表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
98/112

第87章 シベリアの渇水と血の決断

1944年11月。


西半球の巨大な竜であるアメリカ合衆国の「マニュファクチャリング・モンスター(大量生産の怪物)」が、パナマ運河パナマ・カナルの破壊という絶望をバネにして、大英帝国グレートブリテン奪還のためにその天文学的な全質量を大西洋アトランティック・オーシャンへと叩きつけていた頃。


ユーラシア大陸の最深部、すでに身を切るような極寒の吹雪が吹き荒れ、広大な大地が凍てつく白い地獄へと変貌しつつあったシベリア平原においても、人類史上最も血塗られた巨大な歯車が、重く、不気味な軋み音を立てて回り始めようとしていた。


およそ3年前の1941年11月、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツの狂気的な軍靴によって首都モスクワを完全に蹂躙され、国家の中枢を物理的に抉り取られたソビエト連邦。


しかし、ヨシフ・スターリンをはじめとする共産党指導部と数百万の赤軍残党は、決して白旗を揚げることはなかった。彼らは、モスクワ陥落の直前に数千もの軍需工場を文字通りネジ一本、旋盤一台に至るまで解体し、過酷なウラル山脈を越えて広大なシベリアの奥地へと疎開させるという、常軌を逸した「国家機能の物理的移転」を完遂していたのである。


だが、極寒のウラル以東へ逃げ延びた彼らを待っていたのは、安息ではなく「緩やかな餓死と凍死」という絶対的な絶望であった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1944年11月5日 午前8時00分

ウラル山脈東麓 エカテリンブルク(臨時首都)

ソビエト連邦亡命政府・最高司令部スターフカ地下壕

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「……南のアジア戦線からの最終報告です。インド中央部の要衝ナグプールを陥落させた豊栄大日本帝国の『双頭の陸軍』は、そのままインド亜大陸を東西に食い破り、ついに西海岸の最大軍港都市ムンバイへと到達し、大英帝国グレートブリテンの息の根を完全に止めました」


エカテリンブルクの地下数十メートルに急造された、コンクリート剥き出しの最高司令部スターフカ。その凍りつくような薄暗い部屋で、ソ連赤軍の最高司令官代理、ゲオルギー・ジューコフ上級大将が、血の気の失せた顔で重々しく報告した。


机の奥で、パイプの紫煙を深く吐き出したのは、ソビエト連邦共産党中央委員会書記長ゲンセーク、ヨシフ・スターリンであった。


彼の黄色く濁った双眸には、首都を失った敗残者の悲哀など微塵もなく、ただ血に飢え、檻に閉じ込められた狂暴なシベリア熊のような冷徹な輝きだけが宿っている。


「日本の機動艦隊がインド洋を封鎖し、陸からはインド亜大陸が完全に横断・制圧された。……つまり、我々がアメリカから兵器と物資を受け取っていた最大の生命線たる『ペルシャ・インドルート』は、これで完全に、そして永久に消滅したということだな」


スターリンの低く掠れた声が、地下室の冷気をさらに一段と引き下げた。


ソビエト連邦を取り巻く地政学的な包囲網は、まさに完璧を極めていた。

北極海アークティック・オーシャンのムルマンスク航路は、ドイツ海軍の潜水艦隊(Uボート)と超弩級戦艦『ティルピッツ』によって完全に封鎖されている。極東の海は、太平洋を内海とした豊栄大日本帝国の圧倒的な機動艦隊の壁に阻まれ、一隻のアメリカ輸送船すら近づけない。そして頼みの綱であった南のインドルートも、日本の進撃によって物理的に完全に切断された。


ユーラシア大陸において、ソビエト連邦は外界から完全に隔離された「絶対的な孤児」と化していたのである。


「……書記長同志トヴァーリシチ・ゲンセーク。問題は、アメリカからの兵器の枯渇だけではありません」


ジューコフ上級大将は、手元の分厚い生産台帳を強く握りしめ、血を吐くような声で言った。


「我が祖国ロージナの『血』が、完全に底を突こうとしています。3年前にモスクワと共にコーカサス方面へのアクセスを断たれた我々は、現在、カザフ・ソビエト社会主義共和国の北部などに点在する小規模な油井から、細々と原油を絞り出しています。しかし、その微々たる産出量では、数百万の赤軍と無数の戦車タンークを維持することは物理的に不可能です。過去の備蓄ストックを切り崩してなんとか工場を回していますが……今年の冬を越す前に、我が軍のすべてのエンジンは完全に沈黙し、数百万の兵士がシベリアの雪原で凍死・餓死することになります」


外部からの補給ゼロ。自国でのエネルギー調達不能。

ソビエト連邦という巨大な軍事機構は、まさに「数ヶ月後の完全なる機能停止(国家死)」という時限爆弾のタイマーを突きつけられていた。


「……座して凍死を待つのは、我々スラヴの民の作法ではない」


スターリンはパイプを灰皿に叩きつけ、立ち上がって壁面に掲げられた広大なユーラシアの地図を睨みつけた。


「備蓄の燃料が数ヶ月分しか残っていないのなら、その残された最後の一滴を、すべて一台の戦車の燃料槽タンクに注ぎ込め。我々には、全戦線で一斉に反攻に転じるような兵力も油もない。ならば、すべての質量を一箇所に集中させた『絶対的な一点突破』あるのみだ」


スターリンの太い指が、ウラル山脈の分厚い防衛線を強引に横切り、モスクワとは全く違う方向──すなわち「南西」へと一直線に引かれた。


「目標はモスクワではない。ファシストから首都を奪還するという政治的感傷は完全に捨てろ。我々が向かうのは、ヴォルガ川の下流域『スターリングラード』、そしてその先にあるカスピ海沿岸──帝国最大のエネルギーの心臓部たる『バクー油田』だ」


その冷酷極まる国家生存戦略の開陳に、ジューコフら幕僚たちは息を呑んだ。


「アメリカの援助が来ないのなら、我々自身の血と鉄で、シベリアからバクーに至る長大な『パイプライン(進撃路)』を地形ごと切り拓く。途中に立ち塞がるドイツ東方軍の装甲師団は、我々の戦車の残骸と兵士の肉塊で完全にすり潰せ。……一両の戦車がバクーの油田に辿り着くために、一万両の戦車がウラルの泥に沈もうとも構わん。生き残るための、背水のアタックだ」


スターリンは、狂気的な決断の理由をもう一つ付け加えた。彼の濁った瞳には、世界地図の西側で起きている巨大な地殻変動を見透かす、冷徹な梟雄の光が宿っていた。


「我々が今この瞬間に一点突破を狙うのは、単にこちらに燃料の余裕がないからだけではない。……今、ファシストの独裁者ヒトラーの目は、完全に西の『イギリス本土』に釘付けになっているからだ」


数日前、アメリカ合衆国の無尽蔵の工業力が吐き出した天文学的な数の上陸船団が、ついにイギリス西海岸へと強行上陸オペレーション・リターン・キングを開始した。

このアメリカ軍の暴力的な上陸を粉砕するため、ヒトラーとルントシュテット元帥は、東部戦線(ウラル防衛線)で無傷のまま温存されていた『ティーガーI』や『パンター』を擁する最強の精鋭装甲師団のすべてを、西ヨーロッパへと緊急引き抜きさせていたのである。


ウラル山脈西麓に陣取るドイツ国防軍・東方軍(司令官:フェードア・フォン・ボック元帥)は、185万という膨大な兵力を擁してはいるものの、その中身は士気も装備も劣るルーマニア軍やハンガリー軍といった同盟国軍が多くを占め、装甲戦力の質も旧式のIII号戦車やIV号戦車が主体となるなど、明らかな「極限の質の空洞化」を起こしていた。


「アメリカ軍が西で死の囮となってくれている今こそが、ドイツの防衛線に生じた『黄金の隙』だ。極東(満州国境)で日本軍を睨んでいるシベリア管区の兵力も、最後の一兵まですべてこのウラル戦線へ引き抜け。日本軍は我々に干渉してこない。我々がシベリアの工場で産み出した『最新の牙』のすべてを、バクーへ向けて叩き落とせ!」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1944年11月10日 午後3時00分

ウラル山脈東麓 チェリャビンスク(通称:タンコグラード)

第183ウラル戦車工場

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


スターリンの冷徹な決断を物理的な「力」へと変換するため、エカテリンブルクの南に位置する巨大な工業都市チェリャビンスク──通称『タンコグラード(戦車都市)』では、人間の尊厳を完全に無視した狂気的な大量生産が行われていた。


「手を休めるな! ノルマを達成できない者は反逆罪でシベリアの奥地のラーゲリ(強制収容所)送りだぞ!」


NKVD(内務人民委員部)の政治将校が、PPSh-41短機関銃を片手に怒号を飛ばす。


およそ3年前、ウクライナのハリコフ機関車工場からドイツ軍の進撃を逃れて数千台の貨車でこの極寒の地へ「疎開」してきた第183ウラル戦車工場。その巨大な建屋には屋根すらまともに完成していない箇所があり、零下三十度の冷風と雪が直接吹き込む中、工員たちが凍傷で指を真っ黒に変色させながらアーク溶接の火花を散らしている。


熟練の職人マイスターたちは過酷な環境と飢えですでに多くが死に絶え、今ここで溶接トーチを握っているのは、強制動員された女性や、10代の子供たちであった。


だが、彼らが粗悪な設備と劣悪な鋼材で強引に組み上げているのは、もはやかつての弱力な76ミリ砲を積んだT-34ではなかった。ドイツ軍の分厚い装甲を持つ『ティーガーI』や『パンター』に対抗するため、ハリコフ機械製造工場設計局(第520設計局)のアレクサンドル・モロゾフ技師らが血の滲むような執念で開発を急いだ、ソ連赤軍の最新鋭中戦車──『T-34/85』であった。


「……第9砲兵工場から、主砲のロットが到着したぞ! すぐに砲塔へ組み込め!」


彼らがクレーンで吊り上げているのは、第9砲兵工場が対空砲をベースに極限まで火力を引き上げた強力な『ZiS-S-53 85ミリ戦車砲』である。この長大な主砲を搭載するため、砲塔は従来の窮屈な2人用から、車長・砲手・装填手が搭乗できる巨大な3人用砲塔へと完全に設計変更されていた。


アメリカ・デトロイトの「システム化された規格生産マニュファクチャリング」とも、日本の和泉堺が取り仕切る「極限の規格統一(堺公差)」とも全く異なる、共産主義国家特有の「人命と血を潤滑油にした粗製濫造の暴力」。


彼らが造り出すT-34/85は、装甲の切断面が荒々しくギザギザのままであり、溶接のビード(跡)は見るに堪えないほど雑であった。砲塔の旋回ギアは不快な摩擦音を立て、車内には無線機はおろか、まともな座席すら設置されていない車両も多い。


だが、この戦車には、シベリアの泥濘と深い雪原を走破するために設計された広幅の履帯キャタピラと、被弾を滑らせる洗練された『傾斜装甲』、どんな極寒の中でも確実に始動するアルミ合金製の『V-2 12気筒水冷ディーゼルエンジン』、そして何よりも、ドイツの重戦車の装甲を至近距離からならブチ抜くことができる『85ミリ砲』という、生存のための絶対的な「本質」だけが詰め込まれていた。


「……また一両完成したぞ。次だ!」


女性の工員がハンマーで砲塔を叩いて合図を送ると、V-2ディーゼルエンジンが凄まじい黒煙を吹き上げて始動した。まだ溶接の熱が残るT-34/85が、冬季迷彩の白ペンキを雑に塗りたくられただけで、工場の出口から直接、最前線へ向かう貨車へと自走して乗っていく。


熟練工を排除し、品質を極限まで妥協することで、このタンコグラードからは毎日、何十両、何百両という単位で最新鋭のT-34/85の群れが文字通り「湧き出していた」。それは、芸術的なティーガーを作り上げるドイツの職人たちには決して理解できない、自らの人民の命を使い捨てる狂気の生産力であった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1944年11月25日 午前5時30分

ウラル山脈西麓・ペルミ近郊

ドイツ国防軍 東方軍オストヘーア前線防衛陣地

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


凍てつく吹雪が視界を白く染め上げる、ウラル山脈西側の長大な防衛線フェルタイディグングスリーニエ。ドイツ国防軍・東方軍の前線陣地では、極寒の中で不気味なほどの静けさが漂っていた。


「……静かすぎますな。昨年の冬にあれほど我々の陣地へ自爆突撃を繰り返していたボリシェヴィキの歩兵どもが、この数週間、ただの一度も山脈の国境線を越えてきません」


防空壕ブンカーの観測スリットから双眼鏡を覗き込んでいたドイツ軍の歩兵中尉が、白く凍りついた息を吐きながら怪訝な顔で呟いた。


「嵐の前の静けさというやつだ。スターリンの狂犬どもが、大人しくシベリアの奥で凍死を待っているはずがない」


ドイツ国防軍・第14装甲師団の戦車連隊長、ヨハン・シュトラーゼ少佐が、愛機である長砲身7.5センチ砲搭載の『IV号戦車(G型)』のキューポラに寄りかかりながら、冷徹な声で応じた。


東方軍司令官フェードア・フォン・ボック元帥の指揮下にあるこの防衛線は、確かに185万という膨大な兵力を擁していた。しかし、最前線の塹壕に立たされているのは士気も練度も低いルーマニア軍やハンガリー軍の兵士たちであり、最強の盾となるはずの『ティーガーI』や新鋭の『パンター』戦車の多くは、総統フューラーアドルフ・ヒトラーの厳命によって、アメリカ軍が上陸したイギリス本土の『要塞イギリス』防衛のために、すべて西ヨーロッパへと引き抜かれてしまっていた。


残されたシュトラーゼ少佐たち少数のドイツ兵は、マイバッハ・HL120TRMエンジンを搭載した旧式のIII号戦車やIV号戦車を雪に埋めてトーチカ代わりにし、クルップ社製の『8.8センチ FlaK36』高射砲を並べて、何とか防衛線の厚みを保とうと必死に足掻いていたのである。


その時だった。


「……中隊長殿! 足元が……地面が震えています!」


歩兵中尉が、血の気を失った顔で雪の積もる地面に手をついた。


ズズズズズズ……。


遠く東の地平線──ウラル山脈の稜線の向こう側、猛吹雪の暗闇の中から、まるで巨大な地震のような、一定のリズムを持った重低音が響き始めたのである。それは、風の音でも、大砲の音でもなかった。


無数の大馬力ディーゼルエンジンが吐き出す暴力的な排気音と、数万本の鉄の履帯ケッテンがシベリアの凍土を同時に踏み砕く、絶望的なまでに巨大な「質量の足音」であった。


「……全軍、戦闘配置アラルム! 赤軍の装甲部隊だ! 奴らが、全質量を賭けてウラルを越えてくるぞ!」


シュトラーゼ少佐が怒鳴り、IV号戦車のハッチへと飛び込んだ。


東方の白い地平線が、巻き上がる巨大な雪煙と黒い排気ガスによって真っ黒に染め上げられていく。


燃料枯渇による国家の死を目前にしたソビエト連邦。彼らは、ドイツの精鋭装甲師団がイギリス防衛のために引き抜かれたこの「黄金の隙」を冷徹に見逃さず、残された最後の一滴の血と油をすべて最新鋭の『T-34/85』の群れへと注ぎ込んだ。南ロシア・バクー油田への活路をこじ開けるため、ヒトラーの空洞化した防衛線へ向けた「絶対的な一点突破」の狂刃を、ついに振り下ろしたのである。


ヨーロッパの泥沼とも、太平洋の空母決戦とも全く異質の、洗練された戦術すらない「純粋な鉄と肉体の削り合い(ミートグラインダー)」。

ユーラシア大陸の東端、ウラルの雪原において、人類史上最大の装甲激突の火蓋がいよいよ切って落とされようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ