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第97話 潜入

後少し……後少しで原作サイドのストーリーが終わる。この大型連休を利用して何とか書き上げたいけど、何事も無ければいいけど。こういう時に限って面倒事って起きたりするんですよねぇ。

魏と蜀の決戦、その最終幕が遂に開戦した。双方の軍が入り乱れる荒野。舞い上がる砂塵、四方八方から嫌でも耳に入ってくる兵士達の雄叫びと剣戟。その様子を本陣から遠巻きに見ている零治は考えていた。黒狼達はどう動くのかと。敵の第二陣の攻撃を退けるために出撃した亜弥と恭佳も現在は本陣で待機している。その時、黒狼達は何らかの反応を示したのか、これを聞かせてもらう必要が今の零治にはあった。



「亜弥、姉さん。二人に確認したい事がある」


「何です?」


「お前と姉さんが前線に向かった時、黒狼達は動きを見せたのか」


「動き、ですか……。……ふ~む」


「ん? 何をそんなに悩んでるんだよ?」


「いえ、動きを全く見せなかったのでどう答えたものかと思いましてね……」


「何……?」



亜弥と恭佳が向こうの予想よりも早い段階で出撃し、劉備軍の第二陣の兵力に打撃を与える程の結果も出して帰還してきたのに、肝心の黒狼達が何も動きを見せていない。流石の零治も信じられなかった。単に向こうが二人の存在を無視していたのか、それとも事態を知りながら劉備達が出し惜しみをしていたのかと様々な可能性が考えられるが、追い詰められて後が無い今の状況でそんな事をしても劉備軍には何一つメリットが無い。逆に放置していると自軍の被害が拡大するだけにしかならないのだ。考えれば考えるほど零治は劉備軍の、そして黒狼達の真意を測りかねた。



「動きを見せなかった。……黒狼達が亜弥と姉さんの存在を無視したのか?」


「私も最初はそう思いましてね。だから連中を挑発してやろうと城壁を破壊する程の大技をぶつけてみたのですが」


「……前線で砂塵に紛れて城壁の辺りから煙が立ち昇っているのは本陣からも見えたが、アレはお前の仕業だったのか」


「何を言ってるんです。アレをやったのは恭佳ですよ」


「おいおい。人を悪者みたいに言うなよ。だいたい亜弥、アンタだって城壁をブッ壊した上に雲に大穴まで開けただろうが」


「はいはい。オレは別に二人を責めてる訳じゃないんだ。とにかくだ、亜弥も姉さんも成都城の城壁を大きく破損させるほどの魔法を使って攻撃したって事で良いんだな?」


「ええ」


「ああ」


「それ以降に黒狼達に動きは?」


「本陣に戻る直前まで一切動きは無かったですよ」


「こっちもさ」


「うーむ。黒狼の奴、一体どういうつもりだ……」



直接見たわけじゃないので、亜弥と恭佳が成都城の城壁にどれだけの損害を与えたのか零治には分かりかねるが、二人が劉備軍の第二陣を迎え撃つ春蘭と秋蘭の部隊を援護に向かった時の戦闘で、恭佳が使用したスティンガー・レイ・バーストで引き起こされた爆発によって発生した煙は本陣からも見えていたし、零治もそれをこの眼で見ている。だから少なくとも恭佳がそれだけ派手な魔法を使った事は理解できるのだ。黒狼はともかくとして、亜弥が戦場に居る事が分かれば金狼は間違いなく反応するはず。銀狼も好戦的な性格をしているので挑発に対して無視を決め込むのは考えにくい。これが劉備軍の総意によるものなのか、それとも黒狼達個人の考えによるものなのか。現時点では判断材料が少なすぎてどうしようもないだろう。



「黒狼達の意図が分からない以上、こっちも下手な動きを見せる訳にはいかない。今はとにかく、戦況に合わせて臨機応変に対処するしか選択肢はないな」


「零治さん、ならばわたくし達は当面の間は本陣で待機して指示待ちという事ですか?」


「それしかないだろう。奴らの動きが分からない以上、勝手に本陣から離れるわけにもいかんしな」



劉備軍との最終決戦も、ここからは総力戦だ。故に何が起こるか分からない。もしかしたら劉備軍は先程のように囮の部隊でこちらの将兵を押さえ、本命の部隊を本陣に殴り込ませるような作戦を使ってくる可能性もある。そしてその本命の部隊に黒狼達が充てられてたらどうなる。対処できるのは零治達以外に居ない。もちろんこれはあくまでも可能性の一つの話。だが絶対に無いとは断言できない。零治にはBDがあるので多少の無茶はやってのけるだろうが、今回ばかりはそういうわけにもいかないだろう。黒狼達の動向が分からない以上は慎重にならざるを得ない。おかげで零治達の立ち回り方にも制約がかかってしまい、いつも通りに動く事が出来ないのは歯がゆいと彼らは感じていた。



「ったく。せめて黒狼達が今どこで何をしているのかだけでも分かれば、こちらもそれに合わせて動けるんだがな……」


「……ねえ、奈々瑠」


「ん? どうしたの?」


「こんな時こそ、アタシ達の出番じゃない?」


「……あぁ、確かに。危険だけどやってみる価値はあるかも」



姉妹であるが故に奈々瑠は臥々瑠が何を言わんとしているのかすぐに理解した。全員が本陣を離れるのは危険極まりないが、一人や二人ならば少しの間なら抜けても問題は無いはず。当然ながら奈々瑠と臥々瑠がいま考えている事も実行すると危険が伴う。だが彼女達も零治や亜弥、恭佳や樺憐と一緒に多くの修羅場を潜り抜けてきているのだ。今更この程度の危険に臆するわけもない。何より兄として慕っている零治の役に立ちたい。その想いが二人を突き動かしてくれるからこそ決断も早かったのだろう。



「兄さん」


「ん? 奈々瑠、どうかしたか?」


「ここは私と臥々瑠に任せてくれませんか?」


「何かいい考えでもあるのか?」


「アタシと奈々瑠で、今から向こうのお城に潜入して黒狼達がどうしてるか調べてみようと思うんだ」


「はあっ!?」



奈々瑠と臥々瑠の口から告げられた大胆かつ無謀とも言える考え。二人で成都城に潜入して黒狼達の動向を調べる。確かに向こうの出方が分からないとなるとこちらから調べる以外に知る術は無い。その考え方は間違いではないが、この状況でそれをやるのは非常に危険だろう。劉備軍の最後の砦である成都城も完全な無人になっているわけではない。城の護りを固めるための人員も居るはず。この世界の将兵と鉢合わせしても危険だし、万が一黒狼達に見つかれば生きて還れる保証などどこにも無いのだ。



「お、おいお前らっ! いきなりなに言ってんだ!? そんなの危険すぎるだろっ!」


「危険なのは百も承知です。でも、黒狼達の動向を秘密裏に掴むにはこれしか方法は無いと思いますよ」


「大丈夫だって。万が一の事も考えて狼に姿を変えて潜入するから」


「奈々瑠、臥々瑠。二人の言ってる事は理解できますが、それでも危険すぎます! 万が一黒狼に見つかったらどうするつもりなんですかっ!?」


「そうだって! 連中の動向を探る方法なんて他にもあるからさ! だから考え直せって! ……って、樺憐っ! 黙ってないでアンタも何とか言いなよ! 自分の娘だろ!?」


「…………」



零治、亜弥、恭佳と三人が奈々瑠と臥々瑠の無謀としか言えない大胆不敵な作戦の実行をやめるよう懸命に説得するが、二人の意志は固く全く聞き入れようとしない。ならばと思い、恭佳がそれまで終始無言で事の成り行きを見守っている樺憐に助けを求めた。零治達の説得を聞き入れないのならば、実の親である樺憐に頼るしかない。奈々瑠と臥々瑠も親の言葉には素直に従うはず。零治達は樺憐に何としても二人を止めてくれと懇願の眼差しを向け、樺憐は奈々瑠と臥々瑠の表情をただ黙って見つめていた。二人の紅い瞳の奥に宿っている決意はとても固い。その姿から奈々瑠と臥々瑠の気持ちを読み取った樺憐は零治に視線を移して静かに口を開いた。



「零治さん、ここは一つ娘達に任せてもらえないでしょうか」


「ちょっ!? 樺憐! お前まで何を言い出すんだ!?」


「娘達も華琳さんの、ひいては零治さんのお役に立ちたいのです。零治さん、どうかお願いします。娘達の事を信じて行かせてやってくださいませ」



樺憐は零治に深々と頭を下げて奈々瑠と臥々瑠を行かせてあげるように懇願した。彼女が零治に対して腰が低いのはいつもの事だが、今回は話の内容が内容だ。街へ買い物に行かせるのとは訳が違う。護衛の兵も無し、たったの二人だけで成都城へ潜入に向かわせるのだ。敵と鉢合わせする可能性だってゼロではない。この世界の一般兵だったら奈々瑠と臥々瑠でも充分に対処できるだろうが、黒狼達が相手になると話は別だ。最悪の場合、殺される可能性だってあり得るのだ。普通の親ならばそんな危険地帯に実の娘を送り出すなど断固拒否するはず。なのに樺憐は全く真逆の答えを出している。彼女も信じているのだろう。娘達ならやり遂げてくれると。樺憐ならば二人を止めてくれると零治達は考えていたのに、その読みは完全に外れてしまった。もうこれは華琳に判断を仰ぐしかないと思い、零治はやれやれと溜め息を吐いて首を横に振った。



「はぁ……仕方ない。なら華琳にも訊いてみるとしよう。オレ達を動かす決定権はアイツにあるんだ。奈々瑠、臥々瑠。もしも華琳がダメだと言った場合はその決定に従ってもらうからな」


「分かってます」


「は~い」


「なら、華琳を呼んでくるからここで待ってろ」


………


……



「……なるほど。黒狼達の動向を探るために、ね……」



零治が華琳を呼びに向かい、この場へ戻る最中に事の経緯は彼が華琳に説明済みである。奈々瑠と臥々瑠の大胆かつ無謀とも言えるこの提案。華琳はどのような采配を下すのか。どうか二人の提案を却下してほしい。零治、亜弥、恭佳の三人はそう切に願いながら事の成り行きを静かに見守っていた。華琳は零治達の心境をよそに、ただ黙って奈々瑠と臥々瑠の表情を正面から見据えており、二人も正面から無言で見返していた。奈々瑠と臥々瑠の表情は真剣そのもの。母親譲りの紅い瞳の奥からは必ずやり遂げるという決意も伝わってきた。しばらくして華琳は穏やかな笑みを浮かべ、静かに頷いて口を開いた。



「良いでしょう。奈々瑠、臥々瑠。成都城への潜入を許可します」


「ありがとうございますっ!」


「うん! ど~んと任せといてねっ!」


「なっ!? おい華琳っ!」


「零治。この娘達なら必ずやり遂げてくれるわよ。それとも、貴方は可愛らしい妹達が信じられないの?」


「ぬっ! お前……痛いとこを突いてきやがってぇ……っ!」



こういう言われ方をすると流石の零治も反論できない。長い付き合いであるが故に、華琳も零治が奈々瑠と臥々瑠に対して溺愛とまではいかないが、家族愛にも近い愛着を抱いている事をよく知っているのだ。樺憐や華琳は信じて送り出そうとしてくれているのに、この場で反対意見を述べてゴネるような事をすれば、奈々瑠と臥々瑠は零治からは信頼されていないのだと思って、精神的なダメージを与えて傷つけてしまうだろう。こうなっては零治も首を縦に振らざるを得なかった。



「あぁもう、分かったよ。……奈々瑠、臥々瑠。言わなくても分かるだろうが、くれぐれも深追いはするなよ」


「分かってます」


「それと身の危険を感じたらすぐに引き揚げるんだ。いいな?」


「それも分かってるよ~。兄さんは心配性だなぁ」


「お前ら、オレの気持ちも知らないで言いたい放題言いやがってぇ……」


「……分かりました。だったら必ず生きて還ってくるためのおまじないをしてあげますね」


「はっ? まじない?」


「臥々瑠、耳貸して」


「なになに~?」


「ごにょごにょごにょごにょ……」



奈々瑠は何かを臥々瑠に耳打ちし、臥々瑠は話を聞くなりしきりに頷くが、しばらくして顔を紅潮させて奈々瑠の方を振り向いたのだが、その時の首の動きがカクカクとしていてまるで出来損ないのロボットのようにぎこちなかった。その様子を見ていた零治は不思議そうに首を傾げた。奈々瑠が何を耳打ちしたのかももちろん気になるが、一番に気になるのは臥々瑠の今の姿だ。彼女がこんな姿を見せたのは今まで一度も無かったのである。



「……ね、ねえ。ホントにそんな事するの……?」


「当たり前よ。アンタも女なんだからこれぐらいの事は出来るようになっとかないと」


「でもぉ……」


「ほら、やるわよ。女は度胸よ」


「う、うん……」



話が済んだようで奈々瑠と臥々瑠は零治に向き直り、一歩ずつ彼の方へと歩いていく。奈々瑠はいつもと変わらない様子に見えるが、よく見ると頬が少し赤らんでいて、臥々瑠に至っては顔が紅潮したまま俯いていた。一体二人して何を話していたのか零治は頭を捻りながらアレコレ考えてみるが何も思い浮かばない。



「兄さん。ちょっとしゃがんでもらえますか?」


「はっ? 何で?」


「いいから言われた通りにしてください」


「よく分からんが。……ほらよ」



何でこんな場所でしゃがまなきゃいけないのか意味が分からないが、零治は奈々瑠に言われた通り地面に片膝を突いてしゃがんであげた。奈々瑠と臥々瑠は互いに顔を見合わせて軽く頷き、また一歩ずつ零治に近づいていく。というか、傍から見ても近すぎな気がする。それこそ互いの息遣いが外だというのに聞こえるくらいにだ。



「……なあ。お前らちょっと近すぎね?」


「これで良いんです。……臥々瑠、ちゃんと言われた通りにするのよ?」


「う、うん……」


「兄さん、必ず生きて還ってきますからね。……んっ」


「なっ!?」


「い、行ってくるね、兄さん。……ちゅっ」


「ふぁっ!?」



どうもこれが奈々瑠が言っていたおまじないの正体のようで、まず奈々瑠が零治の耳元で帰還の約束を囁くと、彼の左頬にそっと口づけをしたのだ。次に臥々瑠も自分なりに考えた言葉を零治の耳元で囁き、彼の右頬に口づけをした。当然いきなりこんな事をされては零治の思考は一瞬で停止してしまうし、横で事の成り行きを見ていた亜弥と恭佳も唖然とした表情で開いた口が塞がらない状態である。樺憐だけは頬を赤らめて、『まあ』っと口にして両手で口元を上品に塞いでいた。



「な、なな……お、お前ら、何して……っ!?」


「それじゃあ、華琳さん。私達は出撃します」


「行ってきま~す」


「ええ。必ず無事に還ってくるのよ」



唖然としながら口をパクパクして頬を押さえている零治をよそに、奈々瑠と臥々瑠は至って普通に華琳に出撃の言葉を述べ、華琳もいつもの様子で二人が本陣から出撃していく後ろ姿を見送った。流石は魏の王。この程度の事では全く動じないどころか、奈々瑠と臥々瑠の大胆な行動に、二人も女性として大きく成長したようだと感心しているくらいだった。



「ふふっ。愛されているわね、零治」


「か、華琳っ!? ちっ、違……っ! 今のはアイツらが勝手に……っ!」


「何をそんなに慌てているの? 私は別に貴方を責めているわけじゃないのよ?」


「あ、そう……」


「ただ、どうせならあのまま抱き寄せて、貴方からも口づけしてあげたらもっと面白かったのにね」


「ぶっ!? お前こんな時になに言って……っ!?」


「ふふっ。さて、零治の事も充分にからかえたし、私は戻らせてもらうわよ」



大陸の未来を懸けた決戦の最中であるにもかかわらず、華琳は狼狽える零治を散々からかってその様子を楽しみ、満足げな笑みを浮かべながら持ち場へと引き返していき、その場を後にした。取り残された零治は未だに頭の中が真っ白で地面に片膝を突いた体勢のまま微動だにしないし、亜弥と恭佳もあんぐりと口を開けた間抜け面のままである。だが樺憐だけは娘達の大胆行動に感動でもしたのか、眼を輝かせて頬を両手で押さえながらクネクネと身悶えしていた。



「ああ~、零治さんっ! 見ましたか!? 先程の娘達の大胆なアプローチ! わたくし感動しましたわぁ!」


「あぁ……そりゃあ……良かった、ね……」


「この調子で結婚まで早く漕ぎ着けてくださいな! あぁ、そうなったら式場の確保とかやる事が沢山ありますわねぇ。ウエディングドレスの用意もしないといけませんし……はぁ~。夢が膨らみますわねぇ」


「あの~、樺憐さん……? そういった話は世の中が平和になった後にしてくれるとオレとしては非常にありがたいのですが……」


「零治が結婚かぁ。……ん? って事はそうなったら奈々瑠と臥々瑠はアタシにとって義理の妹になるのか。まあ、そうなっても接し方は今まで通りでいいか」


「姉さんまで何を……」


「……奈々瑠はともかく、まさか臥々瑠まであんな大胆行動をするとは。いやぁ、同じ女性として驚かされましたよ。零治、貴方のこの先の未来が楽しみですね?」


「亜弥まで……はぁ~。タバコ吸ってくるわ……」



とりあえず今はこの場から少しでも早く離れて気持ちを落ち着けたい。それが零治の今の心境だ。彼はその場から立ち上がってコートの下からタバコを一本取り出して火を点け、口に咥えながら煙を吹かして本陣内で人気があまり無い場所へと歩き始める。右手でそっと自分の頬に触れると、奈々瑠と臥々瑠から受けた口づけの感触が脳裏に蘇り、彼はそれを振り払うように頭をブンブンと激しく左右に振った。


………


……



本陣から出撃し、奈々瑠と臥々瑠は劉備軍の眼に付かないように側面から大きく遠回りをして目指すべき成都城に荒野を駆け抜けて接近していく。こうして二人だけで戦場を駆け抜けるのは別に初めてではない。しかし今回は目的が目的なので当然緊張はしている。だが奈々瑠は必ず生きて還れると自信を持って行動できている。なぜなら、もう一度生きて零治の顔を見るためのとっておきのおまじないをかけているからだ。でも臥々瑠はその自信が持てていない。初めての経験に直面して胸の鼓動が高まり、顔の紅潮も未だに収まってなくて、走る速度も奈々瑠より少し遅れ気味だった。



「ん? 臥々瑠、どうかしたの? 遅れてるわよ」


「べ、別に何も……」


「……もしかしてさっきの事?」


「うん……あんな事したの初めてだもん……」


「まあ、アンタの気持ちは分かるけど、今は余計な事を考えずに目の前の事に集中しなさい。今から敵地に忍び込むんだからね」


「分かってるよ」



臥々瑠は気持ちを切り替えるべく、頭を軽く左右に振って内に抱えている奇妙な気持ちを振り払う。彼女にとって零治への口づけは文字通り初めてであり未知の経験でもある。今の今まで恋愛のれの字も無いような人物が慕っている零治に告白を飛び越えていきなりキスだ。それは様々な感情が自分の中で渦を巻く事だろう。しかし、今は奈々瑠の言う通りやるべき事に集中せねばならない。何しろ黒狼達の動向を探るために成都城に潜入するのだ。余計な事を考えていては命取りになる。零治にキスをした事で自分の中に芽生えたこの感情が何なのかを考えるのは全ての戦いが終わってからでも遅くはないのだ。



「ねえ、奈々瑠。お城にはどこから忍び込むの?」


「正面からはどう考えても無理だからね。面倒だけど裏側に回り込んで城壁から侵入するわよ」


「ラジャー」


「時間が惜しいわ。狼に姿を変えて一気に駆け抜けるわよ」



今は一分一秒の時間が惜しい。人の姿でも足の速さには自信があるが、狼の姿になって四本の足で走った方が断然速い。奈々瑠と臥々瑠は走りながら両眼を閉じて意識を集中すると瞬く間に全身が黒い霧のような靄に包まれ、その中から黒い毛並みと茶色い毛並みをした二頭の狼が姿を現し、人知れず果てしない荒野を駆け抜けて成都城の裏側を目指して行った。


………


……



「さて、着いたわね」


「うん。こうして間近で見上げると、結構高いね」



前線付近を走り抜けていた時は兵士達の雄叫びや剣戟が嫌でも耳に入ってきたが、流石にここまで来るとその騒音も全くとまではいかないがあまり聞こえない。普通の人間なら殆ど聞こえないかもしれないが、奈々瑠と臥々瑠の五感は戦闘獣人バイオロイドであるが故にどうしても少しは聞こえてしまうのだ。もう慣れているので二人とも今更気にしないし、今はこの並外れた五感が命綱でもあるのだ。これからこの並外れた五感の全てを駆使して成都城に忍び込む。その最初の関門がそびえ立つこの城壁だ。当然ながら狼の姿で石造りの城壁をよじ登るなど、いくら人間離れした身体能力を持つ奈々瑠と臥々瑠でも不可能だ。なので、城壁の前に辿り着いた時点で二人とも人の姿に戻している。いよいよ潜入開始だ。



「どうするの? ここから一気にジャンプして中に入る?」


「そうしてもいいけど、上の通路とそこの鐘楼に見張りが居る可能性もあるわ。面倒だけどこの城壁をよじ登るわよ」


「ホントに面倒なんだけど……」


「文句言わないの。まずは通路に人が居ないか確認して、その次に鐘楼。両方の安全が確認できたら中に入るわよ」


「りょうか~い」


「私が先に行く。アンタは私の後に続いて。……はっ!」


「よっと!」



奈々瑠と臥々瑠は両脚を軽く曲げて力を溜めると、軽く数メートル跳躍して石造りの壁に向かって両手を伸ばし、積み上げられている石と石の隙間をしっかりと掴んでしがみつき、ロッククライミングの要領で器用に城壁をよじ登り始めた。可能な限り物音を立てないように、最新の注意を払いながら経年劣化などで脆くなっている石は避るために横にスライドしてから上に登ったりと、一歩ずつ確実に目的地の城壁の通路が近づいてきたので、奈々瑠は声を潜めて右手を下に突き出して後続の臥々瑠を制止した。



「臥々瑠、止まってっ!」


「っ! な、何。どうしたの?」


「そこでジッとしていて。まずは私が通路の安全を確認するから」


「分かった」



敵地へ潜入する以上、まずは侵入するポイントの近辺の安全確保は必要不可欠。奈々瑠が先行して先程よりもゆっくりとした速度で一歩ずつ確実に城壁を登り、胸壁に両手をかけるとグッと力を入れて身体を持ち上げ、ひょっこりと頭だけを覗かせて城壁の通路の左右を目視して見張りの兵士が居ないかを確認した。通路に見張りの巡回兵は居なかったが、その近くに設置されている鐘楼には一人見張りが居たので、奈々瑠はその姿を確認するなりパッと両手を離して落下に身を任せ、もう一度両手を伸ばして石造りの壁をガッシリと掴んでしがみつき、臥々瑠が待機している場所付近まで一気に移動した。



「ちょっ!? 奈々瑠っ! 危ないじゃん!」


「シーっ! そこの鐘楼に見張りが一人居たのよ。姿を見られるわけにはいかなかったんだから文句言わないの」


「はいはい。で、見張りはどうするの?」


「邪魔になるかもしれないから鐘楼から引きずり落としてやるわ。そいつを片付けて、鐘楼から中に入るわよ」


「りょうか~い」



奈々瑠と臥々瑠は鐘楼の真下へ壁を横に伝って移動し、そこから上へ上へとよじ登っていきゆっくりと鐘楼へ近づいていく。やがて鐘楼との距離が充分に縮まると、奈々瑠は右手を下に突き出して臥々瑠を制止し、目線を彼女に向けて自分を指差し、次に鐘楼を指さした。ジェスチャーで自分が見張りの兵士を排除すると伝えたいようで、奈々瑠の考えが伝わると臥々瑠は右手でOKのサインを出したので、奈々瑠は軽く頷いて鐘楼に視線を戻すと先行して壁を更によじ登り、鐘楼との距離を徐々に詰めていく。鐘楼の中を囲っている壁にはそっと手を伸ばして掴み、上への移動も更に速度を落として奈々瑠は慎重に進んでいく。もう少しで中へ入るための吹き抜けの部分に到着するが、奈々瑠はそこで一度止まり、耳を当てて鐘楼内に複数の見張りが居ないかを確認した。石造りの壁からかすかに伝わってくる呼吸音は一人分。たまに伝わってくる足音も一人分。念のためにと思い、奈々瑠は更によじ登って鐘楼の枠には手をかけないように囲っている壁をガッシリと掴んでゆっくりと頭を覗かせると、城内の様子を確認するためにこちらに背を向けている一人の兵士の後ろ姿が目視できたので、奈々瑠はすぐに頭を引っ込めた。後はこの兵士を鐘楼から引きずり落として排除するだけ。そのためにはこちら側へおびき寄せねばならない。しかしこれもさほど難しくはない。奈々瑠は右手の甲を使って鐘楼を囲っている壁をコンコンと二回叩くと、当然見張りの兵士は音に反応してそちらへと近づいていく。



「ん? 何の音だ?」



奈々瑠は出来るだけ壁に身を寄せて姿を見えにくくしながら耳を当てて壁から伝わってくる兵士の足音を聞き取り、上を見上げて兵士の姿が鐘楼の吹き抜けから見えるのをジッと待った。それからすぐに見張りの頭が見えたので、奈々瑠は左腕だけで身体を持ち上げて一気に上に移動し、右手を兵士の首根っこに伸ばして掴むと、素早く後ろに思いっきり引っ張って鐘楼から放り出してやった。



「なっ!? うわああああああっ!」



突然の出来事に見張りの兵士は何も出来ずに鐘楼から放り出されてしまい、背中から地面へ真っ逆さまだ。六~七メートルもの高さから落下している上に下の地面にはクッションになるような草木が一本も生えていない硬い地面なのだ。地面に落下した兵士は全身を強く叩きつけられ、後頭部も激しく強打して一瞬で息絶えた。鐘楼の安全が確保できたので奈々瑠は素早く登って中に潜り込むと、吹き抜けから顔を覗かせて下で待機している臥々瑠に登ってくるように合図を送ってくれたので、臥々瑠は壁に両足をかけて軽く曲げ、それをバネにして飛びつくように壁伝いをジャンプして飛ばし飛ばしに石垣をよじ登って素早く鐘楼の中に入り込んだ。ようやく最初の関門を突破である。



「よし。最初の関門はクリアね」


「で、ここからどうやって黒狼達を捜すの?」


「地道に城の内部を調べていくしかないわ。この姿じゃ見つかった時の対処が面倒だから、狼の姿で行動するわよ」


「は~い」



零治達と比べれば奈々瑠と臥々瑠はそこまで派手な活躍はしていない。しかしそれでも二人も充分に目立つ存在だ。服装もそうだが、奈々瑠と臥々瑠には何と言っても頭についている犬耳とフサフサした毛並みの尻尾。この世界では明らかに目立つ。城の中庭でなら植えられている草木で身を隠せば問題無いが、城内となれば話は別だ。もちろん人が住んでいる城内で狼がうろついているのは不自然だが、仮に黒狼達以外の誰かに姿を見られても野生の狼を演じれば多少はやり過ごせる。黒狼達の動向を掴むためにも今は狼の姿で城内を捜索するのが一番都合がいいのだ。奈々瑠と臥々瑠は両眼を閉じて意識を集中すると黒い靄に全身が包まれ、その中から狼へと姿を変えた二人が鐘楼から城の中庭へと飛び降り、草木の中を静かに移動しながら成都城の捜索を開始した。



「……こうして見ると、やっぱりお城の中に人はもう殆ど居ないみたいだね」


「ええ。でも油断しちゃダメよ。城内にも守備のための兵士や指揮官の武将が詰めてるはずだから」


「分かってるって。それでどこから調べるの?」


「とりあえず中庭内から調べるわ。城の内部はその後ね」



現在位置が中庭なのだからまずはここから調べるのが良いだろう。奈々瑠と臥々瑠は狼の姿になっていても出来る限り物音を立てないように慎重な足取りで進み、草木に身を巧みに隠しながら奥へと進んでいく。劉備軍も本隊が出撃しているとはいえ、城の守備のために黄忠や公孫賛の部隊が詰めているので、中庭にもまばらではあるが兵士の姿がチラホラと確認できた。その時だった。奈々瑠の後に続いて中庭の茂みを歩いている臥々瑠がある人物を見つけた。



「ん? 奈々瑠、ちょっと」


「何よ?」


「ほら、あそこ。アレって指揮官の武将じゃない?」


「どれどれ。……あぁ、確かに」



臥々瑠が見つけたのは城の守備として詰めている黄忠と公孫賛の二人だ。二人は城壁へと続く階段付近で何か話をしているようだが、外から聞こえてくる戦闘の騒音のせいで上手く聞き分ける事が出来ないので、並外れている五感が肝心な時に役に立ってくれていなかった。



「片方は定軍山で見た人ね。名前は確か……黄忠だったかしら?」


「うん。そんな名前だったね。でも、もう一人は誰だろ? アタシ見た記憶が無いんだけど」


「あの人が誰なのかはこの際どうでもいいのよ。でも何を話しているのかは気になるわね。もう少し近づいてみるわよ」


「はいは~い」



今の奈々瑠と臥々瑠にとって重要なのは、城内に詰めている武将の名前ではない。もちろん相手が何者なのか知っていた方が潜入する上でどのように行動するかプランが組み立てやすくなるが、現在成都城の主力は城を出払っているのだ。完全な無人ではないにしても、不用意な行動さえしなければ誰かと接触する可能性は限りなく低い。その点に注意しながら情報を収集する。奈々瑠と臥々瑠が一番欲しいのは黒狼達に関する情報なのだ。この状況で城内に残っている人間が他愛も無い世間話などしているはずがない。きっと有益な情報が得られる。二人はそう信じて茂みの中を静かに移動して黄忠、公孫賛との距離を詰めていくと、徐々にその会話の内容が聞き取れてきた。



「ん?」


「白蓮ちゃん、どうかしたの?」


「いや……なんか今、誰かに貶されたような気がしてな……」


「何を言っているの? ここにはわたくししか居ないのよ?」


「それは分かってるんだが。……たぶん気のせいだよな。は、ははは……」


「……今のってアタシ達の事を言ってたんじゃ」


「そんなわけないでしょ。私達の声が聞こえたわけでもないのに」



確かに奈々瑠と臥々瑠の声は公孫賛には聞こえていない。それ以前にこちらの話し声が向こうに聞かれたら大問題である。折角ここまで誰にも姿を見られずに潜入できたのに変に警戒されては今後の捜索が難航しかねない。そうなればここまで来た苦労が水の泡である。公孫賛は奈々瑠と臥々瑠の言動を直接耳にしたわけではないのだが、自分の評価に関わる事となるとなぜか妙に鋭かったりするのだ。だから誰かに貶されたと感じたのだろうが、その妙な鋭さも別の事に活かせていたら周りの諸侯からの評価もまた違ったものになっていたかもしれないのに、それが出来ないからなんとも不憫な人物である。



「それにしても、とんでもない事態になってしまったな……」


「ええ。もしもこれが曹操軍に知られてしまったら、向こうは魏の御遣い全員を戦線に投入するでしょうね……」


「私達全員が前線に出るような事態? 劉備軍に何があったのかしら?」


「アタシ達が関係してるって事は、たぶん黒狼絡みの話だよね」


「もう少し盗み聞きしてみないと分からないけど、その可能性は高そうね……」


「……私達、この決戦に黒狼達抜きで勝てるんだろうか」


「それは分からないわ。だけどやるしかない。ご主人様と桃香様のためにも……」


「っ!? 黒狼達抜きで……? 一体どういう事なの?」


「白蓮ちゃん。わたくし、璃々の様子を見てくるから、少しの間前線の様子見を任せてもいいかしら?」


「ああ。それくらいお安いご用だ」


「ありがとう。じゃあ、ちょっとここはお願いするわね」



黄忠は愛娘の様子が気になるので様子見のために城内へと足を運び、公孫賛も城壁に続く階段を登って前線の様子見と城の守りの指揮を執るために持ち場へと戻っていった。黄忠と公孫賛の他愛も無い会話から、奈々瑠と臥々瑠はとんでもない情報を手に入れた。劉備軍が黒狼達抜きで決戦に挑む、それは黒狼、金狼、銀狼の三人がこの戦に参加しない事を意味しているが、現時点ではまだ判断材料が無さすぎる。だが、これはいよいよ調べる価値が出てきたようである。



「劉備軍が黒狼達抜きで決戦に挑む、一体何の理由があってそんな事を……?」


「黒狼達が出撃できなくなったんじゃないの? 例えば負傷とかして」


「あの三人に限ってそんな理由で出撃を断念するなんて考えられないわ。でも、これは調べてみる価値が大ありのようね」


「だね。どうする? もう少し中庭を調べるの?」


「いいえ。あの二人の話が仮に本当だとしたら、中庭に黒狼達が居るのは考えにくい。次は城の中を調べるわ。黒狼達の匂いを辿れば、きっと何か分かるはず」


「オッケー」


「とはいえ、黄忠が城の中に居るから、鉢合わせしないように慎重に行動しないとね。引き続き狼の姿のままで探索するわよ」


「は~い」



奈々瑠と臥々瑠は中庭に植えられている草木の茂みから頭だけをひょっこりと出して周囲の確認をするが、付近に人の姿は無い。今なら誰にも見られずに城に入り込む事も出来るだろう。二人は茂みから素早く飛び出し、四本の足で中庭を駆け抜けて一気に城の中へと続いている吹き抜けの廊下を使い、城の内部へと無事に潜入した。ここからはより慎重な行動が求められる。建物の中となれば身を隠せる場所もかなり限定されるし、場合によっては場所を変えないと隠れる事さえままならない。狭い通路なら尚更だ。おまけに黒狼達の手がかりは彼らの匂いだけが頼りなのだ。探索も決して容易ではないだろう。



「スンスン。……いくつかの場所に匂いが続いているわね。どう調べていこうかしら」


「とりあえずまずはアイツらが使ってる部屋から探してみない?」


「それが無難ね。それじゃあ行くわよ」



まずは黒狼達が成都城で使用してた個室から探り当てて調べる事にし、奈々瑠と臥々瑠は持ち前の嗅覚を活用して鼻をスンスンと鳴らしながら匂いを頼りに成都城内の探索を開始した。その姿は完全に警察犬だ。いや、実際に彼女達はそれぐらいの気持ちで探索に臨んでいるのだ。何と言っても劉備軍の戦力が大きく減退した要因、黒狼達が出撃しない可能性を示唆する手がかりを掴んだのだ。もしもこれが本当ならば魏軍にとっては一気に打って出る事の出来る貴重な情報。この決戦に勝ち、全てを終わらせるためにもと思い、奈々瑠と臥々瑠は僅かに残っている黒狼達の匂いを頼りに成都城内部を奥へ奥へと突き進み、しばらくしていくつも扉が並んでいる廊下へと辿り着いた。



「奴らの匂いが強くなってる。恐らくこの通路にあるドアのどれかが黒狼達が使用している部屋のようね」


「じゃあさっさと見つけちゃおうか。時間をかけてる暇も無いしね」


「ええ。今の所この辺りに人の気配は無いけど、万が一黒狼達が居たらこの姿じゃ対処できないわ。人の姿に戻して調べるわよ」



この辺りに人の気配は感じられないが、黒狼達なら気配を消すぐらい造作も無い事。その状況下で始めから居ないと決めつけて狼の姿で万が一にも鉢合わせしてしまったら、的確に対処など出来やしない。流石の奈々瑠と臥々瑠もこの場では人の姿に戻して探索をする。足早に移動しながらも足音は全く立てていない。匂いを頼りに足を進めていく二人は、一つのドアの前に辿り着いたのですぐにドアの両サイドの壁に背中を密着させた。



「この匂い……どうやら銀狼の部屋みたいね」


「……ちょうどいいや。奈々瑠、アイツが居たらこの場で殺しちゃおうよ。定軍山で兄さんが受けた苦痛の恨み、代わりに晴らしてやる」


「もしも居たらの話よ。……臥々瑠、ドアを開けて」



臥々瑠は無言で頷いて左手を扉へ伸ばし、音を立てないように軽く押して扉を開けた。ドアが開いた事で出来た隙間から奈々瑠が部屋の中を覗き込むが、小さな隙間では完全に部屋の様子を把握できない。奈々瑠は臥々瑠にもっと開けろとジェスチャーで伝えると、彼女は扉を更に押して大きく開け放った。完全に開かれた扉越しから奈々瑠と臥々瑠は顔を少し覗かせて部屋の中を確認するが、部屋の主である銀狼の姿は無い。ここから見た限りでは安全だがまだ安心はできない。二人は物音一つ立てずに部屋の中に入り込み、まずは出入り口の扉の裏、ベッドの下、机の裏などと人が一人身を隠せれそうな場所は一通り調べたが、やはり銀狼の姿は無い。完全に無人である事が確定した。



「……そう都合良くは居ないか」


「まだよ。まだ金狼と黒狼の部屋が残ってる。この二つを調べるまでは引き揚げないわよ」



まだ調査は終わっていない。銀狼の部屋は無人だし、劉備軍が黒狼達抜きで決戦に挑む理由に結びつくような証拠らしき物も見当たらない。ならばこれ以上この場に留まっても時間の無駄である。次に調べるべきは金狼と黒狼が使用している部屋だ。奈々瑠と臥々瑠は部屋の出入り口から顔をそっと覗かせて廊下の左右に誰も居ないのかを確認する。視界内に人の姿は無い。足音らしき物音も聞こえてこない。出るなら今の内だ。奈々瑠と臥々瑠はサッと素早く廊下に飛び出し、低姿勢で足早に次に目指す部屋の出入り口を目指し、幸いにもすぐに辿り着いたので、二人は先程と同じようにドアの両サイドの壁に身体を背中を密着させた。



「……ここは金狼の部屋のようね。臥々瑠……」


「うん。開けるよ……」



臥々瑠は銀狼の部屋の時と同じように左手でドアを軽く押して開け放ち、ドアが開いた隙間から奈々瑠が中を覗き込んで確認するが人影らしき物は見当たらない。奈々瑠がドアをもっと開けるように合図を送り、臥々瑠は扉を更に押して全開にしたので、二人で壁から顔だけを少し覗かせ中を確認しても、ここも銀狼の部屋同様に無人だった。奈々瑠と臥々瑠は素早く部屋の中に入り込み、入念に人が隠れられそうな場所は確認してみるがやはり誰も居ない。ここも空振りだった。



「ここもハズレね。これで残すは黒狼の部屋だけだわ」


「なら早く行こう。アイツの部屋なら絶対に何か手がかりがあるはずだよ」


「分かってるわよ。だけど、あの男の部屋への侵入はいつも以上に慎重にね。行くわよ」



銀狼の部屋と同じで金狼の部屋にも手がかりと言えるような物は何一つ無いので次へ進むべきだろう。いよいよ二人のとっても本命とも言える黒狼の部屋へ向かうべく、まずは部屋の出入り口から顔を覗かせて廊下の左右を確認するが、人の姿は見られない。今なら安全に移動できるので奈々瑠と臥々瑠は素早く部屋から飛び出し、姿勢を低くして足早に廊下内を移動していく。残すは黒狼の部屋のみ。黒狼の匂いもこの近辺から感じるので見つけるのにはさほど苦労はしなかった。黒狼の部屋の扉がある壁に奈々瑠と臥々瑠は背中を密着させ、いつでも侵入できるように身構えた。



「さて……ここが黒狼の部屋みたいね……」


「奈々瑠、良い? 開けるよ……?」


「ええ……」



臥々瑠が緊張した面持ちで黒狼の部屋の扉を左手で軽く押すと、扉はゆっくりと開いていき、開いた隙間から奈々瑠が息を潜めてそっと中を覗いてみるが黒狼の姿は見当たらない。もちろん黒狼が気配を殺して死角に身を潜めている可能性は充分にあるが、それを恐れていては先に進む事も出来ない。奈々瑠はドアを更に開けるようにジェスチャーを送ったので、臥々瑠は左手を扉に伸ばして音を立てないようにトンッと軽く押した事で扉は全開になり、奈々瑠と臥々瑠は息を潜めてそっと部屋の中を覗き込むが黒狼の姿は無い。恐怖はあるが、これ以上は中に入らないと確かめようがないので二人は忍び足で部屋に侵入し、人が身を隠せる場所、と言っても金狼や銀狼の部屋と同様に家財道具が必要最低限の物しか無いので確認する箇所も全く同じだった。そして手がかりになりそうな物など一切無く、分かった事といえば黒狼、金狼、銀狼の部屋はどれも完全な無人で部屋の主が三人とも不在だという事ぐらいだった。



「……黒狼の部屋もハズレなんて。これじゃお手上げだわ」


「でもお城のどこかには居るんじゃないの? まだ隅から隅まで調べたわけじゃないんだしさ」


「そうかもしれないけど、私達だけでこの城を隅々まで調べ尽くすのはあまりにも非効率的だわ」


「じゃあどうするのさ?」


「黒狼達の残り香の中でも真新しい匂いを辿って、連中が最後にどこへ向かったのか調べるわよ。そうすれば何か分かるかもしれない」


「なるほどね。りょうか~い」



人の姿でも匂いを嗅ぎ分ける事は出来るが、もしも人の姿でそれをやっている最中に城内の兵士と鉢合わせしたら絶対に面倒事になる。奈々瑠と臥々瑠はもう一度狼の姿に身体を変えて部屋の出入り口から頭だけをひょっこりと覗かせて廊下の左右を確認。人の姿は無いので部屋から飛び出し、黒狼達が城内に残してある真新しい匂いを頼りに捜索を再開した。



「スンスン。……匂いはこっちに続いてるわね」


「やってる事が完全に警察犬だね……」


「文句言わないの。万が一の事も考えたらこれが一番安全なんだから」



城内は完全な無人ではないのだ。どこに人が居るか分からない。人知れず敵地に侵入しているのであれば、可能な限り余計な騒ぎは起こさないように行動するべきである。人の姿のままより、狼の姿での方が誰かと鉢合わせした時の対処は比較的にしやすい。それに逃げる時も二本より四本の足の方が断然速い。今は身の安全が最優先なのだ。奈々瑠と臥々瑠は周囲に眼を向けながらも黒狼達が残した真新しい残り香はしっかりと嗅ぎ分け、順調に痕跡を追跡していった。そして二人が辿り着いたのは洛陽の城でも見慣れた場所。玉座の間の出入り口である。



「奈々瑠、ここって玉座の間だよね?」


「ええ。でも、どうしてこんな所に? 匂いはまだ先に続いているみたいだけど……」



なぜこのような場所まで黒狼達の痕跡が続いているのかは疑問だが、答えを得るためにはここを調べねばならない。奈々瑠と臥々瑠は匂いを辿りながら成都城の玉座の間に足を踏み入れ、先へ先へと進んでいく。広い玉座の間のちょうどド真ん中に差し掛かった所で奈々瑠と臥々瑠は足を止めた。いや、止めざるを得ない状況に直面してしまったのだ。



「これは……どういう事なの……っ!?」


「クンクン。……変だよこんなの。なんでここで匂いが完全に途切れちゃってるの……っ!?」



こんなのありえない状況である。奈々瑠と臥々瑠の胸中はその一言に尽きる。ここまで黒狼達が残した匂いの痕跡。二人にはそれが地面に引いた白線のように鮮明に分かるのだ。この白線で例えるなら、黒狼達の痕跡がこの玉座の間で完全に途切れたという事は、地面に引いている白線がここで終わりという事になる。ならば黒狼達がこの場に居なければおかしいのである。ここから場所を移動したのならば、その移動した痕跡が必ず残る。玉座の間への出入り口は一つだけ。そこを必ず通らねば出られない。それ以外に出られる場所といえば、周辺の窓ぐらいだがわざわざそんな事をするとも思えなかった。



「とにかくもう少し詳しく調べないと。臥々瑠、周囲の窓や天井の梁とかも調べるわよ!」


「分かったっ!」



とにかく今は情報が必要だ。奈々瑠と臥々瑠は二手に分かれて玉座の間から場所を変えられそうな窓、わざわざそんな回りくどい移動をするとも思えないが、足場として使えそうな天井の梁にまで登ってそこも痕跡がないかを調べてみた。当然ながらそんな物は見つからなかった。なぜなら黒狼達は、決戦が始まった直後にこの玉座の間から文字通り姿を消したのだ。どれだけ時間をかけて捜しても何も出てきやしない。調べられる場所は全て調べてみたが、痕跡が一切無いので奈々瑠と臥々瑠は痕跡が完全に途切れている玉座の間のド真ん中で互いに顔を見合わせた。



「臥々瑠、どうだった?」


「ダメ。どこにもこの玉座の間から移動したような痕跡は無かったよ……」


「どうなってるのよ。これじゃまるで、ここから文字通り姿を消したみたいじゃないの……」


「それって、兄さんの……何だっけ? ヴォルケなんとかって魔法みたいに瞬間移動したって事?」


霧散する雲ヴォルケ・フェアシュヴィンデットよ。名前ぐらいちゃんと憶えときなさいよね。……金狼と銀狼はともかく、確かに黒狼ならそういう魔法が使えても不思議じゃないけど」


「だよね。で、次はどうするの?」


「これ以上は調べようがないわ。本陣に戻って兄さん達に報告して、後の事は任せるしかないわね」


「やっと戻れるんだ。なら早く行こうよ。こんなとこ一秒だって居たくないんだから」


「言っとくけど、本陣に戻るまで油断しちゃダメよ。城内にはまだ人が居るんだから」


「分かってるって」



出来る限りの事は全てやった。確たる証拠が手に入っていないので何とも言えないが、ここで得た情報はこの決戦の戦局を大きく左右する程の代物だ。後は成都城から一刻も早く脱出して無事に本陣まで帰還するだけである。ただ来た道を戻れば良いだけだが、戻る時も侵入する時とルートの状況が全く同じという保証は無い。場合によっては別ルートを選別して脱出しなければならないかもしれない。奈々瑠と臥々瑠はそうならないように願いつつ、来たルートを引き返しながらまずは中庭を目指していった。


………


……



城内では誰とも鉢合わせる事なく無事に中庭へと続く吹き抜けの廊下まで奈々瑠と臥々瑠は辿り着いた。後はここから侵入した城壁まで戻り、そこから外に出て魏軍の本陣まで帰還するだけである。二人は廊下の出入り口から顔を覗かせて周囲の様子を窺うが、敵兵の姿は無い。今なら最速で駆け抜けて茂みの中に飛び込めるはずだ。



「周囲に兵は居ないみたいだね……」


「行くなら今しかないわね。臥々瑠、私が合図したらあの茂みの中まで最速で突っ込むわよ……」


「うん。いつでもいいよ……」


「三、二、一……今よ! 走ってっ!」



奈々瑠の合図と同時に二人は吹き抜けの廊下から素早く飛び出して全速力で中庭を駆け抜け、植え込まれている草木の茂みの中に飛び込んですぐに身体の向きを変え、生い茂っている植木の隙間から表の様子窺った。これでもしも誰かに姿を見られていたら騒ぎになる可能性もあるが、周囲からそのような内容の話し声は聞こえてこない。当然ながらほんの少しだけで安全とは判断できない。念のためにと思い、奈々瑠と臥々瑠は数分間茂みの中に身を潜めて息を殺しながら中庭で兵達に動きがないかを観察していたが、その様子は一切無かった。



「……どうやら誰にも見られていないようね」


「ならもうここに用は無いよ。早く行こう」


「ええ」



あまり時間をかけていては零治に余計な心配をさせてしまう。奈々瑠と臥々瑠も最愛の家族とも言える存在にそんな事はさせたくない。ならば早いところ自軍の本陣へ帰還して無事な姿を見せて彼を安心させてやるべきだろうし、好き好んで敵地のど真ん中に入り浸りたがる物好きも居ないだろう。長居は無用である。奈々瑠と臥々瑠は安全が確認できたので茂み内を静かに移動し、成都城の真裏の城壁まで引き返していく。ここまでの道中、特に何のトラブルに遭遇する事も無く無事に外からよじ登って侵入した城壁へ続く階段付近に植え込まれている茂みまで辿り着いた。脱出口はもう目と鼻の先。後はこの階段から城壁まで上がって外に出れば脱出は完了だ。



「ここから見た感じだと……今の所は兵は居なさそうね」


「ねえ。もう一気に走って外に飛び出しちゃおうよ。この姿なら見られても不審には思われないはずだし」


「そうね。……なら行くわよ。走ってっ!」


「っ!」



奈々瑠と臥々瑠は茂みから飛び出して脇目も振らずに城壁の上に登るための階段を猛然とダッシュして駆け上がり、城壁の上に辿り着くとそのまま一気にジャンプして外へ飛び出した。二人は狼の姿のまま器用に身体を丸めてクルクルと回転しながら落下していき、四本の足でスタッと地面の上に軽やかに着地して城壁の上を見上げる。そこには誰も居ないし、自分達の姿を見たと思わせるような話し声も聞こえない。どうやら誰にも姿を見られる事なく無事に脱出できたようだ。後は本陣まで戻り、成都城で入手した情報を零治達に伝えるだけだ。奈々瑠と臥々瑠は一秒でも早く本陣に辿り着くために乾いた風が吹き付ける荒野を狼の姿で一気に駆け抜け始めた。


………


……



場所は変わってこちらは魏軍の本陣内。奈々瑠と臥々瑠が成都城に潜入するために出撃してからというもの、やはり零治は不安らしくタバコを何本も吸いながらあっちへウロウロこっちへウロウロと意味もなく歩き回り、全く落ち着きがなかった。亜弥と恭佳と樺憐は落ち着いて床几に腰掛けて自分達への指示が来るのをジッと待っており、今の零治とは全く正反対の姿である。



「零治。そんなにウロチョロされると鬱陶しいんだけど」


「しょうがねぇだろ。落ち着かねぇんだよ。……フーー……」


「零治。さっきから何本タバコを吸えば気が済むんですか。らしくないですよ?」


「お前らこそどうしてそんなに落ち着いていられるんだ。アイツらが心配じゃないのかよ」


「零治さん。そんなに心配しなくても娘達なら大丈夫ですわ。必ずやり遂げて無事に戻ってきますわよ」


「ほら。母親である樺憐もこう言ってるんだ。零治、アンタも奈々瑠と臥々瑠の事を信じてやれよ」


「言ってる事はオレだって分かる。だがそれでも落ち着けん。だからこうしてタバコを吸ってんだよ」


「ならせめて床几に座りながら吸えよ。アンタの今の姿を兵達が見たら余計な不安を抱いちまうかもしれないだろ?」


「分かったよ……」



零治も部隊を指揮する事はあるが、殆どの戦では誰かの部隊に一将兵として加わり単独行動を取っていた割合の方が圧倒的に多い。だがそうだとしても、彼の存在が兵達に与える影響はとても大きい。何しろ魏に降り立った天の御遣いの一人であり、最強とまで謳われているのだ。そんな人物が落ち着きのない様子を見せて、兵達がその姿を見たら何事かと思って不安を抱く者達も少なからず出てくるだろう。大事な決戦中にそんな事になっては本隊全体の士気の低下にさえ繋がりかねない。それだけは避けにばならないだろう。零治もこの戦いで全てを終わらせるつもりでいるのだ。なのにここまで来て余計な不安要素を増やすなど本意ではないので恭佳に言われた通り、床几に腰掛けてスパスパとタバコの煙を吹かしだした。



「……フーー……」


「零治さん。タバコを吸っているより、コーヒーでもお飲みになった方がよろしいのでは? なんでしたら今から淹れてさしあげますわよ?」


「それは全てが終わってからにさせてもらう。……フーー……」


「……もう。兄さん、そんなに吸ってると本当に肺癌になっちゃいますよ」


「ん? ……なっ!?」


「兄さん、ただいま~」



声がする方向を見てみれば、いつの間にやら奈々瑠と臥々瑠が戻ってきていたのだ。臥々瑠なんかまるで自宅に帰ってきたようなノリで右手を軽く上げて挨拶までしている。零治は驚きのあまり口に咥えていたタバコを地面にポロッと落とすが本人はそんな事など気にもせず、床几から立ち上がって早足で奈々瑠と臥々瑠の所まで近づいてしゃがみ、黙って二人を力一杯抱き寄せた。



「わっ!? 兄さんっ!?」


「ちょっ!? く、苦しいよ……!」


「お前ら……よく無事に戻ってきてくれた……」


「ふふっ。だから言ったじゃないですか。必ず生きて還って来るおまじないをかけるって」


「そうそう……って。…………っ!?」



ついさっきまで綺麗サッパリ忘れていたというのに、奈々瑠の一言で出撃前に零治に何をしたのか臥々瑠は鮮明に思い出してしまい、それと同時に零治の頬に口づけした時の感触も脳裏に蘇って顔が真っ赤になり、頭からはお湯を沸かしているやかんのように湯気が立ち昇って動悸も激しくなっている。いつもの臥々瑠ならこうしてもらえるだけで上機嫌になるのだが、今回は自分でもいま心の中に湧き立つ感情が何なのかよく分かっていないのだ。少なくとも嫌な気分ではないが、どうして良いのか分からずガチガチに固まって動けずにいた。



「あらあら。零治、随分と見せつけてくれるじゃないの」


「ん? ……っ!? か、華琳っ! な、何でここに……っ!?」


「私が呼んだんですよ。奈々瑠達が戻ってきたのなら、華琳にも話を聞いてもらう必要があるじゃないですか」


「亜弥……お前、余計な事を……」


「あら。私は気にしないわよ。貴方達の時間を邪魔するつもりはないから、気が済むまで抱きしめてあげたら?」


「……もういい」



零治はただ奈々瑠と臥々瑠が無事に還ってきてくれたので感極まって二人を抱きしめていただけだ。別に特別な意味は無いし、誰かに見せつけるような真似をするつもりも無い。今は蜀との決戦の真っ只中なのだ。不謹慎極まりないだろうし、これ以上周りから茶々を入れられるのも真っ平である。零治は早々に二人から離れたので臥々瑠はいつもの調子に戻り、動悸も収まった。奈々瑠はもう少しの間零治に抱きしめてもらいたかったのか、彼が離れるなり名残惜しそうに零治の事を見つめていた。



「ごほん。……さて、おふざけはここまでにしてだ……奈々瑠、臥々瑠。お前らが戻ってきたという事は、何か分かった事があるんだな?」


「はい。ただ、確たる証拠は手に入ってないので絶対とは断言できない情報なのですが……」


「でもとんでもない情報だよ。この決戦の戦局を大きく左右するって言ってもいいくらいのね」


「まあ、それはまず貴方達の話を聞いてから決めないとね。奈々瑠、臥々瑠。早速聞かせてもらいましょうか」


「……奈々瑠。説明全部任せていい?」


「分かってるわよ。どうせアンタにこの手の話を説明するなんて無理だものね」


「その言い方、なんかムカつくんだけど……」



奈々瑠の言い方は確かに腹が立つが、彼女の言う通り臥々瑠に相手に自分の考えを上手く伝えられないのは紛れもない事実である。二人のやり取りを傍から見ている華琳は、奈々瑠と臥々瑠が姉妹というのもあってか、春蘭と秋蘭のやり取りを見せられているように感じて口元に手を当てながらクスクスと笑い声を漏らした。その姿を見た奈々瑠と臥々瑠は不思議そうに首を傾げるが、何も言わないので話を進める事にする。



「私達、成都城に侵入して中庭を調べていた時なんですけど……指揮官の将兵二人がとんでもない話をしているのを聞いたんです」


「ふ~む。二人の将兵ですか。奈々瑠、名前は分かりますか?」


「一人は黄忠でした。もう一人の方は見覚えの無い人物だったので分からないです」


「黄忠か。奴は今や五虎将の一人に数えられてる人物だ。となると余程重要な内容なんだろうな。……っと、話を止めて悪かった。奈々瑠、続きを頼む」


「はい。それでその二人の話なんですが、こう言っていたんです。……『この決戦に黒狼達抜きで勝てるのか』、と……」


「何っ!?」



奈々瑠の口から告げられた驚くべき内容。この決戦に絡んでいるだけでなく、その内容に黒狼達もが関係しているのだ。奈々瑠と臥々瑠が持ち帰ってきた内容は、劉備軍が黒狼達を使わずにこの決戦に挑もうと思わせるもの。もしもこれが事実ならば、ここで零治、亜弥、恭佳、奈々瑠と臥々瑠、樺憐の全員を戦線に投入すれば確実に魏軍が勝利できる。だが現時点でまだその判断を下すには情報量が少なすぎる。華琳は冷静に話の続きを奈々瑠から訊き出す。



「奈々瑠、今の話だけど、間違いなく黄忠達はそのように話していたのね?」


「はい。この耳で確かに聞きました。間違いありません」


「その時に貴方と臥々瑠が劉備軍の誰かに姿を見られたりとかは?」


「いいえ。それに万が一見つかった時のために、城内では狼の姿に変えていました」


「ふむ。となると、こちらを欺くための嘘ではなさそうね……」


「いや、華琳。もしかしたその話をするようにしたのは黒狼の指示かもしれんぞ。オレ達を誘い出すために……」


「零治。いくら何でもそれは考え過ぎでは? まず誰がどのタイミングでどこから成都城に侵入するかも分からない。それ以前にもしかしたら誰も来ないかもしれない。そんな状況下で奈々瑠と臥々瑠にそんな都合よく今の話を人を通して聞かせるなんて不可能ですよ」


「……言われてみれば確かにな。だがそれでもまだ今の話を全面的に信用はできんぞ」



劉備軍が黒狼達抜きでこの決戦を勝ち抜くつもりでいる。これが事実ならば魏軍の勝利は約束されたも同然だ。しかしまだこの話を信用するまでには至らない。現時点での判断材料が少なすぎるからだ。もう少し確たる証拠があれば、このまま零治達も出撃させて一気に攻め込むかどうするかの決断を下す事が出来るが、とにかく奈々瑠の話の続きを聞かない事にはどうしようもない。



「奈々瑠。他に何か情報はあったのか?」


「……あるにはあるんですけど……ただ、これが今の話を事実と結びつける証拠になるかどうかはわかりませんが」


「それは貴方の話を聞いて、私や零治達で判断するわ。奈々瑠、気にせず続けなさい」


「分かりました。……私達もこの話を聞いた後、気になって城内を少し調べる事にしたんです」


「なるほど。で、どこを調べたんだ?」


「流石に隅々までは調べていませんけど、まずは黒狼達が使用していると思われた自室です」


「まあ、そこが無難だよな。それで何か分かったのか?」


「いえ、残念ながら何一つ。それに黒狼達の姿も見当たりませんでした」


「ふむ。それからどうしたんだ?」


「黒狼達が残した、奴らの一番真新しい残り香を辿って最後にどこへ向かったのかを調べてみたんです」


「なるほどな。それで奴らはどこに向かってたんだ」


「……玉座の間です」


「玉座の間ぁ? この状況でそんな所に何の用があったっていうんだ? まあいい。そこで分かった事は?」


「…………」



奈々瑠はそこで口を噤み、零治の問に対してどう答えれば良いのか頭を悩ませてしまった。分かった事は確かにある。ただし、これは状況証拠だけで奈々瑠がそう判断しただけに過ぎない情報だ。その上内容が内容。言い方一つで零治達を余計に混乱させてしまいかねない。奈々瑠は頭の中で言葉を一つずつ整理し、意を決して重い口を開いた。



「これはあくまで私が状況証拠から判断しただけの話になりますが……恐らく、黒狼達は玉座の間でどこかに姿を消したんだと思います」


「姿を消した? なぜそう思うんだ?」


「黒狼達が玉座の間に残していた残り香が、部屋の中心で途切れて完全に消えていたんです。まるで地面に引いた白線が切れたように……」


「何……?」



奈々瑠の言葉に零治は一瞬首を不思議そうに傾げたが、それでも奈々瑠が何を言っているのかはすぐに理解できた。匂いを消す方法はいくらでもあり、消臭剤を使ったり芳香剤などの別の匂いで誤魔化すなどとあるが、黒狼がわざわざそんな事をするとは思えなかった。それに仮にそれを実行すれば、意図的に何かを使って匂いを消したという痕跡が残るはず。奈々瑠と臥々瑠がそれを見落とすはずがない。しかしまだ判断を下すには早すぎる。もう少し詳しく話を聞く必要があるだろう。



「奈々瑠、今の話だが……言葉通りの意味なのか?」


「はい」


「……その残り香を意図的に消したと思われる痕跡は?」


「それは無かったです。念の為、玉座の間から別の場所へ移動できそうな出入り口は全て調べました。でも、そのどこにも移動した痕跡は見当たりませんでした。それでこれ以上内部を調べても無意味と思って帰還してきたんです」


「亜弥、お前はどう思う?」


「ふーむ。黒狼が使えるのかどうかは知りませんが、話の内容からして、奴が空間転移系の魔法を使って移動した可能性が考えられますね」


「移動ねぇ。……零治、奴らどこに向かったと思う?」


「元の世界でならともかく、こっちで奴が行きそうな場所なんか見当もつかんな。……華琳、奈々瑠の話は以上のようだ。どうする?」


「…………」



話を聞き終えた華琳は右手を顎に添えて思考を巡らせていた。内容は驚くべきもの、今後の戦局を大きく左右させるほどのだ。黒狼達が不在だというのが事実ならば、この状況を利用しない手はない。零治達を前線に投入し、蜀との決戦も一気に決着をつけられるだろう。それに、仮に奈々瑠達の持ち帰った情報が間違いで黒狼達が居たとしても、零治達なら必ずやり遂げてくれる。華琳はそう信じているのだ。ならばどうするべきかの答えは決まっている。



「今の話が事実ならば、利用しない手はないわ」


「なら……」


「ええ。私達も出るわよ」


「分かった。オレ達はどう動けばいい?」


「慌てないの。まずは……亜弥、恭佳」


「はい」


「はいよ」


「貴方達二人は、奈々瑠と臥々瑠も連れて成都城を制圧しなさい。前線の秋蘭や季衣、流琉。それに凪達も先行させるから、あの娘達の援護を頼むわ」


「了解」


「任せなっ!」


「奈々瑠と臥々瑠もそれでいいわね?」


「はいっ!」


「任せといて!」



城の制圧だけで魏の御遣いを四人も向かわせる。先行する秋蘭達の援護とはいえこれは実に分厚い布陣である。これだけ居れば城の制圧の方は問題無いだろう。後は零治と樺憐の配置をどうするか。この決戦で確実なる勝利を手にするためにも、配置を間違えてはならない。華琳は零治と樺憐に視線を移していつもと変わらない落ち着いた様子で口を開いた。



「零治と樺憐は私と一緒に出撃を。劉備が居る本陣まで一気に攻め込むわよ」


「分かった。お前の護衛は任せておけ」


「承知しましたわ。この戦いに終止符を打つため、わたくしも全力を尽くしましょう」


「頼むわね。さあ、行きましょう。決着をつけるわよ」



零治、亜弥、恭佳、奈々瑠、臥々瑠、樺憐と魏に降り立った天の御遣い六人を従え、華琳は優雅な足取りで一歩ずつ前へと進みだす。目指すは劉備が居るであろう敵軍の本陣である。黒狼、金狼、銀狼の三人が不在の状況下で零治達六人が同時に前線に現れては、劉備軍も対処は絶対に不可能だろう。劉備軍が最も恐れている事態が現実になろうとしている今、魏と蜀の決戦の決着の時は刻一刻と近づいていた。

零治「おい。今回の話、何なんだ。序盤にあったアレは……」


作者「いや、ああした方が面白いと思って。別に悪い気はしなかったでしょ?」


零治「……そこは否定せんが」


亜弥「で、結婚はいつのご予定ですか?」


恭佳「零治。式は和式と洋式、どっちにする?」


零治「おい……」


奈々瑠「私は洋式がいいなぁ。ウエディングドレス……憧れます」


樺憐「あらあら。これは超一流の仕立て屋にお願いしなくてはいけませんわねぇ。……臥々瑠、貴方はどっちがいいのぉ?」


臥々瑠「……もうどっちでもいいよ。今のアタシにそんな事考える余裕なんてないから」


零治「はぁ……こうなったのも全部お前のせいだぞ。責任取れよ……」


作者「責任? ……あぁ、奈々瑠と臥々瑠の二人と結婚する話を書けって事ね」


零治「違うわっ! そういう事言ってんじゃねぇ!」

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