卒業(後編)
長かったお話も、これで最後です。
毎日2万文字前後の更新に、飽きもせずお読み頂いた読者様に感謝です。
ナムの感動の、卒業? となるのか、ナムの10ヶ月間の回顧録です。
最後まで温かい目で見てあげて下さい。
あたしは未だ痺れている足を引き摺りながら、錬弥の部屋へ行った。
「錬弥、入るよ」
ドア越しに、バシバシっと部屋からサンドバッグを叩く音がする。あたしが部屋に入ると、錬弥は相変わらず、吊るしてあるサンドバッグ相手に蹴りやら突きやらの練習をしていた。
釣られてあたしも、錬弥の動きに合わせて手足を動かしてみた。痺れた足も回復するし。
週一回、一応あたしも錬弥と同じ道場に通っている。あたしは護身の為、とか言い訳していたが、ホントは、錬弥が又脱線しないか心配だった。でもその監視役も、もう終わった。
突然煉弥が、ナムに振り返った。
「首を動かすな。脇が甘い」
「は?」
あたしはキョトンとした。マジでやってないっつーの。
錬弥は、ナムの背中の文字を見て噴き出した。
「お前、雪弥の部屋へ行っただろ」
「うん、行ったけど。何で分かる?」
「いや。なんとなく?」
なんとなくぅ? 何となくかよ。
錬弥は、ナムの横に来て型の指導をし始めた。
「足の位置! 腕の構え! 7ヶ月も通ってて、型のひとつも出来んのか?」
だから、あたしは遊びだって。ここ道場じゃないし。あたしは眉を顰めながらも、仕方なくサンドバッグに横蹴りを入れた。
「とりゃーっ!」
しまったぁ! 今あたし、スカートだったぁ。
最後の挨拶くらいキチンとした格好でと、あたしは滅多に穿かないスカートを穿いてみた。本当は上下スーツで、皆さんにキチンと挨拶、とも思ったが、そこまですると絶対笑われるし、碌でもない突っ込みを入れられる。だからスカートだけにした。でもトップは、いつものトレーナーだった。
あたしは蹴り脚が上がったと同時に、スカート毎軸足も身体も浮き上がった。
ドッターン。派手に尻餅を搗き、尾骶骨を強打した。後頭部も打った。
「イタタ……」
あたしはお尻と頭を手で摩った。錬弥は呆れた顔で手を差し伸べ、あたしを起こしてくれた。
「ナム、ケツ破けてるぞ」
「うっそー!」
あたしは慌てて、全身映る壁の大きな鏡で、スカートの後ろを確認した。スリットの長さは……。よかった、伸びてない。
「なんだ、破けてないじゃん。脅かさないでよ。替え無いんだから。
あーあ、最後くらい、錬弥の前でカッコ良く決めたかったのになぁ」
あたしは、打ったお尻を摩った。
「ムリ。俺の前でカッコつけようなんて、10年早いわ。でもいいんじゃね? らしくて」
錬弥の笑った顔は、やっぱ未だ可愛い中学生だ。あたしは錬弥に、エへへ、と笑い返した。
錬弥の顔が、急にマジになった。
「何? 錬弥?」
錬弥も、あたしがいなくなると少しは寂しい、って思ってくれるのかな?
なんて思っている内に、あたしは突然錬弥に腕を引っ張られ、後ろから抱き付かれた。
「ちょっと! 何?」
「護身術教えてやったろ? 俺の手、外してみろよ。これからは一人なんだから」
「護身術? はん、ちょろいわ」
あたしは右足を後ろに引き、左足の膝を曲げた。同時に両手を真横に伸ばして錬弥の腕を振り払った。直ぐに左手で錬弥の手首を掴み、腰を捻る。楽勝ーっ!
ところが、あたしは逆に錬弥に腕を取られ、あたしの身体は見事に床に捻じ伏せられた。
「ちょっと! 普通の痴漢はそこまでしないって!」
「悪い。つい条件反射で」
「もー何すんのよ、痛いじゃん。又お尻と後頭部打ったし。あたしは錬弥の練習台じゃないっ!」
しかもあたしは、錬弥に両腕を取られ両脚もしっかり押さえ込まれて、身動きが取れない。錬弥がナムをじっと見下ろした。
「もうー! 押さえ込まれた時の対処法なんか、教わってないし! あたしもう動けん。ギブ、ギブ」
じっとナムを見下ろしていた錬弥の顔が、ゆっくり下がって来た。瞬きもしないで、ナムの瞳を見詰めている。
「ちょっ、ちょっと! 錬弥顔近い! ギブだって言ってんじゃん! ギブギ……」
唇が重なった。遠慮しながら、躊躇いながら、ぎこちない錬弥のキス。あたしは目を瞠って、目の前にある錬弥の瞳を見詰めた。やっぱあたしは、錬弥の練習台かよ。
自分からキスしておいて、錬弥は慌ててナムから飛び退いた。
「ごめん」
ナムに背を向けて小さくなって座っている錬弥が、か細い声で謝った。
「も、もう……。あ、謝る位なら、す、するなって……」
あたしの声が上ずっている。ヤダ、何ドキドキしてんのよ、中学生如きに。あたしは、顔もカーっと熱くなった。
赤くなった顔を見られる前に、あたしは上体を起して立ち上がろうとした。同時に錬弥が振り返って、ナムが立ち上がろうと膝を突いた所で、彼女にガバッと抱き付いた。それも結構な、男の力で。
今のあたしの体勢では、錬弥の腕は外せない。立てもしないし身体も捻れない。
「れ、錬弥! ……。もう護身術はいいよ」
錬弥の胸にピッタリ嵌って上半身を固定され、肩も動かせないあたしは、心臓がバクバク言い出した。何が何だかさっぱり分からなくて、あたしの頭もパニクってる。
「れ、錬弥、あの……」
「黙って。暫くこのままでいさせてよ」
錬弥は目を閉じて、ナムの耳元でお願いした。
「ナムの心臓の音って、結構でかいのな」
今だけです! 誰のせいだと思ってるよ! って、なんであたしが4つも年下の中学生の餓鬼に、ドキドキするんだ? お願い! 誰か今だけあたしの心臓止めて!
その後も暫く、あたしは立ち膝で錬弥にきつく抱き付かれていた。それでもあたしの心臓は、徐々に大人しくなった。同時に、錬弥のドキドキする鼓動が、今度はあたしに伝わった。
「悪い」
錬弥は、ナムの耳元で2~3回ゆっくり静かに呼吸してから、腕を解き座り込んた。ナムの顔は見ずに、照れて下を向いた。
「も、もう……。錬弥、苦しいじゃん。この馬鹿力。
あのね、そーゆー事は好きな子にしなよ。あたしじゃなくてさ」
あたしも錬弥の横で、ぺたっと座り込んだ。あたしも、錬弥の顔がまともに見れない。あたしは髪を直す振りをして、照れを隠した。
「そう言えば……。錬弥その子に告った? 錬弥の好きな子。
あたしこん所、入学手続きや引越し準備なんかで忙しくて、ホワイトデー忘れてたけど。錬弥、お返しちゃんとあげたんでしょ? その子にも」
あたしは以前、錬弥に好きな子がいるっていう疑惑話を耳にしてから、その後の錬弥の恋の進展を教えてもらっていない。
「やれるかっ! そんな事言えねーし。それに本人だって忘れてるし」
「えー、ホワイトデー忘れる女子なんかいないって。ホントはその子、待ってたんじゃない? 錬弥の事」
「知らね」
錬弥は口を尖らせ赤くなって、プイッと横を向いた。
かっわいい! この照れ屋さん!
「でもさ、あたしじゃ錬弥のキスの練習台にもなんないよ。空手もだけど。
あたし恋愛経験浅いし、空気読めないし。きっとあたしより錬弥の方が、キスした回数多いんじゃない?」
あたしは、自分のを数えてみた。ほっぺやオデコは無しとして、山本君でしょ……。山本君と……。1回。
違うって! 静弥さんのとさっきの雪弥のと今の錬弥のは、カウントしない! あれは、キスじゃない!
「俺か? ねーよ」
錬弥は、小さな声で不機嫌に答えた。
そんな照れるなって。あたしはニヤニヤして、錬弥の腕を肘で突ついた。
「錬弥、男だろ? いい加減腹括れって。卒業まで後1年なんだし、なんとかしろよ。
学校の子は勿論だけど、道場の子だって、中学卒業したら遠くの高校とか部活とかで、今迄通り空手続けるとは限らないし。その前に受験で辞めちゃうかも知れないし。錬弥が勝負賭けるなら、絶対この夏だよ!」
あたしは、錬弥の背中をバン、と叩いて渇を入れた。
同じ様に座っていても、錬弥と話をするあたしは、彼を見上げていた。いつの間にか、錬弥は随分背が伸びていた。気が付けば、錬弥の声も低くなっていて、子供のそれとは違っていた。
あたしが錬弥に初めて会った時は、身長もあたしより低かった。なのに、直ぐに追いついて追い抜かれた。でもきっと、まだまだ伸びる。
「錬弥ってさ、最初あたしよかチビだったよね。声も可愛かったし。いつの間にか、身体も心も成長して、恋もするようになったんだね。
錬弥の相談には、そう初中乗ってあげられなくなるけど、メール位ならじゃんじゃん送ってくれていいから。って、あたしの失恋談じゃ、相談にも参考にもなんないか」
「お前、今でも未だそいつの事が好きなのか?」
「……」
あたしは、抱えた膝に顎を乗っけて苦笑した。
「18にもなって情けないよね、ホント……。でもさ、6年間ず――っと想い続けて来て、そう簡単には……、ね。
まぁ、その内錬弥にも分かるかも……? いや百発百中の錬弥だったら、振られる側の想いは、きっと一生分かんないだろうな、悔しいけど」
ポーン。時計の短針が11時を指した。あたしは立ち上がって、お尻を叩いた。
「それじゃ錬弥頑張れ! 受験とか試合とか恋愛とか、色々とね。んじゃ、お休み」
あたしは軽く手を上げて、錬弥の部屋を後にした。あたしの背中には、雪弥の部屋で付けられた“バカ”の大きな文字が光っていた。
錬弥は、ナムが部屋を出て行った後も、暫く膝を抱えて座り込んでいた。
「ばーか。いい加減気付けよ。お前の事だって。……そんなに元彼がいいのかよ」
錬弥はそう呟いて立ち上がった。
バシッ。錬弥は、渾身の力でサンドバックを一撃した。
トントン。あたしは、夫妻の部屋のドアをノックした。
「夜遅くに失礼します」
「どうぞ」
あたしは一礼して部屋に入った。後ろを向いてそっとドアを閉めると、あたしの背中に気付いた奥様の、押し殺した笑い声が微かに聞こえた。
「ナムさん、雪ちゃんの部屋へ行った?」
「は? ……あ、はい行きました。でも何で分かるんですか? 錬弥…錬弥さんにも言われたんですけど?」
雪弥? あたしは、はっとした。
「奥様、ちょっと鏡借ります」
あたしは慌てて奥様のドレッサーの鏡を、じーっと覗き込んだ。顔にも頭にも髪にも、何も着いていない。ほっとした。
そう言えば、さっき錬弥の部屋で鏡見た時だって、別に変じゃなかった。あたしは一応、スカートのスリットが深くなっていないか確認した。
「奥様どうして、あたしが雪弥の、雪弥さんの部屋へ行ったって、分かったんですか?」
「さぁ何ででしょう。なんとな~く、かしら」
なんとなく? 奥様までなんとなく、なワケ? ……。
それは置いといてー。あたしはドアの前で、お世話になったお礼を述べた。
「奥様。あたし、お世話になったご挨拶に伺いました。もう遅い時間ですので、立ったままで失礼します。
10ヶ月間、いろいろご迷惑をお掛けしました。お蔭様で、大学も無事合格することが出来ました。本当にありがとうございました。旦那様にも、よろしくお伝え下さい」
旦那様は出張中で、今日も家にいない。1ヶ月の内に1週間家に居ればマシな程、忙しい人だった。
「あの。ここをお暇する前に、奥様にお訊きしたい事があるんですけど」
「どうぞ。遅いからって遠慮せずに、中に入って座って下さい」
奥様は、どうぞと手でソファを指し示した。
「でも……」
「ね?」
「はい、ではちょっとだけ。失礼します」
あたしはソファの上で正座した。奥様が笑っていたが、それは一応あたしなりのケジメのつもりだ。
「それで奥様は、どうして私をこの家に招いてくれたんですか? 年頃の息子さんがいる家に女子高生なんか……。何かとトラブルの元ですよね?
あたしだって、最初から同世代の男の子がいるって知ってたら、それも男ばっかりの兄弟だって分かってたら、絶対に藤代家には来ませんでした。連絡も取りませんでした」
「そうね。あなたが今時の女子高生だったら、ちょっと考えたわね。
でもナムさん、あなたの目はとても綺麗で真っ直ぐだったから。平気で人を騙し陥れる、残忍で猜疑の影は、あなたの瞳にはなかったわ。それは、今でもずっとそうですけど。
ナムさんは本当に、嘘を吐けない、隠し事の出来ない素直な瞳をしてますよ。今時、子供だってそんな瞳を持つ子は少ないのに」
褒められてるんだよね? 何だかあたしは複雑だ。
「それで、あたしを藤代家に置いてくれたんですか? なんか単純、って言われてるみたいで……」
「それだけじゃないわ。ナムさんは目的も目標もしっかりしてたし、意志も強そうで根性も有りそうでした。藤代家の誰かに取り入ろう、なんて気は見えませんでしたから。
だから、ナムさんだったら、藤代家の誰かとトラブルになるような事はないと。たとえ起こったも、ナムさん自身でなんとかするだろうって……。お義母さんも含めて」
確かに。あたしは藤代家にとって年頃の女子じゃない。お節介な、ただの家政婦のおばちゃんだ。
「それに、ナムさんの底抜けの明るさが、この家に新しい風を吹き込んでくれるような予感がしたから」
奥様は、いつものように優しい笑顔と声音で、話を続けた。まるで、テレビドラマの台詞の様な、ベタなお言葉だ。でも、奥様なら全然有りだ。
「ありがとうございます。お節介で嘘が嫌いで、頑固で短気で熱血なのは、その通りです。ですが……。
あたしがこの家に居ても、結局何も変わってません。奥様のご期待に添えなくて、ホントごめんなさい。逆にあたしが台風の目になって、平穏な藤代家を引っ掻き回してたよーな……」
「いいえ、そんな事ありませんよ。藤代家の雰囲気が、随分変わりました。この10ヶ月、とても楽しかったわ。ナムさんさえ良ければ、いつまでも藤代家にいてくれて構わないのよ」
イヤです! 即答しそうになって、身体がちょっと浮いた。
「ナムさんは家事だけでなく、私達がしなくてはならなかった親としての代わりもして頂きました。私の方が申し訳なく思っている位です。
これからも、ナムさんが藤代家にいて下さると、大いに助かります。それは主人も同じ考えです。お義母さんも、そう思ってらっしゃるんじゃないかしら」
あたしはさっき、大奥様から嫁に来るようにと言われた事を思い出して、首をブンブン振った。
「ナムさんは、家政婦としても家族としても一流でしたから……。今度来る家政婦さんに期待は持てません。どんなプロフェッショナルな方でも、新しい家政婦さんに慣れるのも、藤代家に慣れてもらうのも、結構大変なのよ。ナムさんならご存知でしょうけど。
なんならナムさんのお給料、もっと上げましょうか?」
奥様は、茶目っ気たっぷりに笑った。
「奥様……。そこまで言って頂いて、ありがとうございます。でもあたしが藤代家を離れるのは、お金の問題じゃありません。ごめんなさい」
あたしはペコリと頭を下げた。
「それであの、あたしの時も大変でした? 最初はやっぱり?」
「いいえ。ナムさんは呑み込みが早くて助かりました。プロの家政婦さんだって、あなた程お任せ出切る人はそうそういません。だって、あのお義母さんだもの」
奥様は、小さな声で言った。
確かに! あたしは大きく頷いた。適当にやり過ごす事は出来ても、あの妖婆、いや大奥様と正面切って対峙出来るのは、今の所あたししかいないと思う。
「それにナムさんは、家族の皆にもいい影響を与えてくれましたし。主人も、ナムさんには反省させられたって言ってました。私もです。
あなたは、私の本当の娘の様でしたよ、ナムさん」
「娘だなんて……。ありがとうございます」
あたしは照れて視線を逸らかした。社交辞令だと分かっていても、世の女性の目標の様な憧れの奥様に、娘だなんて言ってもらると超嬉しい。
「お世辞じゃないのよ。本当に子供達も皆明るくなったわ。皆良く笑うようにもなったし。今迄隠していた喜怒哀楽の情も、表に出すようになりました。本人達は、ちっとも気付いてないみたいだけど。
静弥さんが留学出来たのは、ナムさん、あなたが彼の背中を押してくれたからよ。雪ちゃんが野球をやり始めたのも、錬弥さんが又空手に通い始めたのも、皆ナムさんのお陰です」
いや、そんな事は無いと思う。静弥さんの留学はともかく、雪弥も錬弥もあたしがいなくても、きっと同じ様に野球も空手も始めてたと思う。
それに、あたしが居なくなって清々してる筈だ。奴等は、口を開けばあたしに文句しか言わない。あたしをバカにして面白がっているだけだ。あたしは静弥にも、散々からかわれていた事を思い出した。
「涼弥さんが医学部受けるって行った時、主人はとても喜んでました。何だかんだ言っても、やっぱり親は自分と同じ道を選んでくれると嬉しいものです。自分の人生が子供に認められたようで。
大学も行きたくないって言っていた涼弥が、医師を目指す様になったのも、ナムさんのお陰です。ああ見えても、皆ナムさんに感謝しているんですよ」
でも涼弥の進学って、あたしには全く関係ないと思う。
「奥様はそう仰いますけど、あたし何もしてません。確かに皆さんに笑いは提供したかも知れませんが……」
何故だが分からないが、あたしは良く皆の爆笑を買っていた。
「後、よく怒らせたりもしてました……」
冷静だと言われた涼弥は勿論、あの静弥でさえ、本気で怒らせ大声をあげさせた。
「そういう事が、この家族には無かったのよ。本当にありがとう。お礼を言うのは、私の方です。
この家に4人も男の子がいるんだから、ナムさんが誰かのお嫁さんになって、ずっと藤代家にいてくれたら嬉しいんですけど。
ねぇナムさん、私の娘に成る気ない? ナムさんなら大歓迎よ」
奥様は、あたしに悪戯っぽくウィンクした。
絶句。大奥様だけじゃなく、奥様もそうだったのか! でもでも、本気じゃないよね。まさか、雪弥とくっ付けようなんて、思ってないよね。
…………。
暫しの沈黙と共に、かなりかなり含みの有る、奥様の怪しく優しい微笑み……。
お願いです! 誰か誰か! 藤代家の呪縛からあたしを解放して下さいっ!
「は・は・は。ありがとーございますー」
あたしは空笑いをして、引き攣った笑顔を返した。
「あら、そんなに嫌がらなくても。4人とも、皆いい子だと思うけど?」
いい子? どこがだよ。親からみれば、ヤクザでもニートでも皆良い子だよ! ……とは言えない。
「あ―、はい。そうです(か)ね? 確かに、皆さん、とってもとっても、いい子、……かも」
静弥さんは裏表がありそうだけど、とりあえず誰に対しても優しくて親切だ。
涼弥は、インテリクールで無関心を決め込んでるけど、意外に抜けてて他人も見捨てる事が出来ない。偽りでない本当の笑顔には、ちゃんと笑顔で返す。
一見硬派の錬弥は、実はかなりの照れ屋で、それを隠す為に虚勢を張っている、可愛い少年だ。
雪弥は……、あいつに関してはムカつく事ばっかだ。でも、隠してるけど、ホントは人一倍寂しがり屋で、子供の癖に気を使い過ぎで、でも同年代の誰よりも子供らしい。
あたしは、4兄弟の意外と寂しがり屋で家族思いで、他人にも優しい一面がある事を思い出して微笑んだ。
まぁ、……皆、それなりにいい子かも。
でも4兄弟の隣にいる女性は、きっと物静かで優しくて美人で、何があっても笑って傍にいる、奥様、いやお母さんの様なお嫁さんだと思う。何気に4兄弟皆マザコンだし。間違っても、隣にいるのはあたしじゃない。
でも、奥様の更に何か含んだ様な笑顔が、あたしには怖い。
あたしは奥様の部屋を出た所で固まった。壁に手を付き息も止めた。ソファで正座をしていたあたしの足の感覚が、びみょーに戻って来てただ今絶高潮!
ソファなら正座してても痺れないだろう、と思っていたあたしが甘かった。しっかり痺れた足の感覚が元に戻るまで、あたしはその場でじっとしていた。早く涼弥に挨拶済ませたいのに。廊下の時計は12時を指していた。
背後から、涼弥の笑い声が聞こえた。あの掠れた笑い方……、じっとして動けないあたしを小バカにしてるんだ。ならいいや、このままここで涼弥に挨拶済ませよ。
あたしは一時、足の痺れを我慢して涼弥の方へ振り返った。
「ちょっと、涼弥」
あたしがいくら頑張っても、動かない足では歩けない。あたしは手で、おいでおいでと涼弥を呼んだ。
「俺は犬じゃない」
「いいの。今だけ」
あたしは、涼弥を前にして姿勢を正した。
「えへん。涼弥、じゃない涼弥さん。今迄色々と、いろいろと、イロイロと、ありがとうございました。散々ご迷惑お掛けしました。
受験の際にはかなり面倒見て頂いて、あたしが無事合格出来たのも、一重に涼弥さんのお蔭でございます。真にありがとうございました」
あたしは一応、涼弥に感謝とお詫びの意を表しつつ、痺れた足を庇いつつ、嫌味も込めて深々と丁寧に、お辞儀をした。
涼弥は、未だクスクス笑っている。
「何よ」
「お前、雪弥の部屋に行っただろ」
「え? 何で分かる? さっき錬弥にも奥様にも言われたんだけど」
「さぁ……。なんと、なく?」
ムカつく! こいつも、なんとなくかよ。
「そうそう。長い間俺のアシしてくれたお礼に“ルビー”のグッズ、餞別でどれかプレゼントしようと思ったんだけど。いる?」
「いるいる! 絶対いる! 欲しいに決まってんじゃん!」
あたしの目が光った。ここで涼弥への挨拶を済ますつもりが、そんな事はどこかに吹き飛んだ。
涼弥の部屋へ走り出そうとして……。ジンジンジン……。あたしは固まった。足が一歩も前に出ない。
「っ――」
足の痺れが脳天まで伝わった。あたしは硬直し呼吸も止まる。固く目を瞑って壁に手を突いた。
それを見て、涼弥が動けないナムをひょいと抱き上げた。
「ちょとちょっと、何?」
「サービス」
「い、いいって。降ろして! 降ろ……」
騒いだ拍子に、又痺れが復活した。あたしは、涼弥の腕の中で息を殺してじっとしていた。
今迄の涼弥の暴言の数々。それ等からはとても考えられない涼弥の行動に、あたしは眉を顰めた。
これってやっぱ最後だから? それにしてもオタク涼弥の癖に、どこにこんな力があ有るんだろう。あたしは不思議に思った。
本当は、今迄何度か涼弥に抱きかかえられた事があったのだが、ナム本人は全く覚えていない。
そもそも夫妻の部屋から涼弥の部屋まで、たかが数mだ。同じ階だし。ナムを無理矢理引き摺ればいいだけで、何もお姫様抱っこまでする必要はない。
やっぱサービスか? にしても……。
「ちょっとー、あんま揺らさないでってー。これって虐めか?
そーっと降ろしてよ! そーっと、そーっと! 足、未だ痺れてんだから!」
ドン! 涼弥はニヤッと笑って、態とドスンと落とした。
こっ、こいつーっ! やっぱこれをしたかったんだ! あたしは息を止め、暫く動けなかった。
「どれでもい?」
あたしは涼弥の部屋に入るや否や、目をキラキラさせて“ルビーの瞳”のキャラクタグッズが置いてある棚を、食らい尽くす勢いで眺めた。
「喰うな!」
あたしは早速、ヒロインのレイの鬘を被ってマントを羽織り、剣を振り回してみた。
「あたしって、よくこんな格好して、涼弥の絵のモデルになってたよね?」
「99%(ぱー)ナムの趣味だったけどな」
あたしは、涼弥の部屋を見回した。メカオタクグッズに混じって、ルビーの瞳の関連グッズも並んでいる。壁には、ルビーの瞳のポスターやカレンダー。
「連載終わっちゃったね。なんだか寂しいよ。娘を嫁に出す、ってこんなんかな。
でも、丁度あたしの卒業と連載終了が一緒になってよかった。あたしが無事、最終回まで“ルビーの瞳”のアシ出来て。りょう先生、ありがとうございました」
涼弥は受験終了日の晩から、ラストスパートのように、何日も徹夜して連載を終結させた。
「アシがいなくなると、仕上げらんなくなるからな」
涼弥はそう言ったが、あたしが最後まで作品に携われる様にと、彼が根詰めて仕上げてくれた事は何となく分かっていた。
「りょうセンセ。又連載描くの?」
「いいや、連載は暫くお休み。構想はあるけどね。学生生活が落ち着いたら、番外編でも描こうかと思ってる」
「そう言えば、今度“ルビーの瞳”がアニメ化するんだって? 新ゲームも出るとか……。印税いっぱい入るね。超羨ましっ」
「別にー。俺は金目的じゃないから」
極貧のあたしは、ギロッと涼弥を横睨みした。
さいですかぁー。あんたお坊ちゃまだもんねぇーっ。
「新ゲームは、自分で作ってる。今製作中だ」
涼弥はパソコンを立ち上げて、カチャカチャとキーボードを打ち始めた。涼弥のパソコンモニタ、何度覗き込んでも、あたしには意味不明。
この10ヶ月間、あたしはこの部屋にほぼ連日のように通い詰めてはいても、あたしのパソコン知識はちっとも増えてない。
あたしは、涼弥が作った“ルビーの瞳”の公式ホームページを覗き込んだ。沢山の感想や応援メッセージが書き込まれている。
「この作品、皆に愛されてるんだね。なんか涼弥にお礼を言いたい気分。まぁ、あたしのお陰もあるんだけど?」
「そうだな。天然で間抜けなチビ魔女ムーナの活躍は、ナムの存在無しでは有り得なかった」
日頃のナムの“活躍”は、ムーナのネタにされ、それらは読者の大評判を買っていた。
「何度も言うけど、ムーナは絶対ミスキャストッ!」
あたしは全然納得いかないけど、ファン投票のNo.1人気キャラは、ムーナだった。
あたしは、じーっと涼弥を見詰めた。あたしはニッコリ微笑み上目使いの甘ったるい声で、指を組み超可愛く、涼弥にお願いする。
「あのね、あのさ……。あたし、涼弥様にお願いがあるんですけど。最後だし、聞いてくれるよね? 難しくないし痛くも苦しくもないから。ね?」
あたしは、パソコンの前に座っている涼弥の腕を引っ張り上げて、その場に立たせた。
「何すんだよ。俺、いいなんて言ってないし」
「いいからいいから」
あたしはニコニコしながら、怪訝な顔をする涼弥に、王女の騎士の、ギルの鬘を被せてマントを着け、涼弥の眼鏡を外した。
「俺にコスプレやれってか?」
「気にしない気にしない。最後最後。……うん全然OK! ギル様の雰囲気出てる」
あたしは、立たせたコスプレ涼弥の周りを、ぐるっと一周した。
「オッケー。いい? 涼弥は動かなくていいから。何にも言わなくていいからね。ちょっとそのまんま、じっとしてて」
「お前、俺に何やらすんだ?」
涼弥の眉がピクピク動く。
「い・い・か・ら。じっとね、じっとしててよ。……えへん」
あたしは咳払いをして、姿勢を正し目を閉じた。レイ降臨。そしてあたしは、潤む目をそっと開き、最終回でのレイの台詞を口にした。
「ギル、あなたにも随分迷惑かけたわね。ありがとう」
漫画では、ここで最後の熱い抱擁……。レイのあたしは、ギルの涼弥に抱きつこうとして腕を上げ……。固まった。
「えっとぉ……、ちょっとだけ、い? 今あたしはレイだから。涼弥はギル様だし……」
あたしは、照れてモジモジした。涼弥は可笑しくて立っていられなくなり、机に手を突いて堪らず噴き出した。
「腹いてぇ。マジ笑える。お前、どう見てもムーナ」
涼弥は、ドンドンと机を叩いて泣いている。
失礼な! 泣く程笑わなくてもいいじゃん。あたしは不貞腐れた。口を尖らせて文句を言う。
「悪かったね、どーせムーナだよ。で、いいの? 駄目なの?」
涼弥は、涙を拭きながら言った。
「い、いいよ」
涼弥の声が、未だ上ずっている。
「そこまで笑うかー? ムカつくー。あたしがレイだって言ったらレイなの! ムーナじゃないし。
いい? じっとしてて動かないでよ涼弥。立ってるだけだから。……って笑うな! ここは感動的でシリアスなシーンなんだから。
じゃ、テイク2」
あたしは咳払いをして、もう1度台詞を言い直した。再びレイ降臨。
「ギル、あなたにも、随分迷惑かけたわね。ありがとう」
ちょっと躊躇したが、あたしは思い切って涼弥の首に抱き付いた。涼弥を、無理矢理騎士のギルだと思い込んで、あたしは頬を寄せた。ギューっ!
“ギルさまぁ―――――っ。大好き――――!”
ルビーの瞳の世界にトリップしたあたし。涼弥も原作と同じように、ナムに答えて強く抱き返して来た。
え? 驚いたのはあたしの方だ。いきなり現実に引き戻された。
「ちょ、ちょっと涼弥。動かないでよ。じっとしててって言ったじゃん! そこまでサービスしなくてもい……」
原作のレイと同じように、あたしも慌てて両手でギル、いや涼弥の胸を突っ撥ねた。あたしはイヤナ予感がした。原作で行くと、この先のシーンは……。
それだけは絶対阻止したくて、あたしは両手を突っ撥ね顔を背けた。だがあたしの抵抗空しく、これまた原作と同じ様にギル、いや涼弥に強く引き寄せられて……。
何でこうなる? オタク涼弥の癖に力強っ。あたしは涼弥にしっかり抱き寄せられて、唇が重なった。
りっ、涼弥ってば、サービスし過ぎっ! あたしは目を固く瞑り、涼弥を引き離そうと、涼弥の背中の服を目一杯引っ張った。びくともしない。
あたしがジタバタしている内に、涼弥のキスは官能的になった。パニクっているあたしは、その変化に気が付かない。いきなり唇を吸われ抉じ開けられ舌を入れられて、目を開け瞠目した。手も停まる。
ナムの反応に驚いた涼弥の手が緩んだ。あたしはその隙に涼弥を突き飛ばし、壁に飛び退いた。鬘も落ちた。
あたしは恥ずかしくて顔が熱くて、涼弥の顔をまともに見返せない。
「なんだよ、ナム。キスぐらい、した事あるだろ。1年も男と付き合ってたんだから」
涼弥は、不機嫌に鬘を外した。
「……」
こんなキスなんか、したこと無い! あたしは言い返したかったが、涙が溢れて来そうで声が出せない。ナムの思い詰めた様子に、涼弥は気拙くなった。
「ごめん。悪かった。俺、調子に乗り過ぎた」
「……いいよ、もう。今後涼弥とは、顔合わせる事ないんだし。ちょっとびっくりしただけ。こんなの、始めてだったから……」
「始めて? ……マジで? だって1年も男がいたんだろ?」
「山本君とは……。そういう付き合いじゃなかったもん。キスだって、去年別れる時に、1回チュってしてもらっただけ。
だって付き合ってるって言ったって、一方的にあたしが山本君を好きだっただけで、ずっとただの友達で……」
涙が目に溜まってきた。零してなるもんか! 必死に瞬きを耐えた。
「そっか。……悪かったな。ヤな事思い出させて」
「いいって」
無理矢理涼弥に笑ったら、死守した筈の涙が、あたしの瞳から零れ落ちた。あたしは慌てて掌で涙を拭った。
何とか涙を誤魔化そうとする、いじらしいナムの姿が、涼弥の目にも女の子に見えた。
「じゃぁさ……。じゃぁナム、今度は俺と付き合わね?」
「は? ……」
あたしは何を言ってるのかと、じーっと涼弥の顔を見詰めた。そして俯いて弱々しく首を横に振った。
「ありがと。でもいいよ無理しなくても。あたし“友達”な彼氏は、もうたくさん。同情なんかで付き合われたくない。
だから涼弥も、明日にはここを出ていなくなるあたしなんかに、これ以上余分な気使わないでよ。もうアシでもないんだし」
あたしは俯いて、もういいよと、小さく手を上げた。
「マジだって」
「は?」
あたしは涼弥の顔をじーっと覗き込んだ。涼弥のいつもの胡散臭い笑顔に、あたしは眉を顰めた。あたしは今日まで、何度も涼弥に騙されている。
そー来るか。ふん、その手に乗るかって。あたしだって学習する。本気にしたバカな奴、と後で笑われるのは目に見えてる。そう思うと、あたしはムカついた。
「ふーん、マジね……。
大学行ったら涼弥、こうやって女子口説くんだ。でもあたし、その手の冗談に乗ってやる程、今暇じゃないんで」
あたしはすっかりルビーの瞳ごっごに冷めてしまい、コスプレ衣装を片付け始めた。
「だから、マジだって」
ムッカー! 未だゆーか! ブチ切れた。
「もーっ! 今日で最後だからって、いい加減止めてくんない? コスプレ頼んだのは確かにあたしだけどさ。
でもあたしは涼弥じゃないんだから、そーゆー性質の悪い冗談、簡単に乗ったり遇ったりなんか出来ないし。って出来なくていいし。
涼弥にとって“キスぐらい”でもあたしにとっては、凄く大切なもんなんだから。好きな人とじゃなきゃ、ヤなんだから。しかもあんなキス……。冗談でも、そんなの無理。
その上あたしの傷心に付け込んで、付き合うだ? 涼弥サイテー。その曲がり腐って捻じ切れた、トリプルアクセル着地失敗みたいな根性、なんとかしろって!
はぁ……。やっぱ涼弥も、女の敵なんだね」
なんて兄弟なんだろう。きっと雪弥だって、仕事でキスなんかしょっちゅうだろうし。錬弥だって、硬派ぶってるけど純情ぶってるけど、バレンタインにチョコ山程もらってたし。
兄弟揃って、寄って集ってあたしを玩具にしてるんだ。あたしは4兄弟に言ったお礼の言葉を、全部取り消したくなった。
「じゃぁね、涼弥サマ、大変お世話になりました。さいなら」
あたしは涼弥を一瞥し、クルッと背を向けドアに手を掛けた。
最後の最後で喧嘩別れなんて、とんでもない。涼弥は慌てた。
「ごめん、ナム」
涼弥は何に謝っているのか自分でも分からなかったが、ナムの機嫌を損ねた事にとりあえず謝罪した。そしてナムの腕を掴んで、背中から抱き寄せた。
「涼弥! いい加減にしろって!」
あたしは錬弥から教わった護身術で、涼弥の手を振り解こうとした。
「冗談なんかじゃないって。
はっきり言って俺は女は嫌いだ。うるさくてチャラチャラしてて軽薄で。だから興味も無い。ナム以外は」
最後の言葉は小さくて、あたしには聞こえなかった。
女が嫌い? 女に興味ない? ドキッとした。
それって、それって? ……。ど、ど、ど、どーゆー事? 訊きたいけど、怖くて訊けない。
涼弥って、女の子じゃなくて男が好きだって事? もしかして、アレ、なの? だから男子校だった、とか?
いや、やっぱ涼弥はあたしをからかっていただけでー。ってゆーか、あたしは涼弥にとって女じゃなくて、男みたいなもんで……。男?
「俺、本気だって。だからもう一回。いい?」
本気って何が? いいって何を? たとえあたしが女に見えなくても、色気も胸も括れも無くても、生理あるし子供だって生めるんだぞ! 男じゃないし!
涼弥の迫り来る強力な眼力に、あたしはたじろぎ、ごくんと生唾を呑み込んだ。それは奇しくも、うん、と頷いた格好になってしまった。でも、そんな事には気が付かない。あたしの頭は大パニック中だ。
女嫌いの涼弥が、あたしに付き合おう、とか言ったのは、涼弥にとってあたしは女じゃなくて……。イヤイヤ、あれは性質の悪い冗談で……。
そもそも、お互い恋愛対象じゃないから、そんな事絶対有り得無く、なくなく、なく……。でもひょっとして、あたしが男子だったら、アリだった?
「ちょっ……」
再び近付く涼弥の顔に……。あたしは、アドレナリン出捲くりの脳細胞に、ベッタベタにくっついて縺れた焼きソバ状態の脳神経回路で……。対処不能。誰かあたしにカルシウムくれー!
再び交わされた涼弥とのキス。その時、あたしの頭の中では“男”と“オカマ”と“ゲイ”の文字が、ぐるぐると駈け回っていた。
キスは神聖な儀式な筈のに……。好きな人としかしたくないのに……。失神寸前のあたしは、涼弥の腕の中で、がっくり崩れ落ちた。
「ナム? ナム、おいしっかりしろ」
何が何だか、あたしはさっぱり分からない。あたしはぼーっとした頭ですくっと立ち、ゾンビの様にフラフラと歩いて涼弥の部屋のドアに手を掛けた。
「リョウヤ、サマ、イママデ、タイヘン、オセワニ、ナリマシタ……」
ゴン。頭を下げたら何かにぶつかった。でもあたしは痛みを感じない。
バン。開けたつもりのドアに顔面衝突した。やっぱり痛みを感じない。あたしは、よろよろと涼弥の部屋を後にした。
ドン、ゴンゴンゴン、ドタン……。あたしは藤代家最後の晩に、階段とじゃれあい別れを惜しんだ。階段からの沢山の激励(痣)を受けたあたしは、腕か脚か背中か頭か、湿布を貼る候補地が多過ぎて、特定出来ない。
あたしは、声のトーンもテンションも最低だった。背中には、大きく“バカ”の白い文字。それでもあたし手には、しっかり“ルビーの瞳”のレイの短剣が握られていた。どんな状況でも、あたしに抜け目は無いらしい。
「大丈夫か、あいつ」
干乾びたスポンジの様だったナムの後ろ姿に、彼女の行動の謎は、涼弥には深まる一方だ。
それにしても、思わず口走ってしまった涼弥の言葉に対して、想定外のナムの反応に、彼自身もショックを受けていた。
ひょっとして俺、“あの”ナムに振られたのか?
頑固で一途で、そうそう意志も想いも変わらないナムに、涼弥は苦笑した。
もう直ぐ4月。とは言え、夜の寒さは半端ない。それでも藤代家の庭の桜の蕾は、少しずつ緩み咲き誇る時を静かに待っている。ずっと昔から、このお屋敷と家族を見続けてきた老木だ。
あたしは木の幹にそっと触れて、屋敷を護るように見詰める様に広く高く聳える桜を見上げた。
あなたは百年もの間、ずっと藤代家に立っていたんですよね。震災の時も、大奥様が生まれた時も、戦争の時も、旦那様が生まれた時も、奥様がお嫁に来た時、4兄弟の成長……。あなたは藤代家で起きた、色んなドラマを、たった独りでずっと見続けて来たんですね。
あなたは……、あたしの事も覚えて於いてくれますか? あたしはコツンと、桜の幹におでこを着けた。
あたしは藤代家に1年もいなかった。だから藤代家の歴史に記される事はないけれど、あなたの百を超える年輪には、どうかあたしも刻まれています様に……。
ちょっとでいいですから。ね。あたしは小首を傾げて、桜を見上げた。
それと、これからもこの家族を、この先生まれて来る藤代家の子孫達を、ずーっとずーっと見守り続けて下さい。
外気はかなり低い筈なのに、桜の幹に触れた手に、少しだけ温かさを覚えた。
蕾は未だ固くても、暖かくなれば一気に咲き乱れそうな桜の花達。その見事な艶姿を、あたしは見た事はない。だからと言って、4兄弟にも妖婆にも、引越して1ヶ月も経たない内に再び顔を合わせたくはない。それでも……。それでもこの桜が満開になったら、藤代家に花見に来てもいいかな、と思った。
あたしは屋敷を1周した。蔦の這う煉瓦塀を、指先で触れながらゆっくり歩いた。塀を這う蔦に阻まれて、時々手を離し再び煉瓦に触れる。その度に、指先に冷んやりした感触が伝わった。あたしはそのまま壁を伝って、塀に沿ってぐるっと回った。
このお屋敷も桜と一緒で、大奥様が生まれる前から有るんだよね。淡い月の光に照らされると、まるで映画に出てくる中世のお城の様だ。それか……ホラー映画。
10ヶ月、長かった様な短かった様な。でも色々あった。成長期の錬弥と雪弥は、この10ヶ月で、身体だけじゃなく心も成長したみたいだ。あたしもまだ、一様成長期。藤代家に来てから、少しは大人になったのかな。
ナム自身に余り変化はなかったが、家族は彼女に巻き込まれ、激変した。
あたし、この屋敷に来てよかったんだろうか。皆に迷惑掛けっ放しだったし。でもきっと、あたしのお給料分位は、役に立ったよね? でも……。
ナムは、かなりの数の、モノを破壊した。皿茶碗は勿論、花瓶置物、時計に壁に物干し竿。かなり丈夫な太郎の小屋も、一部破損していた。その被害額は、換算出来ない。
それでも、笑い声の絶えない屋敷になったのは、きっとあたしのお陰だ。でも断じてそれは、あたしに芸人の素質かあるって事じゃない!
あたしが藤代家に来た当初は、どうなる事かと冷や冷やした。障子の隅の埃までねちねち、いや丁寧にご指導下さった大奥様。救世主だった筈のご夫妻は、忙しくていつも留守。雪弥は最初から悪戯全開で、涼弥と錬弥には無視された。静弥さんの甘ったるい声には総毛立った。でも今はちょっとだけ、皆の心に触れる事が出来たって思ってる。
それに、大木家が夜逃げせず、あたしがそれまで通りの暮らしをしていたら、絶対に会う事のない色んな人達と出合った。話しも出来た。
高級住宅地に住むご近所さんは勿論、芸能人や小学生、編集社の人、空手の先生に、ピアノの先生……。旦那様、奥様、大奥様、皆ありがとう。
「太郎、あんたはあたしの言う事、ちっとも聞いてくれなかったね。でも、いつかはあたしの愚痴を聞いてくれて、ありがとね」
壁伝いに歩いていたあたしは、太郎の前で立ち止まって、相変わらず無反応の太郎の首を、両手でわさわさと摩った。
あたしは、屋敷を一周して部屋に戻った。
あたしは照明も点けず、壁際にダンボールが積まれただけの、ガランとした部屋を眺めた。カーテンの無い窓からの月明かりは、細長くなって畳を照らし、壁で折り曲がっている。
元々あたしの荷物は少なかったが、その少ない荷物も無いとなると、四畳半の和室も押入れもかなり広く大きく感じる。この部屋って、こんなに広かったっけ……。
ポスターも綺麗に剥がした。部屋の掃除もした。それでも、壁に画鋲の痕は残っていた。月明かりでも分かる、その画鋲の痕に手を伸ばして、あたしは目を瞑った。
使っていた布団とコタツ布団は、昼間外に干して埃を叩き、押入れに仕舞った。シーツやカバー類は、洗濯して糊付けし、丁寧にアイロン掛けもして綺麗に畳んだ。
押入れに仕舞ってある、綺麗に畳まれ片付けられた寝具達……。
って……? しまったぁ! あたし、今夜どうやって寝よう。
皆が寝静まった深夜2時、あたしはこっそりリビングへ行って、一人掛けのソファに手を掛けた。うーん、重い。廊下に運び出す所か、ビクともしない。……ムリ。
仕方ない。最終手段だ。あたしはダンボールと新聞紙を、部屋に持ち帰った。
わーい、ホームレスごっこだぁ! って、ここに来てそれかよ。元々ホームレスだったあたしは、夜逃げ当初、お父さんとお母さんはどうやって暮らしていたのかと、今更ながらそんな事を考えた。
ダンボールって、意外と柔らかくて暖かくて寝心地良くて、超感動した。あたしは、駅や公園で寝ているホームレスの気持ちが、ほんの少し分かった気がする。でも……。今はもっと違う気分に浸りたい。
翌朝、予想通りダンボールは千切れてボロボロ、新聞紙は破れてビリビリだった。あたしは又、部屋の掃除をした。
あたしはいつも通り、5時に台所に立った。大奥様は、もうしなくてもいい、と言ってくれたが、あたしは最後まで家政婦としての仕事は、きっちりさせてもらう。
いつも通りの家事一般。朝食の仕度、朝の掃除、太郎の散歩、洗濯……。
皆の食事を見届け終えて、最後の食器の片付け……。これで、あたしの10ヶ月に渡る藤代家へのご奉公も終わりだ。そう思うと、嬉しさ半分寂しさ半分だった。
あたしは食器を拭きながら、大奥様をチラッと見た。大奥様は普段通り、黙って無表情で卒なく仕事を片付けている。10ヶ月間も大奥様と寝食を共にした筈のあたし。でも大奥様の表情も妖怪の行動も、最後まで読めない。
あたしは自前のエプロンをゆっくり外し、丁寧に畳んだ。
仕事を終えた頃、お父さんが軽トラであたしを迎えに来てくれた。お父さんは、玄関に出て来た大奥様に丁寧にお礼を言い、そこに積んであったナムの荷物を、次々と荷台に積んだ。
奥様は、もう仕事に出掛けてしまったが、涼弥と錬弥と太郎があたしを見送りに出て来た。雪弥の姿は、そこにはない。
昨日の今日で、あたしもちょっと気拙かったから、きっと雪弥もそうなんだろう。その辺は、錬弥と涼弥とは違うらしい。錬弥と涼弥は、昨夜何事も無かったかの様に、荷物運びを手伝ってくれた。
荷物を積み終えて、あたしは寝そべっている太郎の頭を撫でた。
「太郎も元気でね。まだまだ長生きしてね」
太郎はちょっと頭を擡げて、やる気無さ気に尻尾を振った。
あたしは、見送りに出てくれた3人に向き合った。
「今日まで大変お世話になりました。ありがとうございました。楽しかったです」
あたしは、とびきりの笑顔を作った。そうしてお屋敷の鍵を、大奥様に手渡した。
大奥様は、あたしのその手をぎゅっと握った。その時、大奥様の無表情な瞳が、一瞬寂しそうに光った。
あたしは、大奥様の気持ちが今始めて分かった様な気がした。あたしに、意地悪してたんじゃなかったって。
「ナムさん、いつでも戻って来なさい」
それだけは勘弁。
あたしは父の軽トラの助手席に乗り込んで、見送ってくれた皆に手を振った。車が走り出すと、あたしは窓から身を乗り出して、手を大きく振った。道を曲がってお屋敷が見えなくなっても、あたしは未だずっと手を振り続けた。
千切れんばかりに手を振るあたし……。風に靡く髪……。あたしの頬に一筋の涙……。
ありがとう。そしてさようなら―、ら―、ら―…(エコー)
さようならー、あたしの青春ー……。いや未だ終わってない。皆ぁ――、又会う日までぇ――。
青春映画の、感動のラスト・シーン。そしてエンド・ロール。あたしは美少女のヒロインで、カメラがぐっとあたしに寄る。
過積載でトロトロ走る軽トラは、幹線道路の渋滞に揉まれながら、排ガスとクラクションとサイレン音に塗れて、去って行く……。
~The End~
ナムの痕跡が無くなった部屋で、一人雪弥が膝を抱えて、声を殺して泣いていた。主の去った部屋の真ん中に、綺麗に掃除された炬燵テーブルと、ピカピカになった扇風機が、ぽつんと置いてあった。
押入れには、ナムが使っていた布団と座布団と枕。四畳半しかない和室なのに、とても広い。
涼弥は雪弥が一人でいるのを見つけて、雪弥の隣に同じ様に座った。雪弥の頭を、クシャクシャ撫でた。
「兄貴みたいに、遠くへ行ったんじゃない。いつでも会えるさ。ナムがここに遊びに来ても、あんまり意地悪するなよ」
「やだ、絶対なんか仕掛けてやる!」
しゃくりあげながら、雪弥が叫んだ。
涼弥は、綺麗に掃除された部屋を見回した。ポスターの画鋲の痕が、やたら目立つ。昨日までそこに貼ってあった、ルビーの瞳の特大ポスターを思い出した。涼弥は、この部屋での珍事件を思い出して苦笑した。
いつもは耳に届かない、サワサワと流れる風の音が、その部屋にやけに大きく木霊した。
「又すぐ会えるさ」
涼弥は、雪弥の頭を撫ぜながら小さく呟いた。
数時間後、ナムが藤代家に戻って来た。
「マジで直ぐ会えた」
何となく玄関先をブラブラしていた雪弥は、軽トラで戻って来たナムに唖然とした。
それにしても早過ぎだ。忘れ物か?
ナムは、呆気に取られている雪弥を無視して、バタバタと屋敷に入って行った。
「大奥様っ! いらっしゃいますか? ナムです! 大切な、大切なお話がっ!」
あたしは玄関先で、大奥様がどこの部屋に居ても聞こえる様に、屋敷中に響く大声で叫んだ。
「なんです?」
大奥様が、テロにでも遭遇したような、尋常ではないあたしの金切り声に、慌てて飛び出して来た。
「まぁナムさん。一体どうしたの? 忘れ物?」
あたしは髪を振り乱し、肩で息をし、神妙な面持ちで突然玄関に正座した。ナムの叫び声で、涼弥と錬弥も玄関先にやって来た。ナムの後を付いて来た雪弥が、玄関先で立ち止まって呆れている。
ナムの奴、最後の最後で又何をやらかしたんだ? 軽トラが事故にでもあったのか?
「大奥様っ! 大変、大変、た――いへん申し上げ難い事なのですがー、是非、是非、聞き届けて頂きたいお願い事が有りましてー、あのー、その―……。
とにかくあたし、再び藤代家に参上致しましたっ」
あたしはお殿様でも拝むように両手を挙げ、ははぁ、と大袈裟に頭を下げた。額もピタリと玄関にくっ付けた。
ナムのどんな奇妙な行動に対しても、決して驚く事の無かった大奥様も、これにはさすがに唖然とした。
「何事ですか?」
あたしは額に砂粒を着けて、顔を上げた。
「大奥様。話せば長くなるんですが……」
と言っても、ほんの2~3時間の間の出来事だ。
「あたし、大学の寮に行きましてー、もう手続きも済ませてあったしー、既に荷物も部屋に運び込んだんですが―……」
「どうしたの? 何かあったんですか?」
あたしは、真実をを追究しようとする大奥様の目から、視線を逸らせてあっちこっちと目を泳がせた。
「えっと……。学生寮には諸事情? とかゆーのが有りましてぇ……。あたしの入寮はぁ……。その、拒否られたってゆーかぁー」
「拒否?」
あたしは大奥様の顔を見て、ブンブンと首を振った。
「いえ、あたしは全然全くちっとも気にしないのですがー、寮長とかー、同室の子がー、ってゆーか―……」
あたしの声は、段々尻窄みになって、頭も徐々に下がっていった。
「同室の子? 何で又……。ナムさんあなた、入寮早々何かとんでもない問題でも、起こしたの? 寮長さんと喧嘩したとか、小火騒ぎを起こしたとか寮を破壊したとか」
ナムだったら有り得る、と、そこにいた3兄弟達は思った。
「いいえっ! そうじゃないんですけど……。
一応、入寮基準、とかがあるらしくて、あたしはその基準に満たない、とか突然言われてしまって。今更、ですよね。あんまりだし……。
名前、あたしの菜夢って言う名前、女の子らしいと思うんですけどー、なんだか勘違いとか手違いとかあったらしくて……。
失礼ですよね。どこから見ても誰が見ても、あたしは可愛い女の子なのに。事前に寮迄行って、寮長さんと面接までしたのに。なんだかなぁ……」
あたしは、なんだかんだといいワケがましく説明した。
「だから、なんなのです?」
大奥様もうんざりし始めた。
「はい、あたしが入ろうと思って申し込みした寮って、手続きした寮って、実はその、えっとぉ……」
あたしは玄関の床の御影石を、指先でモジモジ擦った。
「はっきりおっしゃい!」
「はいっ」
あたしは大奥様に渇を入れられて、顎を引き姿勢をピッと正した。
「……寮」
あたしは上目使いで大奥様を見ながら、ボソボソ答えた。
「え? 聞こえません!」
「…子寮」
「え?」
「男子寮! あたしが申し込みした学生寮って、男子学生専用だったんです!」
大奥様が、目玉が落ちそうな位目を瞠って硬直した。横で聞いていた涼弥達は、一瞬驚いて顔を見合わせ、直ぐに腹を抱えてその場で転げ回った。
その様子に、あたしはガクッと項垂れた。
あたし、なんでこんな事になったんだろ……。きっと藤代家の呪いだ。
夜になり、ちゃっかりお出迎えするナムを見て、夫妻は仰天した。笑われながらも、あたしは再び藤代家の皆に暖かく迎え入れられた。
あたしの部屋は……。ポスターの位置もカレンダーの位置も、押入れの中の状況も、そっくりそのまま元の通りだった。
「後1年。後1年だけ、お世話になります。絶対1年だけですからねっ」
あたしは、何度も何度も念を押した。でも、なんだか来年も、同じ運命が待っているような気がしたのは、あたし本人だけではなかった様だ。
はぁ~、静弥さんに、何て説明しよう……。
こうして、ナムの藤代家での災難、いや活躍は、まだまだ続くのである。
乱脈乱文、支離滅裂、誤字脱字、呆れずお付き合い頂いた読者様に感謝です。
長い間、ありがとうございました。
もし、リクエストがあれば、続編を、書くかも……。




