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第91話 戦場を舞う悪魔

またまた半年も待たせてしまって申し訳ありませんっ!

その代わりというわけではありませんが、今回の話は今までの中で話が一番長いので読み応えはあると思います。ただ、字数がここまで多くなったのは私も想定外でしたが。

ただし、今回の話の戦闘描写にはある人物の攻撃性を表現するため、かなり残虐な描写が盛り込まれていますのでご注意を。

「えっ? 私達は本陣で待機、ですか?」


「ええ。零治にそうするように言われたのだけれど……亜弥は何も聞いていないの?」



あの後、作戦は正面から叩き潰すというシンプルな内容なので三軍師とそこまで細かい議論はせず、誰をどこへ配置するかを決め、各部隊の展開ももうじき完了するので本陣に戻ってきた華琳は零治からの頼み事を亜弥に伝えたのだが、その本人は困惑の表情を浮かべざるを得なかった。まだ本命である成都に辿り着いているわけではないが、相手は呉軍の生き残り。しかも向こうは総力戦を挑むつもりで居るのだ。ならば激戦となる事は必至。全員ではないにしても零治以外にも自分達の誰かに出撃の命が下されるはずだと思っていたのに本陣で待機を命じられたのだから。



「その話は初耳ですね。それに……彼が孫策の相手をするのは少し不安ですね」


「どうして?」


「零治の事を信用してないわけじゃないのですが、今の彼はまだ左眼が治っていない。兵士にとって眼は生命線。それは華琳も分かるでしょう」


「ええ」


「今の零治は左眼が死角になってる。呉軍は死に物狂いで戦いを挑むから、間違いなくそこを突いてくるはず。おまけに相手はあの戦狂い、戦闘狂の孫策だ。やはり彼だけを行かせるのは危険すぎですよ」


「貴方の言いたい事は分かるわ。だから零治の左右には秋蘭と霞、後方には春蘭の隊を配置してある。不測の事態にも即座に対処できるようにね」


「各部隊の副官は誰です?」


「春蘭には真桜。秋蘭には季衣と沙和。霞には流琉と凪を配置してあるわ」


「んん? 随分と変わった組み合わせですね。一体何の意図があるんですか?」



今回の部隊の首脳陣の組み合わせに亜弥は不思議そうに首を傾げる。今までの戦では春蘭には季衣が、秋蘭には流琉が副官として配置されており、凪、真桜、沙和の三人は警備隊の仕事を通して息も合わせやすい事から零治や亜弥の部隊に副官として配置されることが主だった。なのに今回の組み合わせは完全にバラバラだ。特に真桜の部隊が魏の中核を担い、敵部隊のど真ん中に突撃をする精鋭中の精鋭部隊、春蘭隊にちゃんとついて行く事が可能なのか不安要素が無いとも言い切れない配置である。



「季衣も流琉も、まだ若いわ。色々な将の戦い方を見せて、魏の次代を担うのに相応しい将になってもらわなければね」


「相手を前座として扱い、実験的な配置をする。実に覇道を進む貴方らしいやり方ですね」


「当然よ。成都での決戦ではこんな事をしている余裕は無いわ。一度倒した相手だもの。せいぜい利用させてもらうわ」


「ふむ。では零治の隊に副官を配置しなかった理由は?」


「零治から頼まれたのよ。もしもあかの力を使うような事態になったら、巻き込みかねないから副官は要らない、兵の数も最低限でいいってね」


「全く。相変わらず彼は危ない橋を渡るのが好きなようで……」


「けれど、その分春蘭達の部隊の兵の層は厚くしてある。何が起ころうともあの子達なら的確に対処してくれるし、必ず零治の事も護り抜いてくれるわ」


「そう願いますよ。ならこれが最後の質問です。私達を本陣で待機するように言ったのは零治なんですよね。その理由を聞かせてほしい」


「貴方達が本当に倒すべき敵は蜀に居る。だから貴方達にこんな所で余計な傷を負ってほしくないから、だそうよ」


「…………」



これについては亜弥もすぐに理解できた。自分達が本当に倒すべき真の敵、それは黒狼、金狼、銀狼の三人以外に存在しない。彼らと正面切ってまともに闘えるのは零治達しか居ないのだ。おまけに今の零治達は華琳達には明かす事のできない爆弾を抱えている身。零治にはBDがあるし、恭佳も本体が神器その物なので自身の負傷に関しては気にしなくてもいい身体になっている。だが亜弥達は別だ。亜弥は当然の事ながら、樺憐、奈々瑠、臥々瑠の三人も戦闘獣人バイオロイドという点を除けば普通の人間と変わらない身なのだ。いくら人間離れをした強さを誇っていても、改善のしようがない体調不良を抱えたまま戦場に出るのは非常に危険だ。その上で戦闘に支障が出るほどの傷を負ってしまえば良くて戦線離脱。下手をすれば命を落としかねない。零治は亜弥達にそうなってほしくないから自ら危険な役目を買って出てその一身に背負ったのだ。この先に待ち受ける黒狼達との最後の闘いで誰一人欠けていないために。そして誰一人欠ける事無く勝利を手にするために。



「これで納得した?」


「……分かりました。この件も、彼なりの気遣いとして受け止めておきますよ。ですから華琳。くれぐれも零治の事を」


「安心なさい。私も彼をこんな所でむざむざと死なせるつもりはないわ。その代わり、亜弥達も本陣での護りをしっかりとお願いね」


「はい」



まだ最後の戦いではないが零治を一人で戦場に送り出すのは忍びない。しかし彼もこちらを気遣い少しでも身体を休ませれるように機会を与えてくれたのだ。ならばここは零治を信じて、今は彼の厚意に甘えて少しでも身体を休めておくべきだろう。この先には休む暇すら与えられない激戦が待ち受けているのだ。

とは言え、恭佳達にも事情は説明しておかねばならないだろう。でないと、零治を助けに行くと言い出して本陣を飛び出しかねない。亜弥は周りに悟られないようにいつもの足取りを維持するように歩を進め、陣内の床几に腰掛けている恭佳達の方に向かった。



「おっ。亜弥、戻ったか。で、華琳はなんて言ってたんだい?」


「私達は全員、本陣で待機だそうです」


「待機、ですかぁ。……亜弥さん。まさかわたくし達の不調が華琳さんに……」


「いえ、そっちの方はバレてません。この件は零治の差し金によるものです」


「兄さんの差し金……。姉さん、兄さんはどうしてそんな事をしたんですか?」


「私達を休ませるため、でしょうね。今の私達は爆弾を抱えてる身ですから」


「爆弾って……別にアタシは平気なのに」


「よく言うわよ。ついさっきまで天幕で寝込んでたくせに」


「寝込んでない。ただ横になってただけだもん……」



奈々瑠の指摘に対し、臥々瑠は床几の上にあぐらをかきながらふくれっ面をして反論するがいつもの元気さが感じられないし、奈々瑠もどこか気怠げな様子だ。昨日はいつも通りだったが、二人も今日になって遂に体調に変調が現れ始めたのだ。いや、奈々瑠と臥々瑠だけじゃない。樺憐もほんの少しだが身体の動きが鈍くなったように感じるし、恭佳も実体化に必要な魔力の消費が少し増えたように感じている。今や魏に降り立った天の御遣い全員が、この世界の自我の拒絶に影響を受け始めているのだ。



「臥々瑠。私達が置かれてる今の状況で強がってもいい事など何一つありませんよ。辛いのは私達だって同じなんですから」


「姉さん……」


「今の私達に出来る事は、休める内に休んで体力を温存しておく事です。私達にとっての『本当の闘い』は、成都で始まるでしょうからね」


「そう、だね……。うん。そうするよ」


「ただし、くれぐれも華琳達には悟られないようにしてくださいよ。この状況で彼女達に余計な動揺を与えるわけにはいかないのですから」


「うぅ~……難しい注文だなぁ。でも、何とか頑張ってみるよ」



臥々瑠は春蘭ほどバカ正直になって表に出してしまう事はあまり無いのだが、隠し事が得意かと言われると微妙な所だ。しかし何だかんだで彼女も空気を読む時はちゃんと読んでくれる。それにこの不調も身体を動かさずにジッとしていればそこまで辛くはない。今の所は、だが。



「全く。零治の気遣いは嬉しいが、待たされるこっちは堪ったもんじゃない。ちょいと姉として文句でも言ってやるかね」


「恭佳。まさか零治の所に行くつもりじゃないでしょうね」


「この状況でんな事するかよ。念話で文句を言い聞かせてやるだけさ」



姉として零治の事は心配だし、今すぐ彼の下に行って一緒に戦いたいのが恭佳の本音だ。だがこの状況でそんな事をするほど彼女もバカじゃない。与えられた命令に背く事は全軍を乱しかねない行為なのだ。それに今の自分は万全の状態ではない。下手な行動をして零治の足を引っ張って彼を危険に晒しては本末転倒である。だからこそ姉として弟の事を、そして仲間達を信じて無事の帰還を待つ。けれどそれだけでは恭佳の気は収まらないので、彼女は零治に一言文句を言ってやろうと思い、彼に念話を送るために右手を自分の耳にあてがい、通信を始めた。


………


……



『零治。おい零治ってば』


「ん?」



タバコを吹かしながら前線で華琳の攻撃開始の命令を今か今かと待ちながら眼前に展開する呉軍を睨みつけていた時、恭佳から念話の通信が送られてきたので、零治は何事かと思いながら右手を自分の右耳にあてがい、彼女の通信を受け取った。



『何だよ姉さん。そっちで何かあったのか?』


『何も起きちゃいないよ。ただアンタに一言文句が言いたいだけだ』


『文句? オレ何かしたか?』


『してるだろ。現在進行形でな』


『……ああ』



こう言われれば零治も理解せざるを得ない。恭佳が言っている現在進行形でしている文句を言いたい事。それは自分達を本陣で待機させ、零治一人だけが前線で戦うという危険行為に他ならない。もちろん零治自身も今どれだけの危険を冒そうとしているのかは百も承知である。しかし、自分達が抱えている不調を隠しつつ無理を押し通せるのは零治しか居ないのだ。ただ恭佳も人間とは言えない存在だから零治同様に無茶が出来る可能性は無いとも言い切れないが、彼女の場合は本体が神器で魔力を消費して生前の姿を具現化し、実体化と非実体化を切り替えて戦っている。魔力が完全に枯渇するとどうなるのかは零治達も、そして恭佳本人にも分からない。だからこそ零治は彼女も本陣で待機させるように仕向けたのだ。それに零治はこの事を知れば亜弥か恭佳のどちらかが文句を言ってくるだろうとは予測していた。分かってはいたが、大事な戦いの前に文句を聞かされるのは堪ったものじゃないが、気分転換も兼ねて零治は恭佳の小言に付き合う事にする。



『全く。アンタは赤壁の時といい今回といい、どれだけアタシらに心配かければ気が済むのさ』


『はい。一言文句言ったから今ので終わりだな』


『ああん? 今ので終わりなわけねぇだろ。ってか、こんな時にくだらねぇ事言ってんじゃないよ』


『こんな時だからこそだ。変に緊張しているより、心に余裕を持っておくのがプロの兵士ってもんだろ?』


『おい。巧く言いくるめたつもりでいるんだろうがその手には乗んないよ。アタシの文句はまだ終わっちゃいねぇんだからな』


『フッ。姉さんがこの程度で引き下がらない事は知ってるし、言いくるめたつもりもないさ』



念話でとはいえ聞かされるのは文句だというのに、零治には嫌そうな様子が全く見られない。むしろ今の状況を楽しんでいるようにさえ見える。いや、実際に彼はこの状況を楽しんでいるのだ。BDがあるとはいえ、対処のしようが無い体調不良という爆弾を抱えて尚且つ、戦狂いと称される危険人物である孫策に闘いを挑むつもりでいるのだ。不安要素が無いとは断言できない。だから零治も表にこそ出してはいなかったが内心では少し緊張をしていた。そのタイミングで恭佳が念話を送ってブーブー文句を言ってくれるおかげで良い気分転換ができているのだ。



『赤壁の時もそうだったが、アンタはそんなに危ない橋を渡るのが好きなのかよ』


『あぁ、そう言われても否定できねぇな。危ない橋を渡るのが趣味ってわけじゃないが、とびきり危険な橋を今回は渡る事になるからな』


『何ぃ? 一体なにしようってんだい』


『……孫策の相手さ』


『はあっ!?』



零治から聞かされた新事実を知るなり、恭佳の驚きの声が頭の中に響いて零治は思わず耳を押さえながら表情を歪め、軽くよろめいてしまった。念話なので耳元で大声を出されたわけではないので耳鳴りがする事はないが、相手の声は頭の中に直接聞こえてくるのだ。つまり念話でも大音量の声を聞かされたら頭に響いてガンガンするのである。



『姉さん。念話とはいえ大音量の声を出すんじゃねぇよ。頭がガンガンするんだから……』


『んな事はどうでもいいんだよっ! 零治! 今なんつったっ! 孫策の相手をするって正気かよ!?』


『正気に決まってんだろ。まさかオレの気が狂ったとでも思ってるのか?』


『当たり前だろっ! あの戦狂いの相手を自分から志願するなんて命知らずのバカがする事だろうが!』


『じゃあオレは命知らずのバカになるのか? やれやれ。弟に対してなんて言い草だ。オレは酷い姉を持って幸せだな。嬉しくて涙が出そうだぜ』


『こんな時に冗談言ってんじゃないよっ! アタシは本気でアンタの事が心配なんだ! 零治! アンタBDの力を過信しすぎてるんじゃないのかっ!』


『過信なんかしてない。敗ける闘いはしない主義だ。それに万が一に備えて保険は用意してある。心配すんな』


『零治……』


『まだ言いたい事はあるんだろうがそろそろ時間だ。切るぞ』


『ってコラ! まだアタシの話は終わって――っ!』



恭佳の話の続きには耳を貸さず、零治は問答無用で通信を一方的に切った。それに彼が言うように、そろそろ戦いが始まる。これ以上話に時間を割く余裕などありはしない。今から零治がするべき事はただ一つ、呉軍との戦を乗り切り無事に生還し、蜀の首都である成都までの道を切り拓く事。それだけなのだ。零治は眼前に展開する呉の軍勢を睨みつけながらタバコを一気に吸って煙を吹かし、吸い殻をコートの下から取り出した携帯灰皿に中に捨てて再びコートの下に忍ばせた。



『おい、相棒』


「BDか。何だよ?」


『さっき保険を用意してあるなんて言ってたが、いつそんなもん用意してたんだよ? そんな暇あったか?』


「ああ? 今さっきさ。ああでも言っとかないと、姉さんの話を終わらせる事も出来なさそうだったんでな」


『あんだよ。要するにただのデマカセって事かよ』


「デマカセじゃねぇよ。『今さっき』用意してあるって言っただろうが」


『あん? 何を用意したって言うんだよ?』


「お前が保険さ。他に保険になりそうな物なんか無ぇだろうが」


『あぁそうかい。頼られて嬉しい限りだぜ、ご主人様よ。で? 今回は何をしてほしいんだ?』


「そう難しい事じゃない。この外史の自我の拒絶による影響……つまり、オレがまた立ち眩みとか起こしたら、お前に代わりに戦ってもらいたい。オレの身体を使ってな」


『……そりゃ構わねぇが、いいのか? 言っとくが俺様の辞書に手加減なんて単語は書かれてねぇぞ』



嘘か本当なのか真実の方は定かではないが、元居た世界でBDこと血の魔導書ブラッド・ディクテイターはこの世に破壊と混沌をもたらすと言われているいわく付きの魔導書なのだ。そのBDに自分の身体を貸して戦わせればどんな結果になるのかは零治にだって想像がつかない。これはある意味、自分が孫策と闘うよりも危険な事なのかもしれないだろう。だが今の零治にはこれ以外に保険となる作戦が思いつかないのだ。いつまた定軍山で起きた立ち眩みに襲われるか分からない。ましてや孫策と闘っている最中にそうなれば零治だってただでは済まないだろう。この戦いに勝つためにも、そして自分の身を護るためにも今の彼は手段を選ぶつもりなど無いのだ。



「構わん。この先、何が起こるか分からん以上オレも手段は選ばん。華琳の描く未来を実現するためならどんな障害も排除する。例え相手が『この世界』その物だろうとな」


『はっはぁ! そういう考えは嫌いじゃないぜ。相棒、いざって時は遠慮無く頼ってくれや』


「もとよりそのつもりだ。……さて、そろそろ華琳から合図が来る頃だろうか」


………


……



「敵の先鋒はあの黒き閃光さんか……。どうやら正面から挑んでくれるようね」


「そのようだな。……しかし、先鋒にあの男を配置するとは。曹操はこの一戦を速攻で終わらせるつもりなのだな」


「でしょうね。向こうからすれば、こんな所で足止め食ってる暇なんて無いのだから」



孫策が指摘している時間的余裕が無い点については、華琳率いる魏軍が少しでも早く成都に辿り着き、蜀との最終決戦を実行したい点の事を指している。ここで余計な足止めを食っていては劉備にそれだけ時間を与えてしまう事になる。そうなれば向こうは魏軍を迎え撃つために万全の体制を構築し、苦戦を強いられてしまうだろう。いや、蜀にも後が無い以上は死に物狂いで戦いを挑んでくる。どちらにせよ苦戦は避けられない。だがそれでも、少しでも早く成都に辿り着き蜀との最終決戦に持ち込む。それが今の華琳が描いている理想の戦。そしてもう一つ魏軍には時間的余裕が無い案件がある。それが零治達が抱えている不調だ。彼らの体調は日に日に悪くなり、身体が思うように動いてくれなくなってきているのだ。貂蝉はこの外史の物語が終端を迎えるまでは消えないと話していたが、これもどこまで当てにしていいか分からない。だからこそ零治はあえて危険な役目を勝って出たのだ。この一戦を速攻で終わらせるために。それと同時に亜弥達に少しでも休める時間を与えるために。そしてこの行為には孫策が自分と闘いたいという願望を抱いており、それを叶えるためという意図も含まれている。それを読み取ったからなのか、孫策はこんな絶望的な状況でも不敵な笑みを絶やさなかった。



「私いまね……これまでにないくらい、ドキドキしているの。孫家も呉も関係なく、あの曹孟徳……それにようやく彼と、あの黒き閃光と正面から戦える……その事に、武人としての血が滾って仕方ないわ」


「ふっ……相変わらず悪い癖だな」


「自分でもそう思うわ。だけど、こればっかりは死んでも治らないでしょうね」


「なら、玉座は蓮華様に譲って、二人で旅にでも出てみる?」


「旅かぁ~。それもいいかもね」



もともと自由気ままに生きてきた孫策にとって、周瑜が提示した内容はとても魅力的だろう。自由きままに生きてきた点に関しては王の座についてからも変わってない。まあ、そのせいもあって周瑜を始めとした呉の首脳陣達は散々振り回されて頭を悩ませていたが、そういった事も含めてそれこそが孫策の魅力なのだろう。彼女自身も自分の性格をよく分かっているし、いずれは家督を妹の孫権や孫尚香に譲る時が来るもの間違いない。それに合わせて周瑜も現役を退いて後の事は後進の陸遜や呂蒙に託すだろう。そうなれば孫策と周瑜の二人を縛るものは一切無くなり、自由に生きられる。その自由な時間を使って二人でこの大陸を隅々まで旅をして渡り歩く。本当にそう出来たらいいなと孫策は思ったが、それはこの戦いに勝ったら話なのだ。



「ま……それもこれも全部、曹操を捻じ伏せてからの話ね」


「そうだな……」



魅力的な未来像を孫策は頭から振り払い、気持ちを切り替えて表情を引き締めて眼前に広がる魏軍に眼を向け、周瑜もそれに倣って同じように表情を引き締める。未来に想いを馳せるのは別に悪い事ではない。しかし、その未来も目の前の戦いに勝たねば叶わぬ事。だからこそ今は未来に想いを馳せるのではなく、目の前の戦いに集中する事。それこそが今の孫策達のやるべき事なのだ。



「姉様!」


「本隊の準備、ぜーんぶ整ったよー!」


「了解。ご苦労様」



妹の孫権と孫尚香から準備が整った報告を受け、二人に視線を向けながら満足げに頷いた孫策は再び目の前に展開する魏軍の大軍勢に鋭い眼光を向けた。状況は絶望的。兵数では完全に劣っているし、この場に結集している軍勢は呉の全て。つまり援軍が来る事もない。兵力の差は劉備から多少の兵を借りて補ってはいるが、その状況下で正面から突撃するのは愚の骨頂。しかし、孫策達に出来る戦法はこれしかないのだ。兵数の差は勢いと気迫で補い、敵を粉砕する。向こうもそれに応じてくるのだ。後は想いの強さで打ち勝つのみである。



「曹操と語るべき事は江東の地で言い尽くした……。向こうも舌戦無しですぐに突撃してくるはず。第一波を粉砕し、その勢いのまま曹操の頸を獲るわよ」


「了解した。……では行こうか、雪蓮」


「ええ……目指すは曹操の牙門旗。待ってなさい、覇王、曹操」


………


……



「くぅぅ……っ! 音無の奴はまだ動かんのか!」


「隊長は相手が動いてから行動するって手筈やないですか。こっちから先手を打っても、向こうの流れに乗せられるだけな事くらい春蘭様も分かるでしょう」


「むぅぅ……」


(この配置、失策やないんかなあ……? これやったら隊長と一緒におった方がまだマシな気がするわ)


「うぅぅ……」



あくまでも先鋒は零治の隊であり、春蘭の部隊は不測の事態に備えた後方支援が今回の役目だというのに、春蘭は今すぐにでも突撃したいと言わんばかりに唸り声を出しながら焦れったそうにしていた。根っからの突撃思考の持ち主で今までずっと敵軍の第一陣を粉砕するために最前線で先陣を切ってきていたのだ。なのに今回は零治の部隊の後方支援が主な役目。おまけに現在もこうして歯がゆそうにしている春蘭を抑える役回りが真桜に回されてきたのだ。彼女の副官として隣に立つ真桜は内心不安で不安で仕方なかった。ただ普通に言い聞かせても春蘭がいつまでも我慢していられるかどうか怪しいと感じた真桜は、呉軍が動いていない今の内にと思い、別の話題で彼女の気を逸してみる事にした。



「あの、春蘭様。そういえば、どないです? 新しい太刀は」


「うむ……? なかなか良いぞ」


「そ……ですか」


「どうしたのだ?」


「いや、もうちょっと、この辺がええとか、無いのかなぁ……と。姐さんはそういうの結構言うてくれはるんで」


「前の物と見かけも重さも使い勝手も変わらんのだから、評価のしようがなかろう。丈夫にはなっているようだが……正直、よく分からん」


「……三倍は頑丈になっとるんやけどなぁ」



華琳の私用に同行して一度本国に帰還し、真桜は最高の素材を用意して寝る間も惜しみ、春蘭の使用している太刀を新調したのだ。それは今まで造り上げた中でも最高傑作と言っても過言ではない出来栄えである。

造り手としてはやはり使い勝手の良さとか細かい感想があった方が次の工作に活かせるので、真桜は春蘭の気を紛らわせるためだけでなくそういう意味合いもあってこの話題を振ってみたのだが、当の本人がこの有様では期待しているような意見も得られない事が分かると、真桜は心底落胆したような様子を露わにしていたが、それも束の間。ついに呉軍が動きを見せたのだ。



「夏侯惇将軍! 敵部隊、動き始めました! 音無様の部隊も突撃を開始していますっ!」


「ようやく動いたかっ! よいか! 我が隊の今回の役目は音無隊の支援だ! 奴の部隊に群がる周囲の雑兵共を蹴散らしてやれっ!」


「はっ!」


「総員、突撃せよ!」



春蘭の号令とともに彼女が率いる魏の精鋭中の精鋭部隊が雄叫びを上げながら一斉に突撃を開始した。役目は零治が率いる少数部隊に群がってくる周囲の敵の掃討である。いつもならば零治が担ってる役回りは春蘭の担当だが、今回は彼の希望と華琳の決定により先鋒は零治が受け持つ事となった。もちろん春蘭はこの決定に不満はあったが華琳が決めた以上従うしかない。春蘭は真桜と共に兵を従えながら零治の隊に群がる呉の兵士達に突撃し、誰に言うのでもなく呟いた。



「音無。先鋒として戦場に立った以上、魏の、そして華琳様の名に恥じぬ戦いをしてみせろよ」


………


……



「あの……音無様」


「ん? どうした?」



零治が先頭を切り、孫策が率いている部隊に突撃している中、彼の隣を走りながら遠慮がちに声をかけてきたのは音無隊所属の兵の一人。しかもこの者は零治の部隊が発足してから凪、真桜、沙和の新兵訓練を経て配置され今日この日まで生き抜いてきた人物。つまり音無隊の中でも兵士としての実力は上の方になり、零治との付き合いも長く彼も一目を置いているのである。作戦を開始する前、この者は零治から戦闘が始まったらどう行動するのか説明されたが、その内容があまりにも無茶で内心不安に感じており、本気で実行するつもりなのか再度確認するためにこの状況でも零治に声をかけ、言葉を続けた。



「音無様が述べていた作戦ですが、本気でやるおつもりなのですか……?」


「当たり前だ。オレがこの手の話で冗談を言うと思ってんのか?」


「いや、しかし……」



やはりこの兵士は不安を隠しきれない様子だった。零治が説明した作戦の全貌はとてもシンプルな内容だった。孫策の部隊と接敵したら彼女との一騎打ちに勝負を持ち込み、零治が一人で部隊を壊滅させるつもりでいるのだ。その間に彼が率いる少数の兵士達は後退して春蘭の部隊と合流し、周囲の敵を掃討する。これが零治が考えた作戦なのだが、彼から言わせればこれは作戦でも何でもない。ただの捨て身の特攻と同じである。今からでも遅くないから考えを改めてもらおうと思い、口を開こうとしたが零治はそれを遮った。



「お前の言いたい事は分かる。だが相手はあの孫策だ。お前も奴の噂は知ってるだろ……」


「…………」


「奴は戦狂い。つまり筋金入りの戦闘狂だ。ある意味呂布以上に危険なあの女に、お前らが敵うはずがないだろ……」


「そんな事は言われなくても分かってます。ですが我らの役目は……っ!」



そう。零治が率いている部隊の兵士達の役目は、指揮官である彼の護衛だ。いくら零治本人の命令とはいえ、護衛の対象である指揮官を置いて後退するのは任務を放棄するのと同義である。蜀との決戦はまだ始まったばかり。ならば零治の力もまだ必要とされる。ここで彼を死なせては勝てる決戦にも勝てなくなる可能性が出てくる。この兵士は零治との付き合いも長いので彼の実力は知っているし、零治のためなら命も惜しくはないと思っているが今回ばかりは素直に従えない。それはこの先に控えている決戦の事を見据えて。だからこそ最期まで一緒に戦わせてほしいと思い引き下がろうとしないが、零治は同行を許しはしなかった。なぜなら、先の事を見据えているのは彼も同じだからだ。



「いいか。オレは何もお前が足手まといになるから後退させるんじゃない。お前を、いや……ここに居る兵士達全員をこんな所で死なせたくないためだ」


「……我らは音無様のためなら命など惜しみませんっ! 貴方様は魏に必要なお方なのですよっ!」


「オレの力が最も必要とされるのは今の内だけだ。だが、戦争が終われば一番必要とされるのはオレじゃない。お前達の方だ」


「えっ?」


「オレ達の国、魏が勝利すれば大陸は平和になり、もっと多くの人々が集まるはずだ。そうなれば重要視されるのは都市の安定……街の治安維持だ」


「つまり、我らの警備が必要とされる」


「そうだ。そのために国内各所に分所を作るための計画も進めてきてる。場合によっては他国にも分所が必要になるかもしれん。それに、いずれは本隊から借りてる兵も戻す予定だ。だからこそこの先の未来の為に『お前達』という人手が必要なんだよ」


「音無様……」


「これでオレの考えが理解できたのなら、オレの事を信じて従ってくれ。この先の未来のためにな……」


「……はっ! 謹んで拝命いたします! 我らは音無様の命に従い、この先の未来の為に必ずや生き抜いてみせますっ!」


「ありがとう」



零治の想いを理解して彼が率いている兵士達はより一層奮起し、士気が一気に高まった。この光景に零治は心の底から嬉しく思えた。零治達に残された時間は刻一刻と減ってきている。彼らが魏を、そして華琳を支えていられるのは今の内だけなのだ。先程零治が言っていたように、蜀との決戦に勝ち、魏が勝利すれば大陸は平和になるだろう。だがそれですべてが終わるわけではない。戦争の後始末、都市の安定やその他諸々。これら全てを行い平和を維持していかなければならないのだ。だがそこに零治達は居ない。居る事が出来ないのだ。だからこそ、自分達が支えてやれない代わりに新たな支えを遺していく。それが今の零治のやるべき事なのだ。



(警備隊にはこいつらだけじゃない。凪、真桜、沙和の三人も居る。もうオレと亜弥が居なくても、警備隊の方は大丈夫だろうな)


『……おい、相棒』


『BDか。どうした?』


『感傷に浸ってる所を悪いが、厄介な問題が発生してやがるぞ……』


『お前が厄介って単語を使うって事は、相当な問題らしいな……』



BDは零治が居た世界では最強にして最凶と言われたいわく付きの魔導書であり、BD自身もこれを自称している。それどころか不可能を可能にするのが仕事と言うほどの存在なのだ。現に定軍山から赤壁の戦いまでBDの力を使って死を超越し、それ以外にも零治達の世界でも考えられないような常識の範疇を超えた魔法を行使し、今日この日まで辿り着いてきたのだ。にも関わらず、そのBDが厄介という単語を使ってるのだ。零治は今まで以上の無理難題が降り掛かってくるのだろうと予測しつつ話の先を促した。



『ケッ! この外史って奴の“自我様”はよっぽど俺様達が邪魔らしいな……』


『その言い方……また干渉してきてやがるのか』


『ああ。しかも干渉している対象はお前じゃねぇ。俺様達にだ』


『何っ!? ……って、いま“達”と言ったかっ!? という事は、まさか……っ!』


『そうだ。お前の叢雲にも干渉しているのさ。いや、叢雲だけじゃねぇ。この世界に迷い込んできた神器全てにだ』


『おい叢雲っ! 今BDが言った事は本当なのかっ!?』


『……アア。間違イ無イ。コノ世界ノ自我トヤラハ、我ノ力モ抑エツケヨウトシテイル。今ノ状態デスキルヲ発動スルノハ困難ダロウナ』



状況は零治が想定していたよりも最悪の展開だった。この世界の自我がまた干渉してくるのではないかと薄々思ってはいたが、その対象が自分ではなく叢雲やBDにまで及ぶとは考えてもいなかった。しかもスキルの発動が困難になるほどの事態だ。孫策の相手をするために自ら先鋒を志願したというのに、ここに来て体調が悪くなるどころか自分の戦闘能力が半減するのような状況下に置かれてしまったのだ。しかし引き返すわけにもいかない。今は現状でこの状況を打破するために零治は思考をフル回転させて孫策の部隊を目指して走り続けるが一向にいい考えが浮かばない。そんな中、BDは零治の頭の中で忌々しげに呟いた。



『……気に入らねぇな。遅れて出てきた自我の分際で俺様に干渉してくるとはいい度胸してるじゃねぇか』


『BD! 文句を言ってる暇があるならお前もこの状況を打破する方法を考えてくれっ!』


『分かってる。……相棒。少しの間俺様は席を外す』


『はっ? 何を言ってるんだ?』


『今から話をつけてくる。この世界の自我とやらとな……。それまでお前は何とか保ちこたえてくれ。出来るだけ早く戻ってくる』


『話をつけるって、どうやってだよ? ってか、それで何とかなるのか……』


『してみせるさ。だから俺様を信じて待ってろ。必ずすぐに戻る』


『……いいだろう。頼むぞ』


『おうよっ! 叢雲、ここが踏ん張りどころだぜ。死ぬ気で相棒を護れよ』


『言ワレズトモソノツモリダ。主ヨ。コノ世界ノ自我ノ干渉、確カニ影響ハ受ケテイルガマダ完全デハナイ。我ガ奴ノ干渉ヲ可能ナ限リ押シ返シテミセル。ダカラ……』


『それでBDが戻るまでの間、保ち堪えろって言いたいんだろ? この程度の苦難、黒狼との勝負に比べればどうって事はない。余裕で切り抜けてやるぜっ!』


………


……



場所は変わり、この空間はどう表現するべきだろうか。辺りには何も無く、ただ真っ白な空間が広がるだけ。宇宙空間の色とも言うべき黒色を文字通り逆の色である白に塗り替えた世界という表現が一番しっくりくるかもしれない。おかげでこの場所が屋内なのかそれとも屋外なのか。それすら判別が出来ない場所である。しかし気になる事に、その何も無いはずの空間内にポツンと一つ宙に浮く、白く光り輝いているバレーボールぐらいのサイズをした光の球体が存在していた。しかもその球体の正面にはまるでディスプレイに映し出されているかのように、零治の姿がそこにあるのだ。どういう仕掛けなのかは皆目見当もつかないがご丁寧に音声まで聞こえてきている。見たところ彼は丁度、孫策と黄蓋の部隊と接敵した様子である。



「ふふ。また会えたわね。黒き閃光さん」


「…………」


「赤壁ではお預けになっちゃったけど、今度こそ私と勝負してもらうわよ。そのついでに、赤壁での借りも纏めて返させてもらうからね」


「やれるもんならやってみな。……おい」



零治はチラリと隣に控えている、移動中に言葉を交わした兵士に視線を向け、顎をシャクって事前に説明していた作戦を実行する事を伝え、引き連れていた兵士達に後退して春蘭の部隊と合流するように促した。

本当はこの場に留まって最後まで共に戦いたい。それが彼らの本音だ。しかし、それをやれば零治のこの先の未来を見据えた想いを踏みにじる事になる。零治が信じてくれているように、自分達も彼を信じてその命に従う。それが今やるべき事なのだ。零治と視線を交わした兵士は己の役目を全うするべく、力強く声を発した。



「はっ! 音無様、ご武運をっ!」


「ああ。お前らもな。行け」


「はっ!」



零治が引き連れていた兵士達はビシっと敬礼をして素早く反転し、春蘭の部隊に合流するために一目散にその場を駆け抜け、来た道を引き返していく。零治の突拍子のない行動に孫策も黄蓋も、呉の兵士達も呆気にとられながら兵士達の後ろ姿を黙って見送り、姿が見えなくなると零治に視線を戻した孫策はいつもの軽いノリで口を開いた。



「あらら。貴方まさか、この数を一人で相手するつもりなの?」


「オレにはオレの役目があるように、アイツらにはアイツらにしか出来ない役目がある。連中はそれを全うするために動いただけに過ぎん」


「ふ~ん」


「さて……孫策、どうする? 借りを返すために誇りをかなぐり捨て、恥も外聞も無くオレ一人を寄ってたかって袋叩きにするか?」


「……ふふ。言うじゃない。確かに一度は負けた身。だけど誇りを捨てるつもりはないわ。だからお望み通り、貴方との一騎打ち、受けて立とうじゃない」


「フッ。別にそこまで律儀にする必要は無いぞ。……黄蓋、貴様もかかって来い」


「何じゃと?」



零治は孫策との勝負を一騎打ちに持ち込むためにあのような挑発的な言葉を投げかけ、彼女を釣り上げたというのに、自分にまでご指名が来たのだ。黄蓋も一廉の武人。この状況で自分まで勝負に巻き込まれるとは予想もしておらず、零治の呼びかけには裏があるのではないかと思い、彼の思考を読み取るようにその表情を窺った。



「おいおい。別に裏なんか無い。ただ……借りを返したいのはお前らだけじゃないって事さ」


「借りじゃと?」


「ああ。お前が前にこっちの陣営に殴り込みに来て、ウチの連中が世話になっただろ? あの時の借りを、今この場で纏めて返してやる。貴様の死を以ってな……」


「ほぉ~。儂まで勝負に参加させて自ら不利な状況を作るとは……少々思い上がりが過ぎるのではないか、小僧」


「郷に入っては郷に従えと言うが、生憎とオレは武人じゃない。オレはオレのやり方で貴様らを始末するだけだ。それとなぁ……戦場で相手を見た目だけで判断する奴は早死にするだけだぞ。老いぼれ……」


「言うではないか。……よかろう! 儂らを侮った事、この場で後悔させてやるわっ!」


「やってみろ。老兵が……」


「策殿っ!」


「ええっ! さあ、勝負よ! 黒き閃光っ!」



相手が孫策だけなら予定通り一騎打ちで勝負をつけるつもりでいたが、この場に黄蓋も居たのは零治としては嬉しい誤算だった。彼の目的は大物との一騎打ちではない。あくまでも障害となる人物、つまり優秀な指揮官達の排除だ。ここで孫策だけでなく黄蓋も同時に討ち取る事が出来れば呉軍に与える精神的なダメージは計り知れないだろう。いま自分に起きている外史の自我の干渉、このせいで状況は不利だがそんな事など零治にとっては些細な事。この程度の苦難、元の世界でも嫌と言うほど経験してきているのだ。いまさら臆する要素など無い。零治、孫策と黄蓋の勝負の火蓋が切って落とされ、呉軍の兵士達が円陣を組んだリング内で三人はそれぞれ動き出した。零治と孫策が斬り結ぶ無数の剣戟だけが白い空間内に響き、時折黄蓋が放つ弓矢の空を斬る音、そして叩き落される矢の音。それだけが聞こえていたのだが、しばらくしてその音達に交わるように等間隔でコツコツと革靴の足音のような物が聞こえてきてこちらに近づいてきたのだ。



「よお。やっと見つけたぜ。『外史』さんよぉ……」



足音の正体は零治の姿を模したBDだった。しかしその姿には幾つか差異があり、まず両目が健在。つまり左眼に眼帯を着用しておらず、両眼の色は魔導書の力を発動した時の紅と黒のツートンカラーだ。そして左腕にも拘束具の役割がある深紅のガントレットが身に着けられていない。この場に居る零治は、人格と眼の色、その他諸々を除けば完全に最初の頃の彼の姿だ。BDは両手をズボンのポケットに突っ込んで仁王立ちしながらゆっくりと周囲に視線を向け、あらかた辺りを見回すともう一度光の球体に視線を戻して口を開いた。



「こんな何も無い殺風景な場所で映画鑑賞か? それとも覗き見と言うべきか? この暇人野郎が。……おっと。人って表現はおかしいか。どっちかっつーと電球野郎と言うべきか?」


「……貴様」


「あ?」


「貴様、一体どうやってここまで来た」


「ほぉ~。こいつは意外や意外。テメェ喋れんのかよ。電球のくせに」


「質問に答えろ」


「ああん……? 電球の分際で偉そうな口利いてんじゃねぇぞコラァ。今すぐ粉々にブチ砕かれてぇのか……」



BDは気を許した相手、パートナーの零治はもちろんの事、亜弥達には多少なりとも生意気と感じるような事を言われても怒ったりはしない。寧ろ逆に笑って受け流せるくらいだ。それに華琳にも少しは気を許しているので彼女の言動も気にはならない。だが、いま目の前に存在している外史の自我は別だ。BDはこの自我の存在が許せないし認めてもいない。そんな存在にこんな上から目線の口を利かれたら黙ってはいられない。が、ここで強硬手段を取るわけにもいかない。あくまでもここへは話し合いが目的で来ているのだ。BDは内なる怒りを抑えつけ、言動の調子を零治と会話している時と同じレベルまで戻し、質問に答えてやる事にした。



「何。簡単な話さ。俺様は一種の思念体のような存在。テメェも似たようなもんだ。俺様の手にかかりゃ、別次元の壁を越えるなんて容易い事なんだよ」


「なるほどな。では次の質問だ。一体何の用でここまで来た」


「決まってんだろ。テメェと話をするためにだ」


「話だと?」


「そうさ。……回りくどいのは嫌いだ。率直に言わせてもらうぞ。これ以上俺様や相棒達に干渉するのを今すぐにやめろ……」



BDがわざわざここまで来た目的はこれだ。貂蝉から聞かされたように、この外史の終端、そして零治達の結末は既に定められているのだ。ならばこれ以上自分達に干渉しても何の意味も成さない。それに零治達にとって真に倒すべき敵、黒狼達の存在がある以上は余計な危険は取り除いておくに越した事はなだろう。

いつものBDなら力づくで黙らせたりしていただろうが、今回の相手は人間ではないのだ。だからこそまずは話し合いで相手の様子を窺う。もちろんBDもこの外史の自我が言葉だけで素直に従うなどと思ってはいない。定軍山だけでなく、赤壁へ向かう途中でも邪魔をしてきているのだ。案の定、目の前に存在している光の球体から返された言葉はBDが望む答えとは違っていた。



「世界の歴史の歯車を狂わせる貴様らの肩を持てと言うのか? この我に……」


「ああん? テメェなに言ってんだ? 『三国志』については詳しくは知らねぇが、少なくともこの世界は正当な三国志の世界じゃねぇだろうが。その世界で歴史もクソもあるかよ」


「…………」


「この世界は外史。あの貂蝉って野郎の話通りなら、ここは一種の平行世界のようなもんだ。正史という現実世界の人間どもの想念によって形成されたな。つまり、この世界の歴史と先の未来を形成するのはテメェじゃねぇ。あの世界で生きる人間、そして正史の人間の想念に委ねられるべきだろうが。違うか……?」



そう。この外史という世界はあくまでも正史の人々の想念が集まる事で形成されている。正史の人々がこの世界の物語がどのように展開するか考え、想いを膨らませ、それが想念となりよりこの世界に集まる事で様々な未来が枝分かれして創られていく。想念が集まれば集まるほどその外史の存在感は強くなり、消滅の危機も回避される。この世界がまさにそれだ。だがそれ以上の結果として、正史とリンクして根を張り、この世界は自我を持ってしまった。しかもこの結果は貂蝉も想定していない出来事である。ある意味、この自我も零治達と同じ。正史の人々がこういう展開を望んでいるのかは別として、零治達がこの世界の歴史の流れに干渉してしまったように、この自我も零治達に干渉して修繕不可能なレベルにまで達している歴史の流れを正そうとしている。BDはこの自我が自分達と同じ事をしている。そう指摘したくてこういう事を言ったのかもしれない。



「テメェがこの世界そのモノと言っても、所詮は後から生まれた存在。しかも正史とリンクしてな。ならばテメェはある意味正史の人間と変わらねぇんだよ。観客は観客らしく客席で大人しく物語が終わるのを黙って観ていろ。テメェは舞台を演出する側の存在じゃねぇんだ」


「そうはいかん。この世界をこれ以上間違った道へ進ませるわけにはいかんのだ。歴史を正すのが我の役目だ」


「……強情な野郎だな。ならこっちも強硬手段を取らせてもらうぜ」


「何……? 貴様、何を企んでいる」


「な~に。こうするんだ……よっ!」



何をしだすかと思えば、BDは右手をズボンのポケットから出して大きく後ろに引き、外史の自我である目の前に存在している光の球体を思いっきり殴りつけたのだ。まるで金属を殴ったかのようにガツンと鈍い音が鳴り響き、光の球体は激しく揺さぶられた。そしてそれに呼応するように、部屋に映し出されている零治達が映っている映像も一瞬激しく揺れたのだ。



「きゃっ!? 何! 地震!?」


(今の振動……地面からじゃない。空間その物が揺れたぞ。BDの仕業か……?)


「おぉ~。テメェをブン殴っただけで表の世界が派手に揺れやがったぞ。なるほど。テメェがこの外史と深く結びついてるのは間違いないみてぇだな」


「き、貴様っ! 何という事をするのだ……っ!」


「ああん? 電球の分際でな~に俺様に意見してやがん……だっ!」



BDは表情に影を落として口の端を吊り上げ、光の球体の言葉には一切耳を貸そうとせずに容赦無く両手を使って何度も何度も鉄拳を叩き込み続けた。今のBDは明らかに自分の行為を楽しんでいる。表の世界に与える影響など全く意に介そうともしない。彼が球体を殴打する度に表の世界も激しく振動し、おかげで零治達は戦闘どころではなくなってしまい立っているのがやっとの状態だった。



「オラァ! オラァ! 悔しかったらテメェもやり返してみやがれってんだっ!」


「ぐっ! 貴様……ぐぅっ! やめろっ! そこの映像を観ろっ! 向こうで何が起きているか分からんはずがなかろうっ!?」


「はあ? 生憎と俺様は覗き見するほど暇じゃねぇ。俺様はテメェに用があってこんなシケた場所まで来てんだよっ!」



殴るだけでは飽き足らず、BDは右脚を持ち上げて球体に狙いを定め、靴底を使って何度も何度も踏み付けるように連続して足蹴にした。しばらくして気が済んで止めたのかと思えばまたしても両手で殴打を繰り返し、蹴りも喰らわせ続けた。表の世界もそのせいで空間が激しく揺れ続けて呉軍の兵士達は尻餅をついたりするものが続出し、辛うじて立っているのは零治、孫策、黄蓋の三人だけである。向こうがこんな状況になっているにもかかわらず、BDは映像には眼もくれず、狂気の笑みを浮かべながら外史の自我を殴り続ける。



「ぐあっ! 貴様いい加減にしろ! 我に何かあればこの世界もただでは済まんのだぞ! おいっ! 聞いているのか!?」


「いいや、聞いちゃいねぇよ。俺様はテメェをブン殴るので忙しいんで……なっ!」


「があっ!? ……貴様……この世界を破壊するつもりなのかっ!?」


「あぁ、そうさ。テメェの我儘に振り回されるくらいならこんな世界、いっその事ブッ壊した方がマシじゃねぇか」


「なっ!? 貴様、本気で言ってるのか!?」


「おうよ。大マジで言ってんだぜ。俺様はこの世に破壊と混沌をもたらす最強にして最凶の魔導書、血の魔導書ブラッド・ディクテイターだ。これこそが俺様の役目なんだよっ!」



BDは散々殴りつけた光の球体に右手を伸ばして鷲掴みにし、握りしめる力を更に強めた。まるで金属の塊に負荷をかけるかのようにミシミシと軋む音が球体から鳴り、その表面にもピシピシとヒビが入り始めたのだ。このままBDが右手に力を入れ続ければこの球体は間違いなく粉々に砕け散る。殴りつけただけで表の世界に激しい振動を与えたのだ。砕ければどんな結果になるかなんて想像もつかない。これでも充分に追い詰めてはいるだろうが、BDは顔を球体に近づけて最後のダメ押しに入った。



「いいか。テメェはこの世界の創造主、つまり神なんかじゃねぇ。だが俺様達と同じキャスティングされた役者でもねぇ。テメェは正史の人間達と同じ観る側、観客の一人に過ぎねぇんだ。出しゃばった真似するんじゃねぇ……」


「…………」


「どうせ俺様達の結末は決まってんだ。ならテメェはその行く末を黙って見届けりゃいいんだよ。久しぶりに外に出られたんだ。どんな世界だろうが、俺様もこの世界をもっと愉しみたいんだ。これ以上余計な邪魔をするな……」


「……断る」


「あぁ、そうかい。もう少しお利口さんかと思っていたが、テメェは筋金入りのバカだな。ならば最終手段を使うだけだ……」


「なっ!? 貴様まさか本気で……っ!」


「安心しな。壊しゃしねぇよ。言ったろ? 俺様もこの世界をまだまだ愉しみたい。ただ……テメェという我儘なバカを黙らせるだけだ。……縛り上げろ。血ノ獄鎖刃ブラッド・チェーンブレイド



BDは右手をパッと光の球体から離すと同時に宙に掲げて指をパチンと弾いて軽快な音を鳴らした。すると次の瞬間、球体の周囲の次元の壁が裂けて小さな穴が合計八つ開き、その奥からジャラジャラと金属音が聞こえたかと思えば突然人の指ぐらいの太さをした蛇腹剣が飛び出し、その八本の蛇腹剣は全て球体に巻き付いてギリギリとキツく締め付け始めたのだ。



「なっ! これは……っ!?」


「血ノ獄鎖刃……要するに剣で出来た鎖だ」


「……ふん! こんな物で我を封じれると思うな。こんな物、貴様に干渉すればすぐに無力化出来るわ」


「おもしれぇ。やってみろよ。電球野郎……」



外史の自我である光の球体は、BDが創り出した血ノ獄鎖刃を無力化するために干渉しようと意識を集中した。するとだ。それに反応したのか、血ノ獄鎖刃は更にキツく巻き付いてきて刃が球体の表面を擦れて無数の細かい斬り傷をつけていき、無力化するどころか逆に自分自身を傷つける結果になってしまったのだ。球体がダメージを受けた事でその影響が表の世界に現れ、またしても空間を激しく揺らした。



「ぐああっ!? な、何なのだこの鎖は!?」


「ヒャハハハハハっ! おい電球野郎! テメェはホントに救いようの無い大バカ野郎だなぁ。ええ?」


「貴様っ! 我に一体何をしたのだ!」


「しょうがねぇ。教えてやるよ。テメェ、孫悟空が頭に着けてた緊箍児きんこじは知ってるか?」


「何……?」


「物語の内容まで詳しいわけじゃねぇが、『西遊記』の主人公の孫悟空の暴力を諌める時に、三蔵法師が観世音菩薩から教わった呪文を唱えると頭にはめられてた緊箍児って金輪が締め付けられる……だったっけか?」


「まさか貴様……この鎖にはそれと同じ効果があるというのか!」


「少し違うな。緊箍児の効果は三蔵法師が呪文を唱えて初めて発動する。その鎖はテメェが俺様や相棒達に干渉しようとするとそれを感知し、即座に発動する。呪文は必要ねぇのさ。しかも俺様が魔法を解除しない限り、その鎖が外れる事も無い」


「なっ!?」


「しかも普通の鎖じゃなく、鎖状の刃だ。締め付けられれば金輪と違って痛いじゃ済まないぜぇ? 文字通りテメェをズタズタに斬り刻んじまうんだからなぁ。そうなったら表の世界はどうなるんだろうなぁ? ヒヒヒ……」


「おのれ貴様ぁ……っ!」



BDが発動した魔法により完全に王手がかけられた。西遊記の主人公である孫悟空の頭にはめられていた緊箍児を引き合いに出したが、この鎖の効果は緊箍児よりも遥かに悪質である。緊箍児の場合は頭を締め付けられて痛いだけで済むが、BDが用意した血ノ獄鎖刃は鎖状の刃、チェーンブレイドなのだ。こんな物で締め付けられれば刃で全身に斬り傷がつけられて痛いどころでは済まない。最悪の場合はバラバラに斬り刻まれてしまう可能性すらあるだろう。おまけに発動条件が零治達に干渉したその瞬間ときている。この外史の自我は未だに零治達に少しでも行動に成約をかけようと干渉を続けているため、全身に巻き付いている鎖は容赦無くその身を締め上げ、あちこちに無数の斬り傷を与え続けていた。そのせいで表の世界もまだ揺れっぱなしだった。



「さあ、どうする? このまま俺様達に干渉し続ければテメェは間違いなく細斬れになる。そうなりゃ表の世界もマジでタダじゃ済まねぇだろうなぁ。ヒヒヒ……」


「くぅぅ……っ! やむを得ん。良いだろう。見届けてやろうではないか。貴様らの戦いの果てに何があるのかをな……」


「分かりゃいいんだよ。だが念の為、その鎖はそのままにさせてもらうぜ。さて、用件もすんだしそろそろ戻って――。ん?」



ようやく話がついた矢先、空間内に映し出されている映像から呉軍の兵士達から歓声が湧いたので何事かとBDは映像に眼を向けた。するとそこに映し出されていたのは、胸に一本の矢を撃ち込まれ、血反吐を吐きながら地面に片膝をついている零治の姿だ。彼の先には弓を構えた黄蓋の姿がある。彼女は表の世界が揺れて零治の動きが鈍っているのを好機と見て、狙いが定めにくいあの状況下で見事に矢を当ててみせたのだ。



「ありゃ。時間かけすぎたせいで相棒がエライ事になってんじゃねぇか。ヤベェヤベェ。早く戻らねぇと相棒と叢雲になに言われるか分かったもんじゃねぇぜ」


「…………」


「それじゃあな、外史さんよ。俺様は戻らせてもらうぜ。テメェはそこでせいぜい観ていな。俺様達の戦いの行く末をな……」



零治が致命傷を負ったというのにBDはいつもの余裕を絶やさず、外史の自我に背を向けてゆっくりとした足取りでその場を離れていき、やがてその姿は音も無く消えた。別に慌てる要素など無い。自分がこの場に居るからといって魔導書の力全てが失われるわけではない。寧ろ逆にこの状況はBDにとって好都合だった。表の世界に戻って、向こうで行う殺戮劇を演出するのに最適なシチュエーション。赤壁の戦いで関羽に幻術をかけた時以上に相手を恐怖のどん底に叩き落す事が出来る。それを純粋に愉しめる。その事に胸を躍らせながらBDは表の世界へと帰還していった。


………


……



「ぐっ! また……弓矢……かよ……っ!」


「無様じゃな。黒き閃光よ。我らを侮るからそのような結果になるのじゃよ」


「老兵がぁ……っ! つけあがりやがって……っ!」



弓を片手に余裕の笑みを向けている黄蓋に零治は忌々しげに歯ぎしりをしながら左手で胸を押さえ、地面に両膝を付きながら睨みつけるが彼女はそれをどこ吹く風と受け流す。魔導書のおかげで死にはしないが、よりによってまたしても弓矢を受けたのだ。定軍山での嫌な記憶が零治の脳裏に蘇る。だが今はそんな事はどうでもいい。まずはこの状況をどう切り抜けるかが重要だ。その事で思考を巡らせていたタイミングでBDがようやく戻ってきてくれた。



『よう。相棒。待たせたな。こっちは無事に片がついたぜ』


『BD……っ! お前、戻るのが遅いんだよ! おかげでこの有様だ……っ!』


『だから悪かったって思ってるさ。相棒、その詫びってわけじゃねぇが、こっから先は俺様がやる。お前は休んでな』


『ああ? 今日のお前はやけに積極的じゃねぇか』


『な~に。調子に乗りすぎなコイツらを恐怖のどん底に叩き落してやりてぇのさ。そうすりゃ後は向こうから勝手に総崩れさ。ヒヒヒ……』


『まあいいさ。確かに疲れたからな。さっさと代わってくれ』


『はいよ。なら、しばらくの間、身体を借りるぜ』



BDの意識が流入する事で自分の意識が薄れていくのを感じ、次第に視界も暗くなり始めた。このまま行けば零治の首は糸が切れた操り人形のようにカクンと下を向く事だろう。つまり、孫策達から見ると零治が死んだように見える。もちろんそれも計算の内。相手にそう思わせる事こそがBDの狙いであり、これから始める殺戮撃の下準備なのだ。零治の意識が途絶えて目論見通り、彼の首はカクンと下を向き、身体も地面に両膝をついたまま微動だにしなくなった。だが、いま彼の身体にはBDの人格が宿っている。そしていつでも動く事が出来る。後は相手が狙い通りに動いてくれるのをジッと待つだけだ。



「……祭。もしかしてっ!?」


「ああ。……魏の御遣い、黒き閃光こと音無! この黄公覆が討ち取ったぞっ!」


「「「うおおおおおおおっ!!」」」



黄蓋が零治を討ち取った事を宣言した瞬間、呉軍の兵士達は各々が持つ武器を宙に掲げて雄叫びを上げた。この場に零治が引き連れていた、そして魏軍の兵士が誰一人居なかったのは不幸中の幸いと言える。今の今まで脅威であり、赤壁でも辛酸を舐めさせられるような事態を引き起こした張本人である零治を討つ事が出来た。孫呉の再興のための計画もこれで大きく前進する。今の彼らにとってこれほど嬉しい事はないだろう。だが、その様子を嘲笑うかのようにBDは零治の身体を使って死んだふりをしたまま内心ほくそ笑んでいた。



(お~お~。バカみてぇに喜びやがって。こりゃこの後に俺様が動いたらどんな面するのか見ものだな。久しぶりに愉しませてもらおうじゃねぇか。クックック……)


「祭っ! やったわね! これでこの戦も勝ったも同然よ!」


「うむ! じゃが、最後のダメ押しをしておく必要があるだろうな。……そこのお主、その剣を儂に」


「はっ!」



黄蓋は手近の一人の兵士に声をかけ、その者が携行していた一振りの剣を受け取った。これで一体なにをしようというのか。察しの良い孫策も今回ばかりは黄蓋の行動が理解できず、不思議そうに首を傾げながら彼女の姿を見つめた。



「祭。何する気なの?」


「あの男の首をこの場で刎ねて、それを魏軍の連中に見せつけてやるのじゃよ。そうすればこの戦の勝利、確実なものとなるはずじゃ」


「なるほどね。いいわ。祭、貴方がやりなさい。彼を討ち取ったのは貴方なのだから」


「感謝する。策殿」


(おっ? あの老いぼれ。相棒の首を斬り落とそうってのかぁ? ……おもしれぇ。予定変更だ。まずはコイツから血祭りにあげてやるぜ)



当初の予定では、BDは勝利に浮かれている呉軍の人間全員を恐怖のどん底に叩き落すためにこの場で何食わぬ顔をして立ち上がり殺戮劇を繰り広げようと計画していたが、黄蓋が零治の首を今この場で刎ねると言い出した。これは予想外の事だったが大した問題ではなかった。ちょっと趣向を変えてやればいい。それだけの話しなのだ。BDは予定を変更して死んだふりを継続し、黄蓋が剣を片手に一歩一歩こちらへ近づいてくるのをジッと待つ事にした。



「…………」


(いいぞぉ。そのまま近づいてこい。そして、テメェが相棒の首を刎ねようとしたその瞬間、本物の恐怖ってやつを、ここに居る連中全員に思い知らせてやる……)



距離が目と鼻の先まで縮まり、黄蓋は兵士から受け取った剣を両手でしっかりと握りしめ、水平に振って零治の首を刎ね飛ばすために右に大きく振りかぶり狙いを定めた。そして……。



「音無っ! その頸、貰い受けるぞっ!」


(来たっ!)



眼を閉じていたが耳はしっかりと澄ませていた。剣を振った時に起きる空を斬る音をBDは聞き逃しはしない。孫策を含め、呉の兵士達は零治の頸が飛ぶその歴史的瞬間を目撃して眼に焼き付けようと思っていたのに、それを見届ける事はなかった。なぜなら、黄蓋が剣を振ったその瞬間、BDは素早く左腕を動かし、ガントレットの装甲板で覆われた掌で刃を掴み取り、代わりにガキンと鈍い金属音がその場に響くだけで終わったからだ。



「なっ!?」


「……よお。捕まえたぜ。死にぞこないの老いぼれ」


「がっ!?」


「祭っ!?」



突如として死んだと思いこんでいた零治が左腕を動かして自らが振るった剣を掴み取り、何が起きたのか理解できず思考が停止していた黄蓋の様子をよそに、首をゆっくりと上げて右眼を開き、禍々しい深紅と黒のツートンカラーに変色した眼で彼女の顔を見つめ悪意ある笑みを浮かべたBDは素早く右腕を伸ばして黄蓋の首を思いっきり掴み、その場から立ち上がって黄蓋を軽々と持ち上げてみせた。



「ククク。いやぁ、今までよく頑張ったな。ご苦労さん。だがそれももう終わりだ……」


(ど、どうなっとるんじゃっ!? この男、なぜ生きている! いや、今はそれよりもこの腕をどうにかせねば……っ!)



確かに胸に矢を受けた。血も吐いていた。間違いなく致命傷のはず、そう思っていた。なのに零治は生きている。あまりにも非現実的な光景だが今はそれどころではない。この腕を振りほどかなければ自分が死ぬだけなのだ。BDが右手に力を加える事で黄蓋の首は容赦無くギリギリと締め付けられて呼吸も困難になり、意識も朦朧としてきている。だが黄蓋もあらん限りの力を振り絞って両手を伸ばし、零治の右手を首から引き剥がそうとするが焼け石に水だった。



「なぜ俺様が生きてるのか、それが疑問なんだよなぁ? 老いぼれ。だがテメェの疑問に答えてやるほど俺様はお人好しじゃねぇ。なぜなら……」



BDはそこで言葉を区切って空いている左手を自分の目線の高さまで持ち上げると、掌を開いて意識を集中し、そこから血ノ剣ブラッド・ソードを生やし、鮮血を刃から滴らせながら黄蓋の前でチラつかせた。相手に死の恐怖を徹底的に植え付けるために。



「テメェはこの場で死ぬからだ……」


「祭! いま行くわっ!」


「ぐっ! かはぁ……っ!」


「じゃあな。老いぼれ……」


「うおおおおおおっ!」


「ぐおぅっ!?」



BDが血ノ剣を黄蓋の胸に突き立てようと左腕を後ろに大きく引き、まさに突き刺そうとしたその瞬間の出来事だった。勇敢にも呉軍の一人の兵士が裂帛の気合と共に雄叫びを上げながら剣を両手でしっかりと握りしながら零治の左側面に突進し、脇腹に剣を深々と突き立ててみせた。突然の出来事にBDは痛みで一瞬怯み、それと同時に右手を開いて黄蓋を地面に落としてしまう。ようやく自分の首を締め上げていた手から開放されたが無防備なままだったので背中から地面に身を打ち付けて痛みが駆け巡り、黄蓋は身を捩りながら右手で自分の首を押さえ、何度も苦しそうに咳き込んでいた。



「げほっ! げほげほっ!」


「黄蓋様! ご無事ですかっ!?」


「あ、あぁ……。何とかの。すまんな。おかげで助かったぞ」


「間に合ってよかったです。しかし、今度こそこれでこの男も――」


「おい……」


「何っ!?」


「いてぇじゃねぇか。三下の雑魚が。……気が変わった。まずはテメェからブッ殺してやるよ」



BDは表情に影を落としながら禍々しく発光する深紅の瞳で剣を突き刺してきた兵士を睨みつけ、呆気にとられていたその兵士は剣から手を離すという行動が一瞬遅れてその場から離れる暇すら与えられず、BDは左手に生やしている血ノ剣を素早く扇の形を描くように振り下ろし、彼の両手をいとも容易く切断してみせた。一瞬何が起きたのか理解できなかった兵士は自分の両腕を見るとそこから先が無くなってる事に気づき、次に零治の脇腹に自分が刺した剣の柄を見てみれば、しっかりと握りしめてそのまま残っている左右の手があり、切断面からおびただしい量の血が垂れ流しになって零治の足元に深紅の池が作られていたのだ。



「ぎゃあああああっ! 手がぁ! 私の手がぁっ!」



ようやく自分は両手がBDの手によって切断されたのだと理解した兵士は切断面から大量の血を流しながら悲痛の叫び声を上げて地面をのた打ち回り、彼の周りは自分の血でどんどん紅く染め上がっていった。このまま放っておいてもこの男はいずれ死ぬだろう。しかしBDの頭の辞書に慈悲という単語は存在していない。何よりこの男は自分の邪魔をしてきた張本人だし、ここに居る人間全員を恐怖のどん底に叩き落す。それが今のBDの目的なのだ。未だに喚き散らしながら地面を転げ回ってる兵士を睨みつけながらBDはズンズンと足を進めて距離を詰めた。



「ああっ! ギャアギャアうるせぇんだよっ!」


「がはあっ!?」



BDは右脚で思いっきり兵士の腹部に強烈な蹴りを叩き込むと、身に纏っていた鉄製の鎧がまるでガラス細工のように砕け散って、その衝撃と痛みは腹部から内蔵に至るまで全身を駆け巡り、兵士はピクリとも動かなくなった。だがまだ終わらない。この男は気絶しただけだ。BDがやるべき事はただ一つ、相手を確実に、そして恐怖心を周囲の人間にも植え付けるためにこの上なく惨たらしく殺してやる事なのだ。BDは地面の上に仰向けで伸びている兵士を足を使って転がしてうつ伏せにさせて右脚を持ち上げ、無防備に晒されている後頭部に狙いを定めると、その頭を踏み付けるように何度も何度も高速の蹴りを叩き込み始めたのだ。まさにストンピングの嵐である。



「オラオラオラオラオラァ! さっきまでの勢いはどこ行ったぁ! 立ち上がってもう一度挑んでみろよ!」



零治が使用している靴はカジュアルな革靴のデザインをしているが、靴底はコンバットブーツ並みに硬く頑丈な作りをしている。そんな物で人間の頭部を連続して力一杯踏みつけ続ければ皮膚は裂け、頭蓋骨だって砕けるに決まっている。それを表すように兵士の頭からは容赦無く血と肉片が辺りに飛散し、周囲は血で真っ赤っ赤だし、頭部も原型を留めていない。BDが頭を踏み付ける度に兵士の身体は衝撃で激しく跳ね上がるがそれ以外の反応が見られない。つまり、この者は既に息絶えているのだ。



「……ありゃ? もう死んじまったのか? どれ……生きてますか~?」



BDは口の端を吊り上げて兵士の背中を数回激しく踏みつけ、おまけにわざとらしく生きているかと声を掛ける。無論生きてなどいないし、BDも相手が死んでいる事など等に理解している。現に踏みつけても兵士の身体は跳ね上がるだけだ。



「雑魚が! 死ねよっ! バ~カ!」



そしてBDはここぞとばかりに仕上げにかかり、兵士の頭、背中などと全身を激しくストンピングして最後に強烈な一撃の蹴りを叩き込んでまるでサッカーボールでも蹴るかの如く、その兵士の死体を事の成り行きを離れた位置で見ていた黄蓋の目の前まで蹴り飛ばしたのだ。あまりにも常軌を逸した殺し方、それを目の当たりにした呉の兵士達は言葉を失って呆然としており、思考が全く働いてくれない。だが黄蓋や孫策は違う。目の前で仲間がなぶり殺された事もそうだが、相手が死してなおいたぶる行為に怒りを覚えた。



「おのれ貴様ぁ! 死者を愚弄するかっ!」


「はあ? なに寝言抜かしてんだ老いぼれ。いよいよボケが始まったのか?」


「何!?」


「死者を愚弄するだぁ? テメェこそさっき何をしようとした。俺様を仕留めただけでは飽き足らず、首を刎ねようとしたじゃねぇか。まっ、死んじゃいなかったがよ。テメェの行為も死者の愚弄になるんじゃねぇのかよ。ああ……?」


「儂の行いには呉を勝利へと導く意味があるっ! 貴様のように意味も無く相手を痛めつける行為と一緒にするでないっ!」


「綺麗事抜かしてんじゃねぇ。意味があろうが無かろうが同じ事だ。大義名分を盾にして自分を正当化するな。今のテメェに俺様を非難する資格なんか無いんだよ。アホが……」


「くぅぅ……っ!」



BDの言葉の前に、黄蓋は忌々しげに歯ぎしりをするとだけに留まり何も言えなくなってしまった。確かに彼女の言う通り、BDの先程の行為は間違い無く死者への愚弄以外の何物でもない。しかし、黄蓋が零治の首を刎ねようとした行為も孫呉を勝利へと導くという大義名分があろうが同じ事。つまりは死者への愚弄行為になる。怒りを露わにしても、長年の経験からまだ冷静に物事を考える能力は備えてある。だから黄蓋は何も言えないのだ。彼女と同じく話を聞いていた孫策も同じだ。だが、戦の経験こそ積んでいるがまだ精神面で未熟さがある周囲の兵士達は違った。BDの言葉を聞くなり次々と激高しだしたのだ。



「音無ぃ! よくも仲間を殺しやがったなぁ!」


「しかも黄蓋様をも侮辱するとはっ! 許せん!」


「お~お~。弱い犬ほどよく吠えるって言うが、テメェらはその典型だな。いいだろう。死にてぇ奴からかかってきな。どちらにせよ、俺様はテメェら全員をこの場から生かして返す気は毛頭無いんでなぁ。ヒヒヒ……」



BDはニヤニヤと邪な笑みを浮かべながら呉軍の兵士達に向かって右手の人差指でクイクイっとかかってくるように促して挑発する。これも全て策略の内。指揮官クラスならともかく、今の下っ端の兵士なら先程の言動に加えてこれぐらいの挑発でも充分に頭に血が上るだろう。一番の理想は指揮官を排除する事だが、呉の兵力は少ないため余裕が無い。ならば指揮官の手足となる兵達の排除でも相手を追い詰める事は可能だろう。



「策殿!」


「祭。みなまで言わなくていいわ。確かに彼のさっきの言葉には私も返す言葉が見つからない」


「…………」


「だけど……大事な兵を、私達の仲間を目の前であんな風に無残に殺されて黙っていられるほど私は人間が出来ちゃいないのよ。……祭っ! やるわよ! 彼の死を無駄にしないためにも!」


「応っ!」


「ククク。いい感じに殺気立ってんじゃねぇか。殺しがいがあるぜ。……っと、その前にこの邪魔なもんを引っこ抜かねぇとな」



BDは右手で胸に刺さってる黄蓋が撃ち込んだ矢を乱暴に引き抜き、続いて左手に生やしている血ノ剣を一度引っ込めると、脇腹の左側に刺さってる剣を左手で同じく乱暴に引き抜くと、その二つを無造作にポイッとその辺に投げ捨てた。本来ならこんな事をすれば刺し傷からおびただしい量の血が溢れ出るのだろうが、BDが治癒力を高めているおかげで傷口は瞬時にして塞がり、出血する事はなかった。

目の前の非現実的光景に孫策達は言葉を失い、動く事すらままならなかった。普通なら間違いなく死んでいるはずなのに、矢と剣が身体に刺さったまま手足を動かして喋りもする。それどころか自軍の兵士を一人殺した上に自らの手で矢と剣を乱暴に引き抜いてみせた。唖然としている孫策達にBDは悪意ある笑みを浮かべながら両腕を目の前で交差させて左右の掌から血ノ剣を生やし、臨戦態勢に入った。



「さあ、覚悟はいいか? 矮小な人間ども。今からテメェらに、本物の闘争ってもんを教えてやるぜ……」


「怯むなぁ! 孫呉の勇者達よっ! まずは奴の周囲を取り囲み、逃げ場を無くすのだ!」



孫策の号令で呉の兵士達は素早く展開し、BDを包囲するように円陣を組んで周囲を固めた。如何に相手が強くても、周りを取り囲んで逃げ場を無くし、数で圧倒して一斉に攻撃すれば勝機はある。それが孫策の考えだった。確かにその考えは間違いではない。相手がどれだけ強かろうが、一人ならば限界は必ずある。数で圧倒すれば勝機もある。少なくともこの理屈は通常の零治、つまり血の魔導書を手に入れる前の彼だったら僅かながら可能性はあったかもしれない。だが、今の零治はこの世の理に反する存在。その上主人格が零治本人ではなく今はBDに入れ替わってるのだ。こんな事をしても倒せる可能性などあるはずがない。



「クックック。孫策さんよぉ。テメェもそこの死にぞこないの老いぼれ同様のバカらしいな。こんなチンケな作戦で俺様を倒せると思ってんのか……?」


「なっ!? こいつ……黄蓋様だけでなく我らの王まで愚弄するとはっ! 孫策様! 私はもう我慢なりませんっ!」


「総員! 突撃せよっ!」


「「「うおおおおおおおっ!!」」」



もはや語る事など無い。孫策も兵達の怒りを汲み取り、宙に掲げていた南海覇王を振り下ろして突撃を命じた。兵達は雄叫びを上げながら各々が持つ武器を手にして一斉に走り出し、BDに向かって突撃を開始した。だが孫策は気づいていなかった。兵達に周囲を固めるために円陣を組ませたその瞬間から、BDの術中にハマってしまった事に。先程の挑発の言動も、BDの本音であると同時に策略の側面もあったのだ。それを表すように、相変わらず彼は不敵な笑みを絶やさず眼前に迫りくる呉の兵士達を睨みつけたまま左腕はダラリと下げて、狙いを定めながら右手に生やしている血ノ剣を大きく振りかぶった。



「ククク。どこまで行ってもテメェらは単純で救いようのないバカどもだな。ならば……死ねえぇぇぇぇっ!!」



BDは右腕を振り抜く瞬間のタイミングに合わせて右手の血ノ剣を蛇腹剣に変形させ、更にそのリーチの長さを黒狼が使用している魔王剣ディスキャリバー三本分の長さにまで伸ばし、目の前の兵達を薙ぎ払いながら自身も身体を回転させて鞭のようにしなる刃で円の軌道を描いた。BDが放った凶刃は呉の兵達の首を次々と刎ね飛ばし、断末魔さえ上げる事が叶わなかった物言わぬ屍達の足元には自分の頭が転がり落ち、切断面から血が噴水のように吹き出し、まるでドミノ倒しのように順番に地面の上に崩れ落ち、一瞬にしておよそ二十人前後の兵士が倒されてしまったのだ。



「なっ!?」


「ヒャハハハハハっ! これで終わりだと思うなよ! もういっちょくれてやるぜぇ!」



正面に向き直るタイミングでBDは右手の血ノ剣を元の形態である通常の剣に戻すと同時に今度は左腕を振りかぶり、先程と同じように掌に生やしてある血ノ剣を振り抜くタイミングに合わせて蛇腹剣に変形させ、円の軌道を刃で描きながらもう一度呉の兵士達の首を次々と刎ね飛ばしてまたしても二十人前後の敵を殺害してみせたのだ。

たった二撃。たったの二撃で四十数名もの優秀な兵士達をあっという間に殺されてしまい、孫策と黄蓋は言葉を失う。それどころかいきなり出鼻を挫かれたことにより兵達にも動揺が走り、突撃の足を止めて逆に後ろに数歩後退りし始めたのだ。



「おいおい。なに逃げてんだよ? まだ闘いという授業は始まったばかりだ。もっと俺様を愉しませてくれよなぁ……」


「くぅぅ……っ! 何という男じゃ! これが奴の本気だというのか……っ!」


「はあ? おい、老いぼれ。言っとくが俺様はまだ本気を出しちゃいねぇぞ……」


「何じゃとっ!?」


「今は手加減してやってるんだ。ありがたく思えよ? 俺様が本気を出しちまったら、テメェらなんざすぐにあの世逝きだ。そんな事しちまったら折角の闘いが愉しめねぇからなぁ……」




BDの言葉を前にし、孫策や黄蓋はもちろんの事、呉の兵士達の動揺はますます強くなった。今ので手加減をしている。ならば、彼が本気を出したらどうなってしまうのか。想像しただけでも背筋が凍りつきそうな事態である。おまけに相手は胸に矢を受けても腹に剣を刺されても死なない身体、不死身と来ている。ただでさえ劣勢の立場だというのにこんな人物を相手にどうやって戦況を覆せばいいのかと孫策と黄蓋が思考を巡らせていた時、一人の兵士がこちらに駆け寄ってきた。



「孫策様っ! 黄蓋様っ!」


「貴方は冥琳の……何かあったの?」


「周瑜様より伝令です! 本隊を再編するため後退せよとの事ですっ!」


「冥琳め。こんな時に難しい注文をしよって……っ!」


「とはいえ、ここは冥琳の案に賭けるしかないわね。……祭、私が時間を稼ぐわ。その間に貴方は後退して冥琳と合流をしてちょうだい」


「策殿っ!? 馬鹿を言うでない! あの男は不死身かもしれんのだぞ!」


「分かってるわ。けれど、誰かが足止めをしないと間違いなく奴は追ってくるわ。そうなれば待ってるのは全滅だけよ」


「策殿……」


「そんな顔をしないで。大丈夫。私も必ず生き残ってみせる。だから貴方も私を信じて、桃香の兵だけは何としても撤退させてあげて」


「……承知した。総員、後退せよっ!」



黄蓋は断腸の思いで孫策にこの場を託し、自分は己の部隊の兵、及び劉備から貸してもらった兵を率いて周瑜と合流するために後退し始めた。残されたのは孫策と彼女の部隊の兵士達だけ。BDも後退していく黄蓋には手出しをせず、黙ってその後姿を見送った。別に彼にとってこれは些細な事なのだ。今殺すか後で殺すか、それだけの違いでしかない。ならばまずは目の前の標的に専念する。闘いを愉しむために。



「いやぁ、泣かせるねぇ。こういうのを美しい友情って言うんだっけ? ……ん? 王と家臣じゃその表現は間違ってるか? まあどうでもいいんだけどよ」


「…………」


「クックック。テメェをこの場でブチ殺したら、あの黄蓋って死にぞこないはどんな面するんだろうなぁ。ヒヒヒ……」


「貴方……もしかしたら私と同じなのかもね」


「ああ?」



孫策は意味深なセリフを投げかけるが、BDは何を言ってるんだと言わんばかりに首を傾げた。孫策はBDの姿……いや、正確に言えば今の零治の豹変ぶりに思う所がある。彼女にはそう見えるのだ。傍から見れば、今の零治は完全に人が変わってるようにしか見えないだろう。だがこれは零治本人の意思ではない。血の魔導書、BDという人格が彼の身体を借りて闘っている。それだけなのだ。しかしBDはそんな事を説明しても理解できるはずがないと考えてるし、面倒とも思ってる。だから退屈凌ぎも兼ねて孫策の言葉の続きに耳を傾けた。



「私も周りから戦狂いって言われるほどの戦闘狂でね。戦いに身を投じてると、気持ちが昂ぶって人が変わっちゃうのよ。貴方ほど極端じゃないと思うけどね」


『おい、相棒。お前コイツと同列視されてるぜ』


『元はと言えばお前のせいだろ。ったく。まさかあそこまでやるとはな。まるで昔の自分を見ているみたいだったぜ……』


『まあそう気を悪くすんなよ。ほれ。今はそれよりも孫策だ。もしかしたら、奴が戦狂いと称される根幹……本性が見れるかもしれないぜ?』


「私さ……いま凄くドキドキしてるのよ。こんなに胸が高鳴ったのは生まれて初めてかもしれない。だからさ……」



孫策はそこで言葉を区切ると、右手に持つ南海覇王をゆっくりと持ち上げて切っ先をBDに突き付け、その刃が陽光を煌めかせる。今の孫策の表情に怒りの感情は見られない。それどころか逆に笑っているのだ。ただし、その瞳の奥には彼女が持つ闘志の炎が燃えがっており、それと同時に戦狂いと称されるが故の狂気も感じられた。それを証明するように、孫策から放たれる殺気が一気に膨れ上がり、それは常人では耐える事の出来ないものである。



「私と……最高の殺し合いをしましょう! 私に今まで経験した事が無いくらいの死闘を演じさせてみせなさいっ! 黒き閃光っ!」


「ほぉ~。こりゃ驚いたぜ。まさかただの人間がここまでの殺気を放つとはなぁ。いやはや。まだまだ世の中捨てたもんじゃねぇし、この世界……俺様が想像していた以上に悪くない舞台だ……」



いま目の前に立つ孫策は先程と打って変わって完全な別人。戦狂いが故の戦闘狂としてのスイッチが入った状態である。狂気を孕んだ鋭い眼光。常人では耐え難いほどの殺気。BDは過去に出会った多くの使い手を通して様々な人間を見てきたが、どれも取るに足らない存在だった。それどころか自分の使い手自身も魔導書を使いこなせるほどの力量を持たず自滅した者も居た。つまりBDにとって取るに足らない存在。だが、今の孫策の姿を目の当たりにし、久しく忘れていた闘いでのみ得られる刺激と快感。それを思い出させてくれた。彼女との闘いは愉しいものとなる。そう感じ取ったBDは左手に生やしている血ノ剣を蛇腹剣から通常の形態に戻し、狂気の笑みを浮かべて切っ先を孫策に突き付けた。



「ヒャハハハハっ! 良いだろうっ! 孫策! テメェの望みぃ……叶えてやろうじゃねぇか! 生きている事を後悔したくなるくらいの地獄を今から見せてやるよっ!」


「……みんな、ごめんなさいね。私の我儘でこんな闘いに付き合わせてしまって」



闘いを始める前に、孫策は率いている兵達に詫びの言葉を述べる。自分はここで死ぬつもりはないし、一人でも多くの兵達を生き残らせたいとも思っている。だが今回は相手が相手だ。しかも普通なら死んでいるはずの傷を受けても生きているのだ。そんな人物を前にしては流石の孫策も彼らを死なせずに逃しきれる自信などありはしないし、生存確率だって無いと言っても過言ではない。しかし、そんな事は彼らも百も承知である。何より命が惜しいのなら初めからこの場に居ないか逃げ出すかの選択をしている。なのにそのどちらも選んでいない理由を、そしてここに留まっている兵達の想いを一人の兵士が孫策に伝えた。



「勿体なきお言葉です、孫策様。我らの役目は孫策様の御身をお護りする事。ですから、どこまでもお供いたしますぞっ! 我らは死など恐れませんっ!」


「ありがとう。……彼の相手は私がするわ。だから貴方達は手出しをしないで」


「心得ました。ですが、万が一の時は我らが盾となります。その間に孫策様は……」


「分かってるわ……」


「おい。別れの挨拶は済んだのかぁ? いい加減始めようぜ。最高の殺し合いをなぁ……」


「ええ。待たせたわね。……最初から本気で行かせてもらうわよっ! 黒き閃光、音無っ!」


「ったりめぇだぁ! 人間の底力ってやつを、俺様に見せてみなっ! 孫策ぅぅぅぅっ!」



この世界では規格外の戦闘力を誇る戦狂い、江東の小覇王の孫策。片やその相手を務めるのは零治の身体を借りた、最強にして最凶。この世に破壊と混沌をもたらす血の魔導書の人格。双方は裂帛の気合、そしてその顔には狂気の笑みを浮かべながら一直線に相手に向かって突撃し、地獄の一戦がここに開幕した。


………


……



「でえええええいっ!」


「くっ! そんな大振りな攻撃……当たらなければどうという事は無いのです!」



激戦が繰り広げられてるのは何も零治が、いや、正確に言えば今はBDが担当しているド真ん中だけに限った話ではない。彼が担当している中央の右側を護るために部隊を展開している秋蘭、季衣、沙和の即席の組み合わせの混戦隊も周泰と甘寧が率いている部隊を前にして激しい戦闘を繰り広げている。おまけに季衣が相手にしているのは素早さに秀でた周泰である。彼女の持ち前の力技の攻撃も周泰が相手ではなかなか当てる事は難しい。しかしそれは、季衣が単独で戦闘をしていた場合の話。彼女の攻撃を躱し、反撃に転じようとしたその時、沙和が周泰の回避した方角から愛刀の双剣、二天による二振りの連続攻撃を浴びせにかかった。



「そうでも……ないのっ!」


「……なっ! そちらから!? くっ!」


「ありがと、沙和ちゃん!」


「任せてなの!」



荒削りな攻撃とはいえ、意表を突かれては流石の周泰も咄嗟の対応といえばその攻撃を防ぐくらいである。折角の反撃の機会を奪われ、周泰は後ろに押し返されてしまい季衣は難を逃れる事が出来た。即席による組み合わせの部隊とはいえ、巧く連携を取る事は出来ている。周囲の敵を持ち前の弓の射撃で掃討しつつ、二人の様子もちゃんと観察している秋蘭は内心安堵した。これならばいつも通り戦っても問題なく事が進めるだろうからだ。



「……即席の連携も、何とかなっているようだな。ならば……っ!」


「余所見をする余裕などあるのか、夏侯淵!」


「あるはずもないが、それでも見ねばならん時もあるのさ……」


「戯れ言を……っ!」


「……なっ!?」



秋蘭が相手をしているのはあの甘寧である。周泰同様に彼女も素早さに特化した猛者。いくら秋蘭ほどの実力者でも甘寧ほどの人物を相手にしながら周囲の様子を見ながら戦う余裕など本来なら無い。しかし先程彼女が述べていたように、それでも見なければならない時はある。ましてや自分の部隊に充てられてる副官が即席の組み合わせなら尚更だ。正直そこまで余裕のある状況ではないが、秋蘭は心の余裕を保ちつつ甘寧を迎え撃とうと弓に矢を番えて素早く射撃体勢に入ったその時である。突然腹の底に響く轟音が辺りに轟き、彼女の足元の地面が大きく抉れたのだ。



「遅まきながら、撤退の支線に参った! 甘寧殿、周泰殿、健在か!」



轟音を引き起こしたのは厳顔。彼女は弓の扱いにも長けているが戦場でいつも扱ってる武器は、この世界ではかなり特殊な部類。カテゴリーとしては真桜が使っている螺旋槍に近いかもしれないだろう。

厳顔が使用している得物の名は豪天砲と呼ばれており、見た目的には大型の曲刀が組み付けられたグレネードランチャーのような形である。だが撃ち出すのは榴弾ではなく、回転シリンダーに装填してある空砲の力を利用して大型の杭を発射するので、どちらかと言えばネイルガンを大型化した物と言える。現に秋蘭の足元には先程の轟音の正体である杭が一本地面に深々と突き刺さっているのだから。



「夏侯淵よ! この勝負、儂が預からせてもらう!」


「何を抜かすか!」


「ならばこの豪天砲とやり合ってみるか? 弓を一撃放つ間に、お主の身体……貫くぞ?」


「……面白い。季衣!」


「はいっ!」



確かに厳顔が扱う豪天砲は一対一での勝負なら厄介極まりない存在だろう。しかしここまで言われて、その上あと一歩という所まで追い詰めている周泰と甘寧をみすみす逃して引き下がっては武人としての名折れ。

それに厳顔の豪天砲にも弱点が無いわけではない。まず一番の弱点は弾切れだろう。しかもあそこまで大型の飛び道具となれば弾薬その物も必然的に大きくなる。となれば弾もそう何発も携行は出来ないはずだ。ましてや回転シリンダー式ならば当然リロードにも時間がかかる。現代のリボルバータイプのハンドガン用のスピードローダーのような物があれば話は別だが、この世界ではそういった物が存在しているとは考えにくい。それに一騎打ちをしているわけでもない。ならば複数でかかり、こちらに狙いを定める余裕を与えず、一気にカタをつければ済む話だ。秋蘭の意図を即座に読み取った季衣は厳顔に狙いを切り替え、秋蘭と連携を取りながら仕留めに掛かった。だが……。



「そうは……させませんっ!」


「あっ!?」


「へやーーーーーっ!」


「きゃあっ!」


「季衣ちゃん!」



体勢を立て直した周泰が間に割って入り、裂帛の気合を放ちながら愛刀の魂切で一太刀を浴びせ、季衣の岩打武反魔の巨大な鉄球を弾き返し、その衝撃で季衣本人も後ろに押し返されてしまったのだ。思わぬ来客に加えこちらは即席の組み合わせの部隊。連携こそ巧く取れてはいるが、この一戦はまだまだ終わらないと秋蘭は痛感しながら気合を入れ直し、季衣と沙和の援護に向かった。


………


……




「しゃああああっ!」


「くぅぅ……っ! なんて滅茶苦茶な攻撃をっ! ……仕方ないわね。はっ!」



場所は戻ってこちらは中央全曲の最前線。BDと孫策の二人は互いに一歩も引かない勢いで闘い続け、BDは両手に生やしている血ノ剣をやたら滅多に振り回して孫策に無数の斬撃を浴びせるも、彼女も南海覇王を振るってその凶刃を何とか捌いてはいるものの、BDの猛攻の前で反撃に転じる事が出来ず防戦を強いられ続けてしまい、このままではバテてしまうのは考えるまでもない。孫策は一度体勢を立て直すために大きくバックステップをして間合いを広げ、安全圏まで退避した。



「ヒャハハハハっ! やるじゃねぇか孫策ぅ! 躱してるだけとはいえよく頑張ってるじゃねぇか!」


「お褒めに預かり光栄ね。貴方こそとんでもない人ね。剣を手から生やすなんて……正真正銘の化物じゃないの」


「言ってくれるじゃねぇか。まあいい。その余裕……いつまで保つかなぁ!」


「っ!」



安全圏まで退避したというのに、BDは地面を蹴って低空跳躍をして孫策との距離を瞬時に詰めて振り上げていた右手を縦に一気に振り下ろし、血ノ剣で一太刀を浴びせに掛かった。しかし孫策も負けじと南海覇王の刃を寝かせ、その一撃を辛うじて凌ぎはしたが全身に駆け巡る衝撃が彼女の次の行動を一瞬鈍らせてしまい、またしてもBDの猛攻を許してしまったのだ。



「そらそらそらそらぁ!」


「くっ!」



やたら滅多に両手に生やしている血ノ剣を振り回し、BDは孫策に無数の斬撃を浴びせにかかる。先程と戦法は同じなので剣の刃を寝かせて凌げば済む話なのだ。孫策は南海覇王の刃を寝かせて自分の前にかざし、両手で支えながらBDの猛攻を何とか受け止めてみせる。しかし、このままではジリ貧である。BDの攻撃は軌道が直線的なので受け止めること自体は難しくない。だが問題はその手数の多さ、加えていつまで経っても衰える事がない速度だ。いくら鍛えていても普通の人間ならここまで乱暴に剣を振り回し続ければ多少なりとも疲労が蓄積し、太刀筋も鈍ってくるはず。なのにいま相手にしている人物は疲労を全く見せない。それどころか逆に速度は次第にますます速くなり、手数も減るどころか増える一方だ。おかげで反撃の機会を得る事も出来ず、その上こちらの体力だけが一方的に減らされていく有様ときている。自分から望んだ闘いとはいえ、これほどの無理難題に直面したのは初めてだと孫策は思い知らされた。



(くぅぅっ! ほんと何なのよこの男の体力はっ!? 彼の姉もそうだったけど、底無しじゃないの!)


「おいおい。孫策さんよぉ。防戦一方じゃつまらねぇぞ。もっと俺様を愉しませてくれよなぁ。ヒャハハハハっ!」


「……くっ! もう見てられんっ!」


「よせっ!」



後ろでBDと孫策の一騎打ちを見ている彼女の部隊の若い兵の一人が我慢できず、弓に矢を番えて孫策の援護をしようとしたが、隣に立つ少し年上の三十代半ばの兵が手を添えて弓を下ろさせて首を横に振ってその者の行為を止めた。



「おい、止めるなよっ! このままじゃ孫策様が……っ!」


「お前の気持ちは分かる。だがこれは孫策様が望んだ闘いだ。それに、まだあの方の負けが決まったわけではない」


「…………」


「我らは最悪の事態を回避するための最後の砦だ。今は堪えろ」


「……分かった」



最悪の事態。それが何なのかは言われるまでもない。万が一、孫策の命が危険に晒されそうになった場合、全身全霊を持って盾として行動する。例えBDを倒す事は不可能でも、孫策が逃げるための時間稼ぎぐらいは出来る。いや、今の彼らに出来る事はそれぐらいしか無いのだ。願わくばそんな事態にだけはならないでほしい、それが孫策に付き従ってきた彼らの想いなのだが、現実はどこまでも非情なものである。猛攻を浴びせながらも孫策がどう切り替えしてくるのかを僅かながらに期待していたBDだが、次第に彼女との勝負にも飽きてきて終わらせるために最後の詰めに出たのだ。



「はぁ……。やっぱテメェもただの人間だったって事か。少しでも期待していた俺様がバカだったぜ」


「言ってくれるじゃない。まだ勝負は終わってないわよっ!」


「いいや。もう終わりにしてやる。……オラァ!」



BDは両手の血ノ剣を、防御に徹している孫策が持つ南海覇王の真下に潜り込ませ、そのまま両腕を一気に上空に振り上げて彼女の剣を跳ね上げた。その衝撃は今まで蓄積していた疲労のせいもあって全て受け流す事が出来ず、防御を瞬時に崩されてしまい、孫策はBDの目の前で無防備な姿を晒してしまった。



「くぅぅ……! し、しまった……!」


「終わりだっ! 死ねや! 孫策っ!」


「たあああああっ!」


「ぬおっ!?」



無防備な姿を晒していた孫策の胸部に狙いを定め、その心臓を一突きにしてやろうと高速の突きを右手で放ったBDの一撃は間一髪の所で横から割り込んできた魏延が振り下ろした棍棒、鈍砕骨によって軌道を逸らされてしまい、右腕ごと地面に叩き落とされ、その切っ先は彼の足元の地面に深々と突き刺さった。



「姉様っ!」


「蓮華っ!?」


「……テメェ、邪魔しやがったな」


「形勢逆転ね! 姉様、この場は撤退を!」


「手助けは不要よ! 貴方は下がって、冥琳の指示に従いなさい!」


「姉様!」


「孫権殿! 無理矢理にでも連れて行けっ! その間の時間稼ぎぐらいはこの私が引き受けようっ!」


「……クソガキがぁ。そんなに死にてぇのか……?」


「っ!?」



右手に生やしている血ノ剣の切っ先を地面に突き刺したまま意気込んでいる魏延にギロリと鋭い睨みを利かせると、その視線を受けるや否や魏延の背筋に悪寒が走り、彼女は素早くバックステップをして間合いを開いたがもう後の祭りだ。BDが獲物をあと一歩の所まで追い詰めて仕留めようとしていた所を邪魔されたのはこれで二度目だ。BDは久しぶりの外の世界の戦場の空気をその身で感じ、闘争を純粋に愉しんでいた。そこに余計な横槍を入れられて邪魔されたのだ。彼の怒りは頂点に達した。



「もう面倒くせぇのは無しだっ! テメェら全員、この場で纏めてブッ殺してやるぜぇ!」



地面に突き刺さっていた血ノ剣を引き抜き、天を仰ぎながら吠えるBDの怒りに呼応し、彼が生み出す魔力は瞬時に増大して全身が禍々しくまるで血のような色をした深紅のオーラで覆い尽くされた。その姿に魏延、孫策、孫権の三人だけでなく、周囲の呉軍兵士達も恐怖して足がすくんでしまうがこれは本当の意味で恐怖しているとは言い難いだろう。BDが纏っているオーラ。これは魔法に通じる人間にしかまだ視認できないレベルだ。もしかしたら凪のように氣の扱いに長けた人物なら視えるかもしれないが、実際の所は定かではない。とにかく、このオーラも視認できれば彼女達は本当の意味でBDが放つ殺気の驚異と恐怖、それを感じられるというもの。その時になって初めて相手を恐怖のどん底に叩き落とせるが今のBDはそんな事などこれっぽっちも考えていはいない。あるのはただ一つ、眼前に存在する敵と呼べる者、その全てを抹殺する事だ。



「まずは俺様の邪魔をしてくれたクソガキぃ……テメェからだぁ!」


「来るかっ!」


「オラァァァァァっ!」


「なっ! ぐあっ!?」



BDは左手に生やしている血ノ剣を引っ込めると掌を思いっきり握りしめ、樺憐の鉄拳の速度に勝るとも劣らない速さで拳を放ってきたので、魏延は咄嗟に鈍砕骨を正面にかざして盾代わりにしてその一撃を受け止めようとしたが、BDの拳が直撃するとガツンと凄まじい金属音がなると同時に火花を散らし、彼女はその衝撃で一気に後方へと押し返されてしまった。先程の防御が少しでも遅れていたらBDの拳が直撃し、致命傷、或いは即死していたかもしれないだろう。



「鎧を纏ってるとはいえ、この私を拳一つで押し返しただとっ!?」


「なに防いでやがんだこのクソガキがぁ! テメェは俺様の邪魔をしやがったんだぞ。死んで償えやオラァ!」


「くっ! この男、狂ってるのか!?」


「音無ーっ! 助太刀に来てやった! 感謝しろよっ!」


「隊長ーっ! 皆、はよ来い! 隊長を助けんで!」


「増援が来たぞ! このままではまずい!」



怒り狂ってるBD一人でも厄介な状況だというのに、追い打ちをかけるかの如くここに来て春蘭と真桜の部隊が後続としてこの場に現れた。孫策、孫権、魏延の部隊の被害はまだ出ていないが数の差は歴然だ。おまけに孫策本人もBDとの戦闘で消耗が激しい。この状況下で正面切って戦うのは自殺行為でしかない。ならばやるべき事は。



「姉様、他の皆は撤退を完了しています! 姉様もお早く!」


「…………ちっ」


「姉様!」


「……分かったわ。音無、この決着はいずれつけるわよ!」


「これで目的は果たした! 孫権殿、我らも後退するぞ!」


「分かった!」



孫権の説得がようやく孫策に届き、撤退の決心をしてくれた。折角の勝負がこんなうやむやな形で終わらされてしまったのは彼女としては不本意だが、ここで死ぬつもりがないのも本音である。それに戦いはまだ終わりではない。周瑜の最後の切り札に望みを懸け、率いている兵達と共に後退していき、孫権、魏延もその後に続いた。



「…………」


「隊長。無事でよかったわぁ……」


「孫策達は逃げたか。真桜、我らはこのまま追撃に移るぞ! 音無! 貴様も来いっ!」


「…………」


「ん? おい。音無、どうしたのだ?」


「隊長。やっぱどっか怪我でもしたん?」


「……ざけんじゃねぇぞ」


「はっ?」


「ざけんじゃねぇぞ! 邪魔をされた挙げ句、目の前の獲物に逃げられただと! 『決着はいずれつける』だぁ? 今の俺様はそこまで気が長くねぇんだよ!」


「なっ! おいっ! どうしたというのだ!?」


「隊長! 落ち着いてや! それに戦いはまだ終わったわけやないんやで!」



戦場でも冷静な零治がいきなり激高した事で、初めて目の当たりにするその姿に春蘭と真桜は落ち着くように言い聞かせるが二人の言葉が届くはずもない。何より今の彼の身体を動かしているのは持ち主である零治ではなくBDなのだ。しかも事情を理解していないため、春蘭と真桜は落ち着けと言い聞かせる以外に方法が思いつかない。二人の言葉を無視しつづけるBDは持っている力を更に開放し、孫策達を徹底的に叩き潰してやるための行動を開始した。



「アイツら……ぜってぇブッ殺すっ! ……拘束術式、一から三〇〇までを開放!」



今まではBDに掛けられている拘束術式は一〇〇までしか開放した事がなかった。だが、激情にかられている今の彼は更に二〇〇も多く開放し、自身の力を更に強化したのだ。術式を開放した瞬間、零治の身体に異変が起こった。小さな呻き声を漏らすと同時に前のめりになって左手で顔を覆いながら何かに耐えるように身体を震わせる。するとどうだろうか。彼が着ているコートの背中の部分がモコモコと膨らみ、まるでそこに複数の小動物が隠れて這い回ってるかのように蠢いているのだ。



「うぐっ! グギギ……っ!」


「お、おい音無っ! どうしたのだ! 背中で何かが動いているぞ!」


「た、隊長っ! こんな時に質の悪い冗談なんかええきっ! 背中になんかおるんやったらはよ取り出しやって!」


「グッグッ……グアアアアアアっ!」



天を仰ぎ、悲痛な咆哮を上げると同時にコートの背中の部分がビリビリと一気に破れて鮮血を飛び散らし、中で蠢いていたモノがその姿を見せた。それは何とコウモリを彷彿とさせる翼である。左右に三枚ずつ、計六枚の禍々しい翼が生えてきたのだ。翼膜はまるで血のように紅く、ご丁寧に大きな翼爪まで生えており、ボタボタと血を滴らせながらBDは一度その六枚の翼を大きく羽ばたかせて付着している血を振い落した。余りにも非現実的な光景を目にした春蘭と真桜は顔を青ざめさせながら周囲の兵達と一緒に数歩後ろに後ずさり、言葉を失っていた。



「ククク……。これですぐに追いつける。さあ! 狩りの始まりだぜっ!」



BDは両脚を曲げて力を溜めると、ジャンプするタイミングに合わせて六枚の翼を一度大きく羽ばたかせて遙か上空へと跳躍した。そしてそこから目指すは孫策達が逃げた方角だ。彼は現在の高度を維持しながら空を高速で移動し、高度が下がってきたら翼を羽ばたかせて高度を維持する。これを繰り返しながら孫策達の追撃を開始。その姿はまさしく人ならざる者。悪魔と言っても過言ではない姿である。その場に居合わせていた春蘭と真桜は零治が見せた異変を黙って見つめ、その後姿を呆然としながら見送る事しか出来なかった。



「音無……一体どうしてしまったというのだ」


「……さっきの、ホンマに隊長やったんやろうか。何かウチ、別人に見えたような気がするんやけど……」


「分からん。とにかく我らも孫策達の追撃に向かうぞ。今の音無を一人で向かわせては、何をしでかすか分からんからな」


「了解ですわっ!」


「それと音無の件と蜀の連中が現れた事、華琳様にも報告だ。誰か伝令に向かえっ!」


「はっ!」


………


……



「華琳様。孫策達が撤退していきますが……どうしましょうか?」


「そう。ならば、追撃部隊を編成して孫策達を追い詰めましょう。……尤も、零治あたりはもう動いているのでしょう?」


「御意。霞も勢いに乗り、そのまま追撃に移っています。こちらの防御は、秋蘭達が間に入ってくれていますから、特に問題は無いと思いますが……」


「華琳様。先程春蘭様の隊からの伝令で、蜀の軍勢が援軍に来たとの事です。こちらからも再度斥候を放ち、周囲を警戒させた方が宜しいかと」


「そう。ならば、隊の編成は稟と風に任せるわ」


「はーい」


「御意。……華琳様、実はもう一つ報告しておく事がございます」


「何」


「零治殿の事です」


「……まさかっ!?」



今回の戦いで零治本人が自分から志願したとはいえ、彼は最前線で孫策の部隊を受け持つという危険な役目を担っている。しかも相手が相手だ。もちろん華琳は零治の事を信じて送り出し、彼を護るために万全の配置はしていたつもりだ。だがこの世に絶対などという言葉は存在しない。戦場ではどんな不測な事態が起こるか分からないのだ。王たる者、戦場では取り乱してはならないのだが流石の彼女も内心不安にかられてしまう。しかし稟が報告する事は華琳が思っている内容とは違う。それを理解してもらうべく、首を横に振った。



「ご安心を。零治殿は無事です。ただ、どう言えば良いのやら……」


「どうしたというの?」


「はっ。報告によると、零治殿は蜀の部隊に横槍を入れられ孫策達を取り逃がしてしまったようなのですが……その直後、まるで別人のように怒り狂っていたそうなのです」


「……それで?」


「そのまま彼は孫策達の追撃に向かったそうです。しかし、その方法が余りにも信じられないような内容で」


「何をしたというの」


「その……零治殿の背中から翼が生えて、そのまま空を飛んで追撃に向かったと……」


「何ですって……?」



零治がこの世界で余りにも非常識な人物である事はこれまでの様々な出来事や戦いを通して理解していたつもりだった。人間という範疇を逸脱した身体能力と戦闘力。どれを取っても並外れている。しかし、いま稟から聞かされた内容はそれだけで説明できるような事じゃない。人間の背中に翼が生えるなどあり得ない。こればかりは言葉だけで信じられるような内容ではなかった。確かに零治の異変については気がかりだが本人がこの場に居ないのでは確かめようがない。ならば今は目の前の事に専念するしかない。



「零治の事は気になるけど、こればかりは言葉だけで信じる事は出来ないわね」


「はい」


「とにかく、今は孫策達の追撃が最優先よ。それと蜀の連中の動きの警戒も忘れないように」


「御意」


………


……



「霞さん! 先に見えるのは……孫尚香と呂蒙の隊みたいです!」


「やっと捉えたで! 全軍、突撃用意!」


「霞様! 華琳様の本隊と離れすぎています! ここは一旦引き返して……!」


「どあほう! 追撃部隊なんやから、ここできっちりカタ着けるのが仕事やろうが! 小物なんは気に入らんけど、それでも孫家の末姫や!」



凪が引き返すように進言するも、霞はそれを一喝して却下した。確かに本隊と離れすぎているのは危険だろう。万が一待ち伏せしている敵部隊と遭遇して数の差が開けば袋叩きにされてしまう。かと言ってここで引き返せば相手に逃げる時間の余裕を与えてしまうだけだ。それでは追撃した意味が無い。戦場に安全な道など存在していないのだ。ましてや蜀との最終決戦が控えている以上、多少の危険は覚悟の上でも相手に打撃を与える。それが霞の武人としての在り方。もう少しで孫尚香と呂蒙の部隊に追いつけそうという所で、思わぬ邪魔が入った。



「ならば、私が相手をさせてもらおう!」


「な……っ!?」


「何と……」


「小物で悪いが、これでも蜀の将の一人。孫家の姫君ほどではないにせよ……倒せばそれなりの手柄にはなるであろう?」


「関羽かっ!?」


「鈴々も居るのだ―っ!」


「嘘……っ! だって、敵の後方に別働隊は居ないって……!」


「それは戦の前の話だろう? 私達が手をこまねいているはずもないさ」



関羽と張飛ともう一人、公孫賛が一緒に居るというのに霞、凪、流琉の三人は彼女の顔を見ても全く見覚えがないと言わんばかりに首を傾げていた。ここまで生き残っている諸侯の一人なら一度や二度くらいは顔を見ているはずと思い、三人は記憶を掘り起こしてみるがやはり名前が出てこない。散々考えても名前が出てこないのなら相手に訊くしかないだろう。しかしこれは公孫賛にとって精神的なダメージを与える行為になってしまうのだが。



「…………誰や?」


「ええーっ!?」


「いや……関羽と張飛は知っとるけど、あんたなんぞ知らへんもん。誰や」


「……洛陽で馬術を競っただろう、張遼」


「そんなんいちいち覚えてへんし」


「……うう……」



霞の言葉一つ一つが公孫賛の心に容赦無くグサグサと突き刺さり、彼女はガックシと項垂れて意気消沈してしまった。言っては悪いが、公孫賛は実は良くも悪くも普通であるが故に非常に影が薄い存在なのだ。これでも一時期は一国を治める太守にまで上り詰めた身なのだが、反董卓連合時は目立った戦果が上げられず、群雄割拠の時代に突入してからは袁紹軍に攻め込まれて国を追われ、劉備の元まで流れ着いて今に至ってるのだ。こうして生きているにもかかわらず、名を聞くような功績を未だに上げれていないせいでいつの間にか公孫賛という存在は他の諸侯達の記憶から消えてしまったのである。戦死して表舞台から去ったわけでもないのにだ。余りにも不憫でならない。



「あ、あの、白蓮殿……」


「いや、いいんだ……気にするな。私は全然気にしてない……全然……」


「白蓮の影が薄いのは今に始まった事じゃないのだ! 気にするななのだ!」


「薄い……うう……」


「こ、こら、鈴々!」



張飛はフォローのつもりで言ったのだろうが、これはでは完全な逆効果。彼女の言葉は公孫賛の心にクリティカルヒットし、戦う前から士気がダダ下がりでその背にはどんよりとした暗いオーラを纏ってしまっている。敵である霞から誰なのか知らないと言われただけでも堪えているのに、味方である張飛にまでこんな事を言われてはやる気など出るはずがなく、公孫賛はすっかりネガティブな思考に走って関羽達に同行したのは間違いではなかったのかと考え始めてしまった。



「……霞様、このままでは孫尚香達に……」


「おおっ! 影の薄いのの漫才に付き合うとる暇ぁ無かってんや! 悪いけどここは通させてもらうで!」


「させるか! 鈴々! 白蓮殿!」


「分かってるのだ!」


「…………ああ。私は気にしてない、私は気にしてない……っ!」


「どっちにしても逃げるわけにはいかんか……。関羽の相手はウチがする! お前らはちびっ子と影が薄いのの相手任せたで!」


「はっ!」


「分かりました!」


「だから影が薄いって言うなー!」


………


……



「えへへ。来ちゃった」


「来ちゃった……じゃないわよ。こんな所まで軍を動かして……どういうつもり?」


「てへ」


「はぁぁぁぁ~……てへ、じゃないわよ。力を蓄えていろって言ったでしょ? 北郷、貴方もどうして桃香を止めなかったのよ」


「止めた所で桃香は聞かないよ。それに、俺も彼女と同じ考えだったからさ」



安全圏まで無事に後退していつもの笑顔で出迎えてくれた劉備を前に、孫策は額を押さえながら呆れたように大きな溜め息を吐いた。この戦のために劉備軍から兵力の差を補うために幾ばくかの兵士達を借りてはいたが、全軍を動かせとは言っていない。初めから敗けるつもりは無いが、万が一自分達が敗北すれば魏軍に対抗できるのは劉備が率いている蜀軍だけだ。しかし彼女の軍も魏軍との兵力には大きな差が開いている。それに対抗するために力を蓄えるために成都で待っているように言い聞かせたのに、当の本人が危険を冒してまでここへ来たのだ。これでは折角の忠告も無駄になるだけである。



「孫策さん。忠告を無視した事はお詫びします。……だけど、これがご主人様と桃香様のやり方なんです」


「そうだよ。雪蓮さん……この戦いで死ぬつもりだったんでしょ?」


「…………」



劉備の鋭い指摘に孫策は口を噤んだ。図星を突かれたからだ。もともと勝てる可能性など無いに等しい戦いだったのだ。仮に自分一人が死んでも、妹の孫権と孫尚香が無事なら呉の再建は可能である。だからこそ孫策は自分を犠牲にする事になってでも、一人でも多くの敵を道連れにして魏に少しでも打撃を与え、蜀に決戦で勝てる可能性を与えておこうと思っていた。まあ、結果は見ての通り劉備軍が救援に来た事で失敗に終わってしまったが、今更そんな事をどうこう言っても仕方ないだろう。



「劉備、北郷。お二人のおかげで我ら孫呉は姉様を失わずにすんだ。礼を言わせてもらおう」


「気にしないで。私は、私の大切な人が居なくなるのが嫌なだけですから」


「それで、兵を失ってまで私を助けてくれた?」


「……はい。けど、それが分かってるからって、雪蓮さんや冥琳さん……呉の皆さんの事を見捨てるなんて、私にはできないから……」


「桃香……」



このご時世で王としては実に甘い考えかもしれない。現に初めて顔を合わせた時は孫策もそう思っていた。だが劉備の持つこの優しさ、それこそが彼女の王としての最大の魅力なのかもしれない。徳だけで人心を動かすなど早々出来る事ではない。無論生き残るために多くの血も流してきただろう。しかしそれでも劉備の持つ徳に惹かれ、多くの人々が彼女についてきてくれている。だからこそ彼女も今日この日まで生き抜いてこれたのだ。それに劉備も別に考え無しでわざわざ危険を冒したわけではない。ちゃんと考えがあってここまで来たのだ。



「曹操さんが追いかけてきても、撤退してくれるような時機を選んだつもりです」


「そういう事。だからこっちの被害も、最小限で済んでいるはずさ」


「……このまま戦わないつもり?」


「ああ。この流れなら、追撃部隊を追い返してから少し睨み合った後、撤退する事になると思ってる」


「ここでぶつかっても、損害が増えるだけだし。……だよね、朱里ちゃん」


「はい。無駄な消耗を防ぎたいのは曹操さんも同じ……いや、こちら以上に気にしているはずですから」


「遠征軍の弱点か……」



周瑜の言う通り、遠征軍には最大の弱点がある。それは武器装備、糧食に限りが有る事である。軍勢が大きければ大きいほどそれらの備品は大量に必要になってくる。魏の支配下にある各拠点から補給をするにしても遠征軍の進軍先が遠ければ遠いほどそれも時間がかかる。現代世界みたいに空輸出来るわけじゃないのだ。最悪の場合は撤退も余儀なくされてしまうだろう。相手が籠城戦を選択すれば尚更その可能性が出てくる。だからこそ魏軍は成都に着く前に無駄な損害は出したくないのである。



「私達はこのまま成都に引き揚げ、曹操さんとの最終決戦に備えます。一緒に来てもらえますか?」


「……分かったわ。この借りは成都で返させてもらいましょう。今までの利子をつけてね」


「はい。……でも、だからって今日みたいな事をしちゃダメですからね?」


「ふふ……了解」


「ただいま、姉様!」


「小蓮も無事だったのね。良かった……」



関羽達の足止めのおかげで孫尚香と呂蒙の部隊も無事に後退する事が出来たようで、孫権は安堵して胸を撫で下ろした。何しろ今回の魏軍は総力を上げて進軍しているのだ。赤壁の戦いの下準備のための前哨戦以上に危険が大きい戦いである。おまけに戦の経験が少ない孫尚香も今回ばかりは前に出ざるを得ないので孫権は気が気じゃなかったのだ。



「当然♪ 救援ありがとね! 桃香!」


「えへへ、うん♪」


「……雪蓮も少しは、小蓮様の素直さを見習ったらどう?」


「今更、ひねくれた性格は直せないわよ」


「ふふっ……難儀な性格ね」


「それでこそ孫策さんだって、私は思っちゃいますけどね」


「策殿。無事じゃったか」


「ええ。ただいま、祭」


「あの男を相手によく生き残れたな」


「まあ、それでもかなり危なかったけどね。あの時、蓮華が魏延を連れていなかったら、私間違いなく死んでいたわね」


「縁起でもない事を言わんでくれ」



だが孫策の言う通り、あの時孫権達が駆けつけるのが後少し遅ければ、そして素早く撤退していなければ孫策は間違いなくBDに殺されていた事だろう。因みにこの場には魏延、そして星と翠、蒲公英も居合わせていて、先に撤退してきた黄蓋から孫策が誰と闘っていたのかについては三人は知っていた。あの零治を相手によく無傷で還ってこれたなと感心していたのだが、星が魏延の持っている棍棒にある異変がある事に気付いたのでそれを指摘した。



「ん? おい、焔耶」


「何だ?」


「お主の得物……酷く破損しているが、何があったのだ?」


「破損? ……なっ!? これは……っ!」



星が指さしている場所を魏延は確認してみると、棍棒の一部分が拳大の大きさに凹んでいて、打痕の中心点からまるで蜘蛛の巣のように放射状に無数のヒビが入ってるのだ。そしてその破損箇所はBDが殴りつけた場所である。剣以上に大量の鉄を使用しているから折れはしなかったのだろうが、少なくともこの状態で戦闘を継続するのは困難だろう。最悪の場合、戦ってる最中にヒビが大きくなり、折れてしまう可能性すらあるので早急な修復が必要である。



「まさか……あの時の一撃が原因なのかっ!?」


「おい、焔耶。どうしたんだよ? 孫策の救援に向かった時に何かあったのか?」


「……魏の御遣い、音無にこいつを殴られたんだ」


「……えっ? あの人……あんたのその棍棒を素手で殴ったの……?」


「ああ。と言っても、鎧を纏った左手でだから完全な素手とは言えないが」



普通ならこんな話は信じられないだろう。だが、星、翠、蒲公英の三人は零治が持つ底知れない力を嫌という程思い知っている。この世界の常識など全く通用しない人物なのだ。事情を知らない人間が聞けば笑い飛ばすなどしていた所だろうが、彼女達は魏延の話をすぐに信じられた。これも零治との闘いを通して、彼の実力を身を以って知っているからこそだろう。並の武人ならばここで恐れ慄いて怯んだりしている所だろうが、それどころか逆に星は内なる闘志の炎を燃えがらせていた。



(ふふっ。片眼を失ってもその実力は健在のようですな、零治殿。しかしそれでこそ倒しがいがあるというもの)



零治に勝つ。これは星にとって大きな一つの目標である。今までの勝負は様々な要因が重なりウヤムヤなまま終わってしまい、いつも不完全燃焼だった。赤壁では望んでやったわけではないとはいえ、零治の片眼を潰してしまったが彼の実力は衰えを知らない。あの時はそれが原因で心を乱してしまい、己の未熟さを指摘されて零治を失望させてしまったが今度はそうはならない。星がそう胸に誓っていたその時だった。周囲を警戒していた呉の一人の兵士があるものを見たのだ。



「ん?」


「おい、どうした?」


「なあ。今……何か影が地面を横切らなかったか?」


「……鷹でも飛んでるんだろ」


「いや、鳥にしては随分デカかったし、それに形も鳥じゃないように見えたんだが」



呉の兵士が見たのは確かに空を舞い飛ぶ鳥の影ではない。もっと恐ろしいモノである。そう。とうとう来てしまったのだ。蜀軍の妨害をいとも簡単に掻い潜り、この場に辿り着く事が出来る、人ならざる者。戦場を舞う悪魔が……。



「ぐわっ!?」


「なっ!?」


「何事だっ! 落ち着いて状況を報告せよ!」



突如として呉の兵士の一人が断末魔を上げると同時に地面に向かってうつ伏せに倒れ、そのまま息絶えてしまった。いきなりの出来事を前にして周りに居た兵士達の間に動揺が走るが、孫策の一声で混乱にはならずにすんだ。残すはこの殺された兵士。その者の背中には絶命した原因である深紅の剣が深々と突き刺さっており、孫策達は周囲に警戒の眼差しを向ける。



「あれは……誰かがあの剣を投げつけたというのか」


「そうとしか考えられないわ。だけど問題はどこから投げつけたのかよ。周囲には身を隠せるような物は何も無いわ。一体どうなってるのよ……」



周瑜の推論には孫策だけでなく、その場に居る全員が同意だが、不可解な点がある。一体どこからこの剣を投げつけて兵士の背中に突き刺したのかだ。この辺りには草木など一本たりとも生えてはいない。荒野なので大きな岩が無造作に転がっていたりはするが、少なくともこの周辺にはそんな物も無い。つまり、身を隠せるような遮蔽物がどこにも無いのだ。そんな状況で誰にも気付かれずに剣を人に向かって投擲して突き刺すなど不可能である。考えれば考えるほど全く理解できなかった。だが、ある事に気付いた人物が二人居た。翠と蒲公英である。彼女達は兵士の背中に刺さっている剣に見覚えがあったのだ。



「ん? ……ねえ、お姉様。あの兵士に刺さってる剣……たんぽぽ、前に見た気がするんだけど……」


「何だって? ……なっ! あの剣……まさかっ!?」


「翠。どうしたのだ? あの剣に見覚えがあるのか?」


「ああ。あの剣……この前の戦で音無が使っているのを見たんだ……」


「何っ!? ならば、あれは零治殿が投げつけたというのかっ!」


「そうとしか考えられない。だけど問題はあいつがどこから投げたのかだ。近くに居るとは思うが、周りに身を隠せるような物は何も無い。一体どうやってこんな事を……」



星、翠、蒲公英の三人は孫策達以上に周囲に警戒の眼差しを向けるが、辺りには人っ子一人居ないし、人影らしきものも見当たらない。少なくともこの近辺に零治は居ないという事になる。或いは、何らかの方法で姿を隠し、どこかに身を潜めている。それしか考えられなかった。だが、それら全ての推理は外れだ。なぜなら、いま彼は地上には居ないのだから。



「……ん? 何だ? 今、妙な影が空を……」



周囲を警戒していた一人の呉の兵士が辺りを見回していたその時だった。たまたま自分の近くの地面の上を奇妙な形の影が横切ったので、彼は空を見上げてみた。さんさんと照りつける太陽の光が眼に入り、あまりの眩しさに兵士は眼を細めながら額の上に掌をかざして影を作って視界を確保し、その場をゆっくりと回転しながら空を見回してみた。その時だった。空に一つの小さな影らしき点が存在しており、空中内で静止しているのを見つけたのだ。兵士は怪訝な表情でその点を見つめるが、距離が離れすぎているため何なのかまでは確認できなかった。しかし次の瞬間、その影がいきなり猛スピードで地上に向かって降下し、こちらに一直線に飛来してきたのだ。



「なっ!? うわああああああっ!」



突然兵士が悲鳴を上げたので何事かと全員の支線がその者に集中した。見てみれば悲鳴を上げた兵士はコウモリのような翼を生やした何者かに両肩を掴まれ、そのまま宙へと連れ去られてしまったのだ。その様はモンスターパニック映画のワンシーンのようである。あまりの突然の出来事に孫策達は何も出来ず、ただ唖然としながらその後姿を見ている事しか出来なかった。一方連れ去られた兵士は手足をバタつかせて必至の抵抗を試みるが、みるみる内に高度が上がっていき、あっという間に遙か上空へと連れ去られた。



「ヒヒヒ。はーい、一名様お空の旅へご案内だぁ」


「ひっ!? お、お前は……音無っ!?」


「ククク。人間は空を鳥みたいに飛んでみたいとかそういう願望を抱くと思ってたんだが、お前は違うのかぁ?」


「空を飛ぶ? ……っ!? ひええええええっ!!」



兵士はBDの意味深な言葉に首を傾げながら思わず下を見てしまったのだが、それがマズかったのだろう。一体どれだけの高度まで上がっているのかは見当もつかないが、下に居るはずの仲間達の姿は小さな点ぐらいにしか見えない。少なくとも遙か上空に居るという事は理解できた。この男は別に高所恐怖症というわけではないのだが、この世界の人間がこんな高さまで上に来るような出来事などありはしない。兵士は恐怖のあまりジタバタと激しく暴れ始めた。



「おいおい。あんまり暴れんなよ。危ねぇだろうが」


「ひいいいいっ! 離せぇ! 早く降ろしてくれぇ!」


「あっ? 降ろしていいのか?」


「そうだよっ! 早く降ろしてくれー!」


「『早く』だな? ……じゃ、遠慮無くホレ」


「あっ!? うわあああああああっ!」



何という事をしてくれたのだろうか。BDは悪意ある笑みを浮かべながら兵士の両肩を掴んでいる手を文字通りその場で離したのだ。その結果、兵士は真っ逆さまに地面に向かって落下していく。落下地点付近から空を見上げていた者達がこちらに向かって何かが落ちて来るのを確認すると素早くそこから退避し、落とされた兵士はあっという間に地面の上に到着して全身を激しく叩きつけられた。その時の衝撃が全身を駆け巡り、身体中の骨は砕け、内臓も破裂し、全身から血を吹き出してその場に血の海を造り上げて息絶えた。まるで無数のトマトを地面に叩きつけたかの様子である。



「おーおー。エグいねぇ。潰れたトマトが一個出来上がっちまったぜ。ヒャハハハハハっ!」


「何という事をっ! 奴が我軍の兵士に剣を投げつけた奴か! 祭殿っ!」


「応っ! 任せておけ! この儂が撃ち落としてくれる! 全員下がっておれ!」


「黄蓋殿っ! 儂も手を貸すぞっ!」


「うむ! 助太刀感謝するっ!」



何者かは分からないが相手が空を飛んで襲ってくるとなれば接近戦は危険だ。となれば選択肢は弓矢による射撃しか対処法は無い。だが幸いな事にこの場には弓の扱いに長けた黄蓋が居るのだ。いくら高速で飛来してこようとも彼女ほどの腕なら一撃で撃ち落とす事も造作も無いだろう。周瑜の命に従い、黄蓋は前に出て素早く矢筒から二本の矢を引き抜いて弓に番え、次に襲撃に備えて弦を引き絞って狙いを定め、それに続いてこの場に居合わせている厳顔も彼女の隣に立って豪天砲を構え、狙いを定めた。



「あん? あの老いぼれ……俺様を撃ち落とそうって魂胆か? ……おもしれぇ。受けて立ってやろうじゃねぇか!」



さっきの闘いの借りを返すのにはうってつけのシチュエーションだ。BDは右手から血ノ剣を生やして振りかぶりながら翼を羽ばたかせて空を高速で移動し、大きく旋回しながら次第に進行方向を集団の先頭に立つ黄蓋と厳顔の二人へと向け、徐々に高度を落としながら地面すれすれの所まで降下して一気に加速した。



「厳顔よ! 儂が先に撃って奴の動きを牽制する! お主がその隙きを突いて撃ち落としてくれっ!」


「承知した! 任せよっ!」


「あん? 何かもう一人居るな。だがそんなの関係ねぇ! 二人纏めてその頸を吹っ飛ばしてやるぜ!」


「来るぞ。……今だっ!」


「応っ!」



標的が矢の届く射程距離内に入ってきたので黄蓋は弦から指を離し、番えていた二本の矢を同時に放ち、そこからワンテンポ遅らせて厳顔が豪天砲の引き金を引き、大型の杭を二発発射した。BDにとって想定外だったのは飛んできたのが矢だけじゃなかった点だった。ただの矢なら叩き落とせば済む話だが、大型の杭を撃ち出すネイルガンがこんな世界に存在しているなどと考えてすらいなかった。そのため、空を斬りながら飛来してくる矢の後ろから続けざまに飛んでくる巨大な杭を眼にして彼は思わず面食らった。



「なっ!? 杭を撃ち出す武器だとっ!? 小癪な真似しやがってぇ!」



矢ならともかく、こんな大きな杭をこの速度で真正面から喰らったら地面に叩き落とされてしまうのがオチだ。回避しようと思えば出来るかもしれないが、距離が近すぎるため完全回避は困難だ。折角気分が乗ってきているのにそんな事になっては全てが台無しだ。BDは忌々しげに歯ぎしりをしながら右手を振り抜いて血ノ剣で黄蓋が放った二本の矢を叩き落とすが、厳顔が放った二本の杭がもう目の前まで来ている。BDは飛行している速度はそのままにし、咄嗟に身体を丸めながら背中に生やしている六枚の翼を折り曲げて全身を覆い、盾代わりにして防御の体勢を取った。そして次の瞬間、二本の杭が命中して翼膜を貫くが何とかそこで止まってくれたので、BDは今の体勢のままグルンと身体を縦に一回転させて両脚を地面に伸ばして踏ん張りながら強引にブレーキを掛けて大量の砂煙を巻き上げ、黄蓋と厳顔が立つ位置から距離にして三、四メートル離れた辺りの位置でようやく止まり、その位置で翼で全身を覆ったまま地面の上にしゃがみ込んで微動だにしなかった。



「何なのじゃ。あやつは……」


「分からんが、もしかしたら魏の御遣いの一人かもしれん。黄蓋殿、油断するなよ」



黄蓋と厳顔はいつでも次の射撃に移れるように武器を構えながら目の前に存在する正体不明の黒と紅が入り混じった球体のような物を睨みつけていた。少なくとも今のBDの姿では奇っ怪な球体にしか見えないだろう。ここから自分の姿を見たら孫策達がどんな反応をするのか、内心BDはその事をほくそ笑みながらゆっくりと立ち上がり、全身を覆っている六枚の翼をバサッと広げて突風を巻き起こし、周囲を漂っている砂煙を吹き飛ばした。



「なっ!?」


「貴様は……音無っ!?」


「よお。死にぞこないども。どこへ行くつもりだぁ? 俺様から逃げられると思ってんのか。ヒヒヒ……」



孫策達にとっていま一番この場に現れてほしくなかった人物、零治が来てしまった。しかも人格は彼が所持している魔導書、血の魔導書である。銀狼に似て非常に好戦的な性格で、残虐非道である。それを孫策と黄蓋の二人は前線での戦いで嫌というほど思い知り、劉備軍の手助けもあってようやく命からがら逃げ延びたというのにまたしても目の前に現れたのだ。おまけにその姿は前線で見た時とは程遠く、背中に六枚ものコウモリのような形状の翼を生やした禍々しい姿をしているため、その場に居る全員が恐怖に慄いて足がすくんで動けなくなってしまっていた。



「おいおい。何だよ? 揃いも揃って人をバケモンでも見るかのような眼で見やがって。俺様におかしな所でもあるのかぁ? ヒヒヒ……」



実にワザとらしいセリフである。おかしな所ならある。人間の背中にコウモリのような翼が、しかも六枚も生えているなど誰がどう見ても異常だ。だがそれを指摘した所で何になるというのだ。何も意味は無い。現状が好転するわけでもなのだ。何よりこんな禍々しい姿の零治を前にして、誰一人言葉すら出てこないのだ。ただ全員が共通して考えている事はあった。目の前に立つ人物は天の御遣いではなく、地獄から現れた悪魔なのではないかと、そう思っていた。周りのそんな胸中など気にも留めず、BDはチラリと背中の右側の中央に生えている翼に視線を向けると、厳顔の豪天砲から撃ち出された二本の大きな杭が翼膜を貫通してプラプラとぶら下がっていた事に気付いたので、左手を伸ばしてその杭を両方とも引き抜いてその辺にポイッと無造作に投げ捨てた。



「ったく。折角の自慢の翼に穴なんか開けやがって。……おい、そこの死にぞこない二人。よくもやってくれたじゃねぇか。ただで済むと思うなよ……」


「参ったのぉ。どうやら奴を怒らせてしまったようじゃ。さて、この状況、どうやって切り抜けるか……」


「…………」



今の状況を打破するために思考を巡らせている人物が一人いた。それは孫策の部隊に所属し、この戦で彼女の副官を務めている兵士だ。危険な最前線から何とか逃げ延びたがBDは普通では考えられない手段を使ってここまで追ってきた。つまりここから更に逃げてもまた追いかけてくるだけ。ならば誰かが捨て身の覚悟で彼を足止めして時間稼ぎをする以外に方法は無いだろう。しかも相手が相手だ。それ相応の実力者でもたった数人ではどれだけ足止めできるか分かったものじゃない。となるとここは、将兵の質で攻めるのではなく、数の暴力による物量作戦で行くしかないだろう。後はこの生きて帰れる保証などどこにも無い無謀な作戦にどれだけ付き合ってくれる人間が居るかどうかだ。



「……おい」


「言わなくても分かってる。俺達で孫策様達が逃げる時間稼ぎをするぞ」


「ああ。やってやろうぜ」


「他の者は……訊くまでも無いようだな」



どうやら孫策隊に所属する兵士全員が同じ考えのようだ。例え力では敵わなくても、数の暴力で束になってかかれば時間稼ぎぐらいは出来る。命からがら逃げ延びた身だが、前線での戦いで、いや、この戦が始まる時から死ぬ覚悟は既にしていた。今さら恐れるものなど何も無い。想いが一つとなった今、その決意が揺らがぬ内に兵士達は前に進み出て、孫策隊の副官が彼女の隣に立ち、口を開いた。



「孫策様。申し訳ありません。我々は初めて、貴方様の命に背きます」


「えっ? こんな時に何を言ってるのよ?」


「我々が奴の足止めをします。その間に孫策様は劉備軍の方々と共に後退してくださいっ!」


「そういう事です。ここが俺達の死に場所なんですよ!」


「なっ! 貴方達っ!?」


「いざとなったら我らが盾になる。今がその時なのですよ! 孫策様達を死ぬ気でお護りしろっ! 総員、突撃ーーーーーっ!!」


「「「うおおおおおおおっ!!」」」



孫策隊の兵士達は彼女の副官が先陣を切り、後続の兵士達も各々が持つ武器を片手に雄叫びを上げながら決死の覚悟でBDに向かって一直線に突撃した。突然の出来事に黄蓋と厳顔も呆気にとられながら兵達の後ろ姿を見ているだけで、他の者達も一瞬なにが起きたのか理解できず眼を丸くしていた。

対するBDはこの状況を愉しむように口の端を吊り上げ、両手から血ノ剣を生やして素早く臨戦態勢に移った。



「ククク。良くも悪くもこれが『人間』ってわけか。おもしれぇ。見せてみなっ! テメェらの底力ってやつをなぁ!」



数に置いては向こうが圧倒的に上だ。だが、戦士としての質に関しては完全にこちらが上。これでは勝負にすらならない。待ち受ける結末は一方的な虐殺劇である。それは命を投げ出して特攻を仕掛けている呉の兵士達も分かっている。しかしそれでも誰かがやらねばならないのだ。自分達が死ねば結果的に呉は少ない兵力が更に減ってしまう。これは今の呉にとって痛手だが、逆に黄蓋や周泰、甘寧などといった優秀な将を失えばそれは兵を失うよりも大きな痛手になる。兵の数は減っても、優秀な将が生き残ればまだ可能性はある。彼らの中ではどうすればいいかなど、既に結論が出されているのだ。



「音無っ! 孫策様達には指一本触れさせん! 貴様には俺達との戦いに付き合ってもらうぞっ!」


「おぉ、いいとも。まあ……テメェの実力じゃ俺様は止められねぇがなぁ!」


「がはっ!?」



突撃していた一人の兵士が一番手を果たし、剣を振り上げながらBDに向かって一直線に突っ込んで斬りかかろうとするが、そんな分かりきった攻撃が彼に届くはずもなく、BDはその兵士の行動を嘲笑うように口の端を吊り上げながら先手を取り、両腕を交差させながら血ノ剣を突き出して腹部を刺し貫いた。兵士は血反吐を吐き、手から剣を落としてしまうがまだ息はある。彼は最後の力を振り絞り、両腕を伸ばしてBDの両肩をガッシリと掴んで動きを封じようとするがそんな事をしても焼け石に水だった。



「おーおー、頑張るじゃねぇか。だが俺様はテメェ一人にいつまでも構ってられるほど暇じゃねぇんだよ」



BDは両腕に力を入れて血ノ剣を兵士に刺したまま腕を持ち上げ、彼の手はBDの肩から離れてしまう。大の大人を剣で突き刺してそのまま宙へと掲げるように持ち上げるその力は恐るべき物だ。しかしこれで終わりではない。BDの行動は、ただ単にこの者にとどめを刺すのではない。残りの連中に恐怖心を植え付けるための生贄とする。そのために、この上なく惨たらしく殺してやるのだ。



「死ねぇぇぇぇっ!」



BDは狂気の笑みを貼り付けながら叫ぶと同時に両腕を振り抜き、刺し貫いていた兵士の身体を文字通り一文字に斬り裂いて胴体から真っ二つにしてやったのだ。斬り裂かれた兵士の身体は上半身と下半身に分かれて宙を舞い、辺りに鮮血と内臓の一部を撒き散らしながら地面の上に転がり落ちて今度こそ完全に息絶えた。

仲間が常軌を逸した殺され方をして決死の覚悟で突撃をしていた後続者達は思わずその足を止めてしまい、その姿がよほど可笑しいのかBDは天を仰ぎながら声高らかに笑い声を上げた。



「ヒャハハハハハっ! どうしたよ? さっきの威勢はどこ行ったんだぁ? 所詮は口だけって事か。虫ケラ共が……」


「怯むなぁ! 我らは死を恐れぬっ! 孫呉の兵の勇猛さを奴に思い知らせろぉっ!」


「「「おおおおおおおおっ!!」」」



出鼻を挫かれたが副官の一声で兵達は自らを鼓舞するために雄々しい雄叫びを上げ、再度突撃を開始した。死ぬのは怖い。それは人間ならば誰もが抱く感情だ。だが、国に仕える兵士がそれを恐れていては兵士など務まらないし、ここでもしも孫家の三姉妹が討たれれば祖国の未来を築く事もできなくなる。彼らにとってそれは死よりも恐ろしい事。それを阻止するためには自分達が呉の未来への一筋の希望を残すために、犠牲にならねばならないのだ。少しでも孫策達が逃げるための時間を稼ぐために。



「孫策様っ! 我らに構わず早く行ってくださいっ!」


「だけど、貴方達じゃ彼に敵うはずが……っ!」


「そんな事は百も承知です! しかし誰かがやらねばならないのですよっ! 時間がありませんっ! 早――。がっ!?」


「っ!?」


「ククク。戦場で余所見はいけねぇなぁ。テメェは兵士失格だぁ! 死ねやぁ!」



孫策に逃げるように進言していた事に気を取られ、BDがそこまで近づいていた事に気づけなかった。BDは兵士の首に両手を交差させながら伸ばして掴み、深々と爪を立てながら持ち上げると、その手を振り抜いて彼の首周りの肉を引き裂き、兵士は断末魔を上げる事さえ出来ないままおびただしい量の血を首から吹き出し、地面に横たわって物言わぬ屍とかした。まさに地獄絵図。次々と呉の兵士がBDの手によって無残な殺され方をし、その命を散らしながら辺りが彼らの血で深紅に染め上がっていく。



「雪蓮っ! 行くぞっ!」


「冥琳っ!? だけど!」


「お前の気持ちは分かるっ! だが私達はここで討たれるわけにはいかんのだ! 彼らの決死の覚悟を無駄にするなっ!」


「くっ!」



周瑜の言葉が孫策の胸に深く突き刺さる。確かに彼女の言う通り、彼らは自分達を逃がすために決死の覚悟でBDに戦いを挑んでいるのだ。いつまでもこの場に留まっていて自分達が死んでは本末転倒。兵士達の覚悟も無駄になってしまう。それだけは何が何でも避けねばならない。でなければ、ここまで逃げた意味も、そして劉備軍の救援さえも無駄にしてしまうのだ。孫策は胸の内の悔しさを誤魔化すように下唇を強く噛み、断腸の思いで撤退の命を出した。



「総員、撤退せよっ! 彼らの死を無駄にするな!」



孫策に続き、孫権、孫尚香、周瑜、黄蓋と呉の将兵達は悔しい思いを押し殺しながら撤退していき、劉備と一刀、諸葛亮、厳顔と魏延も兵を引き連れて下がっていくが、その中に撤退しようとしない者が居たのだ。

それが誰なのかは、もはや言うまでもない。星、翠、蒲公英の三人である。



「っ!? 星ちゃん! 翠ちゃん! 蒲公英ちゃん! 何してるの!? 早く逃げないと!」


「申し訳ありませぬ、桃香様。彼らだけでは荷が重いと思いますので、私も零治殿の足止めをするためにここに残ります」


「星! なに言ってんだよっ!? 零治の足止めって、アイツの姿を見てみろよ! どう見ても普通じゃないだろ!」


「主。心配は無用です。私は必ず生きて還ります。どうか信じてください」


「そういう事。あたしら、これでも逃げ足の速さには自信があるからさ。ご主人様はあたしらの事を信じて、先に逃げててくれよ」


(たんぽぽは出来れば今すぐにでもここから逃げたいんだけどね……)


「星ちゃん……」


「焔耶! 桔梗! 桃香様と主の事を任せるぞっ!」


「……承知した。焔耶! 行くぞっ!」


「はいっ!」


「星ちゃん! 翠ちゃん! 蒲公英ちゃん! 絶対戻ってきてね! 約束だよっ!」



眼尻に涙を浮かべながら劉備は星、翠、蒲公英の三人に必ず戻ってくるようその切なる願いを投げかけながら一刀達と共にその場から撤退していく。劉備のその言葉を三人は胸に刻みながら眼前で殺戮を愉しんでいるBDを見据えた。彼は相変わらず下卑た笑い声を上げながら決死の特攻を仕掛けている孫策隊の兵達を一人、また一人と惨たらしく殺していき、そこに屍の山を築き上げていっている。その様はまさに悪鬼修羅。この姿を目の当たりにした星、翠、蒲公英の三人は、いま目の前にいる人物は本当に自分達が知っている零治と同一人物なのかと疑問視していた。



「ひでぇ闘いだ。あいつ……本当にあたしらが知ってる音無と同一人物なのかよ……」


「たんぽぽは別人だと思うよ。あんなの……人の闘い方じゃないよ……」


「零治殿。何が貴方をそこまで歪めてしまったのです。貴方は……人の道を外れてしまったというのですか……」


「くそぉ……っ! 弓兵! 奴にありったけの矢を射掛けろっ!」


「「「応っ!」」」



十数名の弓兵が矢筒から矢を引き抜き、弓に番えて素早くBDに狙いを定めると同時に速射を行う。放たれた十数本の矢は一直線にBDに向かって飛来していくが、物陰から不意を突いた狙撃ではなく真正面からの射撃なのだ。こんな分かりきった攻撃はやはり……。



「バカが! そんな見え見えな射撃が俺様に届くかよっ!」



BDは右腕を大きく振りかぶると同時に素早く振り抜き、掌から生やしている血ノ剣を使って剣圧を放ち、飛来してきた矢をいとも簡単に吹き飛ばしてみせた。まるで枯れ葉のように宙を舞った矢はカラカラと乾いた音を立てて地面の上に無造作に転がり落ちただけだ。近接戦もダメ、遠距離戦もダメ。まさに八方塞がりの状態である。



「くぅぅっ! これでも駄目なのか……っ!」


「ヒヒヒ。そっちがそう来るんなら俺様も同じように飛び道具を使うとしようか。……いでよ、偽・魔王剣フェイクディスキャリバー!」



BDの呼びかけに応じるように、彼の足元にある呉の兵士達の血で作られた大きな血溜まりに小さな波紋が五つ出現し、その波紋の中心点から偽・魔王剣の柄が浮かび出てきてそのままスゥっと深紅の刀身を露わにした。宙を浮く五本の偽・魔王剣は独りでに動いてBDの頭上で水平に並び、その鋭い切っ先が呉の兵士達に向けられた。



「なっ!? 剣が……宙を浮いているだとっ!?」


「……殺せ」


「ぎゃっ!」


「ぐわぁ!」


「がはぁっ!?」



BDの命令に従い、五本の偽・魔王剣はまるで意思があるように狙いを定めた兵士達に向かって一直線に飛んでいき、彼らの胸部を纏っている鎧ごと一撃で刺し貫いた。しかも速度が弓矢の比ではない。これでは回避のしようも防ぐ手立ても無い。唯一の救いは数が少ない点。これならば剣を創り出している間の無防備な姿の隙きを突けばまだ勝機はある。副官はそう考えていたが、それはただの思い込みなのだとすぐに思い知らされた。



「ククク。何をしようとした所で全て無駄だ。ここら一帯はもう俺様の独壇場! テメェらに勝ち目なんか一辺たりともありやしねぇ!」



BDが両手を開きながら両腕を宙に力一杯掲げると、周囲の大地を染めている鮮血の海から次々と無数の偽・魔王剣が創り出され、その全てが遙か上空へと浮かび上がり、切っ先を生き残っている兵達に向け、狙いが定められた。隠れられる場所などどこにも無い。仲間の死体を盾にしたとしても一緒に刺し貫かれるだけ。チェックメイトだ。



「剣の雨よ……奴らに降り注げぇ!」



BDが宙に掲げていた両手を振り下ろすと同時に、全ての偽・魔王剣が雨あられの如く高速で降り注ぎ、一本一本が確実に兵達を捉え、全ての剣が副官を除いた全ての兵士達に命中し、彼らは全員断末魔さえも上げれず、無言で地面に崩れ落ちた。副官は何が起きたのか理解できず、剣を片手に呆然と辺りを見回した。

周囲に広がるは先程まで生きていたはずの仲間達の死体。その多くにはBDが創り上げた偽・魔王剣が深々と突き刺さっており、その一つ一つがまるで墓標のように見える。おまけにむせ返るほどの濃厚な血の臭いが漂っているので、もはやここは兵達の墓場と言うよりも地獄でしかない。副官だけでなく、星、翠、蒲公英の三人も目の前の非現実的光景を前にし、思考が完全に停止している。どれだけの百戦錬磨の武将でも、こんな光景を眼にする機会などあるはずがない。そして、この光景を生み出した張本人であるBDが一歩、また一歩とゆっくり歩を進め、副官との距離を詰めてきた。



「ひっ!?」


「ククク。テメェで最後だぞ? ほれ。目の前に仲間の仇が居るのに何もしないつもりか?」


「う……うわああああああっ!!」



恐怖に駆られた副官は完全に発狂し、ただ一直線にBDに向かって両手で持っている剣を振り上げながら斬りかかるがそんな事では並の将兵とだってまともに戦えやしない。しかし今の彼の頭にはそんな考えすらも無い。これは戦闘術と言うよりも、恐怖心から生まれる人間の本能的な防衛行動と言えるだろう。だがそれすらもBDの前では無意味。BDは副官の行動に冷笑しながら左手を素早く伸ばして彼の右手首を掴み、そのまま捻るように捻り上げた。腕を捻られ、不自然な方向に無理やり曲げられてるので副官の表情は苦悶に歪み、その痛みで手にしていた剣も地面に落としてしまった。けれどもBDは捻る動作をやめない。やめるはずがないのだ。



「っ!? ぎゃあああああっ!!」


「おおっ。今のスゲェ音だったなぁ。いやぁ、痛そうだなぁ。ヒャハハハハハっ!」



副官の腕は限界を迎え、とうとう骨が折れてしまった。ボキャっと嫌な音が鳴り響き、彼の右腕はブラブラとだらしなく振り子のように揺れ動くだけ。副官は痛みのあまり悲痛な悲鳴を上げながら地面に両膝を突き、涙まで流している。まさに外道。慈悲の欠片も無い。BDは最後の仕上げにかかり、口の端を吊り上げて悪意ある笑みを浮かべながら右腕に走る激痛で泣き喚いている副官の頭に右手を伸ばし、鷲掴みにするとそのまま彼の頭を後ろに引いたかと思えば、すぐに前に突き出し、その瞬間のタイミングに合わせて血ノ剣を生やしてパイルバンカーを撃ち込む容量で頭を刺し貫き、副官は一瞬にして物言わぬ屍と化したので、BDは右手に生やしている血ノ剣をすぐに引っ込めて跪くように死んでいる副官の死体をトンっと軽く手で押し、地面の上に横たえた。



「ククク。呆気ないもんだな。所詮、人間の力なんぞこの程度って事よな……」


「音無っ!」


「あっ? ……って、何だ。まだ生き残りが居たのかよ」



翠が声を張り上げたのでBDはようやく星達の存在に気付いた。これに関しては、まずBDが呉の兵達を殺すのに夢中になっていたのと、星達が彼らの戦闘に参加していなかったからという要因がある。もちろん彼女達は始めは闘いに参加するつもりでいた。しかしあの異常な闘い、そこに入れば自分達も同じ末路を辿る。彼女達が戦場で培ってきた経験と本能が警鐘を鳴らし、無意識の内に身体が闘う事を拒んでいたのだ。



「ほぉ~。よく見たら見覚えのある面じゃねぇか。赤壁以来だっけか?」


「音無……お前、一体どうしちまったんだよ!? どうしてこんな事が平気な顔して出来るんだ!」


「はあ? 何を言って……って、あぁ、コレの事か」



辺りを見ればあるのは孫策隊の兵達の屍の山。ついさっきまでこの場は兵達の雄叫びや悲鳴が響き渡っていたのに、今ではそれが嘘のように静かで、聞こえてくるのはせいぜい吹き付ける乾いた風の音ぐらいである。おまけに全ての遺体が見るも無残な死に方ばかり。これは戦争だから当たり前で片付けられるような光景とはとても言えない。



「何だよ? 俺様はただ命知らずの虫ケラ共をブチ殺しただけだ。それの何がいけないって言うんだ? ここは戦場だぜ?」


「あたしはそんな事を言ってるんじゃないっ! あたしが言いたいのは、なぜ彼らをここまで無残に殺したのかだ!」


「コイツらは俺様の邪魔をした連中の一部だ。だから制裁を与えた。それだけだ……」


「……音無さん、酷いよ。いくら戦争だからって……そんな理由でこの人達にここまでするなんて酷すぎだよっ!」


「ケッ! どいつもこいつも人を非難して自分の行いは綺麗事を並べ立てて正当化するつもりか? この世界の連中は下らねぇ人種ばかりだな……」


「なっ! ……たんぽぽ、やるぞっ! あいつはもう、あたしらの知ってる音無じゃない!」


「分かってるよっ! 今のあの人を、ご主人様やおば様の所に行かせるわけにはいかないっ!」


「ヒヒヒ。言うじゃねぇか。孫策ほどの大物じゃねぇが、少なくともさっきの虫ケラ共よりは愉しめそうな相手だ。ガッカリさせんなよ?」



もう語る事は無い。何を言っても無意味だ。少なくとも、いま目の前にいる人物は自分達が知っている零治ではない。翠と蒲公英はそう結論づけて槍を構えたので、BDも右手から血ノ剣を生やして再び戦闘態勢に入った。それまで無言で事の成り行きを見守っていた星だが、今にも飛び出しそうだった翠と蒲公英を制止したのだ。



「翠、蒲公英っ! 待て!」


「って! 何だよ星! 止めるなよっ!」


「…………」


「星姉様、どうしたの?」


(やはり……何かおかしい。今の零治殿には何か違和感がある。あれは一体何なのだ……)


「何だぁ? さっきから人の事ジーッと見つめやがって。テメェもさっさとかかってこいよ。テメェにはこの潰された左眼の恨みがあるんだからよ……」



BDは氷のように冷たい笑みを浮かべながら星に視線を向け、左手で眼帯をしている左眼を指差し、意味深な言葉を投げかけた。それと同時に彼が生み出す魔力から形成されている禍々しい深紅のオーラが燃え盛る炎のように激しく揺らめき、その一部がまるで鬼の顔のような形を描いているのだ。対する星はしばらくBDの様子を観察していたが、その表情は次第に険しくなり、まるで怒りを覚えるようにワナワナと身体を震わせ始めた。



「……違う」


「あっ?」


「貴方は……いや、貴様は……貴様は零治殿ではないっ! 貴様は一体何者だ!」


「はあ? また訳の分からねぇ事言い出しやがって……」


「おい、星! 一体どうしたっていうんだよっ!?」


「翠! 蒲公英! 惑わされるなっ! 姿形こそ零治殿と同じだが、奴は全くの別人だ!」


「……同じ、とは言い難いんじゃないかな。少なくとも、赤壁でたんぽぽ達が闘った時はあんな翼なんか生えてなかったし」


「そういう意味ではないっ! 奴は零治殿の姿を模した別人なんだ!」


(何? この女、口調の変化から本能的に別人だと感じ取ってるのか? それとも……。ちょいと確かめてみるか)



星の意味深な言葉に翠と蒲公英は困惑の表情を浮かべて互いに顔を見合わせているが、BDは違った。彼女の様子を見た限り、孫策のように気持ちが昂ぶって人格が豹変しているように見えているとは違う捉え方をしているように思えたのだ。それが本能的なものなのか、それともいま考えている仮説が正しいのか確かめるべく、BDは意識を集中して星の姿を凝視した。いま彼の眼から入ってくる視覚的情報は目の前の光景全てではなく、星の姿だけ。そしてまるでスキャン機能が働いたかのように彼女の身体は真っ黒なシルエット姿に変化し、その内部にシルエットの形に合わさった人型をした細かい光の筋、まるで神経のような物が浮かび上がり、淡い水色の光を薄っすらと放ちながら弱々しく明滅を繰り返しているのだ。次にBDはその原因を探るために赤壁での闘い、具体的に言えば星達が零治と闘っていたあの時を思い出してみた。星が零治の左眼を潰したあの瞬間、彼女は僅かながらに彼の返り血を浴びていた。そしてその血は龍牙の穂先にも当然付着していた。これによりBDの仮説は確信へと変わり、彼はそれを心底愉しむように笑みを浮かべた。今までのように狂気を孕んだり悪意があるものじゃない。本当に心の底から笑っているのだ。



「ククク……ハハハハハハっ! まさかこんな現象を視る事が出来るとはなぁ! この世界の人間にこんな逸材が居たとは驚きだっ! コイツは孫策以上の大発見だぜ!」


「何が可笑しいっ! 貴様ぁ! 零治殿を……あの方をどこへやったのだ! 答えろっ!」


「ククク。お前……『俺様』が分かるのか?」


「……上手くは言えぬが、貴様が放つその異様な空気。零治殿が纏っていたものとは違うっ! 貴様は一体誰だ!」


「なるほど。まだ覚醒が不充分だから、本能的に感じ取るのが限界みたいだな。だが、お前は面白い。孫策以上の大物になり得る可能性を秘めているぞ?」


「……何の事を言っている」


「お前……『こっち側』の人間になりかけてるんだよ。もちろん、お前が持ってるその槍もなぁ。クックック……」


『BD。もう充分はしゃいだだろ。いい加減代われ……』


『おっ? 相棒。もういいのか?』


『今回の戦い、手段を選ばなかったとはいえ、お前に任せたのは間違いだったと後悔しているぜ。ここから先はオレがやる。早く代われ……』


『ヒヒヒ。いいだろう。俺様も久しぶりに闘争を愉しめた。何より、とんでもない発見も出来たしな。じゃ、後は任せるぜ。と言っても、やれる事なんか残っちゃいねぇがな』



これ以上BDに好き勝手にやらせたら何が起きるか分かったものじゃない。本来ならもっと早い段階で交代するべきだったのだろうが、仮に劉備軍の救援部隊の妨害で孫策を取り逃がしたあの時に代わっていたらどうなっていただろうか。ここでの虐殺劇は防げたかもしれないが、不完全燃焼な上に怒り狂っているBDがどんな形でその怒りを爆発させるかという不安要素が残ってしまう。戦闘中にあそこまで攻撃的になっていたのだから、下手をすれば味方に鬱憤をぶつける可能性だって考えられる。それはこの虐殺劇以上に最悪の出来事だ。それだけは避けねばなるまい。そうなるくらいなら、自分が今回の戦いでの悪名を背負う方が遥かにマシだ。そう割り切るしかない。何にせよ、結果的に呉軍に大打撃を与える事は出来たのだ。後は星達をなんとか追い返せばいいだけ。BDの意識が消えると同時に首がカクンと下を向き、星達は何事かと怪訝な表情になるが、すぐに零治本人の意識と入れ替わり、彼は気怠そうに首を持ち上げて彼女達に眼を向けた。



「…………」


(ん? 零治殿から……あの不穏な気配が消えたっ!?)


「なあ。今、音無の様子が一瞬変だったが……あれって何なんだ?」


「たんぽぽに訊かないでよ」


「翠、蒲公英。お主ら……気付かぬのか?」


「えっ? 何がだよ?」


「零治殿から、先程まであったあの不穏な気配が消えたのだ」


「……たんぽぽ。お前そんな気配感じていたか?」


「ううん」


「どういう事だ。なぜ私だけが分かったのだ……」


「星……」


「っ!? 零治……殿?」



今の声に星は聞き覚えがある。先程までのチンピラのような下卑た喋り方とは明らかに違う。長い時間を共に過ごしたわけではないが、少なくともこの中では一番多く言葉を互いに交わし合っていると自負しているのだ。間違いない。いま目の前に居る人物は自分が良く知っている零治なのだと星は思い、一歩ずつゆっくりと彼の方に歩み寄り、思わず我を忘れて駆け出しそうになったが零治は彼女を制止した。



「それ以上こっちに来るな……」


「っ!?」


「星。オレは……」


「零治殿。貴方なのですね。私達が良く知っている……。そうなのでしょう?」


「星。お前はオレに関わってしまったばかりに……。オレはお前の人生そのものをも狂わせてしまったのか。いや、まだ完全に覚醒したわけではない。このまま放置していれば、もしかしたら沈静化する可能性も……」


「零治殿。何を言っているのです?」


「……星。翠と蒲公英を連れてさっさと後退しろ。ウチの方の追撃隊の連中は、オレの方で言いくるめて時間を稼いでやる」



これ以上この場に留まっても仕方がない。何よりこのままでは星達が後続の追撃部隊である春蘭達と間違いなく接敵してしまう。この異常事態に巻き込んでしまった責任を零治は感じて、今回は彼女達に逃げる機会を与えてやるようにしたのだ。クルリと踵を返し、彼はその場を立ち去ろうとするが、星の方はまだ話が終わっていない。



「お待ちください! まだ話は終わっていませぬ! 零治殿っ! 答えてください! 先程まで貴方の中にあったあの異様な気配は何なのですかっ!?」


「……悪いがそれについて教える事は出来ない」


「零治殿……」


「星、今ならまだ間に合う。お前は今、後戻りができなくなる道に片足を踏み入れているんだ。自分の人生を台無しにしたくなかったら、もう本当にこれ以上オレに関わるのやめるんだ。ここで見聞きした事も全て忘れろ。いいな……」



定軍山の時と同じように零治は星に忠告とも取れる意味深な言葉を残し、落ち着いた足取りでその場を去っていった。星、翠、蒲公英の三人はあの時と同じように、その後姿をただ黙って呆然と見送る事しか出来ず、それからすぐに零治に言われた通り劉備達が待っている本陣へと下がっていた。言葉では言い表す事の出来ないモヤモヤとした感情を胸に抱きながら。

作者「またしても長々と待たせてしまってすみませんでしたっ!」


零治「なんかさぁ、このノリも某週刊誌に連載してるマンガみたいだよな」


亜弥「あぁ、確かに。あの作品、マンガとアニメの両方で謝りまくってますからね」


作者「ちょっとそこの二人。この作品に無関係な作品を巻き込まないでくれる?」


恭佳「そこはアンタが悪いんだからさ。昔みたいに早く投稿すれば済む話だろ?」


作者「いやそうなんだけど……ここ最近、仕事とプライベートの両立が全然できなくって……」


奈々瑠「またいつものパターンですね」


作者「そっ! やりたい事は沢山あっても身体は一つしか無い! 人生って世知辛いよね!」


臥々瑠「どうせこの前と同じで遊ぶこと優先したんでしょ?」


作者「リフレッシュは必要だろっ!? じゃないと手が動いてくれないんだよ!」


樺憐「まあ、そのおかげなのかは分かりませんが、今回の話は本当に長いですわねぇ」


作者「まあね。字数に関しては記録を更新したぞ」


零治「それにしても今回の戦闘の描写、凄まじいなぁ」


作者「まあね。BDの残虐性を表現したいからねぇ」


亜弥「ですね。特にBDのキャラがねぇ」


作者「コイツは某格ゲーのあるキャラを意識していたからああなってね」


恭佳「セリフとかかなり彷彿とさせてたね」


作者「キャラもアイツをイメージしてたからね」


奈々瑠「だからですか。兵の頭をストンピングしたり残虐な殺し方をしたのは」


作者「そっ!」


臥々瑠「毎回思うけど、色んな方面から影響受け過ぎだと思うよ……」


樺憐「そしてラストの星さんへの意味深な伏線……これについてはどうするのですかぁ?」


作者「それについては先の話になるのでお楽しみにっ!」


零治「さて、次はいつの話なる事やら」


作者「最後の最後でやる気が削がれる事言わないでよ……」

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