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第69話 疲れるご褒美

いつもの事とはいえ、長い間お待たせしてしまって申し訳ありません。

この場ではいつも謝ってばかりですね、私。

今回の拠点パートはかなり詰め込んでいるため長い内容ですが、楽しんでいただけたら幸いです。

「左翼! もっと動きを機敏に! 中央の展開に遅れているわよ!」


「中央前曲、前に出過ぎない! そんなに的になりたいの!?」


「右翼は、左翼と中央の動きをよく見てくださいねー。引きずられて全体の陣形を崩さないようにー」



戦場と化している果てしない荒野を見渡せる丘。

前に行った魏の首脳陣同士による武道大会があのような形で終了してしまったため、今回は趣向を変えて朝から魏の軍を総動員した展覧演習を行っているのだ。

部隊指揮を司る仮設の陣屋には慌ただしく人が行き交い、その中でも一番騒がしい……いや、むしろ殺気立ってさえいるのが、魏の頭脳と言われている桂花、稟、風の三人が居る卓である。

桂花と稟は思うように動けていない部隊に向かって怒鳴り散らしているし、普段はのほほんとしているあの風でさえ、怒鳴りこそしてはいないが眉間に皺を寄せながら難しい表情で部隊にテキパキと指示を出していた。

三軍師のこの気合の入りっぷりはいつも以上である。故に殺気立っているのだ。

と言うのも、この展覧演習には当然ながら後ろから静かに華琳も観察をしているのだ。王に日頃の成果を披露するものとなればこの気合の入りようは当然であり、それだけプレッシャーを感じているのだ。

と、その時である。一人の兵士が息を切らしながら三軍師が詰めている卓の前まで駆け寄って来たのだ。



「報告! 左翼の外側から敵部隊、接敵!」


「演習中よ! まさか……他国かっ!?」


「いえ、旗印は張遼殿! お味方です!」


「か……華琳様……っ!?」



兵士の報告を受け、稟は呆気にとられた表情で華琳へと視線を向けた。

それはそうだろ。いま行っているのは御前演習である。普通は伏兵など仕込んだりはしない。つまりこれは華琳がワザと仕組んだ。だが実に合理的でもある。

演習とは実戦を想定して行う云わば模擬戦のようなものだ。そのため使う武器も模擬戦用の刃を潰した殺傷能力のない物だが、それでは実戦に近いとはまだ言えない。

本物の戦場は何が起こるか分からないのが常。だからこそ華琳は三軍師の力を試すべく、敢えてこのようなイレギュラーを仕込み、限りなく本物の戦に近い形式に仕立て上げたのである。



「さて、どうさばく気かしら? 霞には手加減無しで行くように指示してあるから、本気で来るわよ?」


「くっ……。接敵している部隊は張遼隊の足止めを優先! 他の隊の動揺を最低限に抑えなさい! 足止めしている隊に隣接した部隊は、伏兵を連携して挟撃!」


「はいっ!」



桂花は忌々しげに歯ぎしりをしたが、すぐに気持ちを切り替えて頭をフル回転させ、報告してきた兵士に指示を飛ばした。

咄嗟の対応としては上々。少なくともこれで被害は抑えられるはずである。

その様子を華琳と共に後ろで見ていた零治はふと疑問が浮かんだ。この場に見当たらない人物がもう二人居るのだ。



(ん……? そういえば季衣と流琉の姿も見当たらんな。……って事は)


「報告! 右翼外側に敵部隊接敵! 旗印は許緒殿、典韋殿!」


「接敵しているのはどこの隊ですかー?」


「はっ! 刑貞隊です!」


「刑貞さんなら、ちゃんと動いてくれるでしょうし……。他の隊には、さっき通達した通りの対応でお願いしますと伝えてくださーい」


「はっ!」


「……おい風。そんな対応策、いつの間に用意してたんだ?」


「えっ? 今さっきですけどー」


(相変わらずコイツの行動は予測できん……)


「奇襲時の対応としては、どちらもまあまあといった所ね……。次の模擬戦では、もう少し良い成果を見せて頂戴」


「かっ、必ずや!」


「はい……」


「はーい」



華琳からは少々厳しい評価を下され、三軍師は次の模擬戦でこの雪辱を晴らすべく気合を入れ直す。

現在行われている模擬戦はこれにて終了し、次の模擬戦の準備をするべく隊の割り振りが行われるのだが……次の戦いはある意味では、今の戦いよりも厳しい物になるであろうと零治は痛感させられてしまうのだった。


………


……



「そんなわけでー、この模擬戦、さっき良いとこ無しだった桂花ちゃんは華琳様に良い所を見せようと本気で来ると思いますー」


「だろうなぁ……」



零治は宙を見上げながら隊分けの時の桂花の様子を思い出してみた。

零治は桂花にとって敵側に所属しているため、振り分けの時に彼女は零治の事を思いっきり睨み付けてきたのだ。

これだけで充分な判断材料である。桂花はこの模擬戦で華琳に良い所を見せると同時に、零治に対する日頃の鬱憤を晴らすつもりでいるのだ。桂花が本気で来るのはこれでよく理解できるが、憂さ晴らしという不純な動機が混じっているため、零治から言わせれば迷惑な話である。

因みにこちらの陣営に割り振られた人員は零治、恭佳、臥々瑠、秋蘭、季衣、凪、真桜、沙和、軍師には稟と風の二人と合計十名である。

数ではこちらの方が相手陣営よりは勝っているが、向こうにはそれを不利とも感じさせないバランスブレイカーである樺憐が配置されているため数の差で勝敗が決する事は無いだろう。

さて、風の今のセリフから桂花がどのように攻め込んでくるかはある程度の予測はつくので、今後の行動方針を秋蘭が軍師二人組に尋ねた。



「して、軍師殿。こちらの対策は?」


「敵の将軍は春蘭様、霞、流琉、亜弥殿、樺憐殿と奈々瑠殿の六人。間違いなく、中央前曲は……」


「春蘭様ですよねぇ……」


「それに樺憐も間違いなく来るだろうね。春蘭一人なら何とかできなくもないけど、樺憐と同時に来られたらこっちはひとたまりもないわよ……」


「はい。ですからこちらの中央は、お兄さんと恭佳ちゃんにお願いしたいんですよー」


「おいおい。マジかよ……」


「おい、風。それはいくらなんでも荷が重すぎないか? ……音無、左腕はまだ本調子ではないのだろう?」


「ああ。あまり痛みはしなくなったが、たぶん左腕に樺憐の一撃を喰らったら再起不能になるかもしれんぞ……」


「敵方で一番怖いのは、動きが読めない霞ちゃんですし、恐らくお姉さんも一緒に居る可能性が高いですから。それに樺憐ちゃんの抑えはお兄さんと恭佳ちゃん以外の方には務まりそうにありませんから、秋蘭ちゃんには彼女達を抑えてもらいたいんですよー」


「……そういう事か。承知した」


「ちょっと。話を進めてるとこを悪いんだけどさぁ、亜弥と霞が怖いのはアタシも分かるよ。だけどアタシと零治の二人で春蘭はともかく樺憐を止められると思ってるの……?」



樺憐の実力に関しては魏の首脳陣全員が既に理解している。

兵を運営した戦闘に関してはまだ不充分な点があるが、個の戦闘力に関しては圧倒的だ。彼女が本気になれば一人でこちらの部隊を壊滅させる事だって可能だろう。そんな人物を春蘭と同時に相手をしながら止めるなど、零治と恭佳から言わせれば無理難題でしかない。

だが風が思い描いている作戦は零治達が考えているものとは違うらしく、首を横に振って口を開いた。



「別に止める必要はないんですよー」


「どういう事だ?」


「零治殿の隊は、何とかして春蘭隊をこちらの内側に抱き込んでください。後は本隊とそちらの隊で挟撃をかけて一気にカタを付けます。その間に零治殿と恭佳殿のどちらかで樺憐殿に妨害されないように彼女を抑えておいてほしいのです」


「訓練なんですから、普段はやれない事を試す、良い機会ですしねー」


「なら後曲の桂花はどうすんの? そっちも挟撃なんだろうけど、見方によっちゃアタシらも挟み撃ちになるんだけど」


「そこは零治殿の隊の副官三人と上手く手分けして、何とかさばけませんか?」


「それに春蘭ちゃんは樺憐ちゃんを置いて突出してくるでしょうし。そうなれば樺憐ちゃんは孤立しますからお兄さんか恭佳ちゃんが抑えてやれば本隊との間にも隙が出来ると思うんですよねー。ですからお兄さん達は出来るだけ早く春蘭ちゃんの隊を内側に引き込んでですね……」


「速攻が命って訳か。分かった。何とかしてやるさ」


「じゃ、ボクは流琉の相手で」


「アタシが奈々瑠でいいんだね?」


「頼む。彼女達の癖は、二人が一番理解しているだろう? 一刻も早く撃破して、零治殿達や我々を助けてくれると助かる」


「うん。任せてっ!」


「うんうん。ドーンと大船に乗ったつもりでいていいからねっ!」


………


……



「いいわねっ! 何としてでもあいつらをぶちのめして、華琳様にお褒めの言葉をいただくのよっ!」



場所は変わってこちらは桂花が軍師を務める陣営。

当の本人である桂花は必死の形相で前に横一列に並んでいる亜弥、奈々瑠、流琉、霞、春蘭に怒鳴り散らしていた。

因みに樺憐はというと、この割り振りに不満があるらしく、陣内の隅っこにしゃがみ込んで地面にのの字を書きながら何かブツブツと独り言を漏らし、その背にどんよりとしたオーラを纏っていた。



「はいはい……」


「はぁい……」


「はぁ……」


「おー」


「元気が無いわよあんた達っ! いいわね、春蘭も!」


「言われるまでも無い! 任せておけ!」


「ああ、いつもは馬鹿でどうしようもないあんたが、今日だけは妙に頼もしく見えるわ……。眼の錯覚かしら」


「ふんっ。我が精兵部隊の手にかかれば、音無だろうが秋蘭だろうが季衣だろうが一捻りよ。桂花はその様、しかと見ておくがいい!」


「頼むわよ、春蘭! ……って、樺憐! あんたいつまでふてくされているつもりなのよ!」


「なぜわたくしが零治さんと一緒ではないのですの。こんなのあんまりですわ。あの方のお役に立つ事が今のわたくしの喜びですのに、これはわたくしに対する嫌がらせですか。わたくしにあの方の敵になれだなんて……あぁ、こんなの酷すぎますわぁ……」


「あぁもう! いい加減にしなさいよ! この演習、勝てるかどうかはあんたと春蘭の双肩にかかってるのよ!」


「樺憐! 貴様も武人ならばいつまでもうじうじしとらんと、しゃきっとせんか!」


「あ、あの……」



完全に演習に勝つ事に躍起になっている春蘭と桂花に流琉が遠慮がちに声をかけるが、流琉の声が今の二人に届くはずも無かった。

そしてこの光景には霞は見覚えがあり、流琉の肩にポンッと手を乗せて首を横に振った。



「あー。無駄無駄。ああなった二人を止めるなんて、華琳か秋蘭か零治やないと無理やから」


「……姉様なら止められるんじゃないですか?」


「いや、流石の私も無理ですよ。樺憐なら行けそうな気もしますが……彼女は見ての通りあの有様ですしね」


「樺憐さん。兄様と一緒に戦えない事によっぽど衝撃を受けたんでしょうか」


「まあ樺憐の零治に対する心酔っぷりは、華琳に対する春蘭、桂花のそれと似とるからなぁ。……ってか、あいつさっきからあの調子やけど大丈夫なんか?」


「大丈夫だとは思いますけど……姉さん。念のため私がフォローしときますね」


「お願いします」



流石に落ち込んでいる母親を娘として放ってはおけないので、奈々瑠はトテトテと樺憐の背中に歩み寄って横に並んでしゃがみ込み、何かを言い聞かせていた。

距離が離れているためここからでは何を言ってるか聞こえないので内容は分からないが、奈々瑠の言葉が心に響いたのか、樺憐はいつもの穏やかな笑みを浮かべて奈々瑠を優しく抱き寄せた。



「ええ子やなぁ。樺憐はあんなよう出来た娘を持てて幸せ者やで」


「そうですね。私も同感ですよ」


「……はぁ。それに引き替え、この二人ときたら」



樺憐と奈々瑠の母娘の心温まる光景を前にして霞は穏やかな笑みを浮かべていたが、すぐ横でギャーギャー騒ぎながら目先の勝利に囚われて闘志の炎をメラメラと燃え上がらせている春蘭と桂花の姿を眼にして、その表情は一転してしかめっ面へと変わった。



「亜弥、流琉。よう見とくんやで。周りが見えんようになった猪どもが、身内にとってどんだけ怖いか。幸い演習じゃ死人は出えへんし、ええ勉強やと思い」


「霞さんは経験あるんですか?」


「…………人には、歴史ありや」



霞は流琉の疑問には答えず、フッと小さな笑みを浮かべながら昔を懐かしむように遠い眼をしながら空を見上げ、意味深な言葉だけを口にした。

その姿に、亜弥は何とな~くだが、霞が猪に例えた人物の姿が頭に浮かんだ。



(あっ……私もしかしたら、霞が言っていた猪に心当たりがあるかも)


「行くわよーっ!」


「おーっ!」



平穏な時間の終わりを告げるかのように、桂花と春蘭の大きな声で亜弥は現実に引き戻され、間もなく演習が始まろうとしていた。

見ての通り桂花と春蘭はこの有様だ。今さら何を言ったって無駄でしかない。ならば今の亜弥達にやれる事は自分達でフォローを入れながら演習に勝つために出来る限りの努力をし、桂花と春蘭が暴走しない事を祈るしかない。



「あんた達もっ! 行くわよーっ!」


「おおおっ!」



相変わらず気合たっぷりの勢いで声を張り上げる桂花と春蘭。

とりあえず亜弥達はこの場だけは合わせてやろうと思い、右手を握り締めて軽く宙に挙げながら亜弥、奈々瑠、樺憐、霞、流琉は順に春蘭の掛け声に続いてやった。



「おー」


「おー」


「は~い」


「おー」


「おー」


………


……



「つー訳で、オレ達の隊は中央を突撃してくるであろう春蘭隊とその援護に回る樺憐隊を受け持つ事になった」


「ちょっ! 隊長、なに引き受けて来とん!」


「隊長。春蘭様の部隊だけでも厳しいのに、樺憐様の相手も同時にやるのは危険すぎるのでは」


「アタシもそう言ったんだけどね。こっちの組じゃ、アタシらが一番機動力があるし、折角の訓練だから普段できない事をやろうってのが風の言い分」


「あー。そういう意味じゃ、あのタマ無しどもにはいい刺激になるかもなのー。でも隊長、やっぱり危険なんじゃー」


「樺憐の相手はオレがするから心配すんな。だからお前らは春蘭の相手をしっかりな」


「そりゃ、春蘭様の隊とぶつかるなんて滅多に出来へん経験やろうけど……」


「何だよ?」


「……あの気当たり喰ろうたら、新兵ども再起不能にならへん?」



真桜の指摘に零治達は顔を見合わせながら戦場に立つ春蘭の姿を思い浮かべてみた。

知っての通り、春蘭は魏の軍勢の中核を担う重要な人物であり、戦場での彼女の放つ気迫は戦馴れした百戦錬磨の武将ですら怯むほどの迫力があると言っても過言ではない。

そんな春蘭が放つ気迫を、本物の戦場に立った経験も無い新兵が真正面から受けたらどうなるか……よくて卒倒して気絶。最悪の場合は泡を食って逃げ出し、そのまま戻ってこない可能性も否定できない。

そんな事態になったら演習どころの話ではない。が、零治達は頭をブンブンと左右に振って不吉な未来像を無理やり振り払った。



「だ、大丈夫だろ。それにアレを喰らえば、多少の事では怯まなくなって良い兵士に育つはずだ……」


「そうだな。隊長の言う通りだ。我々は、我々の育てた兵達を信じようではないか」


「二人とも声が震えとるで」


「…………」


「…………」


「うーん。まあそれは仕方ないとして、実際どうするのー? 足止めするにしても、作戦も無しに当たっても絶対に勝てないと思うのー」


「分かってるわよ。風も、とにかく後ろにいなして、本隊と挟撃して速攻でケリを付けようってさ」


「でだ、ここに来るまでに姉さんと相談して考えたんだけどな……」


「ふむふむ……」



零治は恭佳と共に考えた作戦を凪達に説明する。

確かに零治達の部隊は数は多いが新兵ばかりで構成されているため、魏武の大剣と謳われている春蘭が率いる精鋭部隊に真正面から挑んでも勝ち目は無い。

ならばどうするべきか。力で勝てないのならば、別の事で勝っている点を利用して挑むしかない。零治達の部隊の最大の武器、それは数の多さと機動力の高さだ。それらを最大限まで生かした作戦を零治と恭佳は捻り出している。後は実践あるのみだ。


………


……



そして演習開始の銅鑼が打ち鳴らされ、互いの軍勢の部隊が一斉に行動を開始した。

先程同様に、この演習も華琳が見ているのだ。ならば無様な醜態を晒す事などできやしない。

兵を指揮する将達は勿論の事、軍師勢もそれは同じ。機を焦らず、尚且つ相手に先手を打たれないように迅速に行動する必要がある。

そして風達の予測通り、まだ突出こそしてはいないが春蘭率いる部隊が樺憐の部隊と共に前曲へと進軍を始めたのだ。



「報告! 敵前曲、動き出しました! 旗印は夏候惇様! 及び樺憐様!」


「左右は?」


「まだ動き始めてませんが、右翼は張遼様と神威様、左翼は典韋様と奈々瑠様!」


「今の所は予定通りね。前曲の音無隊に、予定通りで構わないと連絡して」


「音無隊より報告ですっ! 敵の動きが予定通りのため、行動を開始すると!」


「あら、お兄さん、はやーい」


「天の国でも一部隊を指揮していたのは伊達ではないようですね。……伝達内容を変更します。貴官の奮闘を期待する、とだけ伝えてください」


「はっ!」


………


……



「凪と沙和は行ったか……」



零治達の正面には春蘭隊と樺憐隊の旗が風になびきながらゆっくりとこちらへ近づいていた。

ここまでは予定通りではあるが、相手は百戦錬磨の春蘭と一対一の闘いでは敵無しの樺憐なのだ。

春蘭率いる魏の精鋭部隊を前にして新兵で構成された零治の部隊がどこまで戦えるかは、この演習のために考えた作戦が重要であり、その鍵を握っているのは真桜でもある。



「ん。隊長、これで合図があればいつでも動けるで」


「しかしそれ、ホントに大丈夫なんだろうなぁ?」



零治と恭佳が知恵を絞って考えた作戦の最後の仕込が真桜が持ってきている木箱の中に隠されている。

中に入っているのは零治が随分前に真桜に頼んで作らせた絡繰りであり、何かあった時の保険として持ってきていたのだが、実際に使うのはこれが初めてである。何より作った本人の日頃の行いが行いなだけに零治は一抹の不安を抱えていた。



「何や、自分で作れ言うたくせに。そんなにウチの腕、信用してへんの?」


「そりゃお前の日頃の行動を見ているとな……」


「何それ。ひどーい! そりゃウチはちょっとは……ほんのちょーっとだけいい加減な所もあるけどな。このコらに対する想いは本物やで」


「ああ。そうだな。すまんすまん」


「おーい。零治ー」


「おっ。姉さん、連れてきてくれたか」


「ああ。アタシらの隊の中で一番弓の扱いが上手いのがコイツだってさ」


「そかそか。ならあんたに重要任務や。ちょいと耳かし」


「は、はいっ!」



新人な上に天の御遣いと称されている零治からのお呼びだったため、恭佳が連れてきた兵士は緊張した面持ちで姿勢を正しながら真桜が耳打ちしてきた重要任務の内容をその頭の中に一字一句全て叩き込んだ。

春蘭隊、及び樺憐隊との接敵も間もなくだ。この作戦が成功するか否かは先程も述べたように真桜が作ったこの絡繰り、そして恭佳が連れてきたこの兵士の弓の腕前にかかっているのだ。


………


……



「ちょっと! 何で中央だけ突出してるのよ! 伝令っ! 誰か居ないの! 伝令ーっ!」


「はっ!」


「中央の夏候惇の所に行って、樺憐の部隊と歩調を合わせて先行するなと伝えなさい!」


「はっ!」


「……全くもぅ。やっぱり馬鹿は馬鹿のままね」



桂花は右手を額に当てながら天を仰ぎ、首を左右に振りながらやれやれと溜息を吐いた。

伝令を出したので抑えは効くだろうが、こちらの組の主力である春蘭は案の定同行している樺憐の部隊を放置して一人で勝手に先行しているのだ。

先の演習での汚名を返上し、華琳に何が何でも褒めてもらいたいのと、向こうの組には零治が居るため桂花はこの演習に是が非でも勝たなければならないのだ。

春蘭の実力は確かだが、彼女のこういう突撃思考な所は桂花にとって頭痛の種でもあった。



「春蘭が力技であの男に負けるとは思えないけど……総員に通達、いつでも動けるように準備しておきなさい!」


………


……



「隊長、見えました! 旗は……音無隊です!」


「ほほぅ。前曲は音無か」


「間違いありません! 夏侯淵様は敵左翼、張遼様、及び神威様の隊とぶつかるようです!」


「なら、季衣と臥々瑠が右翼か」


「はっ! こちらは典韋様、奈々瑠様と!」


「秋蘭か季衣が来ると思っていたが……音無を前曲に配置したか」


「どうしますか? 方向を変えて他の隊を叩きますか?」


「そんな小細工は不要だ! このまま一気に突っ込んで、音無隊を本陣ごと蹴散らしてくれる! 総員、突撃! 突撃ぃぃっ! 音無隊の新兵どもに、我らが夏候惇隊の恐ろしさ、骨の髄まで叩き込んでやれぃ!」



零治には日頃一対一の模擬戦で辛酸を舐めさせられていたため、その鬱憤を晴らすために頭に血が上った春蘭は風の読み通り、完全なる突撃態勢に移行し、若干遅れ気味の樺憐の部隊など気にも留めずに大量の砂煙を舞い上げながら一直線に零治の部隊に向かって走り出し始めたのだ。


………


……



「あらあらぁ。春蘭さん、あんなに張り切っちゃってぇ」


「……あの、樺憐様。よろしいのですか? 急がないと私達、夏候惇様の隊に追いつけなくなりますよ」


「…………」



樺憐は副官の言葉に耳を傾けながら右手を顎に添えて考え事をする仕草をして思考を巡らせる。

それからすぐに結論が出たのか、樺憐は首を横に振って意外な言葉を口にしたのだ。



「わたくし達は行軍速度を落とし、現状を維持します」


「はっ? それでよろしいのですか?」


「恐らく向こうの狙いは、春蘭さんの隊を零治さんの部隊と本隊で挟撃して速攻で撃破し、そのまま本陣へ雪崩こむつもりなのでしょう。となると、わたくし達がここに留まらないと本陣を護る事も春蘭さんの援護にも向かえませんわ」


「なるほど」


「各員に伝達ですわ。わたくし達は行軍速度を落とし、本陣と前方の春蘭さんの隊との微妙な距離感を保ちながら現状を維持しますわよ」


「はっ!」


………


……



「あーあ。春蘭、やっぱり突っ走り始めましたね」


「やれやれ。あんなに急いでも、しゃあないねんけどなぁ……。亜弥、秋蘭の動きはどうや?」


「ん~……動いてはいますが、随分とゆっくりですね。恐らくこちらの様子見に徹しているのでしょうが」


「相変わらず上手いこと動きよるなぁ。こっちを迎え撃つ気ならええけど、春蘭が挟み撃ちになるのは面白うないか」


「どうします。もうしばらく様子見をしますか?」


「せやな。秋蘭もこっちが噛みつけるって分かっとるやろうから、迂闊な真似はせえへんやろ。総員、別名があるまで現状速度を維持!」


………


……



「張遼様、神威様、未だ変化ありません。隊長、どうしますか?」


「桂花さんから指示は?」


「こちらもありません」


「なら、私達は行軍速度を上げましょう。神速の張遼隊がゆっくりなのは、後で一気に距離が詰められるからでしょうし、神威隊は遠距離戦に特化した部隊ですから極端な移動をしたりはしないでしょう」


「はっ!」


「こちらは先行して許緒隊の頭を押えます! 総員、駆け足! ……行きますよ、奈々瑠さん。遅れないでくださいね」


「分かってます。……奈々瑠隊も典韋隊に続いて臥々瑠の部隊を押えます! 総員駆け足!」


「はっ! 我らは奈々瑠様のご命令とあらば地の果てまでも参りましょうぞ!」


(……どうして私の隊の兵隊さんはこんな人ばかりなの)



因みにこれは姉妹共通事項。つまり臥々瑠の隊の兵士達もこんな調子なのは言うまでもない。

初めは少数だったのだが、時間が経つ内に張三姉妹のファンのように数は徐々に増えていき、今ではその規模は見ての通り、一部隊を編成できるほどの数にまで膨れ上がっている。

兵士達の士気が高いのはいい事なのだが、本人から言わせれば熱狂的を通り越して気持ち悪いの一言で切り捨てれる光景である。


………


……



「さて、来たか……」


「ん? 隊長。もしかして緊張しとるん?」


「まあな。春蘭とはサシの勝負なら何度も経験しているが……アイツの部隊と正面から戦うのはこれが初めてだからな。それにこっちの兵士達は新兵ばかりだ。勝てる可能性は皆無だ」


「模擬戦やで?」


「お前だって震えてるくせによ」


「あれ、バレた?」


「後は凪と沙和が上手くやってくれる事を願うぜ」


「大丈夫やって。あの二人がしっかりしとるのは隊長も知っとるやろ?」


「ああ。そうだったな」


「……っ! 零治! 来たよっ!」



お喋りはここまでだ。恭佳の鋭い叫びを合図に、正面に視線を向ければ春蘭率いる部隊との距離はもう目と鼻の先である。

兵を使って春蘭と戦うのはこれが初めてだが引き受けた以上はやるしかないし、零治にも意地はある。

模擬戦とは言えど無様な醜態は晒すまいと気持ちを切り替え、零治は戦闘時の鋭い視線を砂塵を舞い上げる春蘭の部隊に向ける。



「ほな隊長、いっちょやりますかねっ!」


「ああ。総員、迎撃用意! ……今だ!」


「凪に合図! 撃ちぃ!」


「はっ!」



真桜の指示を受け、恭佳が連れてきた兵士は矢を弓に番えて弦を一気に引き絞り、遥か上空に狙いを定めてその矢を瞬時に放った。

天高く放たれた矢の先端部には真桜が作成した狼煙が括り付けられており、狼煙内部の仕掛けが作動して本体に火が点火され、もうもうと真っ赤な煙が吹き上がり、その煙は雲一つ無い青空を縦一文字に切り裂いていった。


………


……



「くっ……! 流石は最精鋭部隊、この威圧感は……。沙和、まだか!」


「まだだよ……あ、空に赤い狼煙! 隊長達から指示、来たの!」



春蘭率いる魏の精兵達を前にして踏み止まるのが精一杯の状況の凪と沙和の部隊だったが、その最中に見えたのは零治の部隊から放たれた矢から吹き上がっている赤い煙だ。

いよいよ零治と恭佳が知恵を絞って考え出した作戦を実行に移す時が来たのだ。



「よし! 楽進隊、于禁隊、敵の左側へ進路変更! 音無隊、李典隊と進路を間違えるなよ!」



凪からの指示と共に、凪と沙和の部隊の兵士達は一糸乱れぬ動きで素早く行動し、春蘭率いる部隊の左側面へと回り込み、その動きに呼応するように零治と真桜の部隊も右側面へと回り込んで部隊を二つに分け、間に道を作って春蘭の部隊を挟み込みながら攻撃を開始した。


………


……



「隊長! 敵部隊が二つに分かれていきます!」


「ほほぅ。間を通させて、挟撃するつもりか。音無にしてはなかなか面白い策を考えたではないか」


「どうします? 敢えて罠にはまりますか?」


「そうはいくか! 総員、左右に散開! 手近な敵から噛みついてその場に引きずり倒せ! 夏候惇隊の戦いの流儀、しっかり叩き込んでやれぃ!」


………


……



「零治! 春蘭の奴、隊を二分してこっちの動きに追いついてきたよ!」


「く……っ! 春蘭様の動き、メッチャ早いでっ!」


「流石は魏の要って事かいっ!」


「ったく! 普段はアレなくせにこういう時だけきっちり決めてきやがって!」


「感心している場合やないわ! どうすんの!」


「姉さん! 他の隊は!」


「季衣と臥々瑠、流琉と奈々瑠は接敵! 秋蘭は霞と睨み合ったままだよっ!」


「クソッ! 他の部隊の援護は期待できんか……っ!」


「隊長どうすんの! こっちかなり限界やでっ!」



真桜の言う通り、このままでは春蘭隊の勢いに押し切られてしまいかねないし、ダラダラと時間をかけていて樺憐の部隊まで雪崩れ込んで来たら折角考えた作戦もご破算だ。

零治は必死に頭をフル回転させて考える。この状況を打開する方法を。自分達の強みを生かした最善策を。その時だ。零治の頭に一つの奇策が浮かび上がったのだ。



「真桜! さっきの狼煙付きの矢はまだ残ってるかっ!?」


「ん? そりゃ予備はいくらでもあるけど……」


「もう一発撃て!」


「はぁ? どういう…………あぁ、なるほど。でも、凪や沙和が分かってくれるかな?」


「さっきお前も言ってただろ? あの二人はしっかり者だって。オレの考えた事がアイツらに分からないはずはない!」


「せやったな。……撃ち方!」


「はっ!」



真桜の指示に従い、兵士はもう一度上空めがけて狼煙付きの矢を放ち、放たれた矢は空を駆け抜けながら青空に赤い煙を噴き上げ、縦一文字に切り裂いていく。

これで何とかなるだろう。零治は自分にそう言い聞かせながら皆を信じ、もう一つの役目を果たすべく行動を開始する事にする。



「ここはこれで大丈夫なはず。……姉さん、後は頼むぜ。オレは樺憐の所に向かう」


「向かうのはいいけど……まさか独りで行く気かい?」


「こっちの隊の兵は新兵ばかりなんだ。それにこの状況で部隊の人員を割くわけにもいかん。心配すんな。指揮官さえ潰しちまえば部隊は総崩れになるさ」


「……分かった。零治、行くからには必ず勝ってくるんだよ!」


「姉さんこそヘマすんなよ!」



零治の思いついた奇策が実行されれば、樺憐は間違いなく春蘭の援護に向かい、こちらが敗北してしまうのは考えるまでも無い。

そうさせないために、零治はこの場を恭佳に託し、互いの兵士達がぶつかり合う戦場の中を単身で樺憐の部隊を目指して一直線に駆け抜けて行った。


………


……



「夏侯淵様、あの赤い煙は何でしょうか?」


「李典の新兵器なのだろうが……音無の事だ。何か面白い策でも思いついたのだろうな」


「なるほど」


「まあ、向こうは大丈夫だろう。こちらもまずは、目の前の張遼隊と神威隊を打ち倒すぞ!」


「はっ!」


………


……



「くっ! 流石は春蘭様の隊、強い……っ!」


「ねえ、凪ちゃん! あれ、また赤い矢が」


「何……?」


「もう部隊、分断させてるよね? 誤射かな?」


「分断……そうか、流石は隊長!」


「んー?」


「部隊を私とお前の隊に更に分けて、最初の予定通りに相手をいなせという事なのだろう。後はそのまま、奥に押し込めばいい!」


「あ! そういう事かー。了解っ!」


「楽進隊、我に続け!」


「首が繋がってるだけの死にぞこないどもー! そのまま死体になって小便ひっかけられたくなかったら、我に続くのー!」



零治の意図を理解してくれた凪は即座に指示を出し、沙和もそれに続いて互いに部隊を更に二分し、自分達に襲い掛かっている春蘭の分隊の上下を挟み込むように展開して攻撃を開始し、更なる抵抗を試みた。


………


……



「楽進隊、于禁隊、部隊を分断させ始めました!」


「おっ! さっすがは零治の部下! ちゃんと分かってくれたじゃないの!」


「ほな恭佳様、ウチらも!」


「おうよ! 音無隊、今から弟に代わってアタシが指揮を執るよ! しっかりついてきなっ!」


「李典隊、一気に相手をいなすでっ!」


………


……



「何だとっ!? まだ部隊を分ける……?」


「夏候惇様! 別働隊も同じ戦法で……」


「分かっている! 各隊に伝令を飛ばせ! 文面は、戦闘継続! 手近な敵に噛みつけ、だっ!」


………


……



「あらあら。春蘭さん、苦戦を強いられていますわね」



前曲と本陣の中間である中曲を陣取りながら樺憐は前方の春蘭の部隊の様子見をしていたが、状況は見ての通りである。

最初はそうでもなかったのに、零治が思いついた奇策により思いもよらぬ苦戦を強いられ、状況は稟と風が描いていた通りに流れつつあった。



「樺憐様! このままでは夏候惇様の隊がっ!」


「分かってますわ。総員、駆け足! これよりわたくし達は夏候惇隊の援護に向かいますわよ!」


「そうはいかん。樺憐、お前にはオレの相手をしてもらうぞ……」


「っ!? ……あ、あらぁ。零治さん、どうしてこちらへ……?」



いざ春蘭の部隊の援護に向かおうと進軍を開始しようとした矢先に、零治が立ちはだかるように正面に現れ、左手を叢雲の刀首に添えながら不敵な笑みを浮かべ、こちらを睨み付けてくる。

対する樺憐は予想もしていなかった来客を前にして思わず進軍の足を止め、表情を引きつらせながらもできるだけ平静を装っていたが、樺憐が動揺をしているのは誰が見ても明らかだった。



「どうしてだと? フッ。オレがここへ来た理由など一つしかないぞ……」


「零治さ~ん。わたくし、春蘭さんの援護に向かいたいんですよ。そこをどいてくださいませんかぁ?」


「それはできない相談だな。どうしても通りたいのなら、何をするべきかは分かるよな……」


「零治さん。ここは落ち着いて話し合いましょう。わたくしは貴方様を殴るような真似はしたくないのです。どうかそこを通してくださいませ」


「それは無理だと言っただろう。そんなにオレと戦うのが嫌なら降参しろ。それで事は丸く収まるぞ?」


「……個人的な戦いならそうしていますが、これは演習ですので。それは出来ませんわぁ」


「ならどうするべきかは分かるな。樺憐、構えろ……」


「はぁ……。わたくしはこうなるのが嫌でしたから零治さんと一緒の組が良かったのですのに……」



樺憐は諦めたように嘆息し、渋々ながら格闘戦の構えを取り、その姿を確認した零治もゆっくりと居合の構えを取った。

ここまでは予定通りだ。後は後ろに居る恭佳達が作戦通りに稟、風が率いる本隊と共に春蘭隊を撃破出来れば勝敗は決する。そのためには、ここから樺憐に妨害されないように零治がその時間を稼がねばならない。だが樺憐も黙ってそれを許すつもりなどない。零治と戦うのは本意ではないが、演習である以上は役目を果たさないわけにはいかない。

樺憐は零治を見据えたまま脇に控えている副官に声をかけた。



「わたくしが零治さんを抑えている間に、貴方は隊を率いて春蘭さんの援護に向かってください」


「……あの、樺憐様。仰ってる事は分かるのですが、あの音無様が黙って我らを素通りさせてくれるとでも……?」


「ですわよねぇ……」


「そういう事だ。ここを通りたければオレを倒す以外に道は無い。……樺憐っ! 行くぞ!」


「あぁもう! わたくしにとって今日は厄日ですわね!」



樺憐は今日という日を思いっきり呪いながら喚き散らし、半ばやけくそ気味の勢いで低姿勢で突進してくる零治を迎え撃つべく、地面を蹴ってダッシュをし、零治との一騎打ちを開始した。


………


……



「春蘭隊、だいぶ混乱してるねぇ。桂花ちゃんはまだ追いつきそうにないし、頃合いかなー」


「そうだな。音無隊も再集結しているし、先程伝令から零治殿が樺憐殿の足止めに向かったとの報告も入ってる。今の内にここで一撃入れれば一気に突き崩せそうだ」


「普通なら、この段階で総崩れになってるはずなんだけどねー。さすが春蘭様の隊、分断されてもこんなに戦えるなんて……戦慣れしてるねぇ」


「倍近い頭数を駆使して、ようやく互角なのだからな……。だが、ここを抜ければ後は荀イク隊が残るのみ」


「だね。それじゃ稟ちゃん、お願いー」


「分かった。総員、前曲を一気に仕留めるぞ! 突撃ぃぃっ!」



機は熟した。稟はこの流れを物にするべく最後のダメ押しにかかり、声を張り上げて本陣に詰めている全兵士に向かって号令をかけて前曲の春蘭隊へと一気に雪崩れ込んでいく。

兵士の質に置いては春蘭隊の方が上だが、いくら戦慣れした精兵といえど数の暴力に晒されては苦戦も強いられてしまう。現時点では零治達の組がこの演習の優位に立っていた。


………


……



「ちょっと、あの馬鹿……偉そうなこと言ったくせに、何やってんのよ! これじゃ華琳様にお褒めいただくどころか、お仕置きじゃない……」


「あの、荀イク様……?」



桂花はそこで言葉を区切り、自分が華琳にお仕置きされる様を妄想してみた。

妄想内の桂花は下着姿で目隠しもされており、華琳の自室に二人きりで桂花は椅子に腰かけている華琳に命令されるがままに従いながら床の上に犬のように四つん這いになっていた。おまけに言葉を発する事は禁じられており、華琳が何かを言っても桂花は『ワン』としか言う事しか出来ない。まさに犬の扱いを受けていた。

まともな思考回路を持った人間なら、自身がこんな扱いを受けたら気が狂いそうだというのに、筋金入りのマゾである桂花はその姿に表情をだらしなくにやけさせていた。



「……それも悪くないわね」


「荀イク様ってば!」


「な、何よ!」


「いえ、各隊から指示の要請が」


「分かってるわよ。各隊に夏候惇隊の援護を要請! それから本隊は一気に距離を詰めるわよ! 進撃、進撃っ!」



副官に声をかけられて現実に引き戻された桂花は伝令にすぐさま指示を飛ばし、自らも本隊を率いて進軍を開始。しかし状況は後手に出てしまっており、各隊の状況から見ても春蘭の援護に向かうのは非常に厳しくもある。

しかし、桂花もただ黙って見ているつもりはない。あらん限りの知恵を絞ってなるべく最善の手を打とうと考えながら己を奮い立たせる。魏の首脳陣同志によって行われてる演習もいよいよ大詰めを迎えていた。


………


……



「ほほぅ。音無の奴、上手くやったな……」


「夏侯淵様! 荀イク様の本隊が動き出しました!」


「うむ。こちらも負けてはいられないな。姑息に走り回るだけの張遼隊を一気に叩きのめし、桂花の隊を迎え撃つぞ!」


「はっ!」


「張遼隊のそばには神威隊が控えている。奴の部隊は遠距離戦に特化しているからな。接近には充分に注意しろ!」


………


……



「あっちゃぁぁ……。やっぱ、上手くいなされとるやん」


「霞。桂花から春蘭への援護要請が来ているんですが……」


「秋蘭相手でンな余裕あるかい。桂花に任せとったらええわ。動いとるんやろ?」


「ええ。ただ……動いたのは伝令が出たのと同時ですが」


「遅いっつーの! らーめん屋の出前か!」


「いや、私に怒鳴られても困るんですけど……」


「やれやれ。流れは完全にあっちのもんやな……。とはいえ、ここで何も出来ひんかったら、華琳に掘られても文句言えへんしなぁ」


「……それは勘弁してくださいよ。私はそっちの気は無いんですからね」


「分かっとるって。ウチかてそれはご免や。……総員、突撃準備! 戦では負けても、ウチらはしっかり仕事を果たすで! 狙うは夏侯淵ただ一人や! ウチに付いて来ぃ!」


「神威隊! 私達も霞に続きます! しっかりと彼女の後方に付いて援護に徹しますよ! 進軍開始っ!」



左翼の戦況も大きく動き、互いに睨み合っていた秋蘭、亜弥と霞の部隊が突撃を開始し、辺りに大量の砂塵が舞い上がり始める。


………


……



「でえええええいっ!」


「てりゃあああっ!」



右翼でも季衣と臥々瑠、流琉と奈々瑠の部隊が激突して激しい攻防戦を繰り広げており、奈々瑠と臥々瑠は素手による取っ組み合いだが、季衣と流琉はいつも使用している馬鹿でかい得物を振り回しており、周りの兵達から見ればとても危なっかしい光景である。



「典韋様! 中央に呑み込まれた夏候惇隊が苦戦しています! そちらを助けろと荀イク様が!」


「今、ちょっと無理っぽいです……!」



桂花がよこした伝令は当然ここへも来て、流琉に春蘭の部隊の援護を要請するが、いま彼女は季衣と闘っている真っ最中なのだ。この状況下で春蘭の援護などできるわけがないし、何より季衣と臥々瑠がそれを黙って見逃がしてくれるはずもない。



「こんのぉぉぉっ!」


「くぅぅ……っ! 相変わらずのバカ力ねっ! アンタって奴は……っ!」


「奈々瑠様! 本隊の荀イク様から夏候惇隊の援護に向かってくれとの要請が!」


「この状況でそんな事できるわけないじゃないですか! 桂花さんには、自分で何とかしろと伝えてください!」



互いにガッシリと手を組み合いながら力による押し合いを繰り広げている奈々瑠にも要請は来たものの、臥々瑠と取っ組み合いをしている中でそんな事などできるわけが無かった。



「へへー。春蘭様には悪いけど、今回はボク達が勝たせてもらうよっ!」


「あの、隊長。奈々瑠様と臥々瑠様は素手だからいいのですが、今回は訓練なので模擬戦用の武器を使ってほしいんですが……」


「えー。だってあれ、軽すぎて手応え無いんだもん」


「いや、その武器が典韋様に当たったら……」


「流琉だから大丈夫だって。それに流琉もいつものだし。……って、あれ?」



いつの間にか流琉は攻撃の手を止め、こちらを警戒しながらジリジリと後退をしていたので季衣は怪訝の表情で流琉を見つめていた。

そもそも自分達の組が危機的状況に陥ってるのは、周りの状況をちゃんと見ずに暴走してしまった春蘭と桂花にあるのだ。そして流琉の頭の中には演習開始前に霞から聞かされたある言葉が脳裏をよぎって、彼女はその事を思い出しながらある決断を下した。



「……今回の勝負は対局を見据えないとダメ、って事ですよね。霞さん……!」


「あーっ! まだ勝負ついてないのに、逃げるなんてズルいーっ! 待てーっ!」


「流琉さん! ここは私が引き受けます! 早く行ってください!」


「奈々瑠さん、ありがとうございます。典韋隊は奈々瑠隊と協力してこのまま許緒隊と臥々瑠隊を押し込んでください! 臥々瑠さんの扱いは奈々瑠さんに任せ、季衣は適当にいなして、動きを止めるだけで構いません!」


「はは……分かってます」


「それから何人か、私と一緒に中央へ!」



流琉はこの場を奈々瑠に託し、危機的この状況下を脱するために数人の兵士を連れて中央へと一目散に走りだしていった。

しかし、彼女のこの決死の行為が無駄な形で終わってしまおうとは、この時点では本人は知る由も無かったのだ。


………


……



「ふぅ……何とか捌き切れたね」



激しく追いすがってくる春蘭の分隊を何とか風達の居る内側に押し込む事が出来たので、恭佳と凪はようやく一息つく事が出来た。

もちろんこれで勝負に勝ったわけではないし、まだ終わってもいない。だが戦局は現時点ではこちらの組が一歩リードしている形ではある。



「真桜と沙和は、後方から来る桂花様と樺憐様の隊の警戒に回しました」


「ああ。それでいいよ。しかし凪、零治の考えによく気付いてくれたね」


「沙和の言葉のおかげです。私一人では気付けませんでしたよ」


「そっか。とにかく後は、挟まれた春蘭隊に押し負けないように踏ん張ればいいだけだね」


「はい」


「恭佳様っ!」


「ん? ……って、アレは」


「春蘭様っ! お助けに参りました! 一緒にてった……って、あれ……居ない……?」



数人の兵を引き連れ、決死の覚悟で中央へ突撃して春蘭の救助に来たというのに、その肝心の春蘭の姿がどこにも見当たらないため、流琉はポカーンとした表情で辺りを見回すが、やはり春蘭はどこにも居なかった。



「流琉。右翼に居たはずのアンタが何でここに?」


「えっと……春蘭様に撤退の進言をしに来たんですけど……」


「……そういえば途中から春蘭様の姿を見ていませんね」


「アタシも見てないね。……あっ。ひょっとしてアイツ」



流琉がこの場に現れた事により、途中から春蘭の姿を見ていない事を恭佳と凪は思いだした。

そして、その理由について一通り考えてみると、ある仮説が浮かび上がったのだ。



「まさか春蘭の奴……部隊を放り出して零治の所に……?」


「あり得ますね、それ……」


「ええっ!? なら私は何のためにここまで来たんですかーっ!?」


「いやまあ、そこはご愁傷様としか言えないねぇ。まあせっかく来てくれたんだし、もてなしてやらないとねぇ……」



そう言うや否や、恭佳は不敵な笑みを浮かべながらソウルイーターを肩に担ぎ、ジリジリと流琉の方へと近づき始めた。

春蘭の危機的状況を救うためにここまで来たというのに、逆に自分が危機的状況に陥ってしまい、恭佳の姿に気圧されるように流琉は連れてきた兵達と共にジワジワと後ろに下がりながら顔には冷や汗を浮かべていた。



「き、恭佳さん。あの……その笑顔……怖いんですけど」


「いやぁ、弱い者虐めは趣味じゃないけど、この状況でアンタをこのまま見逃すわけにはいかないからねぇ……」


「き、恭佳さんっ!? まずは話し合いましょうよ! ねっ!?」


「安心しな。ちゃんと手加減はしてあげるって。……凪! アンタは周りの兵達をぶちのめしてやりな!」


「はっ!」


「さあ、流琉……覚悟しなよ!」


「ひゃああああああっ!!」



流琉の決死の行動は春蘭の暴走で無駄に終わってしまい、数名の護衛だけで中央へ飛び込んだのが仇となり、流琉は呆気なく恭佳に討ち取られる形で敗北し、その場には流琉の情けない悲鳴だけが虚しく木霊した。


………


……



「おおおおおっ!」


「せいやぁぁぁぁっ!」



場所は変わってこちら未だに樺憐の部隊が零治の足止めを喰らっている中曲である。

その場には零治の叢雲と樺憐のワイルドファングがぶつかり合う金属音が鳴り響き、激しい火花を散らせながら双方共に、一歩も退かない姿勢の凄まじい攻防戦を繰り広げていた。



「樺憐様! 夏候惇様の隊がっ!」


「……あらぁ。あの様子ではもう無理ですわねぇ」


「フッ。時間稼ぎは充分に出来たみたいだな。本来ならこのまま後退した方がいいんだろうが……」



零治は首の骨を鳴らして叢雲を後ろに引きながら構え直し、改めて樺憐を正面から見据える。

役目は充分に果たしたと言えるが、どうせなら徹底的にやって自分達の勝利を確固たるものにするのが最善策だと零治は考え、戦闘継続の意思を樺憐に示したのだ。



「まだやるおつもりなのですかぁ。零治さ~ん。わたくしを虐めてそんなに楽しいのですかぁ? もう勘弁してくださいよ~」


「フッ。お前の存在はオレ達にとって脅威なんだよ。ここでお前を倒し、オレ達の勝利を確固たるものにさせてもらうぜ!」


「あぁもう~。本当に今日は厄日ですわぁ……」



この状況のせいですっかり士気が低下している樺憐を前にし、零治は内心ほくそ笑んだ。

相変わらずその戦闘力は驚異的ではあるが、今の樺憐は積極的に攻めて来ようとはせず防戦に徹しているのだ。零治に対する樺憐の忠誠心が組の振り分けでマイナス面に働いてしまい、ここでも桂花のグループは危機的状況に陥りつつあった。

が、この状況下を良い意味でも悪い意味でもぶち壊しにしてしまう厄介者が現れたのだ。



「はーっはっはっは! 音無、ようやく見つけたぞ!」


「……おい。何で最前線に居たはずのお前がここに来るんだよ。前線放り出してわざわざ後ろに来たのか?」


「前後から挟撃されて前も後ろもあるか! この戦、せめてぶつかった隊の大将首は落としておかねば、華琳様に叱られてしまうのでな! 大人しく刀の錆になれい!」


(全く。ここに来て樺憐だけじゃなく春蘭の相手もする羽目になるとはな。これ以上時間をかけると桂花の隊にも合流されちまうし……あれ? もしかしなくてもオレ、結構ヤバい状況に居るんじゃね?)


「春蘭さん。部隊の指揮を放り出すのは指揮官として感心できませんわよ」


「やかましい! 丁度良い。樺憐、お前も音無を倒すのを手伝え!」


「はい!?」


(あぁ、やっぱこうなるか)


「はっはっは! これで形勢逆転だな! 一気に倒してやるから、覚悟しろっ!」


「あ~ん! どうしてこうなるんですかーっ!? 神はわたくしに何か恨みでもありますの~!?」


「はぁ……仕方ないな。……っと、春蘭。その前に言っておく事がある」


「何だ。今さら降参するとでも言うつもりではなかろうな」


「違う。間違っても左腕には当てるなよ?」


「貴様のそんな事情など知るかっ!」


「いや、知れよ!」


「問答無用! でえええええいっ!」



零治の抱えている事情などお構いなしに、春蘭は右手に持っていた剣を両手で大きく振りかぶりながら一気に間合いを詰めてきて、零治との距離が目と鼻の先まで縮まった所で、それを一気に振り下ろした。



「っ!? あーーーーーっ!!」


「きゃああああっ! 零治さーん!」



問答無用の勢いで振り下ろされた春蘭の渾身の一太刀は見事に零治の左腕にクリーンヒットし、左腕に纏っているガントレットの装甲からはガツンと鈍い金属音が鳴り響く。

模擬戦用の剣なので刃は潰してあるが、それでも扱う人物が春蘭のせいもあり、ガントレットの装甲越しからでもその衝撃は充分に伝わり、左腕には激痛が走ってその場に零治の悲痛な叫び声が響き渡った。


………


……



「うーむ。どうも釈然とせんのだが」



模擬戦終了後、城に帰還して城内の大浴場の湯船に浸かりながら零治は誰に言うのでもなく、いまいち納得のいかない気分を漏らした。

結論から言えば模擬戦は零治達の敗北で終わった。春蘭の一撃が思いのほか堪え、零治はそのまま再起不能になってしまい、その話は瞬く間に自分の部隊にも伝わって心理的ダメージが作用してしまい、春蘭隊に力負けしてしまったのだ。

おまけにそこから無傷の桂花の部隊が合流し、春蘭が樺憐の部隊を強引に率いて本陣に殴り込み、大将首を討ち取って模擬戦は終了した。

あらん限りの知恵を絞って練り上げた戦略が不確定要素が絡んでいたとはいえ、力で捻じ伏せられたのには零治は微妙に納得したくないが、これが魏武の底力なのだろうと思えるが、これよりももっと納得できない事があったのだ。



「本当にオレが最初に入ってよかったのか?」



それがこれ、一番風呂に入る権利だ。模擬戦で敗北したにもかかわらず、華琳は零治に最優秀賞として風呂に最初に入る権利を与えてくれたのだ。

ここが未だに理解できず、零治は自問自答を繰り返しているのだが、あの激戦で疲れているのでありがたくもあった。



「まあいいか。とりあえず華琳には感謝しないとな。……くぅぅぅっ!」



疲れ切っている零治の身体に、風呂の湯の温度が染み渡り、全身の疲れをほぐしてくれて堪らず声を出してしまう。現代世界では毎日入れて当たり前の風呂もこの世界では高級品なのでたまにしか入れない。

そのせいもあって、零治は改めて風呂のありがたみを痛感し、それと同時に左腕にも物理的な痛みを痛感した。



「っつぅ! ……ったく。春蘭の奴、思いっ切り殴りつけやがって。覚えてろよ……」



零治は昼間の模擬戦での春蘭から貰った一撃の事を毒づきながら左腕の繋ぎ目をさすり、痛みを和らげようとベルトの拘束具でグルグル巻きにされている黒色の左腕を湯船の中に思いっきり浸した。



『おい、相棒。あまり湯に浸けるな。ふやけちまうだろうが』


「うるせぇ。久しぶりの風呂なんだ。この至福のひと時を楽しませろ」


『やれやれ。別に風呂なんか入らなくたって死にやしねぇだろうが』


「フッ。所詮、本のお前には風呂のありがたみは分からねぇか」


『相棒。ケンカ売ってんのか……?』


「おっ。やろうってのか? 受けて立つぜ?」



零治にとっては立派な会話なのだが、傍から見れば独り言をブツブツ言ってるおかしな人物にしか見えない。まあ、幸いな事に今この場には誰も居ないし、風呂場の入り口には華琳から受け取った貸し切りの札を下げているのだ。誰かが来る心配も無い。そのはずだった。



(ん? 今……誰かの声が聞こえたような。まあ、誰か来ようが気にはせんが)


「~♪ ~~♪」


(んん? おい……この声、男じゃないよな……)


「こら姉者。風呂場で走ると危ないぞ」


「何、ここは貸し切りだろう。はーっはっはっは!」


(っておい! この声は……っ!?)


「とーーーーーーー……ぅ?」



風呂場から全力ダッシュをして湯船に飛び込んできた珍客のせいでバッシャーンと派手な水しぶき音がし、大きく飛び広がった湯は零治の頭にザバーンとぶっかかり、緩いツンツンヘアーが一瞬にしてペターンと潰れてしまう。

いや、今の零治にとってそんな事はどうでもいいのだ。問題は貸し切りのはずの風呂場に乱入してきた人物である。その者の正体は。



「だああああっ! 春蘭! 何してんだテメェは!」


「そ、それはこちらの台詞だ! どうして貴様がここに居るのだ!?」


「そのセリフ、そっくりそのまま返す! ここは男湯だぞ!」


「ここのどこが男湯なのだ! 我々が居る以上、女湯に決まっているではないか! なあ、秋蘭!」


「やれやれ。姉者。風呂は飛び込む物ではないぞ?」



どういう訳か風呂場にやってきたのは春蘭と秋蘭である。そしてこの場は風呂なので二人は当然裸。幸いな事に身体にはタオルを巻きつけているので完全な裸ではないが、それでも二人が生まれたままの姿であることに変わりは無い。

零治が居るにもかかわらず、秋蘭は普段となんら変わらない落ち着いた様子で湯船に浸かってきた。



「……いや、秋蘭。お前は落ち着きすぎだろう。これが眼に入らんのか?」


「おい! 人の事をコレとか言うな! ってか指刺すんじゃねぇ!」


「別に良いではないか。先客なのだし」


「そ、そういう問題ではないっ!」


「あぁ……良い湯だな……」


「しゅうらぁぁん……」



春蘭が横で零治の存在について湯をバシャバシャ波立てながらギャーギャー騒いでいるのに、どこまでもマイペースの秋蘭は湯船に浸かりながら至福のひと時に浸り、零治の事など全く気にも留めて無かった。



「やれやれ。姉者は恥ずかしがりすぎだぞ? 布で身体は隠してある。問題は無かろう?」


「馬鹿な事を言うな! それでも我らが裸である事に変わりはないであろう! こやつの事だ! きっと私達が風呂に入るのを事前に察知し、覗きをするために待ち伏せしていたに違いないっ!」


「んなわけあるか! ってかこんな堂々とした覗きがどこの世界に居るってんだ!」


「全くだ。姉者、もう少し落ち着け」


「だから秋蘭は落ち着きすぎだというに」


「あまり頭に血を昇らせると、のぼせるぞ?」


「む……むぅぅ……。だが、私は華琳様から直々に最初に風呂を使う権利を頂いたのだぞ! 敵将の首を討ち取ったのは私だからな!」


「……オレも言われたぞ。今日はよく頑張ったから最初に風呂に入っていいってな」


「どうして貴様が……」


「今日の音無はよく頑張っていたぞ? 途中で姉者の隊をいなした所など、中々どうして」


「ふ……ふんっ。あの程度、誰にでも出来る策ではないか!」


「その割には、音無が隊を四つに分けた時は、対応しきれていないようだったが?」


「ぐぅぅ……。それは隊の連絡がだな……」


「そうそれだ。あの赤い煙の出る矢も良かったな。あれで別働隊に指示を送っていたのだろう?」


「アレは真桜の絡繰りだ。まさかあそこまで注文通りに作るとは思ってなかったがな」


「作らせたのは音無だろう?」


「いや、それはそうだが……」


「その辺りの事が、今日の評価に繋がったのだ。私も気にはせんし、堂々と入っていれば良い」


(堂々とって……この状況で堂々としている方がどうかしてるぞ……)



いくら身体を布で隠してあるとはいえ、春蘭と秋蘭の二人は裸なのだ。裸の女性が二人も湯船に浸かっている場所で堂々としていられるほど零治も無神経ではない。

まだ入ったばかりなので上がるのは惜しいと思い、零治は素早く春蘭と秋蘭の二人から距離を取り、ある程度風呂を堪能したら身体と頭を洗ってさっさと出てしまおうと考えた。

なのに、この場に更なる珍客が現れ、零治はますます肩身の狭い思いをしてしまうのである。



「ふぅ~。久々のお風呂ですかぁ。いやぁ、楽しみですねぇ」


「どうせなら酒を呑みながら入りたい所だね」


「いや、恭佳さん。ここは露天風呂じゃないんですから」


「わ~い♪ お風呂だ~。一番乗り~♪」


「あらあら。臥々瑠、走ったら危ないわよぅ」



来たのは亜弥、恭佳、奈々瑠、臥々瑠、樺憐の女性五人組。前はタオルで隠してあるが、当然風呂に入るため裸である。

五人組の先頭を走る臥々瑠は意気揚々とした様子で風呂場に駆け込み、春蘭同様に思いっきりジャンプをして湯船にダイブをし、またもやバシャーンと湯が飛び広がって零治の頭にそれはぶっかかって来たのだ。



「どわああああっ!? な、なんでお前らまで入って来るんだよ!?」


「ん? 零治、居たんですか?」


「何だ。アンタ先に入ってたのかい」


「きゃっ!? に、兄さん……っ! 居たんですか!?」


「ぶはぁ! ……あれ? 兄さん先に入ってたの? って、春蘭と秋蘭も居たんだ」


「あらぁ、零治さ~ん。ふふふ。今日は厄日だと思っていましたが、案外そうでもなかったようですわねぇ」


「……色々とツッコみたい所はあるが、この際そこは無視しよう。で、だ。なぜ! お前らが! 風呂に! 入ってきてるんだぁ!」



疲れを癒すために風呂に入っているというのに、世の男性なら喜びそうなこの展開に零治の頭はついていけず、湯船の中で仁王立ちをして肩で激しく息をしながらビシッと亜弥達五人を指さして声を張り上げ、その怒鳴り声は風呂場全体に反響した。言うまでもないが、零治も大事な所はタオルを巻いてしっかりと隠してはいる。

お湯を頭からかぶってペターンと潰れた髪型の零治の姿を前にして、亜弥達は互いに顔を見合わせながら零治の疑問に答えてあげた。



「なぜって……華琳に先にお風呂に入っていいと言われたので」


「アタシもだよ」


「わ、私もです……」


「アタシも~」


「わたくしもですわぁ」


「な、なぬ……?」



春蘭や秋蘭だけでなく、亜弥、恭佳、奈々瑠、臥々瑠、樺憐の五人にも先に風呂に入る権利を与えていたとは。これでは一番風呂に入った意味など無いし、むしろ入らなければよかったとさえ零治は思えた。

もしかしたらこれこそが華琳の狙いだったのではないか、零治はそう疑いすら始めていたが証拠が無いし、この展開だと最悪の場合、華琳本人も来るのではないかと感じてしまったが、零治は頭をブンブンと左右に激しく振って頭髪の水分と一緒に嫌な予感を吹っ飛ばした。

これ以上考えても疲れるだけだ。零治は諦めたように嘆息し、再び湯船に身体を浸し、それに続くように亜弥達五人もそれぞれ湯船に浸かり、今日の演習での疲れを癒すのだった。



「はぁ~……風呂に入る事がこんなに疲れる事だとは思ってもみなかったぜ……」


「な~に言ってんだい、アンタは。美人七人に囲まれて風呂に入れてんだよ? 世の男性なら普通は喜ぶ所じゃないか」


「オレはそこまでお盛んじゃない。……ってか姉さん! そんなにくっつくなよっ!」


「なに恥ずかしがってんだい。昔は一緒に入ってたのにさ」


「こんな時にガキの頃の話を持ち出すな! ってか、あの時とは事情が全然違うだろうが!」


「零治。そんなに怒鳴ってると頭に血が昇ってのぼせますよ?」


「全くだな。音無、今のお前の姿はさっきの姉者みたいだぞ?」


「秋蘭! 私をこんな覗き魔と一緒にするな!」


「いつまでその話を引っ張ってんだお前は! そもそも先に入ってたのはオレだぞっ!」


「まあまあ。零治さん、折角のお風呂なのですし、落ち着いてゆっくりと入ろうではありませんかぁ」


「はぁ~……もういい。なんか無駄に疲れた……」



樺憐になだめられ、何とか零治は落ち着きを取り戻したが、無駄に疲れてしまい怒鳴る気力も失せてしまったし、何よりこの状況はもう変えようがない。

華琳はどういう意図でこんな事を仕組んだのか理解できないし、考えたくもない。

それに今は演習での疲れを風呂で癒したのが零治の本音である。仕方なく零治はこの状況を享受し、女性七人組はこの場には居ないものと言い聞かせながら湯船に浸かるのだった。


………


……



「…………」



で、いざ風呂に入ってみはしたものの、流石に裸の女性が七人も入ってる湯船のど真ん中で堂々と湯に浸かっていられるほど零治の神経は図太くない。

零治は女性陣から距離を取るために湯船の端まで移動して、へりに背中を預けながら湯に浸かっているが、横からは女性陣の黄色い声の女子トークが嫌でも耳に入ってくるため零治は落ち着いて風呂に入る事が出来ずにいた。

因みに臥々瑠は女性陣のトークには加わらず、大浴場の大きな湯船をプール代わりにしてバシャバシャと水音を立てながら一人で楽しそうに風呂の中を泳ぎ回っている。



「ジーー……」


「ん? どうしたのです、恭佳。私と樺憐の身体に何かついてるんですか?」


「あぁ、ついてるね……デッカイ饅頭が二つ」


「はあっ!?」


「春蘭と秋蘭もアタシよりそこそこ大きいけど……アンタら二人、なに食ったらそんなに胸がデカくなるのさ?」


「はぁ……何を言い出すのかと思えばそんな事とは。恭佳、今後貴方とは一緒にお風呂に入るのは考えた方がいいのかもしれませんね」


「…………」



恭佳の言葉が気にかかった奈々瑠は隣で湯に浸かっている樺憐の胸元をチラチラと盗み見ながら、ペタペタと両手で自分の胸を触り、もう一度樺憐の胸と自分の胸を比べてみて大きな溜め息を吐いた。



「はぁ~……」


「んん? 奈々瑠、どうしたのぉ? 溜息なんか吐いてると幸せが逃げちゃうわよぉ?」


「母さん。一つ訊いてもいいですか」


「ん? 何が訊きたいの?」


「……あの、母さんって……昔からその……胸……大きかったんですか?」


「胸? んー、昔はここまで大きくはなかったけどぉ。……奈々瑠は大きくなりないのぉ?」


「だって……私、母さんの娘なのに胸だけ全然大きくならないんですよ。それにずっとペタンコのままですし、少しくらいは大きくなってほしいって思いますよ……」



右を見ても左を見ても自分と臥々瑠以外の女性陣はみんなそれぞれの大きさを誇った胸を持っているのだ。自分と臥々瑠だけが極端に小さく、奈々瑠は非常に居心地の悪さを感じていると同時に、恋する乙女としてもう少しでいいから自分の身体が女性として魅力的に成長してほしいとも願っているのだ。

悩める娘にアドバイスをしてやるのは親の役目。樺憐は湯船から沈めていた右手を上げ、ピッと人差し指を立てながら奈々瑠にある事を言い聞かせた。ただ、これが奈々瑠にとって最善のアドバイスなのかは別だが。



「そういえば、好きな人に胸を揉んでもらうと大きくなるって話を聞いた事があるわねぇ。何でも、乳腺が刺激されて女性ホルモンの分泌が活発化するって事らしいのだけれどぉ」


「なぁっ!?」



樺憐から言い聞かされたアドバイスの内容に、奈々瑠は頭からボンッと湯気を噴き上げ、顔を真っ赤にして俯いてしまう。

しかもこのアドバイスは以前に恭佳が聞かせようとしたものと全く同じなのだ。あの時は半信半疑だったが、実の母にまで同じ事を聞かされたため奈々瑠は内心本当に効果があるのかもしれないと考えだし、実践してみようかとも思い始めたのだ。



「奈々瑠。何を考えてるのかは訊きませんが、バカな行動をするのはやめてくださいよ?」


「っ!? ななな! 何を言ってるんですか姉さん!? 私、兄さんに胸を揉んでもらおうなんてコレッポッチも……っ!」


「私はまだ何も言ってませんよ」


「むぐっ!」


「ハァ……。樺憐、貴方も自分の娘に何を言ってるんですか。アドバイスをするんならもう少しマシな内容をですねぇ」


「まあ。亜弥さん。わたくしは奈々瑠の悩みに真剣に答えてあげましたのよぉ?」


「……大きくするために誰かに胸を揉ませるというアドバイスが、真剣に答えてあげた内容とは思えないのですがねぇ」


「あら。こういう事は恋人同士で何とかするのが鉄則ではありませんかぁ。幸いな事に、この場には娘の想い人も居合わせておりますし」


「ぶっ!?」



いきなり自分に白羽の矢が立ち、零治は思わず吹き出してしまい、それと同時に身の危険も感じ取った。

奈々瑠は定軍山の件の直後にプチハーレム計画を臥々瑠に話していた事があるし、樺憐は奈々瑠とはいつ結婚するのかと訊いてきた人物だ。これ以上この場に留まっていては本当に奈々瑠の胸を揉むような事態になりかねないと思い、零治は早々に風呂から出る決断を下し、おもむろに湯船から立ち上がった。



「…………」


「ん? 零治、どこに行くのさ?」


「頭と身体を洗ってさっさと出るんだよ。これ以上長湯すると本当にのぼせちまいそうだからな」


「えー。兄さん、その前にアタシと遊んでって~」


「うるせぇ。そんなに遊んでほしけりゃ他の奴に頼め。……あぁ、そうだ。春蘭」


「な、何だ……」


「最後に言わせてくれ。今日の演習では本当にありがとな。左腕に強烈な一撃を喰らわせてくれてよ。せっかく繋がった腕が千切れるかと思ったぜ……」


「そ、そんな。褒めても何も出んぞ」


「……姉者。音無の今の言葉は皮肉だぞ」


「何? 褒められたわけではないのか?」


「褒めてねぇよ。ったく、皮肉も通じないとは。ホント今日は無駄に疲れたぜ……」


「まあ、そのぉ、何だ。音無、姉者も悪気があってやったわけではないのだ。ここは私に免じて機嫌を直してはくれないだろうか」


「別にもう怒っちゃいねぇよ。ただ一言、毒を吐きたかっただけだ。まっ、お前らは仲良く風呂を楽しめよ。邪魔者はすぐに消えるからよ」



この状況では一人で風呂に浸かるのはどう考えても無理だし、年頃の女性が七人も居る所にいつまでも入り浸るのも肉体的にも精神的にもよろしくはないだろう。

零治はヒラヒラと右手を振りながら手桶を片手に洗い場の方へと移動し、その場に設けられている木製の小さな椅子に腰かけ、洗い場の傍にある小さめの湯船の中にある湯を手桶で掬い取り、身体にザバァッとかけて予め用意していた身体を洗うための布で石鹸を泡立て、無言でゴシゴシと身体を洗い始める。

その後ろ姿を見ていた秋蘭は何かを思いついたのか、春蘭に耳打ちをして、秋蘭から聞かされた話に春蘭は赤面して俯くが、しばらくして何かの決心がついたのか、秋蘭の顔を見据えながら力強く頷き、秋蘭も春蘭のその姿に満足げな笑みを浮かべながら頷き返し、二人は揃って湯船から立ち上がり、落ち着いた足取りで洗い場の方へと進んでいく。



「ん? 何だよ? まだオレに何か用があるのか? だったら風呂から出た後にしてくれよ」


「いや、これは風呂場でなければできない事なのでな。……ほら、姉者」


「う、うむ。……お、音無」


「あんだよ?」


「…………てやる」


「あ? 何だって?」


「だから……を……てやる」


「姉者。そんなボソボソとした喋り方では音無に聞こえないぞ?」


「むぅ。……ええいっ! 音無! 今日の演習での詫びと日頃の感謝を表して貴様の背中を流してやる!」


「はっ?」



春蘭は痺れを切らしたように身体を小刻みに震わせながら顔を真っ赤にし、浴場内に反響する程の大声を張り上げ、零治の背中を流すと宣言したのだ。

しかし、その零治は春蘭の言ってる意味が分からずに首を傾げる。いや、背中を流すという行為は理解できるが、なぜそんな流れになるのかが分からないのだ。



「なぜいきなりそんな話になる訳?」


「まあ、細かい事は気にするな。音無、ここは一つ姉者の頼みを聞いてやってくれないか?」


「はぁ……好きにしろよ」


「だそうだぞ。よかったな、姉者。断られなくて」


「ふ、ふんっ。別に断ってくれても良かったのだがな。まあよい。では、この私と秋蘭が直々に貴様の背中を流してやる。感謝するがよい」


「分かったから早くしてくれないか。このままじゃ湯冷めして風邪引いちまうからよ」


「う、うむ。では我らの奉仕をありがたく受け取るがよい」



ただ背中を流すだけなのに随分と仰々しいが、春蘭らしいとも言える姿だ。

春蘭と秋蘭の二人は零治の背の左右にしゃがみ込み、石鹸を泡立てた布を片手にいよいよ零治の背中を流そうとしたその時だった。

その様子を湯船に浸かりながら後ろで観察していた亜弥、恭佳、奈々瑠、臥々瑠、樺憐の五人が眼をキラリと光らせて素早く同時に立ち上がり、ザバンと水音を立てながら風呂から上がり、どういう訳か手拭いを片手にこちらへスタスタと足並みを揃えて歩み寄ってきたのだ。



「ふむ。ならば私も参加させてもらいましょうか」


「はっはぁ。春蘭と秋蘭だけに良い格好はさせないよ。弟の背中を流すのは姉の役目なんでね」


「わ、私も……兄さんの背中……流してあげたいです……っ!」


「面白そうだからアタシもやるやる~♪」


「零治さん。わたくしにもご奉仕をさせてくださいませ」


「ちょっ!? お前ら! なんで背中を流すだけでこんな大人数になる必要があるんだ!?」



ただでさえ女性陣が大勢居るこの状況に困り果てているから、身体と頭を洗ってさっさと風呂から上がるつもりでいたのに、またもや裸の女性陣に零治は取り囲まれてしまう。

それに背中を流してもらうだけなら確かにこんな大人数でいる必要など無い。どう考えても二人も居れば充分であり、七人も必要はないのだ。なのに亜弥達は零治の言い分に全く耳を貸そうとはしなかった。



「いえいえ。私も貴方には日頃から世話になってますから、やはりそのお礼ぐらいはしないといけないじゃありませんか」


「そうそう。アタシもアンタの事を姉としてたまには労ってやりたくてねぇ」


「わ、私も……兄さんへの日頃の感謝の気持ちを込めて……背中を流したいです……っ!」



と、奈々瑠は赤面しながらボソボソと消え入りそうな、か細い声で呟いていたが心の中では、『女として負けたくないから』と、しっかりと本音も付け加えていた。



「ん~。アタシはなんか面白そうだからやりたいだけ~」


「わたくしは主にご奉仕がしたいと思いまして」



揃いも揃って日頃の感謝を込めてだの奉仕がしたいだの労ってやりたいだの面白そうだからだのと、それぞれの理由を述べはするがそれでも理解できない。なぜそうまでして自分の背中を流すのにこだわろうとするのか分からない。

背中を流すのにこんなに大人数になる必要があるのかと問われれば、零治は間違いなく無いと答えれるし、大抵の者もそれを肯定するだろう。ただ、一部の者、主に若い男性からは別の意味で否定されると思うが。

しかしながら、亜弥達のこの様子ではもはや何を言っても無駄でしかない。ならばどうするべきか。答えは単純。春蘭、秋蘭に加え、亜弥達の申し出も全て享受する以外に道は無いのだ。



「はぁ……もう勝手にしろ。お前らの用件が済んだらオレは風呂から上がる……」



零治のあまりにも投げやりな態度に、女性陣はどこか釈然としない部分があったが、何にせよ零治が自分達の厚意を受け取ってくれるのは事実である。

零治の周りを取り囲んでいる春蘭、秋蘭、亜弥、恭佳、奈々瑠、臥々瑠、樺憐の女性陣は悠々とした様子で手に持っている手拭いを石鹸で泡立て、零治の背中を洗い始めるのである。

そしてその先陣を切ったのは春蘭と秋蘭の二人だった。



「う、うむ。では貴様の背中を流させてもらうぞ」


「姉者。そう固くなる事もないだろう。ただ背中を流すだけだぞ?」


「わ、分かってる……っ!」



春蘭は向かって左半分を、秋蘭は右半分を陣取り、二人揃って零治の背中をゴシゴシと手拭いで擦りながら洗い始める。

秋蘭はいつもと変わらぬ様子だが、なぜか春蘭はどこか緊張した面持ちで手付きもぎこちない。そのため背中を擦る力加減が変になってるため、零治はくすぐったいのかしきりに身を捩っていた。



「おい春蘭。もう少し力を入れてくれよ。くすぐったいじゃないか」


「むっ。そうか。……なら、これでどうだ」


「あいでっ!? おい! 今度は入れすぎだ!」


「ええいっ! 文句の多い男だな! 大人しくしていろっ!」


「乱暴に背中を洗われて文句を言わない奴がどこに居るんだ!」


「姉者。いくらなんでも力を入れすぎだ。私と同じ手付きでやればいい」


「むぅ……こうか?」


「そう。その力加減で問題ないぞ」


(ったく。オレには文句ばっか言うくせに秋蘭の言う事は素直に聞きやがるんだからよ……)


「……なあ、音無」


「今度は何だ……」


「貴様の身体だが……こうして見ると、結構傷だらけなんだな」


「ああ? そりゃそうさ。オレだって昔っから今みたいに強かったわけじゃない。それにそれを言ったら、お前だって生傷が絶えないんじゃないか? 春蘭」


「……まあな」


「フッ。そうだな。姉者は子供の頃からよく無茶な遊びをしていたから、いつも全身傷だらけになって家に帰ってきていたな」


「秋蘭! 子供の頃の話は関係ないだろっ!」


「いや、関係なくは無いと思うぞ」


「ええいっ! 音無は黙ってろ!」


「何でオレが怒られるんだよ。話を振ってきたのはそっちなのによ」


「ふむ」



春蘭と秋蘭が零治の背中を洗う様子を後ろから観察していた亜弥は右手を顎に添えながら何かを考える仕草をし、しばらくして何か名案を思いついたのかポンと手を打ち、恭佳、奈々瑠、臥々瑠、樺憐の四人をチョイチョイと手招きをして呼び寄せ、全員が揃ったら円陣を組み何かをボソボソと耳打ちをした。

亜弥が思いついたある考えを聞かされ、恭佳達は満足げに頷き、手拭いを片手に零治を取り囲むように展開してきた。



「ん? どうした? まだ春蘭と秋蘭が終わってないぞ」


「いえ、このまま待ってるのもアレですので、私達は背中以外の箇所を洗ってあげますよ」


「……はい?」


「私と恭佳は腕を洗ってあげますね」


「わ、私と臥々瑠は……その……あ、あ、頭を……」


「わたくしは身体を洗ってさしあげますわ」


「いや! ちょっと待てっ!」


「問答無用だよ零治。ジッとしてな」



それだけはやめろと言おうとしたが、亜弥達は零治に有無を言わさずに行動を開始し、結局風呂にやってきた女性陣全員に全身を洗われる羽目になってしまう。

亜弥は零治の右腕を、恭佳は左腕を、奈々瑠と臥々瑠は二人で手を伸ばして頭を、樺憐は正面に回り込んで屈み、身体をゴシゴシと洗い始めた。

この状況に零治はとても居心地の悪さを感じている。しかし世の男性ならむしろ喜ぶべき場面、至れり尽くせりの状況ではあるが。



(うぅ……この状況、とても落ち着けん)


「……ふむ。零治、服を着ていると分からないのに相変わらず筋肉質な身体をしていますね」


「着痩せするからな」


「いわゆる細マッチョってヤツか。……あっ、零治。腕は痛くない?」


「大丈夫だ。その代わり左腕の繋ぎ目周辺は注意してくれよ」



亜弥と恭佳には腕を持ち上げられながらゴシゴシと洗われ、零治は何一つする事が出来ない。

今の零治に出来る事は、早い所終わってくれる事を願いながら大人しく身体を洗われ続ける。傍から見ると一国の王がメイド達に身体を洗われているかのような光景である。



「…………」


「ふ~ん♪ ふふ~ん♪ お客さ~ん。痒い所はありませんか~?」



奈々瑠は顔を赤くしながら緊張した面持ちで終始無言のまま零治の頭を両手で洗ってるが、それとは対照的に臥々瑠は呑気に鼻歌を歌いながらガシガシと零治の頭を洗ってあげ、まるで理髪店の店員のようなノリで痒い所が無いかまで訪ねてくる。

普段は子供っぽくてアレだが、こういう時でもいつもと変わらない姿を見せられる点から、今だけは奈々瑠は臥々瑠の性格が羨ましく思えた。



「……別に痒い所は無いけどよ。二人とも」


「な、何ですか? 兄さん、もしかして気に入らないんですか?」


「いや、そうじゃない。二人とも頼むから、爪を立てて洗うのはやめてくれ」


「どうして? こうした方が気持ちいいじゃん。アタシいつも自分の頭はこうして洗ってるよ?」


「私もそうしてますけど」


「確かに気持ちはいいがな、頭を洗う時に爪を立てると頭皮が傷つくし、抜け毛の原因にもなるんだ。だから指の腹を使って揉むように洗ってくれよ」


「ええっ!? そ、そうだったんですか!?」


「ああ」


(だから私の髪、頭を洗ってる時にやたらと抜け落ちてたんだ……っ!)


「理解できたならお前らも今後はオレが言ったやり方で頭を洗うんだな。でないと、歳を取ってからハゲるかもしれんぞ?」


「は、はい……」


「うぅ。ハゲるのはやだなぁ……」


「二人とも女の子なのにそんな風に髪を洗ってたのぉ? お母さんは悲しいわぁ」



横で話を聞いていた樺憐は娘達の髪の洗い方について知り、その事を悲しげに嘆きながらも零治の身体を洗う手は止めない。

樺憐の洗い方は実に丁寧だ。身体、足も指の間までしっかりと洗ってくれているのでこの点は零治も不満は無い。しかし今の樺憐は零治の真正面を陣取りながら身体を洗う作業をしているため、ここからだと彼女の大きな胸が目と鼻の先にあるのだ。

樺憐が手を動かすたびに彼女の大きな胸がタユンタユンと揺れ動くため、今の零治は男としてある意味過酷な戦いを強いられていたのである。



(眼に悪い光景だぜ、コレは。ここで鼻血なんか出したりしたら、オレはスケベだの変態だののレッテルを貼られちまうな。何が何でも我慢しなくては……っ!)


「……ん? 零治さん、顔が赤いですわよ。もしやのぼせたのですかぁ?」



場所が風呂場なのであまり意味は無いかもしれないが、樺憐は零治の現在の体温を確認するべく、身を乗り出して近づきながら零治の額に左手を当ててみる。

今の零治は別にのぼせてはいないが、のぼせかかってるのは間違い無いだろう。樺憐が身を乗り出してきたせいで目の前に樺憐の胸の谷間が迫り、零治の体温はますます上昇してしまった。



(おい樺憐っ! 胸! 胸の谷間がっ!)


「んん~? 少し額が熱いですわねぇ。やはりのぼせてるのでは?」


(誰か! オレから樺憐を引き離してくれっ!)


「樺憐。その辺にしときなって。零治はアンタのデカい胸が目の前にあるせいで理性と本能の狭間で闘ってるんだよ」



零治の心の叫びが通じたのか、恭佳が助け舟を出してはくれたが、零治の変調に付いてストレートに説明されてしまった上に見事に内容が的中していたのだ。

図星を突かれた零治は顔を真っ赤にして俯き、頭からは湯気まで立ち上ってしまう始末と来た。普段の零治なら反論ぐらいしていた所なのだが、この状況では何を言っても無意味だし言い訳にしかならない。

零治は顔を赤くしながら黙って俯き、恥ずかしさで身体を震わせる事しか出来なかった。



「あらあらぁ。それは女性として光栄ですわねぇ。わたくし、自分の身体には自信がありますからぁ」


「クソォ。これ見よがしにデカい胸見せつけやがって。アタシも今からでもデカくなれないかな?」


「恭佳。貴方はもう死んでいる身なのに胸が大きくなったりするんですか?」


「……なあ。もう済んだんだろ? だったらこの泡を洗い流してほしんだが……」


「あら。零治さん、まだ洗えていない所がありますわよぉ?」


「はっ? どこだよ?」


「いやですわねぇ。そんなの決まっているじゃありませんかぁ」


「…………っ!?」



樺憐の意味深な言葉について、零治は宙を見上げながら考え、そして理解した。

確かに樺憐の言う通り、まだ洗えていない箇所が一つ残っていた。それは零治がタオルを巻いて隠している場所である。

しかしながら、この状況でそんな事など頼めないし、頼めば本当にただの変態になってしまう。そんな零治の心境などお構いなしに、樺憐は何の躊躇いも無く零治の腰に巻いてあるタオルに手を伸ばしてきたのだ。



「ささ。零治さん。恥ずかしがらずにそれを外してくださいな」


「いやいやいやいや! いくらなんでもそれはマズすぎる! 樺憐! そこまでする必要は無いっ!」


「何を仰いますの。零治さん、この世界ではお風呂にはたまにしか入れませんのよぉ? こういう時こそ全身くまなく綺麗にしなくてはいけませんわぁ」


「いいっつってんだろぉ!!」



零治は樺憐の手を振り払い、椅子から素早く立ち上がって周りの女性陣達を押し退け、手桶を片手に湯船から湯を掬い取ってそれを頭からザバーッと浴びて全身の泡を洗い流し、そのまま脱兎の如く脱衣所まで一直線に走り去って浴場を後にした。

あまりにもあっという間の出来事だったので、女性陣は零治を止める事も出来ず、ただ彼の後姿を見ている事しか出来なかった。



「あらら。零治さんたら照れちゃってぇ。うふふ。可愛らしいお方」


「いや、樺憐。アレは普通の反応だと思いますけど。ってか、いくらなんでもやりすぎですよ……」


「何を言ってますの、亜弥さん。わたくしはただ零治さんにご奉仕がしたかっただけでしてよ?」


「だからってそこまでやる必要があったの? まさかそのデカい胸を使って洗おうとか考えてたんじゃないだろうねぇ……」


「あら。それは考えてませんでしたわ。ですがいい考えですわねぇ。今度別の機会に是非とも実践しなくては」


「やめてください。私はそんなAVやアダルトゲームみたいな展開は見たくないですよ。と言うか、娘達の前で何を言ってるんですか。教育上よろしくないでしょうが……」



この会話を横で聞いていた奈々瑠は大人びているため、樺憐が言っている奉仕の内容を想像してしまい、顔を真っ赤にして頭からは沸騰しているやかんのように湯気を立ち上らせていた。

それとは対照的に臥々瑠は樺憐が言っていた言葉の意味が理解できず……いや、むしろ理解しない方が彼女のためだろう。まあそれはひとまず置いといてだ、臥々瑠は奈々瑠の変調を首を傾げながら見つめ、不思議そうに尋ねてきた。



「奈々瑠、どうしたの? 顔が赤いよ?」


「なっ、何でもないわ。ちょっとのぼせただけよ……」


「やれやれ。音無の奴は逃げてしまったか。日頃の恩返しもここまでのようだな」


「ふっ、ふん。私としてはその方が助かる。これでようやく落ち着いて風呂に浸かる事が出来るからな」


「全く。姉者は素直ではないな」


「なら、私達もお風呂に入り直しましょうか。どうせ零治は戻ってこないでしょうし」


「そうするかね」


「残念ですわねぇ。わたくしが折角とびきりのご奉仕をしてあげようと思っていましたのにぃ」


(……やっぱり私も、もっと母さんみたいに大胆になった方がいいのかも)


「にへへ~♪ ねえ、後でみんなで背中の流しっこしようよ」



春蘭、秋蘭、亜弥、恭佳、樺憐、奈々瑠、臥々瑠の七人組女性陣は改めて風呂に入り直し、久しぶりの心地よい湯加減の湯を堪能しながら身体と心の疲れを癒すが、零治は風呂には入れたものの、思わぬ珍客達のおかげで落ち着いて風呂を堪能するどころか、逆に疲れる目に遭ってしまったのだった。

零治「……タイトル通り疲れたぞ、オレ」


作者「何? あの状況、普通なら嬉しいと思うんだがね」


亜弥「まさかこの話を持ってくるとは思いませんでしたよ」


作者「この話は外したくなかったんでな」


恭佳「世の男性ならまさに嬉しすぎる展開だね」


奈々瑠「……現実じゃあり得ないでしょうけどね」


臥々瑠「だね。恋人同士で二人っきりの旅行先でとかならいざ知らず、こんな展開普通じゃ考えられないよね~」


作者「おいおい。夢を壊すような事言うんじゃねぇよ。世の男性なら必ずと言っていいほどの憧れる展開だろ?」


樺憐「あら。でしたら貴方もやはりそういった願望をお持ちですのぉ?」


作者「……夢は夢のまま抱いていた方が美しいのさ」


零治「どうせそんな相手、お前には居ないんだろ?」


作者「うるせぇ!」


亜弥「どうどう。で、まだ続くんですか? 拠点パートの連投は?」


作者「いいや。そろそろメインストーリーを進める予定だ」


恭佳「なら、次は呉への進軍」


奈々瑠「そしてその次が、三国志では決して外す事の出来ない戦い……」


臥々瑠「赤壁だね」


作者「ああ。赤壁の戦いは全員に見せ場を用意してみせるさ」


樺憐「あら。それは楽しみですわねぇ」

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