第93話 龍の胎動
9月に入ってから少しはマシになりましたけどまだ暑いですねぇ。今年の7月と8月はホントに地獄だった。皆さんも体調には気をつけましょう。
華琳率いる魏軍が宿営を展開した夜の同時刻。ここは蜀の本城である成都城。そして月明かりに照らし出されている場内の中庭で黙々と槍を振るって自己鍛錬に励む一つの人影。人影の正体は星だ。もう皆、明日の来たるべき決戦に備えて眠りについているというのに、彼女だけはまだ起きていた。もちろん星も納得がいくまで鍛錬を積んだら眠るつもりではいる。
「ふっ! はっ! せいっ!」
一人での鍛錬になるため当然星の目の前に相手は居ない。彼女は空に向かって両手で龍牙を握りしめて上段、中段、下段と三回連続の突きを放つ。次に星はクルリと身体を百八十度回転させながら龍牙を水平に振り回し、先程と同じように高速の三連続の突きを放つ。その動きには流麗さもあり、演舞のような動きにも見えた。
「はああっ!」
今度は地面を蹴って低姿勢で前方に踏み込むと、星は可能な限り低姿勢を維持したまま予め後ろに引いていた龍牙を右手で思いっ切り斜め上空に強力な突き上げを放つ。これが実戦で相手が並の将兵なら間違いなく一撃死だ。しかし星の猛攻はまだ終わらない。彼女はそこから素速く立ち上がると、もう一度龍牙を大きく後ろに引き、そのまま間合いを詰めるように前方に右足を大きく踏み出して右手で龍牙を突き出した。いわゆる最後のダメ押しという奴だ。相手が多人数だとこんな派手な動きはあまり役に立たないが、一対一ならまあ問題は無いかもしれない。
「ふぅ……この辺にしておくか」
大きく息を吐いた星は額に浮いてる汗を手で拭って東屋に続く階段を登ると、そこに設置されている卓の上に龍牙を置いて代わりに事前に用意していた竹筒の水筒を片手に城壁に続く階段を登り始めた。今の彼女の本音としては酒を呑みたい所なのだが、明日は国の存亡を懸けた決戦が待ち受けているのだ。流石の星もこんな大事な日の前日に酒を呑む気分にはなれない。城壁に着いた星はそのまま狭間胸壁の上に登って腰掛け、両足をプラプラとさせながら手にしていた水筒の蓋を開けて口をつけると、一気に傾けて中の水を喉に流し込んだ。
「んっ、んっ、んっ」
水筒の中身は鍛錬を始める直前に組み上げた井戸水だったのでまだキンキンに冷えており、その冷水は星の乾ききった喉を潤し、同時に冷たい夜風がいい感じに吹き付けてくれたおかげで火照った身体の体温も気持ち下がったような気がした。水分補給ならもう充分に思えるが、よほど喉が渇いていたのだろうか。星はまだ水筒の水を飲み続け、瞬く間に中身は空っぽになってしまった。
「むっ。空になったか。ふぅ……」
星は空になった水筒をすぐ横にコトンと置き、何をするのでもなく胸壁に腰掛けたまま遙か先の地平線を眺める。もう何度こんな事をしていただろうか、そんな事を考えている時、またしても冷たい夜風が強く吹き付けたので、星はいつも被ってる帽子を飛ばされないように右手で押さえながら眼を細めた。バタバタと着物の袖と後ろで結んである髪が派手になびいたが、今の強風のおかげで火照っていた身体も一気にクールダウンし、汗も引いてくれた。
「いよいよ明日か。もう我らには後が無い。あの方との勝負も、これが最後になるやもしれんな……」
星が言っている人物、それは零治に他ならない。彼がこの世界に来て最初に出会った人物である星。そしてほんの些細な出来事から零治と星の間には因縁が生まれた。ただし、零治はあの出来事を憶えてはいるが因縁とかそこまで大袈裟に解釈はしていないだろう。だが星は違う。あの時の一騎打ちから味わった敗北。あの出来事が、彼女を武人として更なる高みへと目指す大きなきっかけとなった。それからというもの、先程のように星は鍛錬を欠かさなかった。今日この日まで。全ては仕える主君、劉備と一刀が目指す理想の実現、そして武人として越えるべき相手、零治に勝つために。
「あれ? 星じゃないか」
「ん? ……翠、それに蒲公英か」
後から声をかけてきたのは蒲公英を一緒に連れている翠だった。明日は大事な決戦だというのに、まさか自分以外にもまだ起きている人物が居るとは星は思っていなかった。だが冷静に考えると納得もできた。現状、兵力で圧倒的に不利な状況。しかも昼間の魏軍との戦闘で呉軍は零治一人に大きな痛手を負わされ、ただでさえ少ない兵数を更に減らされてしまったのだ。ここまで追い詰められた状況に直面していてはそう簡単に眠れるわけもなかった。
「星姉様、こんな所で何してるの?」
「何、少し考え事をな。お主達こそどうした。眠れないのか?」
「……まあな。明日の事を考えると、中々な」
「ふむ。なるほど。翠蓮殿はどうしたのだ? この場には居ないようだが」
「おば様はもう寝てるよ。『眠れない時は酒を呑むに限る』なんて言って、さっきまで凄い勢いでお酒を呑んでね……」
「ふふっ。翠蓮殿らしい。こんな状況でなければ私も付き合っていたのだがな」
「星、隣いいか?」
「ああ」
断る理由など無い。翠と蒲公英の二人は胸壁に登り、それぞれ星の左右に腰掛けて彼女と同じように両足を胸壁から投げ出して遙か先の地平線を見つめた。今は城の前には果てしない荒野しか続いていないが、それも今夜で終わりだ。夜が明ければ、ここは戦場になる。眼前の荒野は華琳が率いている魏軍の兵で埋め尽くされる事だろう。それだけじゃない。全員が揃って同時出撃するかどうかはまだ分からないが、零治は間違いなく来る。ここには彼の宿敵である黒狼が居るのだ。出て来ないはずがない。零治が戦場に現れるだけで、ただでさえ不利な状況がより絶望的になる事ぐらい星には容易に想像ができた。それと同時に、そうなった時は将兵である自分がどうにかせねばならないとも思っていた。だが、これまでの零治との勝負を通してその実力に天と地ほども差が開いている事は理解している。普通に考えれば無謀だ。しかしそれでも、星は自分がやらねばならないと考えていた。
「…………」
「なあ、星。何をそんなに考えてるんだよ?」
「ん? いや……」
「……音無の事か」
「まあな」
「そういえば星姉様。音無さんとはどういう経緯で知り合ったの? やっぱり戦の時とか?」
「いや、私があの方と出会ったのは旅の最中だ。白蓮殿の元に客将として迎えてもらうよりも前だったな」
「って事は黄巾の乱が起こるよりも前になるな。で、そこからどうやって知り合いになったんだ?」
「まあ、色々あったのだよ。本当に色々とな」
当時の零治との出会いについて、星は核心には触れないように適当に言葉を濁した。翠と蒲公英にとって零治は母親である翠蓮を救ってくれた恩人なのだ。彼の名誉のためにもと思い、星はあの出来事の細かな部分については胸の内に仕舞っておく事にしたのだ。いずれは話す事になるかもしれないだろうが、まだ話す必要は無いだろう。こうして当時を振り返りながら話をしてみると、あの時から本当に驚きの連続だったと星は感じた。
「当時の事を振り返ると、零治殿はあの時から本当に常軌を逸した人物だとつくづく思う」
「常軌を逸したって……どんな風にだよ?」
「……これは私の口から語るべきではないな。あの方の名誉のためにも。どうしても気になるのなら、本人に直接訊いてみるのだな」
「あぁ~……星姉様が言ってる事、たんぽぽ分かった気がする……」
「あたしもだ……」
零治の事を星ほど知っているわけではないが、翠と蒲公英は彼女がどういう意味で言ったのかすぐに察した。赤壁で見せた人間離れをした強さ、そして今日の昼間の戦で見せたあの虐殺劇。もっとも、あれは零治ではなくBDの仕業になるのだが、零治もこの世界に来たばかりの頃は同じような事を何度もしていたので全く当てはまらないとは言い切れないだろう。まあ何にしてもだ、あんな光景を見せられたのだから星が何を思っているのかは嫌でも分かってしまうという事だ。
「明日の戦……音無も出るんだよな」
「間違いなくな」
「あたしらであいつの事、止められると思うか?」
「たんぽぽは絶対に無理だね。あの人を止められるなんて、恋ぐらいだと思うよ」
「確かにあやつならできるかもしれん。しかし零治殿はあれだけの強さを持ったお方だ。あの恋でも、彼を相手にしてどれだけ保ちこたえられるのか分からんな……」
「だな。それに、音無に今日の昼間の戦や赤壁で見せたあの異常な力を使われたら一瞬で終わりだぜ……」
「ああ。だがあの力を抜きにしても、零治殿は強い。私はあの方の強さを嫌というほど思い知っているからな」
「あぁ~、星姉様が定軍山で音無さんと一騎打ちした時だね」
「いや、そうではない。私はあの時以前……初めて零治殿と出会った時、彼と刃を交えた事があるのだ」
「えっ? そうなのか?」
「ふふっ。懐かしいな。今でも昨日の事のように思い出せる」
どこか遠い眼をし、星は当時の事を振り返りながら笑みを浮かべる。あの時から彼女の武人としての人生は大きく変わった。あの出来事があったからこそ、今の星があると言っても過言ではないだろう。それを考えると、もしもあの時、零治が星の要求通りに事の発端に対する謝罪を素直にしていたらどうなっていただろうか。少なくともあの一騎打ちが起きる事は無かったかもしれない。そうなれば星が零治に対してここまで固執するような事にもならなかっただろうし、間柄ももっとドライな関係になっていただろう。
「あの時の一騎打ちが無ければ、今の私も無かっただろうな」
「へぇ~。なあ、星。その時はどうして音無と勝負する事になったんだ?」
「まあ詳しく話すと長くなるから省略させてもらうが、ちょっとした些細な出来事があってな。それで彼から勝負を持ちかけられたのだよ」
「そうなんだぁ。ねえ、星姉様。その時の勝負の結果はどうなったの?」
「おい、たんぽぽ。お前それ嫌味で言ってんのか?」
「え~? だって勝負は時の運って言うじゃん。もしかしたらもしかするかもしれないでしょ?」
「ははは。確かに蒲公英の言う事も一理あるな。だが、結果は私の負けさ。それも一瞬でな」
「星が一瞬で負けるって……あいつその頃からそんなに強かったのかよ」
「ああ。当時の私が今より弱かったというのもあるが、初めて見た零治殿の動きに私は完全に付いていけなかったからな」
星が初めて見た零治の動きとは、彼の十八番とも言える一撃必殺の居合だ。時代が違うというのもあるだろうが、そもそも居合は日本の武術であってこの大陸の武術ではない。初めて見るのは当たり前だし、付いていけるはずもない。だがそのおかげで星は武人として大きな衝撃を受け、世界が広いという事も思い知らされた。そして自分ももっと高みを目指そう、強くなろうという向上心も生まれ現在に至っているのだ。
「零治殿は私に大きなきっかけを与えてくれた。武人として更なる高みを目指すきっかけをな」
「なるほどな。なら、星にとっても音無はある意味恩人なのかもな」
「かもしれんな。あの方のおかげで私は武人として大きく成長できたと思う。だが今のままで終わるつもりはない」
「えっ? じゃあ星姉様の今の目標って何なの?」
「無論、零治殿に勝つ事だ。あの方に勝たねば、私は武人としていつまでも前に進めないからな」
「音無に勝つ、か……。大きく出たな、星」
「当然だろう。目標とは高く持たねば意味が無いからな」
「確かにな。……だったら、あたしもお前を見習うとするか」
「ほお。どうするのだ?」
「あたしも音無に闘って勝つ。赤壁での借りはきっちり返さねぇとな」
星とは間柄が異なるが翠にとっても零治は特別な存在と言えるだろう。敵同士ではあるが翠蓮を助けてくれた恩人であり、赤壁での勝負以来武人としてライバル意識も少なからず抱いている。あの時の勝負はウヤムヤな形で終わっているが、勝ったとは言えないだろう。負けたままでいては武人の名折れ。彼女も零治に対して武人としての興味心が尽きない以上、勝ちたいという願望はあるのだ。
「ほほぉ。翠、お主も零治殿に勝つつもりでいるのか?」
「ああ。あたしもあいつに負けたままでいる気はない。それに、武人として音無に追いつけるかどうかって興味もあるからな」
「ふふっ。悪いがあの方に最初に勝つのはこの私だ。そこは譲らんぞ」
「へんっ! 望む所だ」
「……うわ~。翠姉様はいつもの事だけど、星姉様まで同じ事言ってる。ひょっとしておば様の影響かな」
「ん? 蒲公英。お主は零治殿に負けたままで良いのか?」
「だって、言っちゃ悪いけど音無さんに武で勝とうとするなんて命知らずの馬鹿がする事じゃん」
「あんっ!? おいたんぽぽ! それじゃあたしは命知らずの馬鹿だって言いたいのかぁ!」
「でも実際そうなるじゃん!」
「ははは」
ギャーギャー言い合いをしている翠と蒲公英の姿を眼にした星の表情はとても楽しげだ。とても明日国の存亡を懸けた決戦を間近に控えた将の姿とはとても思えない。多少なりとも緊張感は持っておくべきだろうが、過度に緊張しているよりはずっと良いだろう。どこか騒がしい感じのあるこの空気、星はこれをとても気に入っている。仕える主の理想のために、そしてこの光景を護るために明日は全力を尽くす。そう決意を新たにしていた時、その空気を打ち破る者がこの場にやって来た。
「クックック。随分とおこがましい考えを持つ奴がウチの陣営には居たようだな……」
「ん?」
中庭から城壁の廊下へと続いている階段の方から何者かの声が聞こえたので、星、翠、蒲公英の三人はそちらへと視線を向けた。階段の下からはコツコツと等間隔で一人分の足音が聞こえ、それは少しずつこちらへと近づいてくる。それからすぐに一つの人影が姿を見せるが、そのシルエットを見ただけで星達三人は声の主の正体が誰なのか即座に理解した。異様に長い頭髪、髪と共に風になびいているロングコート。ここに来た人影の正体は黒狼だ。彼は階段を登り切るとそのまま星達が腰掛けている胸壁の前まで足を進めて立ち止まり、氷のように冷たい無言の視線を向けた。
「珍しい事もあるものだな。誰に対しても無関心なお主から私達に声を掛けるとは」
「勘違いするな。私は基本的に他人に対していつも無関心だ。だが、今しがた聞き捨てならん言葉が耳に入ってきたからな……」
「何?」
「貴様ら如きがあの影狼に勝つだと? 少しは己の力量を弁えるべきだと思うがな……」
「……我らでは勝てぬとでも言いたいのか」
「ほお。察しの良い奴は嫌いではないぞ、趙雲……」
「言ってくれるじゃねぇか、黒狼。だけどそんなのはやってみないと分からないだろ」
「分かるさ。貴様らと影狼では格が違う。育った環境が全く異なる貴様らでは、あの男には逆立ちしたって追い付く事など出来ん……」
「育った環境? それってたんぽぽ達の世界と、ご主人様や音無さんが居た天の国の世界の事?」
「少し違うな。ではバカにも分かるように説明してやろうではないか……」
完全に人を見下した黒狼の棘のあるセリフに星達はムッとした表情になるが、彼が誰に対してもこういう態度をとるのは今に始まった事ではない。こんな事でいちいち目くじらを立てていては疲れるだけである。
何より黒狼は非戦闘時も近い寄り難い雰囲気を常に放っていて恐ろしい存在なのだ。口答えをすれば何をされるか分かったものではない。そんな彼女達の心境をよそに、黒狼は淡々と星達の疑問の説明を始めた。
「いいか。私が言った育った環境とは世界の相違ではない。戦場の『質』だ……」
「戦場の質だと?」
「そうだ。……例えば植物などもそうだな。同種の花でも、過酷な野生で育った花と人の手によって温室で育てられた花、どちらが強い生命力を持っているかは貴様らも分かるだろう?」
「ああ。野生で育った花の方が強い。それが自然の摂理だ。しかし、それが今の話とどう関係していると言うのだ」
「まだ分からんのか? 影狼が過酷な野生で育った花ならば、貴様らは温室育ちの脆弱な花だと言っているのだよ……」
「ほお。確かに零治殿が強い事は理解している。しかし、我らも温室育ちの花に喩えられるほど弱いつもりもないぞ」
「それは貴様らの世界基準での話だろう。私の世界基準で見れば、貴様らは弱い。私の世界の戦場が過酷な野生ならば、この世界の戦場は人の手によって造られた温室。これがさっき言った戦場の『質』だ。それだけの差があるんだよ……」
「だから我らでは零治殿に勝てぬと言うのか……」
「そうだ。これで理解できたのなら分不相応な考えを抱くのはやめるのだな……」
黒狼の言い分に星、翠、蒲公英の三人は反論の余地など無かった。自分達が武人として充分な実力を備えている自覚はあるが、それは先程黒狼が言ったようにこの世界での基準で比較した場合の話である。逆に零治達の世界の基準に当てはめて考えるとどうなるだろうか。彼らの世界の戦場がどれほど過酷なのかは知らないから想像のしようがないが、これまで何度も刃を交えてきた零治があれだけの強さを誇っているのだ。この世界で言う所の呂布のように強さが突出しているだけという考え方もできるが、彼だけでなく亜弥、黒狼や金狼、銀狼も異常な強さを持っているのだ。同等の強さを持った人間が複数居るという事は、それだけの実力がなくては零治達の世界の戦場では生き残る事が出来ないと解釈できる。そう考えると自分達が如何に分不相応な願望を抱いているのかも分からなくはない。だが、それでも星と翠の考えは変わらないのだ。
「……悪いが我らの考えは変わらぬ。お主に何と言われようが私はあの方に……零治殿に闘いを挑む」
「そういう事だ。あんたら天の国から来た人間には分からないだろうが、これがこの世界の流儀だ。強い奴が目の前に居るんなら勝負を挑む。それがあたしら武人の生き方なんだよ」
「そうか。ならば……確かめてやろうではないか。貴様らに影狼と闘うその資格があるのかをな……」
黒狼は表情に影を落とし、右手を開きながら宙に掲げるとその手の中に魔王剣が禍々しい姿を見せた。深紅の刀身が月光の反射光で煌めくと同時に黒狼は刃を一直線に振り下ろしてきたので、星、翠、蒲公英の三人は素早く胸壁から身を屈めながら飛び降りて石造りの廊下の上を転がりながら反対側に回り込んですぐに立ち上がり、黒狼の凶刃は空振って胸壁の一部に刃が直撃し、軽い金属音が響いて火花を散らす。
「黒狼。これは一体何の真似だ……」
「いきなり何しやがるんだ! 危ねぇだろ!」
「そうだよ! たんぽぽ達を殺すつもり!?」
「…………」
魔王剣を振り下ろした体勢のまま微動だにしていない黒狼の背に向かって星達は非難の言葉を浴びせるが、当の本人は無言のままゆっくりと後ろに振り返り、冷たい視線を向けた。その視線はこの場に現れた時と変わらぬ氷のように冷え切った物だが、明らかに殺気が含まれている。黒狼はワザとらしく魔王剣の刃を胸壁に押し付けたまま引いてガリガリと音を立て、ゆっくりとした動作で星達が逃げた方角に身体の向きを変え、右手の中にある魔王剣をクルクルと弄ぶように回転させて切っ先を突き付けた。
「言っただろう。確かめてやるとな……」
「何?」
「かつての影狼は私の実力には一歩及ばなかった。だが今の奴は互角。或いはそれ以上かもしれん……」
「それがあたしらを襲う理由とどう関係してるって言うんだ……」
「貴様らは影狼に勝てる見込みがあるから闘いを挑むのだろう? なら……当然私にも勝てるはずだろ……」
「…………」
「仮に勝てなくとも、私の攻撃から逃げ延びる事は出来る。つまり生き残れる可能性はあるはずだ……」
「ちょっ!? そんなのたんぽぽ達を攻撃する理由にならないじゃん!」
「影狼は私にとって重要な存在だ。それを貴様らのような武人の興味心で余計な事をされては困るのだよ。あくまでも奴との闘いを望むというのなら……この私に勝ってからにするのだなっ!」
口火を切った黒狼は星に狙いを定め、石造りの床を蹴って低姿勢で彼女に突撃し、間合いに捉えた所で事前に振りかぶっていた魔王剣を星の首筋にめがけて振り抜くが、彼女は上体を素速く後ろに逸しながらバックステップをして間一髪の所でその凶刃を躱してみせ、切っ先が前髪を僅かにかすめて数本の髪の毛が宙を舞った。しかし黒狼の猛攻がこの程度で終わるはずもなく、彼はその場を駆け抜けてもう一度星との間合いを詰め、そのまま眉間に向かって高速の突きを放つが星はその一撃も首を横に振って躱すが、黒狼はそこから続けざまに首を刎ね飛ばそうと再度魔王剣を振り抜いてきたので星は城壁から後方に大きく跳躍して空中でバック転を一回決めて中庭にまで退避した。当然黒狼もその後に続いてその場から跳躍し、魔王剣を両手で持ちながら振り上げて着地するタイミングに合わせて一気に振り下ろすが、星はバックステップでその一撃も躱し、一進一退の攻防戦が続いた。
「やれやれ。お主のような男にそこまで熱烈に好かれても私は全く嬉しくないぞ」
「ククク。減らず口を叩ける余裕はまだあるようだな……」
「なぜ私ばかりを狙う。そこまで恨まれるような事をした憶えは無いと思うがな」
「貴様が影狼に固執している事、私が気づいてないとでも思っているのか……?」
「確かにそれは否定せん。しかしこれは私個人の問題だ。お主には何の関係もあるまい」
「大ありだ。言ったはずだぞ。影狼は私にとっても重要な存在だとな。これ以上あの男にちょっかいを出す輩が増えても、私から言わせれば目障りなだけだ……」
「なぜそうまでして私達を零治殿から遠ざけようとする。黒狼、お主の目的は一体何なのだ」
「貴様がそれを知る必要は無い。どうしても知りたければ……私に勝ってみろっ!」
黒狼は地面を蹴ってダッシュし、星との間合いを詰めるとまず左に向かって水平に魔王剣を薙ぎ払い、続けて手首を回転させて右に振り抜くと最後に両手で柄を持ち、振り上げていた魔王剣を一気に縦に振り下ろして唐竹割りを浴びせる三連続攻撃を繰り出すが、星も黒狼との距離を取るように後ろに下がりながら上体を逸らして辛うじて躱しはするもののこのままでは反撃すらままならない。もちろん彼女は素手の格闘術の心得もあるが本分は槍術だ。それに相手が相手だ。素手で闘いを挑むのは自殺行為にしかならない。この状況を切り抜けるには東屋に置いてある龍牙を回収するのが大前提になるが、それも決して楽ではない。現在位置は中庭なので東屋に向かう事自体は簡単だろうが、黒狼の猛攻を躱しながらとなればそれは険しい棘の道だ。加えて言えば、黒狼にこちらの意図を知られれば彼もそれを許しはしないだろう。時間をかければかけるほど追い詰められるだけ。とにかく速攻が命である。星はこちらの狙いが知られるのは覚悟の上で行動しようと決意していたその時だった。
「星っ!」
「っ! 翠か!」
「おうよ! こいつを受け取れっ!」
頼りになる援軍が既にこの場に居てくれた。黒狼が星に気を取られている隙を突いて密かに中庭内を移動していた翠と蒲公英が東屋に置いてあった龍牙を見つけてくれていたのだ。翠が放り投げた龍牙は空中でクルクルと回転しながら放物線を描き、星に向かって落下していく。右手を宙に伸ばし、長年のパートナーを手にした星はまるで演舞でも舞うかのように龍牙を回転させて構えを取り、黒狼と対峙する。
「クックック。ようやく本領を発揮できるか。だが、私を相手にどこまで保つかな……?」
「確かめると言ったのはそなたであろう? ならば望み通り証明してやろうではないか。私が零治殿と闘う資格があるという事をな」
「面白い。やってみろ……」
「では、趙子龍…………推して参るっ!」
龍牙を手にし、今度は星が口火を切って反撃に転じる。彼女は低姿勢でダッシュして黒狼との間合いを詰め、まずは龍牙の穂先を突き付けながら左に振って黒狼の持つ魔王剣の刃に当てて払い除けガードを崩した。守りを崩されたので黒狼は魔王剣の位置を戻そうとするも星が今度は龍牙の穂先を右に振ってそれを阻み、ここぞとばかりに即座に両腕を後ろに引き、右腕を思いっ切り突き出して渾身の突きを放った。
「せやぁ!」
「フッ。甘いなっ!」
五色狼最強と言われているだけあってこの程度で黒狼は動じる事など無く、彼は右腕を振り下ろして袈裟斬りを放つように星の持つ龍牙の穂先に魔王剣の刃を叩きつけて突きの軌道を逸らして回避したので、星は槍を引き戻そうと左手も柄に伸ばすが、それよりも一瞬早くに黒狼が魔王剣の刃を龍牙の柄の下に潜り込ませるように振り上げて逆に彼女のガードを崩しにかかった。当然龍牙を上空に打ち上げられた星は両腕ごと跳ね上げられて無防備な姿を晒してしまい、黒狼は右腕を後ろに引きながら刀首を正面に向け、彼女の鳩尾に狙いを定めて滑り込むように素速く前進して魔王剣を振りかぶる形を維持したまま腕を前に突き出し、刀首を星の鳩尾に叩き込もうとした。
「くっ!」
黒狼を相手にしてここから体勢を立て直してカウンターを狙うのは危険だろう。星は一度バックステップをして黒狼の一撃をまずは回避すると同時に間合いを広げて安全を確保し、そこへ彼が追撃するように更に踏み込んできて魔王剣を振り抜こうとしてきたのでそのタイミングに合わせ、こちらの意図を読ませないためなのかそれとも零治の影響なのか、星は身体を回転させながら前進して正面に向き直ると同時に両腕を使って龍牙を弧を描くように振り上げて黒狼の放った一撃を弾いて彼を押し返してみせた。
「ぬぅっ!? ……ほぉ~。思っていた以上に粘るな……」
「はぁ、はぁ……。当然だ。私が今日この日まで積み重ねてきた鍛錬、そして……零治殿と刃を交えた事で得たものは決して無駄にはしていないのでな」
(……しかしこの女、一体どうなっている。多少なりとも手加減はしているが、なぜこうも私の動きに的確に対処できているのだ。影狼とたかだか二、三回闘った程度でここまで劇的に成長できるものなのか……?)
「……どうした。もう終わりか、黒狼よ」
(まあいい。どうせいわゆる火事場のバカ力という奴だろう。気にする必要もあるまい……)
人間の身体にはもともと恐るべき力が秘められている。だが全ての力を常時発揮していると身体が崩壊してしまうので、脳がリミッターをかけているため常人はその力を三割しか使う事が出来ないが、死が伴うような危機的状況に陥ると無意識の内にそのリミッターが外れ、全ての力を出し切る事ができる。それがいわゆる火事場の馬鹿力というものである。星が今こうして自分と互角に闘えているのはそのおかげ。そう認識した黒狼は星の善戦ぶりについてあまり深く考えようとはせず、魔王剣を右手の中でクルクルと弄ぶように回転させ、表情一つ変えずに切っ先を彼女に突き付けて見据えた。
「趙雲。少し善戦しているくらいで図に乗らない事だな……」
「そんなつもりは無いぞ。お主の強さは赤壁での零治殿との闘いを見てよく理解している」
「ふむ。ならば私に真っ向から勝負を挑むのがどれほど愚かな事かぐらい分かると思うのだがな……」
「……それは遠回しに降参しろと言っていると解釈して良いのか」
「…………」
「悪いが降参する気は無い。零治殿と闘う資格がある事を証明すると啖呵を切った手前、引き下がる事は出来んのでな」
「武人とはどこまで行っても愚かな人種だな。ならば貴様の気が済むまで付き合ってやるか。ただし、手足を失う事態になっても私は一切の責任を取らんぞ……」
「望む所だ……」
ここまで来ると二人の一戦は勝敗を懸けた試合ではなく、生死を懸けた死合だ。しかも対峙している星もだが、遠くから二人の勝負を見守っている翠と蒲公英も黒狼という人間の本質が分からないのだ。基本的に多くを語らず、戦場でも感情を露わにすること無く立ち塞がる敵を斬り捨ててきている。だから今の言葉も相手の戦意を削ぐための脅しなのか、それとも本気なのか。まともな神経をした人間なら大事な決戦を明日に控えている時に、味方の武将に二度と戦えなくなるような重傷を負わせるような事はしないはずだが、黒狼ならば本当にやりかねない。だからこそ翠と蒲公英は一抹の不安を隠しきれずにいた。
「ねえ、お姉様。星姉様、今すぐにでも止めた方が良いんじゃ……」
「分かってる。だけど今は星を信じるしか無い。それに万が一の時は……あたしが絶対に止めてみせる」
賽は既に投げられたのだ。今は星を信じてこの勝負の行く末を見守るしかあるまい。それに翠も万が一の時は身体を張ってでも止めてみせる覚悟はある。普段から愛用している銀閃があれば多少は楽になるだろうが、生憎といま手元には無い。自分はこの場に残って蒲公英に取りに行かせるという選択肢もあるが、その間に勝敗がつく事も考えられるのでそれでは間に合わない可能性が極めて高い。だが二人の間に素手で割って入るのも危険だ。やはり危険は少しでも軽減しておくのが賢い者の選択と言えるだろう。
「たんぽぽ。あたしはここに残る。その間にお前はあたしの槍を取ってきてくれ」
「う、うんっ!」
蒲公英はすぐにその場を駆け出し、翠が使用している部屋へ彼女の愛槍を取りに行くために城内へと戻っていった。しかしこれが間に合うかどうか正直微妙だ。一騎打ちとは互いの実力差が無くとも身体に蓄積している疲労、集中力の途切れなど様々な要因が重なり合って一瞬で終わってしまう事もある。ましてや星が闘っている相手は黒狼だ。蒲公英が戻ってくるまでの間、星が保ちこたえていられる保証などどこにも無い。
そんな事態になった場合、危険だが傷を負うのも覚悟の上で二人の間に割って入って止めるしか道は無いだろう。
(何とかたんぽぽが戻ってくるまでの間、星が保ってくれればいいだが……)
翠がそう思っていた矢先、早くも事態が動いた。互いに睨み合っていたが、早々にこの勝負を終わらせたいのだろうか黒狼が先に動いたのだ。彼はその場を駆け抜けて星との間合いを詰めると、後ろに引いていた魔王剣の切っ先で地面を斬りつけながら弧を描くように斜めに振り上げるが、星はバックステップをしてその一撃を回避したので、ならばと思い黒狼は彼女を追撃しながら左に振りかぶっていた魔王剣を先程と同じように地面を斬りつけながら振り上げるがそれも同じように避けられてしまい、斬り傷だけが綺麗に地面に残された。
「フンッ。逃げる事だけは一人前だな。威勢が良かったのは最初だけか? そのざまでは常山の昇り龍が泣くぞ……」
「…………」
「だからさっさと降参しろと言っているのだ。闘う意志の無い臆病者が私の前に立つな……」
黒狼の挑発的な言葉を星は無視するが、その言葉は彼女の胸をチクリと突いてきた。いつもならここまで逃げ腰ではない。相手が相手なだけに流石の星も今回ばかりは零治との闘い以上に慎重にならざるを得ないのだ。本気の殺し合いではないとはいえ、黒狼の場合どこまでが本気なのか分かったものじゃない。先程彼が言っていたように、もしかしたら本当に手足を失う事にだってなりかねないかもしれない。しかし、このまま逃げてばかりでは勝負にならないのも事実だ。ましてやこの一戦は黒狼に、自分が零治と闘う資格がある事を証明するために受けたのだ。なのに今の自分は完全に逃げ腰。もしも零治との勝負でも同じ事をしたらどうなる。赤壁で一度失望させた彼をまたしても失望させてしまう事になる。星はそんな事など望まない。
ならばどうするべきか。答えは一つ。相手が誰であろうと恐れること無く積極的に攻め込み、この勝負に勝つ。黒狼の挑発的な言動は星の闘志を奮い立たせる良い刺激となったようである。
「ふっ。確かにお主の言う通りだ。今の私は臆病者呼ばわりされても反論できんな」
「…………」
「だがそれももう終わりだ。ここからは私が攻め手に回らせてもらうぞっ!」
「全く。今のは藪蛇だったか。まだ面倒事に付き合わねばならんとは……」
黒狼から言わせればこの勝負はただの茶番劇でしかない。彼としては早々に終わらせたかった。星の闘いの意志を折るために放った言葉も彼女には逆効果だったので、まだ勝負を継続しなければならない。しかも星の零治に対する固執は並大抵のものではない。意地でも勝とうとするから適当にあしらっていても終わらないだろう。ならばどうやって終わらせるべきか。殺すまではしないにしても、立ち上がれないほどの痛撃を喰らわせるしかないのかもしれない。
「何をぶつくさと言っている。黒狼……参るぞっ!」
先程までの逃げ腰の立ち回りとは打って変わって星は烈帛の気合を放ちながら地面を蹴って黒狼との間合いを詰め、自分の間合いに捉えた所で身体を回転させて黒狼に向き直る瞬間にしゃがみながら龍牙を振り下ろして必殺の一撃を放つが動きが大振りなため簡単に見切られてしまい、彼はバックステップをしてその一撃を躱した。当然ながら星の猛攻はこの程度では終わらない。彼女は立ち上がりながら龍牙を弧を描くように振り上げ、更にそこからまるで舞踏を舞うように身体を回転さて龍牙を振り回して黒狼との距離を詰めていく。この派手な動きは間違いなく零治の影響を受けてだろう。彼との因縁が深い黒狼にはすぐに分かった。
黒狼にとって重要な存在である零治にちょっかいを出すような輩の存在は当然ながら、影響を受けての事といえど彼の真似事をする星にも腹が立った。
「私の前で影狼の真似事をするとはいい度胸だな……趙子龍っ!」
「っ!」
星の何気ない行動は黒狼の怒りの炎に油を注ぐ結果となってしまい、彼は星がまだ攻撃の動作を終えていないにもかかわらず踏み込み、彼女の攻撃の止めようと魔王剣を振り抜いて龍牙の穂先に高速の一太刀を打ち込んで軌道を強引に外側に逸らし、両手で魔王剣の柄を持って垂直に振り上げ、星の脳天に目掛けて渾身の一撃を浴びせにかかった。
「くぅっ!」
しかし星も負けじと素早く体勢を立て直して龍牙を両手で水平に持って正面にかざし、柄の部分を利用して辛うじてその一撃を受け止める事が出来た。ガツンと今まで以上に重く激しい金属音がその場に鳴り響き、火花を散らし、そのまま黒狼に勢いよく後方へと押されてしまうが星も両脚に力を入れて踏ん張って何とか踏み留まり、凄まじい競り合いを繰り広げた。
「ククク。まさか貴様のような女が私を相手にしてここまでやるとは思ってもいなかったぞ……」
「ぬぅっ! お主に褒められても全く嬉しくはないな……っ!」
「まだそんな減らず口を抜かすか。貴様にはそれ相応の制裁を与える必要がありそうだな……」
ギリギリと金属音を立てながら互いの得物の接触面が擦れて細かな火花を散らし、双方一歩も引かない様子で力と力による押し合いを繰り広げるも、善戦していた星が次第に後ろへと押され始めて力の均衡が黒狼へと傾き始めた。もともと力に差があるのだ。いくら星でも、黒狼との力比べに勝てるはずがなかった。
「どうした。もう終わりか? やれやれ。やはり貴様は影狼と違って、闘うほどの価値が見出せんな……」
「言ってくれるな。そうやっていつも相手を見下していると、いつの日か足をすくわれるぞ」
「……実に面白くない冗談だ。私の足をすくえるものならば……すくってみろっ!」
「なっ!?」
星の余裕綽々な態度と言動がとことん気に食わなかったのか、下らない茶番劇を終わらせるために一気に勝負に出た黒狼は両腕を前に突き出して強引に星を押し返し、それにより彼女はバランスを崩して数歩後ろによろめいてしまう。その僅かに出来た隙を突くように黒狼は素早く振り上げた魔王剣を星の龍牙に打ち込むと、その衝撃は彼女の掌から両腕へと駆け巡り、跳ね上げられた手から龍牙はすっぽ抜けてしまって空中内でクルクルと回転しながら星の背後から数メートル離れた場所に落下して地面に深々と突き刺さり、黒狼は魔王剣の切っ先を星の喉元に突き付けた。
「これで詰みだ。武人らしく負けを認めろ……」
「くっ!」
悔しげに黒狼を睨みつける星だが、この状況では負けを認めざるを得ないだろう。普通に考えてここから逆転する手段などありはしない。多少格闘術にも心得があるとはいえ、喉元に刃を突きつけられた状態で下手な動きなど見せられやしない。にもかかわらず、並の武人ならば普通に負けを認めているこの場面に直面してもなぜか星の頭の中には降参の二文字は浮かばなかった。それどころか零治ならこの状況をどう切り抜けるか、そう考えてすらいたのだ。
「何を黙っている。ここは潔くした方が身のためだぞ。今なら特別に無傷で帰してやる。貴様も明日の決戦のために五体満足で休みたいだろう……?」
「……何と言われようが私の考えは変わらん。零治殿に対するこの想い、決して揺らぎはせん」
「ほぉ~……」
「私は零治殿に勝たねばならない理由があるのだ。あの方に勝たねば、私はいつまでも武人として前に進む事が出来ないのだからな」
「フッ。ならばいっそのこと私がこの場で一生前進できなくしてやろうか? 貴様の脚を斬り落としてな……」
「この趙子龍がそんな脅しに屈すると思うな。どう言われようとも私は己の考えを変えぬっ!」
「……ならば仕方ない。貴様にはこの場で、再起不能という形で表舞台から退場してもらうとしよう」
「星っ!? くそっ! 間に合えっ!」
黒狼が星の腕か脚、そのどちらかを斬り落とそうと魔王剣をゆっくりと振り上げたので翠は二人の間に割って入って止めようと東屋から駆け出した。間に合うかどうかはギリギリだがそれでも行かないわけにはいかない。普通なら少しでも可能性に賭けて逃げ出す場面のはずなのに、なぜか星は逃げようとしない。月光によって煌めく魔王剣の刃、ただそれだけを見つめている。恐怖心から脚が動いてくれないのか。いや、そうではない。恐怖心は無かった。あるのは、力への渇望。己の非力さを嘆き、更なる力を求めていた。
(ここまでなのか。……私にも……私にも、もっと力があれば……っ!)
黒狼が魔王剣を振り下ろすと同時に星が体感する時間は非常にゆっくりとした流れになり、迫り来る凶刃の動きもスローモーションとなり、こちらに駆け付けようと走ってくる翠の動作も緩慢になっていた。星が悔しげな表情を浮かべているその時だった。彼女の背後の地面に突き刺さっている龍牙がドクンと脈打ち、ぼんやりと青白いオーラを纏いながら光り輝いていたと思っていた次の瞬間、まるで落雷でもあったかのように眩い青色の激しい光を放つと同時に龍牙は独りでに地面から離れ、宙に浮かんで穂先を黒狼に向け、纏っている光が空を駆ける龍の姿を描きながら一直線に飛来してきたのだ。
「何っ!? ぬおおおおおうっ!」
「なっ!?」
あまりの突然の出来事に黒狼は何一つ対処ができず、飛来してきた龍牙に腹部を一撃で穿たれて吹っ飛んでいき、腹に大穴が空いて魔王剣を右手に握り締めたまま地面の上に大の字になって倒れ、彼の腹部を刺し貫いた龍牙は城の中庭を囲っている壁に深々と突き刺さり、穂先から煙を立ち昇らせてようやく止まった。いきなりの出来事のため星も何が起きたのか理解できないまま呆然と地面に横たわっている黒狼と、城壁に突き刺さっている龍牙を交互に見ていたが、やはり何が起きたのかさっぱり分からない。分かっているのは、黒狼が倒れているという事だけだ。
「一体……何が起きたというのだ……?」
「星っ! 大丈夫か!?」
「あ、あぁ……翠。私は大丈夫だ」
「はぁ~。無事で何よりだぜ。だけどお前、黒狼に一体何をしたんだよ?」
「分からん。私にも何が起きたのか全く見当がつかんのだ……」
「お姉様ーっ! 槍を持ってきたよーっ! ……って、ええっ!? 何これっ! 一体何があったの!?」
翠の銀閃を城内へ取りに行っていた蒲公英がようやく戻ってきて、そこで目の当たりにしたのは信じられない光景だ。あの黒狼が星の目の前で腹に大穴を空けて地面の上に血の海を作り上げて大の字で倒れているのだ。事の全貌を知らない蒲公英から言わせればこれは星が黒狼を倒したようにしか見えなかったが、実際はそうではない。それどころか当事者である星と目撃者の翠にも何が起きたのかさっぱり分からないのだ。
「たんぽぽ! お前戻ってくるのが遅いんだよっ!」
「しょうがないじゃん! ばたばたしたらみんなを起こしちゃかもしれなかったから……」
「翠、そう怒鳴るな。私はこうして無事なのだからもう良いではないか」
「あぁ、そうだな。……だけど、これ……どうするよ……」
三人が眼を向けるは地面に倒れている黒狼だ。腹には大きな風穴が空いており、大量の血を流していてピクリとも動かない。誰がどう見ても完全に死んでいる。状況から見ると星が黒狼を殺したように見られるだろうが、それでは説明がつかない事がある。何と言っても一番は黒狼の腹部に出来ているこの大きな風穴だ。普通に槍で刺し貫いたのならこんなバレーボールぐらいのサイズの大穴など出来るはずがない。加えて言えば、いくら百戦錬磨の武将でも、槍を石造りの壁に突き刺せるだろうか。呂布なら出来そうな気もするが、普通に考えれば無理だろう。何より槍が独りでに動いて黒狼の腹を刺し貫いたなんてバカげた話を誰が信用するというのだ。しかも目撃者も星と翠の二人だけなのだ。城の人間全員が見ていたのならともかく、現状では信用される要素などどこにも無い。
「ねえ、これ……星姉様がやったの……?」
「いや、その……どう説明すれば良いのやら……」
「……たんぽぽ。信じられない話だろうが、お前が戻ってくる少し前に黒狼が星に斬りかかろうとした時だ」
「うん」
「いきなり星の槍が独りでに動いて、黒狼の腹を貫いたんだよ」
「……えっ? お姉様、それ新しい冗談のつもり?」
「蒲公英、翠の話は本当だ。私も未だに信じられないが、私の槍が突然宙に浮き、まるで弓矢のように飛来して黒狼をあのような姿にしたのだ」
「なんかそれ……音無さんがやったみたいだよね」
「ああ。確かに。あいつならやりかねないな」
「まあ、その話はひとまず置いておくとしよう。問題は……この件を桃香様達にどう説明するかだな……」
黒狼から仕掛けてきた事とはいえ、結果的に味方である彼を死なせてしまったのだ。しかも魏との決戦前の大事な時期にである。おまけに話の内容が内容なだけに誰も信じるとは思えない。いくら心優しい劉備でもこればかりはそれ相応の厳しい処分を星に下さねば周りに示しがつかないだろう。彼女もそれは覚悟している。理由が何であれ、この件に一番深く関わっているのは自分なのだ。責任逃れをする考えは星の中には無い。
「原因は何であれ、私が黒狼を死なせてしまったのだ。皆には正直に話し、責任は取る」
「責任は取るって……だいたいどう説明する気なんだよ。こんな話信じる奴なんて居ないだろ」
「……クックック。趙雲、その必要は無いぞ」
「なっ!?」
星、翠、蒲公英の三人は驚きの表情で黒狼の方を見やる。死んだと思い込んでいた人物が口を利いただけでなく、その場から何事も無かったかのような様子で普通に立ち上がり、衣服に付いている砂埃を手でパンパンとはたき落としているのだ。星達の様子など気にもしない黒狼は腹部にできている大穴をチラッと確認し、口の中に溜まっている血を吐き捨て、左手で口の周りの血を拭い取った。
「文字通りの死を体験したのは久しぶりだな。まあ、コレも本物の感覚かどうか怪しいがな……」
「黒狼……お主、なぜ生きて……っ!?」
「何をそんなに驚いている? 死んだはずの人間が生きているの見るのはこれが初めてではないのだろ。ククク……」
確かにこの光景を目の当りにするのは星達三人は初めてではない。定軍山で零治の死を目撃しているし、その後に生き返った姿も見ている。零治だけでも異常な現象なのに黒狼も同じように生きている。もしかしたら零治達にとってこれは普通の出来事なのかと星、翠、蒲公英の三人は思い始めるが、それなら定軍山であの虐殺劇だって起きるはずがない。彼らも同じ人間なのだ。この世の理に逆らう事など出来るはずがない。しかし現に零治だけでなく、黒狼も逆らっている。こうなってくると零治や黒狼だけ普通の人とは違うなにか特別な秘密があるのではないかとしか考えられないと星達は思っていた。
「フッ。しかし驚きだな。趙雲、あの時なにをしたのだ? 貴様にあんな芸当が出来たとはな……」
「…………」
「まあ、その様子では貴様も分からんようだな。それに……あの現象が何なのかの見当はついている。ただなぜそうなったのか、それが疑問でな……」
『マスター。この女の槍に起きた先程の現象ですが、間違いなく魔法です』
『そんな事は分かってる。私が疑問視しているのは、なぜこの世界の傀儡が使えるようになったのかについてだ』
『それなのですが……恐らくこの女が赤壁で血の魔導書の所有者と闘ったのが原因かと』
『何? それはどういう事だ……』
『あの時、魔導書の所有者は血の力を発動した状態でした。そしてこの女はあの男に一太刀を浴びせて左眼を潰した。その時の返り血が身体のどこかと槍にも付着。結果、いつの間にか魔導書の力が双方の内部に浸透してしまい、神器使いとして覚醒する可能性が与えられてると考えられますね』
『なるほど。私が感じていた違和感の正体はソレか。フフフ。影狼の奴、まさかこの世界の傀儡にこんな可能性を与えるとはな。奴はつくづく私を楽しませてくれる逸材だな……』
零治がこの事実を知ったらどう思うだろうか。彼が危惧していた事が黒狼の介入により偶発的に引き起こされてしまい、最悪な未来の可能性が高まってしまった。まだ確定していないのがせめてもの救いだが、それでも安心は出来ない。せっかく外史の自我の介入の問題が解決したのにここに来て別の問題が発生していしまう。零治達の不安の種はまだまだ尽きないようだ。
『さて、魔王剣。さっきの現象だが……趙雲が意図的に引き起こしたのか?』
『いえ。この女もあの槍もまだ覚醒しきっていません。先程の魔法も、この者の力への渇望に槍が反応し、偶発的に発動したと考えるのが自然かと』
『フッ。つまり現時点では不完全な出来損ないか。まあいい。趙雲がこの先どうなろうが私の知った事ではないが、退屈凌ぎに観察でもさせてもらうとするか……』
黒狼にとって他者がどうなろうがどうでもいい事である。彼にとって一番重要なのは胸の内に秘めてある計画だけだ。それを実行する日も刻一刻と近づいている。それの障害となるような事態さえ起きなければ問題ないのだ。現状では星が障害になるようには感じられないし、仮に彼女が本当に神器使いとして覚醒して零治と闘うのは興味深くも思い、ひとまずこの件は保留にしておく事にした。ならばこれ以上この場に留まっても意味は無い。部屋に戻って明日の決戦に備えて休むだけだが、その前に腹の大穴を塞がねばならない。
黒狼は左手を腹の穴にかざし、スーッと払うようにゆっくりとスライドさせると一瞬にして穴が消えるどころか破れていた衣服も完璧に元通りになっていた。
「なっ!? 傷が……消えただとっ!?」
「驚くほどの事か? 私は貴様らとは一線を画した存在。この程度の芸当など造作も無い事だ……」
「…………」
「ついでに言えば、趙雲……貴様もそうなりかけているんだぞ……」
「何だと……?」
「運命の悪戯か。影狼と関わった結果、貴様の人生にも大きな転機が訪れようとしているのだ。そうなるかどうかは今後の貴様次第。さっきのアレも、その予兆みたいなものだな……」
(零治殿と関わった結果? 確か零治殿も同じような事を言っていたな……)
「まあ、信じるも信じないも貴様の勝手だ。だが上手く行けば、影狼に追い付くという話も少しは現実味を帯びるかもな。せいぜい頑張ってみるがいい。ククク……」
黒狼がさっきまで放っていた殺気が嘘のように消え、それに呼応するように彼の右手の中にあった魔王剣もその姿を消して黒狼は星に意味深な言葉だけを残し、いつものように冷たい笑みを浮かべながら落ち着いた足取りで何事も無かったかのように中庭を去って城内へと戻っていた。その後姿を見送った後、星は視線を中庭を囲っている壁に突き刺さっている龍牙に移し、一歩ずつ近づいて右手を伸ばして柄を掴み、グッと力を入れて引き抜くとマジマジと穂先を観察してみた。いくら金属製とはいえ、石造りの壁に突き刺せば先端が欠けるなり潰れるなりの損傷があるはずなのに、龍牙の穂先は欠けてもいなければ潰れてもいない。それどころか傷一つ付いていないのだ。こんな事は普通あり得ない。
「信じられん。石の壁に突き刺さっていたのに、傷一つ無いとは……」
「……本当だ。こんな事ってあるんだな」
「星姉様の槍を造ってくれた職人の腕が良かったからどこも壊れなかったって事?」
「いや、確かに私の槍は特注品だし、これを手がけた職人の腕も確かだから普通の槍に比べれば頑丈だろうが……いくらなんでも石の壁に突き刺さって刃こぼれ一つ無いのは考えられん」
「ならよっぽど運が良かったんじゃないか? 石と石の隙間に巧く刺さって欠けてなかったとかさ」
「そうなのだろうか……」
「ねえ。今はそんな事より明日に備えて、たんぽぽ達も寝ようよ」
「そうだな。色々と気になる事はあるが、まずは明日の決戦に勝つ事だけを考えとかないとな」
(一体私の身に何が起きているのだ。零治殿や黒狼が言っていたあの言葉、それが関係しているようだが……)
「おーい、星。早く戻ろうぜ。あんまり夜風に当たってると風邪引いちまうぞ」
「あ、あぁ。いま行く」
いくら考えた所で答えなど見つかるはずがない。分かるのは零治や黒狼だけだ。気にはなるが考えても分からない事でいつまでも頭を悩ませていても時間の無駄だ。明日の魏との決戦の事を考えればいい加減自分も休まねばならないだろう。星は龍牙を肩に担ぎながら一足先に城内へ戻る翠と蒲公英に続いて自室へと戻っていく。些細な事がきっかけで新たなる力への目覚めの兆候を見せた星。胎動する龍が真の意味で目覚めるのかどうかは、誰にも分からない。
零治「おい。こんな風呂敷広げて大丈夫なのかよ」
作者「そうは言うけど、この伏線を放置する訳にはいかないだろ」
亜弥「それはそうですけどちゃんと畳めるんですか?」
作者「分かってる。広げた以上はきちんと畳むさ」
恭佳「まあコレはコレで面白いんだろうけど、アンタ随分と星をひいきするんだね」
作者「そりゃ原作で一番のお気に入りだからな」
奈々瑠「……どうせなら私と兄さんの関係もこんな感じで早く進展させてほしいんですけど」
作者「またその話かよ。物語も終盤に来てんのに無茶言うな」
臥々瑠「終盤だからこそじゃない?」
樺憐「そうですわねぇ。終盤だからこそ色恋沙汰が進展するって事もありますしねぇ」
作者「……この戦いが終わったら結婚しようみたいな?」
零治「それじゃ死亡フラグになるだろうが……」
奈々瑠「すみません。当分は考えなくていいです」
作者「そう言ってくれると助かる。では本日はこの辺で」




