第56章 ウラルの咆哮と南方の肉盾
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1944年4月15日 午前6時
ウラル山脈西麓 エカテリンブルク近郊
ドイツ国防軍 東方軍前線司令部
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長く過酷なロシアの冬が終わりを告げ、大地を底なしの泥沼へと変えていた春の泥濘が、数日の乾いた風によってついにその表面を固くひび割れさせ始めていた。
「……泥は乾いた。総統閣下の大命を完遂する時だ」
ドイツ国防軍・東方軍司令官、フェードア・フォン・ボック元帥は、分厚い防寒外套を脱ぎ捨て、ウラル山脈の険しい岩肌を見上げながら冷徹に宣言した。
前年秋に首都モスクワを完全に陥落させ、ソビエト連邦という国家の心臓を抉り取ったドイツ軍であったが、ヨシフ・スターリンと共産党指導部はウラル山脈の東側、広大なシベリアの雪原へと逃げ延びていた。ボック元帥に与えられた兵力は、同盟国ルーマニアやハンガリーの軍勢を含め、実に185万名にも及ぶ天文学的な軍事質量であった。
「目標、エカテリンブルクに築かれたボリシェヴィキの地下要塞群。……『ドーラ』、発射準備!」
ボックの号令とともに、ウラル山脈の西側に特別に敷設された複線の巨大な鉄軌道の上で、人類史上最大の大砲がその威容を現した。
口径80センチ。砲身重量だけで400トンを超え、発射には数千人の運用要員を必要とする超巨大列車砲『ドーラ』である。
「装填急げ! 弾頭揚弾機、出力最大!」
ドーラの運用指揮官が声を枯らして叫ぶ中、数十人の砲兵が汗だくになりながら巨大なクレーンを操作する。弾薬車から吊り上げられたのは、大人の身長を遥かに超える、重量7.1トンの巨大な徹甲榴弾であった。油圧式の押し込み機が悲鳴のような金属音を立てながら、その巨大な鉄塊を砲尾の薬室へと滑り込ませる。続いて装薬の詰まった真鍮製の巨大な薬莢が押し込まれ、分厚い閉鎖機が重低音とともに完全にロックされた。
「発射準備完了!」
「撃て(フォイア)!」
ドゴォォォォォォンッ!!!
大地そのものが上下に激しく揺れ、大気が悲鳴を上げて引き裂かれた。ドーラの砲口から噴き出した数百メートルの火柱が朝靄を焼き払い、7.1トンの巨大な鉄塊が放物線を描いてウラル山脈の岩盤へと降り注いだ。
凄まじい地震のような衝撃波がエカテリンブルクの郊外を揺るがし、ソ連赤軍が岩盤をくり抜いて構築していた地下弾薬庫が、分厚い岩盤ごと物理的に粉砕されて天を突く火柱を上げた。
「全装甲師団、前進! ウラルを越え、スラヴの残党を歴史から完全に抹殺しろ!」
80センチ列車砲の砲撃を合図に、待機していた数千両のドイツ装甲部隊が、無限軌道でシベリアの大地を踏み鳴らして突撃を開始した。
「マイバッハ・エンジンの回転数を上げろ! 第一速、前進!」
ドイツ国防軍・第502重戦車大隊の中隊長、ハンス・シュミット大尉は、愛機である重戦車『VI号戦車(ティーガーI)』のキューポラから身を乗り出し、喉の奥まで振動するような突撃の号令を放った。
シュミット大尉の背後には、前面100ミリの垂直装甲と長大な8.8センチ砲を突き出したティーガーIの群れが、泥と氷の混じった大地をゴリゴリと削りながら突き進んでいる。車内には、ガソリンと焼けたオイルの匂い、そして緊張で滲み出た男たちの濃密な汗の匂いが充満していた。
「敵陣地、距離1,500! 徹甲榴弾装填よし!」
「撃て!」
ティーガーの8.8センチ砲が凄まじい咆哮を上げ、初速800メートル毎秒の徹甲弾がソ連軍の塹壕線へと容赦ない雨となって降り注ぐ。
しかし、彼らを迎え撃つソビエト赤軍もまた、決して絶望に膝を屈してはいなかった。
「ファシストどもをウラルの土に沈めろ! 祖国のために、一歩も退くな!」
赤軍防衛司令官、ゲオルギー・ジューコフ上級大将の怒号が響き渡る。
彼らの背後、エカテリンブルクの地下や、屋根すらない零下数十度の工場群で、凍え死ぬ労働者の死体を乗り越えながら狂気的なペースで増産され続けていた無骨な鋼鉄の塊──『T-34』中戦車の群れが、地平線を埋め尽くすようにして姿を現したのだ。
「ウラァァァァァッ!!」
「敵戦車、多数! 真正面から突っ込んできます!」
シュミット大尉のティーガーの砲手が悲鳴を上げた。避弾経始に優れた傾斜装甲を持つT-34の群れは、ドイツのIV号戦車からの砲撃をカンカンと弾き返しながら、ティーガー戦車の懐へと狂乱の猛スピードで肉薄していく。
「パニックを起こすな! 我々の88ミリ砲なら距離1,000メートルからでも正面装甲を抜ける! 落ち着いて次弾を装填しろ!」
シュミットが怒鳴り、ティーガーの8.8センチ砲が次々と火を噴いてT-34を火だるまに変えていく。しかし、ソ連軍は戦車の損耗など微塵も気に留めていなかった。
前線の泥濘に掘られた塹壕の中で、ソ連赤軍の歩兵分隊長、イワン・ペトロフ軍曹は、凍りついたモシン・ナガン小銃を握りしめ、ガチガチと歯を鳴らしていた。彼らの背後には、後退する者を容赦なく射殺するNKVD(内務人民委員部)の督戦隊が機関銃を据え付けている。
「突撃だ! 手榴弾を持て! ファシストの戦車のキャタピラを切れ!」
ペトロフ軍曹の悲壮な叫びとともに、自らの肉体に爆薬を巻き付けたソ連歩兵たちが、怒涛の人海戦術でドイツ軍の装甲部隊へと雪崩れ込んでいく。
スターリンという梟雄が敷いた「一歩も退くな」という鉄の軍律。シベリアの大地は、ドイツの極限まで洗練された「質の暴力」と、ソ連の血に飢えた「絶対的な数の暴力」が正面から激突し、数万の命と鉄を瞬時にすり潰す、人類史上最悪の挽肉機と化していた。
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1944年4月20日 午後2時
ドイツ・ベルリン 総統官邸
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ウラル山脈での凄惨な激突の報告は、テレタイプを通じてベルリンの総統官邸へと絶え間なく届けられていた。
しかし、大理石の執務机を前にしたアドルフ・ヒトラーの顔には、東部戦線への期待よりも、深刻な焦燥と、狂気じみた怒りが深く刻まれていた。
「……サレルノにアメリカ軍が上陸しただと!? 裏切り者のマカロニ野郎どもめ、防衛線を一日たりとも維持できずに白旗を揚げるつもりか!」
ヒトラーは、広げられたヨーロッパの地図の「イタリア半島」を激しく拳で叩いた。
数日前の4月10日、アメリカ合衆国の規格化された「マニュファクチャリング・モンスター」が、数千隻の上陸船団と天文学的な数のM4シャーマン戦車をもって、イタリア本土・サレルノの砂浜へと直接上陸(アヴァランチ作戦)を敢行したという凶報である。
イタリアの沿岸守備隊はアメリカの艦砲射撃の前にわずか数時間で粉砕され、アメリカ第5軍はナポリへ向けて北上を開始しようとしている。
「総統閣下。南方総軍司令官のアルベルト・ケッセルリンク元帥より、緊急の救援要請が届いております」
国防軍最高司令部(OKW)総長、ヴィルヘルム・カイテル元帥が、重々しい足取りで進み出た。
「現在、ケッセルリンク元帥は、アメリカ軍の北上を食い止めるため、ローマの南方に位置する急峻なアペニン山脈に『グスタフ・ライン』と呼ばれる防衛線の構築を急いでおります。しかし、アメリカ軍の無尽蔵の砲弾と爆撃の前に、イタリア軍の残存部隊だけでは数日と持ちません。……イタリア戦線を維持し、ローマを死守するためには、ウラル方面の東部戦線、あるいはフランス防衛に回している精鋭装甲師団や降下猟兵部隊を、直ちにイタリアへ『救援』として振り向ける必要があります」
「ふざけるなッ!」
ヒトラーは血走った目でカイテルを睨みつけ、唾を飛ばした。
「ウラルを越えてスターリンの息の根を止めるための貴重な装甲戦力を、足手まといのイタリア人を救うために割けというのか! イタリアが降伏し、アメリカ軍がアルプス山脈を越えて雪崩れ込んでくれば、大ゲルマン帝国の『柔らかい下腹』が完全に食い破られることになるのだぞ!」
怒りと恐怖が交錯する中、ヒトラーは地図上のイタリア半島を赤鉛筆で乱暴に塗りつぶした。
「……よかろう。東部戦線の予備兵力から独立重戦車大隊を抽出し、ただちに列車でイタリア半島へ急送せよ。シチリアで奮戦した第1降下装甲師団『ヘルマン・ゲーリング』の残存部隊と合流させ、グスタフ・ラインの防衛に充てろ」
ヒトラーは冷酷な命令を下した。
「ただし、イタリア人どもを無傷で守ってやる必要はない。我々の精鋭部隊が配置につくまでの間、イタリア王立陸軍の残党どもを最前線の『肉の盾』として塹壕に立たせろ。一歩でも逃げようとする者がいれば、我が軍の機関銃で背後から撃ち殺して構わん。……ローマが陥落する最後の日まで、イタリアの国土とイタリア人の血を限界まで使い潰して、アメリカの進撃を遅滞させるのだ!」
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1944年4月25日 午前10時
イタリア半島中部 山岳地帯『グスタフ・ライン』
カッシーノ修道院周辺 ドイツ・イタリア合同防衛線
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サレルノに上陸したアメリカ第5軍が北上を開始したイタリア半島中部。
ローマの南方に横たわる急峻なアペニン山脈は、青々とした春の装いを完全に剥ぎ取られ、塹壕と鉄条網が張り巡らされた無慈悲な要塞線『グスタフ・ライン』へと変貌しつつあった。
「もっと深く掘れ! アメリカの155ミリ榴弾砲が降ってくるぞ! 止まるな、マカロニ野郎ども!」
岩肌の露出した斜面で、ドイツ軍の政治将校であるフランツ・バウアー大尉が、MP40短機関銃を空へ向けて威嚇射撃を行い、イタリア王立陸軍の歩兵たちを怒鳴りつけていた。
泥と汗にまみれ、支給された僅かな黒パンをかじりながら塹壕を掘らされているイタリア軍歩兵中隊長、アルベルト・ロッシ大尉の瞳には、かつての同盟国に対する激しい憎悪と、救いようのない絶望が満ちていた。
「……我々は、一体何のために祖国の山を削っているのだ」
ロッシ大尉は、血の滲む手でツルハシを握りしめながら呟いた。
北アフリカで数十万の兵を失い、シチリアの防衛戦でも無残に散ったイタリア軍。国民は戦争に疲れ果て、権威を失墜したムッソリーニはもはやドイツの傀儡でしかない。アメリカ軍へ白旗を揚げれば楽になれると誰もが分かっているのに、彼らは背後からドイツ軍の銃口を突きつけられ、アメリカの圧倒的な火力の前に「肉の盾」として立たされているのだ。
「ドイツの連中は、我々イタリア人を盾にして時間を稼ぎ、自分たちの重戦車を後方の安全な陣地に隠している。……このままでは、アメリカの砲弾が降る前に過労で全滅だ」
ロッシが怨嗟の声を漏らしたその時、山麓の谷間から、けたたましい蒸気機関車の汽笛と、重々しい金属の軋む音が響き渡った。
「見ろ……増援だ。ベルリンから急送されてきた『本物の化け物』たちだ」
バウアー大尉が忌々しげな顔を歪めるイタリア兵たちを嘲笑いながら、谷底を指差した。
敷設されたばかりの軍用鉄道の貨車から、何十両もの無骨な灰色の鉄塊が、巨大なクレーンによって次々とイタリアの大地へと降ろされている。
ドイツ国防軍・第1降下装甲師団『ヘルマン・ゲーリング』に所属する重戦車『VI号戦車(ティーガーI)』の群れであった。
「……イタリアの山並みは美しいが、血と硝煙には似合わんな」
ティーガーのハッチから身を乗り出し、黒革の戦車兵手袋をはめ直しながら周囲を見渡したのは、マクシミリアン・フォン・マイヤー大尉であった。
シシリー島での凄惨な水際反撃を生き延び、一度は本土へ退きかけた彼ら精鋭装甲部隊は、ヒトラーの厳命により再びこのイタリアの死地に呼び戻されたのである。
「大尉。イタリア軍の歩兵どもが前衛の塹壕掘りを終えました。我が中隊は、あの山頂の修道院の直下、岩陰のハルダウン陣地へ入れとのことです」
副官の報告に、マイヤー大尉は双眼鏡で南の地平線を睨みつけた。
「アメリカの成金どもめ。船と戦車の数を揃え、サレルノの砂浜を更地にすれば、この険しいイタリアの山を越えられるとでも思っているのか」
マイヤー大尉の冷徹な声が、ティーガーの車内に響く。
車内では、装填手がすでに8.8センチ砲の巨大な徹甲弾の信管を確認し、操縦手がマイバッハ・エンジンの回転数を静かに上げ始めていた。グリスと重油の匂いが、戦いを前にした男たちの血を滾らせる。
「イタリアの歩兵が何万人死のうが知ったことか。彼らがアメリカ軍の足を止めている間に、我々マイスター(職人)が鍛え上げた本物のゲルマンの鋼鉄と88ミリ砲の真の威力を、再びヤンキーどもの柔らかい頭蓋骨に叩き込んでやる」
1944年4月末。
ウラルの雪原でソ連の無限の人海戦術と血みどろの激突を繰り広げるドイツ国防軍。そして、イタリア半島においては、同盟国を無慈悲な肉の盾として使い捨てながら、アメリカの「マニュファクチャリング・モンスター」が放つ規格外の物量を迎え撃つための、完璧な山岳要塞線が完成しようとしていた。
大英帝国を解体するための枢軸と日本の巨大な包囲網は、アメリカ合衆国の直接介入によって、ユーラシア全土を巻き込む出口のない絶望的な総力戦へと、その狂気の歩みを深めていくのであった。




