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第82話 斬滅!影狼VS黒狼

文章とはいえ、戦闘シーンに派手さを求めるとどうしてもキャラにこういう動きをさせてしまう。だがやはり、こういう作品ではスタイリッシュ性は必要不可欠だと思ってるので後悔はしてませんが。

今回のサブタイにある斬滅ですが、零治と黒狼の攻撃の描写の所々に全てを斬り滅ぼすような凶悪な一撃があるので、そういう意味合いから付いています。

今の赤壁はとても静かだった。ついさっきまであった、兵と兵がぶつかり合う時に聞こえる雄叫びも、互いの得物がぶつかり合う剣戟も、何も聞こえなかった。辺りはしんと静まり返り、せいぜい聞こえてくるのは吹き付ける風の音ぐらいだ。そしてもう一つ聞こえるのが、零治が歩を進めるたびに鳴り渡る水の音。彼が一歩前に進むたびに足元からは水溜りを踏みつけるような軽い水音が鳴り渡り、その周囲に小さな波紋が広がった。

目の前に立つ黒狼との距離が充分に縮まった所で零治は足を止め、黙って彼を睨み付ける。



「…………」


「フフフ。影狼、久しぶりだな……」


「ああ。そうだな……」


「……ん? おい。その左眼はどうしたのだ?」



と、黒狼が指摘したのは星に斬りつけられた左眼だ。出血は収まってはいるものの、傷口はまだそのままなのだ。それに顔も左半分、血で塗れて紅く染めあがっているため暗がりでも目立つから隠しようがない。まあ、知られたからといってどうこうなる訳ではない。なので零治はありのままに事の全容を教えてやったのだ。



「あぁ、これか。何。星にやられた。それだけだ……」


「クックック。貴様がこの世界の人間を相手に後れを取るとは珍しい事もあるものだな。叢雲の力は使わなかったのか……?」


「久しぶりに熱くなっちまってな。忘れてた」


「フッ。腕が鈍った事に対する言い訳にしか聞こえんな……」


「鈍ったかどうかはすぐに分かる事だぜ……」


「そうか。ならばもう一つ訊こう。貴様……その眼の色はなんだ。貴様の瞳の色は蒼のはずだろう。なぜ深紅に変わっているのだ。おまけに白眼の部分は黒に変わっているときてる。カラーコンタクトでも始めたのか……?」


「こんな悪趣味なコンタクトがあるのか? それ以前にこの世界でどうやってコンタクトを調達しろってんだ。物質変換魔法で確かに創れるだろうが、必要性は全く無いだろ……」


「ふむ。ならその瞳は本物という事か……?」


「……だったらどうした。今日の貴様はやけに質問が多いな」


「久しぶりに顔を合わせたと思えば色々と変わっている所があるからな。その眼もそうだが、左腕にも妙なガントレットなど装備しているからな。流石の私も気にはなるさ……」


「ほぉ~。貴様にそんな一面があったとは意外だな……」



零治は口ではこう言っているが、正直どうでもいいとしか思っていない。彼にとって目の前に立つ人物、黒狼は倒すべき敵。その程度にしか認識していないのだ。ましてや蜀の王である劉備の軍に所属しているのなら尚更だ。何か訊かれたとしても適当にあしらって誤魔化せばいい、それだけなのだ。



「影狼。実はもう一つ気になる事があってな。訊いても構わんか……?」


「好きにしろよ……」


「なら訊かせてもらうか。……影狼、貴様が定軍山で一度死んだという話は本当なのか」


「……誰からそんな話を聞いた」


「金狼からだ……」


「ククク。その話が本当なら、ここに居るオレは誰になるんだ……?」


「ならやはりその話はデマか。まあいい。定軍山の件が真実かどうかは、貴様を殺して直接確かめてやるとしようか……」


「やれるものならやってみろ……」



双方が放つ殺気は極限まで高まり、周囲に緊迫の空気が張り詰めた。零治は叢雲を腰に下げるための専用ベルトから叢雲本体を左手で引き抜き、いつでも動けるように体勢を整えた。対する黒狼は右手に持つ魔王剣ディスキャリバーをダラリとだらしなく下げて棒立ちしているだけだが、その佇まいからは全く隙が無い。下手な真似をすれば返り討ちにされるだけなのはすぐに分かった。

お互い話す事などもう無いだろうと思っていたが、零治も実は気になる事があり、始める前にその事を訊いてみる事にした。



「黒狼。オレも訊きたい事があるんだが」


「何だ。言ってみろ……」


「なら訊くぞ。……貴様、どうやって水の上に立っているんだ。そんな魔法が使えたなんて話は聞いた事が無いぞ」


「随分と妙な質問をするのだな。貴様と同じように魔法を使って立っているだけだぞ……」


「ほぉ~……」


「話は終わりか? ならば、どうするべきかは分かるな……」


「ああ……」



黒狼の言い回しには何か違和感があり、零治は釈然としなかったが訊いた所で真実が彼の口から語られるはずが無い。現に零治も黒狼の質問に対して隠している事があるのだから。ならばどうするべきかは簡単な話である。腕ずくで吐かせればいいだけの事だ。

だがそれも決して簡単にはいかないだろう。定軍山で血の魔導書ブラッド・ディクテイターを手に入れているとはいえ、相手が相手だ。それに今は左眼も潰されているため遠近感が掴めないし、死角も出来ているのだ。苦戦は免れないだろう。



『BD。オレの左眼はどれぐらいで治るんだ?』


『こいつはちょいと時間が掛かるぜ。傷を塞ぐだけならすぐに済むが、眼の修復もするとなるとなぁ。悪いがしばらくは片眼生活をしてもらうかもな』


『そうか。まあいい。どうせやる事は変わらねぇんだ。BD、しっかりサポートしてくれよ?』


『任せときな。相棒』



こっちには最強にして最凶と言われている魔導書があるのだ。負ける可能性がゼロとは言い切れないが、限りなく低いはず。昔の自分と今の自分は完全に違う。己の力を過信している訳ではないが、あの頃より強くなっているのは間違いないのだ。



「なら……始めるか」


「…………」


「来るがいい。影狼……」


「そうかい。なら遠慮無く行くぜ」



零治は河の上を悠然と歩きながら黒狼に近づき、距離がある程度縮まった所で右手を叢雲の柄に伸ばして手をかけ、水の上を蹴ってダッシュし、間合いを一気に詰めて居合を放ち、叢雲を抜刀した体勢のまま黒狼の横を素通りし、右脚を軸にしてブレーキを掛けながら反転して叢雲を鞘に納めた。

放った太刀筋は一撃だけなのに、実際に黒狼に襲い掛かった斬撃は全部で六つ。零治から放たれる異様な気配に本能的な危機を察知した黒狼は軽くサイドステップしてその攻撃を難なく躱して見せた。



「むっ? 今のは次元斬ディメンション・スラッシュ……とは違うようだな。一体何をした……」


「知りたければ受けて直接確かめろっ!」



零治はその場でもう一度水面を蹴って黒狼との距離を一気に詰め、BDの力で強化された居合を放ちながら黒狼の横を素通りすると、やはり先程同様に一撃なのに複数の太刀筋がまるでかまいたちの様に上下左右と縦横無尽の軌道で襲いかかり、黒狼は咄嗟に魔王剣の刃を寝かせながら左手を腹に添えて正面にかざしながら防御の体勢を取る。全ての太刀筋は魔王剣の刀身に命中し、無数の金属音を打ち鳴らしながら激しい火花を散らした。



「くぅっ!」


「まだ終わらんぞっ!」



零治は先程と同じように右脚を軸にしてブレーキをかけて反転した直後、そのまま水面を蹴って黒狼との間合いを詰め、二度目の居合を放ちそのまま彼の横を素通りしながら無数の斬撃をその場に残して、右脚を前に突き出して軸にしながら反転して動きを止め、叢雲を鞘に納める。

攻撃手段は単調だが、BDが加えた追加効果のおかげで太刀筋の数は倍以上にも増えているので、防戦を余儀なくされてしまう黒狼の魔王剣からは激しい火花が散り、反撃する暇すら与えられなかった。



「ぬぅ!? ……中々楽しませてくれるではないか。しかし攻撃が単調で芸が無いな」


「そうかい。なら……これはどうだっ!」


「なっ!?」



零治はその場で居合の構えを取り叢雲を抜刀したかと思えば、そのまま剣を放り投げたのだ。零治の手から離れ、投げられた叢雲はクルクルと水平に高速回転しながら円の軌道を描き、黒狼へと飛来してきた。更に零治は左手に持つ鞘も同じように腕を振り抜いて投げつけ、投げ放たれた鞘も叢雲の後を追うように同じく水平に高速回転しながら円の軌道を描き、黒狼へと襲い掛かった。

黒狼は咄嗟に魔王剣を両手で持ち、切っ先を下に向けて斜めに構えながら刃を正面にかざして防御の構えを取り、刃に叢雲と鞘が順にぶつかると、ガツンと鈍い金属音が二回鳴り渡り火花を散らして、彼は上体を後ろにのけ反らせてしまうほどの衝撃が全身に走り、後ろへと大きく押されてしまった。



「くっ! ぐぅ……っ!」



叢雲と鞘がぶつかった時に走った衝撃は強烈で、両手に残ってビリビリと痺れるほどだ。それでも何とか魔王剣は弾き飛ばされずに済んだが、凄まじい攻撃である事に変わりは無い。

零治が投げた叢雲と鞘は円の軌道を描き、高速回転しながらブーメランのように一周回って彼の所に戻ってきて、まず右手で叢雲をキャッチし、続いて身体を軽く右に向けながら左手を突きだして鞘をキャッチし、そのまま勢いを受け止めるように身体を回転させながらコートをなびかせ、叢雲を鞘に納めて黒狼に向き直った。



「どうした黒狼。貴様こそ腕が鈍ったんじゃないのか? さっきから何も出来てないじゃねぇか……」


「ククク。言ってくれるな。では、今度はこちらが攻め手に回るとしようじゃないか……」



黒狼は魔王剣をブンッと振り抜いて水面の上を駆け抜け、零治に向かって一直線に走る。零治をまだ間合いに捉えていはいないのに、黒狼は魔王剣を振りかぶったと思えば、両脚に力を溜めてその場で大きく前に進みながら上空に跳躍したのだ。大地を照らす満月を背にし、零治を視界内に捉えた所で黒狼の持つ魔王剣の刀身が深紅に発光し、その魔力を電流のようにほとばしらせると、彼は空中に居ながら身体をグルンと横に一回転させて零治に向き直る瞬間に合わせて魔王剣を一気に振り抜き、三日月状の形状をした深紅の斬撃を一つ放った。



「フンっ! 見え透いた攻撃だな!」



斬撃は凄まじい速度で迫り来ているが、あまりにも見え見えな攻撃なので零治に当たるはずも無く、彼はその場から後方にバックステップしてその一撃を難なく躱して見せた。黒狼の放った斬撃は水面に直撃した瞬間、河を真っ二つに斬り裂き、その衝撃で辺りに水を跳ね上げた。その大きさは高波と見間違える程であり、零治の視界はその水の壁によって完全に遮られている。これこそが黒狼の狙いだった。彼の攻撃はまだ終わってはいないのだ。



「隙を見せたなっ!」


「っ!?」



水の壁の向こう側を突き抜けながら黒狼が姿を見せ、零治の胸部に高速の突きを放つ。一瞬面食らいはしたが、零治は素早く身体を左に逸らしてその一撃を躱すが、黒狼の攻撃はまだ止まらない。右手首を捻り、刃を水平に寝かせて向きを変え、薙ぎ払うようにこちらに向かって一気に振り抜いてきたのだ。



「くっ!」



零治は黒狼の攻撃を躱すと同時に一度距離を離して反撃に転じるために、水面を蹴って低空跳躍をして側面に跳んで場所を移動した。その先には星達が乗船している船があるのだ。いきなり零治がこちらに向かって跳んできたので、こちらにまた乗り込んで来るのかと思い星達は眼を丸くしてその場から数歩後ろに下がるが、彼が取った行動は彼女達の予想とは大きく違っていた。



「フッ! ……はあっ!」



零治は船にぶつかる直前に空中で身体を前に回転させて船体の側面に足から着地し、そのまま両脚を曲げて力を溜めてバネにし、星達が使用している船を足場として利用して黒狼に向かって低空で跳躍し、一直線に跳んで行ったのだ。



「黒狼ぉぉぉぉぉぉっ!」


「ハハハハハ! 良い顔をしているぞ。影狼ぉぉぉぉぉ!」



黒狼も零治を迎え撃つために水面を蹴り、低空で跳躍をして一直線に彼に向かって跳んで行き、互いに間合いに捉えた所で零治は高速の居合を、黒狼も同じように高速で魔王剣を振り抜き、ガツンとそれぞれの神器の刃がぶつかるとその場に激しい火花を散らして金属音が鳴り渡り、その衝撃波は赤壁全体に伝わってビリビリと空気を振動させ、河の水を激しく揺らして周囲に点在している船に水しぶきを飛ばした。

零治と黒狼はぶつかり合うと同時に水面に着地し、双方互いに一歩も退かぬように鍔迫り合いへと持ち込んだ。あまりにも規格外にして常識外れの二人の激闘は、この世界の人間から見ればまさに人ならざる者同士、神々の闘いと表現しても過言ではないだろう。だがそれすらも言葉に出来ないほど、魏、蜀、呉の将兵達は零治と黒狼の闘いに見入っていた。



「何という闘い。あれが……零治殿の本気……なのか」


「っていうか、あれどう見てもあたしらどころか、恋でもどうにもならないだろ……」


「うん。水の上は歩くし、凄い勢いで跳べるし……やっぱりあの人に勝とうとするなんて命知らずがする事だよ」


「ああん? 蒲公英。そんな情けない事を抜かすのなら、成都に戻ってからといわず、今この場でしごいてやろうかねぇ……」


「そ、そんな事言われたってぇ! ……じゃあ逆に訊くけど、おば様は音無さんに勝てる自信あるの?」


「ああ? そんなもんあるわけないだろ」


「あ、あるわけないって……母様、そんな胸を張って言われても反応に困るんだけど」



蒲公英の言葉が武人としてあまりにも情けないのは理解できるが、その事を指摘している翠蓮でさえ零治に勝つ自信は無いと胸を張って堂々と言い放った。だがこれは翠蓮の正直な気持ちでもある。

確かに武人としての意地はあるが、変に意地を張って虚言を口にしてもそれは恥にしかならない。翠蓮も先程の星達との死闘を見て、零治がどれ程の実力者なのかは充分に理解できているのだ。しかし何も考えていない訳ではない。彼女なりに考えた零治に勝つ方法を胸を張って答えた。



「零治に勝てる自信なんかあたしにも無い。だがなぁ……そこは気合と根性で何とかするのが武人だろうが」


「おば様。いくらなんでもそれは……」



翠蓮が提示した内容は、己を鍛え技を磨くとか具体的なものかと思えば、気合と根性で何とかするという実にアバウトな内容の精神論である。確かに闘いだけに限った話ではないが、精神面が強さに繋がるのは事実である。何事にも屈しない信念と心があれば切り拓ける道もある。が、零治との闘いとなれば、この世界の人間では気合と根性だけでどうにかできるとは思えない。しかし、その言葉がツボにはまったのか、こんな場面だというのに星が可笑しそうに笑い声をあげたのだ。



「ぷっ……ふふ。ははははは!」


「ん? 星。なに笑ってんだい」


「ははは! いや失礼。別に翠蓮殿の事を笑ったのではありませぬ」


「なら何が可笑しいのさ?」


「いえ、先程翠蓮殿が述べた、気合と根性でどうにかするという精神論。それが可笑しかったのですよ。それと同時に感心もさせられました」


「へぇ~。何でさ?」


「私は零治殿に追いつきたいという想いがあり、それは今も変わりません。ですが先程の彼との闘い……そしていま起きている黒狼との闘いを前にすると、そのような事は不可能なのかもしれないと思い始めていました」



それは誰もが思う事だろう。この世界に生きる武人という生き物は、全てではないにしても強者を前にすれば闘いたいという衝動を抑える事は出来ない。そしてその者に追いつきたいという願望を抱き、己を鍛え上げたりもする。だが、いま目の前で起きている闘いは人知を超えた常識外れの闘いだ。普通に考えれば追いつこうとするなど土台無理な話だ。何しろ零治も黒狼も、普通という単語とは無縁の存在なのだから。



「しかし、翠蓮殿の先程の言葉で気分が晴れましたよ。私は必ず零治殿に追いついてみせます。貴方が仰った、気合と根性とやらで」


「ははは! 星、良い面構えになったじゃないか。翠、蒲公英。二人も少しは星を見習わないか」


「いや、母様。言いたい事は分かるんだけどさ、実際に気合と根性で何とかなると思うのか?」


「そうだよ。おば様もさっき見たでしょう。音無さんの強さを」


「そんなのはやってみなきゃ分からんだろうが! あんたら二人はやる前から諦めるような根性無しだったのかぁ!」



自分達が闘い合っている訳ではないが、こんな緊迫した場面なのにそんな事など気にも留めずにギャーギャーと翠と蒲公英に怒鳴り散らしている翠蓮の姿を眼にして、星の顔には自然と笑みがこぼれた。

先程の零治との闘いで星は己の未熟さを思い知り、そしていま繰り広げられている黒狼との激闘を目の当たりにして、零治に勝つという想いは揺らぎ、迷いが生じていたが翠蓮の言葉でそれはどこかへ吹き飛んでいった。



(そうだ。私はまだ己の限界を決めた訳でも知った訳でもない。鍛錬の道にも終わりは無い。私自身が己の限界を決め、歩みを止めない限り強くなれる可能性はいくらでもある)


「あっ! みんなあれ! 音無さんが黒狼に吹っ飛ばされたよっ!」


「何っ!?」



蒲公英の指摘で全員の視線が零治と黒狼の闘いに集中すると、何をされたのかまでは分からないが、確かに零治はまるで映画のワンシーンなどでよく見るワイヤーアクションみたく、背中からワイヤーで思いっ切り引っ張られているかのような体勢で派手に吹っ飛んで行ってるのだ。しかものその先に見えるのは呉の旗艦である。直撃は免れないだろう。


………


……



「ねえ、冥琳。気のせいかしら? 何かがこっちに飛んできているように見えるんだけど……」


「……気のせいではないな」



孫策が顔を引きつらせながら指さしている先には、こちらに向かって猛スピードで飛来してくる何かの影があった。出来れば見間違いであってほしいと思っていたのだが、隣に立つ周瑜も半ば諦めたような表情で冷静に答えた。蜀と呉の船は未だに零治が残していった水の鎖で河の上に縛り付けられて身動きが取れないのだ。つまりこのままでは回避のしようが無いという事になる。



「そっかぁ。ねえ。ひょっとして……」


「船は未だに動かせんのだ。このままでは間違いなく直撃するな」


「だよねぇ。……あ、来た」


「っ! 全員伏せろぉ!」



周瑜が鋭く声を張り上げると、乗船している者達全員が手で頭を庇いながら素早く身を屈めてその場に伏せた。それと同時に黒狼に吹っ飛ばされた零治が船の縁板に背中から直撃し、そのまま板をぶち抜いて甲板の床板に身体をぶつけると、その衝撃でグルンと縦に一回転して反対側の縁板まで吹っ飛んで行き、背中から激しく身体を叩き付けられて両手から叢雲と鞘を落とし、ようやく止まった。

縁板に背中を預けながら床の上に座り込むように崩れ落ちている零治は、首を下に向けてぐったりとしており、まるで死体の様にピクリとも動こうとしない。それまで床に伏せていた呉の首脳陣達は恐る恐る頭を上げ、この船に飛んできた零治に視線を向け、ようやくになって先程飛来してきたものの正体が彼だと理解した。



「えっ!? あれって黒き閃光さんじゃない! まさか……」


「そのまさかだ。今この船に直撃したのは間違いなくあの男だな。恐らく蜀の御遣いにやられたのかもしれん」


「……お姉ちゃん。あいつ……死んでるのかな」


「どうかしら……」



孫策は孫尚香の言葉を確かめるべく、南海覇王を片手に一歩ずつ忍び足で零治へと近づいていく。危険ではあるが今この場で零治の生死を確認しておくのは非常に重要である。蜀と呉にとって彼は驚異でしかないのだ。孫策が少しずつ距離を詰めると、それまで無反応だった零治の左手の指がピクリと動いたので、彼女は大きくバックステップをして距離を離し、いつでも迎え撃てるように体勢を整えた。だが零治の左手の指が動いただけで、それ以上の反応は見られなかった。



「どうもまだ生きてはいるみたいね」


「だが、かなり弱っているようだな」


「姉様! これは好機です! 今ここであの男を討てば、魏は大きな痛手を受けます! それにこの戦にも勝機があるかと!」


「う~ん。私は出来ればそんな卑怯な事はしたくないんだけどなぁ」


「雪蓮。悪いが私も蓮華様の意見に賛成だ。音無に止めを刺すなら今しかない。恐らくこの先、こんな機会は二度巡っては来ないだろうからな」


「冥琳までそんな事言うの?」


「そんな眼で見ても駄目だぞ。私は孫呉を確実な勝利へと導くためならば手段は選ばん。例えそれがどんな卑怯な手だとしてもだ」


「もう。分かったわよ。やればいいんでしょう。やれば」


「……おい、コラ」


「っ!?」



周りの意見を尊重し、孫策がいざ零治に止めを刺そうとしたその時だった。それまで終始無反応だった零治が口を開き、ゆっくりとその場から立ち上がったのだ。

零治は右手で首を押えながら横に振って骨をゴキゴキと鳴らし、口の中にある血を吐き捨てて周りに付着している血を手で拭い、孫策達に鋭い視線を向けて睨み付けた。



「さっきから黙って聞いてりゃ言いたい放題抜かしやがって。逆にオレが貴様ら全員まとめてブチ殺してやるぞ。ああ……?」


「驚いたわね。あれだけ派手に吹き飛ばされてきたのに生きてるなんて……」


「…………」


「あれ? 貴方……その左眼はどうしたの? それに右眼の色もさっきと変わってるし」


「眼の色については答える気なんか無いぞ。左眼については……知りたけりゃ蜀の趙雲に訊くんだな」


「趙雲に?」


「お喋りは終わりだ。オレはお前らと話をしてる暇なんかねぇんだよ……」



零治はその場から叢雲を拾い上げて鞘に納め、左手でしっかりと持ちながら甲板上を走り始めた。

いきなり零治がこちらに向かって一直線に走りだしたので孫策達は思わず身構えたが、その零治は彼女達など初めから眼中に無く、中間辺りの距離に差し掛かった所で両脚を曲げて力を溜め、そこから一気に跳躍して跳んで行ったのだ。目指すはもちろん、黒狼の所以外に他ならない。



「……なんか腹立つわねぇ。私達の事なんか眼中に無かったみたいで」


「私は寧ろほっとしてるぞ。今この場で最も危険な男が去ってくれたのだからな」


「冥琳はそう思ってるのかもしれないけど、私はそうは思わないわ。何しろ……あの黒き閃光をここまで吹き飛ばした蜀の御遣いが居るんだからね」


「確かに。この大陸に渦巻く争いはまだまだ混迷を極めそうだな」


………


……



「……ん? フフ。戻って来たか」


「黒狼! さっきのはちと痛かったぜぇ!」



呉の旗艦から一気に跳躍して黒狼の元まで戻ってきた零治は空中で叢雲を抜刀し、彼の頭上を取ってそのまま一直線に落下していき、右手で振り上げていた叢雲を着地の瞬間と同時に振り下ろしたが、黒狼は素早く横にサイドステップしてその一撃を躱し、零治の刃は水面に叩き付けられた。

零治の放った一撃の衝撃と斬撃は河の底まで伝わり、本来なら斬れるはずの無い水である液体を斬り裂き、水面を真っ二つに割ったのだ。割れた水面の一部は空中高くまで跳ね上がり、そのまま弾け飛びながら辺り一面に飛散し、まるで雨の様に激しく降り注いだ。



「ククク。しばらく見ない間に随分と人間離れしたではないか。影狼……」


「抜かせぇ!」



零治は吠えながら叢雲を鞘に納め、水面を蹴って黒狼との間合いを一気に詰め、更なる攻撃を仕掛けた。左手に持つ鞘を振り上げ、続いて今度は振り下ろしてと刀首を利用した打撃の二連続攻撃を放つ。しかしそれは全て魔王剣で捌かれるが、零治は二発目の鞘を振り下ろす動作を行いながら居合の構えを取り、即座に抜刀して鋭い一撃を彼の首筋に向かって放つ。



「フフフ……」



だがその一撃も黒狼は余裕の笑みを浮かべながら魔王剣で払うように捌き、零治の刃は届きそうで届かない。しかも払われた時の衝撃で零治の右腕は後ろに跳ね上げられその反動でよろめいてしまい、大きな隙を作ってしまったのだ。そしてその隙を黒狼が見逃すはずが無かった。



「攻撃とはな……こうするのだよ! 影狼っ!」


「くっ!」



零治の刃を払う動作から右腕を大きく後ろに引いて突きの体勢に移行していた黒狼は、彼の眉間に狙いを定めて高速の突きを放った。零治は咄嗟に首を横に振ってその一撃を紙一重で躱すが、魔王剣の切っ先が風でなびいていた赤い髪をかすめ、空中に数本の毛を舞い散らせた。



「少しはやるようになったと思っていたのだが、まだまだだな。影狼、もう一度吹っ飛んで来い……」


「がっ!?」



黒狼は高速の突きを放ったと思ったらその体勢のまま左脚を軸にして身体を回転させ、零治の腹部に回し蹴りを叩き込んでもう一度彼を空中へと吹っ飛ばしたのだ。またしても映画のワンシーンのように、零治は背中から猛スピードで吹っ飛んで行き、その先にあったのは蜀の旗艦だった。


………


……



「あにゃ? お兄ちゃん。桃香お姉ちゃん。何かがこっちに飛んでくるのだ」


「えっ? 鈴々。何かって何だよ?」


「う~ん。暗くてよく分かんないのだ」


「鈴々ちゃん。そんなに前に出ると危ないよ。もしかしたら曹操さんの船から攻撃が飛んでくるかもしれないから後ろに下がって――」



その矢先、張飛が見つけたこちらへ飛来してくる物体である零治が蜀の旗艦の縁板を突き破り、そのまま船の内部へと下りるための出入り口まで飛ばされ、入り口周辺を豪快に破壊してその場の床板に横たわり、崩れ落ちてきた木造のパーツの下敷きになってしまった。

あまりにも一瞬の出来事だったので搭乗者全員が何が起こったのか理解できず、零治が突っ込んだ方角に眼を向けて思わず身構えた。



「ひゃあ!? ご主人様! な、何が起こったのっ!?」


「俺が知る訳ないだろ! ただ……なんか人が飛んできたように見えたんだけど」


「ご主人様! 桃香様! 危ないですから後ろに下がっていてください! 鈴々! お前はご主人様達をお護りしていろ!」


「分かったのだ!」


「愛紗さん。何があるか分かりません。調べるなら細心の注意を払ってください」


「分かってる」



諸葛亮に言われるまでも無く、関羽は青龍偃月刀を構えながら一歩、また一歩と慎重な足取りで船の一部が崩れ落ちた残骸の山へと近づいていく。残骸の山には今のところ特に何も変化はないが、山の一部が崩れ落ち、物音が立つと関羽は過敏なまでに反応し、素早く後ろに下がって様子を窺った。



「…………」



しばらく様子見をしていたが単に山が崩れただけだったので、関羽はもう一度歩を進め、山へと近づき始めた。すると、残骸の山がゴトゴトと音を立てながら動き出したので、関羽はすぐに足を止め、いつ何が起こっても対処できるように偃月刀を構え、油断無く残骸の山を注視した。

その残骸の山は音を立てながら動いているだけだったのだが、その直後に残骸の一部が弾かれたように吹き飛び、こちらに飛来してきたので関羽は素早く身を躱して直撃はしなかった。吹き飛んだ残骸はそのまま船の外まで飛んで行き、最終的には落下して河の底へと沈んで行った。その場に居る全員の視線は吹き飛んだ残骸の方角を向いていたが、何が起きたのかまだ正確に把握はしてないので、今度は視線を残骸の山の方へと戻した。その先にあったのは一本だけ飛び出している人の脚、つまりは零治の脚である。



「……ご主人様。あれ、何?」


「何って……どこからどう見ても人の脚にしか見えないだろ」


「うん。それは分かるんだけど……誰の脚なんだろ?」


「いや、それは俺にも分からないよ」


「二人とも下がってください! 相手の正体が分からない以上、不用意に近づいてはなりません!」



関羽が警戒する中、船の残骸の山はガラガラと音を立てて動いており、そのまま山の一部が持ち上がって中からブンッと振り抜かれた、禍々しい深紅のガントレットの装甲で覆われた零治の左腕が姿を現し、彼が上体を起こした事で覆い被さっていた残骸が音を立てて崩れ落ち姿が露わになった。



「あぁ~、クソが。今のはマジで痛かったな……」


「なっ!? 貴様は音無っ!」


「ん? 関羽だと? それに劉備と一刀まで居やがるし……。そうか。オレは蜀の旗艦まで吹っ飛ばされたって訳かい」



判断材料が充分すぎる程あったので、状況の把握に時間を取られる事は無かった。零治は身体に乗っている船の残骸を手で押して退け、脇に落ちている叢雲と鞘を拾い上げて剣を仕舞い、ゆっくりとその場から立ち上がり、右手で衣服に付いている埃をパンパンとはたき落した。それから気持ちを切り替えるためにコートの下からタバコを一本取り出して口にくわえ、ライターで火を点けて煙を吹かし始めた。



「……フーー……。ったく。さっきからやられっぱなしだな。何か良い手は無いのか?」



現状では零治は黒狼を相手に苦戦をしている訳ではないが、かと言って善戦しているとも言い難い。彼に吹っ飛ばされたのはこれで二度目だ。ハッキリ言っていいようにあしらわれているとしか言えないだろう。現段階では黒狼との闘いにおいて決定打に欠けている。このままでは堂々巡りにしかならないだろう。



『相棒。良い手かどうかは微妙だが、一つだけ手はあるぞ』


『そうかい。なら聞かせろよ』


『簡単な事さ。こいつらの船を縛っている水の鎖……これを解除しろ』


『何?』


『今の俺様はな、この術を維持するために一定量の魔力を河に供給し続けてるんだ。つまりこのままじゃ奴との戦闘に全力を出せねぇんだよ』


『なるほど』


『まあ、無理強いはしない。このままでいいと言うんなら解除する必要は無い。その時は他に手が無いか俺様も考えるからな』


『…………』



BDが提示した案は良い案とは言い難い。水の鎖を解除するという事は、蜀と呉の船に自由を与える事に繋がる。蜀はともかく、呉は水上戦に慣れた軍勢。その相手を縛る水の鎖を解除するという事は、呉から奪っていた地の利を返す事になるのだ。黒狼との闘いに勝つためとはいえ、この選択は蜀と呉の連合軍から反撃を受けるリスクが大きいかもしれない。だが、冷静に考えるとその可能性は無いかもしれない。

今やこの赤壁の河全てが、零治と黒狼の決戦の舞台となっているのだ。それも常識外れの闘いの。この状況で下手に動けば巻き添えを喰らう事ぐらい、余程のバカでない限り普通は分かるはずである。ならば零治が選ぶ道は一つ。黒狼に勝つためなら手段など選んではいられないし、戦場では安全な道など存在しないのだ。



『良いだろう。鎖を解除するぞ』


『本当にいいんだな?』


『ああ。それに万が一に備えて保険はかけておくさ』



戦場だけに限らず、この世には絶対などという言葉は存在していない。特に戦場ではどんな不確定要素が絡み、何が起こるか分からない環境にあるのだ。ならば保険をかけておくのは必然。そして今この場にはうってつけの保険が存在しているのだ。



『姉さん。聞こえるか?』


『感度良好。バッチリ聞こえるよ。零治、特等席で見せてもらってるけど、さっきからなんてザマだい。黒狼にやられっぱなしじゃないか』


『うるさい。これから逆転してやるから黙って見てろ』


『はいはい。で、何の用だい?』


『今から蜀と呉の船を縛ってる水の鎖を解除する。黒狼との勝負に確実に勝つためにな。奴らが何かしようものならそっちで連中の船を沈めてくれ』


『分かった。任せときな』


『頼む。所で亜弥はどうした? 無事なのか?』


『ああ。ちゃんとここに居るし無事だよ。ただ、残念ながら金狼との勝負はお預けになったみたいだけどね』


『そうか。ならそっちの方は任せたぞ』


『あいよ。アンタこそちゃんと勝てよ!』



恭佳との通信を終え、保険の方はこれで大丈夫だろう。ついさっきまで大砲を乱発して蜀と呉の船を次々と撃沈している実績があるのだ。それに船を指揮している恭佳本人も強い。これならば蜀と呉が再び動き出しても大抵の事態には対応可能だろうし、向こうも彼女のガレー船の脅威は嫌というほど思い知っている。下手な真似はしてこないはず。零治は吸い終えたタバコを足元に落とし、グリグリと靴底で踏みにじって火を消し、右手を上空に掲げてパチンと指を打ち鳴らした。

すると次の瞬間、蜀と呉の船の船体に深々と突き刺さっていた水の鎖があっという間に崩れ落ちて河の中へと消え、それまで収まっていた船の揺れが再び起こり、赤壁の河に浮かぶ船はユラユラと揺れ動き始めた。



「なっ!? 鎖が消えた!? やはり貴様の仕業だったのか! 音無っ!」


「だったらどうした? 仕返しでもしたいのか……?」


「ここであったが百年目! 貴様を討ち、この戦で勝利を手にする!」


「はぁ。相変わらずうるさい女だ。オレは暇じゃねぇのによ」


『同感だぜ。相棒、こいつら全員を纏めて黙らせる方法を教えてやるよ……』



関羽達を黙らせる方法。BDが提示したその内容に耳を傾け、事の全容を聞き終えると零治は面白そうに口の端を吊り上げて笑み浮かべた。BDとの話を終えた零治は関羽に視線を戻し、彼女の眼をジッと見つめて左手の人差し指をクイクイっと動かしてかかって来るように挑発した。



「ククク。出来るものならやってみろよ、関羽。考え無しのバカがどうなるのか、その身を以って思い知らせてやる……」


「ほざけ! 貴様こそ、そのような手負いでこの私を侮ればどうなるか思い知らせてくれるわ!」


「はわわ! 駄目ですよ愛紗さん! あれは挑発です! 相手に乗せられては音無さんの思うつぼですよ!」


「はあああああっ!!」



諸葛亮の警告も関羽の耳には届かず、彼女は青龍偃月刀を右手で振り上げながら甲板上を駆け抜け、零治に向かって一直線に突撃した。関羽にしてみればこれは零治を倒す千載一遇の好機なのだ。相手は一人、しかも手負いの身だ。どれ程の強者でも、万全の身でなければその実力は発揮できない。勝てる可能性はいくらでもある。だがこの理屈が通じるのは、相手が普通の人間ならばの話である……。



「音無! その首、貰ったぁ!」


「フッ……」



零治との距離が目前まで縮まった所で、関羽は彼の首筋に目がけて振り上げていた偃月刀を袈裟斬りのように斜めに振り下ろし、刃が煌めきながら迫り来た。しかし、零治は余裕の笑みを浮かべながらその一撃を躱す意味合いも兼ねて、叢雲を抜刀して弧を描きながら振り上げると同時に前方に跳躍し、側転するように身体を一回転させながら彼女の背後に回り込み、片膝をついて華麗に着地をした。



「…………」


「…………」



双方無言で攻撃を放った体勢のまま微動だにせず、辺りは静寂に包まれた。零治は冷たい笑みを浮かべながら抜身の叢雲をクルンと一回転させて逆手に持ち替え、ゆっくりと鞘に納める。その場に完全に刀が鞘に収まった時になるパチンという特徴的な音が鳴ったその瞬間……関羽の口の端から血が溢れて一筋の紅いラインを描き、更に身体には斜めに大きな一筋の刀傷が走り、そこからおびただしい量の血を噴き出して甲板の上に崩れ落ち、その場に血の池を作ったのだ。



「っ!?」


「あ、愛紗……? おい愛紗ぁ!!」



目の前の光景に劉備の表情は凍りつき、一刀も認めたくない思いで関羽の真名を叫ぶが、彼女からは何の返事も帰ってこない。張飛も諸葛亮も何が起きたのか理解できず、思考が停止している。いや、もしかしたら現実を認めようとしていないだけなのかもしれない。だからこそ零治はその場からゆっくりと立ち上がり、劉備達に残酷な現実を突きつけたのだ。



「呼ぶだけ無駄だ、一刀。奴は……関羽はたったいま死んだ」


「そ、そんな……っ!」


「愛紗ちゃん……そんな。そんなぁ! 嘘でしょ!? 愛紗ちゃんっ!!」



信じたくなかった。認めたくなかった。今日この日まで、苦楽を共にしてきた大切な存在である関羽を目の前で失った。あまりにも残酷な現実を前に、一刀はその場で両膝を突いて愕然としながら身体を震わせ、張飛も諸葛亮もその場にペタンと座るように崩れ落ち、俯いてしまう。それは劉備も同様だ。彼女にとって関羽は義妹。桃園で一刀、張飛と共に義姉妹の契りを交わし、自分が掲げる理想を必ず実現すると誓い合った仲なのだ。



「愛紗ちゃん……愛紗ちゃん……っ! いやぁ……いやああああああっ!!」



劉備の中でそれまで関羽と共に過ごしてきた様々な思い出が荒波のように押し寄せ、頭の中でフラッシュバックし、胸が締め付けられるような思いに駆られてしまい、床の上に力無く座り込んでいる彼女は涙を流して天を仰ぎ、悲痛な悲鳴を上げた。


………


……



「はっ!?」



我に返った関羽はハッとした表情で辺りを見回し、そして自分の身体を見下ろした。だがそこには何も無い。服は血で紅く染まってなどいないし、零治に斬られたはずの傷も無い。全くの無傷である。それに、自分の立ち位置を確認してみると、一歩も動いていないのだ。何が起きたのか彼女の頭では理解できなかった。

それは劉備達も同じだ。目の前で確かに関羽が死ぬ瞬間を目撃したのに、その彼女は生きている。何が起きたのかさっぱり分からない。その姿を楽しむように零治は悪意ある笑みを浮かべながら喉を鳴らした。



「ククク。どうした? まるで幽霊でも見たかのような顔をしているぞ……」


「……音無。貴様いま何をした」


「別に何も。ただ……お前があまりにもうるさいから、これ以上オレに突っかかると『こうなる』という『未来像』を『視せた』だけだ。ここに居る連中全員にな……」


「未来像を視せた? ならばさっきのは現実ではなく幻だというのか……」


「そう思ってもらって構わん」


「どこまで私を侮辱れば気が済むんだ! そんな物でこの私が惑わされるとでも思っているのか!!」


「フフ。眼に映るもの全てが現実とは限らんぞ? 今こうしてオレと話しているお前は実は幻で、現実のお前は死んでいるのかもしれない。あるいは生きているかもしれない……」


「…………」


「もしくはここに居るオレが幻なのか。それとも……死んだのはお前ではなく、別の誰かかもしれんなぁ。例えば……お前の大事な大事な義姉の劉備とかな」


「っ!?」


「それとも死んだのはご主人様かもな……」


「なっ!?」



零治から聞かされた不吉な言葉を耳にし、関羽は思わず後ろを振り返った。その視線の先には力無く甲板の上にへたり込んでいる劉備と一刀の姿だ。二人とも無傷だし、ちゃんと生きている。二人を護るように張飛も蛇矛を肩に担ぎながら前に立っているし、その脇には諸葛亮が控え、心配そうにこちらを見つめている。

関羽は劉備達の無事が確認できて内心安堵するが、零治から聞かされた言葉のせいで確信は無かった。もしかしたら目の前に居る彼女達は幻なのかもしれない。現実では劉備達は零治に殺されてるのかもしれない。あるいは死んだのは自分で、ここに居る自分は幻なのかもしれない。何が本当で何が嘘なのか。現実と幻の区別がつかなくなり、関羽は疑心暗鬼に駆られてしまう。



「フッ。軍神と謳われた関羽も所詮は人の子。それが『人』の限界だ……」


『ケケケ。だが、そのおかげで効果は覿面だ。人間ってのは殺さなくてもこういう幻術をかければ簡単に黙らせられる』


『……相変ワラズ悪趣味ナ手ヲ使ウ奴ダナ、貴様ハ』


『ああ? その声は叢雲だな。テメェ、なに勝手に人の通信に割り込んできやがんだ』


『貴様ハ人デハナク本ダロウ。ソレニ、用ガアルノハ貴様デハナイ。主ダ』


『ああ、そうかい。ならさっさと用件を済ませろよ』


『言ワレズトモソウスルサ。……主ヨ』


『あん? お前から話しかけてくるとは珍しい。ってか、念話も使えたのかよ』


『ソンナ事ハドウデモイイデハナイカ。主、今ハソレヨリモダ、アノ男ヲ倒スタメニ我モ力ヲ貸ソウ』



ここに来て叢雲も力を貸すと言ってきた。やはり黒狼が、というより魔王剣の存在が許せないからなのだろうか。かつて劉備軍が襲来した時も、叢雲の意思は零治の身体を通して悪鬼修羅の如く黒狼と闘って見せた。魔王剣に対する激しい憎悪を撒き散らしながら。この状況で叢雲が貸す力と言えば零治は一つしか思い当たらない。全てを知っている訳ではないが、恭佳から話を聞いて死の危険にまで晒された恐るべき力。アンリミテッドモードの事だろう。



『オレに力を貸すという事は……アンリミテッドモードを使えって事か』


『ソウダ』


『仮にそれで黒狼に勝てる可能性が上がるとしても、オレの命も危険に晒す事になるだろうが。……いや、今はBDがあるからその心配は無いのか?』


『相棒。残念だが物理的な肉体の損傷は治せるが、神器が生み出す純粋な魔力による中毒死は俺様でもどうする事も出来んぞ』


『何だよ。それじゃやっぱり使えないじぇねえか』


『いや。それなんだがな、俺様に考えがある』


『何だよ?』


『知ってるとは思うが、アンリミテッドモードを使うとお前の命が危ないのは、叢雲と使用者がリンクし、神器が無尽蔵に生み出す純度の高い魔力が身体中に回るからだ』


『ああ。それは知ってる』


『で、ここからが本題だが……叢雲から流れ込む純粋な魔力をだ、お前の身体に有害にならないよう俺様がフィルターの役割になって、限りなく人間が生み出す魔力に近い物に変換してやる。これなら恐らく短時間なら大丈夫なはずだ』


『短時間? つまり長時間使うと危険な可能性もあるって事かよ』


『その点は否定できんな。なにせこんな事は今まで例が無い。今まで出会ってきた奴らの中に、俺様の力を使うだけでなく、神器とリンクしてその力も同時に使うなんて考えを持った奴は一人も居なかったんでな』


『…………』



これは非常に危険な賭けになるだろう。一度は偶発的に発動してしまったとはいえ、黒狼を圧倒するほどの力があったアンリミテッドモード。今の状況をひっくり返すには、BDの力だけでなくこの力も使うしか選択肢は無いのかもしれない。だが、零治は恭佳と約束をしているのだ。この力は二度と使わないと。理由は使えば確実に死ぬと言われたからに他ならない。しかしそうも言ってられる状況ではない。今のままでは決定打に欠けるのだ。ならば黒狼との闘いの勝利を確実なものとするためには、危険を冒すしかない。



『いいだろう。やるぞ。オレの命、お前らに預ける』


『ははぁ! そう言われたら俺様も頑張らせてもらうぜ! 相棒、思いっ切り闘いな!』


『我ガ主ヨ。我ノ我儘ヲ聞イテクレテ感謝スル。我ガ危険ト判断シタラリンクハスグニ解除シヨウ。サア、我ニ主ノ血ヲ与エヨ』


『血を? ……刀身に塗りつければいいのか?』


『ソレデ構ワン』


(……姉さん。済まない)



零治は叢雲の指示に従い、右手で鞘から叢雲を引き抜き、左手で左眼の傷口から血を拭い取り、それを叢雲の刃に塗りつけた。刃に塗りつけられた血は、吸水マットが水を吸うかのように吸い込まれていき、消えて無くなった。そして次の瞬間、あの時……劉備達が襲撃し、黒狼と闘っている恭佳の援護に向かおうとした矢先に起きた胸に走る激しい痛み。それと同時に脈打つ叢雲の刃。当時はその痛みに耐えきれず、意識を失ったが今は違う。自らの意志でこの力を使い、黒狼を倒すのだ。

零治は左手で胸を押えつけながら痛みになんとか耐え、心臓の鼓動の様に脈打つ叢雲の刃は魔王剣の様に深紅に染め上がり、赤色の魔力光が電流の様に刀身からほとばしっていた。



『ふぅ。初っ端からこれかよ。何とか溢れ出る魔力の爆発を抑えれたぜ。相棒、身体の方はどうだ?』


『……はぁ~……。胸の痛みは比較的楽になった。大丈夫だ』


『準備ハ整ッタ。主ヨ、イザ参ロウゾ!』


『おう!』



準備は整ったのだ。それに時間にも限りがある。どのぐらいか正確な時間は不明だが、今の状態では長期戦が無理なのは確かだ。ここから一気にケリを着けねばならない。零治は甲板上を一直線に駆け抜けるが、関羽は未だに疑心暗鬼に囚われとても闘えるような状態ではない。彼女に代わり闘おうと張飛が前に出てきて立ちはだかったが、零治は彼女らを無視してその場から大きく跳躍し、黒狼の所へと目指した。



「にゃにゃっ!? あいつ、跳んで行ったのだっ!」


「あぁ……あぁ……ご主人様、桃香様……っ! 私は……」


「愛紗ちゃん」


「大丈夫。愛紗、俺達は無事だよ」



偃月刀を手から落とし、甲板の上に力無くへたり込んだ関羽を劉備と一刀は優しく抱き寄せる。二人の身体を通して伝わる温もりが関羽の身体を温め、彼女もようやくこれは紛れも無い現実なのだと理解し、零治が残していった不吉な言葉の呪縛から解放された。


………


……



「ん? ……フッ。流石にしぶといな」


「黒狼! さっきはよくもやってくれたなぁ! これは……そのお返しだぁ!」



黒狼の頭上を取った零治は空中で叢雲を振りかぶり、身体をグルンと右に一回転させながら勢いをつけ、水面に向き直る瞬間に叢雲を一気に振り抜き、その刃から深紅に発光する三日月状の斬撃を一発放った。

放たれた斬撃は猛スピードで黒狼に向かって飛来するが、彼は素早くバックステップして安全圏まで退避し、水面に叩き付けられた斬撃は河を斬り裂き、大量の水を空中に弾き飛ばして激しい波を辺りに起こして周辺に点在する魏、蜀、呉の船を揺り動かす。



「ほぉ~。今の一撃、それに深紅に輝く奴の叢雲……アンリミテッドモードを使ったか。これでは魔王剣のスキルは役に立たんな……」


「どこへ逃げても無駄だ! 次は外さん!」



まだ空中に居る零治は続けざまに一回、二回、三回と叢雲を振るい、先程と同じ斬撃を三発放った。黒狼はもう一度安全圏にバックステップすると一発目の斬撃が水面を直撃し、二発目が飛来してきたので更に後ろに下がるとそこに二発目、三発目と続けざまに斬撃が水面を叩き付け、その場に巨大な水柱が三本も立ち昇り、彼の視界を遮る壁となった。

黒狼は念のため頭上を見上げてみるがそこに零治の姿は無い。もしやと思い水の壁に眼を向けると、彼の正面の水の壁から零治が飛び出してきたのだ。



「なっ!?」


「黒狼! 今度は貴様が吹っ飛ぶ番だぞっ!」


「ぐふっ!?」



水の壁から飛び出してきた零治は黒狼の腹部に強烈な飛び蹴りを叩き込み、その一撃で彼は星達が使用している船まで一直線に吹っ飛ばされていった。しかも勢いのせいで受け身すら取れず、黒狼は零治と同じように船の内部へと続いている階段付近に直撃し、そのまま崩れ落ちてきた木造パーツの下敷きとなってしまう。しかもその衝撃で船の一部が四方八方へと飛散してきたので、星達はその場で腕を前にかざして盾代わりにして身を庇った。



「くぅ……! 何という無茶苦茶な闘いなのだ!」


「おいこれ! あたしらも逃げないとまずいんじゃないか!?」


「翠! このくらいでうろたえるんじゃないよ!」


「でもおば様! このままじゃ本当に危ないよ!」


「確かにそうね。今の内に船を移動させるべきかもしれないわ」


「ふむ。そうかもしれぬが……紫苑。それにはまず、あの男を止める必要がありそうじゃぞ?」


「黒狼ーーーーっ!!」



悪鬼修羅の如き闘いぶり。今の零治はまさに闘いの修羅。鬼神のような形相で叫びながらこちらに跳んできていたが、黒狼が下敷きとなっている木造パーツの残骸の山の一部が弾かれたように一直線に零治に向かって飛んで行くが、彼は叢雲を振り抜いてそれを真っ二つに斬り裂いた。

零治が船に乗り込んできた次の瞬間、残骸の山が爆発を起こしたように吹き飛び、その中から黒狼が姿を現し、零治が振り抜いてきた叢雲を魔王剣で受け止める。それにより零治の身体も止まったので甲板に両脚を着いてしっかりと踏み締め、もう一度二人の鍔迫り合いが繰り広げられた。



「ククク……ハッハッハ! 影狼! まさかここまで成長していたとはな! 私は嬉しいぞ!」


「そうかい! 今のオレが貴様を喜ばせているのなら、貴様もこの場で死んでオレを喜ばせろよ!」


「ならば……私をその手で殺して見せるがいい!」


「言われなくてもそうしてやらぁ!」



零治と黒狼は狂気の笑みを張り付けてこの闘いを純粋に楽しみ、鍔迫り合いにも激しさが増した。双方の刃が擦れ合うたびに火花が散るどころか、二人の魔力が互いの神器の刃を通して具現化し、まるで電流の様に辺りにほとばしり、その場は禍々しい深紅の光で包まれ暴風まで巻き起こし始めたのだ。星達は手を前にかざして眼を細め、風に飛ばされないように踏ん張るのがやっとだった。彼女達が見守る零治と黒狼の闘いは、まさに天災と呼べるレベルにまで発展している。その光景は、遠くから見守っている魏の本隊からも、恭佳達が使用している船からも、蜀と呉の船団からも充分に目立っていた。



「…………」


「華琳様。あの光は……やはり」


「ええ。零治と見て間違いないでしょうね。そして相手は……恐らく黒狼」


「それにしてもとんでもない闘いですねー。二回ほどお兄さんが吹き飛ばされるのが見えましたし、更には考えられないような高さまで飛び跳ねてましたしー。お兄さんはよっぽどお空が好きなのですかねー」


「零治殿が闘いに置いて非常識な方という事は理解していたつもりでしたが……まさかここまでとは」


「そうね。零治と黒狼、二人の天の御遣い同士による闘い……。まさに神々の闘いと言っても過言ではないわね」



いま目の前で繰り広げられている闘いは、この世界の常識で計れるようなレベルではない。純粋な力と力のぶつかり合いと言う点では同じかもしれないが、零治と黒狼の闘いには魔法も絡んでいるのだ。それこそが二人の闘いを非常識な光景にしている最大の要因。だが、この世界には凪の様に氣の扱いに長けた者も存在しているので、似たような事は出来るかもしれない。しかしそれでも、ここまで大きな規模には出来ないだろう。仮にできたとしてもその境地に到達するまでは何年、いや、何十年も修業を積まねばならないかもしれないだろう。そしてこの光景を前にしても、反応せざるを得ない者も居る。この場で言うと、同乗している春蘭と秋蘭、霞などだ。



「…………」


「どうしたの、春蘭。珍しく考え事?」


「か、華琳様。珍しくは酷くないですか……」


「冗談よ。そんな顔をしないの。それで? 何を考えているの」


「はっ。……音無のあの闘いぶりを見ていると、ふと思う時があるのです。私もあのように闘えたりするのだろうか、と……」


「おっ。奇遇やなぁ、春蘭。それウチも思うとったんよ」


「ふっ。姉者と霞もか。私だけではなかったのだな。そういう考えをしていたのは」


「全く。ウチの子達ったら揃いも揃って」



口ではこう言っているが、華琳も春蘭達の想いは理解できる。彼女達は華琳を支えるために己が力を振るうと当時に、戦場で常に強者との闘いを求める武人だ。どれだけ常識外れな闘いであろうと、これ程の激闘を前にして武人としての血が騒がないはずが無い。春蘭達は零治に対して、いつか勝ってみたいという欲求、彼の強さに対する憧れが少なからずあるのかもしれない。



「なあ。もしもウチらが零治と同じ立場やったらどうなっとるやろうな?」


「ん? 霞、同じ立場とはどういう意味?」


「せやから、零治がウチらの世界に降り立ったようにや、ウチらが零治達の世界……つまり天界に行ったらどうなるかって事や」


「……考えた事も無かったわね」


「案外何とかなるんじゃないですかー? 皆さんお強いですし、天の世界には色々と便利な物があるって話じゃないですか―」


「ふむ。我らが強い点は否定せんが……。風、そう楽観視は出来ないのではないか? 音無の話によれば、天の国でも戦争があり、こちらよりもずっと酷く疲弊しているらしいぞ」


「そうなのですかー? それは初耳ですねー」


「零治殿はあれで、あまり自分の事を語りませんからね」


「まあ、仕方ないわね。自分の世界の悪い所なんて人に聞かせたくもないでしょうしね。けど……天の国か。もしも機会があれば、行ってこの眼で見てみたいわね。どんな世界なのか」



零治から聞かされた、叡智の城ヴァイスハイトを巡る人々の醜い争いで荒廃した世界。だがそれでも、やはり華琳も気にはなるし、この眼で見てみたいという欲求もある。反董卓連合時以外にも彼女は零治から彼の世界について色々と聞き、使えそうな知識は取り入れて自国を発展へと導いた。

そういう意味でもやはり気になるのだが、零治は必ずと言っていいほど自分の世界についてよくこうこぼしていたのだ。『オレの世界を天の国なんてお高く表現してるが、そんな大層な所じゃない。寧ろこの世界より酷い所だ』、と。だがそれでも見てみたい。華琳は戦中であるにもかかわらず、そんな願いを胸に秘めながら零治の闘いの行く末を静かに見守った。


………


……



「…………」


「恭佳。あの光はまさか……っ!?」


「あのバカ……。アタシとの約束を破りやがって!」


「恭佳さん。約束って何の事ですか?」


「奈々瑠、臥々瑠。アンタら二人は憶えてるよね。随分前に劉備軍が魏を襲撃し、零治が死にかけた事を……」


「はい……」


「うん。あれは忘れたくても忘れられないよ……」



あの時の光景、奈々瑠と臥々瑠の二人は今でも鮮明に憶えている。黒狼との激闘を終え、叢雲とのリンクから解放されたがその直後、神器が内包する純度が高すぎる純粋な魔力が身体中に回り、中毒を起こして生死の境を彷徨ってしまう事となった。もしもあの時、華佗があの場に居なかったら零治は間違い無く死んでいただろう。そして奈々瑠と臥々瑠はなぜ零治がああなってしまったのか、その直接的な原因を知らない。



「あの時零治が死にかけたのはね……ある力が原因なのさ。BDとは違う力がね」


「BDとは違う力?」


「そう。それは叢雲に秘められた、アンリミテッドモードって奴さ。アイツは……零治は今、その力を使ってるんだ! 使えば確実に死ぬと分かっていながら……っ!」


「なっ!?」


「そんな! 恭佳姉さん、嘘だよね!?」


「…………」



嘘だと言ってやりたい。いつもの質の悪い冗談だと言ってやりたかった。だがこれは紛れも無い事実だ。隠した所で、嘘をついて誤魔化した所で未来が、結末が変わるわけではない。恭佳は下唇を噛みながら涙をグッと堪え、俯きながら首を横に振った。



「そ、そんな……っ!」


「どうして……どうしてなの!? どうして兄さんが死ななきゃいけないの!? こんなの……こんなのあんまりだよ……っ!」



一度経験した、大切な存在を、最愛の人を目の前で失うという辛い経験。奈々瑠と臥々瑠に突き付けられた無情な現実。あの辛い思いをまたしてしまうのかと考えると胸が張り裂けそうになる。それは恭佳と亜弥も同じだ。だがもうどうしようもない。零治と黒狼の闘いの間に割って入って止めるなんて不可能だ。念話で通信をしたって、この状況では零治が聞き入れるはずもない。

あまりにも非情な現実を前に、恭佳達は己の無力さを呪いながら悲観していたが一人だけ、一人だけ悲観していない者が居た。樺憐だ。



「恭佳さん。大丈夫ですわ。あの方は……零治さんは必ず生きて戻ってきますわ」


「樺憐? ……何でそんな事がアンタに分かるのさ?」


「分かりますわ。零治さんは考え無しで危険を冒すような方ではありません。わたくし達を哀しませないために、あの方は必ず生きて帰ってきます。わたしはそう信じて待ちますわ。零治さんの帰還を」


………


……



「くぅぅっ!」


「ぬぅぅっ!」



零治と黒狼は互いに一歩も退かず、未だに凄まじい鍔迫り合いを繰り広げており、触れ合う刃の間からは深紅の魔力が電流のようにほとばしり、辺りに暴風が巻き起こってギャラリーの星達は強烈な風に吹きつけられながら踏ん張り、何とか二人の闘いを眼に焼き付けていた。



『主ヨ! コレ以上時間ヲカケルノハ危険スギル! ソロソロ決着ヲ着ケネバマズイゾ!』


『分かってるっ!』



タイムリミットは刻一刻と迫り来ている。叢雲が警鐘を鳴らしている以上、もう時間をかける訳にもいかない。ここから一気に流れをこちらに持って行き、速攻でケリを着けなければならないだろう。この状況なら流れを持って行くのはさほど難しくない。タイミングさえ合えばどうとでも出来るのだ。



「……ふんっ!」


「っ!?」



零治は黒狼に一瞬の隙を作らせるため、両腕に力を入れて魔王剣の刃を押し返した。互いの神器の刃が離れた事で魔力のほとばしりと暴風は収まり、船上は静けさを取り戻す。

いきなり力の均衡が崩れたため、流石の黒狼もこれには対処しきれず後ろに数歩下がるようによろめいてしまった。おまけに今まで船を縛り付けていた水の鎖も解除されているため、船は水面の上でユラユラと揺れているのだ。そのせいもあって黒狼はバランスを崩し、大きな隙を見せた。



「黒狼! もう終わりにしてやる!」


「がはぁ!?」



零治は低姿勢でダッシュし、黒狼との間合いを詰めて彼の懐まで飛び込み、左手の拳を振り上げて腹部に強烈なアッパーを叩き込んで黒狼を遥か上空に打ち上げた。この闘いに終止符を打つため、零治は両脚を曲げて力を溜め、彼の後を追うようにその場から大きく跳躍したのだ。踏み台にされた船は当然ユラユラと激しく揺れ、一緒に乗っている星達は落下しないように両脚で踏ん張りながら空中へと視線を向ける。無論、彼女達だけでなく、この赤壁に集う英傑達全員の視線が空中に集中した。



「凄い闘い……。あの黒き閃光さん、とんでもない強さじゃないの」


「雪蓮。見とれている場合ではないぞ。この状況だ。我らにもはや勝ち目は無い。隙を見て撤退する必要があるぞ」


「分かってるわ。でももう少しだけ。ねっ?」


「全く。ならこちらは私に任せてもらうぞ」



戦狂いとまで言われている孫策はまだこの闘いを、零治と黒狼の激闘の結末を見届けたいのだ。しかも一度言い出したら余程の事ではない限り考えを改める事も無い。だが何もしない訳にもいかないのも事実だ。

周瑜は内心溜息を吐きながら孫策の我儘を聞き入れ、撤退の準備を整えておくためにその場を後にし、兵達に指示を出した。



「いやはや。儂が船を離れている間に随分ととんでもない闘いが起きていたのですな」


「ええ。所で祭、金狼はどうしたの? かなり酷い怪我を負っていたけど」


「あやつなら脱出用の小舟を使って一人で蜀の船に戻りましたよ。手当をしてやると言ったのにそれすら聞かずに。今頃は蜀の旗艦に居るのではないですかな」


「あらら。やせ我慢しちゃってまあ。それにしても、よく無事に戻ってきてくれたわね、祭」


「ふふ。当然です。御大将との約束を違える訳にはいきませぬからな」


「そうね。……さて、この闘い。一体どうなる事やら」



孫策と黄蓋は再度空中へ視線を向けると、宙を無防備な姿で吹っ飛んでいた黒狼が身体を強引に回転させて体勢を何とか立て直したが、少し遅かったようだ。零治が既に目前まで迫ってきていたのだ。右手に持つ叢雲を振りかぶりながら。



「黒狼ぉぉぉぉぉっ!!」



裂帛の気合いと共に怒声を上げながら零治は叢雲を一気に振り抜く。どこまでも紅く、そして禍々しく光り輝きながら迫り来る刃。黒狼は魔王剣の刃を寝かせ、腹に左手を添えて防御し、零治の一撃を辛うじて受け止めた。刃がぶつかるたびに接触面からは深紅の魔力光が稲妻のようにほとばしり、辺りを紅く照らし出した。



「くぅ……っ!」



零治の強力な一撃を何とか受け止めたが、今の状況ではそれだけで精一杯だった。だが衝撃までは逃がしきれず、黒狼は風に吹かれた枯葉の様に横へと吹っ飛んで行き、零治は今度こそこの闘いに終止符を打つため、叢雲を鞘にしまって居合の構えを取りながら空中でグンッと脚を延ばして地面を蹴るような動作をし、黒狼を追撃するために横へと跳んだのだ。



「黒狼! これで終わりだぁ!」


「抜かせ! あまり調子に乗るな! 影狼ぉぉぉぉ!」



流石にこれ以上やられっぱなしでは癪なので、黒狼はもう一度空中で体勢を立て直し、零治と同じように何も無い空中を蹴り、零治に向かって突撃をした。右手に持つ魔王剣を振りかぶりながら。

空中を一直線に跳びながら進む零治と黒狼は、互いの距離が目前まで縮まった所で二人は剣を同時に振り抜いた。



「ッ!? ぐぅ!」


「がぁ!?」



零治と黒狼が同時に振るった刃はぶつかる事も無く、見事にお互いの身体を捉えて双方の胸部に大きな一文字の刀傷を残し、そこから大量の血が噴き出した。まさに相打ち。しかもその衝撃で二人は後ろへとお互いに吹っ飛びながら落下していき、零治は恭佳が指揮するガレー船に。黒狼は劉備達が指揮している旗艦へと落ちていく。



『主! モウ限界ダ! リンクヲ解除スルゾッ!』


「そうしてくれ。どうせオレも……これ以上闘うのは無理みたいだからな」


「ククク。ここまで胸が躍った闘いは初めてだ。決着をつけられなかったのは少々癪だが……今回はこの辺にしておくとするか……」



お互いに限界を尽くした。もう闘うのも無理であるし、受け身すら取れないだろう。零治と黒狼は落下に身を任せながら眼を閉じ、やがて零治は恭佳のガレー船の甲板に叩き付けられ、そのまま床板をぶち抜いて船倉まで落下してしまい派手な破壊音を辺りに響かせた。

黒狼も零治がぶつかった事で出来た木造パーツの残骸の山に落下し、木が砕ける派手な破壊音を鳴らして身体を叩き付けられ、残骸の山の上に身を横たえた。



「黒狼さん!」


「ぐぅ……っ!」


「黒狼さん! 大丈夫ですかっ!」


「劉備……か。私なら平気だ。それより全軍に撤退の指示を出せ。この戦い、もうこちらに勝ち目はあるまい……」



要の策である火計はとうに失敗し、こちらの船団は蜀、呉共に恭佳のガレー船のおかげで甚大な被害を受けているのだ。呉軍が機会を見て撤退する事は既に連絡を受けているし、彼女達は船を反転させ、赤壁から引き揚げ始めている。こちらもそれに合わせて撤退しなければ魏軍の攻撃の槍玉に挙げられてしまうのは火を見るよりも明らかだ。



「朱里ちゃん……」


「……はい。周瑜さんとも話していますが、もしここで曹操さんに勝てなかった場合は……」


「なあ、朱里。孫策さん達を俺達の国に……蜀に迎え入れる事は……」


「それはできないそうです。自分達は呉の民で、江東には守るべきもの全てがあるのだと」


「…………」


「それに金狼さんだけでなく、黒狼さんまでこんな大怪我をしているんです。銀狼さんは成都で待機してもらっていますからこの場には居ません。この状況ではこちらもこれ以上戦うのは厳しいかと……」


「……分かった。それじゃ、私達も成都に戻ろう。もう一度兵力を整えて……今度こそ、曹操さんと互角に戦えるように」


「はい。……雛里ちゃん」


「分かりました。全軍、撤退します。船を反転させてください」



もはや勝敗は決した。勝利の鍵であったはずの策が失敗しただけでなく、蜀と呉の連合軍は大きな痛手を負わされてしまったのだ。それに対して華琳率いる魏軍の損害は軽微。ほとんど無傷と言っても過言ではない。ならば取るべき行動は一つ。これ以上被害が拡大する前にこの場から引き揚げるしかないのだ。蜀の船団も呉軍に続くように船を反転させ、撤退を開始した。



「フッ。黒狼、アンタがそんな重傷を負って帰って来るとは想像もしてなかったよ。そんなざまじゃ五色狼最強の名が泣くよ……」


「フフ。言ってくれるではないか、金狼。貴様こそどうなんだ? 左脚に酷いケガを負っているようだが、白狼は倒せたのか……?」


「…………」


「ククク。貴様もあまり人の事を言える立場ではなさそうだな……」


「うるさい。次はこうは行かない。次の闘いでは必ずアイツを殺してやる……」



金狼は赤壁で亜弥との決着をつけるつもりでいたのに、その思惑は失敗に終わっただけでなく、彼女に大きな痛手を負わされるという屈辱的な敗北をしてしまったのだ。金狼はこの敗北を糧とし、復讐の炎を燃え上がらせながら甲板の上に座り込み、魏の船団に憎悪の籠った視線を向けた。


………


……



「はぁ、はぁ……。あぁ……今のはスゲー痛かったぜ……」


「零治……」



船倉から甲板へと続く階段を一段一段ゆっくりと登り、零治はようやく恭佳達に無事な姿を見せる事が出来た。いや、負傷しているから全くの無事とは言えないのだが。だがそれでも彼が無事である事に変わりは無いのだ。亜弥達はその姿を見て安堵したが、恭佳だけは違った。零治の姿を見るなり、ズンズンと甲板の上を歩き、零治へと近づいて行った。



「あぁ、姉さん。ただい――」


「このバカ野郎が!」



怒り心頭の恭佳は今の零治がどういう状態なのか見えていないのだろうか。彼女は零治が負傷している身であるにもかかわらず、問答無用で顔面にパンチを一発お見舞いしたのだ。殴られた零治は甲板の上に吹っ飛ぶ様に仰向けに倒れ、その衝撃が傷口にも響いて痛みが全身を駆け巡る。零治はその痛みに耐えながら身をよじり、大の字で甲板の上に身を横たえた。



「前言撤回。今のパンチが一番痛ぇ……」


「零治っ!」



恭佳は今の零治がどういう身なのかお構い無しに怒声を上げて彼の胸ぐらに手を伸ばし、無理やり上体を起こさせた。零治が無事に戻ってきてくれたのは姉として彼女も嬉しく思っている。だが、彼が黒狼との闘いで冒した危険を考えれば、素直に喜ぶ事など出来なかったのだ。



「アンタねぇ……自分が何をしたか分かってるのか!?」


「……約束を破った事は謝る。済まない」


「当たり前だ! アタシが……アタシがどれ程心配していたか……っ! 亜弥達がどんな気持ちでアンタの闘いを見ていたか少しは考えたのか!」


「言い訳はしない。悪かったと思ってる。でも、これだけは信じてくれ。オレは考え無しであの力を使った訳じゃない。危険がゼロだったとは言わないが、生きて帰れる可能性があったから使ったんだ……」


「…………」


「だからもう許してくれよ。こちとら負傷してる身だから、早いとこ手当をしたいんだ」


「分かったよ。……零治。おかえり」


「ただいま」


「恭佳。話は済んだのですか?」


「ああ」


「なら私達も移動しますよ。いま華琳から連絡がありました。ここで野営地を展開し、態勢を整えてから改めて呉へ進軍するそうです。彼女達は既に移動を開始してますよ」


「分かった。ならアタシらも行くとしよう。零治も酷くやられてるからね。早く手当をしてやらないと」


「よく言うぜ。そのケガ人を殴った張本人が……」


「ああん? 今なんか言った……?」


「いえ、何も」



恭佳がこちらを睨み付けてくるので、零治は肩を竦めながら適当に誤魔化す。いくら零治でもこれ以上恭佳に殴られるのはご免だ。何しろ重傷を負っている身なのだから。早いところ手当てを済ませて休みたい。それが今の彼の本音だ。あれ程の激闘の直後なので、これ以上動く事すらままならない。零治はひとまず船の縁に背を預けながら甲板の上に楽な姿勢で座り込み、疲労困憊の身体を休めるのだった。


………


……



「華琳様。野営地の展開、完了しました」


「被害はこの規模の攻撃を受けたにしては軽微です。……が」


「何?」


「華琳様、酷いです……。黄蓋が裏切るというなら、私に一言あっても……。聞けば、秋蘭や桂花達は皆知っていたというではありませんか」


「ボクも聞いてませんよぉ……」



赤壁で蜀と呉の連合軍を撃退し、態勢を整えるために野営地を展開して首脳陣達による会議を開き、そこでようやく事の全貌を春蘭と季衣は知る事が出来た。話を聞かされるなり、二人はまるで遊びの輪に加えてもらえず仲間外れにされた幼い子供のように口を尖らせて文句をブー垂れてる。



「あら、二人とも。聞いていたらどうしたの?」


「当然、常に黄蓋に貼り付いて、反逆などさせぬように……」


「それでは意味が無いでしょう。外と呼応して裏切った所を叩く予定だったのだから」


「なら、そのように説明していただければ……!」


「上手く黙っていられたか? 姉者」


「当たり前だ! 私の口の堅さは天下一品だぞ!」


「なら、一つ試してみましょうか。この試験に合格したら、次からは春蘭にも話してあげる」


「はいっ! 何なりと!」


「城に戻ったら、春蘭を今までに無いくらい可愛がってあげる……けれど、その事を城に帰るまで誰にも悟られては駄目よ? どう。我慢できる?」


「何ですとっ! か、華琳様……!」



敬愛する主である華琳から今までに無いくらいの寵愛を受けられる。春蘭にとってこれほどの褒美は滅多に無いだろう。だが、華琳がいま提示した内容は城に帰るまで誰にも悟られてはならないと言っていた。つまり口にする事も態度として表に出す事も許されない。しかし、こういう事になると春蘭はバカ正直になり、どうしても表に出してしまうのだ。華琳の言葉を耳にするなり、さっそく顔をだらしなくにやけさせていた。



「……姉者。既に顔がにやけているぞ」


「…………はぁ」


「そ、そんな事は……でへへ」


「駄目じゃない。残念だけど不合格ね」


「うぅ……。ボク、聞かなくて良かったかも」



華琳から与えられた試験に、春蘭は見事なまでに不合格。その姿を横で見ていた季衣は表情を引きつらせながら今回の件を聞かされなかった事に安堵した。彼女は春蘭を手本にしている傾向があり、戦う際の思考、書類仕事に至るまで影響してしまっている。季衣も同じような内容の試験を提示されたら、間違いなく態度に出していただろう。

相変わらず春蘭は顔をだらしなくにやけさせ、不合格になった事すら未だに理解していない。ひとまず彼女の事は放っておくとして、今後の方針を決めねばならない。その事について稟が口を開いた。



「華琳様。今後の進路の事なのですが……。船団の立て直しの件もありますし、どうしましょうか」


「分かってるわ。話を進めようにも、零治達がまだ戻ってきていないもの。まずは彼らの到着を待ちましょう」


「……それに関しては陸路でも水路でもどっちでも良いさ」


「やれやれ。今回の戦の一番の功労者がようやく来たわね。遅いわよ、零治。一体どうし……。っ!?」



やっと零治がこの場に来たので、全員が声がした方角に視線を向けると、華琳達は表情を凍りつかせた。

零治は今、恭佳と樺憐に肩を貸してもらい、立って歩くのがやっとなほどボロボロの状態なのだ。黒ずくめの服装なのであまり目立たないが、全身を血で紅く濡らし、顔も左半分が血で真っ赤に染めあがっている。

眼の出血は既に止まっているが、黒狼につけられた胸の刀傷からは未だに血が流れ出ている。こんな姿の零治を前にしては軍議どころじゃないし居ても立ってもいられない。魏の首脳陣達全員が床几から腰を上げ、彼の前に駆け寄った。



「零治! 貴方その傷は……!」


「あぁ、これか。黒狼にやられた。それだけさ。顔の傷は違うがな……」


「そんな事はどうでもいいのよ! 秋蘭! 衛生兵をすぐにここへ!」


「はっ!」



いま一番に優先すべき事は零治の手当てだ。こんな状態の彼を放って軍議など進められる訳が無い。華琳が飛ばした指示に従い、秋蘭は一目散に衛生兵を呼びにその場から駆け出した。

それと入れ替わるように恭佳と樺憐に肩を貸してもらい、零治は一歩一歩ゆっくりと歩き、床几の一つに腰かけてようやく身体を落ち着かせる事が出来た。



「はぁ。やっと休める……」


「零治! 気をしっかり持ちなさい! 秋蘭がすぐに衛生兵を連れてくるからそれまで頑張るのよ!」


「華琳、落ち着け。オレなら大丈夫だ。この傷も魔導書の力ですぐに治るさ……」


「それでも放っておけるわけないじゃない! いいから大人しくしていなさい!」


「分かったよ。それでお前の気が済むんなら」


「華琳様。衛生兵を連れて参りました」


「ご苦労! すぐに零治の治療を!」


「はっ! ……それでは音無様、服を脱いでいただけますか」


「ああ」



自分は平気だと言っているが、普通なら重症患者だ。周りがここまで騒いでいては華琳の言う通りにしないと周りからどんな小言を言われるか分かったものじゃない。零治は軍医の言葉に従い上に着ているコートを無造作に脱ぎ捨て、下に着ているベストとカッターシャツも脱ぎ捨てると、黒狼につけられた胸の刀傷が姿を見せ、未だに出血を続けていた。



「これは酷い。傷もかなり深いですから縫合しないと塞ぐのは無理そうですね。道具を用意しますので少々お待ちを」


「そこまでしなくていい。オレは普通の人間じゃないんだ。血を拭き取って包帯を巻いとくだけでいい」


「えっ? しかしそれでは……」


「構わないわ。彼の言う通りになさい」


「……承知しました。ですが念のため消毒はさせてもらいます。しみると思いますがそこは我慢してくださいよ?」


「分かってる。早く済ませてくれ」


「はっ。では始めさせてもらいます」



秋蘭が連れてきた衛生兵は、手当などに必要な道具類、包帯などといった諸々の物が収められている木箱の蓋を開けて中から消毒薬の入った瓶と綺麗な純白の布を一枚取出し、瓶の蓋を開けて口を布で塞ぎ、逆さまに引っくり返して消毒薬を布に染み込ませる。布に充分な薬が染み渡った所で衛生兵は瓶を元に戻し、零治の傷口に当て、薬を染み渡らせた。



「ぬぅ……っ! くっ!」



これだけ傷が大きいと、消毒薬の痛みも半端ではない。刃物で斬り付けられた時とは違う感覚の鋭敏な痛みは零治の傷口を刺激し、彼の表情は苦悶の物に歪む。一通り消毒を済ませたら衛生兵は消毒用の布をその場に投げ捨て、消毒薬の瓶も蓋を閉めてその場に置いた。続いて箱から先程と同じ大きめの綺麗な布を取り出して折り畳み、零治の傷口に当てがって包帯を丁寧に何重にも巻きつけ、最後に緩んで解けないように背中の方できつく縛り上げて胸の応急手当てを終えた。



「はい。胸の方はこれで大丈夫でしょう。後はこの左眼の傷なのですが……」


「分かってる。周りの傷は念のため消毒してくれ。だが間違っても眼の中に薬を入れるなよ?」


「心得ています」



眼の中はともかく、流石に周りの傷は放置できないので、衛生兵は今度は布ではなく脱脂綿を箱から取出し、先程と同様に消毒薬を染み込ませ、傷口をチョンチョンと軽く叩くように傷口のラインに沿って消毒していき、それと同時に顔の周りの血も拭き取っていった。もちろん薬が眼の中に入らないように慎重にだ。この時も鋭敏な痛みが傷口から全身に駆け巡り、零治は痛みに耐えながら身体を震わせ、消毒は終わった。



「消毒はこれで完了です。後は包帯を巻くだけですね」


「いや、包帯はいい。その代り、さっき胸の消毒に使った布を一枚くれ」


「はっ? ……分かりました。どうぞ」



零治は衛生兵から綺麗な布を一枚受け取り、それを折り畳んで手頃な大きさにして傷口に当てがい、布が落ちないように左手でそれを押える。だが問題はここからどうするかだ。彼は包帯は巻かなくていいと言っているが、それでは傷を塞ぐ事は出来ない。一体どうするつもりなのだろうか。



「誰か眼帯を持ってないか? この傷が隠せるほどの大きい奴だ」


「隊長。そんな物を使わなくても普通に包帯を巻けば済む話じゃないですか」


「顔を包帯でグルグル巻きにされたら周りがオレを病人扱いするかもしれないだろうが。それに、それでは格好がつかん」


「なんや隊長。結局それってかっこ悪いから包帯巻きたくないだけやんか」


「うんうん。隊長。こういう時は格好なんか気にしてる場合じゃないのー」


「やかましい。とにかく、誰が何と言おうが包帯は巻かんからな」


「零治。アタシの眼帯使う?」


「姉さんのは小さすぎだからダメだ。……ってか、今更だけど何で海賊のコスプレなんかしてんだよ?」


「いやぁ、これには色々と事情が」


「零治、そのまま待ってなさい」


「ん? あ、おい。華琳」



華琳は踵を返し、一人で自分用の天幕へとスタスタと歩きだし、中に入っていた。それからすぐに天幕から出てきてこちらへと戻ってきたのだが、彼女の右手には黒い帯状の物が垂れ下がっているが、何を持って来たのだろうか。華琳は零治の前まで歩み寄ると、右手を彼の前に差し出した。見てみると彼女の右手には、黒く太い帯状で一部が鈍角三角形の形状をした留め具つきの布があった。



「こりゃ……眼帯か?」


「ええ。これを使いなさい」


「では、ありがたく使わせてもらう」



零治は華琳が用意してくれた眼帯を受け取り、左手で布を押えながら右手で眼帯の三角形の部分を左眼にあてがい、上を向いて衛生兵から受け取った布が落ちないようにして眼帯と重ね合わせるが、普通に巻き付けると眼帯の下から布がはみ出してしまうので、仕方なく少しだけ眼帯を斜めにずらして巧く布を隠し、そのまま両手で帯の部分をピンッと引っ張りながら頭にしっかりと巻きつけ、最後に後ろに回ってきた金属の留め具でしっかりと固定した。眼帯はピッタリと顔にフィットしているのでずれ落ちる心配も無さそうである。



「あら。結構似合ってるじゃない」


「そりゃどうも」


「眼の傷もこれなら大丈夫そうですね。では、私は他の者の手当てがありますのでこれで失礼します」


「ええ。ご苦労さま」



零治の応急処置はこれで問題は無さそうなので、衛生兵は一礼してその場を後にし、他の負傷者の手当てへと向かう。彼の手当てが終わり、見た所元気そうなので魏の首脳陣達は胸を撫で下ろして安堵の溜め息をついた。桂花だけはそんなそぶりは見えせなかったが、流石に今回ばかりは心配だったようで、零治と眼を合わせるなり両腕を組んで鼻を鳴らし、プイッとそっぽを向くがその表情にいつもの棘は見られなかった。

おまけに流琉などは零治が眼帯を着けたので印象が大きく変わり、ほんのりと頬を赤らめながらその姿に見とれてすらいた。



「……眼帯を着けた兄様……かっこいい」


「ふむふむ。確かに今のお兄さん、歴戦の猛者のような雰囲気を醸し出していますねー」


「せやなぁ。零治。今のあんた、なかなか男前やで。なんか武人としても箔がついた気がするわ」


「お前らなぁ……眼帯着けたぐらいで大袈裟すぎないか?」


「はいはい。それは後回しになさい。まだ本題が済んでないのよ。……稟、さっきの話の続きだけど、陸路と水路、どちらが良策?」


「建業までは長江を下るだけですから、距離的にはあまり変わりません。時間的に言えば、立て直しの期間を含んでも船の方が若干早いかと思いますが」


「陸路だっ!」


「ボクも陸路の方が……」



時間的に考えれば水路の方が早いと稟は提示したが、春蘭と季衣は揃って首を横に振り、陸路での移動を希望した。まあ、理由に関しては考えるまでも無いだろう。魏の将兵達は船での戦等の訓練は積んでいるものの経験は浅い。つまり船での移動にも慣れているとは言い難い。船に慣れていないという事は船酔いを起こしやすいという事なのだ。現に凪、真桜、沙和の三人も赤壁までの移動の際、酷い船酔いに悩まされ続けていたのだから。



「だ、そうよ。船旅は飽きた? 二人とも」


「あのゆらゆら揺れるのが、どうも……」


「地に足さえ着いていれば、例え倍の距離でも船と同じ時間で辿り着いて御覧にいれましょう!」


「ならば陸路での移動に。経路は任せるわ」


「承知しました。ですが……」


「何? まだ問題が?」


「はい。零治殿はこの通り酷い怪我を負っています。陸路での移動に耐えられるかどうかが気がかりなのですが」


「ふむ。……零治。大丈夫そう?」


「単なる移動なら心配無い。ただ……」


「ただ。何?」


「赤壁であれだけの大規模な魔法を長時間使用していた上に、連戦続きで流石に疲れた。済まないが建業での戦は出来るだけ楽をしたい……」


「分かったわ。なら、建業では貴方は本陣での待機にしておくわね」


「悪いな」


「気にしないで。赤壁での戦の一番の功労者は貴方だもの。そのくらいの我儘は聞き入れてあげる」



行動方針は纏まったので、後は明日の移動に備えて休むだけだ。軍議を終え、華琳が解散の号令を出したので首脳陣達は散り散りに自分が使用する天幕へと移動し、零治も脱ぎ捨てた衣服を片手に、胸の傷を右手で押えながら痛みを堪えてふらついた足取りで歩きながら天幕に到着すると、中に入るなりど真ん中でゴロンと仰向けに大の字になって寝転がり、大きく息を吐いた。



「ふぅ~……。ここまで疲れた戦いは劉備軍が攻め込んできたあの時以来だな。……なあ、BD」


『何だ?』


「オレの左眼だが、治すまでどれぐらいの期間が要るんだ?」


『傷が浅けりゃ遅くても数日で治せるんだが……かなり深いからなぁ。完全に元の状態にまで治すとなると時間かかるぜ。いっその事創り変えないか? そっちの方が手っ取り早いし、時間もかからないぜ』


「いい。遠慮しておく。このガントレットみたいに悪趣味な眼にされたら敵わんからな」


『失礼な。俺様のセンスをバカにしてんのかぁ? まあいいさ。その眼も完璧に治し、周りの傷も綺麗に消して元通りにしてやるから安心しな』


「……いや、この傷は残しておけ」


『ああ? いや、残せと言うんならそうするが……何でそんな物を残すんだよ。自分の顔に迫力でもつけたいのか?』


「そうじゃない。……アイツが……星がオレに一太刀浴びせた。その証として取っておきたいのさ。己の慢心に対する戒めの意味も兼ねてな」



左手で触れている眼帯の下から顔に伝わってくる鋭い痛み。それは星が自分に浴びせた一太刀であり、彼女が腕を上げたという何よりの証だ。三対一の状況で連携による攻撃とはいえ、星が零治に肉薄したのは紛れも無い事実である。この世界の人間を相手にこんな事が起こり得るなど零治は今まで考えた事も無かったが、今日の出来事でその考えを改めさせられた。だからこそ残すのだ。己に対する戒めとして。そして自分に一太刀を浴びせた星に対する敬意の証として。

零治「ん? この話かなり長いのに随分早い投稿だな」


作者「これもGWのおかげだな。あの連休中に半分ぐらいは出来上がってたから」


亜弥「ふむ。まさにGWさまさまですね」


恭佳「そして今回の話、零治と黒狼のガチンコバトルだけどさぁ」


作者「何? 何か文句でもあるの?」


奈々瑠「だって……何ですか。あの無駄に鮮麗された無駄の無い無駄な動きは」


作者「そこはスタイリッシュと言ってほしいんだけど」


臥々瑠「闘いにスタイリッシュ性なんて必要なの?」


作者「おいおい。チート路線なら闘いの場面で派手さは必要不可欠だぞ?」


樺憐「これは……どう考えても某デビルハンターの影響ですわね」


作者「そこは否定せん。この話の推奨BGMはD○○3に登場する鬼いさん戦の二回戦目がお奨め」


亜弥「なぜです?」


作者「だってこの話、あれを聴きながら書いたもん」


零治「この話でオレがやたらと居合を使ってたのはそのせいだな……」


作者「かもしんない」

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