保健室の魔女
保健室の魔女は笑う
「はい、これで大丈夫ね。綺麗に貼れたわ」
「ありがとうございます」
僕は身なりを整えた。ようやく解放される。
カーテンが開かれ、雨宮先生の晴れ晴れとした笑顔がさっと浮かんだ。
それにしても心臓に悪い。ここの男子生徒たちはこの癒しの女神の無警戒な振る舞いに心を乱さないのだろうか。
僕はベッドを降りた。
そして歩き出す。
雨宮先生はもう一つのベッドの方へ移動し始めていた。
僕が向かう先にこちらを振り返るように回転椅子を向けていた霜村先生がいた。
何だか一部始終を観察されていたみたいだ。そして面白がっている。
何となく舞子に通じるものを僕は感じる。
気づくと紅茶が淹れなおされていた。僕の心を惑わすような魅惑の一杯。
前薗さんの紅茶とはまた違う禁断の香りが立っているようだ。
デスクの上に開いた状態で伏せられた本。ビュトール『心変わり』。
読んだことはない。たしか――フランス・ヌーヴォー・ロマンだったかな。
時が止まっていたと感じていたがわずかな時間だっただろう。
僕は背後の悲鳴で我に返った。
「いけません! ダメよそんなことをしては」
魔女の微笑を目にしてから僕は振り返った。
「Fカップ」
右端のベッド、カーテンの奥から聞こえる声に僕は聞き覚えがあった。
「あ――すみません、つい」
「三神くん、大丈夫なの!?」
「寝ぼけてますが大丈夫です」
カーテンが開かれ三神拓斗さんが姿を現した。欠伸して伸びをする。
胸を押さえながら雨宮先生も出てくる。しっかり白衣は着たままだ。そこに乱れはなかった。
いつものあれだ。三神さんは女性の体に触れる悪い癖があった。
「あ――憲・芦屋、久しぶりだな」
「土曜にも会いました」がと僕は返した。
「何だ? 調子悪いのか?」
「三神さんも?」
「俺はあれだな」
「お休みタイムよね」と言ったのは霜村先生だった。
何だか初めて声を聞いた気がする。
少しハスキーで低い声。大人の女性の声。
「そろそろ帰らねえと担任が怒鳴り込んでくるしな」
「中峰先生でしたよね」僕は訊いた。
「ああ」
実は中峰先生も僕と三神さんと同じつつじヶ丘の住人だ。バスで一緒になったこともある。
口髭を生やした四十代男性教師。そして娘さんは中等部の二年生だ。
世界は狭い。あちこちにご近所さんがいる。
誰もがどこかで繋がっている。探せばその繋がりの糸はいくつも見つかる。
僕たちはただその全てには気づけないだけだ。
「お大事にね」
保健室の女神――雨宮先生は胸を触る異端児にも寛大なようだ。慈しみの声をかける。
霜村先生がフッと笑った気がした。
三神さんは「お世話になりました」と雨宮先生に丁寧にお辞儀をした。
目許涼しげな女神は微笑む。
僕たちの前を通り過ぎる際に三神さんは腰かけていた霜村先生を振り返った。
「そうそう――また落とし物、見つけました」
何やら手にしていたものをそっと霜村先生に手渡す。
霜村先生はそれを当たり前のようにデスクの抽斗にしまう。
僕は抽斗に目を奪われた。
そこにはチェスの黒い駒がいくつかあった。
そして霜村先生が新たにしまったのは黒のポーンだった。
「どこにあったの?」
「忘れました。あちこち動き回ってるので」
「忙しいひとね」
「お互いにね」
そう言って三神さんは僕を見た。そして僕にウインクする。こういう人だ。
「そう言えば――」三神さんが付け加えるように言う。「中一女子を見なくなったな」
「ここ以外に天使を見つけたのではないかしら」霜村先生が言った。
「そりゃあ良い」
三神さんは手を振って出て行った。
「天使に導いたのが誰だか知らないけれど」
霜村先生は僕と目を合わせた。
何の話ですか……?
時:月曜日二時限目と三時限目の間の長休み
場所:保健室
ここの登場人物
芦屋憲勇 ミステリー研究会会員 僕 語り手
雨宮春花 保健室養護教諭
霜村繭 保健室養護教諭
三神拓斗 高等部二年生




