第22話 二十歳の朝
二十歳の朝は、驚くほど普通に来た。目を開けても、天井は昨日と同じだった。王都邸の寝室。薄い朝日。遠くで鳴る荷車の音。そして、
「お嬢様。起きていますね」
扉の向こうから、セリアの声。
「寝ています」
「寝言にしては滑舌が良すぎます」
「では、今から寝ます」
「本日の主役が二度寝しないでください」
「主役ではありません」
「成人する方は主役です」
フィーネは布団の中で目を閉じた。何も変わっていない。そう思った。昨日まで十九歳だった自分と、今日、二十歳になった自分。身体が急に強くなるわけでもない。魔力が増えるわけでもない。《封耳環》の奥に隠れている耳も、一本の尾も、同じだ。それなのに、今日から、自分の名前の下にあるものが変わる。
ラグランジュ家。伯爵位。領地。倉庫。河川港。商会持分。帳簿に載る金だけではない。そこで働く人々。父が守った制度。叔父が預かってきた土地。母が歩いた白楡館。それらが、今日から正式に、フィーネ・ラグランジュの責任になる。
「お嬢様」
「起きています」
「先ほど寝ていると」
「気が変わりました」
「では入ります」
扉が開いた。セリアは盆を持っていた。湯気の立つ茶。薄く焼いたパン。卵。果物。
「朝食です」
「食欲はありません」
「知っています」
「では」
「食べてください」
「......誕生日くらい優しくできませんか」
「だから優しく朝食を運んできました」
セリアは机へ盆を置く。それから、少しだけ姿勢を正した。
「お嬢様」
「何です」
「お誕生日、おめでとうございます」
フィーネは、一瞬だけ返事を忘れた。七年前から、誕生日は、あまり好きではなかった。母がいなくなった年から、父がいた頃は、それでも祝われた。三年前に父まで亡くなってからは、ただ期限が近づく日になった。二十歳。王室後見が終わる日。そして、イルダリアが待っている日。
「......ありがとうございます」
ようやく言う。セリアは笑わなかった。いつものように。
「では、食べてください」
「余韻がありませんね」
「成人手続きへ空腹で出す方が問題です」
「合理的です」
「はいはい」
*
成人手続きは、白楡館ではなく王都邸で行われた。華やかな式典ではない。王室後見院から来た官吏が二名。ラグランジュ家の法務担当。叔父ルシアン。そして本人。それだけだった。昨日までなら。ラグランジュ家の重要な契約には、王室後見院の確認印が必要だった。今日からは違う。フィーネ自身が当主として署名する。
「フィーネ・ラグランジュ殿」
官吏が書面を読み上げる。
「本日をもって、王室後見制度による監督期間は終了します」
「はい」
「ラグランジュ伯爵家の爵位権、封土管理権、家産管理権、およびこれに付随する契約上の権限を、成年当主たる本人へ返還します」
「確認しました」
返還。その言葉が、妙に重かった。もともと王家のものではない。父から自分へ継がれるはずだったものだ。けれど、未成年だった三年間。自分は、それを自分の名だけでは動かせなかった。書面が一枚ずつ置かれる。領地台帳。河川港の権利証。穀物倉庫の管理名簿。製粉組合との契約。商会への出資証明。どれも。
昨日まで敵が調べていたものと同じだった。フィーネは、自分の前へ積み上がる紙を見た。
「最終確認を」
官吏が言う。
「異議はありませんか」
「ありません」
「では署名を」
ペンを取る。名前を書く。フィーネ・ラグランジュ。その下へ、当主としての署名。手は震えなかった。左耳飾りにも触れなかった。最後の一枚へ署名したところで、官吏が立ち上がった。
「手続きは以上です。ラグランジュ伯爵」
呼び方が変わった。たったそれだけで、部屋の空気まで変わった気がした。
「ご苦労さまでした」
フィーネは頭を下げる。官吏たちが退室する。法務担当も書類整理のため隣室へ移った。残ったのは、フィーネと、ルシアン。セリア。叔父は、朝からずっと無表情に近かった。焦茶の短髪。灰色の目。祝いの場にしては地味すぎる濃紺の実務服。いつもと同じだ。
「叔父様」
「まだ終わっていない」
「何がです」
ルシアンは持っていた小さな革箱を机へ置いた。留め金を外す。中に入っていたのは、古い印章だった。銀ではない。金でもない。黒みを帯びた硬い金属。柄には、長く使われた擦れが残っている。フィーネは知っていた。父アンリが使っていた。ラグランジュ家の当主印。
「......父様の」
「ああ」
ルシアンは短く答えた。
「兄が最後に私へ預けたものだ」
フィーネは手を伸ばしかける。止まった。
「叔父様が持っていても」
「駄目だ」
「ですが、領地実務は今後も」
「手伝う」
ルシアンは遮った。
「必要なら、これまで通り帳簿も見る。河川港の揉め事にも出る。お前が王都にいる間、現地判断もする」
「なら」
「だが、預かり役は今日で終わりだ」
フィーネを見る。
「これは兄のものでも、私のものでもない」
そして、当主印を差し出した。
「今日から、お前のものだ」
フィーネは、受け取った。重かった。大きさに比べて、ひどく重い。
「......はい」
それしか言えなかった。ルシアンは別の鍵束を置いた。
「白楡館の主書庫。領都金庫。河川倉庫の中央保管庫。王都邸の契約庫」
「多いですね」
「当主だからな」
「返した直後に働かせる気ですか」
「当然だ」
セリアが小さく笑った。
「お嬢様、似ていますね」
「どこがです」
「合理的なところが」
「叔父様と一緒にしないでください」
「私も同じことを言いたい」
「叔父様」
少しだけ。部屋が緩んだ。だが、ルシアンはすぐに真顔へ戻った。
「フィーネ」
「はい」
「王都で何をしている」
フィーネの指が止まる。
「何のことです」
「誤魔化すな」
「......」
「お前が昔から古跡を調べていることは知っている。保全地の申請も私が通した」
「はい」
「最近は、フェンリシア王女と遠出までした」
「公務です」
「半分はな」
フィーネは答えない。ルシアンは、母が妖狐だったことを知っている。自分の耳と尾も知っている。けれど、七環返路も、アルヴァも、母が生きていることも知らない。今ここで全て話せば、彼まで巻き込む。
「危険なことはやめろ、と言っても」
ルシアンが続けた。
「やめない顔だな」
「普通の顔です」
「兄もよくそう言った」
「父様はもっと愛想がありました」
「あれは外向けだ」
少しだけ。懐かしい痛みが胸を刺した。ルシアンは机上の書類へ目を落とす。
「一つだけ言う」
「何です」
「今日から、お前は自分の名で決められる」
フィーネは黙る。
「私が止めたいと思っても、法的には止められないことが増える」
「はい」
「だからこそ」
叔父は言った。
「自分で決めたことの責任まで、他人へ渡すな」
フィーネは、当主印を握った。
「渡しません」
「ならいい」
それだけだった。祝福の言葉ではなかった。けれど、ルシアンらしいと思った。
*
昼を過ぎる頃には、王都邸の門前に、祝いの花がいくつか届いた。付き合いのある商会。領都ヴァレーヌの組合。父の代から付き合いのある家。その中に、王宮からの花はなかった。当然だった。代わりに、監視の近衛が二人増えた。
「誕生日祝いでしょうか」
窓から見て、セリアが言う。
「ずいぶん武装した花ですね」
「香りも鉄臭いです」
「笑えません」
「私もです」
エドガー・ヴァランから出された移動制限は、まだ有効だった。成人したからといって、捜査上の監視まで消えるわけではない。むしろ、今日からの方が危険だ。フィーネは執務室で、新たに返還された帳簿を開いた。自分の署名で、最初に出す指示を決めていた。
「西部の備蓄確認を」
「祭典対策ですか」
法務担当が問う。
「はい。小麦、乾燥豆、薬草、照明用魔晶石。領内だけで抱えず、王都への供給余力も含めて」
「王都へ?」
「必要になる可能性があります」
聖冠供給を止める時。いきなり全てを失わせてはならない。七環を直すだけでは足りない。母を連れ出すだけでも足りない。止めた後。誰が食べるのか。誰が治療するのか。どの結界を優先するのか。準備が必要だ。
「費用は」
担当が尋ねる。フィーネは、一瞬だけ笑いそうになった。今日から、答えが変わる。
「私の家産から出します」
王室後見院の承認はいらない。
「当主印を」
言われて、机の横へ置いた黒い印章を見る。父のものだった。叔父が預かっていた。今は、自分のものだ。フィーネは印を押した。鈍い音がした。ただの書類に、自分の決定が残った。
「手配します」
「お願いします」
担当が出ていく。フィーネは印影を見た。嬉しい。そう呼ぶには、少し違う。怖い。それもある。でも、確かに、自分で決めた。その事実だけは、誰にも渡したくなかった。
*
夕方。ユーフェミアが王都邸を訪れた。公式には、フェンリシア使節団代表として、成年当主就任への礼を述べるため。ナディアも同行していた。だから最初は、応接室で形式的な挨拶になった。
「ラグランジュ伯爵。成年当主就任を祝う」
「ありがとうございます。ユーフェミア殿下」
フィーネも形式通りに返す。ナディアが横で無表情を作っている。セリアも完璧な侍女顔だ。誰も笑っていない。なのに、妙におかしい。
「何です」
フィーネが低く言う。
「何も」
ユーフェミアが答える。
「耳が」
「動いていない」
「まだ何も言っていません」
「先に答えただけだ」
ナディアが咳払いした。
「殿下。外交挨拶は終了しました」
「分かっている」
「では私は警備確認へ」
「私も夕食の確認へ参ります」
セリアまで続く。フィーネは二人を見る。
「なぜ同時に」
「偶然です」
「偶然ですね」
二人の返事が重なった。信用できない。扉が閉まる。部屋に、フィーネとユーフェミアだけが残った。形式的な空気が、少しずつほどける。
「フィーネ」
「何です」
「改めて」
ユーフェミアは、短く息を吸った。
「おめでとう」
朝のセリアとは違う。叔父とも違う。ただ、一人の相手から、自分へ向けられた言葉。
「......ありがとうございます」
声が少し遅れた。ユーフェミアは小さな包みを差し出した。
「これは?」
「贈り物だ」
「見れば分かります」
「なら聞くな」
「何を贈られたのか聞いています」
「開けろ」
「命令ですか」
「頼んでいる」
フィーネは受け取った。軽い。包みを開く。中から出てきたのは、掌に収まるほどの、小さな手帳だった。濃紺の革表紙。飾りはない。端にだけ、銀色の細い留め具。開く。白紙だった。
「......何も書いてありません」
「ああ」
「資料ではないのですか」
「違う」
「地図でも」
「違う」
「では何に使うのです」
「好きに使え」
フィーネは顔を上げた。
「好きに?」
「仕事の予定でも、研究でも、誰にも見せない愚痴でもいい」
「最後の用途は必要ありません」
「そうか」
「......なぜ白紙を」
ユーフェミアは一度。窓の外を見た。大聖冠祭の飾り付けが進む街。明日から七日間。王都は祭りになる。その最終日に、全てを止めなければならない。
「今日から、お前が自分で決められるものが増えた」
ユーフェミアが言った。
「だから、一つくらい。何を書くかまで誰にも決められていないものがあってもいいと思った」
フィーネは、手帳を閉じた。
「......合理的ではありませんね」
「ああ」
「実用性も不明です」
「ああ」
「贈り物としては地味です」
「ああ」
「でも」
言葉が止まる。ユーフェミアは待った。
「......ありがとうございます」
「そうか」
耳が、少しだけ立った。フィーネは見なかったことにした。




