第11話:数字の神、辺境へ
ギルド『鉄拳の咆哮』の門前に、王都の紋章が刻まれた、不気味なほど装飾のない真っ黒な馬車が停車した。
誰も降りてこない。
だが、その馬車が視界に入った瞬間、アルノルトの顔面からサァッと血の気が引いていた。
黒革の手袋を脱いだ彼の右手が、生存本能の恐怖で、ガタガタと激しく震え始める。
「……来た」
前夜、中央監査局からの手紙を受け取ってから、アルノルトは一睡もせずに過去の帳簿をめくり続けていた。
「休んでください」と温かいスープを持ってきた受付嬢のリーザに、「1クローネの計算ミスすら彼らにとってはギルド解体の凶器になる」と、声を裏返らせて冷や汗を流していた姿が、今の彼の怯え方を見て、リーザの脳裏に不気味な現実味を帯びて蘇る。
馬車の扉が開き、一人の女性が辺境の土を踏みしめた。
漆黒の監査官服に身を包んだ、ガラス玉のような瞳の女。
中央監査局特任監査官――エレオノーラ。
彼女は周囲の冒険者たちを、人間ではなく『統計のノイズ』とでも呼ぶような冷徹な一瞥をくれると、迷いのない足取りでギルドの受付へと進み出た。
「……受付帳簿の、12ページ目を開きなさい」
挨拶も、名乗りもない。
ただ、絶対的な強制力を伴ったエレオノーラの一言に、リーザは気圧されながらも、息を呑んで帳簿の12ページ目を開いた。本当に、そこは過去の古い記録のページだった。
エレオノーラは書類鞄から出した自前の万年筆の先で、その一行を冷たく指す。
「3年前の、秋口の薬草取引記録。……銅貨7枚の整合性が説明できませんね」
「は???」
リーザの思考が完全にフリーズした。
3年前? 銅貨7枚?
何百、何千とある辺境の雑多な記録の中から、部屋に入ってわずか5分、初見のはずの帳簿の『異常値』を、この女はピンポイントで看破したのだ。
「中央の規定レートと、当時の辺境の天候による流通制限を逆算すれば、このページの収支は明確に『非合理的』です。意図的な着服、あるいは管理怠慢。いずれにせよ――」
エレオノーラはそこで初めて、受付の奥で幽霊のように立ち尽くしているアルノルトへ、視線を向けた。
その瞳に、ほんの少しだけ、愉悦のような昏い光が宿る。
「お久しぶりですね、アルノルト。……相変わらず、あなたの作る防壁(帳簿)は、身内に甘い『ノイズ』に満ちている」
アルノルトの喉が、ヒュッと鳴った。
エレオノーラは平然と、しかし彼にとっての絶対的な絶望の事実を、会議室の全員に突きつけるように言い放った。
「7年前。宮廷会計局で、あなたの無能さを精査し、そこから引きずり下ろした(査定した)のは、私ですよ」
(つづく)




