければ、この歪みを見つけ出すことはできなかった。私一人では、ここに辿り着くことすらできなかった」
アルノルトは立ち上がり、本棚の最下段から、埃を被った分厚い一冊のファイルを引っ張り出してきた。ドン、と重い音を立てて、アルノルトがその帳簿をエレオノーラの机に置く。
「……これは?」
「ガロフが裏でつけていた、このギルドの『本当の経支帳簿』です。彼は、北方開発局から削られた防衛予算の穴を埋めるため、依頼の中介手数料を操作し、備品を横流しして、ギルドの運営資金を無理やり捻出していた。そうしなければ、下位の冒険者たちは冬を越せなかった」
エレオノーラの手が、初めて細かく震え出した。
彼女は狂ったように、ガロフの古い帳簿と、自分が王都から持ってきた公式データを照合し始める。
「あり得ない、あり得ない、あり得ない……っ!!」
ページをめくるたび、彼女の顔から血の気が引いていく。
王都の【北方開発局】は、辺境への予算を『書類上』だけインフレさせ、その差額(裏金)を中央で密かに回収していた。
そして、辺境ギルドが「予算が足りない」と声を上げられないよう、定期的に自分のような厳格な監査官を送り込み、現場の苦肉の策(ガロフの不正)を執拗に叩くことで、恐怖を植え付け、口を封じていたのだ。
エレオノーラ自身が、彼らの巨悪を隠蔽し、辺境を黙らせるための『完璧な刃(道具)』として利用されていた。
「この数字が、この現場の記録が本物であるなら……」
エレオノーラは帳簿を見つめたまま、ガタガタと震える唇で、絞り出すように呟いた。
「辺境ギルドが不正をしていたのではない。……不正をして、数字を改ざんし、私を利用していたのは――」
彼女の瞳に、深い絶望が広がる。しかし、その瞳の奥の『炎』は、まだ消えていなかった。彼女はガッと机を両手で叩き、アルノルトを鋭く睨み据えた。
「……アルノルト。私は、あなたをまだ信用していません。ですが――監査官として、この数字は無視できない。これらすべての現場データの謄本、および証拠書類を提出してください。私が、私の手で再確認します。もしこれが事実なら……」
彼女は眼鏡の奥の目を、猛烈な怒りで細めた。
「私は、王都への報告書を、根本から書き換えます」
(つづく)




