第84話 飲みすぎにはご注意
今回のサブタイ、なんか薬のCMの謳い文句みたいですね。
まあ内容が内容だし、こんなのしか思いつかなかったので悪しからず。
魏が呉を討ち果たしてから翌日。江東と江南の統治は着々と進められており、呉の首都であった建業の城は現在、華琳が手配した大工達の手によって曹魏の仕様に改築の工事がされており、城内のあちこちでトンカチの音が鳴り響いていた。
赤壁からぶっ通しで戦い続けていたので零治達には特別に休みが与えられており、零治、亜弥、恭佳の三人は中庭に設けられている東屋でタバコを吹かしながら至福のひと時を過ごしていた。
「……フーー……。こうしてゆっくり休むのも久々だな」
「ですね。赤壁からずっと戦いっぱなしでしたからね。前の劉備軍との戦い以来ですかね。あそこまで疲れたのは」
「フーー……。全くだね。アタシなんかまだ眠いんだよ。ふぁ~……」
東屋で何気ない談笑をしている零治、亜弥、恭佳の三人だが、揃いも揃ってタバコを吸いながら会話をしているため、その場にはモウモウと煙が立ち込めている。東屋に設けられている卓の中央には零治がわざわざ用意したガラス製の灰皿があるのだが、その灰皿は既に零治と恭佳が吸っているタバコの吸い殻で一杯である。
亜弥はそこまでではないが、零治と恭佳の二人はヘビースモーカーなので特にする事が無いとタバコをスパスパと吸っているのでこうなってしまうのだ。
「あらあら。若者三人が朝から揃って不健全な日を過ごされていますわねぇ」
「ん? あぁ、樺憐じゃん。おはようさん」
「はい。おはようございます、恭佳さん。……零治さん。朝からそんなにタバコを吸われるのは感心しませんわよ?」
「別に良いだろ。誰かに迷惑をかけてるわけでもなし」
「そうは言われますが、そんなペースで吸ってると東屋にタバコの臭いが染み付いてしまうではありませんかぁ。何か他の事をなさって時間を潰されてはどうですかぁ?」
「無いからこうしてタバコを吸ってるんだが?」
「やれやれ。仕方ありませんわねぇ。わたくしがコーヒーを淹れてあげますので、それを飲みながら他にする事が無いか考えてくださいなぁ」
「おっ! いいねぇ。樺憐、アタシにもくれよ」
「私も頂きましょう」
「承知しましたわぁ。では何になさいますかぁ? 様々な種類の豆を用意してますので、大抵の物は用意できますわよぉ?」
「オレはブレンドでいい」
「樺憐、エスプレッソは出来ますか?」
「勿論ですわぁ」
「なら私はエスプレッソを」
「アタシもエスプレッソで」
「は~い。ブレンドが一つとエスプレッソが二つですわねぇ。賜りましたぁ。少々お待ちを」
樺憐は零治達に恭しく一礼し、まるで喫茶店のウェイトレスのようなノリでその場を後にした。
しかしながら、樺憐も物質変換魔法が使えるとはいえ、普通のブレンドだけでなくエスプレッソ、それ以外にも豆を用意するとは。とことん拘るからこそここまで出来るのだろう。これでミルクも用意していたら完璧の一言に尽きると言える。
「なあ、零治」
「何だよ。姉さん」
「ドーナツ作れない?」
「……突然何を言い出すんだ」
「いや、コーヒー飲むんなら一緒にドーナツ食いながらの方が旨いからさぁ。アンタもそう思わない?」
「別に」
「亜弥は?」
「……たまにならそう思いますけど。私もそこまででは」
「かーっ! 二人とも分かってないねぇ! 茶を飲む時には茶菓子は必要不可欠だろうがぁ!」
「言ってる事は分からなくはないが、誰しもがそう思う訳じゃないぞ」
「その通りです。それにどの道この世界ではドーナツなんか作れませんよ。そんなに甘い物が欲しいのなら、饅頭で我慢するんですね」
「コーヒー飲みながら饅頭なんか食えるかっ! そんなのは邪道だ!」
「あらあら。今度はケンカですかぁ? 恭佳さんは朝から元気ですわねぇ」
その場に戻ってきた樺憐の手には木製のお盆があり、その上には竹で作られた三つのコーヒーカップ。その内二つはサイズがエスプレッソ用の半分ほどの大きさで、中には熱々のコーヒーが注がれており、湯気を立ち上らせてコーヒーならではの芳ばしい香りが東屋に漂ってきた。おまけにそれ以外にも砂糖が収まっている陶器の容器に、その隣には何やら白い急須もあるが中身は何なのだろうか。もしもミルクが入っているのなら完璧なコーヒーセットである。
「ケンカじゃないさ。姉さんがドーナツが食いたいと騒いでいるだけだ」
「なあ、樺憐。アンタの料理の腕ならこの世界でドーナツを作るぐらい簡単だろぉ? 作ってくれよぉ」
「簡単に言われますが、この世界で作るとなると色々と試行錯誤を重ねる必要がありますわよぉ? ここはわたくし達の世界とは勝手が違いますから、今すぐに恭佳さんが望むような味のドーナツが作れる保証は出来ませんわねぇ」
「そんな殺生なぁ~……」
「諦めろ。今はコーヒーだけで我慢するんだな」
「分かったよ。樺憐、早くそのエスプレッソをアタシにくれ」
「は~い。こちらご注文のコーヒーになりまぁす。熱いので気を付けてくださいねぇ」
樺憐は零治、亜弥、恭佳へと順にカップを手渡していき、東屋の卓の中央に砂糖の入った容器と白色の急須を置いて木製のお盆を両腕に抱えながら零治の傍に控える。
三人はコーヒーの入ったカップを手に取り、まずは香りを楽しむために顔に近づけたのだが、その時恭佳がある事に気づき、樺憐へと視線を向けた。
「樺憐。このエスプレッソ、泡立ってないんだけど」
「恭佳。あのきめ細やかな泡はエスプレッソマシンで淹れないと立たないんですよ? 手作業では無理に決まってるじゃないですか」
「何かこれじゃ普通のコーヒーみたいで物足りないねぇ」
「贅沢抜かすな。この世界でコーヒーが飲めるだけでもありがたく思えよな。……所で樺憐、その砂糖が入ってる容器の隣にある急須はなんだ?」
「ミルクですわぁ」
「ミルクぅ!? アンタ、アレも用意したのかよ!?」
「はい。用意するのは少し大変でしたが、これで様々なバリエーションのコーヒーが飲めますわよぉ」
もしやと思っていたら本当にミルクだった。樺憐の拘りの徹底ぶり。この三国志の時代でコーヒーが飲めるだけでも充分に凄いのに、ミルクまで用意してしまうとは。これなら彼女の言う通り、様々なバリエーションのコーヒーにありつく事が出来る。現代人の零治達にとってこれほどありがたい事は無いと言えるだろう。
「ミルクまで用意してしまうとは。大したものですね、樺憐。では、冷めないうちに飲むとしましょうか」
「ああ。……亜弥、姉さん。ミルクは入れるか?」
「おっ。そうだね。折角だし入れるかね」
「私はいいですよ。カフェラテになっちゃいますから」
「何だ。知ってたか」
「これでもコーヒーにはうるさいんですよ? それに今はそういう気分じゃないんです。……ふわぁ~」
「お前が人前で欠伸とは珍しい。寝不足か?」
「いえ、睡眠はいつもちゃんと取ってるんですけど、最近寝ても寝ても全然眠気が取れないんですよ。別に疲れてる訳でもないのに」
「ん? 亜弥、それでエスプレッソなのか?」
「ええ」
「フッ。バカだなお前」
「むっ。何ですかいきなり。人をバカ呼ばわりするとは失礼じゃないですか」
零治の口が悪いのは昔っからだし、皮肉っぽい性格をしているため付き合いの長い亜弥は彼の悪態には慣れている。とはいえ、いくら相手が友人といえどいきなりバカ呼ばわりされては流石の温厚の亜弥も不快でないはずが無い。
しかし、零治も亜弥が頭がいい事は良く知っている。そんな相手を理由も無しにいきなりバカ呼ばわりなんかしたりしない。零治は亜弥をバカ呼ばわりした理由を、続けざまに言い聞かせた。
「通を語る割には知識が粗末だな。眠気覚ましのコーヒーはブレンドが一番なんだぜ」
「えっ? でもエスプレッソって濃いじゃないですか」
「味はな。それは豆の焙煎が深いおかげだ。だがそのせいで、カフェインは結構飛んじまってるんだよ。それに淹れる時間も短い。それに対してブレンドの豆の焙煎はそれほど深くない。そしてゆっくりと淹れる。だからカフェインを多く含んでるんだ。覚えときな」
「はぁ~。いやはや。御見それしましたよ、零治。私もまだまだ勉強不足だったようですね」
「ほら。交換してやる」
別に零治は寝不足ではないし眠気もそこまで感じてはいない。ブレンドを選んだのもたまたまである。エスプレッソも嫌いではないので、眠気覚ましを欲している亜弥に自分のブレンドコーヒーを差し出し、そのまま彼女のエスプレッソが入ったカップに手を伸ばし、自分の方へと引き寄せた。
「あっ。これはどうも」
「オレもミルクを入れるか」
零治は白い急須を手に取り、注ぎ口をカップに近づけて軽く傾ければ、中から乳白色の液体が流れ出てくる。ミルクをある程度注ぎ、急須を元に戻してカップに備え付けられていた小さな木のスプーンで中身をクルクルとかき回す。すると黒色のコーヒーはたちまち乳白色を含んだ茶色に色変わりして、カフェラテの出来上がりだ。零治は右手でカップを持ち上げ、香りを楽しみ、口をつけてカフェラテを啜った。
「ズズっ……ふむ。悪くないが……何かいま一つ物足りん気がする」
「だねぇ。これでドーナツがありゃ完璧なんだけど……」
「またその話か。いい加減にしろよな。……樺憐、このミルク、どうやって用意したんだ?」
「それは勿論、わたくしのお乳を搾ってですわぁ」
「っ!? ぶふぅ!」
「ぶーーっ!」
樺憐の口から飛び出したとんでもないセリフ。それを耳にするなり零治と恭佳の二人は揃って口に含んでいたコーヒーを盛大に吹きだし、卓の上は一瞬にしてコーヒーでビチャビチャになってしまう。おまけに突然の出来事だったため、零治と恭佳の吹き出したコーヒーは亜弥にもしぶきが散ったのだ。樺憐の一言で、零治達のコーヒーブレイクはたちまち台無しになってしまう。
「……二人とも。私にコーヒーを散らすなんて。何か恨みでもあるんですか……?」
「げほっ! げっほっ! オ、オレ達のせいじゃねぇ。樺憐が……」
「げほ! げほっ! か、樺憐……アンタなんてもんを人に飲ませやがんだ……っ!」
「いやですわねぇ。冗談に決まっているではありませんかぁ」
「お前が言うと冗談に聞こえねぇんだよ。……ったく。樺憐、何か拭く物はあるか」
「でしたらこちらの布巾をお使いくださいなぁ」
「樺憐、私にも」
「は~い」
気配り上手の樺憐は予め数枚用意していた白い布巾を零治と亜弥の二人に手渡し、零治は噴き出したコーヒーでビチャビチャになった卓を、亜弥は零治と恭佳が噴き出して自分に飛び散ったコーヒーを拭きあげて綺麗にした。とりあえず元の状態には戻ったので、零治達三人はコーヒーブレイクを台無しにしてくれるような発言をした樺憐にジト眼を向ける。
「あら。三人揃ってどうかしましたかぁ?」
「樺憐。オレ達に何か言う事があるんじゃないのか……?」
「はて? わたくしは場を和ませるための冗談を口にしただけですから、特に何も無いと思うのですがぁ」
「ちっとも和んじゃいねぇぞ。全く。……ずずっ。で? 本当はどうやって用意したんだ?」
「水を物質変換魔法で創り変えてみたのですわぁ。ただ、元が元なので大味に仕上がってしまってるのが難点ですわねぇ」
「ずずっ……確かに。ミルクを入れたせいか、このコーヒー、なんか水で薄めたような味になってるよ」
「やはり水から別の液体にするのはわたくしの技量でも難しいようですわねぇ。ご期待に添えず申し訳ありません」
「気にするな。誰でも一度で必ず成功する訳じゃない。お前はよくやってくれたさ」
「そうそう。ってか、本当に水をミルクに完璧に創り変えれたら、アタシは別の物を用意してもらいたいくらいだよ」
「はい? 恭佳さん、ミルク以外でコーヒーに必要な液体などありましたかぁ? あぁ、でも確かにガムシロップは液体でしたわねぇ。ですが砂糖はあるのですからわざわざそのような物は用意しなくてもいいのでは?」
「いやいや。そんな物じゃなくてさ。例えばビールとかウイスキーとかジンとかウォッカとかその他諸々を」
「全部お酒ではありませんか。恭佳さん。貴方はわたくしを何だとお思いなのですか……?」
「何でも用意してくれる便利屋?」
「……ここは一発殴るべき所でしょうか」
普段はおしとやかな樺憐にしては珍しく恭佳の言い方が癪に障ったのか、彼女は眼を細めながら右手で拳骨を作り、ハーッと息を吐きかけて睨み付けてきたので、恭佳は慌てて両手をバタバタと振り回しながら勘弁してくれとジェスチャーで意思表示をした。
いかに不死身の身といえど、実体化している時は痛みは感じるし相手が相手だ。樺憐に本気で殴られたらただでは済まない事ぐらいすぐに分かる事である。
「おっ、怒んなよ! 悪かった! 便利屋は言いすぎた! でもほら! ウイスキーを入れたコーヒーは実際にあるから全く無関係じゃないじゃん!」
「……姉さん。ひょっとしてアイリッシュコーヒーの事を言ってんのか?」
「そうそう」
「恭佳。あれは分類上お酒になるんですよ」
アイリッシュコーヒーとはアイリッシュウイスキーをベースにし、ホットコーヒー、砂糖、生クリームを入れたホットカクテルの一種で、アイルランド南西部、シャノン川河口の漁村フォインズにあった水上飛行場で旅客機の乗客のために1942年に創案されたカクテルの事だ。
フォインズは1935年から飛行艇の発着する水上飛行場となったが、第二次世界大戦前の1937年からパン・アメリカン航空によって、飛行艇を使ったアメリカ・イギリス間の大西洋横断航空路が運行開始されると、その寄港地にもなった。しかし当時の飛行艇は航続距離が短く、大西洋上の経路途中で燃料補給のためアイルランドとカナダのノバスコシアに寄港せねばならなかったのである。おまけにこの頃の飛行艇は後年の旅客機の様に気密構造ではなく、暖房の効きも悪かった。加えて飛行艇が水上で給油する間、乗客は安全のためボートで移動して陸上待機せねばならなかったが、港の天候が悪ければ飛行艇からパブのあるレストハウスにたどり着くまで更に凍える羽目になったのだ。そこで燃料補給の待ち時間を利用して乗客に身体を温めてもらおうという心遣いから、アイルランド名物のアイリッシュウイスキーをベースとした飲み物が考案されたのが、このアイリッシュコーヒーなのである。
因みにこのコーヒーにはいくつかバリエーションが存在しており、ベースとなる酒が変わると呼称も変化する。例えばスコッチをベースにすると名前はゲーリックコーヒーになる。
「コーヒー使ってんだからコーヒーには違いないだろ?」
「アレはコーヒーじゃなくウイスキーがベースの飲み物になる。だから酒だ。それに姉さんの今の理屈は、ビールを麦茶と言い張るオッサンの屁理屈と同じだぜ」
「おい。人を呑んだくれみたいに言うんじゃないよ。呑んだくれはどっちかというと亜弥が該当するだろ?」
「……恭佳。私にケンカを売ってるんですか」
「おっ。やる気かい? やろうってんなら運動がてらに相手してやるよ」
「二人ともやめろ。久々の休日なんだ。静かに過ごさせろよ」
「うふふ。仲がよろしい事で結構ですわねぇ」
恭佳と亜弥のやり取りも、決して喧嘩をしている訳ではない。まあ、恭佳の言い方も良いとは言えないし、無自覚の酒癖の悪さを抱えている身とはいえ、呑んだくれ呼ばわりされたら温厚な亜弥も流石に怒らない可能性も否定できないので、一歩間違えればガチの喧嘩に発展していた可能性もあっただろう。が、亜弥が本気で怒っていない事は顔を見れば分かる。だから樺憐も自然と笑みがこぼれるのだ。
まだ大陸に渦巻く戦乱の世は平定していないが、こういう穏やかな時間を過ごす事はとても大事な事である。どんな時でも人間とは心にゆとりを持っていなくては精神的に参ってしまうのだから。
「ん? あっ、隊長。それに亜弥様に恭佳様、樺憐様。おはようございます」
「うん? あぁ、凪か。おはよう。どうしたんだ? こんな朝っぱらから」
「いえ、特に何も。ただ、時間を持て余しているので鍛錬でもしようかと思いまして」
「ふむ。凪はいつも努力家ですねぇ。感心感心」
「アタシだったら絶対に無理だね。休日は日がな一日、のんびり過ごすのが一番さぁね」
「姉さんの場合、酒を呑みながらになるからグータラ過ごすの間違いじゃね?」
「あぁん? 零治、ケンカ売ってんのか……?」
「いいや。事実を言っただけだぜ?」
「あらあら。お二人ともケンカはいけませんわよぉ」
零治と恭佳の間に割って入り、まあまあとなだめすかす樺憐の姿が凪の眼に留まった。凪は鍛錬目的でこの場に来たのだが、誰かとするとかそういう予定ではなかったので一人でするつもりでいたし、そうしていた事は過去に何度もある。
もちろんこの方法でも鍛錬にはなるだろう。だが、どうせなら実戦に近い形式、つまり相手が居た方がより効果を得られる。そしてそれにうってつけの人物がいま目の前に居るのだ。ならどうするべきか。凪の答えは既に出ていた。
「樺憐様。よろしければ私と手合せをしていただけませんか?」
「はい? なぜわたくしなのですか? 手合せをしてくれる方なら他にもいらっしゃると思いますけど」
「確かに単純な手合せなら樺憐様でなくとも問題は無いでしょう。しかし今の私は単なる手合せではなく、同じ素手の格闘術の使い手と勝負がしたいのです」
「おいおい。凪、正気かい? アンタも見た事あるから樺憐の強さは知ってるだろ? 零治ですら勝つのが難しい相手で勝負になると思ってんの?」
「恭佳様の仰ってる事は分かります。ですが私も武人の端くれ。いつ何時、強者と対峙するか分かりません。それに蜀との決戦も控えているのです。ならば己より強い者を相手に鍛錬をするのは当然かと」
「面白そうじゃないか。樺憐、相手をしてやれ。オレ達はコーヒーを啜りながらここで観戦させてもらうとしよう」
「やれやれ。わたくしは見世物ではないのですよ。……では、わたくしでよければお相手いたしましょう」
「ありがとうございます」
「ではファングを装備してきますので少々お待ちを」
真面目な凪の事だ。完全なる戦闘態勢の樺憐との勝負を当然望んでいるはず。無論、格闘術のエキスパートである樺憐ならファング無しでも充分に強いだろう。しかし、万全ではない彼女と勝負をしても、それでは鍛練としては不充分である。実力に差があるのならその点を考慮して手加減する事も大切かもしれないが、凪はそんな事など望まない。戦場では敵は手加減などしてくれるはずが無い。凪がいま最も望んでいる勝負は、実戦に限りなく近い形式なのだから。樺憐は手に持っている木製のお盆を零治達が使用している卓の上に置き、ファングを取りに自室へと足を運んで行った。
「さて、凪。樺憐との勝負ですが、勝算はあるのですか?」
「いいえ。私の実力では樺憐様の足元にも及ばない事ぐらい理解していますし、あの方に小細工は通用しないでしょう」
「だろうねぇ。アイツなら大抵の事は力で捻じ伏せて解決できそうだからね。ならどうするつもりなんだい?」
「無論、こちらも力による真っ向勝負を挑みます。私は如何なる時も、ただ前進するのみですから」
「ほぉ~。見上げた根性だな。凪、オレに恥をかかせないよう良い勝負をしてくれよ?」
「はいっ! 隊長のご期待に添えるように頑張ります!」
「……だが、やりすぎていつぞやの武道大会の時みたいに城をブッ壊すなよ。そうなったらオレ達も華琳に責任を問われちまうんだからな」
「……努力はします」
(今なんかや~な間を感じたんだが……ホントに大丈夫なんだろうなぁ……)
これは凪だけに限った話ではないが、魏のメンツ、いや、ひいてはこの大陸に生きる武人という人種は熱が入ると加減というものを忘れてしまう傾向にある。常に強者との出会いを求め、己の力を試したくなる欲求があるのだ。武人として生きる以上その気持ちは理解できなくはないが、周りに迷惑をかけるような事をしては大問題である。以前行われた魏の首脳陣同士による武道大会はまさにその典型。褒賞が出る大会だったとはいえ皆が皆本気を出し、城内に破壊の爪痕を残したのだ。言い換えればそれは彼女達が今までそれだけの鍛錬を積み重ねてきた証とも言えるのだが、やはり周りの物を壊すような真似をするのはよくないだろう。城の修理だって無料で出来る訳ではないのだ。ましてや今から凪が相手にする人物は樺憐である。樺憐はちゃんと加減はするだろうが、凪はそうもいかない。彼女の実力では本気を出しても勝負になるのかすら疑問だ。そんな事態になれば城がどうなる事か。あまり考えたくない光景である。
願わくばそのような事態にだけはならないでほしいと零治は祈りつつ、準備運動をしている凪の後姿を見つめ、彼女の手合せの相手である樺憐がワイルドファングを装備して戻ってきた。
「お待たせしましたわね、凪ちゃん」
「いえ。こちらこそお付き合いいただき感謝いたします、樺憐様」
「では凪ちゃん。まずは貴方の好きなようにわたくしを攻めてごらんなさいな。遠慮は無用ですわよ」
「はっ!」
「ただし、お城を壊すような事はしてはいけませんわよ?」
「分かっています」
「それは結構。それではいつでもどうぞ」
「では……行きますっ!」
ついに始まった樺憐対凪による鍛錬という名目の一騎打ち。凪は腰を低く落として構えていた状態から地面を蹴って樺憐との間合いを一気に詰める。対する樺憐はただ立っているだけ。完全な棒立ちだ。
もちろんこれは彼女が凪の事を侮っている訳ではない。まずは様子見。凪が自分を相手にどこまでやれるのか、そして彼女の実力が如何ほどのものなのかを肌で感じるための行為である。
「はああっ!」
樺憐との間合いを充分に詰めた凪は裂帛の気合いを放ちながら右の拳による中段突きを打ち込んだ。格闘術を得意とする彼女にとって、同じ素手による格闘術を得意とする樺憐は強者などという生易しい存在ではない。鍛錬による手合せとはいえほんの少しの油断が命取りになるし、手を抜けるような相手でもない。凪の攻撃は最初から全力。様子見などをする余裕すら無いのだ。
「ふふ。良い攻撃をなさいますわね」
しかし相手が樺憐では凪の全力攻撃すらも届きはせず、彼女は身体を右に捻りながら右手を突きだし、掌で軽く凪の腕をパンッと叩いて拳の軌道を逸らしていとも簡単に躱してみせた。だが凪もこの程度の事で慌てる程未熟ではない。彼女も樺憐にこの一撃が当たらない事ぐらい想定済みだ。凪も一廉の武人。樺憐との闘いにおいては二手三手先を読みながら行動しているのである。
「流石は樺憐様。ですが、これは想定の範囲内……これならどうですか!」
凪は右腕を内側に折りまげて肘を突きだし、そのまま素早く右に振り抜いて樺憐に肘鉄を放った。意表を突いた攻撃とは言えないが、正攻法の手段としてはベストなのかもしれない。先程の凪自身が述べていたように、相手が樺憐では下手な小細工をしても無駄なだけなのだ。力による真っ向勝負を挑むのなら、この選択は最善と言えるだろう。
「おっと!? ……ふふ。なかなかどうして。お上手です事」
素なのか演技なのか、樺憐は一瞬驚いたような表情を浮かべはしたが、凪のこの一撃も左手をパッと開いてガッシリと掴み取って受け止めてみせる。だが凪の攻撃はまだ終わってはいない。右手は樺憐の手で止められてはいるが、まだ左手は使えるのだから。
「まだまだ。この程度で終わりはしません! はああっ!」
「おっとっと! ふふ。凪ちゃんは本当に苛烈ですわね」
凪は左手で握り拳を作り、大きく振り上げて樺憐に向かってハンマーのように振り下ろして殴りかかったが、その一撃も樺憐には届かず、彼女はすぐさま凪の肘から手を離し、その場からバックステップをしてヒラリと躱した。
パッと見では凪が樺憐を相手に対して善戦しているように見えなくもないが、実際はそうではない。凪の攻撃は全て樺憐には届いていないし、樺憐の実力なら隙を突いて反撃をする機会などいくらでもあったはず。
だが彼女は一切手を出してなどいない。樺憐はまず凪の実力を肌で感じたいから自分は手を出さず、様子見に徹しているのである。もしもここから樺憐が反撃に転じれば、勝負は一瞬で決する。この勝負の見所は、やはり凪が樺憐を相手にどこまで食い下がる事が出来るかだろう。
「へぇ~。凪の奴、樺憐を相手に頑張ってるじゃないの」
「恭佳、そうでもないですよ。現時点では樺憐は一切攻撃を仕掛けていないんです。そのせいで凪が善戦しているように見えるんですよ」
「ああ。ここから樺憐がどう出るかだな。アイツが反撃に転じれば、勝負は一瞬でついちまう。凪の力が試されるのはここからだ」
「ふわぁ~……兄さん。これは何の騒ぎですかぁ……?」
「うぅ~……うるさくて眼が覚めちゃったよぉ」
赤壁での戦、更にそこから建業での激戦の疲労感から未だに寝ていた奈々瑠と臥々瑠が凪と樺憐の鍛錬の喧騒で叩き起こされ、寝ぼけた顔をして眠たそうに手で眼をゴシゴシと擦りながら大欠伸をし、おぼつかない足取りで東屋の方へとやって来た。
「ん? あぁ、奈々瑠、臥々瑠。やっと起きたか」
「起きたんじゃありません。表がうるさいからそれで眼が覚めたんですよ。ふわぁ~……」
「あぁ、そういやアンタら二人が使ってる部屋はこの近くだっけ。ハハハ。確かにうるさいかもねぇ。この世界ならではのモーニングコールだね」
「恭佳姉さん。他人事だと思って笑わないでよねぇ。……で、何でお母さんと凪が闘ってるの?」
「見ての通り、鍛錬です。で、私達はコーヒーを飲みながら見物という訳ですよ」
「お前らも見てくか?」
「はい。どうせ今日はやる事が無いので」
「でもさ、見なくても結果は分かりきってるんじゃないの? 言っちゃ悪いけど凪じゃお母さんに勝てるはずないじゃん」
「まあそう言うなよ。勝負ってのは何が起こるか分からんものだ。ここで凪が意外な実力を発揮出来たら、面白い事になるかもしれんぞ?」
勝負は何が起こるか分からない。まさにその通りだ。それについては零治が赤壁で負った左眼の傷が物語っている。これについては、当時零治が予測していなかったほどの実力を星が発揮したからに他ならない。
武人は常に己を高めるために鍛錬を積み重ねている。凪も例外ではないし、彼女は人一倍マジメな性格をしているし、闘いとなれば相手が自分よりも強者でも簡単に怯んだりしない。
そして何より、この闘いを隊長として尊敬している零治が見ているのだ。彼に良い所を見せたい、恥をかかせたくないという彼女の想いが意外な効果を見せ、凪に一筋の勝利の道を示してくれるかもしれないだろ。ただし、その道はとても細く、険しい道筋ではあるが。
(やはり樺憐様は強いっ! こうなったらこれを使う他ない……)
凪の主な闘い方は素手による格闘術。もちろんこれ自体も彼女の強さだが、凪の十八番は氣を使った攻撃であり、奥の手なのだ。ただし、威力の加減を間違えると城を壊してしまう事態になりかねないので中々に難しい所だが、これ以外に凪には選択肢は残されていないのだ。
凪は両眼を閉じて全神経を研ぎ澄ませ、全身を駆け巡る生命の源とも言える己の氣を右脚に集中させて練り上げ始める。
「はああああ……」
「あっ! 凪の奴まさか……っ!? 樺憐っ!」
「分かっております。城に被害が及ばないように是が非でも止めて見せましょう」
「ホント頼むぞ! 折角の休日なのに華琳に怒られるのはマジ勘弁だからなっ!」
いま行ってる鍛錬は凪の個人的なものだ。前に魏で行った武道大会とは違う。そんな状況で城を壊すような事が起これば当然凪と樺憐は華琳からお叱りを受ける羽目になるし、零治も凪の申し出を受けるように樺憐に促したから無関係とは言えない。当然責任を問われる事になるだろう。
今の状況でその事態を回避できるカギを握っているのは樺憐だ。彼女も零治の信頼に応えるべく、全身全霊を以って凪の攻撃を受け止めるべく我流格闘術の構えを取り、体勢を整えた。
「樺憐様っ! お覚悟! 私の全身全霊の一撃、受けてもらいますっ!」
「良い気迫ですわね。ならば見せてもらいましょうか。貴方の全身全霊の一撃を」
「はああっ! 猛虎蹴撃ーーっ!!」
裂帛の気合いと共に放たれた凪の渾身の一撃。彼女が振り上げた右脚からはこの一撃のために練り上げられた氣の塊が撃ち出され、それは赤々と輝き、まるで燃え盛る紅蓮の炎のようであり、樺憐に向かって飛んでい行くその姿は巨大な火球である。こんな物がもしも城の城壁にでも直撃したらどうなるか。間違いなく壊れる。それだけの威力があるのが見て取れる。これ程の物を樺憐はどうやって止めるつもりでいるのか。今こそまさに彼女の手腕の見せ所である。
「ふむ。こんな物が城壁にでも当たったら大変ですわね。ならばこちらも似た方法で迎え撃つとしましょうか。……はあああああ」
樺憐は両眼を閉じて凪と同じように全神経を集中させて魔力を右手に集めて練り上げる。すると彼女の右手に魔力のオーラと思われるものが出現し、ユラユラと揺らめきながら色白に輝きを放っていた。
そして樺憐はその右手で手刀の形を作り、ゆっくりと正面にかざしながら大きく宙に振り上げ、迫り来る凪が放った氣弾を見据える。そして。
「チェストォォォォォっ!」
樺憐は凪に勝るとも劣らない気合を放ちながら右手を一気に振りおろし、赤々と輝きながら迫り来る氣弾に手刀を叩き込んだ。彼女の右手が氣弾にぶつかると、手の接触面からまるでゴムボールを押えつけているかのようにグニャリと歪んで変形し、更には氣弾の動きまで止めて見せたのだ。
しかしまだ氣弾には勢いが残っているらしく、樺憐の右腕は小刻みに震えていた。だが樺憐はそのような障害などものともせず、右手に更なる力を入れて下に振りおろし、一緒に押さえつけていた氣弾も地面に叩き落としたのだ。軌道を変えられて地面に打ち落とされた氣弾は樺憐の足元に直撃して爆発し、その場の地面を抉って中くらいの大きさのクレーターを作り上げた。
「ふむふむ。相変わらず荒削りですが、今の氣弾は中々の一撃でしたわよ」
「…………」
今の凪に樺憐の賞賛の言葉など届いていやしない。決して手など抜いてはいない。確かに城を破壊しないように威力を多少はセーブしたが、それでも相手を倒すために最大級の一撃を放ってみせた。なのに結果は見ての通りだ。凪の放った氣弾は樺憐の手刀で止められただけでなく、そのまま地面の上に叩き落とされたのだ。こんな芸当を披露した人間など、凪は今まで見た事が無いし、出来る人物が居るとさえも予想してはいなかった。彼女が受けた衝撃は計り知れないだろう。
「凪ちゃん。氣とは何も飛ばすだけや、肉体強化だけが攻撃手段ではありませんわ。極めれば様々な使い方が可能ですのよ?」
「そんな事が可能なのですか?」
「まあ、わたくしの場合は氣ではなく魔力になりますが、この二種の根幹は同じ。それは使い手の生命力。今から特別にお見せしましょう。その様々な使い方というものを」
樺憐は両腕を軽く持ち上げて正面にかざし、手甲のブースターを展開する。するとファングのブースターのノズルに白く光る細かい粒子、樺憐の魔力が充填されていき、充分な魔力が溜まった所で樺憐は両腕を肘鉄を打ち込むようにブンッと後ろに振り抜いた。
するとどうした事か。樺憐が装備しているファングのブースターから長さが一メートル程ある白く光るスピア状の形状をした光の塊が姿を見せたのだ。
「……亜弥。何だあれ……?」
「見た所……魔力で形成された刃みたいですね」
「おいおい。樺憐の奴、あんな事も出来たの? まるでビームサーベルじゃん」
「か、樺憐様。それが今仰ってた……?」
「ええ。わたくしの魔力……凪ちゃんの言葉を借りるなら、氣を練り上げて固め、刃に仕上げた物」
「……凄い。そんな事が出来るなんて」
「今回は威力は抑えていますので当たっても痛いだけですが……最大まで上げると、鋼鉄もバッサリと斬り裂くほどの威力になりますわよ」
「なっ!? それ程の威力があるのですかっ!?」
「ええ。……では凪ちゃん。今度はわたくしが攻める番ですわよ!」
「っ!」
様子見は終わりだ。今度は樺憐が反撃に転じ、地面を蹴って低姿勢で凪との間合いを詰め、自身の間合いに捉えた所で樺憐は右、左と腕を曲げた状態で振り抜き、ファングから伸びているブレードで凪に斬りかかった。
「くっ!」
凪は咄嗟に両腕をクロスさせて防御の構えを取り、樺憐の猛攻を何とか凌いでみせる。ファングから伸びている光の剣が凪の閻王に触れるたびに火花が散り、ガリガリと金属を削る鈍い音が鳴り響いた。樺憐は先程の説明で、威力を最大まで上げると鋼鉄をも斬り裂くと言っていたので威力を抑えている点は間違いないだろう。だがそれでも驚異的な威力を発揮している点は変わらない。殴りつけられた時に走った衝撃は凄まじく、まるで鈍器で殴られたように感じる程で、リーチも大幅に伸びている。今の樺憐はトンファーを持っているようなものなのだ。樺憐が見せたもう一つの姿を前にし、凪はどう対処したものかと頭を悩ませてしまう。
(くぅ! 凄い衝撃だ! それに今の樺憐様は両手に剣を持っているのと変わらないから間合いも大幅に伸びている! これを凌ぐのは至難の業だっ!)
「考えている余裕などありませんわよ!」
「っ!?」
樺憐のニ連撃を辛うじて凌いだというのに、ここに来て彼女は凪に更なる追い打ちをかけるようにクルッと身体を反転させて凪に背を向け、両腕を曲げて肘鉄を打ち込むように腕を振り、光の剣に先端を利用して突きを放ったのだ。この突きの威力も凄まじく、閻王に激突すると激しい火花を散らし、凪はその衝撃で後ろへと大きく押されてしまった。
「くぅ……っ!」
「まだまだ行きますわよっ!」
樺憐に行動の権利を与えただけでこの有様だ。彼女の猛攻は留まる所を知らず、凪は防戦を強いられてしまい反撃する余裕すら与えられなかった。彼女も樺憐の強さは知っていたが、見て知ったのと直接手合せをして知ったのとでは当然情報としての質も段違いだ。凪の場合、樺憐の強さに対する情報は前者になる。
これまで手合せをする機会はいくらでもあったし、いつかしたいとも考えていた凪だが、なんやかんやでタイミングがなかなか合わず時間だけが過ぎてしまい今に至っているのだ。
「はあああああっ!」
「なっ!? なんて滅茶苦茶な動きを……っ!」
今日この日、初めて凪は樺憐の強さを肌で感じる事ができ、それと同時に思い知らされた。最初は樺憐が手を出さずにいたから良かったものの、彼女が攻め手に回った瞬間には立場は完全に逆転しているのだ。樺憐の驚異的な強さに加えて読めない動き。いま彼女が繰り出してきた常識外れの攻撃もそうだ。
樺憐は再度凪との間合いを詰めると、軽く跳躍して縦にクルクルと高速で回転し、いきなり動きが止まったかと思ったら右脚を思いっ切り振り上げた体勢で止まり、そのまま空中で踵落としを繰り出してきたのだ。こんな動きの対処の仕方など分かるはずが無かった。せいぜいバックステップをして間合いを離すのが限度だ。
「せいやぁっ!」
「なんのっ!」
「ふふ。よく躱しましたわね。ならば……これはどうですっ! はあっ!」
「っ!」
樺憐は踵落としを繰り出し、そのまま地面に着地すると今度は右脚を軸にして身体を捻りながら後ろを向いたと思った瞬間、前に向き直ると同時に左脚を弧を描くように振り上げ、脚を振り上げた勢いを利用したのか、そのまま軽く宙に飛び上がると、更に空中内で右脚も弧を描くように振り上げて凪に二連続の足技を浴びせにかかった。
凪はこの攻撃も上体を軽く逸らして何とか躱したが、具足に付いている三本の鋭く尖った爪が前髪をかすめ、空中で彼女のグレーに近い銀色の髪を数本散らした。
「あらあら。これも避けられるなんて。ですが……これで終わりですわよっ!」
樺憐は空中で身体を丸めながら縦に一回転すると、凪に向き直った瞬間に右脚を突きだし、その勢いと共に彼女に向かって斜めに飛来して飛び蹴りを繰り出した。凪は咄嗟にバックステップをして安全圏に退避し、その一撃も躱したが樺憐の方が一枚上手だったらしく、蹴りが地面に直撃した瞬間に素早く踏み込み、左腕を振り抜いて光の剣の切っ先を凪の首筋に突き付けたのだ。これで詰みである。
「なっ!? ……参りました」
「ふふふ。凪ちゃんはまだまだ精進が必要ですわね」
「はい。次は負けませんよ」
次の再戦の日を心待ちにすると同時に、お互いの闘いぶりを評価する意味合いも兼ねて樺憐と凪はガッシリと握手を交わした。と、その時。どこからか互いの健闘を称えるように拍手が送られてきたのだ。
樺憐と凪は最初は零治達が拍手をしているのだろうと思い彼らが使用している東屋に眼を向けたが、零治達は拍手などしてはいなかった。では誰が拍手をしているのか。この拍手をしている人物を捜そうと樺憐と凪が中庭をキョロキョロと見回していた時、拍手をしている人物が樺憐と凪の二人に声をかけてきた。
「樺憐、凪。なかなか面白いものを見させてもらったわね」
拍手の主は華琳だ。他には春蘭に秋蘭、霞に季衣と流琉、真桜に沙和と魏の首脳陣、一部を除くと完全に武闘派組が勢揃いである。流石に騒ぎが大きくなったため、二人の闘いの騒音を聞きつけて中庭に集まって来たのだ。
「あらあら。皆さんお揃いで。少し騒がせすぎましたかしら?」
「大丈夫よ。気にしないで。それにしても二人とも、見事な闘いぶりだったわね」
「お褒めに預かり光栄ですわ」
「ありがとうございます。華琳様」
「つーか、凪。何で樺憐様と手合せなんかしようと思ったんよ。ちょっと考えりゃ勝てん事ぐらい分かるやろ?」
「そうなのー。凪ちゃん、訓練するんならちゃんと勝負になる相手を選ぶべきなのー」
「それでは意味が無い。蜀との決戦になれば、こちらは相手を選ぶ事など出来やしない。来たるべき戦いに備え、自分より強い者と鍛錬するのは当然だ」
「うむ。凪、良い心がけだな。そういった向上心無くしては、華琳様にお仕えする資格など無いからな」
「勿体なきお言葉です、春蘭様」
「どれ。では私も凪に倣うとしようか。樺憐、次は私の相手をしろ」
「……お断りしますわ」
「何ぃ!? 貴様ぁ! 凪は良くてなぜ私は駄目なのだ! 私が相手では不服だとでも言うつもりか!」
曹魏の軍の中核を担っている春蘭の申し出を、短い間をおいて樺憐は断って来たので春蘭はえらく憤慨した。まあ、彼女が怒る理由は分かりやすい。春蘭は魏武の大剣と謳われるほどの実力者であり、本人も自分の武勇に誇りを持ち、強い事も自覚している。それを鼻にかけてる訳ではないが、実力が下の凪は相手をしたのに自分はしないだなんて、これではまるで凪よりも弱いから相手をしてくれないと春蘭は感じたのだ。
しかし、樺憐が春蘭の相手をしたくない理由は他にあった。
「落ち着いてくださいな、春蘭さん。別に貴方が相手で不服とは思ってません。寧ろ不足無しなくらいですわ」
「ならばなぜ私の相手は嫌だと申すのだ!」
「それは……春蘭さんの性格を考えると、一度負けたぐらいでは諦めませんわよねぇ?」
「当然だ! この私の闘志、一度敗れたぐらいでは折れはせぬぞ!」
「でしょうねぇ。で、そこからもう一度再戦。また負けてまた再戦。それを延々と繰り返されるのが眼に見えて分かるから嫌なのですわ」
「うん? 樺憐、言ってる意味がよく分からんのだが?」
「零治さ~ん……」
そこまで難しい内容の説明ではないというのに、春蘭は今ひとつ理解できない様子で首を傾げるだけだ。
樺憐が涙目で懇願してくるので零治は仕方なく代わりに説明してやることにする。ただ、仮に春蘭が樺憐の言いたい事を理解したとして、納得してくれるのかは別問題ではあるが。
「あぁ、分かった分かった。……春蘭。お前、樺憐との勝負、自分が勝つまで続ける気でいるだろ」
「当然だろ。でなければ鍛錬にならんではないか」
「いや、春蘭。んな事されたら樺憐が嫌がるのは当たり前やろ。ってか、ウチも嫌やし。それ以前にそれは鍛錬とは言わん。ただの虐めや」
「どこが虐めなのだ? 勝負をするのならば相手に勝つまで続けるのは当然ではないか」
こんな事をされては樺憐だけでなく誰だって嫌がる。嫌がらないのはせいぜい春蘭と思考回路が全く同じ人間だけだろう。ましてや彼女は魏のメンツの中でも底無しの体力の持ち主なのだ。そんな人物といつ終わるかも分からない勝負を延々と繰り返されては堪ったものじゃない。終わるとすればそれは春蘭が勝負に本当に勝つか、樺憐が根負けして勝負を放棄するかのどちらかだ。
おまけに春蘭は納得のいかない事は自分が納得するまで繰り返す傾向にある。これは勝負事で言うなら諦めが悪いという事に直結する。これが戦ならば良い方向に働く事もあるだろうが、今回の場合、付き合わされる側は単に迷惑なだけでしかない。
「姉者……」
「ん? なんだ秋蘭。お前までそんな眼をして。私は別に間違った事は言ってないだろ?」
「いや、済まないが今回ばかりは私も霞の意見に同意だ。流石の私もそんな事に付き合わされるのはご免だぞ」
「むうぅ……。季衣、流琉。お前達はどうだ?」
「えっ、ええっと……」
「その……何と言いますか……」
どちらかと言うと秋蘭に傾倒しがちな流琉はともかく、春蘭に同調する傾向にある季衣でさえ眼を合わせようとせず、二人揃って苦笑いを浮かべながら言葉を濁した。魏きってのパワーファイターの二人でさえ、流石にいつ終わるかも分からない勝負に延々と付き合わされるのは嫌なのだと見て取れた。
「おい! 二人揃って眼を逸らさないでくれぇ!」
「春蘭。いい加減になさい。誰だってそんな事に付き合わされたら嫌に決まっているし、樺憐にだって自分の都合があるのよ。彼女の折角の休日を貴方は自分の鍛錬のために潰すつもりなの」
「うぅ……華琳様までそんな事を……」
「まあ、その飽くなき向上心は評価に値するけれど。私だってたまの休みを鍛錬だけで潰すなんて嫌だもの。今回は諦めるのね」
「むぅ……は~い」
「樺憐。春蘭の事は気にしなくていいわ。今日は休日を利用して自分のやりたい事をやりなさい」
「そう言っていただけると助かりますわぁ。感謝いたします、華琳さん」
「ええ。……所で零治。さっきから何を飲んでるの?」
「ん? あぁ、コレか。前に話しただろ? コーヒーさ」
「という事は、それが例の眠気覚ましのお茶なのね?」
「まあな」
「ふむ。ならば私も一杯頂こうかしら」
「そりゃ構わんが何が良いんだ? 色々と種類があるんだが」
「貴方と同じ物でいいわ」
「……良いのか?」
いま零治が飲んでいるのエスプレッソだ。コーヒーの中では味が濃いため、苦みの強烈さも半端ではない。初めて飲む人間にはいささかハードルが高い気がするため、零治は敢えていいのかと尋ねる。
だが、彼がこうして華琳に聞き返しているのはそれが理由ではない。いま零治の中にはちょっとしたいたずら心が芽生えており、念を押すためにこうして聞き返したのだ。
「ええ。構わないわ。まだどういう物なのか把握していないもの」
「だそうだ、樺憐。華琳にオレが『今』飲んでいる物と同じコーヒーを淹れてさしあげろ。エスプレッソだ」
「ちょっと零治。貴方が頼んだコーヒーはブレンドでしょうに」
「亜弥。それは『お前が』飲んでるだろ? オレが『今』飲んでいるのはエスプレッソだ」
「はぁ。どうなっても私は知りませんよ……」
「なら、他の方が興味を示した時のために、ブレンドとエスプレッソを纏めてお持ちしますわ。少々お待ちを」
誰かが興味を示した時のためにコーヒー自体を纏めて持ってくる樺憐の考えは間違いではないだろう。しかしそれでもこの世界の人間からすればコーヒーは受け入れがたい飲み物と言える。まず見た目が真っ黒な液体なため、確実に墨を連想するはず。なぜならこの世界の人にとって一番馴染み深い黒色の液体が墨だからだ。次に味。コーヒーは豆の種類によって微妙に味が違うが、共通してあるのが強烈な苦みである。
この世界で嗜まれているお茶にも苦味はあるし、華琳が今まで飲んできたお茶にも確かに苦い物もあったがコーヒーの比ではないだろう。新しい物も積極的に受け入れる彼女がコーヒーに対してどんな反応を示すのか。まあ、現代人である零治から言わせれば最初のリアクションはだいたい強烈な苦みを前にして顔を歪めると予測している。彼はコーヒーを啜りながら華琳のそんな顔が拝めることに内心ほくそ笑んでいた。
「……おい。音無」
「何だよ?」
「お前達天の国の人間は……墨を飲む習慣でもあるのか……?」
零治が持つカップを覗き込んだ春蘭の口から早速墨と言う単語が出てきた。その言葉を耳にするなり、他の者達も春蘭に倣って零治達が手にしているカップの中を覗き込み、湯気を昇らせながら芳ばしい香りを放つ黒色の液体を眼にすると途端に嫌そうな表情になった。
「おい。言っとくがこれは墨じゃねぇしれっきとした飲み物だ。確かにこの世界の人間から見れば墨にしか見えないけどよ」
「……ねえ、流琉。これ何となく醤油の色にも似てない?」
「あっ、言われてみれば確かに」
「季衣、流琉。頼むから横でそういう事言うんじゃねぇよ。飲む気が失せるだろ……」
「なあ、姉さん。それ旨いんか? どう見ても不味そうにしか見えへんで」
「まあ、強い苦みはありますけど慣れると美味しいですよ」
「う~ん……確かに美味しそうな匂いはするけど。でもこの色、やっぱり沙和は受け付けれないのー」
「亜弥様。先ほど華琳様が眠気覚ましのお茶と仰っていましたが、それを飲むと眼が覚めるのですか?」
「ええ。人によって個人差はありますけど、私達は眠気覚ましにコレを飲むのが習慣になってましてね」
「そうなんですか。……隊長。私も一杯頂いてもよろしいでしょうか?」
華琳以外に一人、早速コーヒーに興味を示した人物が現れる。凪だ。しかし、コーヒーを口にするとどういう反応をするのかはおおよそ見当がつく。彼女もお茶を飲んだりはするが、華琳のように食通が口にするような物ではなく普通のお茶だ。ましてやこの世界では馴染が無い強烈な苦みがあるコーヒーを果たして凪は飲み切れるのか疑問だが、別に断る理由など無い。興味を示す者は拒まず。それが零治の考えだ。
「ああ。なら樺憐が物を持ってきたら淹れてもらえよ」
「お待たせしましたぁ。コーヒーをお持ちしましたわよぉ」
「ほら。来たぞ」
丁度いいタイミングで樺憐が戻ってきた。彼女が手にしている木製のお盆の上には黒色の液体が収まっている二つのサイフォン。それと人数分の竹で出来たカップだ。樺憐が木製のお盆を零治達が使用している東屋に設けられている卓の上に置くと、周りを取り囲んでいる魏のメンツの視線は一斉にサイフォンに収まっているコーヒーに向けられた。カップに収まっている少量のコーヒーでもインパクトが強いのに、サイフォンに入ってる大量のコーヒーを眼にし、華琳を始めとする魏のメンバーが受けた衝撃は並大抵のものではなかった。
「うーん。やっぱどう見ても墨にしか見えへんのよなぁ。なあ、恭佳。これ絶対墨やろ?」
「だから墨じゃないって言ってるじゃん。だいたい墨からこんな芳ばしい香りがするか?」
「おい。頼むから墨からいったん離れろ。……樺憐。凪も一杯飲みたいとさ」
「あら。そうですのぉ? 二種類用意してますがどちらにしますかぁ?」
「えぇっと……隊長と同じ物で」
「あぁ、凪。零治がいま飲んでるコーヒーは――」
「んっ! んん! ……亜弥、ここは凪の意思を尊重してやろうじゃないか」
せっかく亜弥が凪に忠告をしようとしたのに、零治はワザとらしく咳払いをして彼女の言葉を遮った。
どうも今の彼はいたずら心に目覚めたらしく、凪にもエスプレッソを飲ませてその反応を見て楽しもうという魂胆のようだ。確かに現代人の零治達からすれば、この世界の人間がコーヒーに対してどういう反応をするのかは興味があるが、樺憐が親切心で用意してくれたのにこれではコーヒーに対する印象を悪くするだけのような気がしてならない。
「はぁ。もう好きにしてください……」
「ああ。そうさせてもらう。樺憐、華琳と凪の二人にエスプレッソを」
「承知しましたぁ」
「母さん。私にもください。私はブレンドを」
「アタシも飲む飲む~。今度はお砂糖はあるんだよね?」
「ええ。そこの器に入ってるわよぉ」
樺憐はまず、奈々瑠と臥々瑠にブレンドコーヒーを用意して二人の前までカップを差し出す。樺憐からコーヒーを受け取った奈々瑠は何も手を加えず、零治達が普段飲んでいるようにブラックの味を楽しむようにそのまま飲み始めた。それとは対照的に臥々瑠はカップを受け取ると、砂糖の入った容器の蓋を開け備え付けのスプーンで砂糖を掬い取ると、一杯、また一杯とドサドサと入れて計十杯の砂糖を入れ終えると、カップとセットになってる小さい木製のスプーン、マドラーでコーヒーをかき混ぜて砂糖を馴染ませ、それを口にした臥々瑠は表情をほっこりと綻ばせた。
「はぁ~。美味しい~」
「いつも思うんだが、お前そんなもん飲んでよく虫歯にならねぇなぁ」
「だって歯はちゃんと磨いてるもん」
「普通の人間なら虫歯と糖尿病まっしぐらだな」
「……臥々瑠。それちょっとアタシにも飲ませてよ」
「いいよ~」
「あぁ、姉さんやめとけよ。オレも一回飲んだが、それはコーヒーの苦みなんかこれっぽっちもしないぞ。ただの黒色の砂糖水だからな。それ」
「それでも気になるんだよ。……ふむ。どれどれ」
臥々瑠からカップを受け取り、恭佳は口をつけて軽く砂糖が大量に入ってるコーヒーを啜ってみたが、啜った瞬間に口の中一杯に広がってきたのは甘ったるい砂糖の味。零治の言う通りコーヒー特有の苦みなどこれっぽっちもしやしなかった。恭佳は別に甘い物が苦手ではないし嫌いでもないが限度というものがある。
流石の彼女もこれは飲む事が出来ず、異常な甘さに耐えきれなくてその場に吹き出してしまった。
「ぶふぅっ! あんだこれ!? めっちゃ甘いじゃんか! うぇぇ。気持ち悪っ!」
「だから言っただろ。やめとけって」
「カフェオレでもこんなに甘くないよ! ……臥々瑠。アンタよくこんな物平気な顔して飲めるねぇ。アタシには無理だわ」
「美味しいのに~」
「好みは人それぞれだが、お前の場合は極端だし限度を超えてるって事だ。……樺憐。華琳と凪の二人にも早く淹れてやってくれ」
「は~い」
樺憐は次にエスプレッソが入ったサイフォンを手に取り、それを傾けて二つのカップに熱々のエスプレッソを適量注ぎ、華琳と凪の二人に手渡した。
樺憐からカップを受け取った華琳と凪はカップを覗き込んで改めてコーヒーという飲み物をジッと見てみる。湯気と共に鼻腔をくすぐる芳ばしい香りは心地よいが、異様な存在感を放っている黒色の液体はこの世界の人間には衝撃が強く、やはり口にするのを躊躇わせてしまう。
「……こうして間近で見ると、本当に墨みたいな色をしているわね」
「ですね。香りは確かに良いのですが……」
「だからコーヒーの前で墨の話はするな。そういう考え方をするから飲みづらくなるんだよ。……んっ、んっ。あぁ~、旨い」
「見た所零治は普通に飲んでいるし、ちゃんとした飲み物なのは間違いないでしょう。それにいつまでもこうしていては冷めてしまうわ。私達も頂きましょう」
「そ、そうですね。……では隊長。いただきます!」
「どうぞ」
「んっ!」
意を決して、カップに口をつけて傾け、コーヒーを口の中に流し込んだ華琳と凪。次の瞬間には口の中一杯にコーヒーならではの苦みと芳ばしい香りが突き抜けた。今まで体験した事の無い強烈な苦みを前にして華琳と凪は口の中のコーヒーを思わず吐き出しそうになったが何とか飲み下す。しかしその表情は美味しいとは程遠いと物語っているほどに歪んでいた。
「……うぅ。なんて強烈な苦みなの。今まで飲んできたお茶の比じゃないわ」
「同感です。自分なんか吐き出しそうになりましたよ……」
「ククク。お二人さん。そんなに苦かったのか?」
「零治、何が言いたいの……」
ニヤニヤと意味深な笑みを浮かべている零治の顔を見るなり、華琳の表情は一気に不機嫌なものに変わった。まさかこんなに苦い飲み物だったとは想像もしていなかったのだ。聡い華琳の事だ。いま零治が浮かべている笑みも何を意味するものなのかすぐに理解したはず。だが怒る事も出来ない。零治と同じ物と注文を付けたのは自分自身なのだ。何より世の中の食品は様々な味がある。コーヒーはこういう味がする物なのだと割り切るしかないのだ。
対する零治も充分に華琳の表情を愉しんだし、これ以上彼女の機嫌を損ねるのは本意ではない。あまりやりすぎると、本当にコーヒーに対する印象を悪くしてしまいかねないだろう。だからこそフォローを入れておかねばならない。
「いや、別に。……華琳、凪。そんなに飲みづらいんなら砂糖と、このミルクって言う乳白色の液体を混ぜて飲めよ。そうすれば味がまろやかになって苦みも和らぐから飲みやすくなると思うぜ」
「……私の舌がお子様だとでも言いたいの」
「なんでそう悪い方に捉えるんだよ。そうじゃない。コーヒーには色々な飲み方があるんだ。純粋に苦みを愉しみたいんなら何も手を加えなくて良いが、砂糖だけを入れる。ミルクだけを入れる。あるいは両方入れる。そうやって味に変化をつけて自分の好みの味を見つけろって言ってるのさ」
「貴方が飲んでいるそれには砂糖は入ってるの?」
「いいや。ミルクは入れてるがオレは基本的に何も入れない派だ。疲れている時には砂糖を入れたりするがな。糖分は疲労回復に効果的なんでね。後はその時の気分次第だな」
「ふむ」
華琳はカップの中で湯気を立ち上らせている飲みかけのコーヒーを見つめ、どうしたものかと考えを巡らせた。この強烈な苦み、正直華琳は飲み切れる自信が無かった。何よりここまで苦い味がするとは予想もしていなかったのだ。この世界で飲んできたお茶のような味を想像していたのだが、実際はそれとは程遠い物。
しかも零治達はこれをお茶のような感覚で飲んでいるため、彼女は一応お茶の部類として認識している。だからお茶に砂糖を入れるなんて事が理解できないし、味の想像もつかないから頭を悩ませているのだ。
横で話を聞いていた凪もお茶に砂糖を入れるなんて聞いた事が無いし見た事も無い。だが零治の話が本当なら砂糖を入れるのも一つの手だと彼女は考えている。華琳同様、凪もこのままの状態では飲み切れる自信が無いので、参考として亜弥達もどんな風にして飲んでるのか訊いてみる事にした。
「亜弥様。亜弥様は砂糖とみるくとやらは入れてるのですか?」
「いいえ。私も零治同様、基本的に何も入れずに飲むので。砂糖とミルクも入れるのは気分次第ですね」
「恭佳様は?」
「アタシも零治達と同じ。基本的には何も入れない。まあ、いま飲んでる奴にはミルクが入ってるがね」
「なるほど。……奈々瑠と臥々瑠は?」
「私も何も入れてませんよ。初めは砂糖とミルクを入れないと飲めませんでしたけど、今じゃこの苦味にも慣れましたから」
「アタシは砂糖をいつもたくさん入れて飲んでるよ~。ホントはこんな普通のコーヒーじゃないんだけど、この世界じゃ作れないからね~。だから砂糖だけで我慢してるの」
「ふむ」
「凪。言っとくが臥々瑠のは参考にすらならんぞ。姉さんが飲んだ時の反応を見てるから分かると思うが、コイツのコーヒーは苦みが完全に消える程砂糖が入ってるから全く別の飲み物だぞ」
「それは臥々瑠がそれだけ甘い物が好きという事なのではないのですか?」
「コイツは単に苦いのが飲めないだけだ。舌がお子ちゃまなんだよ」
「ムッカ~っ! アタシの事バカにして~!」
憤慨する臥々瑠を零治はどこ吹く風と受け流してエスプレッソを啜った。二人のやり取りはともかく、凪は零治達の言葉を参考にして考えが纏まりつつあるようだ。零治、亜弥、恭佳の三人は基本的に何も入れない。それは苦みに慣れている証拠と、この苦味を含めた味を純粋に愉しみたいからだ。奈々瑠も何も入れていないが初めは砂糖とミルクを入れないと飲めないと言っていた。つまりこの苦味にはやはり慣れが必要なのだ。慣れていないのに無理をして飲んでも美味しいとは感じれないだろう。臥々瑠は極端だが慣れが無いから砂糖を大量に入れているのだろうと凪は考え、そして結論だ出た。
「隊長。私は試しに砂糖を入れてみようと思います」
「ん? ああ。そうしろよ。慣れない内はそうするのが良い」
凪は卓に置かれている砂糖の容器の蓋を開け、スプーンで掬い取って二杯コーヒーの中に入れて備え付けのマドラーでよくかき混ぜて砂糖をコーヒーに馴染ませた。量もそれほど多くないしこれで少しはマシになったはず。香りに変化はないが、凪は砂糖入りのコーヒーを試しに啜ってみた。
先程同様、口の中にコーヒー特有の苦みが広がったが、砂糖が加わっているおかげでその甘みが上手い具合に苦みを中和してくれて飲みやすくなっていた。それは凪の表情が物語っている。
「これは……さっきの苦みはまだありますけど、砂糖の甘みのおかげで和らいで飲みやすくなってますね」
「だから言ったろ。慣れない内は手を加えて飲んだ方が良いんだよ」
「お茶に砂糖を入れるなんて正直どういう味になるのか想像もつきませんでしたが、これは悪くないですね。これなら私も好きになれそうです」
普段から無口なため寡黙なイメージが定着している凪だが、彼女も人並みに甘い物が好きなのだ。苦みと砂糖の甘みがいいバランスで調和のとれたコーヒーは凪の口に合ったようである。
その姿を横で見ていた華琳は未だに考えが纏まらず、カップのコーヒーと睨めっこを続けていたので、零治は声をかけた。
「さて、華琳。凪はこう言ってるがお前はどうするんだ?」
「…………」
「無理しても良い事なんか一つも無いぞ。ここは素直に砂糖を入れて飲むのが賢明だと思うが?」
「ふっ。馬鹿にしないでちょうだい。私はこのこぉひぃとやらの純粋な味が知りたくて頼んだのよ。砂糖なんか入れないわ」
「なら早いとこ飲めよ。冷やしたコーヒーもあるが、それには氷が必要だ。そのまま放っておくと冷めて不味くなるだけだぞ」
「言われなくても飲むわよ。……んっ!」
華琳は妙な所で意固地になり、零治のアドバイスには従おうとせずカップに残っているエスプレッソを無理して全部口の中に流し込んだ。当然口の中一杯に広がるのは苦みだけ。この苦味に慣れていない以上、香りを愉しむ余裕などある訳が無い。今の華琳は優雅にお茶を嗜んでいるというより、ただやせ我慢をしてコーヒーを無理やり流し込んでいるだけだ。砂糖なんかに頼ったら零治に子供っぽく見られるかもしれない。そう考えて彼女はこんな行動をしているのかもしれない。
「んっ! んっ! ……はぁ、はぁ……っ! どう? ちゃんと飲んでみせたわよ」
「いや、今のはどう見ても無理して流し込んでいるようにしか見えなかったんだが……」
「無理なんかしてないわよ……」
「ならさっきコーヒーを飲んでいた時、顔を歪めていたのは?」
「だから無理なんかしてないと言っているでしょう。そこまで信用出来ないのならもう一度飲んであげるわよ。……樺憐、いま飲んだ物と同じのをもう一杯淹れなさい」
「はぁ。別に構いませんがぁ」
華琳がズイッと空になったカップを差し出してきたので、樺憐はエスプレッソが入ったサイフォンを手に取り、カップの中に適量のエスプレッソを注いであげた。コーヒーは熱々なので、華琳はフーフーと息を吹きかけて軽く冷まし、強烈な苦みで顔を歪めないように意識しながら二杯目のエスプレッソを口にした。
「んっ、んっ……!」
しかしその飲み方はコーヒーの香りと味を愉しむ姿とは真逆。どう見ても無理して飲んでいるだけだ。
口の中一杯に広がる慣れない苦みは耐えがたく、味わう余裕さえ無い。しかも少しずつ飲むのではなく一気に飲んでいるのだ。その姿は銭湯の利用客が風呂上りにコーヒー牛乳を一気飲みしているようである。普段の華琳からは想像もつかない姿を眼にする事が出来て面白いが、流石にそろそろ本気で止めないと不味いのではないかと零治は内心思い始めていた。
「ぷはぁ! ……はぁ、はぁ。どう? ちゃんと飲めたでしょ?」
「…………」
「まだ信用してないようね……」
「オレはまだ何も言ってないぞ」
「樺憐! もう一杯淹れなさい!」
「あの、華琳さん? そんなに何度もがぶ飲みすると身体に悪いし、夜眠れなくなってしまいますわよぉ?」
「それがどうしたというの。この曹孟徳、如何なる障害があろうとも全て力で捻じ伏せて突き進むのみよ!」
たかがコーヒー如きでどうしてここまで話が大袈裟になるのか理解に苦しむ。まあそれは置いておくとして、流石に今の華琳を放置するのは不味いだろう。エスプレッソとはいえコーヒーには違いない。つまり他のコーヒーほどではないにしてもカフェインが含まれている事に変わりは無いのだ。お茶にもカフェインは含まれているが、その量はコーヒーの方が圧倒的に多い。それに過剰摂取が身体に悪いのも事実だ。
カフェインを一度に大量に摂取すると、吐き気、目眩、耳鳴り、悪心、痙攣、不整脈、動悸、筋肉痛、不穏などの症状を起こすと言われている。因みにこれらの作用は一過性で普通半日くらいで回復するとの事。後は、これは余程の量を過剰摂取しなければ起こらないが、カフェインによる中毒死というのも実際にあるのだ。まあ、これはコーヒーだと約八十杯ぐらい飲まないと起こらないらしいのだが。
それにいくら華琳でもそこまで無茶はしない。何より彼女のキャパシティではそこまで飲めないはず。だが今の華琳を放置していてはどこまで無茶をするか分からない。今は大事な時期なのだ。こんな時に夜眠れなくなって明日以降の政務に影響が出ては大変だろう。
「華琳。樺憐の言う通り本当にやめた方が良いですよ。慣れない人間が一度に大量に飲むと夜眠れなくなるのは事実ですし、コーヒーに含まれてる眠気覚ましのある成分は過剰摂取すると人体に悪影響を及ぼすんですよ」
「そうそう。後は中毒死なんてのもあるしね」
「姉さん。アレは普通のコーヒーだと約八十杯ぐらい飲まないと起こらないんだぜ。そんなに飲む奴なんか普通居ないだろ」
「華琳さん。私と臥々瑠も初めて飲んだ時、夜眠れなくなった経験があるんです。そうなると結構辛いですよ?」
「あぁ、そんな事もあったねぇ。眼が冴えてなかなか寝付けなくてさぁ。確か眠れたのも結局夜明けの直前だったよね」
「…………」
「……華琳様。音無達もこう言っておりますし、あまり無理はなさらない方が」
「秋蘭。私は無理などしていないわよ。……樺憐、早く次を淹れなさい」
亜弥を始めとした現代人組の忠告、そこに加えて秋蘭がフォローを入れてくれたというのに、華琳の耳にそれが届く事は無く、彼女は樺憐に向かってカップを突きつけ早く次を淹れるように促した。
樺憐もどうしたものかと頭を悩ませ、零治に視線を向けてアドバイスを求めるが、その零治も右手で頬杖を突きながらヒラヒラと左手を振るだけ。もう好きにさせろという事だ。
「ハァ……。しょうがないですわねぇ。華琳さん、夜眠れなくなってもわたくしは一切責任を取りませんわよぉ?」
もう今の華琳には何を言っても無駄だ。彼女を止めるには、華琳自身が零治から子供扱いされていないと認識しない限りコーヒーを飲み続けるだろう。となればこれは華琳だけでなく零治も彼女を止める重要な役割を務めるという事になる。
樺憐はその事を零治に伝えるべく、彼に目配せしながら華琳のカップにコーヒーを注いだ。樺憐の視線を受け、零治も右手で頬杖を突きながら嘆息し、軽く頷いた。この件には彼にも責任がある。これ以上華琳にコーヒーを無理をさせてまで飲ませるのは零治も本意ではない。
「んっ! ……あら?」
「ん? どうした?」
「んっ、んっ。……苦みを不快に感じなくなったわ。それにこの味もなんだか癖になるわね」
「あぁ、舌が慣れたのかもしれんな」
「へぇ~。こういう味なのね。この独特の苦みと芳ばしい香り。悪くないわね」
早い段階で華琳の舌がコーヒーの苦みに慣れてくれたので、これなら彼女を止めるのに苦労する事も無さそうだ。何より華琳もコーヒーの味を気に入ってくれたようなので、この場に気まずい空気を残すという事も無いだろう。今の彼女の表情は本当にコーヒーの味を愉しんでいる顔をしているから。
「これに合いそうな茶菓子も考案する必要があるわね」
「華琳。だったら零治と樺憐を使って是非ともドーナツを作り上げてくれよ」
「どぉなつ……? 零治、何なのそれ?」
「ん~。どう説明すりゃいいんだぁ? 食感は饅頭の皮に近いかぁ? で、皮自体に甘い味が付いてて中も皮の生地で詰まった食い物、とでも言えばいいのか?」
「要するに餡の入っていない饅頭のような物なの?」
「そう思ってもらって構わないぜ」
「兄さん。最近のドーナツは中にカスタードが入った物とか色々あるじゃないですか」
「そうそう。カスタードが入ったフレンチクルーラーとかさぁ。あぁ、チョコがかかったオールドファッションも美味しんだよねぇ」
「奈々瑠、臥々瑠。黙れ。話がややこしくなる」
「ふむ。零治、それはこの世界の食材で作れそう?」
「正直かなり難しいぞ」
「そう。まあ、それについては戦が終わってから考えるとしましょう。……んっ、んっ。ふぅ。樺憐、もう一杯貰えるかしら?」
「……華琳さん。今ので三杯目なんですがぁ。飲みすぎると本当に夜眠れなくなりますわよぉ」
「分かっているわ。茶菓子も無しでお茶だけをそう何杯も飲んでも味気無いもの。これで最後にするわ」
茶菓子は無しでお茶の味だけを愉しむ嗜み方もあるにはあるし、華琳もそういう愉しみ方をする。だが彼女はどちらかと言えば良いお茶と一緒に良い菓子を嗜むのを好む方だ。華琳は樺憐から最後の一杯のコーヒーを淹れてもらい、優雅な姿でその味を愉しんだ。
因みに周りにも勧めはしたが、やはり色が色なので誰も飲もうとしないし、凪も一杯だけに留めていた。
………
……
…
その日の夜。
「…………」
辺りはすっかり暗くなり、城内の人間は見張りの兵士を除くと全員が眠りについている時間帯である。なのに部屋の主である華琳の眼はパッチリと開いており、彼女は寝台の上に横になって天井をただ無言で見つめていた。時折むずがゆそうに寝返りを打って眼を閉じてみたりするが、すぐに眼を開けて眠ろうとしなかった。いや、正確に言うと眠らないのではない。眠れないのだ。
「……どうしよう。全く眠れないわ」
零治達があれ程忠告をしたというのに、飲み慣れていないコーヒーをいきなり四杯もその日に飲むなんて無茶をしてしまったため、華琳は案の定眼が冴えてしまい眠れなくなっていたのだ。初めはどうせすぐに眠気が来るだろうと思っていたのだが、来る気配が全く無いし、時間が進むにつれて眠らなければと変に意識して眠ろうとしたためますます眼が冴えてしまい、彼女は頭を悩ませていた。その結果思考を働かせて脳が更に覚醒してしまい、今の華琳は負の連鎖に陥っていたのだ。
「参ったわね。まさかこんな事になるなんて。どうしたものかしら」
華琳は今までこのような経験などした事が無かった。彼女は王として多忙なため規則正しい生活をしているとは言い難いが、それでも睡眠はちゃんと取っていた。休む日どころか睡眠時間まで削って政務に励んではそれこそ本当に身体を壊してしまいかねない。王としてそのような事態だけは引き起こしてはならないのだから。今この瞬間も敵国との戦の真っ最中なら夜も眠れないという事はあり得なくはないが、現在はそんな事など起きてはいない。だからこそ華琳はどう対処していいか頭を悩ませていたのだ。
「こんな時間じゃ零治に相談する訳にもいかないわね」
時間帯が時間帯だ。間違い無く零治も寝ているだろうし、こんな事で彼を起こす訳にもいかない。何より事情を話したら何を言われるか分かったものじゃない。かと言って他の誰かを起こす訳にもいくまい。明日はみんな仕事があるのだ無論華琳も例外ではない。なので彼女は何が何でもこの状況を自分一人の手で打開しようと思考を巡らせた。
「……とりあえず本でも読みましょうか。そうすればそのうち眠くなるかもしれないわ」
よりによって脳を覚醒させるような選択肢を華琳は選んでしまった。この方法が有効なのは勉強嫌いの人種に限定される。誰とは言わないが、魏のメンツの中にも該当する人物が何人か居るが、華琳は少なくとも該当しないだろう。
だが今の彼女はそこまで考えが及ばず、寝台のから起き上がって降り、手持ち式の蝋燭台に設置されている蝋燭に小さな灯りをともし、仕事用の政務机の上にそれを運び、部屋に備え付けられている本棚から一冊の本を手に取り、椅子に腰かけてページをペラペラとめくりながら読書を開始したのだ。
………
……
…
「…………」
時間も忘れて本に読みふけっていた華琳の表情は酷い物だ。眼は半開きで真っ赤に充血しているし、髪もグシャグシャに乱れている。誰がどう見ても完全に寝起きの人間の姿である。
しかも表からは小鳥のさえずる声があちこちで聞こえ、窓からは日の光も差し込んできている。察しの良い方はもうお気づきだろう。結局華琳はあれから一睡もできず朝を迎えてしまったのである。
「今日ほど最悪な日は無いわね。戦の真っ只中でもないのに、一睡もできないまま朝を迎えるなんて……」
一睡もできないまま朝を迎える。これは誰が経験しても最悪な日でしかない。戦の真っ只中なら仕方ないと割り切れるが、そうでもないのに全く眠れないのはやはり最悪だ。しかも今頃になって眠気が押し寄せてきている。朝議まではまだ時間はあるが、今から眠れるほどの余裕は決して無い。何より今から寝てしまえば確実に起きれない自信が今の華琳にはあった。だがそんな理由で今日の朝議をスッポカす訳にはいかない。それは王としての彼女が決して許しはしないのだから。
「今日はこのままの状態で一日を乗り切るしかなさそうね。とりあえず眠気を覚ますために顔を洗いましょうか……」
このままジッとしていては寝落ちしてしまう可能性は充分にある。というか確実にしてしまうだろう。
完璧主義の華琳は自分のプライドに懸けて、何より王として朝寝坊するなど言語道断だ。焼け石に水かもしれないが、冷え切った井戸水で顔を洗えばこの眠気も少しは覚めるかもしれないし、何もしないまま部屋で過ごしているよりははるかにマシである。華琳は今の顔を誰にも見られたくないので、部屋の扉をそっと開けて顔だけを覗かせ、周囲を見回して誰も居ない事が確認できたら音も無く部屋から躍り出て、井戸がある中庭へと足を運んだのである。
………
……
…
「華琳様。全員揃いました」
「…………」
「華琳様?」
「えっ!? あぁ、ごめんなさい、春蘭。何?」
「いえ、全員揃いましたので朝議を始めたいのですが」
「そう。ではこれより朝議を始めます」
玉座の間に来てから華琳はずっとこの調子である。押し寄せてくる眠気を堪え、欠伸を噛み殺すのがやっとの状態で、意識が飛びかけたのも一度や二度ではない。彼女の朝の身支度の手伝いを担当している秋蘭もこんな姿の華琳は初めて見るし、明らかにいつもと様子が違うと疑問を感じていた。
「華琳様。もしや体調がよろしくないのでは?」
「別に体調は悪くないわよ。なぜそう思うの、秋蘭」
「いえ。朝から随分と気怠そうでしたし、それに眼も真っ赤になっていますので」
「このくらい大した事ではないわ。いいから朝議を進めるわよ」
ここまでの変調を見せてしまえば付き合いの長い春蘭や秋蘭の眼は当然誤魔化せないし、他の者達だって反応する。体調が悪いという訳ではないが、いつもと調子が違うのは事実だ。しかしここで昨夜一睡もできなかったと言う訳にもいかない。昨日零治達とコーヒーを飲んでいた時、三軍師を除くと首脳陣が全員揃っていたのだ。そして慣れな人間がコーヒーを飲みすぎるとどうなるかも零治達から聞かされている。
ここで自身の寝不足を明かせば、コーヒーの飲みすぎが原因だと結論づけられる可能性は極めて高いし、零治達は間違いなくそう断言するだろう。そうなれば零治が非難の矢面に立たされてしまう。主に春蘭と桂花からの。だが、あの時華琳は自分の意思でコーヒーを飲んだし、飲みすぎると夜眠れなくなるという零治達からの忠告も無視してしまっていた。つまりこれは自己責任になる。だから彼女は零治に責任をなすりつけるような真似はしたくないのだ。この状況、是が非でも誤魔化さねばならない。だが、零治達の眼はどうやっても誤魔化せなかった。
「なあ、亜弥。ひょっとして華琳の奴……」
「ええ。あの様子、昨夜は一睡もできなかったみたいですね。そして原因は間違い無く昨日のコーヒーの飲みすぎですね」
「やれやれ。だからわたくしは忠告しましたのにぃ」
「全くだ。しっかしさぁ、零治。エスプレッソってカフェインが少ないんだろ? そんな物を四杯飲んだぐらいで普通眠れなくなるの?」
「そこまではオレにも分からん。が、もしかしたら華琳はカフェインに対する耐性が低かったのかもな」
「かもしれないですね。この世界にはコーヒーは無いから飲む習慣も当然無いですし。でも、華琳さん今日はどうするつもりなんでしょうか? 本人は我慢してますけど、アレかなり眠そうですよね?」
「だよねぇ。アレ絶対仕事なんかできないよ。ホントどうするつもりなんだろうね、兄さん」
「まあ、それについてはオレが手を打ってやるさ」
「華琳様。幸い今の所、急ぎの案件はございませんので、体調が優れないのでしたら今日はご自愛ください」
「何。桂花、貴方までそんな事を言うの。一体いまの私のどこが調子が悪そうに見えるのかしら」
華琳は桂花を睨み付けるが半開きの寝ぼけた眼ではいつもの迫力が全然無いので怖いとは思わない。充血しきっているので、これで眼がちゃんと開いていたら別の意味で怖いだろう。それにしても何度も寝落ちをしかけたが、昨夜一睡もしていない状態でよくここまで明確に言葉を交わせるものだ。普通なら喋っている途中で欠伸が出たり、頭をコックリコックリと揺らしてしまうに違いない。今の華琳は気力だけで身体を動かしていると言っても過言ではないだろう。
まあそれは置いておくとして、こんな状態の華琳に仕事をさせてもまともな判断など下せないだろう。だが本人は大丈夫の一点張り。正攻法で攻めても無駄だ。ここは搦め手を入れる必要がある。なので零治が助け船を出してやる事にした。
「なあ、華琳。まずお前がいま一番気になる事は何なんだ?」
「決まっているでしょう。江東と江南の平定の進捗状況よ。風、その辺はどうなっているの?」
「はいー。まだ完了はしていませんが、稟ちゃんの協力もあって滞りなく進んでいますよー。ですよねー、稟ちゃん」
「はい。今の所、目立った混乱も起きていませんし、統治方針もほぼ纏まっています。後は最終調整を行うだけですね」
「そう。それは結構」
「秋蘭。いま現在、華琳の判断が必要な案件はあるか?」
「いや、幸い今の所は特に無い」
「なら今日一日、華琳が休んでも特に問題は無いって事だな?」
「うむ。そう思ってもらって構わない」
「だそうだ、華琳。お前は今日一日休め。休む事も大事な仕事だ」
「零治。私は大丈夫だとさっきから何度も――」
「ああ~、聞こえない聞こえない。秋蘭、オレは華琳を部屋まで連れて行く。構わないな?」
「ああ。すまんが頼む」
「では許可も得れた事なので、華琳……ちょいと無礼を働かせてもらうぜ」
今のままでは華琳はまともに歩く事も困難だ。ただ肩を貸すだけでは時間が掛かってしまう。零治は無礼を承知の上でズカズカと玉座へと続く階段を昇り、玉座に腰かけている華琳の膝の下と背中に両腕を回して彼女の身体をヒョイッと抱きかかえたのだ。いわゆるお姫様抱っこである。
「ちょっと!? 零治! これは何の真似っ!」
「ん? いや、このままお前の部屋まで連れて行こうかと思って」
「冗談じゃないわよ! 今すぐ下ろしなさい!」
「おいおい。暴れるんじゃ――。っでぇ!? おい! 顔に蹴りはシャレにならんぞ!」
「うるさい! 私を下ろさない限りやめないわよ!」
零治の腕の中で暴れる華琳は拳や足やらを振り上げて彼の顔面に狙いを定めて攻撃を仕掛けるが、流石に二度も当るほど零治も愚かではない。零治は頭を左右に振ったり後ろに逸らしたりして、的確に華琳の攻撃を躱しつつ彼女を抱えたまま器用に玉座の階段を一歩ずつ降りていく。
「おっとっと!? 秋蘭、悪いが後は任せたぜ」
零治の強引な行動により朝議はストップしてしまい、彼の腕の中でジタバタと暴れながらギャーギャー喚き散らしている華琳の姿に魏のメンツは呆気に取られてしまい、彼女をお姫様抱っこして玉座の間を去っていく零治の後姿を呆然と見つめるのだった。
「はっ!? 音無の奴! 華琳様を抱きかかえるなど、なんと羨ま……いや! 無礼な事をっ!」
「追いかけるわよ春蘭! あの変態をこのまま放置しては華琳様に何をするか分かったものじゃないわ!」
いち早く我に返った春蘭と桂花は怒り心頭の様子で玉座の間を一目散に駆け抜け、零治の後を追おうとした。が、このまま二人を行かせては華琳を休ませるために取った彼の行動が無駄になってしまう。
秋蘭は樺憐に目配せをして春蘭と桂花を止めるように指示を出した。今の二人を止められるのは彼女ぐらいだ。最強のディフェンダー兼アタッカーの出番である。
「あらあら。お二人とも。朝議はまだ終わってませんわよ?」
「うおっ!? こら樺憐! 何をするっ!」
「ちょっと! 離しなさいよ! 今の私達には朝議よりもやるべき事があるのよ!」
「問答無用ですわ」
出口まであと一歩の所で樺憐が後ろから春蘭と桂花の服の襟首をムンズと掴み、そのままズルズルと二人を引きずって連れ戻していく。春蘭と桂花はあらん限りの力を振り絞ってジタバタと暴れるが、その程度の力では樺憐の手を振り解く事など出来やしない。玉座の間には、春蘭と桂花の喚き声が虚しく木霊した。
………
……
…
「…………」
「やっと静かになってくれたか。全く。お前の部屋まではそんなに距離は無いのに、今日は妙に遠く感じたぜ」
先程までギャーギャー騒いでいた華琳も今は静かだ。が、その表情はとても不機嫌で、ブスッとした仏頂面をしながらそっぽを向き、零治とは全く顔を合わせようとしない。だが彼女は零治の腕から下りようと思えば下りる事は出来るのだ。現に零治もそこまで力を入れて華琳を拘束はしていない。なのに下りようとしないという事は、少なくとも華琳は本当に機嫌が悪い訳ではないはず。
玉座の間を出て、吹き抜けの廊下に来てからずっと無言だった華琳はようやく口を開いた。
「零治」
「何だ? 言っとくが部屋に着くまでは下ろさんぞ」
「逃げるつもりはないわ。今日は貴方の言う通り、ちゃんと休むわよ。それに……こうされるのも悪い気はしないから」
「フッ。そうかい。……あぁ、そうそう。華琳、お前に一つ言っとく事がある」
「何よ」
「お前、当分はコーヒー飲むの禁止な。飲むのはこの大陸が平和になってからにしろ」
「言われなくても分かってるわ。まさかこんな事になるなんて思ってもいなかったし、貴方の忠告を無視した私が悪いもの」
「それが分かってるんならオレはもう何も言わねぇよ」
「……ふわぁ。悪いけど、このまま寝させてもらうわよ。もう起きてるのも限界みたいだから」
「ああ。そうしてくれ。今のお前に一番必要なのは睡眠だからな」
一定の感覚で歩く際に起こる揺れは今の華琳には心地よく、眠気を誘うのにはうってつけだった。眼を閉じると、昨夜自分を悩ませていた眼の冴えが嘘のようにすぐに眠りにつき、華琳は気持ちよさそうな寝息を漏らしていた。
華琳の部屋に着いた零治は彼女を起こさないようにそっとベッドの上に下ろして寝かせ、身体を冷やさないように掛布団もちゃんとかけてあげ、部屋の扉を静かに閉じてその場を後にした。
因みにこの後、玉座の間に戻るなり春蘭と桂花が凄まじい剣幕で零治に詰め寄りながらギャーギャー色々と喚き散らし、春蘭に至っては零治に斬りかかって本気で彼を殺そうとしたのは言うまでもない。
零治「序盤にあった下ネタは一体なんだ……」
作者「下ネタ? 至高の間違いでは?」
亜弥「貴方にとってアレは至高なのですか?」
作者「当然だ。この話を思いついた時、真っ先に浮かんだネタだぞ!」
恭佳「ほうほう。つまりアンタはコーヒーを飲む時、美人なお姉さんの乳を搾って入れて飲むのが好みという訳か」
作者「何でそうなるの!? そもそも現実でんな事する奴なんて居ないし、オレは基本ブラック派だぞ!」
奈々瑠「……本当に居ないんですよね?」
臥々瑠「世界は広いからねぇ……」
樺憐「なるほど。貴方は随分な上級者でしたのねぇ」
作者「だから違う! 誤解だっつーの!」




