第12話 尻尾は嘘をつけない
ユーフェミアの腕に触れた銀白の尾は、ほんの一瞬で外套の中へ消えた。だが、触れた感触までは消えない。柔らかかった。驚くほど。
「......殿下」
フィーネの声が低い。
「何だ」
「今、何を考えました」
「何も」
「嘘ですね」
「お前の嗅覚で嘘は分からないはずだ」
「顔で分かります」
「便利だな」
「便利ではありません」
フィーネは外套の前をきつく閉じた。フードの奥で、銀白の耳が完全に伏せている。本人はいつもの無表情を保っているつもりなのだろう。だが、昨日からユーフェミアは知ってしまった。この令嬢の顔は、かなり信用できない。耳の方がずっと正直だ。
「お嬢様」
廊下の向こうで、セリアが両手を腰に当てた。
「朝食のお時間です」
「食欲がありません」
「あります」
「なぜあなたが決めるのです」
「昨日からまともに召し上がっていないからです」
「合理的な判断です」
「はいはい。合理的ですね。では合理的に食べてください」
隣でナディアが小さく息を吐いた。
「そちらも大変ですね」
「そちらほどでは」
「聞こえているぞ」
「聞こえるように言いました、殿下」
フィーネは廊下の先にある食堂を見た。朝の宿はすでに騒がしい。商人。御者。巡回兵。国境を越える旅人。何十人もの声と足音が重なっている。その瞬間。フィーネの肩が僅かに強張った。ユーフェミアは気づく。
「無理か」
「何がです」
「人の多い場所だ」
「問題ありません」
「昨日から、その返事は信用しないことにした」
「勝手に決めないでください」
それでもフィーネは一歩踏み出した。食堂から流れてきた湯気。暖炉の煙。旅人の外套に染みついた馬の匂い。簡易魔法灯の魔力。旅商人が腰に下げた保温具。護衛の剣へかけられた錆止めの術式。それらが一度に押し寄せたのだろう。フィーネの顔色が変わった。
「フィーネ」
「......少し」
珍しく、強がらなかった。
「部屋へ戻ります」
「それがいい」
ユーフェミアは即答した。フィーネがこちらを見る。
「食事は」
「運ばせる」
「私はそこまで――」
「必要だ」
「過保護です」
「倒れられる方が面倒だ」
「言い方が気に入りません」
「なら元気になってから文句を言え」
フィーネは何か言い返そうとして、結局、黙った。フードの中の耳が少しだけ下がる。それを見て、ユーフェミアは視線を逸らした。見ていると、また怒られる。――可愛いと思ったことまで知られたら、今度こそ本当に殺されかねない。もちろん、本気ではないだろうが、たぶん、部屋へ戻ると、セリアが窓を半分閉めた。
ナディアは廊下の宿泊客を別階段へ誘導するよう宿主へ頼みに行った。ユーフェミアは暖炉の火を弱める。
「殿下」
「何だ」
「そこまでしなくても」
「煙がきついのだろう」
「......ええ」
フィーネが椅子へ座った。外套を脱ぐ。もう、この部屋には四人しかいない。セリアは知っている。ナディアも昨夜の襲撃の後に事情を共有した。だから、隠す必要はない。銀白の狐耳が現れる。耳先だけ薄い墨色。腰の後ろから一本の尾が下りた。昨夜より明るい場所で見ると、思っていた以上に毛並みが細かい。
ユーフェミアは見ないようにした。正確には、見すぎないようにした。
「殿下」
「何だ」
「見ていますね」
「見ていない」
「では、なぜ窓ではなくこちらを向いているのです」
「会話しているからだ」
「顔だけをご覧ください」
「難しい注文だな」
「殺します」
「五度目」
「本当に数えているのですか」
フィーネの耳がぴんと立つ。怒っているらしい。分かりやすい。そして、尾も一度だけ床を打った。もっと分かりやすい。
「......便利ですね」
ユーフェミアが言う。
「何がです」
「いや」
「今、絶対に失礼なことを考えましたね」
「証拠は?」
「ありません」
「なら疑惑だ」
「レオナール卿の真似をしないでください」
扉が開いた。ナディアが盆を持って戻ってくる。
「朝食です」
パン。卵。塩気の強い野菜のスープ。燻製肉。香りの弱い薄い茶。普段の宿なら香草をもっと使うはずだが、わざわざ抜いてもらったらしい。フィーネは盆を見る。
「多くありませんか」
「昨日の分です」
セリアが言う。
「全部は無理です」
「半分」
ユーフェミアが言った。
「なぜ殿下まで」
「食べろ」
「命令ですか」
「違う」
「では拒否します」
「なら頼む。食べろ」
フィーネが止まった。セリアも止まった。ナディアも止まった。ユーフェミアは三人を見る。
「何だ」
「いえ」
ナディアが顔を逸らす。
「随分と素直な頼み方ができるようになったなと思いまして」
「黙れ」
「承知しました」
フィーネはしばらくユーフェミアを見ていた。やがて、
「......半分だけです」
「ああ」
スープへ手を伸ばす。耳が少しだけ立った。ユーフェミアは何も言わなかった。言えば食べるのをやめそうだった。しばらく、食器の触れる小さな音だけが部屋に残った。昨夜までなら、こんな時間を無駄だと思ったかもしれない。地脈測定値を整理する方がいい。第五環の報告書を書く方がいい。本国へ送る暗号伝令文を推敲する方がいい。
だが今は、フィーネがパンを一口ずつ食べているのを確認することにも、意味がある気がした。少なくとも、倒れられては困る。仕事上。そういうことにしておく。
「殿下」
ナディアが低い声で呼んだ。
「何だ」
「顔に出ています」
「何が」
「いえ。何でも」
「言え」
「仕事上、ですね」
「そうだ」
「承知しました」
絶対に承知していない返事だった。向かいでは、セリアが茶を飲みながら天井を見ている。フィーネだけがスープへ集中していた。ただし、尾先が椅子の脚の横で小さく揺れていた。食事が半分ほど終わったところで、ナディアが地図を広げた。
「予定を変える必要があります」
「王都への帰還か」
「はい」
本来なら、今日中にベルネスを出発する予定だった。合同地脈視察は成功。第五環の物理修復も完了。測定値にも小さな改善が出た。あとは王都へ戻り、両国の正式記録として報告する。それが外交使節として正しい動きだ。だが、ナディアの視線がフィーネの耳へ向いた。すぐに逸れる。
「この状態で王都へ入るのは危険です」
「外套とフードで隠せます」
フィーネが言う。
「街門検査は?」
「貴族用通路を使えば」
「王都内の宮廷出仕は」
「しばらく体調不良ということにします」
「その間に耳飾りを直せるのか」
ユーフェミアが聞いた。フィーネの手が止まった。左耳。今は布に包まれた壊れた《封耳環》が机の隅に置かれている。
「......分かりません」
「専門の魔道具師は?」
「見せられません」
即答だった。
「構造を調べれば、私の血筋まで辿られる可能性があります」
「なら自分で直す?」
「できるなら昨夜やっています」
珍しく少し刺々しい。耳が下がった。ユーフェミアはそれ以上聞かなかった。壊れたのは魔道具だけではない。母親が幼い頃から与えていたものだと、昨夜聞いた。五歳から、王都へ出る時には必ず着けていた。十二歳で母が死んだ後も、ずっと、フィーネにとっては、身分を守る道具であると同時に、母親の形見でもある。
「お嬢様」
セリアが静かに言った。
「白楡館なら」
フィーネが顔を上げた。
「セリア」
「奥様のお品は、まだ残っています」
「何の話だ」
ユーフェミアが聞く。フィーネは答えなかった。代わりにセリアを見る。止めるような視線だった。セリアは一度だけ迷った。だが、
「ラグランジュ家の本邸です。領都ヴァレーヌ郊外の《白楡館》」
「セリア」
「お嬢様。王都へ戻って三週間部屋に籠もるおつもりですか」
「三週間とは言っていません」
「一週間?」
「......」
「三日?」
「......」
「直す方法はおありで?」
「ありません」
「でしたら探しましょう」
フィーネが黙る。セリアは続けた。
「白楡館には、奥様が使っていた古い研究道具が残っています。今は領地実務の多くを領都で処理しているため、館への人の出入りも多くありません」
「母の研究道具?」
ユーフェミアが聞く。
「すべてではありません。私は中身まで知りません」
セリアはきっぱり言った。
「ただ、奥様が亡くなられた後、お嬢様のお父上が何も捨てずに保管なさった部屋があります」
フィーネの視線が落ちた。父。母。どちらの名前も、この令嬢は簡単には口にしない。
「場所は?」
ナディアが地図を覗き込む。
「領都ヴァレーヌ郊外です。王都へ戻る道を途中で西へ外れ、さらに領都まで進む必要があります」
ナディアが距離を測る。
「王都へ戻るだけの場合より、数日は余計にかかります」
「天候が荒れれば、もっと」
「護衛を増やす必要があります」
「目立ちませんか」
「増やしすぎれば」
ユーフェミアは地図を見る。王都へ戻る。正規の報告をする。それが一番安全に見える。だがフィーネは、壊れた耳飾りを直せない。しかも、第五環を修復して以降、彼女の感覚は明らかに鋭くなりすぎている。このまま王都の人混みへ入れるのは、危険だ。
「白楡館へ行く」
「殿下」
フィーネがすぐに顔を上げた。
「決めないでください」
ユーフェミアは口を閉じた。一瞬、言いかけた言葉を飲み込む。――お前のためだ。そう言えば簡単だ。だが、昨夜、自分で言った。公表するかはお前が決めろ、と、なら。行き先も同じだ。
「訂正する」
フィーネが少しだけ目を見開く。
「私は白楡館へ行く方が合理的だと思う」
「理由は?」
「三つ」
ユーフェミアは指を一本立てる。
「第一。お前の耳飾りを修理できる手掛かりがある可能性がある」
二本目。
「第二。王都へ戻れば、昨日の合同視察についてすぐ王宮から聴取を受ける。今のお前は人前へ出にくい」
三本目。
「第三。お前の母親が古代術式を知っていたなら、第六環以降の資料が残っている可能性がある」
フィーネは黙って聞いている。
「ただし」
ユーフェミアは手を下ろした。
「決めるのはお前だ」
室内が静かになった。セリアが何も言わない。ナディアも、フィーネの銀白の耳だけが、ほんの少し動いた。伏せていた耳が、ゆっくり立つ。
「......ずるいですね」
「何が」
「そう言われると、断りづらい」
「断ってもいい」
「本当に?」
「ああ」
「では王都へ戻ります」
「分かった」
ユーフェミアは即答した。フィーネが黙る。
「何だ」
「止めないのですね」
「お前が決めたならな」
「......」
「戻るのか?」
数秒、フィーネは目を閉じた。そして、
「白楡館へ行きます」
「分かった」
「今度は嬉しそうですね」
「いつもと同じだ」
「便利ですね、その返事」
「お前に教わった」
「返してください」
「もう私のものだ」
フィーネの尾が床を一度叩いた。怒っている。たぶん、――いや、耳は立っている。尾は少し揺れている。怒っているだけではないらしい。面白い。そう思ってしまった瞬間。フィーネの目が細くなる。
「殿下」
「何だ」
「今、尻尾を見ましたね」
「見えていた」
「見ないでください」
「無理だ」
「努力してください」
「三度目」
「数えるなと言っているでしょう!」
結局。出発は昼過ぎになった。フィーネの体調を考え、馬ではなく四人乗りの箱馬車を使う。護衛はフェンリシア側から二名。レグリア側には、合同視察後の追加測量のため旧街道を通ると届け出た。嘘ではない。白楡館へ向かう途中にも測定地点はいくつかある。ただし、目的の全部を話していないだけだ。




