第13話:統計不一致の違和感
「不当処分だ! ガロフさんを戻せ!」
「中央の役人が勝手なことを言うな!」
翌朝、辺境ギルドの前には、かつてないほど多くの冒険者や街の住民たちが押し寄せていた。
だが、ギルド長室に陣取ったエレオノーラは、窓の外の騒音を一瞥だにせず、淡々と書類を処理していく。
「騒いでも無駄です。数字の不正は確定している。統計の健全化に、例外はありません」
「……いいえ、例外はあります」
ドアを静かに開けて入ってきたのは、リーザ。そして、その背後から一人の若い女性が、3歳ほどの小さな男の子の手を引いて、おずおずと部屋へ歩み進み出てきた。
エレオノーラは書類から目を離さない。「部外者の立ち入りは禁止です」
「この人は、一昨年ウルフ討伐戦で亡くなった下位冒険者の奥さんです」
リーザは、エレオノーラの完璧な机の上へ、一冊の古い日記帳を突きつけた。
「ガロフさんが紛失したとされる特級薬草の行き先、すべてここに書かれています。……あの夜、この人は産後の大出血を起こして、死にかけていたんです。国がギルドに配備した特級薬草は、あくまで前線の防衛戦力のためのもの。民間人への横流しは重罪……それは分かってます! でも、正規の手続きで王都から高価な薬を買い寄せていたら、2週間かかる。その夜のうちに、この人は確実に死んでいた!」
リーザはカウンターを激しく叩いた。
「ガロフさんは、自分の重罪を覚悟の上で、ギルドの有事用備蓄から薬を彼女に回したの! 規則違反です、数字的には黒です! でも、そのお陰でこの人は生きてる。これでも、ただの不正だって言うの!?」
エレオノーラが、初めてページをめくる手を止めた。
ガラス玉のような瞳が、ゆっくりとリーザ、そして母親へと向けられる。その眼差しは、どこまでも冷徹で、平坦だった。
「はい。ただの不正です」
「な……っ!?」
エレオノーラは感情を一切交えず、淡々と言い放つ。
「その夜、彼が救ったのが一人の母親だったから美談のように聞こえるだけです。では、彼が個人的に懇意にしている悪党を救うために、同じように国の備蓄を流用していたらどうしますか? 規定を破り、物資の用途を独断で変更する権限は、辺境の一事務員にはありません。理由が何であれ、記録の改ざんは正当化されない。……ガロフの資産凍結、および即時解雇の処分は、維持されます」
「あんた……っ!! どこまで血も涙もないのよ……!!」
リーザが悔しさに声を震わせ、母親はただ絶望に肩を落とし、子供を抱きしめて静かに涙を流した。
どれだけ命の重さを説こうとも、エレオノーラという『正義の災害』は1ミリも揺るがない。
中央の規則の前に、辺境の感情は完敗だった。
「……本日の監査はここまでとします」
予定の時間を終え、エレオノーラは書類鞄を閉じると、部屋を後にした。
ギルドの廊下を進む彼女の前に、私物を詰めた木箱を抱えたガロフが、警備の兵に連れられて歩いてくるのが見えた。
すべてを失い、これから厳しい取り調べを受けるはずの男。
エレオノーラは、男が自分を呪い、罵倒するか、あるいは命乞いをしてくるものと確信していた。統計上、排除される数値は常に強い反発を見せるからだ。
だが、ガロフはエレオノーラの前で足を止めると、深く、静かに頭を下げた。
「……監査官殿。あんたの言う通りだ。俺がやったことは、ギルドの規約違反であり、国家物資の横流しだ。処分は謹んで受け入れる」
エレオノーラは眉一つ動かさない。「……恨み言はそれだけですか」
「いや。恨んでなどいないさ」
ガロフは、廊下の窓から見える、先ほど部屋を出ていった母親と、元気に走り回る3歳の子供の姿を穏やかに見つめた。
「俺は自分の意志でルールを破り、その対価として首を斬られた。……だが、あの時あの薬を使ったことに、1ミリの後悔もない。それだけだ」
「…………」
ガロフはそれ以上何も言わず、兵に連れられて去っていった。
去っていく背中を、エレオノーラは見つめ返す。
男の表情には、悲壮感も、怒りもなかった。ただ、自分の選択に対する奇妙な『納得』だけがあった。
ギルドの門を出ようとしたその時、先ほどの3歳の幼児が、ひょこひょことエレオノーラの足元に寄ってきた。母親が慌てて止めようとするが、間に合わない。
子供は、エレオノーラの漆黒の衣服を見上げ、無邪気に笑って、手元にあった野花を差し出した。
「おねえちゃん、かっこいい黒いお洋服。ガロフじいじを助けてくれて、ありがとう?」
子供には、何が起きているのか分かっていない。ただ、ギルドの皆がガロフの話をしていて、そこに中央の凄い人が来たから、助けにきてくれたのだと勘違いしているのだ。
「……っ」
エレオノーラは、差し出された花を見ることもせず、幼児を無視して通り過ぎた。
だが、彼女の脳内にある『国家の計算式』は、今、完全に停止していた。
ガロフは処分を受け入れた。母親も、自分を襲った不条理に泣きながらも、ガロフへの感謝を胸に生きている。誰も、自分を論破しようとはしなかった。
ルールは完璧に遂行され、数字の健全化は達成された。
なのに、なぜ、この街の人間は壊れていない?
なぜ、マイナスの処分を下された人間たちが、不幸のどん底で自分を呪うこともなく、前を向いて生きている?
「……理解不能です。統計と、現実が、一致しない……」
馬車に乗り込んだエレオノーラの呟きには、怒りはなかった。ただ、人生で初めて「解けない数式」に出会ってしまったかのような、底知れない違和感だけが、彼女の胸の奥で不気味に広がっていた。
夜。
静まり返ったギルド長室で、アルノルトは一人、エレオノーラが残していった暫定の『監査報告書』を見つめていた。
ガロフの解雇処分は、冷酷に確定と書かれている。
しかし、その報告書の最下部に、ごく小さな、掠れた文字で、
【辺境人口動態における、特級薬草1本の紛失原因についての保留事項。……および、当該地域における『帳簿外の生存数』に関する違和感の記録】
と、エレオノーラの筆跡で書き残されている。
アルノルトは、黒革の手袋をした右手で眼鏡を静かに押し上げると、闇の中でぽつりと呟いた。
「……やはり、気付いたか」
(つづく)




