第77話 赤壁の戦い、開幕
書いてて思ったんですが、翠蓮の服装にはなかなか手こずりましたね。
頭の中でイメージは出来てもそれを文章にするのはやはり難しい。
こういう時絵があるとやはり分かりやすいですよね。まあ、自分は絵心無いから無理ですけど。知り合いにも頼みづらいし。
「良く寝たのーーーーっ!」
赤壁を目指しての出撃から今日で二日目。目的地までの距離はあと半分といった所だろうか。
現在、魏の船団は近くの港に寄港し、小休止も兼ねた物資の補給を行っている最中だ。
港に着くなり沙和は昨日の様子とは打って変わり元気一杯で、陽光を浴びながら気持ち良さそうにその場で大きく伸びをした。
「何だぁ? 昨日と違って今日は元気だな、沙和」
「うん。今日は船が揺れないから、気持ち悪くならないの。この鎖のおかげなの?」
「どうもそうらしい。こんな鎖があるだけで、随分と違うものだな」
「……そうだな」
凪は港に泊められている自軍の一隻の船の船体に眼を向け感心したように頷き、その横に並ぶように停泊している船の船体の間には、昨夜黄蓋が持ち込んだ鎖が取り付けられていた。
太く頑丈な鉄製の鎖は船体同士にガッチリと組みつけられているが、突貫工事による作業だったらしく、周辺には乱雑に叩き付けた釘があり、鎖の付け根付近には『触るな』と書かれた札が貼り付けられていた。
まだ事の全貌を凪と沙和は知らないため、この鎖の存在を非常にありがたがっているが、零治は違う。この鎖は黄蓋がこちらを罠にはめるために仕組んだ物なのだ。そして、昨夜BDが提案した細工も既に済ませてある。後は時期が来るのを待つだけなのだが、実は彼もまだ全てを知っている訳ではないのだ。なので、今の内に念話で訪ねる事にする。でなければいざという時に困るからだ。
『おい、BD。いい加減オレには教えろよ。お前の提案の全貌を』
『あぁ、そうだな。……いいか? 戦いが始まり、術を発動すれば鎖は溶けて無くなる』
『ああ』
『赤壁ってのは長江の支流、要は河なんだよな? つまり水がある場所。当然鎖は赤壁の水に溶け込む。お前の呪われた血と一緒にな』
『呪われたは余計だ……』
『まあそう機嫌を悪くすんなよ。……でだ、そうなった時、呉の連中が地の利として生かす水場、つまり赤壁が俺達の支配下に入り、奴らの敵となるのさ。ヒヒヒ……』
『……聞けば聞くほど理解できんな。地の利を奪う説明にもなってないぞ』
『安心しろ。戦いが始まったらどうすればいいかちゃんと教えてやるよ』
『はいはい』
「触りなやっ!」
突然真桜の怒鳴り声が聞こえたので零治は現実に引き戻され、声がした方を見れば普段の姿からは想像もつかないような険しい表情で凪と沙和を一喝していたのだ。
どうも二人が船を繋ぎ合わせている鎖に近寄っていたので、札を貼ってはいるが念を押したのだろう。
「どうしたんだ、真桜。そんな怖い顔してよぉ」
「……何でもあらへん。ちょーっと工兵を率いて、徹夜で突貫工事しとっただけや」
「あぁね。そいつはお疲れさん」
これだけの船を一夜で鎖で繋ぎ合わせるなど、魏軍広しと言えど出来るのは真桜くらいだろう。
真桜の眼の下には隈が出来ており、彼女がどれだけ睡眠不足なのかを物語っていた。もっとも、真桜が怒鳴ったり理由は別にあるのだろう。彼女がどのような作業をしたかは知らないが、黄蓋が仕組んでる策略を分かっている零治はその辺の事を察してはいる。
「そんなわけで、寝かせてもらうで。敵の襲撃があっても起こさんといてや」
「いや、敵襲があったら起きろよ、バカ」
真桜は眼をゴシゴシと擦りながら大欠伸をし、フラフラした足取りで停泊している船に乗り込み、睡眠を取るためにそのまま奥へと引っ込んでいった。
と、その時だった。何気なく港に停泊している自軍の船を見回していた沙和が怪訝な表情になり、二つ向こう側に停泊している船に乗船している兵士の一団を見て首を傾げたのだ。
「……あれ? ねえ、凪ちゃん……」
「……ああ」
「ん? 二人ともどうかしたのか?」
「隊長。あの船の兵隊さん達なんだけど……」
凪と沙和は二つ向こうの船の兵達に訝しげな視線を向けていたので、零治も二人に習ってその船の兵達を観察する。少し距離があるためハッキリとは視認できないが、船に乗っている兵士達を一通り確認するなり、零治の表情も訝しげなものに変化した。
「……アイツら誰だ。都の正規軍の鎧を着てるのに見覚えの無い連中ばかりだぞ。凪、知ってる奴は居るか?」
「いいえ。真桜の隊でもなさそうですね……」
「沙和、お前は?」
「ううん。知らな人ばかりなの」
魏の兵士達の訓練は基本的に魏の各地で行われており、都での訓練を担当しているのは凪、真桜、沙和の三人である。零治や亜弥もたまに様子見のために顔を出したりし、その時に新人には挨拶も交わしている。
もちろん今回の遠征は規模が大きいので、都以外で訓練した兵達も参加しているので見知らない顔の人間が居ても不思議ではないが、零治達が不審に思ってる船の兵達は全員都の正規軍の鎧を着用しているのだ。
魏の兵達の鎧には複数のバリエーションがあり、その兵がどこの部隊の所属なのか、階級などを識別するために細かな差異が施されている。ただその差は微々たる物なのでパッと見では分からないが、見る人には分かるらしい。零治も最初は分からなかったが、しばらくして分かるようにはなっている。
そして、都の正規軍の鎧を着ているという事は、入隊時に本国で訓練を受けているはず。ならば一人や二人は知っている顔が居てもおかしくないのに、あの船の部隊には一人も居ない。零治達の猜疑心はますます強まった。
「凪。この件、華琳に報告しておけ。くれぐれも黄蓋には気付かれないようにな……」
「了解です……」
「ねえ。隊長。あれって……」
沙和が見知らぬ顔ぶればかりの兵達が乗船している船を指さす。その先にあったもは、船の中から姿を見せた兵達の指揮官である。零治達が全く知らない顔ぶれの兵士達と親しげに話をしている指揮官。その者は……。
「ああ。ありゃ黄蓋の部隊だな……」
………
……
…
「いま帰ったぞ!」
同時刻、場所は変わりこちらは蜀の陣営内。昨夜、魏の陣営に黄蓋が実行するための策の要である鉄鎖を持ち込み、鳳統と共に引き揚げた翠と蒲公英が蜀の陣営に無事帰還し、満面の笑みで劉備は彼女らを出迎えた。
「おかえり♪ 黄蓋さんの様子はどうだった?」
「今の所は朱里の予定通りに進んでる。……ちょっとヒヤッとしたけど、黄蓋殿が上手くやってくれたよ」
「……姉様。あれはちょっとで済まないと思うよ」
「しっ! その事は黙ってろ……っ!」
直接顔を合わせた訳ではないが、翠達は零治と遭遇してしまい、危うく見つかりそうになったのだ。まあ、恭佳には気付かれていたのだが。定軍山であのような事があった後だが、彼女達にとっては翠蓮を救ってくれた恩人である事は今も変わらない。そういう意味でも、あの出来事には二人とも肝を冷やした事だろう。
「んん? 翠さん、どうかしたんですか?」
「いや、何でもない。気にするな」
「そうですか。なら後は……風向きが変わる夜を待つだけですね」
「……そういうの、どこで調べてくるんだ? 黄蓋殿が、普通は地の者しか知らないって言ってたけど……朱里って、この辺りの出じゃないよな」
「色々と書物を読んだりするんですよ。地元の人しか興味を持たない情報にも、興味を持つ人って意外と居るんですよ?」
「へぇぇ……」
軍師たる者、知識の収集には事欠かないのだが、諸葛亮はその点を除いても筋金入りの読書家なのだ。
一度読み切った本を何度も最初から読み直すのも習慣になっているし、城の書庫に収まっている本も全て読破し、新しく発売された気になる本も買っては何度も繰り返し読んでいる。そういった日々の積み重ねが今回の策に一役買う事ができたのだ。
「あの……朱里ちゃん……」
「あれ? 雛里ちゃんどうしたの?」
「黄蓋さん、全部気付いてらっしゃいました……」
「……そうですか。やっぱり、周瑜さんが仰っていた通りの方のようですね」
「そうだ。孫策と周瑜は?」
ここまで戻って来るまでの間に、呉が何もせずに動いていない事はまず無いだろう。今回の呉の作戦には蜀も呼応して動き、共闘して魏軍を撃退する予定なのだ。翠の質問に関羽が答える。
「黄蓋殿を助けると言って、既に移動を開始したぞ。翠、蒲公英。戻ったばかりで悪いが、我々もすぐに出る。夜までには赤壁を目指すぞ」
「頑張って黄蓋さんを助けようね、翠ちゃん」
「……ああ、分かってる」
頷きはするが、翠の表情はどこか浮かない物だ。別に戻ったばかりでもう一度赤壁に向かうのが面倒という訳ではない。赤壁に戻るという事は、魏軍……つまり零治と闘う事になるのは避けられない。零治から戦場で私情は挟むなと忠告を受けてはいるが、それでも母親である翠蓮を救ってくれた恩人に刃を向けるような真似を彼女はしたくないのだ。それは蒲公英も同じだ。だが、そんな個人的な理由で出撃を拒む事など、国に仕える将としても、武人としても許される事ではない。だからこそ、翠と蒲公英は心を鬼にして出撃の決意を固めるのだが、二人にはもう一つ気がかりな点があるのだ。
「ん? 翠、何だいそのしけた顔は。そんな姿を兵達に見られたら、指揮官としての示しがつかないよ?」
「……母様。本当に出るつもりなのか?」
「当たり前だろ。あんたと蒲公英は出撃するのに、あたしだけ後方でお留守番なんか出来る訳ないだろ」
「でもおば様……赤壁に向かうって事は……」
「分かってるさ。零治と闘う事になるかもしれないって言いたいんだろ……」
「そうだよ。それに……音無との約束だって……」
「ああ。そのためにあたしはあの男に助けられたのに、未だに約束を果たせずにいるんだ。全く。我ながら情けないよ……」
翠と蒲公英が気がかりにしているもう一つの理由がこれだ。今回の戦いに翠蓮も出撃する点である。
無論、翠蓮が患っていた病は完治しているし、今では一廉の武人として完全に戦線に復帰している。その点は何ら問題は無い。問題があるとすればそれは、翠蓮が零治と交わした約束を未だに果たせていない事だ。
劉備に王としての教育をしてほしい、その頼みを引き受けて劉備の元まで流れ着いたのに、その教育は難航しているし、それが原因で関羽とのトラブルも絶えない始末だ。そもそも零治との約束果たせているのなら、今回の戦いだって初めから起こらないか、別のなんらかの方法で回避だって出来ていたはずだろう。それが出来ていないから、翠と蒲公英は出来れば翠蓮には出撃してほしくないのだが、彼女の決意は固そうである。
「やれやれ。桃香と一刀は思っている以上に頑固だもんねぇ。あたしもまさかここまで手を焼くとは予想もしてなかったよ」
「母様。今からでも遅くないよ。母様は戻って後方で待機を……」
「翠、悪いがそれは出来ないね。零治との約束はあるが、そんな個人的な理由で出撃を撤回する気は無い。あたしも武人なんだからね」
「母様……」
「そんな顔するんじゃないよ。な~に。このあたしがそう簡単にくたばるもんかい。それにあれからもう随分と日が経ってるんだ。零治にも挨拶ぐらいはしてやらないとねぇ」
「……分かったよ。でも母様、無理だけはしないでくれよ」
「分かってる分かってる。あたしも零治との約束を果たせないまま死ぬつもりなんか無いからね」
「おやおや。翠蓮殿も随分と零治殿にご執心のようですな」
「ん? あぁ、星か」
翠蓮達の背後から聞こえた涼やかな声の主は星。これから激戦は免れない戦場への出撃だというのに、彼女は相変わらず普段通りの飄々とした姿勢を崩そうとしていない。まあ、変に緊張しているよりはこの方がいいだろう。いかなる状況であろうとも心にゆとりを持つのが彼女の信条なのだから。
「そりゃ執心もするさ。あたしはあの男の事を気に入ってるんだからね」
「その顔を見れば分かりますよ」
「そうかい? ……そういえば二人とも、向こうで零治は見かけたのかい?」
「一応は」
「……まさか顔を合わせたんじゃないだろうね」
「おば様。仮にそれをやってたら、たんぽぽもお姉様もここに戻ってきてないよ……」
「ははは。違いない」
「翠、蒲公英。私も零治殿について訊きたい事があるのだが、構わんか?」
「ん? そりゃいいけど」
「そうか。では訊かせてもらうが……あの方に、何か変わった点は無かったか?」
「変わった点?」
星の質問を前に、翠と蒲公英は怪訝な表情で互いに顔を見合わせた。星がなぜこのような質問を投げかけてきたのかは二人ともすぐに理解できた。理由はやはり、定軍山で目の当たりにした零治の異変が原因だろう。
あの時の零治は誰が見ても異常だった。掌から剣を生やし、一人の無粋な兵士の放った矢を首に受け絶命したはずなのに生きていて、挙句の果てには矢を放った兵士を常識では考えられないような方法で殺害した。
あの光景はこの世界の人間から見れば、呪術を使って殺したとしか思えない。いや、実際にそれに近い方法なのだが。とにかく、星が零治の事を気にしているのはそれらの事なのは間違いないだろう。
「蒲公英。お前、あの時なにか気付いたか?」
「う~ん……。あっ、そういえば……」
「何だ。やはり何かあの方に変化が?」
「うん。暗がりだったし、離れていたからよく分からなかったんだけど……音無さん、確か左腕に鎧を着けていたように見えたの」
「……あぁ、言われてみれば確かに音無の奴、どういう訳か左腕だけに鎧を身に付けてたな」
「左腕だけに? 利き腕を護るためかね?」
「いえ、翠蓮殿。私は零治殿と刃を交えた事がありますが、あの方はいつも剣を右手に持っていた。ならば利き腕は右のはずです」
「ふむ。なら、零治が居たっていう、天界ではそういうのが普通なんじゃないのかい?」
翠蓮が出した見解は明らかに非常識な内容だ。仮に利き腕を護るためとはいえ、腕だけに金属製の鎧を纏うのなら、全身を防護した方が生存率は格段に高くなる。そもそも零治の世界では戦うための武器は何も剣だけではない。魔法も存在しているが、近代文明が入り混じった世界なので銃なども存在している。
銃撃戦の戦いとなればそれこそ腕だけを防護するなど無意味な行為だ。いくら利き腕だけを護っていても、頭や胴体、脚が剥き出しになっていて銃弾を受けたらどうなるか。脚に受ければ当然身動きが出来なくなるし、胴体に当たれば当たり所によっては即死は免れても、応急処置が遅ければ死ぬ場合もあるし、頭部に当たれば言うまでもなく即死だ。どんな世界でどんな戦いであろうとも、動きやすさも確かに重要だが、それ以上に生存率を上げるためにもやはり防具を纏うなら全身を保護するに越した事はないだろう。まあ、それを言ってしまうと零治達は防具を纏っていない姿になってしまうのだが。
「天界では普通かどうかは私には分かりかねますが……」
「まあ、星の言いたい事はあたしも分かるよ。確かに妙だね」
「はい」
「……なあ、星」
「何ですか?」
「そんなに零治の事が気になるのかい?」
「……ええ。あの方は……私にとって特別な方ですので」
「ほほぉ。そいつは気になる事を聞いたねぇ。今度酒の席で詳しく聞かせてくれないか?」
「ふふ。いくら翠蓮殿でも、こればかりはそう簡単に教えられませぬな」
「おや。そいつは残念」
「お~い! みんな何してるんだ! 早く来いって愛紗がカンカンに怒ってるぞぉ!」
「いま行きますよ、主。……さて、では我らもそろそろ行くとしましょうか。愛紗をあまり待たせていては何を言われるか分かりませぬからな」
龍牙を肩に担ぎ、意気揚々と出撃の足を進める星。その姿はいつも通りの飄々としたものだが、彼女の胸の奥には固い決意が秘められているのだ。それは勿論、零治との再戦以外に他ならなかった。
(零治殿。今度こそ定軍山での決着をつけさせてもらいますぞ。私は……私は貴方に勝たねば、武人として前に進めないのですから)
………
……
…
「あら、零治。こんな時間にどうしたの?」
「んん? どうも寝付けなくてな……」
その日の夜。魏の船団は目的地である赤壁には何の障害も無く辿り着き、崖に挟まれた地形をしているため船を停泊させれそうな場所を探すのは一苦労したが何とかなり、小さいが野営を行える陸地もなんとかあったので、魏のメンツは周囲と黄蓋の動向を警戒しつつ小休止を取っているのだが、華琳の天幕を尋ねてきた零治は随分と気怠そうな様子である。
「昼間、あれだけ寝ているからよ」
「いや、寝ていたというか寝込んでいたというか」
「どうしたの? この間といい、随分と疲れているみたいだけど、そんなに仕事はさせていないはずよ?」
「いや、これでも警備隊の仕事も忙しいんだぜ? まあ確かに、華琳達に比べれば楽かもしれんがよ」
「全く。これからが一番大事な時なんだから、しっかりしなさいよ?」
「分かってるさ」
「……けど、無理だけはしないでね」
「ん? なんだって?」
「いいえ。何も」
「あっそ」
華琳の最後の言葉はあまりにも小声だったため、零治は首を傾げながら彼女にもう一度訪ねたが、その華琳はそっぽを向き、素っ気なくいつもの如く適当に誤魔化した。これは王として振舞い続ける彼女の側面が邪魔している結果だろう。
華琳は零治の事を心の底から心配しているのだ。だが、まだ戦闘が始まった訳ではないがここは戦場なのだ。戦場に居る以上、王としての姿勢を崩すわけにはいかない。彼女のそういった考えが邪魔をしてしまい、曹孟徳してではなく、華琳という一人の女性としての気持ちをどうしても素直に伝える事ができない。
もちろんその考え方は間違いではないだろうが、今この場には零治以外に誰も居ないのだから、もう少し素直になっても良いとは思うのだが。まあ、それが華琳の可愛い所なのだと魏の首脳陣達は捉えているので、少なくとも戦時中はこのままでも良いのかもしれない。世が平和になれば、彼女も少しずつ変わるだろうから。
「…………」
「…………」
お互いに黙り込んでしまったので、零治はとりあえず来たるべき時に備えて少しでも休んでおこうと思い、その場にゴロンと寝転がり、華琳に背を向けながら周辺に気を配りつつ、眼を閉じた。
川上から吹き付けてくる微弱な風は心地よく、零治も思わず眠気を誘われるが寝ころんだまま頭を軽く振ってその眠気を身体から追い出す。黄蓋の裏切りを考えると、今は眠る訳にはいかないのだから。
それからしばらくして、赤壁である変化が起こり、横になりながらも神経を研ぎ澄ましていた零治はその異変をすぐさま察知し、眉をピクリと動かしてゆっくりと眼を開いた。
「華琳、気付いたか……」
「ええ。風向きが変わったわね……」
「ああ。さっきまで川上から吹いていたのに、今は川下から吹いてるな」
「なるほど。黄蓋はこれを狙っていたのか」
昨晩、黄蓋が翠達に述べていた、地元の人間にしか分からないという急に風向きが変わるという季節風。それが今まさに吹いているのだ。即ち、黄蓋が決起を起こす時がついに来たという事になる。
黄蓋は策に策を重ね万全を喫し、この時が来るのを待ち続けていた。だが、それはこちらも同じ。黄蓋の策に対抗するべく事前に手は打ってあるのだ。後は敵である黄蓋を力で捻じ伏せるのみ。
「という事は、黄蓋が動くな……」
「零治! 私達も出るわよ!」
「フフ。待ちわびたぜ。この時が来るのよ……」
黄蓋が裏切る事を零治達は初めから知っていた。そして、その事を華琳を含む一部の者達にも伝え、黄蓋が提案してきた船酔い対策の鎖も全て罠だという事も教え、そのための対策も万全だ。
だが、いくら万全の対策を用意しても、その対応が後手に回っていては折角の対抗策も何の意味も無い。相手は火計を使ってくるのだから。華琳と零治は天幕からすぐさま飛び出し、表に出れば魏の船団のあちこちで炎が激しく燃え上がっており、風に吹かれながら真っ赤な火の粉と黒煙が舞い上がり、夜の闇に覆われた赤壁は夕焼けにも似たオレンジ色に染めあがっていた。近くで待機していた霞が二人の姿を見つけ、急ぎ駆けつける。
「華琳!」
「黄蓋が火を放ったわね?」
「沙和達が怪しい言うてた連中が、予想通りの動きをしおったで。いま風と桂花が真桜達を連れて、消火と迎撃に向かっとる」
「やはり昼間の奴らは黄蓋の個人的な部下だったか……」
「あと、呉の船団も近づいて来とる。明かりが無かったから気付くんが遅れたって」
「今の兵力差なら、地の利を利用するのは当然の事ね……。他の皆は?」
「春蘭と秋蘭も、稟達と合流してボチボチ呉の連中と接敵する頃や。ウチは指示が無かったから、さしあたり華琳の直衛に来た」
「風と桂花に伝令を出して、風向きが変わった事だけ伝えておいてちょうだい。私の軍は?」
「とっくに準備完了しとる。出られるで!」
「ならば我々も呉の本隊を迎え撃つわよ!」
………
……
…
「ぐわあぁっ!」
黄蓋の部下の一人が首に矢を受け、その者は首を手で押えながらよろよろとよろめき、そのまま船の縁か仰向けに倒れ込んで赤壁の水中へと沈んでいった。呉の出身なので泳ぎは得意だが、首に矢を受けた上に今は正体を隠すために魏の都の正規軍の鉄製の鎧を纏っているのだ。そんな物を身に纏った状態ではいくら泳ぎが得意な人間でも沈む以外に道は無い。つまり、この者はどの道助からないのだ。
「く……っ! 韓当!」
「こ……っ、黄蓋様! お逃げくださいっ! ……ぐはっ!」
「同じ鎧を着た相手を、ここまで迷い無く攻めるか。……曹操め。一体どういう手を使ったというのだ」
翠が連れてきた黄蓋の部下は決して多くは無い。そのため彼女が使用している船は一隻だけだ。だがそれで充分だった。こちらは水上戦や泳ぎを得意とする兵で構成されている。だから一部の者は軽装で赤壁の河を泳いだり、小舟で移動したりして魏の部隊に紛れ込ませ、内部から崩壊させる手はずになっていた。
対して向こうは訓練こそ積んではいるが船を使用した水上戦の実戦経験は数えれる程度。そこへ追い打ちをかけるように鎖で繋ぎ合わせた魏の船団に火を放ち、一気に攻め立てる。そのためにこちらの兵士達には魏の鎧を纏わせ、敵味方の区別がつかないように偽装工作までしていたのに、黄蓋の部下達はことごとく周りを取り囲む魏の船団から弓矢による狙撃を受け、次々と討ち取られていってるのだ。自分の傍に居るから敵と思い、攻撃するのは彼女も分かるが、同じ魏の鎧を纏っている以上、周りの兵士達が黄蓋の個人的な部下だとは判断しにくいはず。
だが、それも既に昼間零治達に見抜かれていたのだ。この辺りは、魏の新兵の訓練担当官である凪や沙和、彼らとコミュニケーションをちゃんと行っていた零治が新兵の顔をちゃんと憶えていたという誤算があったからに他ならない。当然、この事は凪が秘密裏に華琳に報告し、識別手段の方法も用意されていた。そしてその方法とは、実に皮肉な内容だった。
「黄色い布を巻いていない相手は敵なの! みんな今日だけは、黄巾をつけている人を斬らないように戦うの!」
「苦しかった黄巾党との戦いを思い出しなさい! あの時瞳に焼き付いた黄色い布、一瞬たりとも見逃すんじゃないわよ!」
その手段がこれだ。かつて起きた黄巾の乱。そして各地で暴れまわっていた黄巾党の暴徒達が身に付けていた一際目立つ黄色い布。あの戦を経験した者達は決して忘れはしなかった。あの時は黄巾を纏っていた者は完全なる敵だったが、今回はその逆。魏の鎧はバリエーションが豊富で、戦闘の最中では咄嗟に区別などできやしない。だから味方である者は目立つ印をつけておき、識別を容易にする。実に合理的な手段だ。その効果は見ての通りである。黄巾を着用している兵士達の中に、黄巾を着用していない者が居れば当然その者は目立つ。黄蓋の部下の偽装も意味を成さず、部隊内に紛れ込んでいた彼女の部下達は次々と討ち取られていった。
「なるほどな……嫌な識別の仕方をするものだ。だがしかし、風は既にこちらに吹いている! 火計だけでも成功すれば……」
当初の予定通りとはいっていないし、被害も甚大だ。しかし、黄蓋の読み通り風向きは既に変わっている。
魏の船団にも火を放ったのだ。これだけでも成功すれば魏軍に大打撃を与える事は出来る。そのはずだったが、それも無駄でしかなかった。
「消火が間に合わん船は片っ端から外に押し出し! 鎖の付け根の絡繰りを押せば、鎖はすぐ外れるようにしとる。……強度を保ちつつ、簡単に外せる仕掛けなんて無茶振りをしおってからに……けど、これがウチの見せ所や! ぽちっとな!」
「な……っ!」
魏の船団を連結させる鎖を取り付ける作業を担当したのは真桜なのだ。そして、手先が器用な彼女だからこそこういう場面でその能力をいかんなく発揮できる。鎖の付け根付近に貼られている『触るな』と書かれた札の下には、スイッチのような突起が隠されており、それを押せばどうだろうか。
ガコンと鈍い音がなると同時にガッチリと組み込まれていた鎖はあっさりと外れてしまい、炎が燃え広がっている船が引き離され、隣接していた無傷の船に炎が燃え移る事は無かった。
「せーの、で押してくださーい! せーの!」
「使えそうな船なら少々壊しても構わないわよ! ……凪!」
「はいっ! ……はあああああっ!」
桂花の指示の元、凪は脚に気合を溜め、火計の被害が甚大じゃない船の炎の塊に狙いを定め、大きく後ろに引いていた右脚を一気に振り抜き、裂帛の気合いと共に放たれた氣弾は炎の塊に直撃すると同時に激しい爆発音を轟かせ、船の燃えている部位を炎ごと吹き飛ばして消火を行った。
「……へぇ。爆発の勢いで炎を吹き飛ばすなんて、あの男の話もたまには役に立つじゃない」
「はい。街の火事もよくこれで消していますから」
「なるほどね。なら凪、次々行くわよ!」
「はっ!」
「どけどけい! そんななまくらなんかじゃ間に合わへん! でええええいっ!」
氣の扱いが出来るのは何も凪だけではない。真桜も氣を扱う事はできるし、螺旋槍と氣を利用した技も持っている。彼女も凪と同様に螺旋槍に自身の氣を送り込み、螺旋の回転で勢いをつけて穂先から氣弾を撃ち出し、炎上部に氣弾を直撃させて炎を吹き飛ばした。
「こっちは鎮火完了やっ! 次!」
「真桜ちゃーん。もう限界の船があるんですけど、間に合いそうにないですー。穴を開けて沈めてもらえませんか?」
「まかしときー! でりゃあああああっ!」
「氣の爆発や破壊で、火事をかき消すじゃと……? 一体、誰がそんな芸当を……!」
「黄蓋様! 曹操の本隊が……!」
川上から接近してくる多数の無傷の船団。中央の旗艦より風を受けてひるがえるは曹の牙門旗。華琳の本隊も到着し、策も完全に失敗して甚大な被害を受けている黄蓋の部隊。多勢に無勢。もはやこの状況、呉の本隊が到着してもひっくり返す事は難しいだろう。
黄蓋は今まで経験した戦の中で、これほど致命的な損害を受けた事は無かった。並の武将ならその場で自害するか、投降するかのどちらかを選んでいたかもしれない。だが、彼女は違う。ここまで危機的な状況に陥った戦を初めて経験できたのだ。されどここから活路を見出すのが真の武人。黄蓋の中に流れる武人としての血が久しく騒ぎ始めた。
「く……っ。く、くくく……はははははっ!」
「……黄蓋様?」
「兵を纏めろ! これより我らは、曹操に最後の一撃を叩き込む!」
「……はっ!」
これが黄蓋の出した答えだ。この状況では勝ち目は無いだろう。部下も大勢失い、生き残りも僅かしか居ない。この危機的状況を打開できる策があるわけでもない。だが黄蓋は退こうとしない。いや、そもそも逃げ道などある訳が無いのだ。
決してやけになっている訳ではない。彼女は呉に仕える将として、一人の武人として命を賭し、純粋に正面から戦いを挑みたいのだ。これこそが、黄蓋が最も好む戦なのだから。
「曹孟徳、聞こえるか! 我が計略、ここまで完璧に破られるとは思わなかったぞ! 見事じゃ!」
「敵軍の将のままでありながら、私の眼前まで現れた事は褒めてあげるわ。それに、あれほどの大胆無比な作戦もね」
「華琳様!」
「このような場所に……危のうございます、華琳様!」
「けれど……その呉の宿将も、私の掌の上で踊るだけだったという事よ」
「敵将の前にむざむざ顔を見せるか、曹孟徳。その余裕も……」
「余裕があるんは、ウチらがおるからや。……分かるやろ? 老いぼれ」
「…………」
華琳の後方に控えるは、霞に零治、亜弥の三人だ。恭佳は何やらこの赤壁で試したい事があるらしく、奈々瑠と臥々瑠を連れて別働隊として動いている。樺憐も零治の指示を受け、呉の船団に大打撃を与えるために単独行動を取っていた。魏の御遣い全員がこの場にいま揃っている訳ではないが、黄蓋が不利な状況である事に変わりは無い。
『……どうやら真桜の仕掛けは巧く作動したらしいな』
『みたいだな。だが、それだけじゃ足りねぇ。相棒、仕上げと行こうぜ……』
『ああ』
零治は何気なく右手の指をパチンと打ち鳴らし、河の底に沈んでいる無数の鉄鎖はその音に反応し、零治が事前に施していた細工のおかげでまるで熱せられたようにドロドロと溶けていき、BDの呪いと共に水の中に溶け込んで消滅した。
「ふん、ヒヨッコと御遣い二人が儂の相手か。面白い!」
「ヒヨッコも、三日もありゃ鷹になって空に羽ばたくってな!」
「どちらが正しいかは……貴方の得意な合戦でつけてあげましょう。名将黄蓋の誇りを踏みにじって……貴方に参ったと言わせてあげるわ」
「言うではないか……ならば、いざ尋常に!」
黄蓋が口火を切り、彼女の命を賭した最後の抵抗戦が始まった。華琳の本隊に付き従う一隻の船が黄蓋の船に向かって突撃を繰り出すが、彼女はお得意の弓で船の兵士達を次々と狙撃して一撃で仕留める。その腕前は秋蘭にも肉薄する程だ。だがそれでも、撃ち漏らした兵士はやはり出てくるため魏の船は黄蓋の船の右側面に隣接し、そこから魏の勇猛たる兵士達が続々と雪崩れ込んできた。
しかし、黄蓋の部下達も負けはしない。何より、水上での戦いは彼らの十八番なのだ。黄蓋の船も偽装のため鎖で連結しているので、揺れが通常の船より少ないが、それでも多少なりとも揺れるのだ。
僅かな揺れで一瞬だが足元を崩してしまう魏の兵士達。相手が船上での戦いに慣れていない事が呉軍にとっての一筋の希望。その一瞬の隙を突いて黄蓋の部下達も奮戦し、魏軍を撃退していく。
ならばと思い、華琳は右手を上空にかざしてもう一隻の船に突撃を命じ、黄蓋の船を挟み撃ちするように左側面に向かって突撃してきたので黄蓋は弓兵達と共にそれを迎え撃つが、やはり隣接を許してしまい、同時に乗船している魏の兵士達が更に雪崩れ込んで来る。
それでも黄蓋は諦めなかった。彼女が普段扱う得物は弓だがそれ以外の武器の扱いもお手の物だ。矢が切れると黄蓋は弓を投げ捨て、一人の兵士を殴り飛ばして河に落とし、それと同時に剣を奪い取って更に奮戦した。まさに孤軍奮闘の如き戦いぶり。だがそれでも、やはり数の暴力に晒されれば苦戦を強いられてしまう。劣勢の状況下にある黄蓋の奮闘ぶりを、赤壁の河を挟む切り立った崖の上から見下ろす一つの人影が確認できた。
「黄蓋。愚かな女だ。人の忠告を無視するからそういう事になる……」
崖の上から赤壁の激戦を見下ろす人影の正体は鴉だ。もちろん鴉はこのまま黄蓋の援護に向かうつもりなどない。鴉には自分の目的があり、黄蓋がどうなろうと知った事ではないのだ。何より鴉は昨夜、黄蓋に述べたように彼女の策が失敗し、こうなる事を知っていたのだ。自分一人が加わった所で状況がひっくり返る訳が無いし、加わるつもりも初めからなかった。全ては、己の目的を果たすため。そのために動いているのだ。
「さて……こっちもそろそろ動くとしようか……」
闇夜に紛れるように鴉はその場から姿を消し去る。鴉が姿を消したのは、黄蓋が奮戦しながらも最後の一人の部下を失い、己も限界を迎えて船の甲板に片膝をついたのと同時だった。
「くっ……! もはやこれまでか……!」
「……大人しく降参なさい。貴方ほどの名将、ここで散らせるのは惜しいわ」
「抜かせ! 我が身命の全てはこの江東、この孫呉、そして孫家の娘達のためにある! 貴様らになど、我が髪の毛一房たりとも遺しはするものか!」
「黄蓋!」
「夏候惇か……。貴様も儂に命乞いをしろとでも言いに来たか?」
「…………」
「貴様も曹魏一の忠臣ならば、分からんか? 国を犯し、主を侵す侵略者どもに命乞いをし、その後になお主の愛した魏に足を踏み入れられるか?」
「…………っ!」
「黄蓋……」
黄蓋の言葉は春蘭と秋蘭の二人の胸に深々と突き刺さる。彼女達も黄蓋の言いたい事は痛いほど理解できた。秋蘭はともかく、春蘭は少々行きすぎな所はあるが、二人の華琳に対する忠誠心は本物だ。もちろんそれは他の魏の首脳陣達も同じだろうが。
仮に春蘭や秋蘭も今の黄蓋と同じ状況下に置かれれば、降伏などせず、己の命の炎が燃え尽きるその時まで戦い抜き、戦場で散り逝く道を選ぶだろう。それこそが本望。彼女達は華琳のために生き、華琳のために死ぬ。それが付き合いの長い春蘭と秋蘭の生き様なのだ。ならばどうするべきか、それは一つしかない。
「……華琳様」
「いいでしょう。ならば……」
「……応! 来るがいい!」
黄蓋に止めを刺すべく、華琳が全軍に攻撃を命じようとしたその瞬間、空を斬る音が鳴り響き、黄蓋の背後から華琳に向かって三本の矢が一直線に飛来してきたのだ。
「ちっ!」
春蘭は忌々しげに舌打ちをし、素早く愛刀である七星餓狼を振り抜き、飛来してきた三本の矢を真っ二つに切断して全て叩き落とした。
落とされた矢は華琳の足元でカランと乾いた音を鳴らしながら無造作に転がり、華琳は黄蓋の後方へを視線を向ける。その先には灯りと思われる無数の炎が点在していた。
「……孫策が来たか」
「祭!」
「黄蓋殿!」
「おお、冥琳か! 策殿も!」
激しい銅鑼の音と共に現れたのは孫策と周瑜が指揮する呉軍の船団だ。久しく見ていない仲間の顔を見るなり、黄蓋は感無量の表情になる。孫策達の到着がもう少し早ければ、状況は違っていたかもしれない。
赤壁にようやくたどり着いてみれば、彼女達の眼に飛び込んできたのは敵味方入り混じった兵の屍の中でボロボロになりながらも辛うじて生きている黄蓋の姿だ。彼女がまだ生きている事に孫策と周瑜は少しだけ安堵したが、それでも状況が悪い事に変わりは無かった。
「祭殿……ご無事か……!」
「ははは。無事なものか。お主と無い知恵を絞って考えた苦肉の計も、曹操に面白いように見抜かれておったわ」
「しかし……ご無事で何よりです! 早くお戻りください!」
「……ふむ。それはちと、難しいのぉ」
空を斬る音が鳴り、どこからか飛来してくるは一本の矢。それは黄蓋にしっかりと狙いが定まっており、命中まで後わずかの所だった。その時に一つの人影が飛来し、黄蓋と飛んできた矢の間に割って入り、その矢を叩き落としたのだ。
「なっ!?」
「…………」
「フッ。現れたか、鴉……」
「鴉! なぜお主がここに……っ!?」
「……掴まれ」
鴉は呆気に取られている黄蓋に肩を貸して無理やり彼女を立ち上がらせ、両脚を軽く曲げて力を溜め、黄蓋を抱えたまま軽やかに跳躍し、数メートルも離れている孫策達が乗っている船まで一気に跳び移ったのだ。その芸当はとても人間業とは思えない動きである。
「今の内だ。離れろ……」
「……えっ?」
「早くこの場から離れろと言ってるんだ。せっかく黄蓋を助けてやったのに、コイツを死なせたいのか……」
「あ、あぁ、そうね! 冥琳っ!」
「ええっ! 総員すぐに船を反転させ、曹操の本隊から距離を取るのだ!」
「はっ!」
突然の出来事に呆気に取られてた孫策だが鴉の言葉ですぐに我に返り、周瑜がすぐさま船の漕ぎ手の兵士達に指示を出し、船体の左右から伸びている櫂を一糸乱れぬ動きで巧みに船を操り、華琳の本隊から一度距離を取った。もちろん華琳も黙って見過ごすつもりなど無く、弓兵達に指示を出して一斉射撃を命じたが、船の操縦に慣れている呉軍の船団はあっという間に離れていき、矢は届かなくなってしまった。
「逃げたか。流石は江東の水軍ね。あそこまで素早く船を動かせるなんて、大したものじゃない」
「華琳様、追撃しますか? 今ならまだ間に合うかと思いますが」
「秋蘭、それは危険すぎます。まだ炎上している船もありますし、それらを消火したのちに軍を再編成するべきだと私は思いますよ」
「ふむ。亜弥、その理由を聞かせてもらえるかしら?」
「これは私の勘ですが、孫策は全軍を率いて必ず戻って来るでしょう。それに蜀も援軍に来るはず。今の状況での深追いは危険です」
「ふむ」
「それに先程の鴉の身のこなし。あれは恐らく……私がよく知る人物なのですよ……」
亜弥のこの意見。彼女は確信があって言っているのだ。先程、鴉が黄蓋に向かって飛来した矢を叩き落した時、一瞬だけだが紅く煌めく棒状の物がチラリと見えたのだ。鴉はそれをすぐに纏っているローブの下に素早く隠して黄蓋と共に孫策の船に乗り込みそのまま逃亡したが、視力が異常発達している亜弥が見間違えるはずがないのだ。零治もこの意見には同意した。
「華琳。オレも亜弥の意見に賛成だ。今すぐに追撃するのは危険だ。どうしてもと言うのなら……オレと亜弥だけで先行させてもらう」
「おい音無! 貴様はまたそうやって勝手に……っ!」
「……いいわ。許可しましょう」
「ほら見ろ! 華琳様もこうして許可をしてくださ……って! ええっ!? 華琳様! 何を仰ってるのですか!?」
「何を言ってるも何も、言葉通りの意味よ、春蘭。零治達に出撃の許可を出したのだけれど?」
「華琳様! いくらなんでもそれは……」
「言いたい事は分かるわ。でも、あの鴉という人物。並大抵の実力者ではない事は、先程の動きで貴方も分かったはずよ」
「……はい。それは否定しません」
「加えて、あれが亜弥のよく知る人物だというのならば……私達ではどうする事も出来ない相手という事になる。ならば零治達を先行させて調べさせる以外に選択肢は無いのよ」
「分かりました。ならば私はこれ以上は何も言いません」
「よろしい。……零治、亜弥。聞いての通りよ。二人ともすぐに出撃を」
「了解しました」
「亜弥。黄蓋の船を使うぞ。アレはまだ使えるはずだ」
「漕ぎ手も居ないのにどうやって動かすんですか。モーターボートじゃないんですよ……?」
「その点は心配ない。オレに考えがある」
「分かりました。なら急ぎましょう」
零治と亜弥は鴉同様にその場から跳躍して一気に黄蓋が使用していた船まで着地したが、船の上は死屍累々。敵味方が入り混じった多数の兵の死体が転がっており、万が一船上で戦闘になった場合、この遺体は障害物にしかならない。二人は兵の亡骸に詫びの言葉を掛けつつ、遺体を全て赤壁の河に落として片付けたが、甲板は血で塗れて赤く染めあがっていて、その中に輝く一つの弓。黄蓋が使用していた物だ。
「で? どうやって船を動かすつもりで?」
「BD。頼む」
『あいよ。任せな』
どうも船を動かす手段の鍵はBDにあるようだが、一体何をしようというのか。亜弥がそう考えていた時、乗っている船の周辺の水に変化が起きたのだ。何かが船底の下を潜り抜けたように軽く盛り上がって水は波打ち、次の瞬間には船はまるで何かに引っ張られるかのようにクルリと方向転換をし、スーッと前進を始めたのだ。漕ぎ手も居ないのに零治達が乗船した船が独りでに動き出した光景は、華琳達も驚きの表情にならざるを得ず、そのまま零治達を無言で見送ったが、驚いてるのは亜弥も同じだ。エンジンを積んでいる訳でもないし、ましてや手漕ぎ式の船が独りでに動くなど常識では考えられないのだから。
「零治。一体何をしたんですか……?」
「昨夜、BDから鎖の対応策は聞かされただろ? これもそのおかげだそうだ」
「それじゃ説明になってませんよ」
「……この赤壁の河は、今や呉の敵であり、オレ達の味方なのさ。それをじきに奴らに思い知らせてやる」
………
……
…
「ふぅ。どうやら曹操は追ってきてはいないようだな」
「そう。……祭。遅くなってごめんなさい。怪我は無い?」
「うむ。この通り五体満足じゃよ。……儂の方こそ策のためとはいえ、雪蓮殿や冥琳に申した数々の無礼、どうかお許しください」
黄蓋はあの時、死を覚悟していた。仕える王である孫策や付き合いの長い周瑜、呉の仲間達の顔が見れただけでも充分だったのに、こうして無事に生き延びる事ができた。まだ王を支える将として戦う事ができる。彼女はそれが嬉しかった。黄蓋は今回の策のための演技とはいえ、孫策や周瑜に無礼な事をしたのは事実であり、彼女はその事に対する詫びの言葉を述べながら深々と頭を下げた。その眼には、うっすらと涙も浮かんでいた。孫策はその姿を見るなり、優しく微笑みながらそっと黄蓋の肩に手を置いた。
「祭。もういいのよ。私は途中から気付いていたし、気にしてなんかいないわ」
「雪蓮殿……」
「それに謝るのは無事にこの戦いを乗り切ってからにしてよ。まだ曹操との戦いは終わっていないのだからね。貴方にはまだまだ働いてもらわなきゃ私が困るんだから」
「雪蓮殿。……ふふ。承知した!」
「ええ。……さて、貴方にもお礼を言わないといけないわね」
「…………」
孫策と黄蓋はその場から立ち上がり、船の縁の傍で棒立ちしている鴉に眼を向けた。相変わらず鴉は終始無言のまま。その上、格好が格好なため、周囲の兵士達や同乗している孫権や孫尚香、甘寧に周泰などは訝しげな視線を向けており、警戒心を剥き出しにして手にしている武器の柄に手をかけていた。
まあ、これが普通の反応なのだが、孫策は鴉の格好など気にも留めずに普通に話しかけたのだ。
「私は呉の王の孫策。祭の事を助けてくれて感謝しているわ。ありがとう。えぇっと……祭。この人の名前は?」
「ああ。そやつは鴉といってな。鳳統と一緒に居たから、儂の見立てでは蜀の関係者だと思うのじゃが」
「そうなの。それにしても変な格好ね。鴉って名前も偽名っぽいし」
「間違いなく偽名じゃろ。のう? 鴉よ」
「…………」
「まあ、これ以上の詮索はせんでおこう。それにしてもお主、儂を助けるとはどういう風の吹き回しじゃ? あの時、お主は儂に協力はせんと言ったはずじゃが」
「……確かに協力はしないと言った。でも……君には借りがある。僕はそれを返しただけだよ」
「借りじゃと? 儂は全く身に覚えが無いが。それにお主、そんな喋り方をしとったか?」
「あぁ、これが僕の本来の口調さ。もう他人を演じる必要が無くなったから普段の喋り方に戻したんだよ……」
鴉はそういうなり纏っているローブに手をかけ、一気にそれを脱いで赤壁の河に投げ捨てた。
それによりローブの下に隠されていた姿が露わになったが、漆黒の布の下から見せたのはまたもや全身黒ずくめの衣装。黒のロングコートを着用し、下には黒の衣服に黒のズボン、黒の革靴。そして右手には全身が真っ赤に染まった禍々しい槍が握られており、鴉は左手でカラスのくちばしのような仮面をしっかりと掴み、ゆっくりと外してそれも河にポイッと投げ捨てた。
仮面の下から見せた素顔は整った顔立ち、長い茶髪で左眼が前髪で隠れイエローの瞳をした人物。鴉の正体は……金狼だったのだ。彼は変装用の衣装から解放され、首を何度も回したりして身体のコリを解した。
「あぁ~。やっとこの衣装から解放されたよ。他人を演じるってのも楽じゃないな。影狼の奴、任務のためとはいえ、よくいつもこんな事ができたものだな。感心しちゃうよ」
「その服装……貴方、天の御遣いの一人よね?」
「その通りさ、孫策。僕の名は……まあ、別に憶えなくても良いけど、とりあえず金狼と名乗っておくよ」
「金狼……。それも本名じゃなさそうね」
「まあね」
「天の……御遣い……。っ!? 姉様! まさかこの男、魏の……っ!」
孫権の言葉を耳にするなり、孫尚香、甘寧、周泰や兵士達は過剰に反応し、各々が持つ武器を抜刀し、臨戦態勢を取った。まあ、この反応は理解できる。大陸に降り立った天の御遣いの噂は今や各地に知れ渡っているが、誰がどこの国に降りたのかまでは正確には知られていない。共通して認識されているのは全身黒ずくめの服装と、人ならざる力が使えるという点ぐらいである。
金狼は周りの反応を眼にすると、ヒョイッと肩を竦めながら溜息を一つ吐き、嫌味ったらしい笑みを浮かべながら皮肉めいた口調で孫権達にお得意の嫌味を投げつけたのだ。
「おいおい。確かに御遣いの一人だけど、僕は魏じゃなくて蜀の関係者だよ? それとも何かい? 君達は人を見た目だけで判断し、仲間を助けてやった恩を仇でしか返せない野蛮人の集まりなのかな?」
「何だと! 貴様言うに事欠いて!」
「むっか~! 何よあんた! いくらなんでも言っていい事と悪い事があるわよ!」
「蓮華! 小蓮! 落ち着きなさい!」
「しかし姉様! この男、我らを侮辱するような事を!」
「そうだよ! あいつのあの顔、明らかにシャオ達の事を馬鹿にしてるよ!」
「言いたい事は分かるわ。でも、金狼の言う事も一理あるわよ。今の貴方達は間違いなく、彼を見た目だけで魏の関係者と判断した。違うかしら?」
「そ、それは……」
「分かったのなら貴方達も武器を収めなさい。そのままじゃ本当に彼の言う通り、野蛮人の集まりみたいよ?」
孫策の言葉のおかげもあり、幾ばくかの冷静さを取り戻した孫権達は武器を収め、何とか騒ぎにはならずに済んだ。確かに金狼の事を見た目だけで魏の関係者と判断したのは事実だが、彼の言葉にも棘がありすぎたので孫権達の反応も理解できる。まあ、金狼の性格を考えれば、言葉を選べというのも無理な話だが。
まあそれはさて置き、双方に問題があったとはいえ、黄蓋を助けた恩人に非礼を働いたのは事実だ。孫策は王として金狼に家臣の働いた無礼を詫びた。
「金狼。ごめんなさいね。ウチの子達ってちょっと血の気が多いから。気を悪くしないでね」
「別に僕は気にしてないよ。……まあ、僕も少し言い過ぎたかな。悪かったね」
「あら。見た目と違って案外素直なのね」
「……孫策。君も大概失礼だね」
「あはは。冗談だってば。そんな怖い顔して睨まないでよぉ」
「金狼よ。儂も訊きたい事があるんだが」
「何だい?」
「先程言ってた借りの件じゃ。儂がいつお主に貸しを作ったのじゃ。儂は全く身に覚えが無いぞ?」
「あぁ、それはね……。っと、どうやら来たみたいだね……」
川上から接近してくる一隻の船。船上に点されている篝火から照らし出される二つの人影。その姿は零治と亜弥の二人だ。接敵までの距離はおよそ十メートルという所か。追手が二人だけとはいえ、相手は魏に所属する天の御遣いの二人なのだ。呉軍には緊張が走る。
「あれは……黒き閃光さんじゃない。それにもう一人見慣れない人が居るわね」
「奴と一緒に居るのは魏の御遣いの一人の神威という人物だ。直接見た訳ではないが、奴は儂と同じ弓の使い手らしい」
「そうなんだ。でも……弓も矢も持っていないように見えるんだけど」
「雪蓮。何を呑気な事を言っている。見た所、相手は二人だけのようだが、よりにもよって魏の御遣い達が追手に来たんだぞ」
「分かってるわよ。相手が二人とはいえ、魏の御遣いである以上は接敵するとどうなるかは想像がつくわ。……祭!」
「はっ!」
「弓兵を率いて、奴らに一斉射撃を!」
「応!」
祭は呉軍の弓自慢の兵で構成された弓兵隊を率い、船の舳先に集まり兵達は弓に矢を番えて弦を引き搾り迫り来る零治達の船に狙いを定め、黄蓋もいざ射撃体勢を取ろうとしたが、彼女の両手は空を斬った。
その時になってようやく、黄蓋は弓を先程の船、つまり零治達が使用している船の上に投げ捨て、矢も切らしている事に気付いたのだ。
「黄蓋様、これをお使いください!」
「おう! すまんな!」
一人の兵士から矢筒と弓兵達が扱っている物と同じ弓を黄蓋は受け取る。長きに渡って愛用していた得物ではないが、同じ弓である事に変わりは無い。何より、得物が変わった程度で狙いがぶれるようでは将など務まりはしないのだ。黄蓋は弓に矢を番えて弦を引き搾り、零治達を充分な距離まで引きつけた。そして……。
「者ども! 撃てーーーっ!」
黄蓋の合図の元、弓兵達は黄蓋と共に弦から指を離し、放たれた無数の矢は放物線を描きながら零治達に向かって雨あられの如く一斉に降り注いできた。だが、弓矢による射撃が無意味なのだと彼女達はすぐに思い知る事となる。
「フッ。無駄な事を。……水よ。我が命に従い、壁となれ」
零治達が使用している船は動力が切れたように急停止をし、前方の水面がまるで沸騰している湯のようにボコボコと音を立てながら泡立ち、その部位はまるで磁石に引っ張られるように伸びて、船の前で大きな正方形の形をした透明の壁となり展開した。
放たれた矢は全て水の壁に命中し、ボチャボチャと鈍い水音を立てて止まってしまい、零治達には届かなかった。彼らの前で展開する水の壁はユラユラと中に引っかかってる無数の矢を揺り動かしながらザバンと大きな音を立て、まるで桶に入った水を逆さに引っくり返して地面に撒いたように一気に流れ落ち、水面に黄蓋達が放った無数の矢がプカプカと浮かびながら漂っていた。
矢を放った黄蓋達は目の前で起こった光景が理解できず、呆然とする事しか出来なかった。
「……な、何だ。今のは」
「へぇ~。影狼の奴、いつの間にあんな魔法を身に付けたんだ? 水を操るなんて相当の高度な魔法だぞ」
「くっ! 弓兵隊! 構えろ! もう一度だ!」
「やめときなよ黄蓋。さっきのを見ただろ? 何度撃った所で矢を無駄にするだけだよ」
「くぅ……っ! ではどうしろというのじゃ!」
「そういきり立つなよ。あの女の御遣い……白狼は僕が引き受けてあげるよ。僕はそのためにここまで来たんだ……」
「何じゃと。それはどういう意味じゃ?」
金狼は零治達が使用している船に飛び移るべく、孫策の船の縁に絶妙なバランス感覚で立ち、ゲイボルクを肩に担ぎながら狂気の笑みを張り付け、ゆっくりと背後から声をかけている黄蓋達の方を振り返った。
その姿に異様な恐怖感を感じたのは孫策を除いた呉の首脳陣達。彼女達は今の金狼を前にして思わず数歩後ろに下がってしまい、その姿に金狼は面白おかしげに喉を鳴らした。
「ククク。そんなに僕が怖いのかい? 呉の英雄さん達」
「金狼。儂の質問に答えろ。先程の言葉はどういう意味じゃ……」
「文字通りの意味さ。僕はあの女を殺すためにここに居る。そして、この戦いで誰よりも早く、奴に接近したかった。黄蓋、君のおかげでそれが叶ったんだよ……」
「なるほど。お主が言ってた借りとはそういう事だったんじゃな……」
「そうだ。今度こそあの女を……僕の手で殺す」
「何がお主をそうまで駆り立てる。そうまでして奴と闘いたい理由はなんだ」
「それを君が知る必要性は無いが……まあ、敢えて言うなら復讐だね」
「復讐じゃと……?」
「ああ。あの女は僕から居場所を奪った。だから殺す。それだけだよ……」
「金狼。お主……もしや私怨で闘おうというのか」
「そうだけど? 国と国同士の戦争ならいざ知らず、人と人、つまり個人同士の闘う理由なんてちゃちなものだ。そもそも殺し合いに高尚な理由なんか求める必要があるの……?」
「そういう問題ではない! 私怨で闘う先に待つは身の破滅! 危険以外の何物でもない! 金狼……お主の行為は悪その物じゃぞ!」
「悪だって? ……ク、ククク……ハハハハハっ!」
金狼は左手を額に当てながら天を仰ぎ、黄蓋を嘲笑うかのように声高らかに笑った。この時、軽く上体を後ろに逸らしているのに金狼は全くバランスを崩さない。まあ、今はそんな事など重要ではない。
金狼が誰に対してもこういう態度を取るのは今に始まった事ではない。初めて見る者にとっては不愉快でしかないだろう。それは黄蓋も同じである。
「金狼。何が可笑しいのだ……」
「そりゃ可笑しいさ。何より黄蓋、君は今、僕が最も嫌う言葉を口にしたんだよ。実に不愉快だね……」
「何じゃと?」
「僕はね……『正義』と『悪』って言葉が大嫌いなんだ。そして、それを軽々しく口にする奴も大っ嫌いでね……」
「あらら。そんなんじゃ世の中の大半の人が嫌いな対象になっちゃうんじゃない?」
「孫策。君は口を挟まないでくれよ。僕は今、黄蓋と話をしてるんだからさ……」
「はいはい。おぉ~、怖っ」
「さて、黄蓋。逆に訊かせてもらうけど、君にとっての『正義』は何だい?」
「無論、孫呉の繁栄。そしてそれに徒成す者どもを討ち滅ぼす。それが儂の役目であり、儂の正義じゃ」
「ふむ。なら君が言う悪はさしずめ、孫呉に徒成す者ども。今の魏が該当するのかな?」
「そうだな」
「ククク。なるほど。でも黄蓋、君がいま言った正義と悪は、呉の中でしか通用しない理屈だよ?」
「何じゃと。どういう意味じゃ……」
金狼の言いたい事が理解できないようで、黄蓋は彼に訝しげな視線を向ける。対する金狼は黄蓋の視線をどこ吹く風と受け流しながら、氷のように冷たい笑みを絶やさなかった。彼が黄蓋に尋ねた正義と悪とはそういうものではないのだ。
「黄蓋。これは仮定の話だが……この赤壁の戦いで奇跡の大逆転が起き、魏を撃退して奴らを本国に追い返したとしよう」
「うむ」
「更に、蜀と同盟を結び、兵力も攻勢に出るほど増強出来たら君はどうする?」
「無論、呉を護るために魏へ進軍するじゃろうな」
「だろうね。当然それは君にとっては正義だ。祖国を護るための戦いなんだからね。でも……魏から見たらどうなるかな? 特に力も無い領民達から見れば、君らってただの侵略者になるんだよ? それって悪じゃないのかな……」
「っ!? そ、それは……」
この返しは黄蓋も予想できなかった。だが、金狼の仮定の話が現実になれば、彼女達は実際に魏から侵略者扱いをされるだろう。何より華琳は国の繁栄のために、領民達のために骨身を削って政治を行っている。つまり、そこへ進軍するという事は魏の平和を脅かす存在でしかないのだ。
もしも彼女が魏で暴政を働き、民を苦しめるような事をしている中、魏を曹操の暴政から解放するとでも喧伝して進軍すれば逆に歓迎されるだろう。もっとも、華琳がそのような事をするはずなどないが。
「正義と悪には最大の弱点がある。それは、一定の概念はあるが、これといった確固たる固定概念が存在していない事。この二つの単語は概念が実に抽象的であやふやな言葉なんだよ……」
「…………」
「君が言ってる『正義』もそうだ。君にとっては正義でも、視点を変えれば悪にもなる。逆もまた然り。だから僕は嫌いなんだよ。確固たる概念も持たない言葉がこの世に存在してるなんて、不愉快でしかないだろ……」
「…………」
「黄蓋。正義と悪は個人個人が持っている物なのさ。君の言う正義も、君の中にしかない正義だ。それに同調する者も居れば、しない者も居る。僕の闘いが悪だと言うのならそれは君の主観的な意見でしかない……」
呉の首脳陣達は金狼の言葉に対して何も言えない。いや、言える訳が無い。反論できる要素が何一つ無いからだ。しかも孫策は口元に手を当てながら、クスクスと笑い声を漏らして見ているのだ。
一体この光景のどこが可笑しいのか疑問である。金狼もその姿をチラリと盗み見て一瞬怪訝そうな顔になるが、すぐに元に戻し、黄蓋に冷たい視線を向けながら言葉を続けた。
「黄蓋。僕の闘いは悪なんかじゃない。なぜなら……これが僕にとっての『正義』だからだっ!」
もう話す事など無い。これ以上付き合うつもりも無い。全てはこの時のために動いてきたのだ。
金狼は内に燃え上がる復讐の炎、己が信じる正義と共にその場から跳躍して、零治と亜弥が乗船している船まで一気に跳んで行った。
「全く。まさかこの儂があのような若造に説教されるとはのう。やれやれ。歳は取りたくないものじゃな」
「そう? 私は面白かったわよ? 祭が冥琳以外の人に説教される姿なんて、滅多に見られるものじゃないし」
「策殿!」
「冗談よ。そんなに怒らないの。……でも、あの子の言葉は胸に刺さったわね」
「そうですな。確かに金狼の言っていた事に間違いはございませんでした……」
「流石は天の御遣いの一人。単に強いってだけじゃないみたいね。……性格はかなり歪んでるみたいだけど」
「ふむ。最後は酷い言いようですが、そこは儂も否定はしませぬ」
………
……
…
「やあ。影狼、白狼。久しぶりだね」
金狼は零治達が使用している船の甲板に軽やかに着地し、お得意の愛想笑いを浮かべながら久しぶりに再会した友人のようなノリで零治と亜弥に挨拶の言葉を述べた。もっとも、そんな事をしても二人から歓迎されるはずもないが。
「金狼……」
「フッ。鴉の正体はお前だったか」
「そうだよ。影狼、僕の変装はどうだった?」
「まっ、お前にしては頑張った方じゃねぇのか? よく今まで我が出なかったじゃねぇか」
「まあね。しかしまあ、自分を押し殺して他人を演じるのも楽じゃないねぇ。息が詰まるかと思ったよ」
「だろうな」
「その点、影狼は凄いよ。任務とはいえ、あれを平気でやれるんだからさ」
「金狼。貴方は私達と世間話がしたくてここへ来たのではないのでは……?」
「あぁ、そうだね。……僕の目的はただ一つ……白狼、君との決着をつける事だ……」
「でしょうね。……零治」
「ああ。分かっている。……亜弥」
「はい?」
「……勝てよ」
「ええ」
少々素っ気ない気もするが、こういう場面で零治と亜弥は多くを語る必要など無い。ただ、互いの勝利を願えばいい。それだけなのだ。
零治はこの場を亜弥に託し、彼は甲板に転がり落ちていた黄蓋の弓を拾い上げ、船から飛び降りて河の水面の上に立って見せたのだ。もちろんこれも、BDのかけた呪いのおかげである。
「おお! 水面の上にも立てるなんて。影狼、君ってどんどん人間離れしていくね。こりゃ黒狼との再戦で何が起こるか想像もつかないな」
「うるさいぞ。それ以上言うと、亜弥の代わりにオレが相手をしてやるぞ……」
「それは遠慮願うよ。僕の実力じゃ君に敵う訳が無いからさ」
「ふんっ!」
零治は忌々しげに鼻を鳴らし、眼前に展開している呉軍の船団を睨み付ける。金狼の事は亜弥に任せるのだ。ならば自分は呉軍の相手をするのみ。何より、もうじき蜀の援軍も到来するはずだ。
その時こそが、零治の本当の闘いが始まる。そう。本命である黒狼との闘いが。これはそれまでの、いわば時間潰しのようなものなのだ。
『BD』
『何だ?』
『万が一のために、船を華琳達が居る本隊の付近まで後退させてくれ。亜弥がいつでも逃げられるようにな』
『任せな』
『亜弥、お前の事を信じていない訳じゃないが、船を本隊の付近まで移動させる。後は好きにしろ』
『ふふ。優しいお気遣いをどうも。……零治、貴方も気を付けて』
『ああ』
BDの支配下に置かれている赤壁の河は再び異変を起こし、亜弥と金狼が乗船している船はゆっくりと反転し、そのまま川上へと後退していく。漕ぎ手も居ない船がいきなり独りでに動き出したし、零治は水面の上を平然と立っているので、呉の首脳陣は驚きを隠せなかった。無論、驚いているのは金狼も同じだ。
「おいおい。一体どういう仕掛けだい、これは? 帆船でもないのに船が独りでに動き出したんだけど」
「貴方がそれを知る必要など無いでしょう……」
「やれやれ。つれないな」
「……で? すぐにでも始めるんですか」
「いや、折角だしもうしばらくは君との航海を楽しませてもらうよ。始めるのは……船が止まってからにしようよ。うっかり河に落ちたりしたら、泳ぐのも面倒だしさ」
「ふん! いいでしょう……」
「……さて、こっちも行くとするか」
見送りは充分した。零治は眼前に広がる呉軍の船団に視線を向け、一歩、一歩とまた足を前に踏み出し、悠然と水面の上を歩き始めた。彼が一歩足を踏み出すたびに水面には小さな波紋が広がり、目の前の船団との距離をじわじわと縮めていく。
流石にこの非常識な展開には孫策も周瑜も、黄蓋や他の首脳陣達もどうすればいいのか頭が働いてくれず、ただただゆっくりと接近してくる零治を見ている事しか出来なかった。
「ちょ……ちょっと。彼、河の上に立ってるどころか歩いてるじゃない。一体どうなってるの……?」
「雪蓮! 何を呑気な事を言っている! 祭殿! 弓兵と共に攻撃を!」
「冥琳。無駄じゃよ。先程のあれを見ただろう? 今あやつを撃っても金狼の言う通り、矢を無駄遣いするだけじゃ」
「祭の言う通りよ。こうなった以上……彼とは直接闘うしかなさそうね……」
「雪蓮……」
「大丈夫よ、冥琳。私は死なないわ。でも……私に万が一の事があったら、蓮華と小蓮を頼むわよ」
「……ああ」
孫策の実力は周瑜もよく知っている。ただ、彼女は戦場に立つと性格が攻撃的になるため、周りをひやひやさせた事も何度もある。それに今回は相手が相手だ。孫策といえど無事では済まないだろうし、生きて帰れる保証も無い。もちろん周瑜はそのような結末など望んではいないが、万が一の場合は孫権と孫尚香は何が何でも逃がさねばならない。もしも、孫家三姉妹がここで一度に倒れてしまえば、呉を再興させた意味など無いし、魏に対抗する術も失ってしまうのだから。
「祭、背中は預けるわよ」
「はっ! どこまでもお供いたしますぞ!」
「ありがとう。……来るわよ!」
「っ!」
船の舳先に一つの人影が跳躍してきて、甲板の上に音も無く片膝をついて着地をした。その者は両眼を閉じたままゆっくりと立ち上がり、眼を開けば瞼の下から蒼色の瞳が露わになり、篝火の光と月光によってその姿も薄っすらと照らし出された。零治がついに呉軍の船に乗り込んだのだ。その姿を前にし、呉軍には緊張が走った。
「よお。官渡の戦い以来だな、孫策……」
「あら。憶えててくれたなんて、光栄ね。黒き閃光さん」
「そりゃ憶えてるさ。オレと闘いたかったんだろ? その望みを叶えてやろうと思って来たんだぜ……」
「そう。ますます光栄ね……」
「フフフ。怖い眼だ。流石は戦狂いだな。だが始める前に……ほらよ、黄蓋」
零治は右手に持っていた黄蓋の弓、多幻双弓を無造作に放り投げ、それは乾いた音を立てて転がり落ち、そのまま黄蓋の足元まで滑るように移動して止まった。
黄蓋は眼をパチクリとさせて呆けていたが、すぐに我に返って兵から受け取った弓を甲板の上に置き、長年愛用していた自分の弓を拾い上げた。
「これは……。何じゃ。わざわざ持って来てくれたのか?」
「ああ。でなきゃお前が実力を発揮できないだろう……?」
「……ふふ。中々どうして。魏に置いておくには惜しい男じゃな」
「そうね。ねえ、今からでも呉に鞍替えしない? 貴方が居ると色々と楽しい事が出来そうだし」
「例えば……?」
「だって貴方、さっき水の上を歩いていたじゃない。それに貴方が使ってた船、漕ぎ手も居ないのに勝手に動いてたし。一体どうやったらあんな事が出来るの?」
「教えた所で理解できるはずが無いし、教えるつもりも無い。それに……」
零治はそこで言葉を区切り、叢雲の鞘と柄の境目を左手の親指でパチリと弾き、中からその刃が姿を覗かせて煌めいた。そして、彼の眼つきは殺気を帯び、辺りには緊迫した空気が張り詰める。
「これから死ぬ奴に教える意味も無い……」
「へぇ~。言うじゃない……。でも、水上戦に慣れている私達に、足場の不安定な揺れる船の上で、それに一人で勝つつもりなんだ……」
「フフフ……。まあ、このままでも良いが……どうせならオレも楽をしたいんでね。だから貴様らから地の利を奪わせてもらうぞ……」
「何ですって……?」
零治は口の端を吊り上げて右手を上空に掲げ、指をパチンと一度打ち鳴らした。零治の挙動一つ一つに呉の首脳陣や兵士達は緊張のあまり思わず身構えるが、特に何も起こらなかった。
ただのこけおどしだと思い、孫策達は安堵の笑みを浮かべたが次の瞬間、船の右側面から大きな水音が一度鳴り、続いて船体に何かが撃ち込まれたような激しい衝撃が走り、船が大きく左に傾いたのだ。
呉の首脳陣や兵士達は思わず悲鳴を上げながら両脚を使って踏ん張ったり、何かに掴まったりして転倒しないように努力した。
「なっ!? 何が起こったの!」
「まだだ。これはほんの序の口に過ぎない……」
大きく左に傾いた船は何かに引っ張られるように一気に右に傾いていき、激しく揺れる中船体も次第に安定を取り戻したが、そう思った矢先に今度は左側面から先程と同じ大きな水音がなり、またしても何かが撃ち込まれたような激しい衝撃が船体に走ったのだ。その直後に船の揺れは収まり、船体は平行に安定して辺りは何事も無かったかのようにシンと静まり返った。
「冥琳! みんな無事!」
「……ああ。何とかな」
「そう。良かった」
「音無。貴様、いま何をしたんじゃ……」
「そうだなぁ。何をしたと思う?」
「ふざけるでない!」
「おぉ~、怖い怖い。まあ教えてやってもいいがよ……お前ら、船に起きた変化に気付かないのか?」
「変化? ……あれ? そういえば……船が……揺れていない?」
零治の言葉に孫策は怪訝な表情になったが、甲板の上に立っていてある違和感に気付いた。そう。船が全く揺れていないのだ。移動中の船は当然ながら激しく揺れる。停止中はそうでもないが、水の上に浮いている以上は多少なりとも揺れは起こる。呉の人間は船の扱いには慣れているため、その変化にも敏感だ。
いつもなら感じているはずの少ない揺れが全く感じられない。もしも船が揺れているのなら、自分の視界も揺れ動くはず。それすら無いのだ。
「ククク。これで貴様らの船は役立たず。ただの的でしかない……」
「……っ!? 周瑜様! あれを見てください!」
「どうした! ……っ!? これは……っ!?」
右側の縁に立つ一人の兵士が声を張り上げ、船の外を指さすので、周瑜は何事かと急ぎ駆けつけて兵士が指差す先を眼で追った。その先にあったものは、河の中から斜めに伸び、深々と船体の側面に突き刺さっている透明の物体。水で出来た大きな鎖である。
水の鎖はユラユラと内部を揺らめかせながら水を滴らせ、まるで船を赤壁の河の底に引きずり込むかのように伸びているのだ。
「まさかこれは……鎖かっ!?」
「ご名答。その通りだ……」
「周瑜様! こちらにも同じように鎖が……っ!」
「何だと!?」
「それだけではありません! 他の船も同様に鎖が刺さっていますっ!」
「音無、まさか先程の衝撃の正体は……っ!」
「そう。その鎖が船体に刺さった時のものさ。貴様らがオレ達の船を鉄鎖で縛ろうとしたように、オレも同じ事をしてやったのさ。規模は全然違うがな。なかなか凝った仕返しだろ? 周公謹……」
「くぅ……っ!」
赤壁の河から伸びている水の鎖は船体の左右から斜めに伸びて深々と突き刺さり、呉軍の船を文字通り赤壁の河の上に縛り付けたのだ。左右から引っ張るように伸びている鎖は船体をガッチリと押えつけている。
船の揺れが完全にしなくなった正体はまさにこれなのだ。そしてこれこそが、BDが昨夜述べていた呉から地の利を奪う手段。今の赤壁の河は零治の意のままに操る事ができ、味方であるはずの水が今は呉にとっては完全なる敵となってしまったのだ。
『ククク。これこそが俺様の真骨頂。血によって全てを支配し、意のままに操る独裁。独裁者の力だ』
『なるほど。それでブラッド・ディクテイターって訳か』
「冥琳! うろたえるな!」
「雪蓮! しかし……!」
「確かに厄介ね。でも破壊すれば済む話でしょ?」
「っ! そうか! おい! 誰か斧をここに!」
「はっ!」
有事の際、例えば何らかの原因で船が損壊し、邪魔な障害物の排除などをするために斧を装備させた兵士を各船に十数名ずつ乗船させている。それに斧もいざという時は武器としても役立つ。
周瑜の声に従い、斧を装備した二名の兵士が駆け寄り、縁から身を乗り出して船体の右側面に突き刺さっている鎖に狙いを定めた。
「よし! 斧を振り下ろせ!」
「はっ!」
二人の兵士は大きく振りかぶっていた斧を渾身の力を込めて、船を縛り付けている鎖に向かって一気に振り下ろした。だが、斧の刃は鎖に当たった瞬間、ボチャンと水音を立てるだけで破壊は出来ず、勢いがついていた斧はそのまま鎖を通り抜けてしまい、刃は船体に命中してしまった。
そして水の鎖は刃が当たった時は一瞬形は崩れたが、また元に戻ってしまい断ち切る事は出来なかったのだ。
「なっ!?」
「ククク。無駄だ。その鎖は水、即ち液体で出来ているんだぞ? 液体を物理的に破壊できると思っていたのか……?」
「くっ!」
「今や赤壁の河はオレ達の味方であり、お前達の敵となった。さあ、どうする……?」
「なるほど。でも、これが貴方の仕業だというのなら、貴方を倒せば解決するって事じゃないの?」
「そうなるな……」
「なら簡単じゃない。一人でこの場に乗り込んできた事を後悔させてあげるわ……」
孫策は不敵な笑みを浮かべながら孫家に代々受け継がれてきた剣、南海覇王を抜刀し、その刃を煌めかせながら零治に突き付けた。確かに零治はいま一人でこの場に居る。普通に見れば多勢に無勢。
もちろん零治一人でもどうにでもなるが、それでは面白みに欠けると思っているので、実は彼も一人だが連れてきている者が居るのだ。
「後悔させるだと? これは面白い事を言う。今から起こる事を眼にしても同じ事が言えるかな……?」
「何ですって」
零治の意味深な台詞に孫策が眉をひそめていた次の瞬間、またしても呉の船団に異変が起きた。
孫策が乗船している旗艦に付き従う一隻の船の底から激しい水柱が立ち、轟音を轟かせながら真っ二つに折れてしまい一瞬にして沈められたのだ。
「なっ!?」
「何事だ!」
「わ、分かりません! 突然我が軍の船が何者かに沈められた模様です!」
「孫策。お前は一つ勘違いをしているようだな。オレは一人でここに来たとは一言も言ってないぞ……」
「……っ!? 周瑜様! あれをご覧ください! 河の中に何か潜んでいます!」
「何だと!?」
周瑜は船の縁から身を乗り出し、兵士が指差す先を追った。辺りは薄暗く明かりも少ないため分かりにくいが、月明かりと篝火のおかげで薄っすらとて水面は照らし出される。確かに河の中には何かが泳いでいる一つの影があり、その影はユラユラと揺れ動きながらまるで鮫のような猛スピードで別の船に接近し、船底に潜り込んだ次の瞬間、その船も先程の船と同じように一瞬にして沈められてしまったのだ。
「木造とはいえあの大きさの船を一撃で沈めるだと……! 一体どういう芸当をすればそのような事が! 祭殿っ!」
「おう! 分かっておるわ!」
黄蓋はひとまずこの場を孫策に預け、彼女の横には周泰が代わりに控えた。
黄蓋は弓兵隊を率いて船の縁に集まり、河の中に潜んでいる影を見つけると素早く弓を構えて矢を番え、兵士達もそれに続いた。悠長にしている時間は無いが、河を泳いでいる影は中々に素早く、簡単に捉える事は出来ない。外す事は出来ないので黄蓋は逸る気持ちを抑えて全神経を集中し、一瞬の隙を窺う。
その時だった。影が方向転換をするために向きを変え、一瞬だけ動きが止まったのだ。黄蓋はその瞬間を見逃さなかった。
「今だ! 撃てーーーーっ!」
放たれた無数の矢は河の中に潜む影に一直線に飛来し、その場に小さな激しい水しぶきが無数に上がり、数多の水音を鳴り響かせた。やがて水面に起きていた波紋も収まり、黄蓋は改めて矢を放った先を見やるが、水中に居た先程の影は姿を消していたのだ。
「祭殿! やりましたか!?」
「いや、手応えは感じられなかった。どうやら逃げられたようじゃな……」
「逃げる? 黄蓋、それは違うな……」
「何……」
「アイツは逃げたんじゃない……」
ザバンと派手な水音と共に巨大な水柱が前方に立ち、中から一つの人影が飛び出してきて、それは空中でクルクルと回転しながら船の甲板めがけて落下していき、水中から飛び出してきた人物は零治の右隣に片膝をつく形で着地をした。
その人物は全身を水で濡らして水滴を滴らせているがその事は全く気にもせず、ゆっくりと立ち上がり右手で濡れている髪を後ろにかき上げ、頭を左右に振って頭髪の余計な水分を吹っ飛ばしたのだ。
「ここへ飛び移るために潜水したのさ」
「お待たせしました、零治さん。余計な邪魔が入ったので戦果は上げられませんでした。申し訳ありません」
「構わん。どうせもう奴らの船は動かせんのだ。それにほら。お前の邪魔をした奴らがそこに居るぜ」
「ん? ……あらぁ。また貴方でしたか。クソガキ……」
「ぬぅぅ……よりにもよってこやつが現れるとは……っ!」
「どうしたの、祭? 貴方がうろたえるなんてらしくないわね」
「う、うむ。魏へ潜り込んだ時に色々とあってな……」
「ふふ。わたくしの邪魔をするとはいい度胸でわね。貴方の首に興味などありませんが……代償は払ってもらいますわよ……」
樺憐は鋭い眼つきで黄蓋を睨み付け、拳に装備しているワイルドファングを打ち鳴らして指の骨をポキポキと鳴らす。放たれる殺気も零治と同等の物だ。その威圧的な姿を前にした呉の兵士達は脚がすくんでしまい、その場から動く事すらできなかった。
「あらら。これはまた強そうな人ねぇ」
「策殿。奴は間違いなく強い。聞いた話によれば、あの黒き閃光すらも凌ぐほどの実力者だそうだからな」
「へぇ~。それは興味深い話ね……」
「面白がっている場合ではないぞ、策殿!」
「分かってるわ。これは流石にまずい状況ね……」
その時だった。後方から激しい銅鑼の音が鳴り渡り、川下から新たな船団が現れたのだ。
船団を率いている旗艦にひるがえる牙門旗に記された文字は劉、関、張などといった蜀の面々である。
「孫策殿! ご無事か!」
「関羽か!」
「おお! 援軍とはありがたい!」
「関羽! すまんが手を貸してくれ! 状況は我らが不利だっ!」
「承知! ご主人様!」
「ああ! みんな、攻撃の準備を! 呉軍を援護するんだ!」
「フフフ。ようやく本命のご到着か。しかしこれでは楽は出来そうにないな」
「零治さん。ご心配なく。こちらの本隊ももうじき到着します。それに恭佳さんのおかげもあって、戦力が大幅に増強されてるそうですわよ」
「ほぉ~。それは気になる情報だな」
「心配せずともすぐに……。っ!」
突然零治に向かって一本の矢が飛来してきたので、樺憐はそれを素早く掴み取り、飛来してきた方角に鋭い眼光を向けた。その先にあるのは蜀軍の一隻の船。ひるがえる牙門旗は趙、馬の旗が三つ、黄、厳である。
視力の優れている樺憐は船上に立つ弓を構えている一人の人物、これが黄忠の仕業なのだとすぐに理解し、樺憐は掴み取ってる矢をへし折る。
「あの女狐……いい度胸していますわね」
「……樺憐。待て」
「はい?」
「奴らはオレをご指名なんだ。オレが直々に相手をしてやる……」
「……承知しました。ならばこちらはお任せください」
「ああ」
零治はその場から軽く跳躍して左側の縁に着地し、風でコートをなびかせながら星達が乗船している船を睨み付け、いざ向かおうとした矢先、樺憐が零治に最後の指示を仰いだのだ。
「零治さん。こいつらはどうなさいますか……」
「……お前の好きにしろ」
「委細承知」
零治は口の端を吊り上げてシンプルな指示を樺憐に残し、縁から水面に向かって飛び降り、まるでその場が固い地面であるかのように着地をし、コートをなびかせながら悠然と歩いて星達が使用している船を目指し始めた。
………
……
…
「紫苑。零治殿は気付いたか?」
「……ええ」
「そうか。これで彼の注意はこちらに引きつけられるな」
「星ちゃん。どうしても考え直す気は無いの」
「ああ。紫苑、協力に感謝する。後は私達に任せてお主達は孫策殿達の援護に向かってくれ」
「そうわいかないわ。今の星ちゃん達を置いてはいけないもの」
「なぜだ? ……もしや定軍山での事を気にしているのか」
「それもあるわ。でも理由はそれだけではないわ。星ちゃん、今の貴方は危ういのよ……」
「私が危うい? 紫苑、よもや私の腕を信用していないのか」
黄忠は別に星の実力を信用していない訳ではない。彼女が武人として確かな実力者だという事はとうに理解している。先程の狙撃も、星に頼まれてやった事。全ては零治をこちらに引きつけるため。
当初の予定では黄忠は星達の船に乗船はしないはずだったのだが、彼女は劉備と一刀、諸葛亮にも頭を下げてまで無理を押し通したのだ。理由はもちろん星絡みの事だ。
「貴方の腕を信用していない訳ではないわ。……星ちゃん、貴方は明らかにあの男……音無に固執している」
「…………」
「わたくしはその事が心配なのよ。もしかしたらまた貴方は」
「定軍山の時のように、無謀な一騎打ちを申し込むと言いたいのか?」
「ええ」
「……紫苑。済まぬがその事への約束は出来んな。私はあの方と闘わねばならない理由があるのだ」
「…………」
星の決意は固く、ただひたすらに零治が来るのを待ちながら前方の孫策の旗艦だけを見つめていた。
もう何を言っても無駄なのだろうと半ば諦め、黄忠は大きなため息をついて後ろへと下がって行った。
「どうじゃ、紫苑。星の説得は出来たのか?」
「駄目だったわ。あの様子では考えを改める事は期待できないわね」
黄忠に声をかけたのは彼女と同年代の女性。名は厳顔。黄忠とは長い付き合いの友人だ。
厳顔の服装は何やら胸元を大胆にはだけた和服のようなデザインをしており、左肩には防具として大きく『酔』の字が書かれた肩当を身に付けていた。おまけになぜか腰には酒が入ってると思われる酒瓶がぶら下がっている。そして極めつけは黄忠に負けずとも劣らない大きな胸。一体何を食べたらここまで大きくなるのかはなはだ疑問だ。
「まあ、星にも何か思う所があるのだろう。ならば好きにやらせればいいではないか」
「好きにって……桔梗。貴方は音無がどれほど危険な男か知らないからそんな事が言えるのよ」
「まあ、噂なら何度も耳にした事はあるが、確かに直接見た事は一度も無いな」
「だったら……」
「良いではないか。若い内は無茶をしてこそ人生にも花が咲く。何より儂も噂の魏の御遣いを一目見てみたいのでな」
「結局それが目的なんじゃない。翠蓮、黙ってないで貴方からも言ってやってちょうだい」
「んん? 桔梗らしくていいじゃないか。それに、さっきの人生論にはあたしも賛成さ。限度はあるけど、若い内は無茶をしたくなるものなのさ。昔のあたしらがそうだったようにね」
元々性格が厳顔に近い所があるため、翠蓮には言うだけ無駄であった。
今回は彼女も戦場に立っているため、服装は完全な戦闘服だ。頭には鉢金を巻き、纏ってる緑が基調の服のデザインは翠が着ている物に近いが、大胆にも腹を出しているし、袖は星が着ている服のように着物みたいにヒラヒラとした形だ。下はショートパンツのような形をした履き物で、靴は黒が基調となった翠が使用している物と同じデザインのブーツのような物で、全体的にみると、星と翠の服を足して二で割ったような物だろうか。
そして彼女が使用している得物は槍なのだが、前後に穂先が付いているためどちらかといえば薙刀と表現するべきかもしれない。穂先も一方には翠の銀閃を、もう一方には蒲公英の影閃と同じ物が取り付けられた特殊な形をしていた。
「……なあ、星」
「どうした、翠」
「音無って……人間……なんだよな……」
「……そうだと思いたいが。なぜそのような事を訊く」
「いや……あいつ今……河の上を歩いてこっちに来てるみたいなんだが……」
「何?」
流石にこの言葉は信じられないと思い、星達は翠に習って身を乗り出し、孫策の旗艦が浮いている方角を見る。その視線の先には月明かりに照らし出される一つの人影があり、次第にこちらへゆっくりとだが近づいて来て、やがてその人影の正体は零治だと星達も確認できた。
「……確かに……歩いている。水の上を……」
「お姉様、この辺って……歩けるような浅瀬とか……無いよね……?」
「ああ……」
(零治殿。やはり貴方はあの時……定軍山で何かあったのですね。貴方を変えてしまうような出来事が……)
「……ん? どうやらこちらに気付いたみたいだな。ならば……一気に行くとするか」
時間も惜しいので、零治は歩くのをやめてその場から前方の船を目指して一直線に走りだした。
彼が一歩足を踏み出すたびに水面で水しぶきが上がり、足元からは零治の歩調に合わせて軽快な水音が鳴り渡る。船との距離が充分に縮まった所で零治は脚を曲げ力を溜め、一瞬の内に前方に大きく跳躍し、星達が乗船している船の舳先に軽やかに着地して彼女達の姿をゆっくりと見回した。
「星……」
「お久しぶりですな、零治殿」
「そうだな。……オレは今日ほどお前を愚かだと思った事は無いぞ」
「これは酷い事を仰りますな。なぜそう思うのですかな?」
「貴様……あの時オレが言った忠告をもう忘れたのか……」
「…………」
「長生きしたければこれ以上オレに関わるなと言ったはずだぞ。なのに……なぜそうまでしてオレに関わろうとする……」
「…………」
「やはり、初めて会ったあの時が原因か?」
「…………」
「言いたくないのなら勝手にしろ。お前が何を考えているかなど、興味も無い……」
「おいおい。零治、その言い草はあまりにもつれないんじゃないかい?」
「ん? ……翠蓮」
「よう。久しぶりだね、零治。元気そうじゃないか」
戦の最中だというのに、翠蓮は久々に顔を合わせた友人同士のようなノリで右手を軽く上げて零治に挨拶を交わした。初めて会った時から変わり者だとは思ってはいたが、流石にこのような姿を見せられては零治も困惑の表情にならざるを得なかった。
「馬の旗が三本見えた時はもしやと思っていたが……やはりアンタも居たのか」
「まあね。そもそも後方で待機なんてあたしの性分じゃないんでね」
「この様子だと、約束は果たせてないようだな」
「ああ。その点は言い訳しないし、済まないと思ってるよ……」
「いいさ。あの女が頑固な事はオレも知ってる。オレの頼みを果たすのに難儀している事ぐらい容易に想像できるさ」
「そう言ってくれると助かるよ」
「……だが……ここに来たという事は、どういう事になるかも当然分かってるよな」
「ああ。あたしもそこまで馬鹿じゃないさ」
「ならいい……」
零治と翠蓮の事情を星は既に知っているので、別に何とも思わないが、黄忠と厳顔は唖然としていた。
敵である零治と普通に会話を交わしているのもそうだが、零治が彼女の真名を普通に口にしているのだ。事情を知らない人から見れば、驚くなという方が無理な光景である。
「翠蓮。貴方、彼と知り合いなの?」
「ん? ああ。劉備の所に来る前に色々あってね。あいつには世話になったんだよ」
「ほぉ~。翠蓮の人脈の多さは昔から知っておったが、まさか敵国にまで知り合いがおるとはのぉ。それに真名まで許しておるとは」
「……世間話はそのぐらいにしてほしいな。翠蓮、オレが何をしに来たかぐらい分かるだろ」
「ああ。けど、残念ながらあんたの相手はあたしらじゃない」
「何……?」
「ふふ。あいつらが相手さ」
翠蓮が顎をしゃくって見るように促した先に立つは、星、翠、蒲公英の三人だ。もとより星は初めから零治と闘うつもりでこの場に居る。翠と蒲公英は初めはそのつもりは無かったのだが、赤壁への移動中に二人で話し合い、ある結論が出た。だから闘うのだ、零治と。
「翠蓮。本気か……?」
「ああ。あたしはこういう事で冗談は言わないよ」
「考え直すのなら今の内だぞ。オレはアンタの目の前で、翠と蒲公英の二人を殺すかもしれないんだぞ……」
「母親としてはそうなってほしくないのが本音だが……このご時世だしね。もしそうなったとしても、それはあの二人が所詮そこまでだったって事さ」
「つまり、恨みはしないと?」
「当然さ。あたしは確かに翠の母親だし、蒲公英も実の娘のように扱ってきた。だが、あいつらももう子供じゃないし、あたしも一人の武人だ。恨みはしない」
「……翠、蒲公英。お前達の意見は?」
「覚悟は……出来ているっ!」
「たんぽぽも……」
「星は……訊くまでもないか」
「無論です。零治殿。私達は考え無しで貴方に挑もうとしているのではない。我らには我らの想いがあり、貴方に挑むつもりでいるのです」
「いいだろう。ならば……」
零治はそこで言葉を区切って舳先から跳躍し、甲板の上に片膝をついて星、翠、蒲公英の三人の前に着地した。零治はゆっくりとその場から立ち上がり、鋭い眼光で三人を睨み付けながら左手の親指で叢雲の鞘と柄の境目を弾き、その凶刃が姿を覗かせ、月光を受けて刃が煌めく。
「見せてみろよ。お前らの想いを。覚悟とやらを。その全て……オレがこの場で断ち斬ってやる!」
零治から放たれる殺気を前に星、翠、蒲公英の三人は思わず怯んでしまうが、腹に力を入れて踏ん張り、改めて気合を入れ直し、各々が持つ得物を構えて零治に対峙した。
それぞれの人が持つ想い胸にぶつかり合う戦士達、刃が火花を散らす赤壁の戦い。様々な思惑が交錯する中、この戦いも大きな山場を迎えた。
零治「なあ。翠蓮の武器、名前はあるのか?」
作者「…………」
亜弥「……まさか考えて無いんですか」
作者「考えたんだが全っ然思いつかんのだ」
恭佳「おいおい。折角のオリキャラなのに武器に名前が無いのはあんまりだろ」
作者「分かってる。だから読者に協力を仰ごうと思ってな」
奈々瑠「ようするにアンケートでも取るんですか?」
作者「そっ。名前の候補が複数来たら数を絞って、そこから投票でもしようかなぁと」
臥々瑠「ふ~ん。もし何も無かったらどうするのさ?」
作者「自分で考えるしか無いじゃん……」
樺憐「来てくれるといいですわねぇ。来ない可能性の方が高いでしょうけど」
作者「まあ、オレも話を進めながら何とか考えるさ。次の話では恭佳さんが活躍する回ですよ」
恭佳「おっ! 期待してるぜぇ!」
作者「最後に、気が向いた方で結構ですので、感想でもメッセージにでも構いません。翠蓮の武器名、良いのがありましたら是非ともこちらにお知らせください。よろしくお願いします」




