第7話 帳簿は奇跡を語らない
王室記録庫の公開閲覧室で、ユーフェミアは先に待っていた。長机の上には、すでに三冊の帳簿と地図筒が並んでいる。
「遅かったな」
「女王陛下に呼ばれていました」
「知っている」
フィーネが足を止める。
「なぜ」
「王宮内で外国使節が何も知らないと思うな」
「それはそうですが」
ユーフェミアの視線が、フィーネの左手へ落ちた。一瞬だけ。
「何ですか」
「別に」
「その返事は」
言いかけて、やめた。今は自分が言える立場ではない。
「座れ」
「命令しないでください」
「座ってくれ」
「最初からそう言ってください」
フィーネが椅子を引く。その前へ、湯気の立つカップが置かれた。
「......これは」
「茶だ」
「見れば分かります」
「なら聞くな」
「なぜ私の前に?」
「余っていた」
机の上を見る。ユーフェミアのカップは一つ。予備の茶器はない。
「余っていませんね」
「細かい」
「事実です」
ユーフェミアは何も聞かなかった。女王と何を話した。なぜ手が震えている。何を言われた。一つも、聞かなかった。ただ、温かい茶だけを置いた。フィーネはカップへ手を添える。熱が指先に戻ってくる。
「......ありがとうございます」
「ああ」
短い。それでよかった。
「始めるぞ」
「はい」
机の上にあるのは、ルーネ川の河川管理記録。地方結界の維持予算。王室評議会が公開している過去10年分の歳出概要。昨日。二国の地図を重ねたことで、国境高原の古い円環記号と地脈異常の中心が一致した。今日は、それが偶然ではないと示す材料を探す。
「まず河川」
ユーフェミアが帳簿を開く。
「3年前から、上流域の補修費が増えている」
「ええ」
フィーネも別の紙を並べる。
「ですが、大規模な堤防工事は増えていません」
「何に使った」
「井戸の掘り直し。小水路の補修。地方結界への魔晶石追加」
「対症療法ばかりだな」
「原因が地脈低下だと認めていなければ、そうなります」
数字を追う。支出は増えている。それでも、水位低下は止まっていない。結界の不調報告も減っていない。むしろ、少しずつ範囲が広がっている。
「ここ」
ユーフェミアが指を置く。
「2年前から北鉱山方面の魔晶石購入量が増えている」
「北鉱山環は」
言ってから、フィーネは止まった。ユーフェミアが顔を上げる。
「北鉱山、何だ」
「......何でもありません」
「フィーネ」
フィーネの動きが止まる。今。何と呼ばれた。
「何ですか」
「今の続きを言え」
「その前に」
「何だ」
「いつから名前で呼ぶことになったのです」
ユーフェミアが少し考える。
「今」
「勝手ですね」
「嫌か」
即答できなかった。嫌なら。戻せと言えばいい。ラグランジュ嬢。その方が正しい。外国王女と伯爵令嬢。仕事上の距離としては。
「......仕事中だけなら」
「分かった」
「本当に分かりましたか」
「フィーネ」
「わざとですね」
「ああ」
腹が立つ。不思議と、先ほどまでより呼吸は楽だった。
「北鉱山は、私が以前から調べていた場所です」
「直した四つのうちの一つか」
フィーネはユーフェミアを見る。
「......そこまで言っていません」
「昨日、四つ直したと言った」
「場所までは」
「今言った」
「性格が悪い」
「知っている」
四度目だ。もう数える気にもならない。
「北鉱山環を直した時期と、この支出増加の時期が近い」
ユーフェミアが数字へ戻る。
「修復したのに、支出が増えた?」
「逆です」
フィーネは頁をめくる。
「修復前に急増しています。修復した翌年から、増加幅が小さくなっている」
ユーフェミアの目が細くなる。
「つまり」
「環を戻したことで、悪化が少し緩んだ可能性があります」
「証明できるか」
「まだ」
「なら記録を増やす」
「簡単に言いますね」
「簡単ではない。だが、それしかない」
その時。
「それで正しいでしょう」
低い男の声がした。二人が顔を上げる。五十代ほどの男が、数冊の帳簿を抱えて立っていた。服装は上質だが、装飾は少ない。王族らしい華やかさより、役人らしい実務の匂いが強い。
「失礼」
男は帳簿を机へ置いた。
「レオナール・レグリア。王室評議会副議長です。河川と交易を担当しています」
レグリア。王族傍系。フィーネも顔と名前は知っていた。
「カーデン公」
「公爵呼びは不要です。ここでは記録庫の担当官として来ました」
レオナールはユーフェミアへ礼を取る。
「フェンリシア第一王女殿下。提出いただいた地脈測定値は受理しました」
「早いな」
「記録は早い方がいい」
次にフィーネを見る。
「ラグランジュ嬢。あなたの閲覧申請も確認しました」
「問題がありましたか」
「いいえ。公開区画の範囲です」
あまりにも普通の返答だった。レオナールは二人が広げた帳簿を見る。
「何か見つかりましたか」
ユーフェミアが答える。
「支出の増加と地脈出力低下の時期が近い」
「それは疑惑です」
即座だった。ユーフェミアの眉がわずかに動く。レオナールは気にしない。
「疑うことは自由です。しかし、議会も裁判所も疑惑では動きません」
「では?」
「証拠に変えましょう」
淡々と、帳簿を一冊開く。
「河川予算だけでは弱い。結界維持費、魔晶石購入量、治療院への供給記録を同じ年度で並べる。地域別に見れば、地脈低下との相関が出るかもしれない」
フィーネは男を見る。
「協力していただけるのですか」
「誤解しないでください」
「はい」
「私はあなた方の味方ではありません」
予想通りの言葉だった。
「王室予算に不自然な動きがあるなら、担当者として確認するだけです」
「十分です」
「それと」
レオナールは申請書を指で叩いた。
「見つけたことは、必ず記録に残してください」
「危険な内容でも?」
「危険だからです」
静かな声だった。
「口頭の疑惑は、言った言わないで消える。記録は残る」
レオナールはそれ以上、格好いいことを言わなかった。
「治療院の公開記録なら、こちらの紹介状で閲覧できます。聖庁の古文書は別権限ですから、必要なら先方へ正式申請を」
書類を一枚差し出す。
「ありがとうございます」
「礼は不要です」
レオナールは本当にそう思っているらしい。
「仕事ですので」
そのまま別の机へ向かっていった。ユーフェミアが背中を見る。
「面白い男だな」
「どこがですか」
「王族なのに、私を一度も持ち上げなかった」
「そこですか」
「ああ」
「あなたはもう少し持ち上げられる努力をしてもいいと思います」
「必要か?」
「少しは」
「面倒だ」
「でしょうね」
◇
聖庁の治療院は、大聖堂ほど華やかではなかった。白い壁。薬草の匂い。廊下を行き交う神官と治療師。泣く子供。薬を運ぶ見習い。そこには、奉納式で見たような大きな奇跡はなかった。代わりに、小さな治癒魔法を、何度も使う人たちがいた。
「次の方、どうぞ」
若い神官が老人の手へ光を当てている。淡い金色。普通の治癒術だ。傷を消すほどのものではない。炎症を抑え、痛みを和らげる程度。それでも老人は何度も頭を下げた。
「無理に動かさないでくださいね。薬も三日分出します」
神官が顔を上げる。二十四歳ほど。柔らかな茶色の髪を後ろでまとめている。
「お待たせしました。エルマ・ロシェです」
レオナールの紹介状を見せると、彼女は少し驚いた顔をした。
「王女殿下とラグランジュ様が、治療記録を?」
「患者の個人情報は不要だ」
ユーフェミアが言う。
「年度ごとの魔力供給量と魔晶石使用量だけ見たい」
「それでしたら」
エルマは頷く。
「私の記録でよければ」
「あなたの?」
「はい」
案内された小部屋には、帳簿が積まれていた。棚にも、机にも、箱にも。
「......多いな」
ユーフェミアが言った。エルマは少し恥ずかしそうに笑う。
「記録を取るのが好きで」
「好きで済む量ではありませんね」
フィーネが一冊開く。患者数。症状。術式使用回数。魔晶石消費。聖冠補助系統から供給された魔力量。細かい。異常なほど細かい。
「祈ります。でも、記録も取ります」
エルマが言った。
「治ったなら嬉しい。でも、どうして治ったか分からなければ、次の人に同じことができませんから」
フィーネは頁をめくる手を止めた。
「この記録、過去の大規模奇跡の日もありますか」
「あります」
「見せてください」
エルマが別の棚から数冊持ってくる。
「少し変なんです」
「何が」
ユーフェミアが聞く。
「大きな奇跡の前後だけ、聖冠系統の供給が安定しないんです」
フィーネとユーフェミアが同時に顔を上げた。
「詳しく」
「前日から少し落ちます。当日は、儀式の時間に合わせたように急に上がる。その後、二日か三日ほど揺れるんです」
エルマは数字を指す。
「最初は儀式の準備だと思っていました」
「今は?」
「今も、その可能性はあると思っています」
エルマは迷わなかった。
「聖女女王陛下の奇跡を疑っているわけではありません」
フィーネは彼女を見る。信じている。本気で。
「ただ、患者さんに使える魔力が日によって変わるなら、薬と魔晶石を余分に準備しなければいけません」
エルマは帳簿を撫でる。
「だから記録しています」
「今年の大聖冠祭は」
「過去最大規模だと聞いています」
少しだけ。不安そうな顔になった。
「念のため、通常より多めに魔晶石を確保する申請を出しました」
「通ったか」
「半分だけ」
「理由は?」
「王都全体で需要が増えているから、と」
フィーネはユーフェミアを見る。視線が合った。言葉はいらなかった。地脈低下。結界維持費増加。魔晶石使用量増加。大奇跡前後の聖冠供給の変動。まだ、全部、状況証拠だ。それでも、線が増えている。
「この年度別集計を、写させてもらえますか」
フィーネが聞く。
「患者名のない部分だけなら」
「正式な記録として」
エルマは少し驚いて、それから頷いた。
「分かりました」
机へ座る。日付を書き。閲覧者を書き。写本作成の理由を書く。丁寧に、一つずつ。
「記録に残すのですね」
「はい」
エルマが笑う。
「大事ですから」
さっきも、同じようなことを言った男がいた。フィーネは少しだけ。この国がまだ全部腐っているわけではないと思った。
◇
最後に向かったのは、ルメリア大聖堂だった。治療院からの移動にはナディアと護衛が付き、二人が資料を確認している間だけ部屋の外で待っていた。目的は古文書庫。国境高原の円環記号が、何の施設だったのか。正確な位置を示す古い記録が残っていれば、次の調査が早い。だが、
「申し訳ございません」
大神官セドリックは、申し訳なさそうに見える顔で言った。五十八歳。白に近い金髪。穏やかな目。祭服には、ルメリア聖庁の最高位を示す金糸が入っている。
「建国以前の地理文書は、現在、保存処置のため閲覧を制限しております」
「すべてですか」
フィーネが聞く。
「特に劣化の激しいものを中心に」
「申請書には、国境高原周辺の地図と巡礼路記録だけと書きました」
「ええ。拝見しました」
セドリックは微笑む。
「だからこそ、お断りしているのです」
ユーフェミアの目が細くなる。
「理由になっていない」
「殿下」
セドリックの笑みは崩れない。
「古文書は、一度損なえば二度と戻りません。外国使節のご要望であっても、保存規則を曲げるわけにはまいりません」
「閲覧室で、職員立会いでも?」
「同じです」
「写本は」
「確認いたします」
「いつまでに」
「古い資料ですから、少々お時間を」
「何日だ」
「殿下」
フィーネが小さく呼ぶ。ユーフェミアは黙った。ここで押しても、拒否の口実を強くするだけだ。
「承知しました」
フィーネが礼を取る。
「保存上の理由でしたら、仕方ありません」
「ご理解いただけて何よりです」
「では、閲覧制限の対象資料一覧だけいただけますか」
セドリックの目が、ほんの一瞬。止まった。
「一覧を?」
「何が読めないのか分からなければ、別資料を探せませんので」
「なるほど」
また笑う。
「用意させましょう」
「ありがとうございます」
フィーネは頭を下げた。顔を上げる。セドリックは、まだ笑っていた。今日、二人目だ。笑顔の方が警戒したくなる人間は。
◇
大聖堂を出た時には、夕方になっていた。
「止められたな」
ユーフェミアが言う。
「ええ」
「保存のためだと思うか」
「分かりません」
「お前の能力でも?」
「大神官は魔法を使っていません」
「不便だな」
「昨日も同じことを言いましたね」
「本当に不便だからな」
フィーネはため息をつく。
「ですが、一つ分かりました」
「何が」
「国境高原の古文書を、今は簡単に見られないということです」
「それだけか」
「十分です」
フィーネは足を止める。
「見られないなら、別の場所を探します」
ユーフェミアが少しだけ口元を上げた。
「そう言うと思った」
「何ですか、その顔は」
「別に」
「またそれですか」
「我慢している者の返事ではない」
「では何を我慢しているのです」
「笑うのを」
「失礼ですね」
「褒めている」
「どこがですか」
「止められたら別の道を探すところだ」
フィーネは一瞬、返事に困った。
「......普通では」
「普通の人間は、七年も一人で古代術式を追わない」
「それは」
「責めていない」
ユーフェミアは先に歩き出す。
「戻るぞ、フィーネ」
「どこへ」
「王室記録庫」
「もう閉館時間では?」
「外交使節の閲覧時間は一刻長い」
「そういう特権は使うのですね」
「使えるものは使う」
「王族らしくなってきました」
「元から王族だ」
知っている。それでも、今の方が少しだけ。話しやすかった。
◇
夕方の王室記録庫は、人が減っていた。レオナールはもういなかった。代わりに、昼間頼んでいた国境測量図の束が机へ用意されている。付箋が一枚。
『閲覧許可済。複写する場合は記録に残してください』
「徹底していますね」
「信用できる」
「まだ味方ではないそうですよ」
「だからだ」
ユーフェミアは一枚目を広げた。新しい。次。十年前。二十年前。国境線の測量記録。砦。道。河川。崩落地。
「ないな」
「もっと古いものを」
五十年前。八十年前。地名が少し変わる。さらに古い。百二十年前。フィーネの手が止まった。
「これ」
紙の端。現在は使われていない旧街道。国境高原の南斜面。小さく。《三環石跡》と書かれていた。
「三環石?」
「古い呼び方です」
「知っているのか」
「母の楽譜に」
口に出して、止まった。ユーフェミアは何も言わない。母。ユーフェミアには、これまで話していなかった存在。今。初めて、自分から口にした。
「......昔、母が残した資料に似た言葉がありました」
「そうか」
それだけ。聞かない。誰なのか。なぜ隠していたのか。何があったのか。聞かない。フィーネは紙へ視線を戻した。
「地図を」
「ああ」
昨日使った古地図を広げる。フェンリシア側の測定図も、さらに、120年前の国境測量図。三枚を重ねる。基準点を合わせる。
「東へ」
「二目盛り」
「三です」
「まだ言うのか」
「地図では重要です」
「分かった。三」
紙が重なる。古い円環記号。フェンリシア側の地脈低下中心。《三環石跡》。三つが、ほぼ同じ場所に落ちた。
「まだ広いな」
「測量図の注記を見てください」
フィーネが指を滑らせる。
『旧監視塔より北北東、岩峰三本を結ぶ窪地』
ユーフェミアが自国側の地形図を出す。
「岩峰三本」
指で追う。
「あった」
国境高原。現在は使われていない監視塔跡。そこから北北東。三本の岩峰。その中央。小さな盆地。フィーネは息を止めた。七年間。一人で追ってきた。西葡萄丘陵。南港。東大森林。北鉱山。四つ直した。残り三つ。その一つ。
「国境高原環」
声に出す。今度は、隠さなかった。
「ここです」
ユーフェミアが地図を見る。
「確実か」
「現地確認は必要です」
「では行く」
「簡単に言いますね」
「正式な合同地脈視察として申請する」
フィーネは顔を上げた。
「正式に?」
「ああ。私の国の異常中心と重なっている。外国王女が勝手に遺跡へ入る必要はない」
ナディアの顔が浮かんだ。殿下、それは外交問題です。たぶん、これなら怒られない。
「レグリア側が許可しなければ」
「測定値を添える。今日の予算記録も。治療院の変動記録も」
「まだ状況証拠です」
「視察するには十分だ」
確かに、断罪する証拠ではない。だが、調べる理由にはなる。フィーネは地図を見る。今まで、全部、一人でやってきた。誰にも言わず。誰にも頼らず。知られれば奪われると思っていたから、けれど、目の前には、フェンリシアの測定図がある。レグリアの予算記録がある。エルマの治療記録がある。レオナールの正式な閲覧印がある。
そして、自分以外の手が、地図の端を押さえている。
「フィーネ」
「何ですか」
「行くぞ」
フィーネは少しだけ。間を置いた。
「......はい」
「それと」
「まだ何か?」
「私のことも名前で呼べ」
「嫌です」
「即答だな」
「王女殿下を呼び捨てにできるわけがないでしょう」
「二人の時だけなら」
「なおさら駄目です」
「なぜ」
「なぜでもです」
ユーフェミアが少し考える。
「では、ユーフェミア殿下」
フィーネは黙った。
「これならいい」
「......今まで殿下としか呼んでいなかった、という意味ですか」
「ああ」
「細かいですね」
「お前に言われたくない」
返す言葉がなかった。フィーネは地図を畳み始める。
「では」
一度だけ。言葉が喉に引っかかった。
「ユーフェミア殿下」
「何だ」
「明日の申請書は、私が作ります」
「分かった」
「あなたは勝手な文言を足さないでください」
「善処する」
「信用できません」
「そうか」
短い。相変わらず。けれど、昨日までとは違う。聖女女王は、今日も笑っていた。大神官も笑っていた。誰が何を隠しているのか。まだ分からない。証拠も足りない。敵が誰なのかさえ、全部は見えていない。それでも、残り三環の一つ。国境高原環の場所は見つかった。そして、その場所は、七年間で初めて。
フィーネが一人ではなく、誰かと向かう環になった。




