第8話 共犯者になりませんか
合同地脈視察の申請は、驚くほど早く通った。正確には、通さざるを得なかった、という方が近い。
「フェンリシア東部の地脈低下中心と、レグリア国境高原の旧地脈施設が一致する可能性あり」
フィーネは朝食の席で、昨日作った申請書の写しを読み返していた。その下には、王室記録庫で確認した河川・結界予算の増額。治療院で得た、聖冠系統の魔力供給変動。フェンリシア使節団の測定値。三種類の資料が添付されている。
「お嬢様」
「何ですか」
「パンを食べてください」
「読んでいます」
「目で申請書を、口で朝食を。両立できます」
「できません」
「では申請書を置いてください」
セリアが焼いたパンを皿へ追加した。
「昨日も夕食が遅かったでしょう」
「記録庫を出た時間を考えれば仕方ありません」
「はいはい、合理的ですね。では合理的に食べてください」
フィーネは黙ってパンを取った。勝てない。こういう時のセリアには。
「それで」
セリアが紅茶を注ぐ。
「本当に行かれるのですね」
「ええ」
「国境高原」
「正式な視察です」
「昨夜まで、お嬢様の口から一度も聞いたことのない言葉ですね」
「何がです」
「正式」
「失礼ですね」
「褒めています」
「どこがですか」
フィーネは申請書を畳んだ。昨日までなら。夜に出る。供を減らす。必要なら身分を隠す。そうして七年間、四つの環を直した。誰にも知られないことが、一番の安全だと思っていた。けれど今回は違う。フェンリシア第一王女がいる。国境を跨ぐ異常がある。隠れて動けば、発覚した時にそれ自体が外交問題になる。
だから、正面から申請した。レグリア王室評議会。国境管理局。フェンリシア使節団。三者の印を揃えて。
「出発は正午です」
「荷物は?」
「最低限で」
「却下です」
「なぜ」
「高原へ行くのに最低限という言葉を使う人は、たいてい必要な物を忘れます」
「私は忘れません」
「では、包帯」
「あります」
「予備の触媒」
「あります」
「防寒具」
「あります」
「食料」
「現地で」
「はい、忘れています」
「......」
セリアが勝ち誇った顔をした。
「お嬢様は術式のことになると、食事を設備扱いしないので」
「設備ではありません」
「だから忘れるんです」
言い返せなかった。セリアは満足そうに頷く。
「今回は私も行きます」
「危険ですよ」
「存じています」
「古代術式が残っている可能性があります」
「存じています」
「では」
「お嬢様が一人で行くより安全です」
即答だった。フィーネは少し黙った。セリアは、十七歳の頃から、夜間外出の衣装を用意し、馬車を手配し、帰宅時間を誤魔化し、何も聞かずに、必要なものだけを置いてきた。
「......分かりました」
「はい」
「ただし、危険なら下がってください」
「それはお嬢様にも適用されます」
「私は作業者です」
「私は侍女です」
「理由になっていません」
「お互い様ですね」
セリアは笑った。
◇
正午。王宮北門の前には、フェンリシアの紋章をつけた馬車と騎馬が待っていた。大きな一団ではない。外交使節団の本隊は王都に残る。向かうのは、ユーフェミア。ナディア。フェンリシア側の測量具を積んだ荷馬車。レグリア側からはフィーネとセリア。それに国境管理局の文官二人と護衛数名だけ。あくまで。
合同地脈視察。表向きは。
「遅い」
ユーフェミアが言った。濃青緑の軍装。腰には長剣。赤金色の狐耳が、陽射しを受けて少し明るく見える。
「集合時刻の5分前です」
フィーネは答えた。
「私は10分前に来た」
「殿下の勝手です」
「ユーフェミア殿下」
「......」
「昨日決めただろう」
「決めていません」
「呼んだ」
「一度だけです」
「なら二度目だ」
フィーネは無視した。ナディアが隣で小さくため息をつく。
「殿下」
「何だ」
「出発前から他国の伯爵令嬢を困らせないでください」
「困っているのか」
ユーフェミアがフィーネを見る。
「いいえ」
「なら問題ない」
「お嬢様」
今度はセリアだった。
「顔は変わっていませんが、耳飾りを触っていますよ」
フィーネの手が止まった。左耳。銀の耳飾り。
「癖です」
「存じています」
最悪だ。味方が二人いると、逃げ道が減る。
「行くぞ」
ユーフェミアが馬へ乗る。
「フィーネ」
「......はい」
返事をしてから、少しだけ後悔した。
◇
王都から国境高原までは、まっすぐ進んでも数日かかる。最初の二日は、ルーネ川沿いの街道を北東へ進んだ。肥沃な平原。水車。麦畑。葡萄畑。王都から離れるほど、聖堂の尖塔は小さくなり。代わりに、地面に立つ結界石が増えていった。農地を魔獣から守るもの、水路の凍結を防ぐもの、夜間の街道灯へ魔力を供給するもの。
どれも、少しずつ弱っている。
「三年前より暗いな」
夕方。街道脇の宿場で、ユーフェミアが結界灯を見上げた。
「以前ここを?」
「国境会談で一度」
「よく覚えていますね」
「暗かった場所は覚える」
「なぜ」
「護衛配置に関わる」
フィーネは納得した。王女。次期女王。観光客ではない。景色を見る時も、たぶん、守る場所として見ている。
「お嬢様」
セリアが宿場の小さな管理所から戻ってきた。
「少々よろしいですか」
「何ですか」
「結界管理の方が、お礼を申し上げたいそうです」
「私に?」
「はい」
嫌な予感がした。管理所から出てきたのは、五十代ほどの男だった。作業着。日に焼けた顔。帽子を胸に抱えている。
「ラグランジュ様」
深く頭を下げた。
「昨冬は、本当にありがとうございました」
「......何のことでしょう」
「北側水路の結界石です。あれが割れた時、交換用の魔晶石代を」
「人違いです」
「ですが、こちらの侍女さんが」
男の視線がセリアへ向く。セリアが、珍しく。目を逸らした。
「セリア」
「申し訳ございません」
「何をしたのです」
「去年、代理で支払い手続きを」
「匿名でと言いましたよね」
「匿名でした」
男が困った顔をする。
「その......送り主のお名前は聞いておりません。ただ、王都から来られたこの方を覚えておりまして」
セリアを見る。
「本日ご一緒でしたので」
「......」
完全な事故だった。フィーネは小さく息を吐く。
「礼は不要です」
「ですが」
「交換が必要だったから交換した。それだけです」
「おかげで冬の水路が止まらずに済みました」
「なら結構です」
男はもう一度深く頭を下げた。去っていく。沈黙。フィーネは振り返らなかった。見なくても分かる。ユーフェミアがいる。
「何ですか」
「何も言っていない」
「顔が言っています」
「お前にそれを言われるとは思わなかった」
「何が言いたいのです」
「慈善嫌い」
「......」
「地方の結界修理費を匿名で出す慈善嫌い」
「投資です」
「何への」
「水路が止まれば作物が減ります」
「それで?」
「穀物価格が上がります」
「それで?」
「ラグランジュ家は製粉と河川交易に出資しています」
「つまり」
「後で穀物価格が上がると困るだけです」
ユーフェミアが黙った。ナディアまで黙った。セリアは口元を押さえている。
「何ですか」
「いや」
ユーフェミアの耳が、ほんの少しだけ立った。
「分かりやすいなと思っただけだ」
「何がです」
「お前が」
「意味が分かりません」
「そうか」
短い。それ以上言わない。腹が立つ。なのに、なぜか。昨日より不快ではなかった。
◇
四日目の午後。一行は国境都市ベルネスを抜け、高原へ入った。空気が変わる。平原の柔らかい風ではない。岩肌を削る、乾いた風。背の低い草。灰色の石。遠くに針葉樹の帯。その向こうがフェンリシア領だった。国境線そのものに壁はない。石標が一定間隔で並ぶだけ。大地の下を流れるものにとって、人間が引いた線など。
最初から意味はない。
「旧監視塔」
ユーフェミアが前方を指した。崩れた石塔が見える。第五環の位置を割り出す基準点。
「ここから北北東」
「岩峰が三本」
フィーネが答える。
「見えるか」
「二本だけです」
「三本目は重なっている」
ユーフェミアが馬を少し横へずらした。角度が変わる。奥にもう一本。細い岩峰が現れた。
「......本当に地図読みが得意なのですね」
「疑っていたのか」
「王女殿下の自己申告を無条件で信じるほど素直ではありません」
「私もお前の噂を信じなかった」
「それとこれとは別です」
「そうか」
一行は馬を降りた。ここから先は足場が悪い。荷物を分ける。測量具。触媒。小型魔晶石。刻印針。水。ロープ。セリアがフィーネの鞄へ食料まで押し込もうとする。
「作業中に食べません」
「終わった後です」
「重いです」
「殿下」
セリアがユーフェミアを見る。
「これを」
「ああ」
ユーフェミアが受け取った。
「なぜ殿下に渡すのです」
「お嬢様より体力がありますので」
「正しい」
「ユーフェミア殿下まで」
「事実だ」
反論できない。さらに腹が立つ。ナディアが地面へ測量棒を刺した。
「殿下。遊んでいるなら置いていきますよ」
「遊んでいない」
「では働いてください」
「ああ」
王女への扱いが雑だ。少し羨ましいと思った自分に、フィーネは気づかないふりをした。
◇
三本の岩峰に囲まれた窪地は、地図で見るより広かった。中央には、何もない。少なくとも、普通に見れば。
「ここです」
フィーネはしゃがみ込んだ。土へ指を近づける。触れない。まず。感じる。流れ。方向。残っている魔力の癖。甘い。苦い。鉄のような冷たさ。言葉にすればそうなる。けれど実際は匂いではない。大地の下を走る魔力が、どちらへ引かれているか。どこで擦れているか。どこに古い術式が残っているか。それが感覚として重なる。
「強い」
「何が」
ユーフェミアが隣へ来る。
「王都へ向かう引きです」
「前の祠より?」
「比べものになりません」
フィーネは地面を見た。
「ここは支点ではない」
一度。息を吸う。
「環そのものです」
セリアの顔から軽さが消えた。ナディアも周囲を見る。
「掘るのですか」
「少しだけ」
フィーネは古地図と現地を照合する。三本の岩峰。旧監視塔。地下水の流れ。日没時の影。四つの基準を合わせる。
「ここ」
地面へ印をつけた。護衛が表土を慎重に除ける。土。砂利。古い石。さらに、半刻ほどして、円弧が現れた。黒い石。人の腕より幅がある。地面の下へ埋め込まれた古い環。表面には、削れた溝が何本も走っている。
「これが」
ユーフェミアが言う。
「七つの一つか」
フィーネは少し迷った。最初に地図を見せた時は、七つの全体構造を消した地図しか見せなかった。昨日。残り三環の一つだと口にした。ここまで来たなら。もう、
「はい」
答えた。
「古い《七環返路》の一つです」
「七環」
「大地へ偏った魔力を返すための環路。少なくとも、母の資料にはそう残っていました」
母。また言った。今度は、前ほど喉に引っかからなかった。
「今は逆になっている?」
「ええ」
フィーネは溝へ触れない距離で指をなぞる。
「王都へ集める向きに改変されています」
「直せるのか」
「直します」
「質問への答えになっていない」
「七年間、それでやってきました」
「今は一人ではない」
静かな声だった。フィーネは顔を上げる。琥珀色の目。まっすぐ。
「できるか」
もう一度。聞かれた。フィーネは環を見る。
「......分かりません」
初めて、そう答えた。
◇
問題はすぐに見つかった。
「周期が合わない」
フィーネは膝をつき、三本目の測定針を見た。揺れる。止まる。また揺れる。
「壊れている?」
セリアが聞く。
「器具は正常です」
「では」
「流れそのものが二つあります」
レグリア側から王都へ引かれる流れ。フェンリシア側から国境へ押し戻される流れ。二つが、この環でぶつかっている。今まで修復した四環にはなかった状態だった。フィーネは刻印紙へ数字を書く。一周期。二周期。三周期。揃わない。
「このまま触媒を置けば?」
ユーフェミアが聞く。
「最悪、両方へ跳ね返ります」
「範囲は」
「分かりません」
「国境都市まで?」
「可能性はあります」
ナディアの耳がぴくりと動いた。
「では中止を提案します」
即座だった。
「情報を持ち帰り、専門家を増やして再調査するべきです」
正しい。フィーネもそう思う。けれど、
「待て」
ユーフェミアが測量図を広げた。
「二つの流れと言ったな」
「ええ」
「レグリア側しか測っていないから、周期がずれて見えている可能性は?」
フィーネの手が止まる。
「......」
「フェンリシア側の観測点は、ここから北東へ、馬で一時間もかからない」
ユーフェミアが指す。
「本国から持ってきた測定記録は、向こう側の値だ」
ナディアも地図を覗く。
「同期時刻は揃っています」
「出せ」
「はい」
帳面が開かれる。時刻。出力。波形。地脈圧。フィーネは自分の記録と並べた。違う、いや。
「違わない」
「どっちだ」
「周期は同じです」
フィーネの指が数字を追う。
「位相がずれている」
「分かるように言え」
「こちらが上がる時、向こうが下がる」
「押し合っている?」
「違います」
一枚。紙を重ねる。
「受け渡しているんです」
その瞬間。母の楽譜の一節が頭に浮かんだ。二つの音。片方が上がる時、片方が下がる。交互に、同じ旋律を渡す。
「そういうこと」
「何が」
「この環は、一国の中だけで完結する構造ではありません」
フィーネは顔を上げる。
「両側の流れを読まないと、起動周期が分からない」
「つまり」
ユーフェミアが言う。
「お前一人では直せなかった」
その言い方に、少しだけ腹が立った。けれど、否定できない。
「......そうですね」
「珍しい」
「何がです」
「素直だ」
「今すぐ帰ってもいいですよ」
「断る」
ユーフェミアの耳が、ほんの少し立つ。楽しんでいる。たぶん、
「修復手順を言え」
「まず、フェンリシア側の周期を基準にします」
「私が読む」
「できますか」
「地図と測定値なら」
「では」
フィーネは一瞬迷って、測定板を渡した。
「お願いします」
ユーフェミアが受け取る。それだけの動作が、妙に重く感じた。七年間。自分の道具を、自分の作業を、誰かへ任せたことがなかった。




