土曜日 図書閲覧室のうんちく男
文芸部のうんちく男は余計なうんちくを語りたがる。
すっかり満腹になった僕は家庭科実習室を出た。浅倉さんと前薗さんはまだしばらくいるだろう。
僕は校内をさまよった。
舞子はまだまだどこかうろつくところがあるようだ。今日は一緒に帰らなくても良いかな。無視して帰るとうるさいこともあるがそれも慣れている。
僕は図書室を訪れた。そして閲覧室の様子を見て後悔した。
「芦屋じゃないか」
但馬がいた。土曜日の三時でもいるのか。ほかにすることないのか? ひとのことは言えないけれど。
僕はすっかり諦めて但馬の相手をすることにした。
「今日はWeb小説読んでないんだ?」僕は訊いた。
「今、三人称の語りについて考えていたんだ。この間は一人称の語りについて話したよな」
「覚えていたんだな」きみでも。
但馬は誰彼つかまえて自分の思ったことを語るヤツだからいちいち誰に何の話をしたのか覚えていないと思っていた。
しかし、違うらしい。いや――単に話し相手が少ないからか?
ひょっとして僕にしか語ってない?
「ブースによると、一人称の語り手は全て信頼できない語り手だそうだ」
一人称の語り手が信用できないのはミステリー好きの僕でも知っている。そこに何らかの叙述トリックが仕込まれていないか常に意識していなければならない。
「――読み手に何らかの誤解を与えるような書き方をしている可能性もあるしな」
性別や年齢など読者が勝手に誤解することもあるな。何なら時制すら。過去と現在を章ごとに変えていることすらある。同じ時の話だと思っているととんでもない目に遭う。
「しかし、それは三人称小説でも言えるな」
書き方によってはそうかも知れない。
「三人称小説の語り手――小説の中の世界に登場しない語り手――仮にこれを無人称の語り手と呼ぶことにする。他にも四人称とか物語り人称とかいろいろ言い方はあるようだが」
何だか話が長くなりそうだ。わかっていたけれど。
「――この語り手は物語のどこまでを知っているのだろう。神視点の語り手なら全てを知っているのかもな。語り手の情報量は登場人物のみならず読み手より多い。この語り手は原則としてウソを語らないことになっている。いや小説なんてフィクション――虚構だから全てウソじゃないかと言うんじゃないよ」
言わないし。
「――そのウソではない。小説の世界では決められたルールがありそれに従うことに一貫している――という意味だ。山田を男と書いたら、最後まで山田は男だ。実は女でした。語り手の勘違いです――なんて言い訳は許されない。山田の動く様子を語っていて、実はそれ山田ではなく鈴木でした――なんてのもダメだ。読者の顰蹙を買う。一人称の語り手ならその語り手の勘違いで済むことも無人称の語り手には許されない」
なるほど――前にも聞いた気がする話だ。しかしそれを指摘したところでまた別の話になるだけだ。僕は聞き流した。
「三人称小説の無人称の語り手はウソをつかないのが原則だ。しかし語っていることにウソがなくても読者を惑わすことは可能だ。『語らない』ことで読者を欺くことができる」
いわゆる「語らない自由」だ。
「――推理小説には殺人事件が描かれることがあるだろう」
日常の謎を扱うものでなければ殺人事件は当たり前のように扱われるな。
「――冒頭で殺人シーンがあったとする。犯人が被害者を追い詰めて殺すシーンだ。そこを『山田は鈴木を追い詰めた。そして手にしていた刃渡り十五センチの刃物で鈴木の腹を突いた……』なんて書き方をしたら興ざめだ。いきなり犯人が判明してしまう。『男は鈴木を追い詰め、そして刺した』と書いたら犯人は男でなければならない。女の可能性も残すとしたら『その黒い影は震える鈴木をつかまえその腹部に凶器をねじ込んだ』とでも書くのかな。アニメで犯人を黒い人に描くみたいなものだ」
目と口以外真っ黒の犯人さんだな。僕は探偵アニメを思い浮かべた。
「もっとよくあるのはそもそも殺害シーンを描かない。遺体が発見されるところから始まったりする。記述は全て真実。語らないことで真相を隠すのだ」
まさかウソの殺害シーンを語るわけにもいかないしな。
「これは何もミステリーだけの話ではない。純文学であっても物語にはたくさん謎がある。この人物がどのような生き方をして今に至るか。そうしたことは少しずつ明かされていくものだ。これを時系列に並べて語っていては物語の面白さは半減するかもしれないな」
登場人物ひとりひとりについて年表のように語っていてはストーリーテラーとして失格だな。
「そういえば新聞部山縣さんのSNS記事。今週は米バラマキ事件についてずいぶん語っているな。しかしすべてを語っているわけではないだろう? まだまだ明かしていないネタがあるのだろうな」
山縣さんが語らずに隠している情報があるかどうかは僕にはわからない。
しかし舞子一派はペットボトルの件をまだ明石さんや山縣さんに報告していない。さすがに知らないことまでは書けないだろう。
「新聞などのメディアには『報道しない自由』がある。報道していることが仮に全て事実だとしても、報道しない部分をつくることでウソに仕上げることもできるな。テレビの街頭インタビュー。何かについての賛成反対を聞いて、賛成の意見を二つ、反対の意見を二つ紹介したとしよう。まるで賛否が半々のような印象を受けてしまう。しかし報道しなかったインタビューの中に反対意見が賛成意見の十倍あったかもしれない。流れた動画にウソはないが流さなかった動画の中に真実がある場合もあるな。まあ――ああいうインタビューがサクラでないと仮定しての話だ。サクラだと話にならない」
顔出しでインタビューを受けていると、それを観てその人物を検索するヤツが必ずいるな。そうしてそれがどこかの芸能プロダクションの俳優のたまごだったりした日には、そいつはサクラだと疑われるだろう。だから最近はすべてモザイクだ。ますます信憑性は失われるが。
「――ということで、三人称小説のミステリーにおいては重要な情報を語らないことで謎をつくる。犯行の場面を描かないとかな。語らないことは全て謎だ。とはいえあまりに語らなさすぎるとミステリーとしては面白くない。さりげなくヒントをあちこちにちりばめるはずだ。場合によってはジグソーパズルのピースを断片的にあちこち少しずつはめていく。そうしていつしか完成に近づくように」
僕は欠伸が出そうになるのをこらえた。
この泥沼からいつ抜けられるのだろう。
時:二度目の米ばらまきがあった日の翌日―土曜日午後
場所:図書閲覧室
ここの登場人物
芦屋憲勇 ミステリー研究会会員 僕 語り手
但馬一輝 高等部一年生 文芸部のうんちく男




