第77章 王冠の落日と連動する世界
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1944年7月上旬
英領インド帝国 西海岸・最大軍港都市ムンバイ(ボンベイ)
市街地外縁部
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インド亜大陸を東西に引き裂く、長く、血みどろの泥沼の進撃。
前年、東岸のカルカッタを起点に内陸へと足を踏み入れた豊栄大日本帝国・印度中東方面軍は、アメリカの無尽蔵のレンドリース(武器貸与法)物資と、イギリス軍の狂気的な遅滞防御による天文学的な出血を乗り越え、ついにアラビア海に面した大英帝国最後の牙城、ムンバイ(ボンベイ)の市街地へとその重厚な鉄脚を踏み入れていた。
「撃て! イギリスの残党を港へ追い詰めろ! アメリカの戦車ごと海へ叩き落とせ!」
ムンバイの石造りの市街地で、島津 忠久少将が直卒する外様財閥の私兵部隊「第一機動陸戦旅団」の兵士たちが、土埃と硝煙にまみれながら吶喊を上げていた。
彼らの足元を支えているのは、南太平洋でアメリカの海軍建設工兵大隊から強奪し、細川ゴム工業の特殊パッドを履かせた黄色のキャタピラー社製D8ブルドーザーである。巨大な排土板が、バリケードとして積み上げられた土嚢や瓦礫を強引に押し退け、その背後から加賀・前田発動機製の四輪駆動大型トラックが猛スピードで雪崩れ込む。
「同胞たちよ! イギリスの軛を完全に断ち切る時が来た! このムンバイを我々自身の手で解放し、祖国を取り戻すのだ!」
トラックの荷台から拡声器で熱狂的なアジテーションを飛ばすのは、自由インド仮政府の首班、スバス・チャンドラ・ボースであった。
彼の呼びかけに呼応し、ムンバイの市街地では数万人に及ぶインド国民軍(INA)の兵士と民衆が一斉に蜂起していた。彼らの手には、日本の幕府特務機関から大量に供与された佐賀鍋島精密機械製の『三八式機関短銃』や、井伊銃器製の『三十八年式小銃』が固く握りしめられている。
ダダダダダダッ!!
市街地の至る所で、かつて大英帝国の手足として使役されていたインド人兵士たちが、イギリスの駐留部隊へ向けて一斉に反旗を翻し、猛烈な近接銃撃戦を展開していた。イギリス軍が構築した堅牢な市街陣地は、内側からの反乱と、外側からの日本軍の暴力的な火器によって、またたく間に崩壊していく。
「正面のM4シャーマンを沈黙させろ! 幕府の旦那方、出番だ!」
島津少将の要請を受け、市街地の大通りを地響きとともに進み出てきたのは、幕府直轄の正規国軍「伝習隊」の精鋭装甲部隊であった。
越前松平重工業が生み出した新鋭『四〇式中戦車 鎧』が、V12空冷ディーゼルエンジンの重低音を轟かせながら前進する。追い詰められたアメリカのM4シャーマン戦車が75ミリ砲で反撃を試みるが、『鎧』の避弾経始に優れた極厚の鋳造装甲は、その砲弾を火花とともにカンカンと弾き返した。
「距離500! 徹甲弾、撃て!」
『鎧』の長砲身75ミリ砲が火を噴き、M4シャーマンの砲塔を正面から容易く叩き割る。炎に包まれて沈黙するアメリカの鉄塊の横を抜け、伝習隊の精鋭歩兵たちが統制の取れた動きで建物内へ突入し、残存するイギリス兵を次々と掃討していった。
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同日 午後2時
ムンバイ港外 アラビア海
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陸上での絶望的な市街戦が繰り広げられる中、ムンバイの港湾部に追い詰められていたイギリス東洋艦隊の残党と、100隻を超える駆逐艦・コルベット群は、アラビア海への脱出を試みて一斉に抜錨しようとしていた。
「急げ! 機関最大! アラビア海を抜けて、アフリカ東岸か紅海方面へ逃れるのだ!」
イギリスインド防衛軍の残存司令官が、旧式戦艦『リヴェンジ』の艦橋で悲鳴のように叫ぶ。
彼らの耳にはすでに、ムンバイの市街地から迫る日本軍の重砲の着弾音が響いている。もし港内に留まれば、陸上からの砲火によって全艦がスクラップにされるのは時間の問題であった。
「司令官! 日本軍の機動部隊が沖合で待ち伏せている危険はありませんか!」
幕僚が震える声で尋ねるが、司令官は血走った目で首を横に振った。
「その心配はない! 通信傍受班の報告によれば、日本の『第二機動艦隊』をはじめとする主力空母群はすべて、アメリカ軍の反攻を迎え撃つために遥か東のハワイや中部太平洋へと引き抜かれている! 今、このアラビア海には、我々を押し留めるだけの『日本の機動部隊』は存在しないのだ!」
日本の冷徹な計算も、すべてを同時に覆い尽くすことはできなかった。
アメリカ合衆国の「マニュファクチャリング・モンスター」が太平洋へ投射した天文学的な質量を迎え撃つため、帝国海軍はインド洋の制海権維持を二線級の警備部隊に任せ、主力の機動艦隊をすべて太平洋へと集中させていたのである。
「日本の空母がいない今が、我々が生き延びる最後のチャンスだ! 全艦、港外へ突破せよ!」
『リヴェンジ』をはじめとする旧式戦艦群と、ダイナモ作戦で見捨てられた本国の防衛を犠牲にしてまで極東へ逃がされていた無数の駆逐艦・コルベット群が、黒煙を猛烈に噴き上げながらムンバイの港外へと一斉に脱出を図った。
日本の潜水艦や、陸上基地から発進した小規模な『天山』の雷撃隊が散発的な攻撃を仕掛けてきたが、100隻を超えるイギリス小型艦艇が織りなす「ハリネズミの防空陣形」を突破することはできず、数隻の駆逐艦を沈めるにとどまった。
「……抜けたぞ! アラビア海だ!」
夕闇が迫る中、イギリス東洋艦隊の残党は、陸からの猛攻を間一髪で背後に躱し、水平線の彼方、アフリカ東岸と紅海へと向けて、無傷の主力艦艇とともに脱出に成功したのである。
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同日 夕刻
ムンバイ 旧インド総督府別邸
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夕陽がアラビア海を血のように赤く染め上げる頃。
ムンバイの市街地を完全に制圧した印度・中東方面軍総司令官、山下 奉文中将は、半壊した白亜の総督府別邸のバルコニーに立ち、沖合へと遠ざかっていくイギリス艦隊の黒煙を見下ろしていた。
彼の傍らには、煤と泥にまみれた島津忠久少将と、歓喜の涙を流すスバス・チャンドラ・ボースが並んでいる。
「……イギリスの艦隊を、海へ逃がしてしまいましたな」
島津少将が、銀張りのケースから葉巻を取り出して火をつけながら、微かに眉をひそめた。
「構わんさ」
山下中将は、巨大な腕を組み、重く息を吐き出した。
「海軍の旦那方が太平洋でアメリカの巨竜と全兵力で殴り合っているのだ、すべての海を封鎖しろというのは酷な話だ。我々の任務は、このインド亜大陸から大英帝国の支配を物理的に叩き出すことであり、それは今、完全に達成された。……逃げた残党が海の上でどれほど息巻こうと、還る港も資源もなければ、いずれ干上がるだけのただの難民に過ぎん」
ボースは両手を高く掲げ、バルコニーの下に集まった数万のインドの民衆へ向けて勝利を宣言した。大英帝国が二百年かけて築き上げた絶対的な植民地支配は、豊栄大日本帝国の圧倒的な物理力と法理、そして冷徹な戦略ドミノによって、完全に歴史の彼方へと葬り去られたのである。
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数日後
カナダ・オタワ 英亡命政府臨時首都
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インド喪失の報は、絶望的な暗号電文となって、凍てつく新大陸カナダのオタワへと届けられた。
「……ボンベイが陥落しました。インド防衛軍は完全に崩壊し、亜大陸全土が日本軍とチャンドラ・ボースの支配下に置かれました」
外務大臣のアンソニー・イーデンが、血の気を失った顔で報告書を読み終えると、臨時首相執務室には、死のような、恐ろしいほどの静寂が下りた。
大英帝国首相、ウィンストン・チャーチルは、暖炉の火を見つめたまま、微動だにしなかった。その手から、火の消えた葉巻がポロリと床に落ちる。
「……王冠が、ついに落ちたか」
チャーチルは、絞り出すような声で呟いた。
本国ロンドンをナチス・ドイツに占領され、オーストラリアの租界を失い、そして今、国家の生命線であった「インド」を完全に失った。
「ですが、首相閣下」
イーデンは、別の電報を震える手で差し出した。
「東洋艦隊の残党、および100隻を超える駆逐艦群は、日本の機動部隊がハワイ方面へ不在であった隙を突き、アラビア海から紅海方面への脱出に成功しました。彼らは現在、アデン湾から地中海、あるいはアフリカ東岸の拠点へと向かっています。我が王立海軍の物理的な質量は、まだ海の上に健在です!」
その報告を聞いた瞬間、死人のようだったチャーチルの瞳に、微かな、しかし獰猛な光が蘇った。
「艦隊が生き残ったか……。ならば、大英帝国はまだ死んではいない」
その時、執務室のドアが開き、アメリカのフランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領からの親書が届けられた。
チャーチルは封を切り、その冷徹な文面に目を通した。
『──インドの喪失は遺憾である。しかし、極東から脱出に成功した貴国の残存艦隊は、合衆国にとって極めて有用な資産だ。これより、大英帝国の残存するすべての艦艇、人的資源、諜報網は、合衆国欧州遠征軍の完全な指揮下に組み込まれる。我々の巨大な生産力で貴国を完全武装させ、共にヨーロッパ本土へ反攻(ノルマンディー上陸)を開始する。……これより、我々は完全に『一つ』である』
「……『一つ』だと? 見え透いたことを」
チャーチルは、親書を握り潰し、忌々しげに息を吐いた。
「ルーズベルトめ。インドという担保を失った我々に、もはやアメリカと対等に交渉するカードはないと踏んで、大英帝国の残骸を合衆国の『属国』として完全に吸収し、自らの世界制覇のための前衛の盾として使い潰すつもりなのだ」
世界の四分の一を支配したパクス・ブリタニカは、ここに完全に死を迎えた。イギリスは自らの主権と誇りをすべてアメリカへ売り渡し、ルーズベルトの放つ「マニュファクチャリング・モンスター」の一部として、ヨーロッパでの血みどろの反攻作戦にその命を捧げるだけの存在へと成り下がった。
だが、チャーチルは脱出した艦隊という「最後の剣」を握りしめ、新大陸の懐深くで、いつの日か必ず祖国を奪還するという怨念の火を静かに燃やし続けていたのである。
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同年7月中旬
エジプト・シナイ半島西部 スエズ運河東岸
ドイツ・アフリカ軍団(DAK)最前線防衛陣地
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大英帝国の死という巨大な地殻変動は、中東の灼熱の砂漠においても決定的な連動を引き起こしていた。
「対空警報! 敵機来襲! アメリカの四発重爆撃機です!」
シナイ半島の乾いた熱風を切り裂くような警報サイレンが鳴り響く。
ドイツ・アフリカ軍団司令官、エルヴィン・ロンメル元帥は、防塵ゴーグルを額に押し上げ、目を細めてギラギラと照りつける太陽を見上げた。
雲一つない青空の彼方から、腹の底を揺るがすような巨大なエンジン音とともに姿を現したのは、アメリカ陸軍航空軍の『B-24 リベレーター』重爆撃機の大編隊であった。さらにその周囲には、護衛の『P-51 マスタング』戦闘機が、銀色の美しい層流翼を輝かせながら死神のように飛び回っている。
ドゴォォォォンッ!! ズガァァァンッ!!
絨毯爆撃のように投下された無数の爆弾が、ドイツ軍の塹壕や、スエズ運河に架けられたポンツーン橋(浮き橋)を次々と粉砕していく。
「元帥閣下! ギリシャから地中海を越えて届けられるはずだった補給船団が、またしてもアメリカ軍の空爆で全滅しました! 我々の手元に届くガソリンは、これで十日連続でゼロです!」
アフリカ軍団参謀長、フリッツ・バイエルライン少将が、ひび割れた唇から絶望的な声で報告した。
ロンメルの顔は、極度の疲労と喉の渇きで土気色に染まっていた。
彼らは前年、イギリス軍の防衛線を突破してついにスエズ運河を渡河し、シナイ半島へと足を踏み入れていた。スエズを越えて中東の油田地帯へ打通し、インド洋の日本軍と握手を交わすという「ユーラシア横断の夢」が、まさに手の届くところにあった。
だが、アメリカの「マニュファクチャリング・モンスター」は、彼らがそれ以上歩みを進めることを決して許さなかった。連合軍がイタリア本土で泥沼の戦いを繰り広げているにもかかわらず、アメリカは無尽蔵の航空機をこのスエズ戦線へ投射し続け、ロンメル軍団の「血管」である地中海ルートを完全に食い破っていたのである。
「……第10装甲師団の状況はどうなっている」
「全滅寸前です。燃料タンクは完全に空。クライスト大尉の『ティーガーI』も、砂に埋めて固定砲台として使っている状態です。8.8センチ砲の弾薬も、一両あたり数発しか残っていません」
もはや、軍団に砂漠を踏破して中東へ進撃する力など一ミリも残されていなかった。完全なる「壊滅直前」である。
「元帥閣下、このままでは全軍が砂漠で干上がって全滅します。運河を西へ戻り、撤退を……」
バイエルラインが進言しかけたその時、通信兵が血相を変えて天幕に飛び込んできた。
「ベルリンから、緊急の暗号電報です!……極東の同盟国(日本軍)が、インド西岸のムンバイを完全に制圧したとのこと! 陸上のイギリスインド防衛軍は消滅しました!」
その報告を聞いた瞬間、ロンメルの窪んだ眼窩の奥に、ギラリとした野生の光が宿った。
「……日本軍が、インドを落としただと?」
「しかし、喜んでばかりはいられません!」通信兵が言葉を継ぐ。「ムンバイから脱出したイギリス東洋艦隊の残党、100隻以上の駆逐艦と旧式戦艦群が、アラビア海を抜けて紅海方面……すなわち、我々のすぐ背後の海域へと接近しつつあるとの情報です!」
ロンメルは、乾ききった唇を舌で舐めた。
背後の海からは、怒りに燃えるイギリスの残存艦隊が迫り、頭上からはアメリカの無尽蔵の爆撃機が鉄の雨を降らせている。自分たちにはもはや、イランやイラクの油田地帯へ攻め込むための燃料はない。
しかし、日本軍がインドの扉を開け放ち、アラビア海の沿岸を完全に握ったのだとすれば。
「イギリスの陸軍が消滅したのなら、スエズの東から我々の背後を脅かす『地上戦力』は完全に消滅したということだ……!」
ロンメルは、震える手で作戦机の地図を力強く叩いた。
「バイエルライン。我々は一歩も退かん! 極東の同盟国がインドを制覇したのなら、彼らのタンカーや輸送艦が、紅海を抜けてこのスエズの裏口まで無尽蔵の石油と弾薬を運んでくる『わずかな可能性』が生まれたのだ! 海からの艦砲射撃は、塹壕を深く掘って耐え抜け!」
それは、壊滅の淵に立たされた軍人が縋る、絶望的とも言える細い希望の糸であった。
しかし、その糸がある限り、砂漠の狐は決して死を迎え入れようとはしなかった。
「全軍に伝えろ! 砂漠を掘り返し、戦車をすべてトーチカ(固定砲台)として埋めろ! 弾丸が一発でも残っている限り、アメリカの爆撃とイギリスの艦砲射撃に耐え抜け!……我々はこのシナイの拠点を死守し、意地でも生き残ってやるのだ!」
ユーラシアの東で、日本の双頭の陸軍が泥と血にまみれながらも完全な勝利を掴み取り、イギリスの艦隊を海へと叩き出したその裏側で。
西から打通を夢見たドイツの狂狼は、アメリカの絶対的な物量の前に進撃を止められながらも、遠く東洋からの「福音」に命を懸け、熱砂の墓標の中でギリギリの生存闘争へとその身を投じていったのである。




