第100話 試験開始 呉編
長らくお待たせして本当に申し訳ありませんでした!
私の事を信じて更新を待っていてくださっている読者の皆様には感謝感激です。本年も少しでも私の作品を読んでくださっている皆様を楽しませれるように頑張る所存です。
赤い扉を開け、眩い光が出迎えてきたので孫策達は眼を細めながら足を進めていく。辺りは何も存在しない白い空間が続くのみ。だがしばらくすると成都城の中庭で見たのと全く同じ赤色の扉が見えてきたので、先頭を歩く孫策は迷わずドアノブに手を伸ばして扉を開けると、その先にはどこかの建物の中の庭と思われる景色が見えたので、歩く速度を早めて彼女達は扉の先を潜り抜けて零治が用意したと思われる試験会場を見回してみた。
「えっ? ここって……」
会場に辿り着いた孫策達は呆気に取られてしまう。そんな中開きっぱなしの扉が独りでに閉まってガシャンっと派手な金属音がしたので孫策達は思わず身構えて扉の方に眼を向けるが、別にこれといって何事も起きなかったので、彼女達はもう一度その場を見回してみた。
「冥琳。ここって成都城の中庭……よね?」
「……ああ。どう見てもそうだな」
どこを見回しても現在位置は成都城の中庭にしか見えない。周りに植え込まれている庭木や庭石の配置、池が作られている場所などを確認してもそこは紛れもなく成都城の中庭である。零治が用意した赤い扉を潜り抜けた先が最初に居た場所では移動していない事になるが、ここに来るまでにいくらか歩いてはいる。それに辿り着いた先の中庭には、最初に見た青と緑の扉がここには無いのだ。見た目の風景は完全に同じだが、青と緑の扉がここに存在していないという事は、確かに場所を移動した可能性がある。孫策は他にも何か違う点が無いか辺りを見回して注意深く観察しているとある事に気づいた。
「ん? あれ……?」
「雪蓮、どうした。何か見つけたのか?」
「冥琳。空をよく見て。あの巨大な城が浮かんでいないわ」
「何? ……確かに見当たらないな。この場所が妙に明るいと感じたのはそのせいか」
確かにこの場所には黒狼が出現させた叡智の城が存在していなかった。そのおかげでこの中庭内は普段と同じ明るさ。太陽もちゃんと見える。あれ程の巨大な建造物がこの短時間で姿をくらますというのは考えにくい。となると、ここは見た目こそ成都城の中庭であるがどこか違うのかもしれない。他にも何か違う点が無いか孫策が周囲の様子を確認している時、ある物を彼女は見つけた。
「ねえ、冥琳。あそこ……庭の中央に三人分の人影が見えない?」
「……確かに居るな。しかもあの様子……椅子に座って卓を囲んでいるようだが、あんな所に卓などあったか?」
「考えても仕方ないわ。とにかく行ってみましょう」
ここで留まって考えていても埒があかない。ここが成都城の中庭と同じにしか見えないかと思ったら、違う点がようやく見つかったのだ。ならばそこを調べねばいつまでも先には進めない。孫策は迷わず庭の中央に居る三つの人影を目指し、残りの首脳陣達もその後に続いた。距離が縮まるにつれてだんだん人影の姿がハッキリと視認できるようになり孫策は思わず声を出して足を止めた。彼女が見た三人の人影の内の一人がよく知る人物だったのだ。
「えっ!? 彼女、もしかして……」
「あぐ……ムグムグ。……このシュークリーム美味しいね」
「アンタ飽きもせずによくそんなに何個も食べられるわね。それ全部兄さんが魔法で創った偽物なのに」
「んっ。……味と食感は間違いなく本物じゃん」
「それは脳がそういう風に錯覚しているだけよ。所詮は仮想世界で得ている疑似体験。いくら食べたってお腹は膨れないわよ」
「よく言うよ。奈々瑠だってさっきからドーナツ食べてアイスコーヒーも飲んでるじゃん」
「こ、これは……っ!?」
「二人ともやめなさい。せっかく零治さんがわたくし達を気遣って用意してくださったのだから。今はわたくし達の世界の食べ物を愉しんでくつろぎましょう」
孫策達の視線の先に居た三人の人影の正体は樺憐、奈々瑠、臥々瑠の母娘三人である。彼女達は白が基調になったカフェテーブルを囲み、テーブルに合わせて同じカラーリングの木製の椅子に腰掛けて優雅にコーヒーブレイクを愉しんでいた。使っている食器類もカフェテリアなどでよく見る陶器製の物だ。樺憐は熱々のブラックコーヒーだけを愉しみ、奈々瑠もアイスブラックコーヒーを片手にチョコソースがかかったドーナツを頬張っている。臥々瑠に至っては元いた世界の菓子類の味に飢えており、この状況を利用しようとさっきからケーキやらシュークリームやらエクレアやらを皿に山盛りにして食べており、更に透明のグラスには氷でキンキンに冷えた紫色のシュワシュワと発泡しているジュースが入っており、それをグビグビと飲んでいる。中身は恐らくグレープ系の炭酸飲料なのだろう。臥々瑠がジュースを飲み干すとグラスの中の氷が動いてカランっと軽快な音が鳴り、樺憐に空のグラスを突きつけた。
「お母さんおかわり。次はオレンジサイダーが飲みたい」
「はいはい。この空間だから特別に眼を瞑っているのだけれど、現実世界でこんな暴飲暴食なんかしちゃダメよぉ?」
樺憐は臥々瑠から空のグラスを受け取り、苦笑いしながらも彼女の暴飲暴食を認めつつも嗜めるようなセリフも口にした。だがその内容はとても奇妙である。この空間では認めるが現実世界では認めない。これではまるでいま居るこの場所が別世界であるかのような言い方である。風景こそ最初に居た成都城の中庭と一緒だが、樺憐達が使っているカフェテーブルも椅子も存在していなかった。だからここが扉を潜り抜ける前の中庭と違うのは間違いないと傍から話を聞いている孫策は考えていた。孫策達の存在を知ってか知らずでなのか、樺憐はいつもと変わらぬ様子で右手の指を髪の毛で隠れている側頭部付近に当てて零治に念話を送った。
『零治さん。臥々瑠がオレンジサイダーをご所望なのですが用意してくれますでしょうかぁ?』
『ったく。こんな事になるんなら菓子類なんか用意するんじゃなかったぜ』
『まあそう仰らずに。娘達もなんだかんだで嬉しいのですよ。例え仮初の空間で得ている錯覚だとしても』
『喜んでもらえて光栄だね。いま用意してやる。その代わり、飲み食いした分はちゃんと働けと臥々瑠に伝えとけよ』
『ふふふ。承知しましたわぁ』
零治との通信を終えた樺憐は臥々瑠から受け取った空のグラスを片手にテーブルの中央付近、何も無い空中内に視線を向けた。するとどうだろうか。樺憐が視線を向けている場所に小さな亀裂が走り、次元の壁が破られて小さな穴が開いたのだ。おまけのその穴の奥から突然ニュッと誰かの右手だけが伸びてきて孫策達はギョッとした表情でその手を見つめている。対して樺憐、奈々瑠と臥々瑠は驚く様子など一切なく、突如として出てきた右手に握られているオレンジ色の液体が入ったグラスを樺憐は何食わぬ表情で受け取り、臥々瑠が空にしたグラスを手渡して会釈をした。
「零治さん、ありがとうございます」
次元の壁の穴から伸びてきたのは零治の右手だった。空のグラスを受け取るだけで返事は無かったが、樺憐の感謝の意は彼にも伝わったはず。樺憐から空のグラスを受け取ると零治は右手を穴の奥へ引っ込め、破られた次元の壁も見事に塞がった。あまりにも非現実的な光景が連続して起きているのに、樺憐はいつもと変わらぬ様子で臥々瑠に注文の品を差し出した。
「は~い、臥々瑠。ご注文のオレンジサイダーよぉ」
「わ~い♪ ……んっ、んっ、んっ」
グラスを手に取るとヒンヤリとした心地よい冷感が伝わり、臥々瑠はグラスに口をつけると一気に傾けてオレンジサイダーをグビグビと飲み始めた。口の中一杯に広がる柑橘系ならではの爽やかな甘酸っぱさ、喉に来る炭酸の爽快な刺激。その全てが臥々瑠にとって懐かしい物である。だが思い出にふける間もなくグラスの中身はあっという間に空になり、中の氷が動いてカランっと軽快な音が鳴り、臥々瑠は満足気に息を吐いて空になったグラスをテーブルの上に置いた。
「ぶはぁ! ……美味しかった」
「アンタよく炭酸飲料を一気飲みできるわね。喉が痛くならないの?」
「全然」
「……我が妹ながら呆れて何も言えないわ」
「ほえ? 何が?」
「はいはい。二人ともその辺になさい。わたくし達が担当する受験者達が到着したようですしね。……ですわよね? 孫策さん」
「やっぱり気付いてたのね」
距離的にそこまで離れていたわけではないし、赤壁の戦いで樺憐が並外れた五感の持ち主だという事を孫策は嫌というほどに思い知っている。だから樺憐がこちらの存在に気付いていないはずがないのだと分かっていたが、いつ声をかけるべきかと思い悩んで遠巻きに様子を見ていたのだが、向こうから声をかけてきたのでこれ以上離れて様子を見る必要もない。孫策はいつもと変わらぬ軽い足取りで樺憐達が使用しているテーブルの方に近づき始めたので、周瑜を始めとした残りの首脳陣達もそれに続いた。
「どうも~。もしかしてお邪魔だったかしら?」
「お気になさらず。わたくし達は単に時間潰しをしていただけですので。受験者である貴方達が到着するまでの間のね」
「あらあら。待たせちゃったみたいでなんだか申し訳ないわね。……う~ん?」
孫策は何かを探すかのように辺りをキョロキョロと見回した。一体何を探しているというのか。樺憐達が使用しているカフェテーブル以外にこの場所には特に変わった物など無い。この場所が普通じゃない事は先程次元の壁が破られて零治の右手がそこから出てきているので、その一部始終を見ている孫策達も分かっているだろう。一体何を気にしてそこまでキョロキョロしているのか、その様子に樺憐は不思議そうに首を傾げた。
「どうしました? 何か気になる物でもあるのですか?」
「いや、そうじゃないのよ。……ここには貴方達しか居ないの?」
「あぁ、そういう事ですか。ええ。この場にはわたくし達三人以外に試験官は居ませんわ。貴方が気にしている零治さん、我らの主は他を担当していますわ。担当する国を分担しなければ効率が悪すぎますのでね」
「あらら。それは残念。私としては出来れば彼に手解きをしてほしかったのになぁ」
「……わたくし達では不満なのでしたら、回れ右をしてこの場を去っていただいても結構ですわよ? その代わり、貴方はその時点で失格とみなしますがね」
「いやいや! 不満なんて言ってないじゃない! そんな怖い眼で睨まないでよねぇ」
樺憐がジロリと睨みつけてくるので、孫策は両手をバタバタと振って先程のセリフを撤回するように彼女の機嫌をとった。別に樺憐も本気で怒っているわけではないのだが、この場では立場上試験官。孫策達は零治が用意する試験をこれから受けてもらう受験者達なのだ。しかもこれから提示する試験の内容に反発する者も少なからず現れると零治は踏んでいるので、事前に決して舐められないようにしろと亜弥達にも釘を差している。だから樺憐もこんな反応を見せたのだ。呉の王である孫策がここまで怯めば他の者も自分の立場を理解するはず。そう考えた樺憐は自分のコーヒーを一口啜って軽く息を一つ吐き、コーヒーカップをテーブルに置いて淡々と説明を始めた。
「さて、受験者も全員揃った事ですし、今回行う試験についての説明を始めましょうか」
「ええ。お願いするわ」
「わたくしの名は樺憐。呉の陣営を担当する試験官はわたくし、それとわたくしの娘達二人になります。……奈々瑠、臥々瑠。皆さんにご挨拶なさい」
「奈々瑠です。よろしくお願いします」
「アタシは臥々瑠。よろしくね」
「えっ!?」
樺憐に促されて二人は椅子から立ち上がり、奈々瑠はペコリと頭を下げて丁寧に挨拶し、臥々瑠は屈託の無い笑みを浮かべながらヒラヒラと右手を振ってフレンドリーな挨拶を孫策達に交わした。しかしなぜか孫策達は驚きの声を上げて眼を丸くし、奈々瑠と臥々瑠、そして樺憐を交互に見比べていた。その姿に樺憐達は不思議そうに首を傾げる。何をそんなに驚いているのか。ただ挨拶を奈々瑠と臥々瑠にさせただけで驚く要素がどこにあったというのかと眼で訴えかけてみた。
「……ねえ。この娘達、貴方の娘なの?」
「そうですわよ。何をそんなに驚いているのですか?」
「だって……どう見ても姉妹にしか見えないもん。貴方一体いくつなの?」
「わたくしの年齢がそこまで重要な話題なのですか……?」
「っ!?」
口調はいつもと変わらないが、今の樺憐から放たれる凄味は先程の比ではない。その姿を前にして孫策達は冷や汗を流しながら思わず数歩後ずさり、奈々瑠と臥々瑠に眼を向けると二人は無言のまま必死の形相で両手をクロスさせてバツ印を作り、孫策達へ樺憐に年齢の事は絶対に訊くなと静かな警告を送っていた。二人の様子から孫策達は、自分達がいま恐るべき禁忌に触れようとしているのだと悟り、引きつった笑みを浮かべて話題を変える事に専念した。
「そ、そうね。確かに貴方の言う通りだわ。話を遮ってごめんなさい。続きをお願いするわ」
「……あの、雪蓮様。私もこの方達にお訊きしたい事があるので少しよろしいでしょうか?」
「別に構わないけど……明命、貴方まさか……」
「ご心配なく。私がお訊きしたいのはそういう事ではありませんので」
「ならいいけど。……樺憐、構わないかしら?」
「どうぞ」
孫策は一瞬不安げな表情をするが、周泰が樺憐に訊きたい事は別のようで樺憐と話をさせる事にする。許可も得れた事なので周泰は前に進み出て樺憐達に向かって一礼するとその場で片膝を突き、まるで王に謁見するかのような姿勢で話をし始めたのだ。
「私の名は周泰と申します。樺憐殿、一つお伺いしたい事があるのですがよろしいでしょうか?」
「どうしたのです? そんなに改まって。気になる事があるのでしたら遠慮なく質問してくれてよろしいのですよ?」
「はっ。ではお訊きいたします。樺憐殿、貴方様達はもしや……お猫様の遣いだったりはしませんか?」
「……はい?」
周泰の質問の意味が全く理解できない樺憐は素っ頓狂な声を出して首を傾げる。なぜ今このタイミングで猫の話題が出るのか。それ以前にお猫様の遣いとは何なのか。なぜ自分達が猫と結び付けられるのか。考えれば考えるほど樺憐、奈々瑠と臥々瑠の頭の中は疑問符だらけになる。とにかくまずは、周泰の質問の内容の意味を把握せねば話が先に進まない。樺憐はカップに残っているコーヒーを軽く飲んで息を一つ吐き、周泰に質問の意味を尋ねてみた。
「周泰さん。今の質問はどういう意味なのでしょうか?」
「言葉通りの意味でございます。貴方とお二人の娘さんの頭に付いているその特徴的な耳……私にはお三方がお猫様の遣いにしか見えないのでございますっ!」
「えぇ~……? あの、孫策さん。彼女は一体……?」
「あぁ、この娘。大の猫好きなのよ。たぶん貴方達の頭に付いてる耳を猫と結び付けての質問だと思うわ」
孫策の言葉を聞き、樺憐はあぁそれでと口にして周泰がどういう意図でこんな質問をしてきたのか納得した。確かに樺憐達の頭についている耳は、パッと見では犬耳なのか猫耳なのかは判別するのが難しい。犬の場合、種類によっては垂れ耳もあったりするが、彼女達のは一般的なトンガリ耳である。猫耳と勘違いされても仕方ないだろう。間違いは誰にでもある。奈々瑠と臥々瑠はどう思っているのか分からないが、少なくとも樺憐は頭の犬耳を猫耳と間違えられた事を不快には思っていないが、期待に眼を輝かせてこちらを見つめている周泰には非常に残念なお知らせをせねばならなかった。
「周泰さん。期待に胸を膨らませている所を申し訳ないのですが、わたくし達の頭についているこれは猫耳ではありません。犬耳でございますわ」
「ええっ!? お、お猫様ではないのですか!?」
「残念ながら違いますわ。わたくし達の身体に流れている狼の血、頭についているこの耳もその証のような物ですわ。よってお猫様の遣いでもありませんのよ」
「で、ですが、その耳の形はどう見てもお猫様の物としか……っ!」
「はぁ~。仕方ありませんわね。……周泰さん、これを見てくださいな」
まだ納得してくれない周泰を分からせるために、樺憐は椅子から立ち上がって右手を腰の後ろに回し、フサフサした毛並みの尻尾を前へと引っ張り彼女に見せた。猫の尻尾は基本的に長毛種じゃない限りこんなフサフサした太い尻尾をしておらず、一般的な種は細い物である。樺憐のこの世界での生活期間は零治達と比べると短い方だが、街を出歩いている時などに野良猫をこれまでに何度も見かけてきたが長毛種の猫は一度も見ていない。なので樺憐はこの大陸内に長毛種の猫はまだ居ないのだと判断しているからこそ、周泰に自分の尻尾を見せたのだ。
「どうです? こんなフサフサした尻尾の猫など見た事がありますか?」
「あぅ~……そう言われると見た事は一度も無いのですがぁ……」
「これで納得していただけましたでしょうか?」
「……で、では最後に……そのお耳と尻尾を一度モフらせてくださいませんか!?」
「はい……?」
耳と尻尾をモフる。要するに触らせてほしいという事なのだろうが、猫の御遣いなどと言われたりその次は頭の犬耳や尻尾を触らせてくれと注文をつけられたり。呉には随分と変わり者の将兵が居たものだと樺憐は思いながらも、彼女は周泰の要望に応える事にした。樺憐も奈々瑠や臥々瑠と同様に気を許した相手以外の人に犬耳や尻尾を触れられるのはあまり好きではない。だがそれで周泰を納得させるためにはやむを得ないだろう。
「はぁ……仕方ありませんわね。ではお好きにどうぞ」
「はっ! では、し、失礼します……」
「ん……っ!」
周泰は恐る恐るの手付きで樺憐の頭にある犬耳に右手を伸ばし、軽く摘んでみた。耳を摘まれたせいか、樺憐は一瞬身体を震わせて艶のある声を漏らす。その様子は零治達が華琳達と初めて出会い、奈々瑠と臥々瑠の犬耳について話を訊かれ、本物だと証明するために触らせた時に見せた反応と同じである。その反応に興味心が刺激され、周泰は指に力を入れすぎないように樺憐の犬耳を何度も何度もモミモミして、彼女の犬耳の感触を楽しむように恍惚な表情を浮かべていた。
「おお~……この感触……お猫様の物と遜色ないですっ!」
「し、周泰さん、もう……充分では……っ!」
「も、もう少し、もう少しだけお願いしますっ!」
(はぁ~……もう。これが零治さんでしたらわたくしも嬉しいのですが……猫に間違われるだけじゃなく、ここまで頭の犬耳に興味を持たれるなんて。別に悪い気はしないのですが、いい加減やめていただきたいのが本音ですわね)
正直このままではいつまで経っても話が前に進まない。無論、樺憐達は普通の人間ではなく狼の血を身体に宿した戦闘獣人なので、その身体的な特徴にこの世界の人々からは疑問を当然ぶつけられるだろう。その点については隠す気など無いが、興味本位で犬耳をいつまでも触られ続けられるのはどうかと思う。これではまるで見世物である。流石にこれ以上周泰を放置するのは良くないだろうと考えたのか、周瑜がワザとらしく大きな咳払いを一度して口を開いた。
「おほんっ! 明命よ。もうその辺にしたらどうなのだ? このままではいつまで経っても話が先に進まぬのだがな」
「あっ!? ……も、申し訳ありませんでした。どうぞ、本題の続きをお願いします」
周瑜の一声で周泰はようやく正気を取り戻し、自分が個人的な目的でどれだけ時間を無駄に浪費したのかも把握したのか、周泰は顔を真赤にして俯きながらスタスタと樺憐から離れていき、孫権の横に控えた。樺憐もようやく周泰から解放されたので両手を頭に伸ばして乱れた髪を整えて居住まいを正し、周瑜に視線を向けて礼を述べた。
「周瑜さん。周泰さんを止めていただいて感謝いたしますわ」
「いや、こちらこそうちの者が失礼を働いて済まなかったな。……して、樺憐よ。そろそろ本題に戻ってもらえるだろうか?」
「ええ。では改めて試験の説明に入りましょうか。まず、試験の対象者は武人の方々のみ。軍師の方は対象外となります。試験の内容も言ってしまえば単純な特訓。ここまではよろしいですわね?」
「という事は、私や蓮華を始めとした武人組が貴方達と勝負をするわけね?」
「そういう事です。ですが、今回の試験で皆さんには制限を設けさせてもらいます」
「制限? 何なの?」
樺憐の口から告げられた制限という一つの単語。零治が用意した無理難題に等しい試験の本質がここに詰め込まれている。内容を知れば反発する者も少なからず出るだろうが、零治はそれも想定済みだ。反発するのであれば失格にする、それだけである。自分達の個人的な闘いに同行したいのであれば、この試験は絶対に受けてもらうし、反論も認めない。逆らう者は会場内から叩き出してやるだけなのだ。この事は樺憐達も事前に零治から聞かされているし彼の采配に納得もしている。樺憐は落ち着いた様子で試験に盛り込まれた制限の内容を孫策達に告げた。
「勝負は時間制限付きの一本勝負。敗北すれば失格とみなします」
「……それって普通じゃないの?」
「ここからが重要ですわよ、孫策さん。……勝負の際、貴方達はわたくし達試験官に反撃する事は認めません。勝負の間は防戦に徹してもらいます。こちらの攻撃を武器を使って防ぐのは構いませんが、反撃すればその時点で失格にいたしますわよ」
「なっ!? ふざけるなっ! それのどこが特訓だというのだ!」
「そうよっ! 防戦なんて訓練にならないじゃないのっ!」
零治の予想通り、試験の内容を知るなり早速反発的な態度を取る者が出てきた。孫策の妹である孫権と孫尚香の二人だ。甘寧や周泰は口にするような事こそしないがその表情は明らかに不満を物語っている。黄蓋は年長者であるが故にいつも通りの余裕を崩さず遠巻きに様子見をしているだけ。とりあえずこのままというわけにはいかないので孫策が孫権と孫尚香の二人をなだめに入った。
「はいはい。蓮華も小蓮も落ち着きなさい」
「しかし姉様っ! この試験の内容はあまりにも我らを馬鹿にしているとしかっ!」
「やれやれ。気の強い妹さん達ですわね」
「何よっ! あんた、シャオ達の実力をろくに知りもしないで馬鹿にしているの!?」
「……口を慎みなさい。小娘が」
「っ!?」
未だに反抗的な態度を取る孫尚香に向かって樺憐は静かに口を開くが、その言葉は氷のように冷え切っていて胸に突き刺さり、表情にも影が落ちていてそこから覗いている真紅の瞳の鋭い眼光の前に孫権と孫尚香の二人は口を噤み、冷や汗を流していた。おまけに先程から放たれている樺憐のこの殺気、まだ試験は始まってすらいないというのにこの凄まじさ。これには百戦錬磨の将兵も黙らざるを得ないだろう。
「貴方達は何も理解していないようですわね。自分の立場も、そしてわたくし達が挑もうとしている敵の強大さも……」
誰一人今の樺憐に対して反論しようとする者は居ない。反抗的な孫権や孫尚香を黙らせるだけならもう殺気を放つ必要は無いのだが未だに樺憐は殺気を収めようとしない。分からせなければいけないからだ。孫権達にこの場での自分の立場を。そして黒狼達に挑む事の危険性。それが分からなければ、この試験を受ける資格も意味も一切無いのだ。
「今度の闘いで挑む相手はただの外敵ではありません。我らの主、貴方達が『黒き閃光』という異名で恐れていた零治さんの宿敵、黒狼ですのよ。あの男の実力は底知れない。今の零治さんでも互角に闘うのがやっとの状態……」
「…………」
「そんな人物とまともに闘える程の力が一朝一夕で身に付くとでも? 少しは己の力量を弁えたらどうなのです」
人間の肉体にはどうしても限界というものがある。樺憐の言う通りあの黒狼と対等に渡り合えるほどの実力を一朝一夕で身に付けるなどどう考えても不可能だ。この世界の人間が短期間でそれほどの力を手にするとなると、極端な話をすれば人間をやめる以外に方法は無い。それこそ全身をサイボーグ化でもすればまともに闘える可能性は無きにしもあらずだが、それで黒狼が倒せるかどうかは別の話である。
「この大陸を護りたい皆さんのお気持ちは分かりますが、勇気と無謀を履き違えるなど愚の骨頂。そしてこの場に置いてはわたくし達の言う事は絶対。異論は一切認めません。それが出来ないというのであれば、今すぐにこの場を立ち去りなさい」
「……蓮華、小蓮」
孫策は両脇に立っている孫権と孫尚香の肩に手をそっと伸ばし、諭すように静かに二人の真名を呼んだ。今は自分が呉の王である立場だが、いずれは孫権、孫尚香へと家督が移り変わり彼女達が江東を統治するのだ。その後継者が勇気と無謀を履き違えるような愚者では孫呉に未来は無いだろう。ここはグッと堪えてもらおう。それに形式が何であれ、あの天の御遣いから直々に手解きをしてもらえるのだ。それは決して無駄にはならないだろうと孫策は考えている。だからこそこの場では樺憐達の言葉に従ってもらわねばならないのだ。
「……分かりました」
「むぅ~……悔しいけど、今だけは従ってあげるわよ」
「ありがとう。……皆も良いわね? 今この場に置いては、樺憐達の言う事には絶対に従うのよ?」
孫権や孫尚香が渋々ながらも納得をしたのだ。それに王である孫策にこう言われては他の者達も納得せざるを得ないし、これ以上ゴネるような事をしてもただの恥晒しでしか無い。何よりこのままでは話が先に進んでくれないのだ。世界が消滅の危機を迎えている今、一分一秒たりとも時間を無駄にするわけにはいかない。呉の首脳陣達の考えも纏まったようなので、樺憐は放っている殺気を収めて表情も普段の穏やかな物に戻して口を開いた。
「こちらの言い分をご理解していただいたようで何より。では、説明を続けましょうか」
「ええ。お願いするわ」
「この場でわたくし達が貴方達に教えるのは黒狼達と闘う術ではなく、叡智の城で『生き延びる術』ですわ」
「生き延びる術?」
「そうです。分かりやすく言えば、皆さんにはひたすら逃げ回ってもらうのですわ。今から行う試験でもそれを実践してもらいます」
「ひたすら逃げ回るだけとは……何とも情けない話だな」
樺憐が提示した試験の内容に不満げに呟いたのは甘寧だった。主である孫策の命により納得こそしてはいるがやはり不満を漏らさずには居られなかった。武人として生きている以上、戦わずに逃げ回るだけなど情けないとしか思えないのだ。樺憐もこの世界の武人達がどういう考え方をしているのかはある程度は把握している。しかし、今回挑む相手にこの世界の理屈は殆ど通用しない。その点を理解させる必要があるだろう。
「あらあら。この試験内容は人間という種族の生存戦略に基づいた実に合理的なものですのよ」
「何?」
樺憐の言葉の前に、甘寧だけでなく孫策を始めとした呉の首脳陣全員が首を傾げた。逃げるのが人間の合理的な戦略だなんて話は聞いた事がない。戦場で時には退く事も大事なのは分かるが、ひたすら逃げ回るなどただの敵前逃亡。腰抜けのする事だ。少なくとも孫策達はそう考えている。樺憐も彼女達の考え方は理解できなくはなかった。だがこの話の本質はそういう事ではないのだ。樺憐は壇上に立つ教師のように右手の人差指をピッと立てて孫策達の疑問に対する説明を始めた。
「人間とは心の奥底に、死や痛みに対する恐怖心……つまり『恐れ』があります。皆さんだって早死したり痛い思いをしたくはないでしょう?」
「う~ん……私は戦場でそういうのは一度も感じた事が無いわねぇ。逆にどんな強い人が居るのかワクワクしたりとかそういうのはあったけど」
「……孫策さん。貴方みたいな戦闘狂は例外中の例外でしてよ」
「ちょっと。人を人外みたいに言わないでよ。失礼しちゃうわねぇ」
樺憐の言い草に孫策は口をへの字にして子供のように不満げな表情を露わにするが、この世界で孫策は規格ハズレの人外と言っていいだろう。赤壁で並外れた戦闘力を持つ樺憐との闘いでも見事に生き延びているのだ。ある意味彼女は既に今から行う試験を突破してると言っても良いのだろうが、孫策だけをこの場で特別扱いするわけにはいかない。それでは試験をする意味も無いのだ。少々話が脱線してしまったが、樺憐は軽く咳払いをして気を取り直して話を続けた。
「こほん。……中には孫策さんのような例外も居ますが、大半の人間にはそういった恐れが本能的な部分にあるのですわ。そのおかげで人間は自然と危険を回避する行動を取るのです」
「危険を回避する? それって敵軍の罠を避けるみたいに?」
「そうですわ。何も知らずに熱い物に手を触れると反射的に手を引っ込めた経験はありませんか? アレもそれと同じなのです。人間は生存確率を上げるために、社会の進化と共に痛覚も異常なまでに進化させた。痛みをより痛いと感じるために。これこそが人間という種族の生存戦略なのですわ」
「つまり……今から行う試験はそれだけ危険って事なのね……」
「無論です。試験中、わたくし達は貴方達を本気で殺すつもりで攻撃しますわよ」
「ちょっ、ちょっと待ってよ! それでシャオ達が死んじゃったらどうするのよっ!?」
孫尚香の言う事は最もだった。黒狼達との血戦に同行する事を認めるか否かを決めるための試験で、受験者を殺すような真似をしては本末転倒である。それではこの大陸の未来を創る大切な人材を自分達の手で捨てる事になるだけだ。もちろん零治達もそんな真似はしない。だが、この世界で行っていた模擬戦のような形式でも意味が無い。今この場に置いては、三国の英傑達に死と隣合わせの危険な闘いを可能な限り現実に近い形で疑似体験してもらう必要があるのだ。そのために零治はこの試験会場を用意した。BDの提案を受け入れて力を貸してもらい、創り上げた仮初の世界をだ。
「ご安心を。この試験会場内では本当に死ぬ事はありませんわ。この空間は我らの主、零治さんが用意した仮想空間。一種の夢と思ってくれれば結構ですわ」
「夢? ならここは現実ではないと言うの? ……もしかして、空にあの城が浮かんでいないのもそのせいなの?」
「その通りですわ」
「って事は、私達も何でも出来ちゃったりするの?」
「孫策さん。ここはそこまで夢のような世界ではありませんわよ。この空間は零治さんが用意した限りなく現実に近い非現実世界。そのため、この場に居ても人間の五感は現実と変わりませんわよ。当然……『痛覚』もね……」
「なるほど。痛い思いをしたくなければ、試験中は貴方達の攻撃を死ぬ気になって避け続けろって事なのね。全く……貴方の主人も随分と悪趣味な試験を用意してくれるじゃないの」
「合理的と言っていただきたいですわね。さて、無駄話はここまでです。時間も惜しいのでそろそろ本題に移りましょうか。対戦相手はこちらが指名します。拒否権はありません。拒否すればその時点で失格といたしますからそのつもりで……」
雑談は終わりだ。樺憐は椅子から立ち上がると殺気を帯びた闘気を纏い、それに呼応するように試験会場内の空気にも緊張が張り詰めた。奈々瑠と臥々瑠も樺憐に続いて今までとは比べ物にならないほどの殺気を放っている。孫策達はこの場ではあくまで受験者という立場だが、今の樺憐達にとって彼女達は倒す、息の根を完全に止めるべき敵でもある。そう認識しながら試験官として試験を執り行う。初めて目の当たりにする魏の御遣い達の本気の姿。その様子に呉の首脳陣達は気圧されるが、一人だけ不敵な笑みを浮かべている者が居た。孫策だ。彼女の中に流れる武人としての血、そして戦闘狂としての本能。それらが激しく騒ぎ立てていたのだ。
「あらあら。赤壁の時以上に殺気立っちゃって。……ふふっ。凄くワクワクしてきたわ」
「全く。貴方は本当に筋金入りの戦闘狂ですわね、孫策さん。まあいいですわ。当初から貴方の相手はわたくしがするつもりでしたので」
「指名してもらえて感謝するわね、樺憐」
「奈々瑠、臥々瑠。二人も早い所自分の相手を選びなさい」
「はい」
「は~い」
事前に打ち合わせをしていたとはいえ、母である樺憐が孫策の相手をしてくれる事に奈々瑠と臥々瑠は内心安堵していた。反撃する事を禁じているとはいえ、あの戦闘狂の孫策を相手にするのは二人には荷が重すぎるのだ。この采配はまさに適材適所。その一言に尽きる。それはさておき、試験が始まった以上は試験官の役割を与えられている奈々瑠と臥々瑠も早い所自分の相手を選ばねばならない。黒狼が与えた猶予には限りがあるのだ。時間の無駄な浪費は避けねばならないだろう。最初に決断したのは奈々瑠だったようで、彼女は一度頷くと足を進め、孫権の前に立った。
「えーと、貴方は孫権さん……でいいんですよね?」
「ああ」
「では、貴方の相手は私がします。どうぞついてきてください」
「よろしく頼む」
奈々瑠に指名され、孫権は彼女の後に続いて中庭の適当な場所まで移動してお互いに対峙した。残され臥々瑠は物凄く面倒臭そうな顔をしながら孫尚香をしばらく観察して彼女の前まで進み、右手でボリボリと後頭部を掻きながら口を開いた。
「はぁ……じゃあアタシは一番弱そうなアンタの相手からしてあげるよ。チビっ子」
「ちびって何よっ!? あんたもシャオと大して変わんないし、シャオはあんたが思ってるほど弱くないわよ!」
「ムカっ」
孫尚香の言い分にムカッときた臥々瑠はヒョイッと右手を素早く彼女の額まで伸ばし、渾身のデコピンをお見舞いしてやった。多少なりとも手加減はしているが、臥々瑠のデコピンが当たった瞬間、ベチィっとデコピンを当てたとは思えないほどの派手な音がして孫尚香は思わず両手で額を押さえながらその場に蹲ってしまった。
「いったぁっ!? いきなり何するのよ!」
「ほら。やっぱり弱いじゃん。あんなデコピンも避けられないんだから」
「不意打ちなんてされたら誰だって避けられないわよっ! あんた卑怯よ!」
「卑怯? 生きるか死ぬかの闘いに卑怯もヘッタクレも無いと思うんだけど?」
「むぅ~! ああ言えばこう言う!」
「アタシは事実を言ってるだけだし。それにさ……まさかとは思うけど、黒狼達にも同じセリフを言うつもりじゃないよね……?」
「……何が言いたいのよ」
「この世界の武人達の生き様とか誇りっていうの? アタシには難しすぎてよく分かんないけどさ、そんな物が黒狼達にはなんの役にも立たないって事ぐらいはアタシも分かるよ」
武人同士の闘いにおいて卑怯な行為はこの世界ではタブーである。しかしその理屈が通用するのはあくまでもこの世界で生きる武人という人種に限定される。零治達はこの世界での流儀や武人の在り方を理解はしているので、ある程度はこの世界のやり方に合わせて戦ってはいた。もちろん時には手段を選ばない時もあったが、それでも理解があり、合わせてくれるだけ彼らはまだマシな方である。だが黒狼達にこの世界の流儀など全く意味を成さない。黒狼と金狼はこの世界の流儀について理解はしているだろうがそれだけだ。銀狼に至っては人殺しを生きがいにしているので論外だ。彼らにとって闘いとは、生きるか死ぬか、殺すか殺されるか、そして弱者から命を落としていく世界。その程度にしか認識していないし、この世界の流儀など知った事ではないのだ。何より黒狼達がこの世界での流儀を重んじるのであればこんな事態にだってなるはずがないのだ。
「黒狼達はね、アンタ達の事なんてその辺に転がってる石ころ程度にしか見てないんだよ。そんな連中に卑怯なんて言って何か意味があるの? 無いね。アイツらはアンタが卑怯だって思うような事を平気な顔でするような奴らなんだから……」
「なら、シャオ達にどうしろって言うのよ」
「生き延びるんだよ」
「生き延びる?」
「そう。例え地べたを這いつくばる事になっても、石に齧り付いてでも生き延びようとする意思……えーっと、なんて言うんだっけ? 確か雑草根性だったかな? それが必要なんだよ。今のアンタ達にはね」
「……いいわよ。やってやろうじゃないの!」
臥々瑠が言わんとしている事が伝わったのか、孫尚香の眼に闘志の炎が燃え盛り、やる気を見せてその場から力強く立ち上がった。今回の戦いはこの大陸に渦巻いていた諸侯同士の戦とは訳が違うし、相手も普通の人間ではない。それに、あくまでも黒狼達と闘うのは零治達の役目。華琳を始めとした大陸の英傑達は彼らの闘いの決着、それを見届けるために同行する。この試験はそれを決めるためのものなのだ。出来るならば自分の手でこの大陸の未来を護りたいが、人には出来る事と出来ない事がある。だからこそ今の自分に見合った出来る事をするのだ。この試験に合格する。それが今の孫尚香のやるべき事である。
「おっ? もしかしてやる気になったの?」
「ふふん。このシャオ様が弱くないって事、今から証明してやるから覚悟しなさいよね」
「へぇ~。そりゃ楽しみだね。なら、そろそろ始めようか。まずはこれを用意してっと……」
臥々瑠がいつも着ているハーフコートの内ポケットから取り出したのは、上下に丸型の木の板が取り付けられその間には中央がくびれたガラスの筒が挟まっている手の平サイズの物体。砂時計である。ガラスの筒の下の方には目視がしやすいように青に色付けされた砂が入っている。この世界にはストップウォッチなんか無いし、この世界の人間に何分とか何時間という時間単位も理解できないかもしれないし、説明する時間も惜しい。なのでこれも零治が急遽魔法で用意した物なのである。
「何よそれ?」
「これは砂時計っていう、一定の時間を計るための道具だよ。今回はこれで試験中の制限時間を計算するんだ」
「へぇ~」
「とりあえずこれを見てもらう係の人が要るから、そうだなぁ……」
制限時間を計る砂時計はあってもそれを見ている人間が居ないと意味が無い。臥々瑠が見るにしても、腕時計みたいに身に着けられる物じゃないし、それをやると試験中も砂時計の残り時間も意識していなければならなくなる。それではあまりにも効率が悪すぎるので見てもらう係が必要だろう。誰に頼もうか呉の首脳陣を見回している時、周泰が臥々瑠の眼に止まった。
「あっ、アンタに頼もうかな。えーっと、確か周泰だったよね?」
「はい。そうです」
「じゃあ悪いんだけど、この砂時計を見る係をお願いしてもいいかな?」
「はっ! お猫様の遣いの頼み、喜んでお引き受けいたしますっ!」
「……お母さんの話聞いてなかったの。アタシ達の身体に流れてるのは狼の血だってば」
「あうっ! す、すみません。どうしてもそのお耳がお猫様の物にしか見えなくて……」
「はぁ……まあいいや。とりあえずこっち来て」
「はいっ!」
未だに猫の遣いと思われている節があるようだが、臥々瑠にとってそれはどうでもいい事。いま重要なのは周泰にこの砂時計を見る係を務めてもらう事なのだ。臥々瑠に呼びつけられ、周泰は力強く返事をしてキビキビとした様子で彼女の前まで足を進めるとその場で片膝を突いた。正直ここまでしなくていいのだが、そこは置いておくとして臥々瑠は砂時計を片手に周泰にやってほしい役割の説明に入った。
「じゃあ今からやってもらう事の説明に入るね」
「はっ! どんな無理難題もやり遂げてみせますっ!」
「別にそこまで大袈裟な事じゃないんだけど……まあいっか。まずはこれを持って。落とさないでよ」
「はい!」
「じゃあそこの椅子に座って」
「ここにですか? 分かりました」
臥々瑠から受け取った砂時計を大事そうに両手で持ちながら、周泰は臥々瑠が指差したカフェテーブルと対になっている一つの椅子に腰掛けた。周泰もそうだが、残りの呉の首脳陣達も何をさせようとしているのか全く見当がつかず、興味深げに周泰と臥々瑠のやり取りをジッと観察していた。なんだか好奇の眼差しを向けられているみたいで落ち着かないが、とりあえず臥々瑠は周りの視線は無視して周泰に務めてもらう役割の説明の続きを進めた。
「さっきの話を聞いてたからもう分かってると思うけど、その砂時計は一定の時間を計る道具なの。ここまではいい?」
「はい」
「で、使い方もとっても簡単。逆さまにひっくり返すだけ」
「それだけで時間が分かるのですか?」
「そう。その砂時計をひっくり返すと、中の砂が下に落ちていくでしょ? その砂が完全に落ち切るまでに掛かる時間が、試験中の制限時間になるわけ」
「なるほど。天の国にはこんな便利な物があるのですね。凄いです」
「そうかな? アタシそんな物、せいぜいカップ麺を作る時ぐらいしか使わないと思うけど」
「……かっぷ麺?」
「あっ、ごめん。こっちの話だから気にしないで」
「はぁ」
「で、話を戻すけど、周泰には試験開始の合図も出してほしいの。それと同時に砂時計をひっくり返して、砂が全部落ちきった時には終了の合図も出してね」
「分かりました。お任せください」
「よろしくね~。……さーて、待たせたね」
周泰に砂時計係りの説明も終わり、気持ちを切り替えた臥々瑠は右手で握り拳を作り、それを何度も左手にパンパンと打ち付ける動作をしながら孫尚香に不敵な笑みを向けた。その様はまるでガキ大将のようである。とてもこれからこの大陸の未来を懸けた闘いに同行するか否かを決める試験を執り行う姿とは思えないが、臥々瑠は至って真面目だ。彼女はこれから本気で孫尚香を叩き潰すつもりで試験官の役目を果たす。だが対する孫尚香も臥々瑠の姿に怯んだりはしない。逆に闘志の炎を燃え盛らせていた。
「ふっふ~ん。このシャオ様を舐めないでよね。弓腰姫の呼び名が伊達じゃないって事、今から教えてあげるわ」
「その余裕、いつまで保つかな?」
「お二人とも、準備はよろしいでしょうか?」
「こっちはいつでもいいよ」
「シャオもいいわ。明命、早く始めなさい」
「承知しました。それでは……試験開始ですっ!」
周泰は力強い合図の掛け声を発すると同時に素早く臥々瑠から受け取った砂時計をひっくり返してカフェテーブルの中央に置いて手を離した。逆さまにされた事で青色の砂がサラサラと下へ零れ落ちていき、周泰はその様子を、おおっと驚きの声を発して食い入るように砂時計をジーッと見つめていた。
「ちょっと明命っ! あんたどこを見ているのよ!? そんな天の国の道具よりもシャオ達の事を見なさいよね!」
「よそ見をしてていいの……?」
試験開幕早々、孫尚香は周泰が砂時計に興味心を引き寄せられてこっちをそっちのけにしているのが気に食わないのか、彼女に向かって怒鳴り散らしていたが、よそ見をしているその隙きを突くように臥々瑠は瞬時に間合いを詰めて孫尚香の顔面に向かって高速の鉄拳を放った。
「うわっとっ!?」
反応が一瞬だが早かったおかげで孫尚香は咄嗟に上体を後ろに反らして、間一髪という所で臥々瑠の一撃を辛うじて躱してみせた。決して手加減はしていなかった。臥々瑠は今の一撃で孫尚香を確実に仕留めるつもりでいたのだ。しかし結果は見ての通り、躱されてしまったので臥々瑠は少しだけ感心するがそれだけだ。なぜなら今の鉄拳が外れたのは孫尚香の実力ではなく、悪運の強さが大きく起因していたからである。
「へぇ~。よく避けたじゃん。まっ、今のは運が良かったんだろうけど少しは褒めてあげるよ」
「いきなり危ないじゃないの! 少しは空気を読みなさいよねっ!」
「これは試験だよ? そっちこそ空気を読みなよ。そんな調子で五分間保つの?」
「……ごふんって何よ?」
「あの砂時計の砂が落ち切るまでに掛かる時間。要は試験の制限時間だよ」
「そう言われてもいまいちピンと来ないわよ。もう少し分かるように教えてよ」
「じゃあこう言えばいいの? 三百数えたらあの砂が完全に落ちきるって」
「三百ぅ!?」
「そういう事。ってな訳で無駄話は終わり。せいぜい長い長い三百秒間を楽しんで……逃げ切ってみなよっ!」
「っ!?」
制限時間があるとはいえ、いくら百戦錬磨の英傑達でも反撃する事を許されずに防戦に徹する。しかも相手は魏に降り立った天の御遣いである。零治から課せられた試験の内容は話を聞いただけでも充分に理解していたつもりだったが、実際に体験してみると予想以上の無理難題である事が嫌でも分かってしまう。再度間合いを詰めて臥々瑠は両手を使ってパンチのラッシュを孫尚香に浴びせにかかるが、孫尚香も必死の形相で間合いを取りながら安全圏に退避してその猛攻から難を逃れるので、臥々瑠はもう一度距離を詰める。そして孫尚香が距離を離す。それの繰り返し。完全に追いかけっこと化していた。傍から見ると実に情けない光景だが、こんな間近で見せられる天の御遣いの一人に数えられている臥々瑠の闘いぶり。その様子を呉の首脳陣達は食い入るように見つめていた。
「ほぉ~。あの少女、見かけに反して良い動きをしているではないか。どうじゃ、思春。お主はあやつの動きについていける自信があるか?」
「……どうでしょう。実際に闘ってみない事には何とも言えませんが、あの者が小兵と侮る事の出来ない人物なのは確かです」
臥々瑠の実力は零治や樺憐などと比較すると見劣りしてしまうが、それでも彼女がこの世界の武人達から見れば驚異的な実力者であるのは明らかである。二人の闘いは相手が孫尚香のせいであまりにも一方的な展開になっているが、それでも臥々瑠の闘いぶりから並大抵の実力者でない事が呉の首脳陣達はすぐに理解できた。その様子に、今度は周瑜が不思議そうに首を傾げ、右手を顎に添えながら唸っていた。
「うーむ……」
「冥琳様、どうかしましたかぁ?」
「いや、あの少女。あれだけの強さを持っていながら、なぜ今までこれといった目立った活躍の話を耳にしなかったのかが不思議に思えてな」
「……そう言われればそうですね。あの方、赤壁でも姿を見せてませんでしたし」
「まあ、そういう細かい事は後で本人に話を訊いてみればいいじゃありませんかぁ。いま重要なのは、小蓮様がこの試験に見事合格するかどうかなんですからぁ」
「はぁ……お前はこんな時でも呑気なのだな。穏」
臥々瑠のこれまでの活躍ぶりについて全く情報が入って来なかった事に対して軍師組の周瑜と呂蒙は純粋な疑問を抱いているのに、陸遜は二人とは対象的にこんな場でもいつものようにのほほんとした様子だった。因みに臥々瑠の今までの活躍について情報が入って来なかった理由としては、彼女は奈々瑠とセットで華琳の親衛隊の一員としての役職が与えられており、戦でも本陣での待機が殆どだった。出撃する時も敵軍を潰すための最後のダメ押しにかかる割合が多かったので、他国の人間に目撃される頻度も少なかったせいである。まあ、今となってはそれはもうどうでもいい事である。重要なのはこの試験に合格するという事。臥々瑠達はさっそく試験を始めたので、その様子を見ていた奈々瑠も始める事にした。
「臥々瑠はもう始めたのね。なら、こちらもそろそろ始めましょうか」
「うむ。そうしてくれ」
「では、まずはこれを取り出してっと……」
奈々瑠も臥々瑠と同様に羽織っているハーフコートの内ポケットから同じ形状、視認性を良くするために青色に着色がされた砂が入った砂時計を一つ取り出した。後はこれを見てくれる係の人を用意する必要がある。誰にしようかと呉の首脳陣達を見回してる時、奈々瑠の眼に甘寧の姿が止まった。
「あっ、あの人に頼もうかな。孫権さん。あの人の名前は何ですか?」
「ん? ……あぁ、思春……甘寧が必要なのか? 思春、御遣い殿がお呼びだ」
「はっ」
孫権に呼ばれるや否や、甘寧は周泰と同じようにキビキビとした姿でこちらまで歩み寄り、孫権の隣に控えた。名前が分からない人物をこちらに呼んでくれたのは助かるが、孫権の先程のセリフの中にどうしても引っかかる単語が混じっていたので、奈々瑠は苦笑して孫権に視線を向けながらその事を指摘した。
「あの、孫権さん」
「どうした?」
「御遣い殿なんて堅苦しい呼び方はやめてほしいんですけど。私そこまで持ち上げられるような人じゃないですし」
「……そう言われてもな。では何と呼べば良いのだ?」
「普通に奈々瑠って名前で呼んでくれていいですよ」
「むっ。そうか。ではそうさせてもらおう。奈々瑠殿」
まだ堅苦しさが残っているが、名前で呼んでくれるだけマシになっている。恐らくこれは孫権の性格ゆえにこうなってしなうのだろうと奈々瑠は納得すると同時に内心で苦笑していた。まあ、それはひとまず置いておくとして、試験を始める前にまずは確認の意味合いも兼ねてルールの説明を改めてしておいた方が良いだろうと奈々瑠は思い、孫権と甘寧に説明を始めた。
「それじゃあ試験を始める前に、まずは確認の意味も兼ねてルール……じゃなくて、制約等の説明をさせてもらいますね」
「うむ」
「母さんのさっきの説明を聞いているので分かっているでしょうが、私達に反撃した時点で失格とみなします。あくまでも制限時間中、孫権さんは私の攻撃から身を守る事に徹してください」
「心得た」
「で、制限時間についてですが、甘寧さん」
「何だ?」
「この砂時計の使い方についてですが……説明は必要でしょうか?」
「明命の話を聞いていたので問題無い。試験が始まると同時に逆さまにすれば良いのだろう?」
「そうです。それじゃああの椅子に座って合図の方をお願いしますね」
「承知した」
奈々瑠が砂時計を甘寧に手渡し、指差した先にあるのは先程まで母娘で使用していたカフェテーブルと対になっている椅子だ。このテーブルセットは中庭の中央に設置されており、奈々瑠達はその外側の適当な場所に展開していて距離も対して離れていない。だから砂時計を見る係の人間はここに居るのが最適なのだ。甘寧は奈々瑠に指定された椅子に腰掛けてテーブルの上に奈々瑠から受け取った砂時計を置いて二人に視線を向けた。
「ではお二方、準備の方はよろしいですか?」
「こっちはいつでも」
「私もいつでも構わんぞ」
「そうですか。では……試験開始っ!」
甘寧は周泰と同じように力強く試験開始の合図の掛け声を発すると同時に奈々瑠から受け取った砂時計を素早く引っくり返してテーブルの上に置いた。妹の孫尚香に続いて自分も試験が始まり、孫権は緊張に満ちた面持ちで今日この日まで使い込んできた剣を抜刀し、剣道の正眼の構えのように両手で剣を持ち、奈々瑠の姿を鋭く見据えていた。対する奈々瑠は孫権のその様子に動じる事もなく、両脚を軽く曲げて跳躍を何度も繰り返して身体をほぐし、両手を腰の後ろに回して二本で一組となっている小刀、千鳥を逆手で抜刀して姿勢を低くしながら構え、孫権に対峙した。
「なるほど。よく見る無難な構え方ですが悪くないです。では……行きますよ」
「来いっ!」
「はっ!」
誰もが己の眼を疑った事だろう。つい先程までそこに居たはずの奈々瑠は、予備動作も無しでその場から姿を文字通り消したのだ。目の前で起きたあまりにも非現実的な光景に孫権は面食らってしまったがこれはまだ序の口だ。消えたと思った次の瞬間に、奈々瑠は右腕を大きく後ろに引き、孫権に飛びかかるような体勢でその姿を現したのだ。
「なっ!?」
「はあっ!」
「くぅ……っ!」
右腕を振り抜く事で放たれた奈々瑠の鋭い一撃は、まだ武人ても未熟な部分がある孫権には躱すのは荷が重すぎた。彼女は咄嗟に剣の刃を寝かせて左手を切っ先付近に添えながら正面にかざして腹の部分でその一撃を受け止めるが、奈々瑠の小柄な見た目からは想像もつかないような重い衝撃が剣を通して腕から全身に駆け巡り、ぶつかりあった刃からは激しい火花を散らし、ガキンッと重っ苦しい音を鳴り響かせながら孫権は大きく後ろに押されてしまうが、両脚を踏ん張って何とか体勢を崩されずに至った。その重い攻撃を繰り出した奈々瑠は軽やかに地面に着地し、感心したような表情で孫権を見据えていた。
「へぇ~。今の一撃を受け止めるなんて中々やりますね。結構本気だったんですけど」
(この娘……思春よりも速いっ!?)
「今のはまだ序の口。これからが本番です。ここから更に厳しく行きますよっ!」
「っ!?」
奈々瑠は左手に持つ千鳥の片方を鞘に収め、低姿勢でその場を駆け抜けて孫権との間合いを詰め、右手にあるもう片方の千鳥を左に振り抜くが、孫権はその場からバックステップをして奈々瑠との間合いを離して難を逃れる。だが奈々瑠はそれを物ともせずに右手にある千鳥を左に振り抜いた体勢のまま瞬時に間合いを詰め、順手に持ち替えて今度は右に振り抜き、それと同時に左手を開きながら前に突き出して前のめりになり、左手を地面に着けるとそれを軸にして身体を独楽のように回転させて強力な回し蹴りも放つ連続攻撃を孫権に浴びせた。
「くっ! つぅ……っ!」
一撃目は避ける事が出来たが、この二連撃は回避が困難なので孫権は愛用している剣を盾代わりにして何とか防いでみせたが、その衝撃が全身を駆け巡りまたしても後方へと押しやられてしまう。これが純粋な勝負ならば無様でしかないが、今回提示されている試験の内容と照らし合わせればこれは正しい選択なのだ。魏の御遣い達の中では実力は下の方になるが、それでも奈々瑠と臥々瑠も充分な強さを誇っている。それは実際にこうして闘っている孫権と孫尚香は当然ながら、その様子を見ている残りの首脳陣達も痛感している。それと同時にこれだけの強さを誇っている人物を相手に、孫権も何とか今の所は奈々瑠の猛攻を凌いでいるので、武人として成長もしているのだと感心していた。
「連華様、なかなかやるようになりましたね。思春様」
「ああ。……それにしても、あの娘の身のこなし。もしかすると私よりも速いかもしれんな」
「そうですね。あの樺憐殿の娘さんとの事ですが、赤壁で彼女が我らの船に乗り込んだあの時を思い出させるような闘いぶりですね」
「娘達も親の強さをしっかりと受け継いでいるという事か。この試験、一筋縄では行かなそうだな」
一筋縄では行かない。それは当然である。そもそも零治は華琳を始めとした三国の首脳陣達を叡智の城へ連れて行きたくないのだ。なのに彼女達は同行すると言って聞かない。ならばそれ相応の力を示してもらわねばならないのだ。叡智の城へ乗り込むに足る実力と覚悟があるのかどうか、それを見極めるためには無理難題と言われても仕方ない程の内容の試験を受けさせねばならない。今回の件で零治は一切手を抜きはしない。例えこれまで共に戦ってきた仲間達といえど容赦はしないのだ。奈々瑠と臥々瑠も零治のその想いを胸に秘めて自分達の相手である孫権、孫尚香に容赦のない猛攻を浴びせ続け、二人も必死の形相でその一撃の一つ一つを躱したり凌いだりとしていた。その様子に樺憐も安心したように一度頷き、自分が担当する相手の孫策に視線を移した。
「あの様子なら、娘達の方は問題なさそうですわね。では、こちらもそろそろ始めましょうか」
「そうね。貴方とこうして闘うのは赤壁以来ね。また貴方の強さをこの身で感じる事が出来て嬉しい限りだわ」
「やれやれ。貴方は本当に筋金入りの戦闘狂ですわね。その性格、恐らく死んでも直らないでしょうね。フフフ……」
孫策の戦闘狂に呆れながら、樺憐は指の骨をポキポキと鳴らして彼女に不敵な笑みを向け、そしてワイルドファングの手甲をガツンと打ち鳴らしてみせた。今の樺憐は完全に戦闘態勢のスイッチが入っている。今から行う戦闘には試験という名目こそあるが、樺憐が見せているその姿は戦場に立つ姿と全く変わらない。以下に彼女が本気で孫策を潰しにかかろうとしているのかが見て取れた。
「貴方も人のこと言えなんじゃないの。笑顔でそんな恐ろしい殺気を放つんだから」
「二児の母に対して随分と失礼ですわね。わたくしは貴方達に舐められないようにするために、今はこうしているだけでしてよ。……さて、ではこちらも砂時計係りを用意しましょうか。黄蓋さん、こちらへ来ていただけますか?」
「むっ。承知した」
武人組で残っているのは黄蓋だけだ。時間を計るだけなら別に軍師の誰かに頼んでも何も問題ないのだが、零治が用意した試験内容は武人同士の勝負なのだ。試合が決したら勝負を止めるのもやはり武人に任せるべきなのだろう。それにしても最後に残っていたとはいえ、樺憐に指名されるとは。黄蓋は樺憐達の方へ足を進めながら、彼女とはつくづく縁があるのだろうと考えていた。
「何を感慨深そうな顔をしているのです?」
「いや何、お主とはつくづく縁があるのだと思ってな」
「それは同感ですわね。さて、ではこちらも本題に入りましょうか」
樺憐がそう言って着ているハーフコートの内ポケットから取り出したのはお決まりの砂時計だ。彼女はそれを黄蓋に手渡すと、ピッと右手の人差指を上げてまたしても教壇に立つ学校の教師のように、砂時計の扱い方についての説明を始めた。
「まずはその砂時計についてですが、それがわたくし達との試合の制限時間を計る道具です。使い方についてですが、説明は必要ですか?」
「いや、思春や明命の話を見聞きして扱い方については既に理解しておる」
「それは結構。では、黄蓋さんもあちらの席へどうぞ」
「うむ」
樺憐が右手を差し出して示した先にあるのは、甘寧と周泰が席に着いているカフェテーブルだ。黄蓋はそちらまで足を進め、空いている三つ目の席に着き、テーブルに受け取った砂時計を右手に持ちながら置いて樺憐と孫策に視線を向け、双方の準備について訪ねた。
「二人共、準備は良いか?」
「わたくしはいつでも構いませんわ」
「こっちもいつでもいいわよ。祭、さっさと始めてちょうだい」
「では、双方構え……始めっ!」
樺憐と孫策、お互いに素早く構えを取り、黄蓋から発せられた力強い合図の声と共に樺憐は即座に動いた。彼女は右腕を後ろに引きながら低姿勢でダッシュをして孫策との間合いを詰め、自分の間合いに捉えた所で予め後ろに引いていた右腕を振り抜き、鋭いフックの一撃を放った。
「おっとっ!?」
孫策は素早くバックステップをしてその一撃を躱し、難を逃れるが樺憐は追撃をしようとはしなかった。彼女がその気になれば、ここから更なる猛攻を浴びせる事など造作もないはず。敢えてそれをしなかったのは孫策の動きの分析をするため。反撃を禁じているとはいえ、相手はこちらの攻撃を躱すためにひたすら逃げ回る。となれば闇雲に追撃しても時間の無駄だし、逆にこちらが消耗してしまう。制限時間は五分と決して長くはないが、そうなれば試験のハードルをわざわざ自分達で下げてしまう事になる。それでは試験をする意味が無くなるのだ。だからこそ、無駄な動きは全て排除せねばならない。相手を仕留めるために、まずは相手の動きを熟知し、それを把握した上で確実なる痛撃を与える。これも全てはこの大陸の未来のためなのだ。
「やれやれ。相変わらずとんでもない一撃ね」
「ご謙遜を。わたくしの一撃をいとも簡単に躱した貴方の動きこそ称賛に値しますわよ。孫策さん」
「そりゃあ、貴方の怖さは赤壁で嫌というほど思い知ってるんだから必死にもなるわよ」
「それは結構。相手の強さを理解し恐れる。その心が無い者は人にあらず。ただの修羅ですわ。それを忘れずに残り時間……きっちり逃げ延びてみせなさいっ!」
樺憐は口火を切ると同時に前方に跳躍して空中内でクルクルと身体を丸めて回転して孫策に向きなった瞬間、握り拳を作って右腕を前に突き出し、両手のファングのブースターを起動して瞬時に吹かし、一気に急降下をしてきたのだ。その様はまるで突如として地球に飛来してきた隕石のようである。
「ちょっ!? 何なのよそのメチャクチャな動きはっ!?」
誰がどう見ても非常識極まりない樺憐の動き。こんな動きを前にしてこの世界の人間が出来る事はたった一つ。それは逃げる事だ。無論それがこの試験をクリアするために必要な要素なので当たり前だが、それを抜きにしても他に方法が無いのだ。孫策はもう一度後方に退避するために大きくバックステップをした次の瞬間、樺憐の拳が地面に直撃して辺りに腹の底に響くような轟音を轟かせて地面を揺るがし、孫策が退避する直前まで居たその場に大量の砂煙が舞い上がった。次第にその砂煙は薄れ、中から何食わぬ顔をした樺憐の立ち姿が確認できて、彼女が立っている場所には大きなクレーターが出来上がっていた。まさに隕石の落下地点その物である。
「ふむ。我ながら大した破壊力ですわね。……今の技は、メテオダイヴとでも名付けましょうか」
これだけ派手な事をしでかした本人は周りの様子などきにも留めず、冷静に技の威力などを分析し名前まで考えていたが、下手をすればその技を喰らわされていたかもしれない孫策は冷や汗が止まらない状態だった。この空間は仮想世界なので現実に死ぬ事は無いにしても、痛覚は忠実に再現されているとの事なのだ。喰らった後の事など考えたくないのが本音である。
「母さん、またあんな派手な技を編み出して……」
「アタシ達もあんまり言えたものじゃないけど、お母さんはホントに規格外だね……」
一番驚かされたのは孫策だろうが、その光景を横から見ていた奈々瑠と臥々瑠も、そして孫権と孫尚香も充分に驚いている。そのせいで思わず勝負の手を止めてしまってるほどだ。当然観戦している呉の首脳陣全員だって驚いている。周りからの視線を感じ取った樺憐は何事かと顔を上げて辺りを見回すと、手が止まっている奈々瑠と臥々瑠の姿が眼に入り、何事も無かったかのようにそれを指摘してきた。
「奈々瑠、臥々瑠。手が止まっていますわよ? 試験の制限時間の無駄遣いはしないようになさい」
「わ、分かってます……」
「は、は~い……」
樺憐の言う通り試験中の制限時間の無駄遣いは良くないだろう。しかしこの場には慣れていない人間が大半を締めているのだ。あれだけ派手な技を見せつけられたら誰だって驚くし、それが原因で手も止まってしまう。とはいえそれは言い訳でしかない。来たるべき黒狼達との血戦に同行させるか否かを決める大事な試験なのだ。無意味な合格者を出すわけにはいかないのである。奈々瑠と臥々瑠も気持ちを入れ直し、お互いが担当している受験者、孫権、孫尚香との勝負の仕切り直しといく。三国の英傑達が受ける試験日の長い長い一日は、まだ始まったばかりなのだ。魏、蜀、呉の英傑達が、零治と黒狼の闘いの決着を見届ける事が叶うのかどうか、それはまだ誰にも分からない。
作者「明けましておめでとうございますっ!」
零治「新年の挨拶にはもう遅すぎじゃねぇか……?」
亜弥「ですねぇ。年明けからどれだけ経過してると思ってるんです?」
作者「いや、それでも挨拶しておこうかと思いまして」
恭佳「なら元旦に投稿しろよな。前回の更新から半年も待たせちゃってさぁ」
作者「いや、それについては本当に申し訳ないと思ってるよ。でもしょうがないじゃん。一から話を考えるのってメチャクチャ大変なんだぜ?」
奈々瑠「もう毎度の事なんで慣れちゃいましたけどね」
臥々瑠「そして遂に話数が百の大台に乗ったね」
樺憐「ですわねぇ。あと何話まで続くのでしょうね? それも楽しみですわねぇ」
作者「それについては分からんが、ちゃんと完結させるまで頑張らせてもらうさ」
零治「じゃあ今年の目標は本作の年内完結で決まりだな」
作者「……あれ? なんか前にも似たような事を言われたような気が……?」
亜弥「気のせいでしょう?」
恭佳「そうそう。それじゃあ読者のみんな」
奈々瑠「今年もこの作品をどうぞよろしくお願いしますね」
臥々瑠「アタシ達の活躍に期待して気長に待っててね」
樺憐「それでは次回の後書きコーナーでまたお会いいたしましょう」




