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第71話 動き出す三国 中編

遅くなってしまって申し訳ないです。

こう暑いと思考が上手く働かないし手も全然動いてくれなくって。

やはり環境って大事ですね。扇風機だけ暑さを凌ぐのは限界がある。まあ、無いよりはマシですけどね。

呉への進軍の基本方針が纏まり、数日の期間を設けて充分な下準備を終え、ついにその時は来た。

華琳率いる魏の軍勢は乾いた風が吹き付ける広大な荒野の中を練り歩き、呉攻略のための前線基地の確保のために手近な城へと進軍をしていた。

華琳の横に馬を並べて前進している零治は、数日前に季衣と真桜から打ち明けられた悩みについての報告をし、話し合いの場を設けてほしいと提言をしている。



「……そう。二人が不安がっていると」


「ああ。……まあ、西涼の連中は今までの相手とは違ってたせいもあるんだと思うが」


「そうね。二人には見聞を広めてもらうつもりだったけれど……最初から少し厳しすぎたかしら」


「いや、アイツらも国に仕える将である以上はいつかは通らなきゃならん道だ。ただ、戦争に対する経験が今まで偏っていたのがまずかったんだろうな」



季衣や真桜がこれまで経験してきた主な戦は、まずは黄巾の乱。これは言ってしまえば暴徒の鎮圧だ。張三姉妹の熱に当てられ、勝手に暴走して暴れ回る若者集団に人々が困っていたので季衣も真桜も気にせずに思いっ切り戦う事が出来た。

次に反董卓連合。これは表向きには都で暴政を行う董卓の討伐になっているが、その董卓本人は実際にはそんな事はしていない。彼女は都での諸侯同士による権力争に巻き込まれた被害者の一人なのであるが、この真実を知っている者は数少ないし、季衣も真桜も真実を知らない。

後は袁紹や劉備の相手をしたりしていたが、この二者との戦はどちらも防戦であった。

これまでの戦を通じても、季衣と真桜の二人はこちらから打って出る戦、つまり純粋な侵略戦争を経験していなかったのが、そしてその戦で疲弊した西涼の街並みを目の当たりにしたのが今回のような悩みを抱えてしまった原因という所なのだ。



「とにかく、行軍の間にでも二人と話をしてやってくれ。お前と話をすれば、あの二人も少しは安心できるはずだからさ」


「良いでしょう。戦場で迷いを持たれても困るしね。呉に着くまでには一度話をしてみましょう」


「頼むよ」


「……零治。貴方はどうなの? 貴方にはそういう迷いは無いの」


「そんなもんがあるんなら、オレは初めからこの場には居ない。そもそも本職の軍人相手にその問いは愚問だと思うんだが」


「ふふ。そうだったわね。……所で話は変わるけど、零治」


「何だよ?」


「今回の行軍、妙に医薬品が多くない? 沙和と稟に指示したのは亜弥のようだけれど……どういうつもり?」


「あぁ、アイツの話によると、南方って風土病が多いらしいんだよ。それが原因で軍が崩れたら戦もへったくれもないからな。稟の奴がそういうの詳しいから、対応できる薬類をありったけ用意させたんだってよ」


「なるほど。良い働きをしてくれたわね」


「あの……華琳様」


「どうしたの、季衣」


「呉に入っていた間諜から報告が来ましたけど」


「分かった。すぐに行くわ。……それから季衣」


「はい?」


「今晩、真桜と一緒に私の所に来なさい。他の仕事があるのあら、零治か他の誰かに代わってもらって」


「あ……兄ちゃん……」


「まっ。そういう事だ」


「……いいわね?」


「はいっ! 分かりました!」



零治のおかげもあって悩み事の相談の話し合いの場は問題無く解決したようで、季衣は力強く頷き、元気な足取りで自分の部署へと戻っていき、その後ろ姿を華琳と零治は慈愛に満ちた眼で見つめていた。

季衣の姿が完全に見えなくなったその時、零治の中にある疑問が浮上したので、その事を華琳に問いかけてみた。



「……なあ、華琳」


「何?」


「まさかとは思うが……桂花達みたいに身体に教え込むつもりじゃないだろうな……?」


「ふふっ。……さあ、どうかしらね?」



華琳は零治の疑問には答えず、ただ意味深な笑みを浮かべるのみだ。

零治は華琳のこの姿に内心不安を覚えるが、季衣と真桜が抱えている悩み事はそういった事で解決できるような内容ではないのだ。まあ、華琳なら何とかしてしまいそうな気がしなくもないが。

零治は頭の中に浮かんでいる色々な意味でよろしくない映像を無理やり振り払い、呉への進軍の足を進めるのだった。


………


……



その日の夜。目的の城まではまだ距離があるがここは既に呉の領内。つまりは敵の本拠地内なのだ。

いつどこから敵の襲撃が来るか分からないし、向こうにはあの周瑜が軍師として控えているのだ。決して油断はできない。なので野営の陣を構築し終えた後、零治は進んで見張りを志願した。

篝火かがりびによって薄っすらと赤く照らし出される陣営内で、零治は床几しょうぎに腰かけながら全神経を集中し、周辺へ警戒の眼差しを向けていた。

当然ながら見張りは一人ではない。零治は見張りを志願したのに自分達だけ休むのは気が引けるという思いから、亜弥、恭佳、奈々瑠、臥々瑠、樺憐の五人も見張りを買って出て、北側には零治と恭佳、西側には亜弥、東側には奈々瑠と臥々瑠、南側には樺憐と実に層の厚い見張りが四方に構築されている。

もちろんながら零治以外にも見張りとして東西南北には十数名単位で兵士が配置されており、彼らも零治達に習って全神経を集中して見張りに従事しており、今の魏の軍勢にとってこれほど頼もしい見張りは居ないだろう。何しろ魏に仕える天の御遣い全員が見張りについているのだから。



「……ふわぁ~」



とはいえ、本来なら寝ている時間に夜通し見張りなどしていれば当然眠くはなる。

零治は今まで我慢していたが、出る時はやはり出てしまう。零治は我慢しきれずにだらしなく大口を開けながら欠伸をしてしまう。



「零治。な~に横でだらしなく欠伸なんかしてんだい」


「んなこと言われても眠てぇんだから仕方ないだろ……」


「だいたい横で欠伸されたら……ふわぁ~……ほらぁ、アンタの欠伸が伝染っちゃったじゃないの」



この現象は欠伸の伝染というものである。これについては原因の究明のために様々な研究がなされ、諸説あるがその中でも一番有力なのが共感説というものである。

この共感説というのは、欠伸が伝染するのはその相手に対する共感や関心がベースにあるからとの事。

逆に他者に対して関心が低い者は欠伸が伝染しにくいとの事らしい。また、欠伸の映像を見ている時の脳画像を調べた結果、共感に関わる部位の脳が活発化している事も判明しており、この説の裏付けもされている。では共感がベースにあるのならば誰の欠伸がうつりやすいのか。それを調べたのがイタリアの研究機関である。

日常生活の中で目撃した欠伸の伝染を一年に渡って記録し続け、延べ四八〇人分のデータを解析したのだ。

その結果、最も欠伸が伝染しやすいのは肉親、友人、知人、他人の順である。またこれには伝染しやすい速度もあり、速度の方は友人、肉親、恋人、他人の順だそうである。



「あぁ……こう眠いと、眠気覚ましにコーヒーが飲みたくなるわねぇ」


「確かに」



零治達のこの何気ない会話。別に聞き耳を立てていたわけではないが、もともと五感が人間以上に発達しているため嫌でも聞こえてしまうのだ。

零治達の会話を耳にしたのは真逆の方向で見張りに従事している樺憐である。彼女は周辺に警戒の眼差しを向けつつ、零治と恭佳のやり取りを耳にすると、頭に付いている犬耳をしきりにピョコピョコと動かし、何かを思いついたのか不意に床几から立ち上がった。



「すみませんが、少しの間この場を任せてもよろしいでしょうかぁ? すぐに戻りますのでぇ」


「はっ! お任せください!」



樺憐はその場を共に見張りに当たっている兵士達に預け、彼女はスタスタと足早に自分が使用している天幕の中へと足を運んで行った。

樺憐が天幕の中へ足を踏み入れるなり、それからすぐに中からガチャガチャと何か物を漁るような音が聞こえ、付近に居る兵士達は何事かと樺憐が使用している天幕へ視線を集中させる。

物音はすぐに収まり、天幕の入り口の布をバサリと掻き分け、背中には何かが入った布袋を背負った樺憐が姿を現した。

周りの兵士達からは好奇心の眼差しが向けられるが、樺憐は我関せず自分の持ち場まで足を運び、床几に腰かけて背負っている布袋を自身の目の前に下ろし、中をゴソゴソと漁りながらUの字型をした金属製の脚にフラスコのような容器が取り付けられた何かと、下が細い管状になってるの円管状のガラス容器をそれぞれ三つずつ取出し、何かの準備を始めたのだ。



「ふ~ん♪ ふふ~ん♪」


「……あの、樺憐様。それは一体なんの道具なのですか?」


「ふふ。わたくしの世界では一般的なお茶を淹れるための道具ですわぁ」


「ほお。しかしえらく奇妙な形をしていますなぁ」


「そうですわねぇ。この道具はお店で使うのが一般的で、個人が使う事は殆どありませんわねぇ。……皆様方にも淹れてさしあげますので少々お待ちくださいませ」


「これはこれは。恐れ入ります、樺憐様」


「いやぁ。天の国のお茶が飲めるとは、役得ですなぁ」


「ああ。しかも樺憐様自らが淹れてくださるなんて、今日の俺達は最高にツイてるじゃないか」


「うふふ。ご期待に添えるように努力いたしますわぁ」



樺憐は優雅な笑みを浮かべながら着々と準備を進めていく。まず、U字型の脚が取り付けられた土台に支えられている三つのフラスコの中に竹製の水筒を使ってなみなみと水を注いでいき、次に透明の液体が八文目まで入れられた楕円形のガラス製の容器、アルコールランプを三つ用意し、それをフラスコの下にセットして容器から突き出している人差し指ほどの太さがある頑丈な布製の糸に篝火から火種を借り、それに火を点火したのだ。

続いて樺憐は自分の傍に篝火から火種を借り、小さな焚火をおこしてその上に水が入った小さなやかんを置いて、フラスコとは別に水を沸かし始めた。しばらくしてやかんの水が先に沸騰し、それを手に取った樺憐は三つの円管のガラス容器にお湯を注ぎ、管を通って地面に滴り落ちた。よく見るとガラス容器には円形の布の蓋のような物が収まっており、下の方には小さな鎖が管を通って垂れ下がっていて、鎖の下より少し上の所にはフックが取り付けられていて、樺憐は鎖をグッと引っ張り、管の口の端にフックを引っかけて蓋のような物をしっかりと固定し、立てかける専用の固定具の上に置いた。次に荷袋から両手に収まる小さな布袋を取出し、袋の口を縛っている紐を解くと、中から木製の計量スプーンと一緒にコーヒー豆の粉が収まっており、三つのガラス容器に適量を入れた。

そこから樺憐は何をするのでもなく、床几に腰かけたまま目の前にセットした三つの器具に取り付けられているフラスコの中の水の様子を観察し続けた。しばらくして、アルコールランプの火の熱で水がポコポコと音を立てながら沸騰し始めたので、樺憐は次の行動に出た。



「ふむ。頃合いですわね」



樺憐はそれぞれの器具に取り付けられているフラスコの口に、細い管が付いた円管のガラス容器を斜めに差し込む。

この情報から察するに、樺憐が用意したこの道具はコーヒーサイフォンなのだろう。確かにこれならば普通のドリッパーと違い、一度に大人数分のコーヒーを淹れる事も可能である。

因みにフラスコにセットされている円管のガラス容器の正式名称はロートと言う。

しばらくするとフラスコ内に垂れ下がっている鎖から泡が出始めたので、樺憐はロートを真っ直ぐに差し込み、コーヒーの抽出を開始した。

沸騰しているお湯はロートの管を伝って上昇し、三分の一辺りまで上った所で予め用意していた竹べらを使って中のコーヒーの粉を優しく丁寧にかき回した。

まだこの時点ではコーヒーは出来上がっていないが、辺りにはコーヒーならではの芳ばしい香りが広がり、今まで嗅いだ事の無い不思議な匂いを体験した兵士達の好奇心は更に刺激される。



「ほほぉ。これは何とも芳ばしい香りがしますなぁ」


「ああ。今まで嗅いだ事もない不思議な匂いだが、良い香りだな」


「しかし……凄い色だな。まるで墨みたいに真っ黒だぞ」


「確かに。……あの、樺憐様。失礼を承知でお尋ねしますが、これは本当に飲めるのですか?」


「ご安心を。この世界の方達には抵抗のある色ですが、味の方は保証いたしますわよ」



兵士と会話をしている間も抽出は着々と進んでいき、フラスコ内のお湯がロート内に完全に上り切ったが、樺憐はそこからすぐには火から離さず、二、三十秒ほど置いておき、ようやく三つのサイフォンを火から離してアルコールランプに金属の蓋を被せて火を消した。

だがまだこれで終わりではない。樺憐は再び竹べらを手に取り、三つのロートに収まっているコーヒーを優しくかき回していく。すると、ロート内のコーヒーが下の管を伝ってフラスコ内に流れ落ちていき、中は黒色の液体で満たされていく。全てのコーヒーがフラスコに流れ落ち、ようやく抽出が完了したので樺憐はロートを取り外し、専用の固定具にいったん戻した。

次に荷袋から小さな木製のお盆、竹製ではあるがコーヒーカップを人数分取出し、一つのサイフォンのを手に取り、三つのカップに温かいコーヒーをゆっくりと注いでいく。

しかしながら、樺憐が持ち出したこの荷袋には本当にコーヒーに関連する物が収まっており、まさにコーヒーを作るためのコーヒー専用の荷袋といった所だろうか。



「はい、お待たせしましたぁ。熱いので気を付けて飲んでくださいねぇ」


「ありがとうございます、樺憐様」


「うぅ……しかしこの色はやはり抵抗が……」


「だな。匂いは確かに旨そうなんだが……」



初めて目の当たりにするコーヒーを前にし、二人の兵士は中々飲む事が出来ずに尻込みをしていた。

確かに樺憐がいま淹れてくれたコーヒーは黒色で、辺りが暗いせいもありその色は墨と見間違えるほどである。何より、この世界では黒色の液体と言えば墨が一番馴染のある物である。そのせいでこれは本当に飲み物なのかと疑問を感じ、二人の兵士は樺憐から手渡された竹製のカップに入っているコーヒーを見ている事しか出来なかったので、この二人よりも少し年上、三十代半ばの兵士がまるで訓練時の上官のように二人に向かって声を張り上げたのだ。



「何だ貴様ら! この程度の事で臆するとは! それでも我が軍の兵士かっ!」


「そう言われてもさ……やっぱり抵抗あるじゃん、この色は」


「ちょっと色の濃い烏龍茶だと思えば飲めるだろ」


「いや、烏龍茶でもここまで濃くはならないぜ。そこまで言うんならあんたから先に飲んでみろよ」


「ああ。飲んでやろうじゃないか! せっかく樺憐様自らが淹れてくださったお茶を飲まないなど、失礼でしかないからな!」


「あの、話の腰を折って申し訳ないのですが、そこまで大げさにせずともよろしいのでは?」


「いえ、樺憐様。私にも意地があります。年下連中にここまで言われて引き下がっては兵士としての名折れ。まずは年長者である私が手本を見せねば示しがつきませぬ」


「はぁ。そういうものなのですかぁ」


「ええ。そういうものです。……ならお前達、見ていろよ。……んっ!」



二人の若手の兵士が見ている中、年上の兵士は意を決してカップに口をつけ、軽くコーヒーを口の中に流し込んだ。初めて飲んだコーヒー特有の苦みは衝撃的で、兵士は苦虫を噛み潰したように表情を歪めるが、苦みと同時に来る酸味とコク、鼻腔をくすぐる芳ばしい香りは素晴らしい物であり、兵士はカップの中に残っているコーヒーを感無量の表情で見つめていた。



「おい、どうだった? 旨いのか?」


「なあ。さっきもの凄い表情をしてたけど……どんな味だったんだ?」


「……一言で言うと、苦い」


「苦い?」


「ああ。今まで飲んでいたお茶なんか比べ物にならないくらいの強烈な苦みがある。だが、不思議と悪い感じはしないな」



兵士はもう一度コーヒーを口に流し込みその味を堪能するが、やはり慣れない強烈な苦みを体験すると表情を歪め、身体をワナワナと震わせるが、悪い感じはせず、大きく息を吐いて満足げな表情でカップに残っているコーヒーを見つめた。



「うむ。やはり苦いな。しかしなんだか癖になる味だ。それに不思議と眠気が飛んで眼がしゃっきりとする気がする」


「それは当然ですわ。わたくし達の世界では、その飲み物は眠気覚ましとして飲むのが習慣になっていますので」


「なんとっ! そうなのですか。これは見張りをしている身としてはありがたい飲み物ですなぁ」


「ですが飲みすぎには注意ですわよ。慣れない人が大量に飲むと、眼が冴えて眠れなくなってしまいますので」


「そうなのですか。なら一杯だけにしておくとしましょう。……ほら、お前らも飲んでみろ」


「お、おう」


「……んっ!」



若手の二人の兵士も、年上の兵士に習ってコーヒーを口に流し込んで見せる。

口いっぱいに広がる強烈な苦みは兵士達の舌を刺激し、思わず表情を歪めるが、後から来る酸味とコク、鼻腔をくすぐる芳ばしい香りのおかげで苦みは不快に感じず、二人の兵士も感無量表情でカップの中のコーヒーを見つめていた。



「どうだ? 苦いけど旨いだろ?」


「ああ。た、確かにこの苦味は強烈だ。でも悪い感じはしない」


「全くだ。それにさっきまであった眠気が不思議と感じない。これは凄い飲み物だな」


「樺憐様、ありがとうございます。おかげで今夜の見張りは居眠りの心配をせずに済みそうです」


「それは良かったですわね。では、わたくしは他の方達にもこれを配ってきますので、少しの間この場はお任せしますわよ」


「はっ!」



樺憐は零治達や自分、それに他の兵士達の分、流石に全員分は用意できていないが、のコーヒーをカップに注ぎ、それを一つ一つお盆に乗せていき、両手でしっかりと持ってゆっくりとした足取りで陣の中央まで足を進め、零治達に声をかけた。



「零治さ~ん。コーヒーをご用意しましたので一休みしませんかぁ?」


「なぬっ!? コーヒー!?」


「マジかよっ!? 零治! アタシは行くよ! 今のアタシは無性にコーヒーが飲みたいんだぁ!」


「って、おい! オレ達は見張りの仕事が!」



零治の制止の言葉に恭佳は一切耳を貸さず、床几から飛び上がって猛スピードで樺憐の下まで一直線に駆け寄り、一番乗りをぶん取って樺憐からカップを受け取り、淹れたてのコーヒーを前にして眼を輝かせながら表情を綻ばせていた。

この様子から今の恭佳の頭の中には見張りの仕事と言う役目はスッポリと抜け落ち、コーヒーの事だけで頭の中は一杯になっている事だろう。



「はぁ~……」


「音無様、我らの事は気になさらずにどうぞ休憩なさってください」


「えっ? いや、流石にそれは悪い気が」


「音無様、休むのも大事な仕事です。こういう役目は我らにお任せしていれば良いのですよ。大丈夫ですって。何か異常があったらすぐにお声をかけますので」


「そうかぁ? ならお言葉に甘えさせてもらおうかね」



ここまで言われては流石の零治も断る事が出来ない。それにこの者の言う通り、兵士とは休むのも立派な仕事の一つである。確かに今この場は呉の領内、敵地のど真ん中である。しかしながら、どんなに訓練を積んだ人間でも二十四時間不眠不休で見張りをするなど不可能だし、どこかで休んでおかないと有事の際に身体がちゃんと動いてはくれない。

敵地内に居る以上は常に敵襲の警戒は必要だが、四六時中神経を尖らせていてはその内参ってしまうのは目に見えて分かる事である。なので零治もこの場は兵士の言葉に素直に従い、見張りは彼らに任せて休憩を取らせてもらう事にし、床几から重い腰を上げて樺憐の所まで足を進めていった。



「零治さん、どうぞ。熱いので気を付けてくださいねぇ」


「ああ。悪いな」


「亜弥さん達もどうですかぁ?」


「むっ。確かに少し眠たいから眠気覚ましが欲しい所ですが……」


「神威様、ここは我らに任せてどうぞ一休みしてください」


「なら、そうさせてもらいます」



亜弥も零治達に習い、一息つくために床几から重い腰を上げて樺憐の所まで足を進めていく。

奈々瑠と臥々瑠も一緒に見張りをしていた兵達の後押しもあり、零治達同様に一息つかせてもらう事にし、魏の天の御遣い全員が樺憐の元に集い、コーヒーブレイクを楽しむ事にするのであった。



「んっ……あぁ~。やっぱ眠気覚ましにはブラックコーヒーが一番だねぇ」


「……フーー……そうだな。それにタバコとの相性も抜群だしな」


「しかし……樺憐。これだけのコーヒーをよく一度に用意できましたね。一体どうやって用意したんですか?」


「それは単純な話ですわ。サイフォンを使いましたのですよ」


「サイフォン? サイフォンって喫茶店とかで使ってるアレの事か?」


「はい」


「母さん。あんな物どうやって調達したんですか?」


「街の職人さんに構造を説明して頼んだら作ってくれたのよぉ」


「よく作れたな、あんな物……」


「まあ、ガラスとかはこの世界にもあるから作れなくはないでしょうけど……それでも構造の説明を聞いただけで作ってしまう辺りの事を考えると、この世界の職人の腕は侮れませんね」


「うぅ~……お母さん。これお砂糖入ってないのぉ?」


「ごめんねぇ。お砂糖は持ってきてないのよぉ。良い機会だし、ブラックコーヒーを試してみなさい。もしかしたら味覚が変わってて美味しいと感じれるかもしれないわよぉ?」


「うぅ……ずずっ……」



ブラックコーヒーが飲めない臥々瑠から言わせればこれはただの拷問でしかないが、母である樺憐が折角用意してくれたものなのだ。それに樺憐の言う通り、味覚が変わってる可能性もあり得る。無駄にはすまいと意を決してカップに口をつけ、軽く啜ってみた。

しかし、味覚の方は変わってはいないようで、慣れていないブラックコーヒーの味は臥々瑠の舌にはきつすぎて、強烈な苦みに表情を歪め、しかも吐き出してしまった。



「うえぇぇ……やっぱり苦~い」


「ちょっと臥々瑠。私の隣で吐かないでくれる。汚いわねぇ……」


「ふふ。臥々瑠、今度はちゃ~んとお砂糖も用意しておくから、今夜はそれで我慢してねぇ?」


「は~い……」


「わたくしは他の方達にもコーヒーをお配りしてきますので、皆さんは先に飲んでいてくださいな」



樺憐はカップを乗せたお盆を手に、給仕のようにそれぞれの方角で見張りをしている兵達の所を回っていき、淹れたてのコーヒーを勧めていく。

とはいえ、数には限りがあるため全員が飲むのは無理なので、必然的に階級の高い上官組が飲む事になっていってるが、初めて見るコーヒーを前にしておっかなびっくりの様子で口にし、強烈な苦みに表情を酷く歪めたりもしたが、思いのほか好評のようで是非また飲ませてくれとまで言ってきてくれたので、樺憐は満足げな様子でその場へと戻ってきた。



「ふふ。意外と好評を得られたのでよかったですわぁ」


「なあ、樺憐。お前コーヒーに強い拘りでも持ってんのか?」


「あら、どうしてそう思いますの? 零治さん」


「いや、だってコーヒーが相当好きな奴じゃなきゃサイフォンなんか用意しねぇだろ?」


「だよねぇ。アタシらもよく自分で淹れて飲んではいたけど、せいぜいドリッパーまでだね。面倒な時はそれこそインスタントや缶コーヒーで我慢してた事もあるし」


「そうですわねぇ。研究員をしていた頃からコーヒーを飲むのが習慣になっていましたし、確実に眠気が覚めるように豆の品種改良もしていた事がありますから、確かに拘りはありますわねぇ」


「研究員? もしやそれは叡智の城ヴァイスハイトに居た頃の話ですか?」


「……ええ」


「そう。それも気になってたんだ。樺憐、お前がもともと叡智の城の住人であるのなら研究員をしていたのはある程度は分かる。だがなぜ……戦闘獣人バイオロイドの実験に自分を、ましてや実の娘達まで実験体にしたんだ」


「…………」



零治の質問に樺憐は表情に影を落とし、俯いたまま口を堅く閉ざしていた。

別に零治は樺憐の事を責めるつもりで訊いているのではない。ただ純粋に疑問に思ったから。つまりは好奇心で訪ねているのだ。

しかし、樺憐にとっていま訊かれた事は忌まわしき過去であり、いつかは話さねばならないと思っているが今は話したくないのが本音であり、娘達にもまだ聞かせたくないのである。

その表情から樺憐の心情を汲み取った零治は詫びを言いつつ、フォローを入れた。



「いや、言いたくないのなら無理に言う必要は無い。勘ぐるような真似をして悪かった」


「申し訳ありません、零治さん。その事についてはもうしばらく時間をください。時期が来たら必ず……必ずお話しいたしますから……」


「樺憐、実はアタシも訊きたい事があるんだけど」


「……何ですか?」



まだ何も訊いていないというのに、恭佳の質問に対して樺憐は珍しくどこか嫌そうな表情をしている。

確かに先程の零治が投げかけた質問の内容を考えれば、似たような疑問を投げかけられるのではないかと考えてしまうのも無理はないだろう。

だが恭佳が訊きたいのはそういう事ではないのだ。恭佳は樺憐の心境を理解しながら苦笑し、その事を言い聞かせる。



「心配しなさんな。アタシが知りたいのはそういう事じゃないから」


「じゃあ何ですか?」


「アンタが以前、暴走したBDを止めるために使った切り札の事さ」


「あぁ……アレがどうかしたのでしょうかぁ?」


「ああ。えーっと、確か『コードN・T・A』って名前だったよね?」


「はい」


「そのN・T・Aって何の略なの?」


「あぁ、その事ですかぁ。……『Nuclear・The・Attack』の略称ですのよ」


「……Nuclear・The・Attackって」


「樺憐、つまり……『核攻撃』、って意味ですか……」


「はい」


「えらく物騒な名前の切り札だな……。まさかその名前は自分でつけたのか?」


「いえ。叡智の城の他の研究員が勝手にそう名づけましたのです。自分で考えるのも面倒でしたので、そのままにしていたのですわぁ」


「全く。にしたって酷いネーミングセンスだな。核抑止のつもりか?」


「さあ? まあそのせいもありまして、わたくしは周りから『フェンリル』以外にも、『歩く核兵器』だとか『生きた核弾頭』なんてあだ名をつけられてましたわ」


「フェンリル……あのバカでかい狼の姿の事か」



樺憐の口から発せられたフェンリルという名を耳にし、零治はコーヒーを啜りながら夜空を見上げつつ当時の樺憐の姿を思い浮かべてみた。

定軍山で致命傷を負い、意識が朦朧としていた零治もあの時の樺憐のその姿は眼に焼き付いていた。

漆黒の体毛を風になびかせ、遠くから見ると馬と見間違えるほどの巨体。それだけでも充分怖いのに、人の姿をした時の戦闘力も驚異的である。零治は樺憐が味方になってくれてよかったと改めて痛感した。



「あら。零治さん、わたくしのあの姿が気になるのですかぁ? ならもう一度お見せしますよぉ?」


「ん? いや、そういう訳じゃ……」


「遠慮なさらずともいいじゃありませんかぁ。なんでしたら枕代わりにしてくれてもいいんですよぉ?」


「ま、枕……?」


「あぁ、アンタは知らないんだっけ。零治、アタシあの時に樺憐の背中に乗ってたんだけどさぁ……座り心地が最高だったよ。もう羽毛布団みたいにフカフカしててさぁ」


「そ、そうなのか……?」


「うふふ。零治さん、気になりますかぁ?」


「……き、気になる」


「正直は美徳ですわぁ。では、我が主のお望みにお応えしてさしあげましょう」



樺憐は両眼を閉じて意識を集中し、己の魔力を高めた。

すると、樺憐の周囲に黒い靄が発生して全身を覆いつくし、しばらくして風に吹かれたように靄は吹き飛び、その中から姿を現したのは馬ほどの巨体をした漆黒の毛並みをした狼。

いきなり野営の陣のど真ん中に通常ではありえない巨体をした狼が現れたため、見張りに就いていた兵士達は慌てふためき、各々が持つ武器を片手に攻撃して来ようとしたので、零治が兵士達を手で制止し、大丈夫だと言い聞かせたので余計な騒ぎは起こらずに済んだ。

とりあえずこれは零治達に任せようと兵士達は思い、彼らは巨大な狼は居ないものと自分に言い聞かせながら見張りの仕事に専念する事にした。



「こうして改めて見ると……マジでデカいな」


「ささ、零治さん。見てばかりいないで、どうぞご堪能くださいませ」


「いや、堪能しろと言われても……オレにどうしろと?」


「零治さんのしたいように。撫でるなり背中に乗るなり、ご自由になさってくださいなぁ」



狼の姿となった樺憐は四本の脚を折り曲げて地面に伏せ、まるで飼い主を慕う犬のようにハッハッハと一定間隔で口呼吸をしながら零治をジッと見上げる。

傍から見ると互いに視線を交わす飼い主と愛犬……まあ、犬と表現するには大きすぎるが、のような光景である。いつまでもこのままでいる訳にもいかないので、零治は恐る恐るの手つきで狼の姿の樺憐の身体に右手をゆっくりと伸ばしていった。



「…………」



零治が伸ばした右手は樺憐の腹部に触れ、彼女の全身を覆いつくし、月光と篝火に照らし出され光沢を放つ美しい艶と毛並みのある漆黒の体毛はサラサラとしていて心地よい手触りがあり、腹部もまるで羽毛が詰められたクッションのようにフカフカしており、見た目に反して弾力のある感触を前にし、零治は表情こそ変えてはいないが、樺憐の身体の感触を楽しむために何度も腹部を押したりしている。

力を入れている訳ではないので痛くはないが、微妙な力加減で何度も身体を押されているため、樺憐はむずがゆそうに身を捩り、艶のある声を漏らした。



「あん。零治さ~ん。そんなに押されてはくすぐったいではありませんかぁ」


「おい、変な声を出すなよ。まるでオレがお前にいけない事をしてるみたいじゃねぇか」


「あら。わたくし、零治さんがお相手でしたら何をされても構いませんがぁ」


「樺憐。貴方は娘達の前で何を言ってるんですか……」


「いけない事って……零治、アンタそういう趣味があったの……」


「あら、亜弥さん。わたくしは娘達に身体を張った性教育をしてあげようと考えているだけですわよ?」


「姉さん。貴方は実の弟がそこまで信用できないのか……」



零治と樺憐のやり取りを前にし、亜弥と恭佳は二人にジト眼の視線を向けた。

樺憐は亜弥の視線を大人の余裕でサラリと受け流していたが、零治は姉の恭佳にとことん信用されていない事を嘆くように右手で顔を覆いながら天を仰いだ。



(はぁ……私は母さんと比べると色々と負けている。私も母さんぐらいとまではいかなくても、もう少し大きかったらなぁ……)


「ねえ、奈々瑠。姉さんと恭佳姉さん、なんでお母さん達にあんな視線向けてるの? 別に変な事は言ってないよね?」


「そ、そうね。い……言ってないわよ……」



まだ精神年齢が幼い臥々瑠は樺憐の言っていた言葉の意味が理解できず、不思議そうに首を傾げていた。

いや、むしろ理解しない方が彼女のためである。確かに樺憐が言うように、性教育は大事かもしれないが今この場でするような事ではない。口頭での説明だけにしてもやはり人の眼があるし、少なくとも戦時下のこの状況でする必要性は無い。教えるのなら戦争が終わってからの平和な時にしても遅くはないはずである。



「まあ、その話はさて置きましょうかぁ。……零治さん、もうよろしいので? 他にも色々と試してくれても構わないのですよぉ?」


「いや、もう充分……ふわぁ~……」


「あら、まだ眠いのですかぁ?」


「うぅ~……どうもこの眠気はコーヒーを一杯飲んだぐらいじゃ覚めそうにないな」


「でしたらお休みくださいなぁ。無理は身体によくありませんわぁ」


「そうさせてもらうか。なら天幕で少し仮眠を取らせてもらう」


「あらら。零治さん、ここに丁度いい布団があるではありませんかぁ」


「はっ? どこに?」



自分の天幕に戻り、一休みしようとしたのに樺憐がここに布団があると言うので、零治は足を止めて辺りをキョロキョロと見渡すがそれらしき物などどこにも無い。

あるのは周囲を照らすための明かりの篝火、地面にゴザが敷いてあり、その上に床几があるぐらいである。少なくとも布団と呼べる物は見当たらない。



「樺憐。布団なんかどこにも無いが?」


「うふふ。ここですわ。貴方様の目の前に」


「……はい?」



どこにも見当たらない布団は零治の目の前にあると樺憐は言い張る。零治の目の前に存在しているのは狼の姿へと変身した樺憐であり、布団は無い。

その時、零治の頭の中にある一つの仮説が浮かび上がったので、零治は顔を引きつらせながら樺憐の事を指さした。



「あの~、樺憐? まさかお前が言ってる布団って……」


「はい。わたくしをお使いくださいなぁ」


「いや、流石にそれは絵的に色々と不味い気が……」


「確かに人の姿でしたらあらぬ誤解を招くでしょうけど、この姿なら問題は無いはずですわぁ」


「…………」



確かに樺憐の言う通り、今の彼女の姿は人間ではなく狼の姿をしている。これがもしも人の姿でこの場で一緒に添い寝などしたら周りから何を言われるか分かったものじゃない。最悪の場合、華琳に殺される可能性すらある。

しかし、今の樺憐は馬ほどの巨体をした狼の姿だ。フサフサの体毛に覆われた身体は心地よい感触をしていたし、彼女の体温も利用すれば風邪を引く心配も無さそうである。

だが本当にそんな事をしても良いのかと零治は疑問に思い、樺憐を見つめたまま棒立ちしてどうしようかと迷っていた。



「なあ。マジで布団代わりにして良いわけ……?」


「言ったはずですわ。わたくしは貴方様になら何をされても良いと。貴方様のお役に立つ事が、今のわたくしの喜びですものぉ」


「で、では……遠慮無く」



いま零治達が居る場所には大きめのゴザが敷いてあるので、少なくとも地面の上に直接に寝るわけではないからそこまで背中が痛くなるような事にはならないはず。

樺憐にここまでされては零治も退くに退けない。いや、実行したら実行したで周りから何を言われるか分かったものじゃないが、ここで樺憐の申し出を突っぱねたら樺憐が意気消沈してしまうかもしれない。

そう。これはお礼。コーヒーを淹れてくれた事に対するお礼なのだと零治は自分に言い聞かせて半ば強引に納得し、樺憐の前で両膝を地面に突き、そのままうつ伏せに腹の辺りに倒れこんだ。



「あん」


「おっ。こ、これは……っ!」



漆黒の体毛に覆われている樺憐の身体は零治の上半身をボフッと受け止め、樺憐は艶のある声を漏らして身を捩った。

恭佳の言う通り、狼の姿の樺憐の身体は羽毛布団と間違えるほどにフカフカで、元から狼な訳でもないので獣臭さも一切感じられない。零治はゴロンと寝返りを打って樺憐腹部に耳を当てながらムニムニと右手で身体を軽く押し、その感触を楽しんでいる。今の樺憐の身体の感触はこれまで使用してきたどの寝具よりも快適なのだ。



「これは確かに……快適だ」


「お気に召していただけたようで何よりですわぁ」



樺憐は身体を曲げて頭を零治の胸部付近に乗せ、体温が下がらないように覆いかぶさった。

この姿だと普通の狼以上の巨体をしているため、このくらいの芸当など今の樺憐にとっては造作もない事。

中々に異様な光景だが、零治は周りの視線など気にも留めず、樺憐のフサフサの体毛にくるまりながら快適な眠りに着こうとしたのだが出来なかった。

それもそのはず、樺憐は頭を零治の胸部に乗せるどころから、そのまま顔を近づけ、まるで飼い主にじゃれ付く犬のように零治の顔を舐め回してきたのだ。



「わっぷっ!? 樺憐、何をして……っ!」


「ペロペロ……何をと申されましても、見ての通りですわ。ペロペロ」


「おいやめろ! く、くすぐってぇ……うひゃひゃひゃひゃっ!」



零治はやめろと言ってるのに樺憐はやめようとせず顔を舐め回してくる。

一体なんの理由があって樺憐はこんな事をしているのか零治は理解できない。というか考える余裕すら無い。樺憐が顔を舐めてくるからくすぐったくて口から出てくるのは笑い声だけだ。

そのせいで今の零治はいつのように思考を働かせる事が出来ないし、今の体勢では身を捩った程度じゃ樺憐を避ける事は出来ないし、振り解こうにも何気に樺憐は巨体を駆使して零治を押え付けているのだ。

おかげで零治は樺憐にされるがままにされ、辺りには零治の情けない笑い声が木霊し、その光景を見ていた亜弥達も思考が停止して眼が点になり、呆然としていた。

が、いち早く思考が回復した奈々瑠はハッとして顔を上げ、樺憐に詰め寄ったのだ。



「ちょっ!? 母さんっ! 何してるんですか!?」


「ん? 何って……ペロペロ。零治さんの疲れを癒してあげようと……ペロペロ」


「だったら顔を舐める必要なんか別に無いじゃないですかっ! そんな事しても兄さんが落ち着いて休めないだけですってば!」



奈々瑠は耳元で喚き散らしながら樺憐の身体をユサユサと揺さぶってやめるように言い聞かせるが、当の本人である樺憐は奈々瑠の言葉には全く耳を貸さないし、やめようともしない。

奈々瑠は実の娘だけあって、樺憐が美人だという事は認めている。零治が自らに課している戒めの内容を考えれば、こういう事をされても心が揺れ動く可能性は無いだろうが、例え実の母であろうとも恋する乙女としてはこういう光景を見せられても正直気分はあまりよろしくない。

やめろと言っても樺憐は耳を貸さないので、奈々瑠は強硬手段に出た。



「くぅぅ……っ! こうなったら私も……」


「おい、奈々瑠。何をする気だ……?」



奈々瑠は両眼を閉じて全神経を集中し、その身は全て黒い靄に包み込まれた。

次の瞬間、奈々瑠の全身を覆いつくしていた靄は弾かれたように消し飛び、中からは黒い体毛に身を包んだ一頭の狼が姿を現した。

奈々瑠は娘としてではなく、一人の女として樺憐に対してライバル心を剥き出しにして狼に姿を変え、四本の脚で大地をしっかりと踏みしめて力を溜め、そのまま軽く跳躍して零治の腹の上にダイブしてきたのだ。



「ぶふぅ!? な、奈々瑠……何しやがる……っ!」


「わ、私は母さんが相手であろうとも……負けたくはないんですっ!」


「だからってオレの腹の上にいきなりダイブするんじゃ……って! お前まで顔を舐め回す……ひゃっひゃっひゃ!」


「ペロペロ。い、嫌です! 絶対やめません!」


「ぎゃははははっ! く、くすぐってぇ! や、やめろ……っ! は、腹がよじれちまう!」


「ブー! アタシだけ仲間外れなんてズルい! アタシもやるーっ!」



ここに来て臥々瑠まで狼に姿を変えて零治の腹の上にダイブし、覆いかぶさりながら樺憐や奈々瑠と同様に零治の顔を舐め回してきた。

馬並みの巨体をした狼を枕代わりにして地面の上に寝転がり、平均的なサイズの黒と茶色の毛並みの二頭の狼には上にのしかかられ、そのまま三頭の狼に顔を舐め回されて零治の情けない笑い声が辺りに木霊した。

零治は笑いながらも身を捩ったり、両脚をバタつかせて樺憐達を振り解こうとするが全く効果は無い。

中々に異様な光景ではあるが、傍から見てみると一人の人間がやたらと人懐っこい狼達にじゃれ付かれているようにしか見えなかったが、その光景を傍らで見ている亜弥と恭佳の視線は非常に冷めたものだった。



「随分と楽しそうですね、零治……」


「こ、コレのどこが楽しそうに見え……ひゃははははっ!」


「ったく。良かったじゃん、零治。可愛い女の子達にご奉仕してもらってさぁ……」


「ね、姉さん、見てないで助け……ぎゃははははっ! お前らホントやめろ! オレを笑い死にさせる気……うひゃひゃひゃっ!」


「さて、零治は何やら忙しそうですし、私達は仕事に戻るとしましょうかね」


「そうだね。……じゃあね、零治。ごゆっくり~」


「ちょっ!? お前ら! オレを放置して行くんじゃ……ぎゃははははっ!」



零治は好きでこの状況を受け入れてるわけではないのに、目の前の光景に亜弥と恭佳は何やら不快感を覚え、零治を助けるどころかそのまま放置し、冷ややかな視線を最後に向けてさっさと自分達の持ち場へと戻っていってしまう。

零治は右手を伸ばして声を張り上げながら亜弥と恭佳を引き留めるが二人は耳を貸そうとせず、零治の身体は黒と茶色の毛玉の中に埋もれ、樺憐達に顔を舐め回され続け、一休みするどころか笑い地獄を味わう事となり、全く休む事などできないのだった。

零治「お前は何を考えてあんな事を書きやがったんだ……」


作者「何か不満でも? いいじゃんか。可愛い女の子三人にご奉仕してもらえたんだぞ?」


亜弥「三人の女の子ではなく、三頭の狼の間違いでは?」


恭佳「アンタらってケモナーだったの?」


作者「獣キャラも可愛くていいとは思うけど、オレはケモナーではないぞ」


零治「オレにもそんな趣味は無い……」


臥々瑠「奈々瑠。ケモナーって何?」


奈々瑠「っ!? し、知らないわよっ!」


樺憐「そうですわねぇ。そういうプレイも悪くないとは思いますが、どうせするんならわたくしはいつもの姿が良いですわねぇ」


作者「あっ、あぁ。樺憐さん? あまり危ない発言は控えてくれませんかねぇ? この作品、十八禁じゃないので」


零治「元はと言えばお前が今回の話であんなこと書くのが悪いんだろうが……」

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