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第76話 暗躍する者達

この話の頭の部分を書いてるとき、凪達の苦しみがよく分かったんですよね。

自分も子供の頃、初めてフェリーに乗った時は酷い船酔いになったからずっと寝込んでましたよ。おまけに昼に食べた船内の販売弁当が不味すぎて悪化もしましたし。

黄蓋の亡命をひとまず受け入れ、蜀と呉の同盟軍の動向も掴めたので、後れを取るまいと魏も進軍の準備を纏め、前線基地からようやく出撃をする事が出来た。目指すはもちろん赤壁だ。

場所が場所なので必然的に水路を利用した船での進軍となるのだが、零治と亜弥はユラユラと揺れ動いている船の舳先に立ち、眼前に広がる光景を前にして眼が点になっていた。



「…………おい」


「何や、隊長」


「これ……本当に河か……?」


「まぎれもなく長江ですが」



眼前に広がる広大な河。いや、対岸が見えないのでむしろ海原と表現するべきなのか。

長江は世界でも第三位になるほどの大きさで、全長は六三〇〇キロメートルである。この地域に住む人間にとってはこれは普通の光景だが、零治達から言わせればこれを河と表現していいのか疑問である。



「大きい事は資料を見て知ってましたが……こうして実際に見てみると海と見間違えるほどの大きさですね」


「長江ならこんくらい広いんは当たり前やろ……うぇぇ」



真桜は先程から酷い船酔いに悩まされており、何度も彼女は嘔吐感に襲われている。無論、彼女だけに限らず、凪も沙和も顔が青ざめており、真桜同様に船酔いに苦しめられているのだ。

まあ、無理も無いだろう。彼女達だけに限らず、魏の人間は船に乗って長距離を移動した経験が無いのが大半を占めているのだ。おかげで魏のメンツのほとんどが、この先に待ち受ける戦ではなく、船酔いとの戦いを強いられているのだ。



「ほら、あそこにも漁師さんの船が……」


「……ん? 鎖で繋いでるみたいだが……アレは何の意味がある」


「そんなの分かんないの……。でも、大きな河だからこうやって船団組んで移動できるのー……うぅ~……」



沙和が指差している先にある、漁師が使用している小型の船は二隻の船を横に並べて船体に大きな鎖で連結させた奇妙な形をしていた。非常に漕ぎにくそうな形だが、鎖で繋いでいるおかげで船体は安定しており、こちらの船のようにユラユラと大きく揺れている事は無い。

だが、零治はその船に奇妙な違和感を感じたので、亜弥に念話でその事を尋ねてみた。



『亜弥、あの船……どう思う?』


『ふむ。恐らくあの船に乗ってるのは本物の漁師ではなく、呉の兵士でしょうね』


『……という事は、アレは周瑜の仕業か』


『いえ、諸葛亮の入れ知恵という可能性も考えられますよ』


『フッ。おおかた、赤壁で使う策に信憑性を持たせるためのカムフラージュって所か。それだけ奴らも必死って事だな』


『でしょうね。ですがそうはさせませんよ』


『まっ、今はそれよりも目先の問題……こいつらの船酔いだな』


『ですね』



現代人である零治と亜弥は、いま乗っている船以上に酷く揺れる乗り物に搭乗した経験もある。もちろん船に乗った事もあるが、風を頼りにする帆船や手漕ぎボートなどと言ったアナログな物ではない。

二人から言わせればこの程度の揺れなどどうという事は無いのだが、凪達には酷く堪えているらしく、船酔いが収まる気配は一向に無かった。



「なあ。お前ら大丈夫か?」


「見て分かってほしいの……」


「大丈夫な訳あるかい……ウチら山育ちやで」


「凪は……」


「…………」


「……眼の焦点、合ってへんな」


「こりゃ重症だな。亜弥、酔い止めとか持ってないのか?」


「そんな物ある訳ないでしょう。まあ、放ってもおけませんし、衛生兵に船酔いに効く薬とか無いか訊いてきますよ」


「悪いな」



魏の軍勢は複数の船で船団を編成し、各船に部隊をいくつか纏めて乗船しており、各船には当然衛生兵が複数人充てられている。まあ、もしかしたらその衛生兵も船酔いを起こして倒れ込んでる可能性もあるが、現状では頼れそうな人間は他に居ないのだ。

亜弥は揺れる船の甲板を慣れた様子でスタスタと歩いていたのだが、突然奇妙な脱力感が彼女を襲い、足元がふらついたので亜弥は転倒しないように船の縁に手を伸ばし、身体を支えた。



「おっと!?」


「ん? どうした?」


「いえ……急に足元がふらついたので。……疲れたのかな?」


「疲れたんなら横になってたらどうだ? どうせ陸地にまではもう少し時間が……って、おっと!」



別に船が大きく揺れた訳でもないのに、零治もいきなり足元がふらついてしまったので、転倒しないように甲板を両脚でしっかりと踏み締めた。

幸い船から河へ転落する事は無かった。まあ、零治の場合は軽装なので落ちても泳ぐ事は可能だが、一般の兵士達はそうもいかない。万が一転落した時のために、彼らの着用している鎧もいつもの鉄製ではなく、革製などの軽い物だ。鉄の鎧を着ている兵士は船内で待機か、甲板にこそ出ているがなるべく縁には近寄らないようにしているかのどちらかだ。もしも鉄の鎧を着た状態で河に転落してしまったら、そのまま底まで沈んで溺れてしまうからだ。今この場では、鉄の鎧を纏った兵士は防具ではなく、重りを着けた人間でしかないのだから。



「なんや、隊長も姉さんも揃って船酔いかいな。しっかりしてや?」


「変ですねぇ。私達はこの船以上に揺れる乗り物にも乗った経験があるし、酔った事も一度も無いんですが」


(今の感覚……定軍山で感じたアレと同じだな。まさか、オレ達の身体に何かの異変が……?)


「ち、小さい船では、なお酔いやすいと……うぅ」


「凪ちゃん、無理して喋らなくていいの……」


(……とりあえず、この事は黙っておくとするか。目的地に着いたら、赤壁の件を亜弥と一緒に華琳に相談しないとな)


………


……



船に慣れていた零治達にとって船旅はそれほどの苦痛ではなかった。だが、船団を組んでの移動だったため、同乗していない人間との会話にはどうしても難儀してしまう。携帯電話も通信機も無い、零治達みたいに念話による通信を行える人間も居ないこの世界では、間の連絡は大声を張り上げるか、簡単な手旗信号による簡単なやり取りぐらいしか出来ないのだ。なので、適当な場所に船を着け、陸地で野営の陣を構築してから零治と亜弥は華琳を探していた。出来る事なら彼女が一人りなのが望ましい。今から零治と亜弥が華琳に伝えたい事は、出来れば信用の置ける人以外に聞かせたくはないのだ。特に……黄蓋と鳳雛には絶対に聞かせたくない事なのだから。



「華琳」


「あ、兄様。それに姉様も」


「あら、こんな時間に……二人揃ってどうしたの?」


「ちょっと話があるんですが……」


「もう寝ようと思っていたのだけれど。ここでは駄目なの?」



チラリと視線を周りに向ければ、見張りの兵士達は多い。普通の話ならこの場でしても何ら問題は無いだろう。だが、零治達がしたい話は違う。表沙汰に出来る内容ではないし、万が一黄蓋や鳳雛の耳に入ったら全てがご破算になってしまう。となると、人目を避ける事ができ、確実に華琳だけしか居ない場所が好ましいのだ。



「できれば人目は避けたいんでな。華琳の天幕が一番理想的なんだが」


「え、あの、兄様……?」


「悪いけど、今日はそういう気分じゃないの」


「おい。そういうんじゃねぇから。ってか、流琉もなに顔を赤くしてんだ。亜弥も一緒に居るんだぞ?」


「え、あ、そ、その……っ! わ、私、お邪魔ですよね!? それじゃ、失礼しますっ!」


「あ、おい、流琉!」



背丈が季衣と同じくらいで幼い容姿なため子供に見られがちだが、流琉は精神面が大人……というかませている所があるため、何か別の事を想像したのだろうか。変に気を遣ってしまい、流琉は顔を真っ赤にしてその場を走り去ってしまった。



「……誤解を解かなくて良いの?」


「それは明日にでもする。それよりも……」


「だから、今日はそういう気分ではないの。城に帰ったら、ゆっくり二人とも相手をしてあげるから……」


「だからそういう事じゃないんですよ。ってか、私にはそっちの気はありませんからね」


「オレ達がしたい話は……この先に関わる大事な話なんだ」


「……いいでしょう」



今の言葉で零治達がしたい話がなんなのか、華琳もようやく理解できた。

この先に関わる話。つまり、零治達がしたい話は彼らが知るこの世界での出来事の歴史についてなのだ。

この事については、定軍山の件で有用性が証明されたため、華琳も話す事を許可している。ならば確かに、人目に付くのは良くないだろう。同行を認めているとはいえ、ここには部外者である黄蓋と鳳雛が居るのだから。


………


……



零治達が案内されたのは、一番理想的である華琳が使用している天幕だ。王専用といっても、内装は他の物と同じだが。唯一違う点は、人を集めて話をする場面などを想定して作られているため、一般の兵が使用している物より広めの作りになっている点だ。

まあ、いま重要なのは天幕の広さなどではない。零治達は床几に腰かけ、辺りに人の気配が無い事もしっかりと確認し、重々しく口を開いて語り始めた。赤壁で起こる戦いの内容を。黄蓋は初めから裏切るつもりでいる事を。



「……そう。黄蓋はやはり裏切るのね」


「ええ。私達の船団を鎖で繋ぎ合わせ、そこに火を放つつもりなんですよ」


「そんな事をされては、船での戦いに慣れていない私達に勝ち目は無いわね……」


「ああ。そこで華琳達が死ぬわけじゃないが……魏は大陸制覇の決定打を失う事に……んっ」


「どうしたの?」


「……どうも昼間、船酔いしちまったみたいでな。そのせいでまだ時々眼がくらむんだ。大した事じゃないから心配は無用だ」


「……そう」


「華琳殿。華琳殿はいらっしゃるか?」


「黄蓋? ここよ」


「おお、こちらにおいでか。少々話をしたいのだが……構わんか?」



その場に現れたのは、話題の中心人物である黄蓋、彼女の背に隠れるようにオドオドとしている鳳雛。そして、その少し後ろに仮面で顔を隠し、ボロボロに破れた黒のローブを纏った鴉である。

鴉の姿を見るなり、零治も亜弥も、そして華琳も訝しげな視線を向ける。特に零治と亜弥の視線は訝しげどころか、殺気すら感じられた。先日の軍議の場で黄蓋が変わり者とは称していたが、これは変わり者で片付けれるような姿とは言えない。零治と亜弥は鴉の動向に警戒しつつ、いつでも行動に移れるようにそれぞれの神器に手をかけていた。



「酒の席ならお断りよ。悪いけれど、今日はそういう気分ではないの」


「なんだ。酒は百薬の長、かの神農大帝も大いに楽しんだというのに……」


「そんな話は聞いた事が無いわよ。それで、酒席に誘いに来ただけなのかしら?」


「いや。昼の魏の行軍を見ておっての。少々気になった事があったのだが……」


「何かしら?」


「……その前に、少々人払いを頼めんか?」



黄蓋が視線を向けたのは零治と亜弥の二人だ。彼女には彼女の思惑があり、二人に話を聞かれたくはないのだが、そこで従う訳にもいかないだろう。黄蓋が裏切る事は既に華琳には伝えたが、鴉という奇妙な人物が一緒に居るのだから。



「フッ。黄蓋……仮面で顔を隠した怪しい奴を連れてきておいて、そこでオレ達が、『はい、そうですか』と、素直に従うとでも思ってんのか……」


「そこを突かれるのは痛いが……前に話したであろう? こやつがもう一人の弟子じゃよ。……ほれ。挨拶せんか」


「お初にお目にかかります、曹操様。私の名は鴉。以後、お見知りおきを……」



鴉は黄蓋に促され、深々と頭を下げて挨拶の言葉を述べた。鴉から発せられた声は中性的でいて、まるで合成音声のような機械的な印象を受ける奇妙な声だった。

姿だけでも充分に怪しいのに、声までこんな違和感があるのだ。零治も亜弥も、当然華琳も鴉に対する猜疑心は強まるばかりである。



「鴉? ……それは偽名なのかしら」


「ええ。私は世捨て人ですのでね。私にとって名前など意味を成さないものですが、何かしらの呼称が無いと周りが不便になりますので……」


「なるほど。だから顔も隠し、そんな妙な格好をしているのね……」


「はい……」


「だから言ったじゃろう? 変わり者だと。こやつに関しては心配無用じゃ。華琳殿に仇成すような真似はせんよ」


「…………」



黄蓋はこう言っているが、零治は信用などしてはいない。黄蓋が裏切るのは確定しているのだから。

だが、このままここに留まっても話が先に進む事も無いだろう。零治はチラリと隣の亜弥に目配せし、念話でどうするか手早く相談する事にした。



『亜弥、どうする』


『ここはひとまず黄蓋に従いましょう。幸い、彼女が裏切る事は華琳には既に伝えてあるんです。続きは彼女達が去ってからでも遅くは無い』


『……だがこの鴉という奴は得体がしれん。信用できんな』


『分かってます。だから見張りを立てましょう。彼女に頼めばいい。もう一つの姿なら黄蓋達にも分かりはしないでしょう』


『あぁ、確かに。幸いな事に、華琳が使用してる天幕は大きいしな』



打ち合わせは済んだ。零治と亜弥はおもむろに床几から立ち上がり、とりあえずは黄蓋の言う通りにする事にした。だが、ただ去るのも癪なので、零治はちょっとしたサプライズを黄蓋達にしてやる事にしたのだ。

出口へ足を運んでいる間に、ある人物に念話を送り打ち合わせも済ませてある。後はこの場に呼ぶだけだ。



「では華琳、私達は外に居ますので」


「ええ」


「……黄蓋」


「何じゃ?」


「オレはまだお前の事を信用している訳じゃない。この場は去ってやるが……見張りは立てさせてもらうぞ」


「ほぉ。一体誰に頼むというのじゃ?」


「見てな……」



零治は天幕の出入り口を塞いでいる布を左手でかき上げながら周辺に視線を走らせ、見張りに立てるモノを探した。幸いな事にそれはすぐに見つかった。零治は右手の親指と人差し指で輪を作りながらそれを口に含み、ピーッと甲高い口笛を鳴らした。



「Fang.Come on!」


「えっ……?」



いきなり流暢な英語で零治が喋ったので、聞きなれない言語を耳にした華琳、黄蓋、鳳雛の三人は眼をパチクリとさせて零治の後姿を見つめた。

その零治は、外に向かって右手を内側に仰ぐ動作を繰り返しており、誰かをこちらに呼んでいるのだ。それからすぐに何者かがこちらに駆け寄る足音が聞こえてきて、それは天幕の出入り口前に待機している零治に向かって飛びついてきた。



「ワンっ!」


「おぉ、よしよし。……って、コラコラ。顔を舐め回すな。くすぐったいだろ」



零治に飛びついてきたのは黒く巨大な毛の塊。いや、正確には巨大な狼の姿をした樺憐である。

今の樺憐は正体を黄蓋に悟られないために完全に狼になりきっており、ワンワンと鳴き声を上げながら零治にじゃれ付き、フサフサの毛並みの尻尾を左右にフリフリと動かしている。見事な演技だ。もしかしたら素かもしれないが。

華琳もこの姿の樺憐を初めて目の当たりにするので眼が点になっているし、黄蓋も唖然とし、鳳雛など完全に怯えた様子で黄蓋の背中に隠れ、顔だけを覗かせてカタカタと身体を震わせている。



「れ、零治……それは……何なの……?」


「ん? 見ての通り、狼だが?」


「狼って……どう見ても大きすぎじゃない。馬ぐらいはあるじゃないの。一体どこから連れてきたのよ……」


「いやぁ、随分前に森で拾った奴を密かに飼ってたんだ。で、最初はこんなに小さかったんだが、餌をやり続けたらここまで大きく育ってな。役に立つと思って連れてきたんだ。……ほら、ファング。食えよ」



一体どこから用意したのか、零治はコートの下から何かの干し肉を取出し、右掌に乗せて樺憐の口元まで差し出した。樺憐は飼い主に従う従順な狼を演じるため、鼻を近づけてクンクンと干し肉の匂いを嗅ぎ、ガツガツと噛り付いて平らげ、ワンと一度吠えて零治の顔を舐め回しながら更にじゃれ付いた。



「あぁ、よしよし。……いいかファング。今からお前にお仕事をしてもらうからな」


「ワンっ!」


「オレは少しの間この場を離れなきゃならん。その間はお前が華琳を護るんだ。いいな?」


「ワンっ!」


「良い返事だ。……Fang.Go」


「ワンワンっ!」



零治はまたしても流暢な英語で樺憐に指示を出し、樺憐は四本の脚を軽く曲げながら姿勢を低くして天幕の中に入り込み、そのまま華琳の隣まで歩み寄ると、その場でクルリと方向転換して黄蓋達に視線を向けながら伏せ、ハッハッハと口呼吸を繰り返しながら華琳の隣を陣取り、番犬として控えたのだ。



「ほぉ~。狼とは思えんほど素直に従うのじゃな」


「当然さ。オレが調教してやったんだからな。もちろん……人の殺し方も含めてな……」


「ふむ」


「ぐるるるる……」



一体どういうつもりなのか、樺憐は伏せたまま黄蓋に鋭い眼光を向け、地を這うような唸り声を上げながら鋭く尖った無数の牙を覗かせたのだ。黄蓋はその姿に怯みはしないが、鳳雛はますます怯えてしまい、黄蓋の背中の後ろで小動物のように縮こまってしまった。鴉は顔を隠しているためどんな反応をしているのか見当もつかない。



「何じゃ。儂が気に入らんのか?」


「あぁ、そいつはある事に敏感でな。それに反応してるんだろうな」


「ある事?」


「そいつはな……人の嘘の臭いを嗅ぎつけるんだよ……」


「…………」


「フッ。冗談さ。狼にそんな事が出来る訳ないだろ? ……なら、オレも行くとするか。ファング、この場は任せたぞ」


「ワンっ!」


「黄蓋達が妙なそぶりを見せたら……遠慮は要らん。全員噛み殺してやれ……」


「ワンっ!」


『樺憐、この場は頼むぞ』


『はい。お任せください。何が起ころうとも華琳さんには指一本触れさせませんわ』


「それじゃあな。ごゆっくり……」



最強と言っても過言ではない頼りになる番犬をその場に残し、黄蓋に対しても意味深な言葉を投げかけて零治も天幕から去って行った。しかし、天幕のスペースの半分ぐらいを巨大な狼が陣取っている異様な光景が広がっているため、全員が黙り込んでしまい、奇妙な沈黙がその場を支配した。

樺憐は少しでもこの空気を変えようと、狼になりきりながら華琳の膝に頭をすり寄せてきた。



「クゥ~ン」


「あら、どうしたの? 撫でてほしいのかしら?」


「ワンっ!」


「…………」



流石にこの巨体なため、じゃれ付いているとはいえやはり恐怖感はある。華琳は恐る恐るの手つきで樺憐の頭に手を伸ばし、ゆっくりと撫でてみた。樺憐はまんざらでもない様子で華琳の膝に更に頭をすり寄せ、尻尾を左右に振りながらルビーのように紅い深紅の瞳で彼女の顔を見上げた。



(ん? この狼の眼……紅いわね。……ふふ。そういう事か)


「華琳殿。大丈夫……なのか?」


「ええ。この通り、私にはなついているようよ。零治が調教しただけの事はあるわね」


「そうか。……では、そろそろ本題に移ってもよろしいかな?」


「ええ」


「今日の行軍、随分と船酔いの兵が多いように見えたが……。あれは一体どうした事だ?」


「返す言葉も無いわ。船での戦いは訓練こそすれ、実戦での経験は数えるほどしかないの。兵の中には、長江ほど大きな河を見たのが初めての者も居るのよ」


「ふむ……それはいかんな。江東、江南の兵はいずれも河での戦に慣れておる。時間さえあれば儂が教練してやっても構わんのだが……付け焼き刃ではものの役にも立たんであろう」


「でしょうね。何か秘策でもあるのかしら?」


「うむ。実はそのために、この二人を連れてきたのだ」



黄蓋に促され、背中に隠れていた鳳雛は威圧感のある樺憐の姿に怯えながらもなんとか気丈に振る舞い、前には出てきたがまだ恐怖心はあるのだろう。黄蓋の服の裾を小さな右手でキュッと握りしめているのだ。

鴉も話をするべく数歩前に進み出て、無言で華琳に向かって一礼した。



「そちらのお嬢さんは確か……鳳雛だったわね」


「よ……よろしくお願いします……」


「それで? その二人に秘策があると?」


「うむ。鳳雛、鴉。説明してくれるか?」


「はい。……この辺りの漁師達は、船酔いや小さな船を大きく使う技法として、船同士を鎖で結ぶ方法を使ってます。それをこちらでも利用します」


「ここまで移動をする際に漁師達の船を見かけませんでしたか? アレの事ですよ……」


「……確かに。昼間の行軍で、何隻か見かけたわね」


「はい。船同士を繋げば、船の安定が増しますから酔いにくくなりますし、兵は陸と同じように動く事が出来るようにもなります」


「……けれど、火計には弱くなるわね」


「この季節、風は川上から吹いています。こちらの失火や川上からの奇襲があるならともかく、川下の建業から来る敵が火計を使う事はあり得ません」


「なるほど……。それで、その鎖はすぐに準備出来る物なの?」


「この辺りでは普通に使われてる方法ですからね。鍛冶屋に頼めばすぐに調達できるはずですよ……」


「そう。ならば、その事前交渉は任せるわ。黄蓋、貴方が指揮を執ってちょうだい。細かな指示は軍師の誰かを代わりによこしましょう」


「承知した。では、儂らはこの辺で失礼させてもらおう。あまり長居しては……そこの番犬に噛み殺されそうなのでな」


「ぐるるるる……」



樺憐はまたしても黄蓋達を威嚇するように地を這う唸り声をだして牙を剥き、鋭い眼光で睨み付けるのだ。

その姿に気圧され、鳳雛はビクリと肩を震わせてそそくさと黄蓋の背中に隠れ、顔だけを覗かせて樺憐の様子を窺った。鴉は相変わらず無言のまま棒立ちをし、樺憐の姿をジッと見下ろしていた。



「あらあら。随分と嫌われているようね、黄蓋」


「やれやれ。これでも動物には好かれる方だと思っとったんじゃがな」


「犬は飼い主に似ると言うわ。大方、零治の調教が原因でこうなったのでしょうね」


「ここまで凶暴な狼を犬のように手なずけるとは。そちらの御遣いも大したものじゃな。……それでは華琳殿。儂らはこれで」


「失礼します」


「では、ごきげんよう。曹操殿……」



黄蓋、鳳雛、鴉の三人は華琳に向かって一礼し、順に天幕から去っていく。樺憐と二人きりになり、狼になりきっている彼女の一定間隔の口呼吸が響く中、華琳は神経を研ぎ澄まして黄蓋達の気配を探り、しばらくして外にあった気配も完全に消えたので、華琳は大きく息を一つ吐いておもむろに口を開いた。



「ふぅ……樺憐。あれは少々やりすぎではなくて?」


「あらぁ。よくわたくしだと分かりましたわねぇ」


「その眼の色のおかげでね。奈々瑠と臥々瑠の狼の姿も一度だけ見た事があったし、もしやとは思っていたけれど、やはり貴方だったのね」


「ふふ。わたくしの演技、いかがでしたかぁ?」


「その眼の色が無ければ私も完全に騙されていたわ。加えてその大きさ。これなら背中にも余裕で乗れそうね」


「華琳さんでしたらわたくし、乗せてあげても構いませんわよぉ?」


「それはまたの機会にお願いするわ。……それにしても、零治達の言う通りだったわね」



黄蓋達は既に去ったので、樺憐も変身を解いていつもの姿に戻した。会話ならあの姿でも行えるのだが、万が一誰かが来た時に驚かせてしまうし、事情を知らない人間が狼と会話をしている華琳の姿を見たらどう思うか分かったものじゃない。



「それでどうするおつもりなのですか? わたくし達は船には慣れてますから平気ですけど、兵士達はあの有様でしたからね。船酔い対策の意味では有効かもしれませんが……」


「船酔い対策には有効でも、それでこちらが全滅させられては意味が無いわ。ちゃんと指示は与えるつもりよ」


「そうですわね。ですが時間はあまりありませんわよ」


「分かってるわ。……そろそろ来る頃でしょう」


「……華琳様」


「来たわね。入りなさい」



聞き覚えのある冷静な声がしたので、天幕の出入り口を見やれば、そこから姿を見せたのは秋蘭と流琉だ。

秋蘭は出入り口で一度足を止めて華琳に向かって一礼し、ゆっくりとした足取りで中に入ってきて彼女の前で片膝をついた。



「申し訳ありません。流琉から招集を受け、急ぎ参ったのですが……もう少し時間を潰してからの方が良かったですか?」


「問題無いわ。零治と亜弥はちゃんと連れてきてる?」


「無論です」


「他には誰を?」


「音無達と話があると聞きましたゆえ、さしあたり、桂花と風、稟を連れて参りました」


「上出来よ。黄蓋には気取られなかった?」


「はい。姉者と季衣にも感付かれてはおりません」


「ならいいわ。皆も入りなさい」



華琳に促され、零治に亜弥、桂花、稟と風に流琉と順に天幕の中に入り込み、樺憐が中に備え付けられている床几を人数分用意して円形に並べていき、零治、亜弥、樺憐の三人は華琳と向かい合ってる床几に腰かけ、華琳から見て左側には秋蘭と流琉の二人が、右側には三軍師が腰かける。

広めの作りの天幕とはいえ、これだけの人数が一度に集まると中々の密度だ。華琳はゆっくりとその場を見回し、全員が揃っている事、辺りに人の気配が無い事を確認した。



「大丈夫そうね。……零治、亜弥。先程の話をもう一度皆に」


「ああ」



同じ事の繰り返しにはなるが、事の全貌を現時点で知っているのは華琳だけなのだ。

この先の戦いで敗北しないためにも情報の共有は必要不可欠。零治と亜弥はもう一度、秋蘭が連れてきたメンバーに全てを話した。赤壁の戦いについて、黄蓋の裏切りについてを。



「……という訳です」


「零治と亜弥の話のすぐ後に、黄蓋が鳳雛と鴉という者を連れてきて船を鎖で繋ぐ案を提案してきたわ」


「少なくとも今の所は、音無達の話の通りに筋書きが進んでいる訳ですね」


「鳳雛というのは、恐らく蜀の鳳統の事でしょう。あまり表には出て来ませんが、伏竜、諸葛孔明と双璧を成す知将だと聞いています」


「華琳様。となると、黄蓋が蜀の事を知らないというのもやはり……」


「微妙な所ね。黄蓋の軍議での驚きようは、演技とも思えなかったけれど。……所で稟。鴉という人物に心当たりは無いの?」


「申し訳ありません。そちらについては皆目見当もつきません。ましてや容姿も分からないとなると」


「そう。まあ、黄蓋と一緒に居る時点で、敵である事に変わりは無いわ。あの者の正体についてはひとまず置いておきましょう」



稟も知らないようならば鴉の正体についてはどうしようもないだろう。だが、黄蓋と同行している時点で敵である事に違いは無いのだ。

しかしながら、正体不明の得体のしれない人物を野放しにする気にもなれないのが零治と亜弥の考えだった。ならばどうするべき、華琳達の話に耳を傾けつつ念話による打ち合わせをした。



『亜弥。あの鴉だが……オレ達だけで調べてみるか』


『それが良いでしょう。私達以外の誰かに調べさせるのは危険すぎますしね』


『ああ。奴が一人の時に探りを入れてみるとしよう。まあ、その程度で尻尾を出すとは思えんがな……』


「お兄さん、お姉さん。二人して難しい顔をしてますが、どうかしたのですかー?」


「ん? あぁ、ちょいと考え事をな。気にするな」


「二人とも。妙な気は起こさないでよ?」



過去の行いから、華琳はまた零治達が独断で何かしようとしているのかもしれないと考えたのだろう。

まあ、実際やるつもりでいるのだが。だが、華琳が考えているのは黄蓋達の監視、あるいは始末か。そうするとでも思ったのだろう。確かにそれなら目先の脅威は排除できるが、呉軍に大打撃を与える事は出来ない。そういう意味でも、零治達には釘を刺しておく必要があったのだ。



「おいおい。華琳が考えているような事はしないさ。少なくとも……赤壁での戦いが始まるまではな」


「ならいいわ。……さて、桂花、稟、風。いい結果は見えたかしら?」


「恐らく、黄蓋も計画の全貌を知らずに動いているのでしょう。鳳統の正体を知っているかどうかも、微妙な所ではないかと」


「でしょうね。周瑜との諍いもその後の懲罰も、阿吽の呼吸で打ち合わせなく演じて見せた……という辺りかしら」


「そんな事が出来るんですか……?」



桂花の意見に対して華琳が出した見解に、流琉は不思議そうに首を傾げた。

確かに付き合いの長い人間同士でも、意識してそれをやるのは非常に難しいが、付き合いが長ければ長いほど人間はそれを無意識の内にやってのける事は可能なのだ。現に流琉も無意識の内に黄蓋や周瑜と同じ事をしているのだから。



「流琉。季衣が何か食材を持ってきたら、食べたい料理が分かったりはせんか?」


「あ……」



秋蘭の言葉に流琉は思い当たる節がいくつもある。季衣は屋台や料理店の食べ歩きをして食事を済ませる事も多いが、彼女が何らかの理由で食材を手に入れ、流琉がそれを調理してあげた事は何度もある。

そして出来上がった料理はいつも季衣が食べたいと思っていた物だ。別に献立は意識して考えたりはしてなかった。季衣が持って来た食材を見て、どのような料理にすれば彼女が喜ぶかは自然と頭の中に浮かんでいた。まさに黄蓋と周瑜の連携と同じである。



「黄蓋の経験と周瑜の智謀、そしてそこに、諸葛亮と鳳統の神算が重なり合っているのよ。このぐらいは想定してしかるべきという事ね……」


「なら、昼間の鎖の付いた船も……?」


「この辺りにそんな風習はありません。だいいち、生まれた時から船の上で育つ長江の民が、わざわざ鉄の重りで船を縛り付ける意味は無い」



流石は魏の知恵袋と言える稟。蜀、あるいは呉か。向こうが仕掛けたカムフラージュを見事に見破っていた。相手も策に策を更に重ねこちらを罠に陥れようとしていたが、仕官する前に各地を転々として旅をしていた稟はその地方の風習についても調べていたので、彼女の前では子供騙しでしかなかった。無論、零治と亜弥が聞かせた歴史の内容というヒントがあったおかげもあるだろうが。



「恐らく、今夜の提案に信憑性を持たせるための誰かの策でしょう。手の込んだ事ね」


「で、鎖の方はどうするんだ? 船を固定するだけなら縄でも可能だろ」


「それでは向こうに罠を見破ったと言うようなもの。一度は乗って見せないとね……」


「こういう時は、春蘭の単純さが羨ましいわね……」


「ふっ……まぁそう言ってやらんでくれ」


………


……



「くひゅんっ!」


「春蘭様。風邪ですかー?」



桂花の噂のせいだろうか。激情家の春蘭からは想像もつかないような可愛らしいクシャミが飛び出した。

夜の番についている春蘭、季衣、恭佳の三人には冷え切った夜風が吹き付けてくるので、身体は心身ともに冷えてしまう。横でその姿を見ていた恭佳はワザとらしく両腕を身体に巻き付け、身震いまで起こして見せた。



「うぅ……確かに夜風が冷たいからね。いつまでもこうしてたら風邪引いちまいそうだよ」


「全く。だらしないぞ恭佳。私は生まれてこのかた一度も風邪など引いた事が無いからな」


「さすが春蘭様ですねー。ボクも引いた事ありませんよ!」


「うむ。日頃の鍛錬の仕方が違うからな!」


(いや、鍛錬の仕方云々と言うより、春蘭と季衣の場合はねぇ……多分アレのおかげだと思うんだよねぇ)


「ん? なんだ恭佳。私の顔に何かついているのか?」


「いや。何でもないよ。気にしなさんな」


「そうか。……ん? 何だ? おおい、そこの馬車!」


………


……



「さてどうするべきか……。いくらなんでも鉄の鎖は、力ずくで食い千切る訳にもいかなくてよ」


「そうだな。オレ達が全部ぶった斬ってやってもいいんだが、それじゃ間に合わねぇだろうしな」


「乗ればいいじゃないですかー」


「風。乗ればいいって……貴方、自分が何を言ってるか分かってるんですか」


「鎖で繋いだ船に火を放たれたらどうなるか、想像くらいつくでしょう?」


「桂花ちゃん、大丈夫ですよー。それを何とかできる稀代の天才が我が軍には居るじゃないですかー」


「…………あ」


「なるほど。姉者ではないが……」



その場に集まっている人間全員が我が事得たりと頷く。確かにこういう状況を打破できる能力を持ち合わせている天才が居るのだ。その事に関しては、かつての劉備軍の襲来の時にも一役買っていた。

ただ、今回はあの時のように時間があまり無いため、間に合うかどうかが微妙な所ではあるが。



「いつも通りに戦えば、負けは無いわ。それだけの人材が居る事は間違いないもの」


「では我々は黄蓋の提案を受け入れ……罠にかかった振りをして、罠を仕掛けた狩人を食い殺します。それで構いませんか?」


「ええ。では、秋蘭は春蘭と共に黄蓋の先鋒を監視。呉の連中が夜襲をかけてきたら、秋蘭が動いて。正面は春蘭に任せておけばいいわ」


「はっ」


「風と桂花は火計の対策と、その後の対処を。鳳雛との交渉も任せるけど、くれぐれも正体を知っている事を気付かれないように」


「はい」


「分かりましたー」


「稟は敵陣の情報を探りなさい。黄蓋が動くなら、必ずそれに呼応してくるはず。奇襲部隊への先制攻撃は……そうね、流琉と季衣に任せましょう」


「御意!」


「了解です!」


「零治達は……今回は貴方達独自の判断で動いていいわ。好きに暴れなさい」


「分かった」


「お任せを」



赤壁で起こる戦い、黄蓋の裏切り、相手が仕掛けてくる策について。これらの全てを必要な人間に伝える事は出来た。それらに対する対策も万全だ。これなら負ける要素など無い。

話が済んだというのに、今まで黙り続けていたBDが珍しくこういう場で零治に話しかけてきたのだ。



『おい。相棒』


「ん? 何だ?」


「……零治。誰と話してるの?」


「あぁ、悪い悪い。ついいつもの癖で。……コイツとさ」



零治はガントレットの装甲に覆われている自分の左腕をトントンと右手の指で数回叩く。華琳達も零治が持っている魔導書、BDには意思のようなものがあり、話をする事も知ってはいるが、実際に声が聞こえるのは零治だけ。傍から見れば独り言をいう不審者にしか見えないだろう。



「待たせたな、BD。何だよ?」


『いやなに。さっきの話……赤壁の戦いだったか? 連中が使う鎖について、面白い提案があるんだが』


「提案?」


『ああ。まあ、そっちで保険は用意するみたいだが、間に合うのか?』


「微妙だな……」


『なら保険は二重にしておけ。これなら船を護れるだけじゃなく、呉の連中から地の利を奪う事も出来るぞ……』


「ほぉ~。それは興味深い」


「零治。その魔導書とやらと何を話してるのよ。傍から見ていると気味が悪いわよ」


「そりゃ言いすぎだろ。なんか、コイツが黄蓋が使う鎖の対策に提案があるらしくてな」


「へぇ~。どんな内容なの?」


「いま確認する。……で、その提案ってのは? …………はあ?」



零治は左腕に視線を向けながらBDに話の先を促したが、内容を聞くなり顔をしかめた。

亜弥も零治がBDと会話をしている姿は何度も見た事があるが、彼がこういう表情になるのは珍しい光景だと思った。



「零治、どうしたんです? BDに何を言われたんですか?」


「いや……自分で話したいからオレの身体を貸せって言いやがってよ……」


「えっ? そりゃまたどうして?」


「分からん。とにかく、オレが身体を貸さないと教えないとさ」


「零治。それは貴方の身体に影響は無いの?」


「その点は大丈夫だそうだ。貸すと言っても一時的なものだしな」


「零治さん。わたくしは賛成できないのですが……」


「そう言うな。それにコイツの提案は悪い物ではないはずだ。今までコイツに助けられたのも事実だしな」


「分かりましたわ」


「BD。身体は貸してやるが……妙な真似はするなよ」


『分かってるさ。じゃ、ちょっくら失礼するぜ』



零治は自分の中にBDの意思が流入してくるのを感じ、やがて視界が薄れていくと同時にカクンと糸が切れた操り人形のように首が下に向いて俯き、床几に腰かけたまま微動だにしなくなる。

が、やがて右手の指がピクリと動き、両眼をゆっくりと開きながら首を上げ、周囲を見回した。今の彼の眼の色はいつもの蒼ではなく、BDの力を発動した時の黒と深紅のツートンカラーをしていた。



「はぁ~。久しぶりに直で外の空気を感じれたぜ。へへ、身体は俺様のじゃねぇけどよ」


「……零治……なの?」


「零治? おいおい。そりゃこの身体の持ち主の名前だぜ? 曹操さんよ」


「どうやら違うようね……」



声こそ零治の物だが、喋り方が完全に違う。零治の口調は基本的に落ち着いているが、今のはどちらかと言えば下卑たチンピラのような口調である。それに視線にもどこか見下したような感じがあり、眼の色も完全に違うのだが、事情を知らなければ別人と判断するのは難しいかもしれないだろう。



「初めましてだな、曹操。俺様の名は血の魔導書ブラッド・ディクテイター。まっ、憶えなくても良いぜ。どうせお前らには発音なんかできねぇだろうしな。ヒヒヒ……」


「でしょうね。なら、何と呼べばいいのかしら?」


「まあ、あかとでも呼んでくれや」


「ちょっとあんた! さっきから黙って聞いていれば、華琳様に対して何様のつもりなのっ!」


「ああ……?」



声を荒げて食ってかかってきたのは桂花だ。まあ、敬愛している華琳に対してこんな態度を取っている上、中身は違うが姿は零治のままなのだ。彼女からしてみれば腹立たしい光景以外の何物でもない。

だが、BDに取ってもそれは同じ。BDは表情に影を落としながら眼を細め、右手を伸ばして桂花の頭を鷲掴みにして顔を近づけた。



「おい、ガキんちょ……」


「っ!? な、何よ……?」


「矮小な人間風情がぁ。なに俺様に対して意見してやがんだ。すり潰して長江にばら撒いて魚の餌にするぞ。あぁ……?」


「ひっ……!?」



白眼の部分は黒く染まり、禍々しく発行している深紅の瞳は桂花を恐怖のどん底へ叩き落とし、ガタガタと身体を小刻みに震わせ、今の彼女が以下に零治の姿をしたBDに対して恐怖しているのかが見て取れた。

BDがその気になれば桂花を……いや、人間を殺すなど造作も無い事。もちろん自分自身では何もできない。己の力を行使できる使い手が居て初めて成り立つのだが、それを知らないからこそ桂花はここまで恐怖しているのだ。



「BD。その辺で勘弁してやってください。それに敵は桂花じゃないでしょう?」


「ケッ! まっ、その通りだな。この辺で許してやるよ、ガキんちょ」



亜弥のおかげもありBDは機嫌を直したようで、桂花の頭をグシャグシャと乱暴に撫で回してポンポンと軽く数回叩き、ようやく手を放してくれた。

が、桂花の恐怖心は未だに収まっておらず、歯をガチガチと打ち鳴らしながら小刻みに身体を震わせ続け、眼尻には薄っすらと涙まで浮かび上がっているのだ。



「おーおー。野良犬みてぇに震えやがって。虐めがいのあるガキだな。ヒヒヒ……」


「血。その辺になさい。それに、桂花を虐めて良いのはこの私だけよ」


「へいへい。確かにコイツはアンタの玩具でしたね」


「全く。それで貴方の言う提案とはどういうものなの?」


「ああ。まあ、これは聞かせるんじゃなくて実演するんだがな」


「実演?」


「そうさ。……えぇっと、そうだなぁ……。おっ、そこに手頃な剣があるじゃねぇか。そいつを一本よこしな。心配すんな。用が済んだら元に戻してやるからよ」


「……秋蘭」


「はっ」



華琳に促され、秋蘭は壁際に備え付けられている様々な刀剣類が収まった棚から一振りの偃月刀を引き抜き、それを持って華琳の横に控えた。一体こんな物で何をしようというのか。亜弥達は怪訝の表情でBDと秋蘭が持つ偃月刀を交互に見やった。



「よーし。お嬢、そいつをそこに置いてくれよ」


「うむ」



BDの下卑た喋り方には秋蘭も内心では不愉快に感じていた。が、今ここで食ってかかるような真似をすればBDを怒らせるだけだし、何をされるのか分かったものじゃない。

何より秋蘭は興味があったのだ。かつて開催された魏の首脳陣同士による武道大会で垣間見たBDの力の片鱗。今回はどんな芸当を披露してくれるのか、その事が非常に気になっており、彼女は自制心を働かせて内なる怒りを抑え、BDが指差している場所、床几で円陣を組んでいる中央の地面に剣を置き、自分の床几に腰かけた。



「おーし。なら、始めるか……」



BDは自分の目の前で右掌を開き、左腕を覆っているガントレットの人差し指の鋭く尖った装甲板の指先を突き立て、ブチッと肉を突き破る音がしたので、そのまま力を入れながら左手を引いて掌に一筋の斬り傷をつける。次に右手開きながら下に向けて、偃月刀の刃に傷口から溢れ出る血を滴らせたのだ。

偃月刀の刀身はみるみるうちに赤く染めあがり、充分に血を垂らした所でBDは右手をグッと力強く握り締めて止血し、有している治癒能力で傷も瞬く間に塞がった。更に偃月刀にも変化が起こり、刀身に付着している血はまるで吸水マットが水を吸うように次第に刃に吸い込まれていき、最終的には元の状態、つまり血で染め上げる前の偃月刀に戻ったのだ。



「……これで終わり?」


「いいや。ここからが本番だぜ、曹操。その剣をよ~く見てな……」



口の端を吊り上げながらBDは偃月刀を見下ろし、右手の指をパチンと一度打ち鳴らした。

初めは何も起こらなかったので、亜弥達は怪訝の表情で剣を見ていたが、次の瞬間偃月刀に変化が起きた。

刀身はまるで錆びたように瞬く間に黒く染めあがり、ドロドロに溶けてしまい形が維持できなくなってしまったのだ。



「なっ!? 剣が……溶けた!?」


「そうさ。コレが俺様の提案だ。あの黄蓋って奴が用意する鎖にも同じ事をしてやるのさ。戦いが始まると同時に術を発動すれば、あっという間に奴の鎖は役立たずになるって訳さ。ククク……」


「なるほど。確かにこれなら誰にも見破れないわね」


「BD。一つ気になる事があるのですが」


「何だよ?」


「これで鎖を無力化できる事は分かりましたが、奴らの地の利を奪う事とどう結びつくのですか?」


「おっと。悪いがこの先は言えないな。どこから話が漏れるか分からねぇしな。……まあ、全ては話せんが……赤壁で奴らがこっちの船を鎖で縛ろうとしているように、連中の船を縛り付けてやる、とだけ言っておこう」


「……つまり、呉軍の船を鎖で結びつけるのですか? 一体どうやって」


「俺様がやろうとしてる事は連中のとは規模が違うんでな。それはこの先にお楽しみとして取っておきな。……で、どうなんだい? 曹操さんよ。俺様の案を採用してくれるのか?」


「……いいわ。採用しましょう」


「ハハハ。そうこなくっちゃなぁ。なら、この剣も元に戻してやるとするか」



自分の案が採用された事で上機嫌のBDはドロドロに溶けて崩れた偃月刀の残骸に右手をかざして魔力を送り込み、まるで録画映像の逆再生のように液体になった剣は個体へと変化していき、最終的には元の偃月刀に戻って宙に浮き、フワフワと空中を漂っている偃月刀は元あった棚へと納められたのだ。



「大した力ね。恐れ入るわ」


「そいつはどうも。なら、俺様はこれで失礼するぜ。話せて楽しかったぜ、曹操」



全てを伝え終えたBDの意思は零治の身体から消え、彼の首はまたしても糸が切れた操り人形のようにカクンと下を向き、しばらくして零治の意識が覚醒していき、彼は右手で頭を押えながら気怠そうに頭を持ち上げた。



「うぅ……全く。BDの奴。随分と好き勝手してくれたな」


「零治。もしかして憶えてるの?」


「ああ。奴が何を話し、何をしていたのかはちゃ~んと見えてたし、聞こえてたさ。情報の共有が出来てる点はありがたいが、あまりいい気分はしないな」


「私も出来れば、あれとは二度と話したくないわね」


「それが普通の反応だ。さて、オレは黄蓋が用意する鎖に細工をすればいいんだな?」


「ええ。くれぐれも黄蓋に見られないようにね」


「分かってるさ。……桂花。大丈夫だったか?」



自分でやった訳じゃないが、今のBDは身体の一部のような存在なのだ。BDの脅しのおかげで桂花は完全に怯えきってるので、零治は一応のフォローは入れてやろうと思って声をかけたのだが。



「う、うるさいわね! あんたに心配されるほど私は落ちぶれてないわよ!」


「やれやれ。余計な気遣いだったか。ならオレは用を済ませてくるぜ」



当の本人はこの有様だ。もともと嫌っている零治に心配されても桂花にとっては屈辱でしかない。

桂花は半ば八つ当たりのように喚き散らすので、零治は両手でワザとらしく耳を塞ぎながら早々に天幕から立ち去って行った。


………


……



「なんだ貴様ら!」



夜の番をしている春蘭達の前に、何やら大荷物を抱え込んでいる馬車を先導している兵の一団が現れたので、春蘭は声を張り上げてその一団を呼び止めた。

馬車の荷車には布が被せられているので中身が何なのかは不明だが、ガシャガシャと金属がぶつかり合う大きな音が鳴り響いていたので、金属製の物が積んであるのは間違いないだろう。

これだけなら別に不審な点は無いが、問題はこの兵達がどこの所属なのかだ。それにこんな時間に荷物の搬入があるなんて通達は受けていない。だから春蘭達はこの兵士達を不審に思い呼び止めたのだ。



「……まずい。夏候惇だ」


「……許緒も居るね。それに音無さんのお姉さんも……この格好、ばれちゃうかな……?」


「こんな時間にどこの兵士だ! 所属を名乗れ!」


「おお、待っておったぞ!」


「……黄蓋!? これは何の一団だ!」


「華琳殿から頼まれたのだ。兵の船酔い対策に使う、船を固定するための鎖を運ばせてきた」


「華琳様の? 聞いておらんぞ」


「先程急ぎで提案させてもらったのだ。不審に思うなら、確認してもらって構わんぞ」


「季衣、ちょっと確認して来い」


「分かりましたっ!」


「その必要は無いわ」


「桂花。これはどういう事だ?」


「黄蓋の言った通りよ。船を鎖で繋ぎ合わせて、揺れを小さくする……この辺りの風習だそうよ」


「ああ。だから昼間、鎖で繋いでる船が多かったんですねー」


「黄蓋。後の作業はこちらでやるわ。貴方には明日の先陣を務めてもらうのだから、ゆっくり身体を休めなさいと……華琳様のお達しよ」


「ふむ……。ならば、これを運び終えたら休ませてもらう事にしようか」


「向こうに工兵隊の宿舎があるから、そこに置いてちょうだい。春蘭と季衣は、秋蘭と流琉が呼んでいたから、そちらに行ってきて」


「秋蘭が? 分かった……」



桂花の指示に従い、春蘭と季衣はその場を離れたが、呼んでいるというのは全くの嘘。今は少しでも春蘭と季衣を黄蓋から引き離しておきたいのである。全てはこの先に待ち受ける赤壁での戦いを制するため。



「で、アタシはどうしてりゃいいのさ?」


「あんたは引き続きここで見張りよ。春蘭と季衣の代わりには奈々瑠と臥々瑠を向かわせてあるから」


「はいはい」



一人で冷えた夜風に吹かれながら見張りを続けるのは正直堪らないが、代わりの人間が充てられるし、扱いの面倒な春蘭と季衣の相手から解放されるのは恭佳としてはありがたい事だった。

恭佳は身に染みる夜風に身体を縮めながら黄蓋に先導されている工兵隊の宿舎へと向かう、馬車を引く兵の一団に、訝しげな視線を向けた。



(あの二人の兵士の魂の色……間違いない。アイツらだな。まあいいさ。どうせ赤壁の戦いに勝つのはアタシらなんだ。今更どうこうする必要も無い……)


………


……



「……やれやれ。危なかったよ、雛里」


「姉様、声が大きいよー」


「……っと」



宿舎の裏に辿り着き、積み荷を解いて安堵の溜め息をつきながら馬車を引いていた二人の兵士は纏っている鎧を脱ぎ捨てる。中から姿を見せたのは、翠と蒲公英の二人だった。そして二人が運んでいたのは魏の船団の船を縛り付けるための鉄製の鎖だ。黄蓋を監禁されている部屋から連れ出した時もそうだったが、彼女達も今回の策に一役買っているのだ。



「今の所、計画は順調です。そうですよね、黄蓋さん」


「……うむ。明日の夜半には風向きが変わるだろうから、そこが決起の時となる」


「風が変わる……ねぇ」



そう。赤壁で使う策の鍵はこの風向きが急に変わる季節風にあるのだ。天幕で華琳達に述べた鳳雛の説明では、この季節は川上から風が吹くため、川下に本国を置く呉は当然そちらから襲撃する事になるため、普通なら火計は全く役に立たないのだ。

だが黄蓋が言うには、明日の夜半に風向きが変わるとの事だが、翠は半信半疑の様子だった。



「地の者しか知らん事だ。普通の者は知らんよ」


「そう……ですね」


「だがお主ら、一体何者だ? これ程の鉄鎖や、昼間の事前工作など……ここまで迅速に出来る者はそうそうおらん。冥琳の手勢の中にも、お主らのような者は見た覚えがないが……?」


「少なくとも、敵ではありません。それだけは信じてください」


「……そうだな。それが条件だったしな。分かった、儂も孫呉の将の端くれ。それ以上の事は詮索せん」


「こちらの兵は置いて帰ります。魏の甲冑を纏わせていますから、軍の中に並べていても気付かれないでしょう。……決起の時に巧く使っていただければ」


「助かる。……じゃが」


「はい?」


「鳳統と鴉はこのような死兵の戦場に居るべき者ではないのでな。早々に劉備殿の元へ連れ帰ってもらおうか」


「な……っ!」


「いつから!」


「くくくっ……見くびるでないぞ、ヒヨッコども。一目見ればどこの将かくらい分からんでどうする」


「黄蓋さん……」


「それにそちらの兵は儂の部下達だろう。自分が手塩にかけて育てた部下を見間違えるはずなど無いわ」


「黄蓋殿……」


「後は老兵の仕事よ。叶うなら、雪蓮殿と冥琳に無礼な事を言って済まなかったと……代わりに詫びておいてもらえんか?」


「……必ずや。黄蓋殿も、ご武運を」


「お主らもな。……行け!」



これ以上この場に留まっても意味は無い。誰かに姿を見られたら折角の策もご破算だ。

それに黄蓋の言う通り、鳳統は軍師ではあるが武将ではない。この先に待ち受けるは激戦の危険地帯。力の無い彼女を留まらせるは危険でしかない。翠と蒲公英は鳳統達と共に早々に引き揚げようとしたが、鴉はここに来て異を唱えたのだ。



「ククク。黄蓋殿。すみませんが、私はその言葉を聞き入れる訳にはいきませんな……」


「何……?」


「私にはまだやる事がある。だから今ここを離れる訳にはいかないのですよ……」


「…………」


「ご心配なく。貴方の邪魔はしませんが……協力もしません。私は敵ではないが、味方でもない。私達は所詮、互いの利害が一致した上での協力関係にすぎないのだ……」


「お主……やはり何かあるとは思っておったが、何を企んでおる……」


「それは貴方には関係の無い事だ。私が何をしようと、それは私の自由。余計な詮索はしないでいただきたい……」


「ふむ。確かにそうじゃが……それを聞いてはますます黙ってはおれんな。何を考えているかも分からん輩ほど危険な存在は無いからな」


「フフフ……力ずくで私を帰す気ですか? 邪魔立てするのなら……私も遠慮はしませんよ……?」


「っ!?」



今までは物静かな様子だったというのに、鴉から放たれる殺気は異様な物だった。まるでそこだけが空間が切り取られ、別世界に変わったのではないかと錯覚してしまうほどの緊迫した空気が張り詰め、黄蓋達は全身から冷や汗が吹き出し、身動き一つ取れなくなってしまう。

この様子では鴉に挑めばただでは済まないし、翠達がこの場に居る以上は余計な騒ぎを起こす訳にもいかない。黄蓋はやむを得ず、鴉にこの場へ留まらせる事にした。



「分かった。分かったから殺気を収めんか。誰かに気付かれたらどうしてくれる」


「理解してくれたようで何より。では、私は明日に備えて天幕で休ませてもらいます……」



クルリと踵を返し、鴉は何事も無かったかのように纏っているローブを風になびかせながらゆっくりした足取りで自分が使用している天幕へと引き揚げ始めたが、数歩進んだ所で何かを思い出したように足を止め、黄蓋の方へと振り返った。



「あぁ、そうだ。ここまでお付き合いしたよしみです、黄蓋殿。最後に一つ忠告をしてあげましょう……」


「忠告じゃと?」


「ええ。……どうせ貴方の策は失敗に終わる。考え直すのなら今の内ですよ……」


「それはどういう意味じゃ……」


「言葉通りの意味です。私は……いや、私だけじゃない。『彼ら』は『全てを知っている』のだから……」


「…………」


「まあ、信じるも信じないも貴方の自由だ。では、ごきげんよう……」



鴉は黄蓋に意味深な言葉だけを残し、再び歩き始める。鴉が告げた策が失敗に終わるという、不吉な予言は黄蓋の頭に忌々しく纏わり付くが、彼女は頭を軽く左右に振ってその言葉を振り払う。

どうせ世迷い事だ。策は完璧。失敗する要素などどこにも無いと己に言い聞かせながら鴉の後姿を見つめた。



「全く。やはり戦闘が苦手というのも真っ赤な嘘じゃったか。鳳統、あやつもやはり蜀の関係者か?」


「すみません。あの人の素性については私達も知らないんです。たぶん……朱里ちゃんなら知ってると思いますが」


「諸葛亮が? ならやはり蜀の者か? もしやあやつが噂の……」


「……っ!? ちょっと姉様! あれ……っ!」


「ん? ……っ!? あいつは……音無……っ!」


「三人とも隠れろ! いま動くのは危険じゃ!」


「はい……っ!」



鴉の進行方向の反対側から零治が歩いて来てるので、黄蓋達は素早く宿舎の周辺にある大型の荷物の陰に隠れ、翠達が連れていた黄蓋の部下達も散り散りにその場を走り去って行き、黄蓋達はそっと顔だけを覗かせて様子を窺いながら耳を澄ませる。

その零治は向こう側から歩いている鴉の姿を確認するなり足を止め、鴉の事を呼び止めた。



「よお。丁度いい所に居たな。お前を捜してたんだぜ、鴉……」


「これはこれは。魏の御遣い殿のお一人の……名は確か、音無殿でしたか。私に何の御用ですかな……?」


「フンっ。随分とお芝居が得意になったじゃねぇか」


「何の事ですか……?」



零治の問いに鴉は身に覚えが無いように首を傾げる。だが、零治にとってこの反応は想定の範囲内だ。

周囲に人は居ない。ならば話も回りくどくする必要は無い。零治は目の前に立つ鴉に、正体に対する疑惑を抱いていた。いや、確信はあるのだ。問題は鴉が誰なのかが彼にとって重要なのだ。



「……回りくどいのは嫌いだ。率直に訊かせてもらうぞ。貴様は何者だ……」


「何者と申されましても……私は鴉。しがないただの世捨て人でございますよ……」


「訊き方が悪かったな。オレが知りたいのはそういう事じゃない」


「ほお。では何が知りたいのですかな……?」


「貴様は『誰』だ……」


「…………」


「銀狼ではない事は確かだ。アイツに他人を演じる事などできる訳が無いからな。なら考えられる人物は二人。黒狼、金狼。このどちらかだ……」


「…………」


「言えよ。お前はどっちなんだ……」


「フフフ。音無殿。誰かと勘違いをなさっているようですね。私の名は鴉。それ以上でもそれ以下でもありませぬ……」


「…………」


「話は終わりですか? なら私は失礼しますよ。明日の船旅に備えて休みたいので。では……」



鴉は零治の質問には一切答えず、その場で一礼して彼の横を素通りして天幕を目指し、その場を後にした。

零治は鴉の姿を見向きもせず、ただ前だけを見つめながらコートの下からタバコの箱を取出し、一本口にくわえて火を点し、煙を吹かし始めた。



「……フーー……。やはり簡単には尻尾を出す気は無いか。まあいい。赤壁に着けば分かる事だ。さて……鎖はどこだ?」



零治はただ鴉を捜してここまで来たのではない。全ては黄蓋が持ち込んだ鎖に細工をするため。

零治は宿舎の周辺をキョロキョロと見回し、布が被せられた大きな木箱から鎖が姿を覗かせている物を見つけた。零治はタバコをくわえながら煙を吹かし、箱に近づこうとしたがすぐに足を止めた。



「…………」


『相棒。気付いたか』


『ああ。宿舎の周辺に人の気配がある。数は四人。その内の一人は間違いなく黄蓋の物だな……』


『だな。どうする?』


『仕方ない。細工は全員が寝てからにするぞ』


『それが良い』


「あっ、兄さん。ここに居たんですか」


「ん? 奈々瑠、臥々瑠。どうした。オレに何か用か?」


「うん。恭佳姉さんがね、コーヒーを飲むから一緒に付き合えだって」


「コーヒーか。丁度いい。今夜は夜更かししたい気分なんだ」



夜更かしをしたい、それは間違いない。まあ、この後にする事を考えると単純に夜更かしで片付けられる内容ではないのだが。それに夜風が寒いのでコーヒーは温まるのに丁度いいだろう。

零治はひとまず鎖の事は置いておき、奈々瑠と臥々瑠の案内の元、恭佳の所へと足を運ぶためにその場を後にした。



「……行ったようじゃな」


「ふぅ~。寿命が縮んだぜ……」


「本当だよ。今あの人に見つかったら、たんぽぽ達、絶対殺されてたね……」



零治がその場を去ったので、黄蓋達は安堵の溜め息を漏らしながら身を隠していた物陰から姿を覗かせたが、鳳統は未だに恐怖心から身体を小刻みにガタガタと震わせ、全く動こうとしない。

まあ無理もないだろう。彼女は軍師であり武将ではないのだ。おまけに恐怖のあまり腰を抜かしてしまったので、見かねた翠が手を差し伸べた。



「やれやれ。ほら、雛里。掴まれよ」


「す、すみません。翠さん……」



翠の手助けのおかげで鳳統はようやく立ち上がる事ができ、服についている砂埃をはたき落とし、安堵の溜め息を漏らした。危険なのは承知で黄蓋についていたのだが、先程感じた恐怖は今までの比ではない。

彼女も蜀に仕える軍師なのだ。零治の噂はたびたび耳にしているし、天幕で華琳と話をした時にはあり得ない大きさの狼を連れてきたのだ。出来るならこのような経験は二度としたくないと思った。



「よし。お主達は今の内に戻れ。後は儂に任せよ」


「はい。黄蓋さん、どうかお気を付けて」


「おう」



引き揚げるなら今しかない。翠、蒲公英、鳳統の三人は全てを黄蓋に託し、姿勢を低くしながら闇夜に紛れて魏の陣営内から姿を消した。

翠達が去り、その場に留まっている黄蓋は冷たい夜風が吹き付ける中、夜空を見上げる。その最中、頭の中で鴉が残した予言が木霊したが、彼女は頭を左右に振ってその言葉を振り払い、己に言い聞かせた。

負ける要素など無い、策は完璧。あれは世迷い事なのだと。仮に本当だとしても、ここまで来て後には引けない。黄蓋は祖国を護るために編み出した策を信じ、己の使命を果たすための道を突き進むしかないのだから。

零治「おい。最新話の投稿は結構だが、アレはどうなってんだ?」


作者「……すんません。完全に手付かずです」


亜弥「やれやれ。どうする気ですか。まさかこの作品を完結させてから修正でもするんですか?」


作者「実はそうしようかなぁと考えてるんだ」


恭佳「マジ? そりゃ本編がここまで来てるから終盤も間近だろうけど」


奈々瑠「でもそれって一体いつの話になるんです?」


臥々瑠「だよねぇ。どうせ終盤になったら色々とやる気なんでしょ?」


作者「まあな」


樺憐「なら当然時間はかかりますわよねぇ? やはり同時進行の方がよろしいのでは?」


作者「オレにマルチタスクは無理! どうしても一方にしか集中できんのだ! それに話を進めたいという欲求が勝ってしまうしな!」


零治「ああもう。ならお前の好きにやれ」


亜弥「……相変わらずのいい加減さ。読者に見放されないと良いのですがね」

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