ここからは僕が語る
どのような心境の変化か、探偵助手はこっそりと語り始める。
僕の名前は芦屋憲勇。御堂藤学園高等部一年C組のごく普通の生徒だ。
この手の書き出しに抵抗を覚える小説愛好家もいるだろう。
だいたい――「僕の名前は」などという書き出しはラノベ以外になかなか見かけない。
語り手である一人称の「私」が「私の名前は〇〇」などと書き出すことは滅多にないのだ。
夏目漱石の『吾輩は猫である』でさえ「吾輩」は「猫」と言いつつ名前はまだなかった。――それは関係ないか。
たいていがいきなり「私」が語り出し、「私」の名は読み進めていくうちに明らかになる。
ただ――動画配信サイトによくある小説・コミックでは頻繁に用いられる手法でキャラの名前を明らかにするのには最適だ。
「俺の名はル〇ン三世」などに続いて「彼女の名前は〇〇」というふうにキャラが登場するたびに人物紹介の語りが入るのだ。
とてもわかりやすいから僕はこの手法を好んで用いている。
しかし中にはこれを気に入らない人もいるだろう。
そのような名乗りをする人が実際にどれだけいるのか?
初対面の自己紹介においても「芦屋憲勇です」というくらいで、わざわざ「僕の名前は」をつけることはない。
これはやはり英語の「マイ・ネイム・イズ……」の直訳からきたものなのだろうか。
前置きが長くなったがここからは僕が語る。誰に向かって? もちろん読み手に向かって――だ。
その「読み手」の中には僕自身も含まれる。後でこれを読み返し、ミステリ研の活動報告書に書き換えるわけだ。
前章の最後に思わず「僕」が登場してしまったが報告書にする際は「僕」の存在は抹消する。
「僕」がいないわけだから「僕」の内定独白は一切ない。カメラになって映像提供に徹しているから明石会長や山縣さんの「心の声」も一切ないものが出来上がる。
もちろん登場人物が「僕の名前は――」と語ることがないので、その人物が登場する際もはじめは美貌の男子とか新聞部の女子――といった書き方で、会話文でもってその名を明らかにする手法をとっている。
ヒマならもう一度読み返して欲しい。極力そのような書き方をしてきたつもりだ。
しかしここからは僕――探偵助手芦屋憲勇――が語る。もちろん僕の内的独白もあり――だ。
どうかお付き合いいただきたい。
こうして三人称客観視点の語りが一人称の語りとなった。語り手は何を語るのか。




