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第75話 交錯する思惑

同じ月にもう一話投稿できたのも久々だなぁ。

注意。今回の話には祭に対して辛辣な描写がいくつかあります。祭が好きな方はご注意を。

呉との初戦を制し、前線基地の城を確保したまでは良かったが、蜀と呉の動向を探るために放った間諜が未だに帰還していないため、ここからどう進軍すべきかの具体案がまだ纏まらず、魏はこの城で足止めを喰らっていた。予定では間諜も今日中には戻って来る頃ではあるらしいが、それまで何も出来ないのは歯がゆい所だ。

おまけにこちらに来てから南部特有の風土病が一部で流行ってしまい、体調を崩している兵士も少なからず居る。今の所そこまでは深刻化していないようだが、いつまでもこの状況を放置はできない。病の流行の歯止め、そして呉への進軍案をそろそろ纏めねばならないだろう。そんなこんなを頭の中に浮かべながら零治は城内の厨房まで足を運び、そこで意外な人物と出くわした。



「……ふぅ」


「ん? 沙和、こんな所で何してんだ?」


「隊長こそなの。まだご飯の時間じゃないの」


「喉が渇いたから水を飲みに来ただけだ。お前は何の用で厨房に?」


「病人のみんなに使う水を取りに来たの」


「あぁ、なるほど。なあ、こっちの病気はそんなに酷いのか?」



こちらに来てから、水や食料を口にして体調を崩したという話は聞かないが、それでも一部の兵士達は南部特有の風土病にかかり、とても戦闘が出来るような状態ではなかった。零治の隊でも体調を崩した兵士が数人いるが、今の所首脳陣達の間にまでは流行っていないのが不幸中の幸いだった。



「私が診ている訳じゃないから、よく分かんないの……。でも、お医者さんの話じゃ、薬がたっぷりあるからみんなすぐ元気になるだろうって」


「そりゃ良かった。あぁ、それオレが持ってやるよ」



一廉の将とは言えど、沙和は女性。それに警備隊の中では虚弱体質とまではいかないが体力が低い方なので、水がたっぷりと入っている二つの木のバケツを零治が代わりに持ってあげた。

水とはいえ、大きな容器に大量に収まればそれなりの重量にはなる。バケツを持ち上げた瞬間、両腕にはズッシリとした重さがのしかかり、零治はバケツを落とさないようにしっかりと取っ手を握り締めて両腕に力を入れた。



「隊長、ありがとうなの!」


「ん? 別に水を持ったぐらいで礼なんか……」


「違うの。薬を沢山持ってくるようにって、亜弥様の意見だって聞いたし。それにその辺の相談事を亜弥様と一緒に隊長もしていたそうだから、みんなが助かったのも隊長達のおかげなの」


「オレは大した事はしてない。それに最終的な判断を下したのは稟だ。それにオレ達が言わなくても、稟や華琳なら気付いてたさ」



稟や風は魏に仕える前、星と共に全国を旅していたので地方だからこそ必要な知識も豊富だ。

この二人は桂花と共に軍事面で魏を支える頭脳だけではなく、地方に出向く際に必要とされる情報も持ち合わせた知恵袋的な存在と言えるかもしれない。



「で、コイツはどこへ持ってけばいいんだ?」


「裏に宿舎があるから、そこまで持って行ってほしいの」


「分かった」


………


……



「ん? なんか向こうが騒がしくないか?」


「……分かんないの」



裏の宿舎までの通り道の吹き抜けの廊下を歩いているその時だった。何やら城の中庭方面から人の怒声らしきものが零治と沙和の耳に入ってきたのだ。耳を澄ましてみても距離がありすぎて何を話しているのか内容までは正確には聞き取れない。その時、廊下の向こう側から凪が急ぎの様子でこちらに駆け寄って来た。

彼女がわざわざ零治の所へやってきたという事は兵士達同士の喧嘩という訳ではなさそうである。仮にそうなら凪が仲裁、もしくは鉄拳制裁をしているはずだからだ。



「隊長っ! 侵入者です!」


「何!? 門番は何をしてやがったんだ」


「それが、少々の問答の後、あっさりと突破されたそうで……かなりの手練れかと」


「正面からだと? そりゃ侵入者というより……」


「道場破りなの!」


「沙和、それは違うだろ。そもそもここは道場じゃねぇし。……で、春蘭と季衣は?」


「季衣ちゃんは亜弥様とさっき偵察に出かけたの」


「春蘭様も恭佳様と補給部隊の護衛に向かって……」



こちらでもさる事ながら、零治は元居た世界でもいつも頼りになる人物が不在の時にトラブルに見舞われている経験がある。まあ、悪い事とは大概そういった時に起こるものなのだ。

しかし、いつもの事とはいえここまで来ると何か作為的なものを感じなくもないが、いくらなんでもそれは考えすぎだろう。それよりも今は侵入者への対処をするのが先決だ。



「音無!」


「隊長!」


「秋蘭、真桜。侵入者が現れたと凪から聞かされたのだが」


「ああ。いま霞が先行している。流琉に樺憐、奈々瑠と臥々瑠には華琳様の護衛を頼んでいるが……何が起こるか分からん。凪と沙和の二人は華琳様の護衛に向かってくれ。警護の層は厚くしておくに越した事はない」


「はっ!」


「分かったの!」


「音無は私達と一緒に来てくれ。どうも一筋縄では済まん予感がする」


「はいよ」



ひとまず運んでいたバケツはその場に置いておき、零治は秋蘭達と共に霞が先行している騒ぎの現場へと駆け足で赴いた。

が、それと同時にこう思った。いくら侵入者が手練れとはいえ、霞と正面からぶつかり合ってるのならもう事は済んでいるのではないかと。霞の騎馬術は神がかり的なものだし、個人の武の実力も春蘭と互角と言っても過言ではない。だがまあ、相手が何者かは不明だが門番の制止を振り切って侵入してきたのなら、少なくとも味方ではないのだ。それに相手が一人とも限らない。なんにせよまずは現場へ急ぐのが先決だった。


………


……



「はぁ……はぁ……はぁ……。何やこいつ!」


「なんだなんだ。その偃月刀は飾りか?」


(ん? あの女……前に孫策と一緒に居た……ってか、霞が苦戦しているっ!?)



現場に到着してみて、零治は唖然としてしまった。霞と対峙している人物はなんと黄蓋であり、彼女の背に隠れるように鳳雛も後ろに控えていた。恐らく彼女達が侵入者と判断して間違いないだろう。

だがそれよりも驚くべき事は、霞が苦戦している点だ。今の彼女は肩で激しく息を繰り返し、身体中に打ち傷もあってボロボロの状態だ。今の状況から察するに、秋蘭の言う通り黄蓋の相手は一筋縄ではいかないという事だろう。

霞に対峙している黄蓋は息一つ乱しておらず、全くの無傷だ。おまけに今の挑発的な言葉。霞にも武人としての誇りがある以上、そのような事を言われて黙っていられるはずがなかった。



「んなわけあるか! 神速と謳われたウチの一撃……もう一度受けてみいっ!」



霞は偃月刀の刃を後ろに引きながら構え直し、地面を蹴って一瞬にして黄蓋との間合いを詰め、後ろに引いていた偃月刀を素早く振り抜いた。弧を描くように襲い来るその一撃は確かに常人なら捉える事も出来ない速度だ。自分で神速と啖呵を切るのも頷ける。



「これが神速……なぁ」


「な……っ!?」



しかし黄蓋は霞のその一撃を余裕の笑みを浮かべながら軽く身体を捻るだけでその場から微動だにせず、躱して見せたのだ。霞は決して手など抜いてはいない。相手が一筋縄ではいかない事も既に理解している。

だからこそ彼女は面食らってしまったのだ。いま放った一撃は全身全霊を込め、最大限まで己の速度を引き出した一撃をあっさりと躱されてしまったのだから。



「……筋は悪くないが、少々我慢が足らんな。出直して来い」


「があっ!?」



霞が放った一撃のほんの一瞬の隙を突くように、黄蓋は素早く身体を右に捻りながら右腕を後ろに引いて脇を締め、霞の鳩尾に掌底を叩き込んだ。

その強力な一撃は霞を後方へとふっ飛ばし、彼女は中庭の地面の上を滑りこみながら無様な姿を晒してしまったが、腹部に走る痛みに耐えながら霞は偃月刀を杖代わりにして何とか立ち上がり、再度構えを取った。



「霞! 大丈夫か!?」


「見りゃ分かるやろ! ピンピンしとるわ!」


「見て分かるのは負けそうな事ぐらいではないか? 助けてください、と言っても良いのだぞ?」


「言うかボケェ!」


「なるほど……威勢だけは一人前のようだな。鳳雛、儂の影から出るでないぞ?」


「……はい」


「一人前なのは威勢だけかどうか……よう見ぃ!」


「秋蘭!」



今の霞には普段の冷静さが全く無い。あれだけ日頃から周りが見えなくなった猪がどれだけ怖いかと部下や零治達にも言い聞かせていたのに、今じゃその本人が猪になっている始末だ。ミイラ取りがミイラになるとはまさにこの事を言うのだろう。

まあそれはさて置き、現状の霞では勝機は無いし、相手が何者であろうと侵入者の上に敵対行動を取るのならばならば容赦の必要も無い。ならば少しでも勝率を上げるべく、零治は秋蘭に霞への援護を促した。

彼女も零治の考えを即座に読み取り、一度頷いて弓を構えるのだが……。



「駄目だ。あ奴……こちらの射線を巧妙に霞と重ねてきている。これでは霞に当ててしまう」


「春蘭の時のようにはいかんか……」


「ああ。姉者の動きはいくらでも追えるのだがな。流石に霞の動きは捉えきれん」


「なら……霞! ここは真桜と協力をして……」


「じゃかあしい! ウチが仕留めたるさかい、黙って見とき!」


「……あんまり、春蘭様と変わらへん気がするんやけど」


「いや、あれでも姉者ほど単純では……」


「でえええええええいっ!」


「……はぁ」



今の霞の姿を見ては、秋蘭も前言を撤回せざるを得ない。勇ましく裂帛の気合いを放ち、一直線に突撃する霞の姿は春蘭と全く同じである。その上、今の彼女は完全に頭に血が昇って冷静さを欠いているため動きが単調である。まさに黄蓋の掌の上で踊らされてるにすぎない。



「少し頭を冷やせ」


「どわっ!」



やれやれと言わんばかりに黄蓋は首を横に振り、目前まで迫り来た霞の足元をすくい上げるように足払いを放ち、霞はバランスを崩して無様に転倒してしまう。おまけにその時に頭を打ってしまったためだろうか、霞は意識を失ってしまい、完全に地面の上に伸びてしまったのだ。



「おい、真桜。出番だぞ」


「ちょっ! 姐さんが勝てん相手に、ウチ行かせるんかいな!?」


「なんだ、腰抜けが相手か? その馬鹿でかい槍はただの飾りか?」


「こし……っ! そりゃいくらなんでも聞き捨てならんなぁ!」


「真桜! 挑発に乗るな!」


「ウチを弱い言うんはどうでもええけど、この子を馬鹿にされるんは聞き捨てならん! 訂正し!」


「おいそっちかよ!」


「ウチの螺旋はただの螺旋やない! 天さえ貫く……鋼の螺旋やっ! でやあああああっ!」



絡繰りの技術には職人としての誇りを持っている真桜にとって、自分が丹精込めて造り上げた物を馬鹿にされるのは我慢ならないのだ。まあ、それが原因でトラブルが絶えないのもまた事実だが。

今はそれよりも気にするべきは、先程の霞同様に完全に頭に来てしまっている真桜は愛用している螺旋槍を水平に構え、黄蓋に向かって一直線に突撃した点だ。



「そういう所が未熟だというに」


「きゃんっ!」



が、そんな単調な動きが黄蓋に通用するはずも無く、彼女は身体をコマのように回転させながら右方向へ回避し、そこから無防備になっている真桜の首筋に手刀を打ち込み、真桜はまるで犬のような情けない声を出して地面の上に沈み込んだ。いくら他の首脳陣達より実力が無いとはいえ、これは霞以上に無様としか言いようがない。



「さて、次は貴公が来るか? それとも……お主が儂の相手をしてくれるか? 黒き閃光よ」


「……前に孫策と一緒に居たという事は、貴様呉の関係者だろ。今はここが魏の前線基地だと分かってて殴り込みにでも来たのか」


「やれやれ。いきなり殴りかかってくるヒヨッコ二人に、自分の名も名乗れん無礼者か。全く。曹孟徳の器が知れるぞ」


「何だと……?」


(あっ。マズイ……っ!)



今の言葉に反応したのは零治ではなく、隣に居る秋蘭だった。彼女は春蘭とは違い滅多な事では怒りを表には出さない性格なのだが、華琳の事が絡めば話は別である。実際、その事でも前歴がある。

そう。随分前に街で占い師に会い、その時に華琳の事を乱世の奸雄呼ばわりしたあの時だ。こうなると秋蘭も霞や真桜のようにいいようにあしらわれてしまうのは明らかだ。零治は素早く秋蘭を羽交い絞めにして彼女を止めに入った。



「秋蘭落ち着け! 今のは確かにオレに非がある!」


「お主の事は関係ない! 我が主を愚弄され、黙ってなどいられるか! いざ、尋常に……」


「なんだ。少しは話の分かりそうな奴だと思ったが、やはり貴公も猪武者か」


「問答無用!」


「問答しろ!」


「離せ! 離せ音無! ここで主の汚名を雪がねば、臣下としての立場が……!」


「あらあらぁ。随分と騒がしいですわねぇ」


「ん?」



聞き覚えのある妙に間延びした丁寧口調の声が耳に入ってきたので、零治は秋蘭を羽交い絞めにしながら後方へ振り返る。そこに居たのは奈々瑠と臥々瑠を伴っている樺憐だった。



「樺憐。なんでお前がここに?」


「いえ。侵入者の対処に零治さんが向かった割りにはやけに遅いので様子を見に来たのですわぁ。あっ、華琳さんからは許可を頂いてますのでご心配なくぅ」


「いや、ご心配無くと言われても、何が起こるか分からんし……」


「零治さん。ここはわたくしにお任せくださいなぁ。零治さんは秋蘭さんが飛び出さないようにしっかりと押さえていてくださいねぇ」


「あ、あぁ。……おい秋蘭、下がるぞ。って、暴れんじゃねぇ!」



未だに怒りが収まっていない秋蘭は零治の腕の中で離せと喚き散らしながらジタバタと暴れており、その姿はまさに春蘭と瓜二つ。敬愛している主を侮辱されたのだから怒る気持ちは理解できるが、こういう所は春蘭に似なくても良い気がする。



「お待たせしましたわね。何か用があるのでしたらわたくしが伺いますわよ」


「ほぉ。お主は話が通じそうで安心できるわい」


「それはどうも」


「儂はお主らの主、曹操に話があって参ったのじゃ。彼女と話をさせてもらいたいのじゃがな」


「……これだけの騒ぎを起こしておいて、わたくし達の主に会わせろとは随分と虫のいい話ですわねぇ。でしたらまずは貴方がこの騒ぎの落とし前をつけるのが筋ではありませんかねぇ」


「ふむ。言いたい事は分かるが、こやつらに関しては向こうが一方的に殴りかかってきただけのでな」


「それは変ですわねぇ。彼女達はちゃんと話せば理解してくれる人物ですわ。わたくしから言わせれば、貴方が一方的に華琳さんに会わせろと言って騒ぎになったとしか思えないのですがねぇ」


「やれやれ。儂は曹操に話があって、お主に用があるのではない。話にならんな。顔を洗って出直して来い、小娘」


「あらあら。最近の『若者』は本当に『目上の者』への口の利き方がなっていませんわねぇ……」


「何?」



樺憐の意味深な発言に黄蓋は首を傾げながら眼をパチクリとさせた。今の樺憐のセリフの内容から推察するに、若者とは恐らく黄蓋の事を指しているのだろう。そして目上の者とは自分、つまり樺憐の事だと思うのだが、一体どういう意味なのか。

そのセリフの内容の意味を教えるかのように、樺憐の口からとんでもない言葉が出てきたのだ。



「わたくし、こう見えても貴方より年上ですのよ……」


「何じゃとっ!?」


「ええっ!?」



流石にこの言葉には黄蓋も、そして零治と秋蘭も驚きの声を上げ、唖然とした表情で樺憐を見つめていた。

それはそうだろう。黄蓋も自分がもはや妙齢と呼ばれる年齢だとは自覚しているし、容姿もやはり若者には劣る面もある。だが樺憐は実年齢こそ不明だが、スタイル抜群で肌はピチピチとしていてハリがあり、髪の毛もつやつや。どこからどう見ても樺憐は二十代前半にしか見えないのだ。



「おい、奈々瑠、臥々瑠。樺憐の話……マジなのか……? 本当にあの女より年上なのか……?」


「う、うん。間違い……無いよ」


「母さん。封印されて眠っていた期間も計算に入れてるんだと思います。それなら間違いなくあの人より年上になりますよ……」


「おいおい。なら樺憐は一体幾つになるんだよ……?」


「多分ですけど……」


「奈々瑠」


「ッ!? ひゃい!?」


「奈々瑠。ダメよぉ? いくら零治さんがお相手でも、お母さんの年齢を勝手にバラしちゃあ。わたくしだって乙女なんですからねぇ」


「は、はい! すみません……っ!」


「分かればよろしい。……うふふ。零治さん。わたくしの年齢は、時期が来たら教えてさしあげますので」


「いや、時期って……なんの?」


「ふふ。秘密ですわ。……さて、この話はもう終わりですわ。今のわたくしはこの『小娘』にやる事がありますので……」


「樺憐。何をする気だ……」


「無論、教育ですわ」



樺憐はいつもの穏やかな笑みを浮かべながらこう言っているが、明らかに眼が笑っていないし、さっきから指の骨をポキポキと鳴らしながら黄蓋の事を睨み付けているのだ。どう見ても教育をするような姿ではないし、本当に教育をするのなら殺気を放つ必要性も無い。いや、戦闘の教育ならこれで間違いではないが。

だが樺憐が称している教育とは、恐らく黄蓋の口の利き方についてになるだろうから、やはり今の樺憐の姿は教育をする態度などではない。



「さて、小娘さん。謝るのなら今の内ですわよ? わたくしは寛大ですので、今なら土下座で謝罪すれば許してあげますわ」


(いや、土下座を要求する時点で寛大じゃねぇだろ……)


「はっはっは! 儂を小娘呼ばわりする者が現れるとは、この儂も見くびられたものじゃな」


「やれやれ。わたくしの最後の警告も無視するとは。これは教育ではなくお仕置きの必要がありそうですわね……」


「っ!?」



余裕をかましている黄蓋の姿が癪に障ったのか、樺憐が放つ殺気はますます膨れ上がり、中庭にはまるで息が詰まりそうなほどの緊迫した空気が張り詰め、その場を支配した。

その姿を前に、先程まであった黄蓋の余裕の笑みは一瞬にして消え、彼女は即座に理解した。いま目の前に立つ人物の実力は霞や真桜なんかとは比べ物にならないと。この者と正面からぶつかり合えば、間違いなく自分が倒される。戦場で培ってきた黄蓋の経験と本能がそう警告してきたのだ。



「鳳雛。危ないからお主は庭木の後ろに隠れておれ。この者……並大抵の実力ではないのは明らかじゃ」


「は、はい……っ!」



鳳雛は黄蓋の言葉に素直に従い、トテトテと中庭を駆けながら後方に植えられている太い庭木の後ろに隠れ、そこから顔だけを覗かせて事の成り行きを静かに見守った。

黄蓋が下したこの判断に、樺憐も内心では安心した。下手をすれば鳳雛も巻き込みかねないからである。言い換えると樺憐は黄蓋に対してそれだけの事をするつもりでいるのだが。



「賢明な判断ですわね。わたくしもあんな小さな子供を傷つけたくはありませんので」


「お主の話が本当なら、儂も子供になるのではないのか?」


「貴方のような輩は子供ではなく、クソガキと言うのですわよ……」


「なっ! 消えた!?」



もうこれ以上話す事など無いと言わんばかりに黄蓋を鋭い視線で睨み付けた後、樺憐の姿は一瞬にしてその場から消え、黄蓋は瞬時に身構えて周辺に視線を走らせた。

だが、どこを見ても樺憐の姿は無い。周辺には身を隠せるものはあるにはあるが、それは植え込まれている庭木ぐらいである。しかしそんな物に身を隠しても黄蓋との距離が離れているため隠れる意味が無い。

樺憐が射撃系の武器を扱うのなら話は別だが、彼女は飛び道具らしき物は携帯していなかった。それについては間違いないと黄蓋は判断している。

黄蓋は周囲を警戒しながら辺りに視線を走らせ、全神経を集中して樺憐の気配を探るが一向に見つからない。これだけの実力者なら正面から来ても余裕で倒されると黄蓋は考え、特に正面に警戒心を向けていた。

だがその時、彼女の背後から人の気配が湧いて出てきたのだ。



(っ!? 後ろかっ!)


「フッ!」


「っ!?」



自身の背後から樺憐の気配を感じたので、黄蓋は素早く振り向いて応戦体勢に入ろうとしたが、それよりも早く樺憐の豪速の鉄拳が放たれ、その拳は黄蓋の鼻先で止められた。いわゆる寸止めという奴だ。

黄蓋は全身から冷や汗が流れ落ち、それと同時に久しく感じていなかった命の危険すらも痛感した。決して侮っていたわけではない。自分の武の実力が確かなのも自覚しているが、樺憐はそれ以上だった。現にこの通り、何も出来ないままいとも簡単に自分の背後を取られてしまっているのだから。



(こやつ、いつの間に儂の背後に……っ!?)


「これが戦場じゃなくてよかったですわね。戦場でしたら間違いなく、貴方の頭は今の一撃で粉々に砕け散っていた所でしてよ……」


「…………」


「どうします? まだ続けますか? 続けるのでしたら……骨のニ、三本は覚悟してもらいますわよ……」


(この女、一体何者じゃ。奇妙な身なりから判断して、魏の御遣いの一人と見て間違いなさそうじゃが……これほどの実力者なら今まで全く話にすら聞かなかったのはどういう事じゃ……?)


「樺憐。その辺になさい」



またもや聞き覚えのある声が零治達の耳に入り、その声の主は樺憐にやめるように言い聞かせた。

声が聞こえた方を振り向けば、そこには声の主である華琳が警護についている凪、沙和、流琉を伴いながら悠然とした足取りでこちらへ歩み寄ってきているのだ。

丁度その時のタイミングで霞と真桜も意識を取り戻し、頭を押えながらフラフラとその場から立ち上がれば、目の前で樺憐が黄蓋の鼻先に拳を突きつけた姿が飛び込んできて眼をパチクリとさせた。

状況が今ひとつ分からない霞と真桜だが、とりあえず二人とも樺憐が黄蓋を負かしているという事は理解できた。



「華琳様! お前達、どうして華琳様をこんな所へ連れてきた……!」


「申し訳ありません。お止めしたのですが……」


(まあ、凪が止めた所で、華琳の性格を考えれば自分から来るわな)


「私が行くと自ら言ったのよ。……秋蘭、それよりこのざまは何?」



その場を見渡せば、黄蓋にのされてボロボロになり、フラフラとした足取りで立ち上がっている霞と真桜の姿に、未だに黄蓋に拳を突きつけながら鋭い視線を向けて微動だにしない樺憐。

察しの良い華琳は何があったのかをすぐに把握し、やれやれと言わんばかりに呆れた表情で嘆息して首を横に振った。



「……申し訳ありません」


「樺憐。貴方もいつまでそうしているつもりなの。拳を納めなさい」


「…………」


「全く。零治」


「樺憐。聞いての通りだ。その辺でやめておけ」


「……仰せのままに」



零治の一声で樺憐はようやく拳を引き、何事も無かったかのようにいつもと変わらぬ足取りで黄蓋から離れていき、零治の横に控えた。普段の樺憐なら華琳の言葉にも素直に従うのだが、今の彼女はどこか不機嫌な様子があり、事の成り行きを知らない霞、流琉、凪、真桜、沙和の五人は不思議そうに樺憐の表情を窺っていた。



「そちらは呉の宿将、黄蓋ね? 私は魏の曹操。この者達の無礼、主として詫びさせてもらうわ」


「ほほぅ……。主君はそれなりに話の分かる者ではないか。少々見直したぞ」


「皆が貴方の姿を知っていればこのような無礼は働かなかったでしょうけれどね。……できれば、初めにその名を名乗ってほしかったわ」


「おお、それはすまん。ついいつもの癖でな……。その件に関しては、こちらもお詫びしよう」


「それで、その呉の宿将殿が何の用や? まさか、ウチらに喧嘩売りに来ただけ……っちゅう事は無いやろ」


「うむ。儂は売られた喧嘩を買ってやっただけじゃ。……まあ、いくらかはこちらがお代を払う前に商品を押し付けてくれたようじゃが……?」



騒ぎがようやく収まったというのに、余裕の笑みを浮かべながら意味深な言葉を口にする黄蓋の姿を前に、霞、真桜、秋蘭の三人は内に湧き出る怒りを何とか抑えつけてはいるが、今にも掴み掛りそうな勢いの視線を彼女に向けた。もちろん、樺憐もこの言葉には反応せざるを得なかった。



「あらあら。このクソガキはまだ懲りていないようですわね。零治さん、この悪ガキですが……殺してもよろしいでしょうか……?」



普段はおっとりとした姿しか見せていない樺憐の口から、あまりにもバイオレンスな台詞が飛び出したので、零治を含めたその場に居る魏の首脳陣達は眼を丸くして彼女を見つめた。

その視線を受け、樺憐は周りを安心させるように、いつもの穏やかな笑みを浮かべながら口元に手を当てて含み笑いを漏らした。



「いやですわねぇ。冗談ですわよ?」


(いや、眼がマジだったぞ……)


「樺憐。一体どうしたというの? 貴方らしくないわよ。それに黄蓋は貴方より年上のはずよ。ガキ呼ばわりするのは失礼でしょう」


「何を仰いますの、華琳さん? このような騒ぎを起こしたのですからわたくしから見れば充分ガキですわ。年齢差など関係ありませんわね……」


「零治。今日の樺憐、随分とご機嫌斜めじゃない。私が来る間に何があったの?」


「まあ……色々と……」


「曹操殿。儂は気にしてはおらんので気遣いは無用じゃ。それにこの者……怒らせてはならぬと今しがた痛感した所なのでな」


「ふむ。その辺が理解できたという事は、わたくしの『教育』も無駄にはならずに済んだようですわね……」


「うむ。おかげさまでな。……して、曹操殿。少々話をさせてもらいたい。良ければ、席を設けてはくれんかの?」


「いいでしょう。流琉、沙和、席の用意を」


「はい」


「分かったの!」


「華琳様! 我々もぜひ同席を……!」


「わたくしも秋蘭さんの意見に賛成ですわ。この女は呉の関係者。もしかしたら面会はただの口実で、華琳さんを殺すのが目的かもしれませんからねぇ……」


「やれやれ。随分と疑り深いのじゃな」


「番犬とは疑り深いぐらいが丁度いいのですわよ……」



先程の諍いが原因で、樺憐は黄蓋に対して完全に敵愾心を剥き出しにしている。華琳が居る手前、殴りかかるような真似こそしないが、黄蓋に向けているその視線には猜疑心がたっぷりと込められている。

そして樺憐の考えには華琳を護るという使命感から、その場に居る全員が同調していた。話をするためとはいえ、これだけの騒ぎを引き起こしてしまったので疑われるのも仕方ない。黄蓋はヒョイッと肩をすくめざるを得なかった。

いつまでもこの場に居ても意味が無いので、黄蓋との会談を行うために零治達は仮設された玉座の間へと足を進めた。その時、樺憐は前方を歩いている秋蘭の肩にポンっと手を置いて彼女を呼び止めたのだ。もちろん理由は、ある事についての釘を刺すためである。



「ん? 樺憐。どうかしたのか?」


「秋蘭さん。わたくしの秘密……くれぐれも他言してはダメですよ?」


「う、うむ。分かっている。心配せずとも、誰にも喋るつもりはないから安心してくれ……」


「それは結構。ではわたくし達も行きましょうか」


………


……



前線基地の城に仮設されている玉座の間に到着し、黄蓋との会談の場を設けたはいいが、流石に首脳陣が欠けた状態で話を進める訳にもいかないので、急きょ偵察に出ていた季衣と亜弥をすぐに呼び戻し、補給部隊の護衛に向かっていた春蘭と恭佳も幸いな事にあれからすぐに戻ってきてくれたので、話を始めるためにさほどの時間を取られる事も無かった。

そしていざ黄蓋との会談が始まれば、彼女の口から告げられた内容は驚くべきものだった。黄蓋が切り出した話の内容に、首脳陣達は半信半疑という表情である。春蘭などは驚きの表情を浮かべながら黄蓋の真偽を問うべく、敢えて尋ねてみた。



「我が軍に降りたいだと……?」


「左様。既に我が盟友、孫堅の夢見た呉はあそこには無い。ならば、奴の遺志を継いだ儂の手で引導を渡してやるのが、せめてもの孫堅への弔いであろう」


「周瑜との間に諍いがあったと聞いたが……原因はそれか?」



と、秋蘭がこの城を確保する戦時に得た情報を黄蓋に切りだしてみた。その際、彼女が黄蓋に向けていた視線には疑惑が込められている。先程の騒ぎが原因というのもあるのだろうが、こちらへ亡命を申し出ているとはいえ、黄蓋がまだ呉の関係者であるのは事実だし、秋蘭同様、他の首脳陣達もまだ完全に黄蓋を信用している訳ではないのだ。



「やれやれ、もう伝わっておるのか。……その噂、どこから聞いた?」


「どこでも良かろう。それが事実であったかどうかだけ訊いているのだ」


「……事実だ。その証拠に、ほれ……」


「って、おい!」


「零治さん、後ろから失礼いたします」



そう言うや否や、いきなり黄蓋はその場で胸元を大胆にもはだけたのだ。おかげで彼女の大きな胸が露わになり、魏の首脳陣達は眼を丸くしたし、流石の華琳もこれは予測できなかったようで、表情を引きつらせている。だがよく見れば、露わになっているのは黄蓋の胸だけではなく、その胸元には鞭で打たれたと思われる無数の傷が痛々しく残されているのだ。

その場に居る唯一の男性である零治には樺憐が素早く後ろから目隠しをし、彼の視界は真っ暗になったので、その傷を眼にする事は無かったが。



「あぁ、悪いな樺憐」


「いいえ、お気になさらず。何より……あんな女の胸を見ても零治さんの眼が腐るだけですわ。どうしても見たいのならわたくしのを見せてあげますので」


「樺憐、お前ホント黄蓋に対してとことん辛辣だな」


「あら。わたくしは事実を言っただけですわよ?」


「……ってかお前、今さり気なくとんでもない事を言わなかったか?」


「はて。何の事でしょうか?」


「お主っ! 早く隠せ!」


「やれやれ。孫呉はもう少しおおらかじゃぞ?」



顔を赤くし、両腕を振り回しながら春蘭が喚き散らすので、黄蓋はやれやれと肩を竦めながら纏っている衣服を元に戻した。とはいえ、今回ばかりは春蘭に同意だ。

黄蓋の想いを理解するためとはいえ、いつまでも彼女の胸を見ている訳にもいかないし、当人がそんな姿ではまともに話も進まないだろう。ここには男性である零治も居るのだから。



「零治さん。見苦しい物は片付きましたわ」


「分かったからもう少し言葉を選べ。本人に聞かれたらどうする気だ……」


「先程の傷が、周瑜に打たれたという痕?」


「赤子の頃はむつきも替えてやったというのに……。我らの孫呉を好き勝手にかき回した挙句、あろう事かこの仕打ちだ」


「何だ。ただの私怨ではないか」


「まあ、そう思われても仕方ないじゃろうの。しかし夏候惇よ」


「……私の事を知っているのか?」


「反董卓連合では孫策殿のもと、袁術の陣に居たのでな。あの眼玉を食らった武勇伝は、流石に面食ろうたぞ?」


「…………」


「それから、その後の官渡でも顔を合わせたが……憶えておらぬか?」



性格が性格なためもあり、言っては悪いが春蘭の記憶力は決して良い方ではない。

いや、正確には記憶力が悪いと言うより、春蘭の場合は性格と相まって記憶している情報に偏りがあるのだ。もともと根っからの武人であり、書類仕事もやってはいるが彼女はそれが大嫌いなのだ。

そっち方面の事となると誰かがフォローを入れねば思い出せなかっただろうが、今回は直接関わった戦絡みの内容だったので、流石の春蘭もすぐに思い出す事は出来た。



「……思い出した。孫策の所に伝令に来た将だな、お主」


「その通り。あの時は追撃をせずにいてくれて助かった。今更ながら、礼を言おう」


「あれは……孫策への借りを返しただけだ。次に会った時は容赦はせん」


「そうか。さて……お主らも考えてみよ。もし志半ばで曹操が倒れた時、後を継いだ者達が……そうよの、そこの黒き閃光」


「ああ?」


「こやつが曹操の後を受けたとする」


「音無が華琳様の後を……? ありえぬ!」


「そうよ。秋蘭や、せめて春蘭ならともかく……それだけは無いわ!」



これはあくまで黄蓋が持ち出した例え話だ。自分が今どういう心情なのか、何を想って魏への亡命を申し出たのかを理解してもらうための例え話である。零治もそれは分かるが、その内容のおかげで春蘭と桂花が過剰な反応を示したので、例え話として持ち出された本人から言わせれば迷惑な話である。

現に今も、春蘭と桂花の二人は零治に対して過剰なまでの敵愾心を向けているのだから。



「しかも、その男が今までの方策を変え、曹操の志を踏みにじる真似をしでかしたとしたら……一体どう感じるか?」


「「殺す!」」


「…………」


「むしろ、いま死になさい!」


「ほぉ~。二人揃って面白い事を言うじゃねぇか。だが……お前らに『今』のオレが殺せるのか……? そんな方法があるのなら是非とも教えてくれよ。オレも出来れば『人』として死にたいからな……」



普段の零治なら適当に聞き流していたのだが、今回ばかりは付き合うのにうんざりしてきたようで、二人を黙らせるためにほんの少し……本人はほんの少しに抑えているつもりなのだが、零治から放たれるその殺気は戦場に立っている時のそれと変わらない。

玉座の間はたちまち息が詰まりそうな圧迫感のある空気が支配し、先程までの態度とは打って変わって春蘭と桂花は口を噤み、思わず数歩後ろに後ずさってしまった。その零治の姿に、他の首脳陣達も表情を青ざめさせていたので、華琳はどうどうと言わんばかりに右手を何度も宙で軽く上下させて叩くような動作をし、零治にやめるように言い聞かせた。



「零治。その辺になさい。それにその話は外部に漏らしたくないのでしょう?」


(ん? この男、まだ何か秘密があるのか……?)


「あぁ、悪かった。……それとな、黄蓋」


「何じゃ?」


「お前がどういう心境なのかは今のでよく理解できたがな……人を勝手に例え話に持ち出すな。迷惑だ」


「ふむ」


「またやりやがったら……今度は樺憐ではなく、オレが直々に相手をしてやるからそのつもりでいろよ……」


「ははは。どうやら怒らせてしまったようじゃな。じゃが、お主の言い分も確かじゃな。すまんかったの」


「分かればいいんだよ……」


「まあそういう事じゃ。このような時代だ。戦に負け、滅ぼされるのは詮無き事。袁術の元に居た頃も屈辱ではあったが、それを雪ぐ日を夢見て、恥を忍んで生きておった。じゃが、その雪辱を果たした先にあったものはどうじゃ。儂は……あのようなヒヨッコに好き勝手をさせるために孫呉を再興させたのではない!」


「華琳様……」


「黄蓋。ならば、我が軍に降る条件は?」


「孫呉を討つ事。そして……すべてが終わった後、この儂を討ち果たす事」


「……なんと」


「貴公……」



黄蓋が提示した条件は驚くべき内容だった。己が生まれ育った祖国を滅ぼすだけでなく、そののちに自らも死を選ぶ。並の人間ならば、敵国に従うのと引き換えに自分の国を守ろうとするのが普通だが、彼女が口にした内容はそれとは完全に真逆なのだ。

黄蓋はそれだけ今の呉に守る価値が無いと見出して見限ったが、それでも祖国を愛する気持ちは変わらない。だから彼女は自らの手で今の呉の歴史に終止符を打ち、己の人生にも幕を下ろそうというのだろう。



「孫呉が滅びたなら、この儂に生きている意味などありはせん。ならばせめて、あの世で我が友に詫びの一つでも入れさせてほしい」


「江東を治める気は無いの? 貴方ほどの人物なら、この一帯を任せても構わなくてよ?」


「儂は孫家に仕える身。それを飛び越えて江東を治めようなどとは思わん」


「……ならば、自ら死兵になると?」


「それが儂なりの堅殿への忠義の示し方だ」


「……分かったわ、黄蓋。貴方に私の真名を呼ぶ事を許しましょう」


「……すまんが、それは断らせてもらう」


「何ですってー!」


「貴様! せっかく華琳様が……!」



黄蓋の言葉に過剰に反応したのは、春蘭と桂花の二人だ。華琳が黄蓋に真名を預けるという事は、信用しているかどうかはともかくとして、少なくとも彼女を受け入れるという事なのだ。

なのに黄蓋は華琳の申し出を右手を前にかざして断りを入れるときている。春蘭と桂花の二人から言わせれば、無礼千万以外の何物でもないという事なのだ。もちろん黄蓋もそれは百も承知だろう。だが、それには彼女なりの理由があるからこそなのだ。



「儂は孫呉に身命を捧げた身。貴公らの下に降るのはあくまでも真の孫呉を守るため。余計な馴れ合いは遠慮願いたい」


「貴様……! ならば、我ら曹魏を私怨のために利用するというのか!」


「その通りだ、夏侯淵。故に、真名を呼び合うような馴れ合いは不要。儂は真の呉の将として戦いを挑ませてもらう」


「たった一人でか? 我が軍の兵は、誰一人としてお主に従いはせんぞ?」


「戦で散る事こそ我が本望。むしろ望む所!」


「な……」


「…………貴方の負けよ、春蘭」


「……は。ならば黄蓋。全てが終わったら、お主の首級、この夏候元譲が貰い承けよう」


「ふむ……同じ弓使いとして、どちらかと言えば夏侯淵の方が気になるのぉ」


「……分かった。全てが終わったら、私がお相手いたそう」


「じゃが、易々とくれてやりはせんぞ?」


「無論だ」


「二人ともずるいで! ウチも混ぜてぇな!」


「貴様はさっき負けただろう」


「あんなん本気な訳あるかい! ウチが本気出せばあんたなんぞ……!」


「良い良い。何なら二人で掛かってきても構わん」


「……樺憐。お前は良いのか?」


「はい。あんなクソガキの首に興味などありません。それに……奴とは遅かれ早かれ、必ず戦う事になるでしょうから。そうですわね? 亜弥さん……」


「ええ。間違いなく……」



黄蓋との会談は彼女を魏に受け入れるという流れにはなってきているが、それでも首脳陣全員がまだ黄蓋の事を完全に信用している訳ではない。現に今も、声を潜めながら話し合い、彼女に疑惑の視線を向けている者が何人か居るのだ。それは零治達も例外ではない。だが、彼らの場合は疑惑ではなく、確信が籠められた視線なのだが。

しかし、それは黄蓋も同じ。もっとも彼女の場合は疑惑というよりは疑問なのだが。黄蓋は詰め寄ってくる霞や春蘭を子供をあやすように適当にあしらいつつ、気付かれないように零治達にチラリと視線を向けていた。



(どういう事じゃ。情報では魏に降り立った御遣いは四人のはず。なのにこの場には六人も居る。蜀の御遣いが魏に渡ったという話は聞いた事が無いし、やはり後から現れたという事になるのか。それならば、あの樺憐とかいう者の情報が今まで全く無かったのも辻褄が合う……)


「どうしたの、黄蓋。零治達がそんなに気になるのかしら?」


「うむ。聞いた話では、魏の御遣いは四人だったはずじゃが……六人も居るのでな」


「まあ、色々あってね。後から二人増えたのよ。二人とも将として非常に優秀よ。特に樺憐は、あの零治ですら歯が立たないほどの実力者なのよ」


「ほぉ~。道理であれほどの立ち回りが出来る訳じゃ」


「華琳。その辺でいいだろう。オレ達はまだ全面的に黄蓋を信用している訳じゃない。そんな奴にこっちの情報をそれ以上与えてやる必要性は無いはずだ……」


「ふっ。これはまた随分と手厳しいのぉ」


「いつもの事よ。あまり気にしない事ね……と、言いたい所だけど、確かに零治の言う事にも一理あるわ。彼らについては、気になるのなら自分で確かめる事ね。そして黄蓋……」


「うむ」


「貴方の想いは理解できたわ。孫呉の討伐に、貴方を加える事を許しましょう」


「華琳様!」


「何か不満でもある? 桂花」


「無論です。黄蓋は呉の宿将。これが演技だという可能性も……」



桂花の指摘はもっともだ。今この場に居る誰もが、黄蓋に対して疑惑の念を抱いている。

何より呉には周瑜が軍師として控えているのだ。黄蓋が今このタイミングで亡命を申し出たのも周瑜の差し金で、黄蓋自身が述べた想いも全て彼女が魏へ潜り込むための演技の可能性は充分に考えられる。黄蓋と周瑜が厚い信頼関係で結びついている事は華琳も良く知っているのだから。



「そうでしょうね。別に私とて、彼女を信用している訳ではないわよ」


「……ほぅ」


「けれど黄蓋ほどの将がここまでしているのだもの。もし計略というのならば、それを見届けた上で使いこなしてみせるのも、覇王の器というものでしょう」


「なるほど。裏切ると分かっていてなお、受け入れるか」


「当然よ。裏切りたければ……いえ、貴方は真の呉の将なのだから、裏切りとは言わないわね。我が魏に徒成す行為を働いたと見れば、こちらも容赦なく討たせてもらうわ」


「そうか……。ならば、こちらも王者に対して無礼を働いてはなるまいな。華琳殿」


「真名は」


「祭」


「その名、しばし預かっておきましょう。……では黄蓋よ。すぐに軍議を開く。貴方も参加し、呉と戦う上での意見を述べなさい。いいわね?」


「御意」


「でもその前に……そちらのお嬢さんの紹介もお願いできるかしら?」



その言葉を合図に、玉座の間に集まっている首脳陣達の視線が黄蓋の横に控えている少女、鳳雛へと向けられた。鳳雛は周りの視線に気圧されてか、黄蓋の服の裾をキュッと掴みながら彼女の背に隠れ、顔を少しだけ覗かせて玉座に腰かけている華琳の姿を見つめた。



「あぁ、この娘は鳳雛といって儂の弟子のようなものじゃ。この通り人見知りな性格じゃが、中々知恵の働く奴じゃぞ」


「そう。弟子はその娘だけなの?」


「いや、実はもう一人いるのじゃが……ここには来とらんのじゃ」


「どういう事?」


「そいつは世捨て人でえらく変わり者でな。当初は連れてくる予定だったのじゃが、『面倒事はご免だ』と言って断りおってな。進軍先が決まり次第、合流するよう連絡をする手はずになっておる。その者の紹介はその時にな」


「良いでしょう。では、これより軍議を始めます」


………


……



「何じゃと……! それは本当か!?」



いざ軍議が始まり、放っていた間諜が持ち帰ってきた情報を元に蜀と呉の動きを窺い、こちらの出方について話し合いをしていたのだが、ある情報を耳にするなり黄蓋は驚きの声を上げながら思わず椅子から立ち上がり、秋蘭に真偽のほどを伺った。



「本当だ。劉備、関羽、張飛を筆頭に、蜀の主力部隊が呉の領内に移動を開始している」


「なんと……。冥琳め、血迷ったか……!」


「黄蓋も初耳のようね。稟、その情報は本当なの?」


「は。また、劉備達を先導しているのは呂の旗だそうです」


「呂布ではないの?」


「はい。深紅の呂旗ではないそうです」


「ふむ。恐らく呂蒙じゃろう。……我が軍の軍師見習いのはずだが……そうか、一隊を率いる身分になったか」


「予測されている呉の部隊に、蜀の部隊が加わった事で……敵の総兵力は、我々とほぼ同数となっていますね」


「こちらの予備兵力は? 本国に手配はしたのでしょう?」


「その兵力を加えてこの数です」


「そう……。ならば兵力は五分と五分。ふふ……面白くなってきたわね」



稟と桂花の話を聞かされても、華琳は臆する事無く、不敵な笑みを浮かべながら宙を見上げる。兵力は五分だが勝率は五分とは言えない。次の戦も呉の領内、つまり地の利は相手側にあるのだ。

特に呉は地域がら必然的に船を使った漁などをして生計を立てている人間が大半を占めている。そのため孫呉の兵は船を使った水上戦を得意とする人間なのだ。となれば、呉軍も必然的に地の利を生かすために水上戦に持ち込んでくるだろう。魏に対して軍事面で劣っている呉が勝つには、それ以外に選択肢は無いのだ。



「面白がってもいられんだろう。蜀は兵力こそ少ないが、優秀な将が多いと聞くぞ」


「ふん。黄忠や馬超など、我らの精兵をもってすれば物の数ではないわ!」


「春蘭ちゃん。それに加えて、呉の将も一緒に居る事を忘れてはダメなのですよー」


「姉者。風の言う通りだ。呉の周瑜と蜀の諸葛亮……。特に地の利を知り尽くした周瑜が居るというのは、厳しいな」



周瑜と諸葛亮。この二人は互いに仕える国を支える頭脳。神算鬼謀に優れた名軍師だ。この二人が相手となれば、この先に控えている戦も易々と勝つ事は出来ないだろう。だが、知略に長けた軍師が居る点はこちらも同じだ。魏の頭脳である桂花と稟は不敵の笑みを浮かべていた。



「ふん。敵が地の利を知り尽くしているという事は、武器であると共に弱点でもあるわ。相手が誰であれ、華琳様に捧げる勝利に違いは無いわよ」


「その通り。いかな神算鬼謀と言えど、本当に神や鬼を相手にしている訳ではありません。相手が人である以上、こちらにも戦う術くらいある」


「……ぐー」


「寝るな!」


「……おおっ!?」



桂花と稟は負けないと言わんばかりに啖呵を切ったというのに、風はいつものように居眠りをその場で始めていたので、毎度の事ながら稟がビシッとツッコミを入れて風を叩き起こした。

魏ではもはやこの光景は見慣れたものだが、大事な軍議の場で軍師ともあろう者が堂々と居眠りをしていたので、初めて目の当たりにした黄蓋は不安を感じざるを得なかった。



「……不安じゃな。大丈夫なのか?」


「相手が強かろうが大きかろうが、それはそれで策に組み込めば良いだけなのですー。過剰に恐れる事も侮って強きに出過ぎる事も必要無いのです」


「……んん?」


「要するに、いつも通りに戦って、叩き潰せば良いという事だぞ、季衣」


「ああ、なるほど~」


「春蘭は分かりやすうてええなぁ……」


「難しい事を言われても分からんからな!」



霞の言葉に、春蘭は胸を張って力強く答えた。もちろん霞は褒めてなどいないし、仮にも国の軍の中核たる人物が難しい事を言われても分からんなどと、堂々と胸を張って答えられても反応に困るし、決して褒められた姿ではない。だが、それは春蘭の良い所ではあるが悪い所でもあるので魏の首脳陣達にとってこれはある種の頭痛の種ともいえる。



「けれど、ある意味では心理よ。慌てて相手の罠にかかるのも無意味な事。いつも通りに戦えば、我らに負けは無いわ。それでいいのよね……桂花」


「御意!」


「頼もしい限りじゃな。しかし、蜀にはそちらと同じく天の御遣いが四人居るそうではないか」


「確かにそうだが、その内の一人は戦力の頭数に入れる必要は無い。そして残りの三人は……オレ達がこの手で殺すだけだ」



そう。それこそが零治達の役目であり、魏の首脳陣達は黒狼達と互角に戦えるのは彼ら以外に勤まる人間が居ないと認識している。何より、こちらには新たに加わった恭佳と樺憐という御遣いが居て、二人とも零治に勝るとも劣らない規格外の戦闘力を有しているのだ。華琳達にとって今の零治達は頼もしい存在であり、負ける要素など無いとも思っている。



「あぁ……ようやく銀狼にこの腕の借りを返す事が出来るんだな。奴には地獄を見てもらわないとな……」


「おいおい、零治。そいつは姉であるアタシの役目だろ? あの野郎を殺すのはアタシだよ……」


「兄さん、恭佳さん。お二人には悪いですけどそうはいきません。奴は……銀狼は私達の手で殺します……」


「そうだよ。あの時の恨みはまだアタシ達の中には残ってるもん。銀狼には……生きている事を後悔したくなるほどの苦痛を味わわせてやるんだからね……」


「分かった分かった。なら四人で一緒にブッ殺そうぜ。袋叩きにしてな……」


「おぉ! 零治、アンタもたまにはいい事を言うじゃんか」


「たまには余計だぞ」


「樺憐。笑って見てないで止めたらどうなんです。貴方は自分の娘達があんな事を言ってもなんとも思わないんですか……?」


「いいじゃありませんか。亜弥さん、子供ってのははしゃぎ回るものなんですよ?」


「どこをどう見たらアレがはしゃいでいるように見えるのか疑問なんですが……」



氷のような冷たい笑みを張り付けながら物騒な発言を繰り返している、零治、恭佳、奈々瑠、臥々瑠。

それを傍らで不安げに見つめているのは亜弥、かたやニコニコと笑みを浮かべながら見ている樺憐。

中々に異様な光景だが魏の首脳陣達から見慣れたものだ。まあ、慣れたくはないのが本音だが、無理やりにでも慣れないとやっていられないのだ。

初めて目の当たりにする零治達のやり取りに、黄蓋は自分にも飛び火するのではないかと一抹の不安を抱いてしまう。



「……華琳殿。御遣い達は随分と物騒な発言を繰り返しているが……大丈夫なのか……?」


「彼らにも色々とあるのよ。いつもの事だから安心なさい」


「あぁ、そうだ。蜀と呉の同盟軍だが、どこへ移動しているんだ?」


「えっと……長江の……ここです」



零治の質問に答えるように、稟が卓に地図を広げ、スゥッと指でなぞりながらある一点を指し示した。

そこは長江の中流。大きな湖から伸びる長江と、漢水の合流地点との中間あたりである。

その場所を見て零治達は確信した。次の戦いが何なのかを。

三国志を知る者達にとって、次に起こる戦は有名な話なのだ。稟が指し示した場所は……赤壁である。

作者「いや~、久々に気分がスッキリしたな」


零治「お前、祭が嫌いなのか……?」


作者「何で?」


亜弥「何でって……この話、彼女に対してやけに辛辣な描写がいくつも見受けられたのですけれど」


作者「別に嫌いじゃないさ。ただ、魏ルートのこの回の祭にムカついたからこんな内容にしただけ」


恭佳「あっそ。まあ、それよりも一番驚いたのは、樺憐がアイツより年上って設定だね」


奈々瑠「正確な数字は明かされませんでしたけどね」


臥々瑠「で、実際は幾つぐらいなの?」


作者「えっ? 言っちゃっていいの? 正確な数字は流石に考えてないんだけど」


樺憐「その前にまずは数字よりも桁を伺うべきですわねぇ……」


零治「ええっ!? そんなレベルになるのか!?」


作者「お、怒んなよ! ほら! 見た目は少女でも実年齢は二万歳って人も居るんだし、きっと需要が……っ!」


樺憐「ふふふ。ちょっとあちらでお話をしましょうか。もちろん二人っきりで……」


作者「ちょっ!? やめて! 引っ張んないで! 誰か助けてーーっ!!」


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