第21話 嫌われ者の告発
《大逆評議廷》招集の予備通知が届いてから、三日。フィーネは、三度目の説明をしていた。
「ですから、《聖冠祭壇》を今の抽出量のまま大聖冠祭へ入れるのは危険です」
王室評議会の小会議室。長机の向こうには、レオナール・レグリアと、三人の官僚が座っている。窓の外では、王都アルセリアの白い屋根が朝日に光っていた。地方の地脈が痩せているなど、まるで嘘のような明るさだった。
「第六環の修復後、ルーネ川源流域の地脈出力は明確に改善しました。フェンリシア側でも同時刻に改善が確認されています」
「その資料は確認しました」
レオナールが答える。いつもの、慎重な声だった。
「改善の事実は認めます。しかし、それがあなたの言う《聖冠祭壇》の危険性を直接証明するわけではありません」
「承知しています」
「王都地下へ無許可で入った件についても、あなた自身が認めている」
「はい」
「そこで何を見たのかについて、現時点で公的な立会記録はない」
「それも承知しています」
横に座る官僚の一人が、小さく息を吐いた。
「つまり、ラグランジュ令嬢の証言を信用しろ、と?」
フィーネはそちらを見る。
「いいえ」
男が少し意外そうな顔をした。
「信用しなくて結構です」
「......では、何を求めているのです」
「確認してください」
フィーネは机の上へ三枚の写しを置いた。
「地下施設の抽出記録。祭壇への魔晶石搬入量。大聖冠祭へ向けた増量命令。この三つです」
「だから、それを閲覧する権限が――」
「《大逆評議廷》が開廷すれば、係争事実に関わる証拠への保全命令を申請できますね」
部屋が静かになった。レオナールの灰色の目だけが動く。
「......できます」
「なら、私はそれを求めます」
「まだ開廷は決まっていません。届いたのは予備通知です」
「分かっています」
「それに」
別の官僚が口を挟んだ。
「あなたは以前から、聖女制度へ敵意を示している」
来た。フィーネは、そう思った。
「王立慈善会で寄付を拒否した。聖女候補へ辛辣な発言を繰り返した。女王陛下の奇跡を公然と疑ったこともある」
「公然とは疑っていません」
「似たようなものだ」
「違います」
声は低くした。怒鳴る必要はない。怒鳴れば、また一つ噂が増えるだけだ。
「さらにフェンリシア王女と共同で国家施設へ侵入した。これで、あなたの話だけを根拠に王室施設を差し押さえろと?」
「話だけを根拠にしろとは言っていません」
フィーネは指先を机へ置いた。
「だから記録を保全してください、と言っています」
「ラグランジュ令嬢」
レオナールが制した。フィーネは黙る。彼は味方ではない。だが、敵でもない。少なくとも、証拠の形をしていないものを証拠とは呼ばない。それだけは信用できる。
「あなたの主張は記録します」
「ありがとうございます」
「ただし、現時点で《聖冠祭壇》を危険設備と認定することはできません」
「はい」
「そして、あなた自身の信用が低いことも、手続上は無視できません」
一瞬、胸の奥で何かが止まった。顔には出さなかった。
「......そうですか」
「侮辱しているのではありません」
「分かっています」
むしろ、正しい。フィーネは自分でそうしたのだから、嫌われるように振る舞った。浅薄で、冷酷で、聖女を嫌うだけの小物に見えるようにした。誰にも本気で警戒されないように、七年間。それが生き延びるための盾だった。今。その盾が、壁になっていた。会議室を出た瞬間。廊下の向こうで、二人の若い貴族が声を潜めた。
「また聖女様へ難癖をつけているらしい」
「外国の王女まで巻き込んだとか」
「慈善会で1シルヴァも出さなかった女だぞ」
聞こえるように言っている。以前なら。むしろ都合がよかった。フィーネは足を止めなかった。けれど、今日は、少しだけ違った。あの噂を信じている者へ、王都の地下で、聖獣が削られている。大聖冠祭の最大抽出をこのまま行えば、遠隔地の地脈が戻らなくなるかもしれない。母が生きている。そう言ったところで。
――またラグランジュ令嬢が騒いでいる。それで終わる。
「お嬢様」
階段の下で、セリアが待っていた。
「どうでした?」
「予定通りです」
「その顔で予定通りと言われると不安になります」
「普通の顔です」
「はいはい」
セリアはため息をついた。
「では、普通の顔のお嬢様。昼食を食べましょう」
「時間がありません」
「あります」
「ありません」
「食べないなら、ユーフェミア殿下へ報告します」
「脅迫ですか」
「生活管理です」
フィーネは睨んだ。セリアは平然としている。
「......15分だけです」
「30分」
「20分」
「成立です」
「交渉した意味がありません」
少しだけ。呼吸が戻った。
*
午後。フィーネが向かったのは、ルメリア大聖堂ではなかった。王都南区の治療院だった。エルマ・ロシェは、診察記録を三冊並べて待っていた。
「祈ります。でも、記録も取ります」
以前と同じ言葉を、彼女は言った。
「ですから、今日は記録の方です」
「助かります」
「ただし、患者の個人名は出しません」
「必要ありません」
フィーネは椅子へ座る。傷はもう塞がっている。ルーネ川源流で受けたものだ。痛みも、ほとんどない。けれど、エルマは一度だけ包帯の跡を見て眉をひそめた。
「無茶をしましたね」
「必要でした」
「そういう返事をする人は、だいたいまたやります」
「否定はしません」
「してください」
エルマが記録帳を開く。話が戻った。
「三年前から、王都周辺の小規模治療院で使う聖冠供給の波が大きくなっています」
「大きな奇跡の前後ですね」
「はい。奇跡の直前は一時的に供給が落ち、その後に急に戻る」
「地方の不調と逆です」
「そこまでは、私には言えません」
「それでいいです」
フィーネは写しへ目を落とした。数字。日付。補充された薬草の量。治癒灯の停止時間。小さな事実ばかりだった。誰かの善悪とは関係がない。
「これを、評議廷へ提出できますか」
「正式な照会があれば」
「私の証言としてではなく」
「治療院の記録として、ですね」
「はい」
エルマは少しだけ笑った。
「その方が強いでしょうね」
フィーネは答えなかった。強い。その通りだった。自分が何者かを信じてもらう必要がない。数字だけが残る。治療院を出ると、玄関脇にユーフェミアとナディアがいた。赤金の耳がこちらへ向く。
「終わったか」
「はい」
「次だ」
「休ませるという発想はありませんか」
「ある」
「では」
「移動中に休め」
「ありませんね」
ナディアが横で目を閉じた。
「殿下。それは休息とは呼びません」
「フィーネも同じことをしている」
「だから二人まとめて言っています」
セリアが遅れて出てきた。
「ナディア様。今度、詳しくお話しましょう」
「ぜひ」
フィーネとユーフェミアは、同時に二人を見る。嫌な同盟が育っていた。馬車の中。ユーフェミアは一冊の薄い綴じ本を差し出した。
「フェンリシア側の測定原本の写しだ」
「外交資料では」
「提出可能な範囲へ整理した」
フィーネがめくる。第五環の修復前後。第六環の修復前後。国境東部の結界効率。魔晶鉱の採掘灯。薬草栽培区の水脈反応。すべて、同じ方向へ動いている。
「私の説明を付けます」
「要らない」
フィーネが顔を上げる。
「なぜです」
「数字が先だ」
「......そうですね」
ユーフェミアは腕を組んだ。
「お前を信じない者にも通る証拠を作ろう」
フィーネは、返事をしなかった。できなかった。私は信じている。そう言う方が、簡単だったはずだ。けれどユーフェミアは言わない。フィーネが欲しいのは慰めではなく、勝てる材料だと分かっているから。
「......合理的です」
「そうか」
「褒めてはいません」
「知っている」
赤金の尾が、一度だけ座席を叩いた。フィーネは見なかったことにした。
*
それから六日。王都では、フィーネの名前が以前より頻繁に囁かれるようになった。良い意味ではない。
『聖女女王へ反旗を翻した悪徳令嬢』
『隣国王女を誘惑した売国令嬢』
『国家結界を壊して回る妖術師』
最後の一つには、根拠すらなかった。半妖狐であることは、まだ公には知られていない。それでも噂は勝手に形を変える。王立慈善会の件も蒸し返された。聖女候補へ「その治療法では患者が死にます」と言った件も、単に若い候補を泣かせた話へ変わった。フェンリシア使節歓迎晩餐でユーフェミアへ辛辣な言葉を投げたことも、『外交使節を侮辱した』と再利用された。
事実と嘘が混じる。その方が、噂は強い。フィーネは訂正しなかった。今まで通りなら。訂正しない方がよかった。しかし今は。
「証言をお願いできませんか」
そう頼んだ相手が、目を逸らす。
「申し訳ありません、ラグランジュ様。うちは王室と取引がありまして」
「分かりました」
別の者は、もっと率直だった。
「あなたの争いへ巻き込まれたくない」
「承知しました」
また別の者は。
「本当に国を思うなら、女王陛下へ従えばいい」
そう言った。フィーネは、それにも反論しなかった。反論する時間を、証拠集めに使った。エルマの治療記録。フェンリシアの国家測定。レオナールが保全していた王室予算の推移。地方結界の修繕費。魔晶石の王都搬入量。大聖冠祭前だけ増える特別支出。一つでは足りない。二つでも偶然と言われる。だから重ねた。
誰もフィーネを好きにならなくていい。嫌いなままでいい。それでも、数字を見れば同じ結論へ辿り着くように、十日目の夜。レオナールが王都邸へ来た。
「一つ、確認が取れました」
「何です」
「《大逆評議廷》が正式に開廷した場合、あなたが告発されている『国家施設への干渉』は係争事実になります」
「つまり」
「その施設が何であり、何のために動いていたかは、審理対象になり得ます」
フィーネは椅子から身を乗り出さなかった。ただ、左手が耳飾りへ行きかけて止まった。
「《証拠保全命令》を申請できる」
「できます」
「祭壇そのものにも」
「認められるかは評議廷次第です」
「申請はできる」
「はい」
それで十分だった。敵が自分を裁くために持ち出した法廷。その法廷にしか、今の王権から原本を引き剥がせない権限がある。皮肉だった。けれど、使えるなら使う。
「もう一つあります」
レオナールが厚い封筒を出した。
「王室後見院へ、あなたの成人時引継資料の閲覧請求を出していましたね」
「はい」
「許可が下りました」
「ずいぶん早いですね」
「明日で成人まで八日です。通常業務としても準備時期です」
「......そうでしたね」
日付を数える癖が、最近少し壊れていた。母を見つけた日から、一日が長すぎた。封筒を開く。最初は普通だった。爵位返還手続。封土の境界確認。倉庫、製粉所、河川港、葡萄畑、商会出資。父から続く家産の一覧。王室後見終了後、フィーネ名義へ戻るもの、その末尾。一枚だけ、紙質の違う別紙が挟まっていた。
「......これは」
レオナールも見る。表題は事務的だった。
『特別事由発生時・指定資産処理候補』
その下。小さな文字。
『成年当主に対する大逆罪確定の場合』
フィーネは、ゆっくりと読み進めた。ヴァレーヌ西倉庫群。ルーネ支流河川港持分。三つの大規模製粉所。王都穀物商会への出資持分。葡萄畑。金融資産。王都邸。驚くほど細かい。価格評価まで付いている。
「作成日は」
ユーフェミアが聞く。いつの間にか、机の反対側に立っていた。フィーネは紙の右上を見る。喉が乾いた。
「......私が、あなたと会う前です」
部屋の空気が変わった。ナディアの耳が伏せられる。セリアは何も言わない。レオナールが紙を受け取った。
「原本確認が必要です」
「はい」
「これだけで女王陛下の指示とは断定できません」
「はい」
「しかし」
「成人後に没収できる資産を、先に選んでいた」
フィーネは言った。声が、自分でも驚くほど静かだった。
「私が国家反逆をしたとされる前から」
誰も否定しなかった。王家がフィーネを殺さなかった理由。未成年のうちに死ねば、家産は叔父ルシアンへ移る。王家には来ない。二十歳になれば、爵位も、封土も、家産も、一度、正式にフィーネのものになる。その後、国家反逆罪で有罪にすれば、《大逆没収令》が使える。
「......成人させる必要があった」
フィーネは呟いた。ユーフェミアがこちらを見る。
「私を生かしていたのではありません」
言葉が、一つずつ落ちる。
「私に相続させるのを待っていた」
セリアの指が震えた。
「お嬢様」
「大丈夫です」
「その言い方をする時は大丈夫ではありません」
「では、問題があります」
「はい」
「なので、解決します」
セリアは泣きそうな顔で笑った。
「本当に、そういうところですよ」
フィーネは視線を落とす。紙の数字は冷たい。けれど、冷たいからこそ、使える。
「レオナール様」
「はい」
「これも保全してください」
「原本を確認し、正式に複写登録します」
「お願いします」
人格ではなく。記録で勝つ。その方がいい。フィーネ自身も、その方が信用できた。
*
翌朝、王都邸の門前に、近衛騎士が並んだ。先頭に立つ男は、五十を越えている。黒に近い灰髪。濃褐色の瞳。飾りの少ない近衛正装。エドガー・ヴァラン。王宮近衛騎士団長。
「フィーネ・ラグランジュ令嬢」
「はい」
「王室評議会および後見院の連名命令を伝達します」
彼は一枚の命令書を開いた。
「国家施設への無許可接触が確認され、現在《大逆評議廷》招集の予備審査中であることから、審査終了まで王都外への移動には事前届出を要する」
「拘束ですか」
「違います」
即答だった。
「外出を禁じる命令ではありません。王都外へ出る場合、行先と帰着予定を届けてください」
「夜間外出は」
「同じく届出対象です」
「拒否した場合は」
「その時点で、命令違反として記録します」
「ずいぶん親切ですね」
「手続です」
嫌味が通じない。フィーネは少しだけ目を細めた。門の内側にいたユーフェミアが前へ出る。
「私の随行については」
「フェンリシア王女殿下の外交行動は、本命令の対象外です」
「フィーネが同行する場合は」
「ラグランジュ令嬢側に届出義務があります」
「私の保護下だとしても?」
「レグリア国内でレグリア臣民へ発令された合法な行政命令です。殿下の保護宣言で消えるものではありません」
ナディアの目がわずかに細くなる。だが、ユーフェミアは反論しなかった。
「分かった」
エドガーは一礼する。その後、後列の若い近衛が、セリアの持つ書類鞄へ手を伸ばした。
「念のため、内容を――」
「やめろ」
エドガーの声が落ちた。若い騎士が止まる。
「命令書に所持品検査の権限はない」
「しかし団長」
「書かれていない権限を足すな」
「......失礼しました」
フィーネは、そのやり取りを見ていた。味方ではない。本当に、少しも、けれど、命令に書いてあることしか、しない。そして、書いていないことも、させない。
「ヴァラン団長」
「何でしょう」
「命令書の写しをいただけますか」
「当然です」
彼は最初から用意していた副本を差し出した。
「受領署名を」
「はい」
フィーネは署名した。嫌でも、合法な命令は合法な命令だ。破れば、相手へ材料を与える。だから従う。今は。
*
そこからさらに七日。王都は、大聖冠祭の準備で華やかになった。白金の旗。聖女女王を讃える花飾り。大通りへ運び込まれる祭具。地方から届く奉納品。誰も祭の日程を動かそうとはしなかった。むしろ、警備だけが増えた。フィーネの王都邸の前にも、常に近衛が一組立つようになった。エルマの治療院には、記録の外部持ち出し禁止命令が届いた。
レオナールの部署では、過去予算の閲覧申請が一段階増えた。フェンリシア使節館周辺にも、王都警備隊の巡回が増えた。証人になり得る者へ、先に網がかけられている。イルダリアは祭を早めない。必要がないからだ。日程はそのまま。フィーネの成人もそのまま。ただ、逃げ道だけを減らしている。
「合理的ですね」
フィーネが言うと、ナディアが嫌そうな顔をした。
「敵を褒めないでください」
「褒めていません。評価です」
「似ています」
「違います」
「その会話、殿下ともしていませんでしたか」
「していません」
「した」
横からユーフェミアが言った。フィーネは睨む。
「余計な証言をしないでください」
「記録は正確に」
「最近そればかりですね」
「お前が始めた」
机の上には、分厚い束が三つ。一つ目。フェンリシアの国家測定。二つ目。レグリア国内の治療・予算・結界記録。三つ目。王室後見院の家産評価と、没収候補一覧。まだ足りない。地下の抽出原本。セドリックの指示書。祭壇の実物。それを取らなければならない。けれど、取るための道は見えた。《大逆評議廷》。
フィーネを裁くために用意された場所で、フィーネは、証拠保全を求める。
「お嬢様」
セリアが窓際から呼んだ。
「こちらを」
街角で配られている紙だった。粗悪な印刷。見出しだけが大きい。
『聖女女王を妬む悪徳令嬢、外国王女と国家転覆を企む』
フィーネは一読した。
「文章が下手ですね」
「そこですか」
「事実関係も雑です」
「落ち込むところでは」
「今さらです」
紙を机へ置く。指先が、少しだけ止まった。
「......今さら、のはずでした」
ユーフェミアが顔を上げる。フィーネは続けた。
「悪女だと思われれば、本気で調べているとは思われない」
「フィーネ」
「危険人物だと思われなければ、動ける」
「だから、嫌われる役を演じました」
「役?」
「......そうですね。自分で名をつけるなら、『悪役令嬢』とでも言えばいいのでしょうか」
七年前。十二歳の自分が選んだ方法ではない。少しずつ。必要に迫られてそうなった。辛辣に、無関心に、善意を否定するように、嫌われても訂正せず。誰にも理解されなくていいと決めた。
「それで、生き延びました」
「ああ」
「四つの環を、一人で直す時間も稼げました」
「ああ」
「でも」
フィーネは紙を裏返した。
「本当に助けを求める時、誰も信じてくれない」
口にしてしまえば、驚くほど単純だった。悪役を演じた代償。誰にも愛されないことではない。愛される必要などないと思っていた。もっと実務的で、もっと痛い。信用されない。その一点だった。ユーフェミアは。
「私は信じている」とは言わなかった。
代わりに、三つの資料束を指で叩いた。
「だから作った」
「......何をです」
「お前を嫌いな者でも、無視できないものを」
フィーネは黙る。
「お前の人格を弁護する必要はない」
「ひどい言い方ですね」
「今はな」
「今は?」
「裁くのは人格ではなく、事実だ」
ユーフェミアは短く言った。
「好かれるのは、その後でいい」
「必要ありません」
「そうか」
「......何です、その顔は」
「別に」
「笑いましたか」
「笑っていない」
「耳が動きました」
「お前に言われたくない」
フィーネは左耳飾りへ触れかけた。今は隠れている耳。白楡館で応急修理した《封耳環》は、外見だけならまだ保っている。けれど、ユーフェミアの前では、もう、隠れていることに以前ほど安心しなくなっていた。
「......ユーフェミア様」
「何だ」
「明日」
言葉を切る。
「私は二十歳になります」
「ああ」
「王室後見が終わります」
「ああ」
「ラグランジュ家が、正式に私へ戻る」
「ああ」
「そして」
没収候補一覧へ目を向ける。
「向こうも、それを待っています」
ユーフェミアの顔から、わずかな柔らかさが消えた。
「怖いか」
フィーネは、少し考えた。
「はい」
以前なら言わなかった。けれど、今は。
「でも、逃げません」
「分かっている」
「止めませんか」
「止めない」
同じ答えだった。あの夜と同じ。フィーネは小さく肩の力を抜いた。
「なら」
机の上の資料を整える。
「明日の朝、まず家を受け取ります」
「それから?」
「奪わせません」
声は静かだった。けれど、もう、悪役令嬢という役を演じるための声ではなかった。自分のものを、自分で受け取るための声だった。窓の外。王都の鐘が鳴った。大聖冠祭まで、あと二日。フィーネの成人まで、あと一日。




