第52章 砂上の楼閣
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1944年2月15日 午前7時
エジプト スエズ運河 西岸
ドイツ・アフリカ軍団(DAK)最前線
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紅海から地中海へと注ぐ、青く静かな巨大な水路──スエズ運河。
かつて大英帝国がインドと本国とを結ぶ「大動脈」として支配してきたこの絶対的な急所は、今や黒十字の軍旗を掲げたドイツ・アフリカ軍団(DAK)によって完全に制圧されていた。
「……ついに、ここまで来た。あとはこの運河を渡り、シナイ半島を抜ければ、中東の油田地帯は我々のものだ」
ドイツ・アフリカ軍団 第10装甲師団の戦車中隊長、ハインツ・フォン・クライスト大尉は、愛機である重戦車『VI号戦車(ティーガーI)』のキューポラから身を乗り出し、朝陽に照らされる対岸のアジア大陸を眺めて深い感慨の息を吐いた。
1ヶ月間にわたるアメリカ軍の絶望的な波状攻撃と、イギリス軍の遅滞防御。それらをロンメル元帥の天才的な機動戦術と、ティーガーの前面100ミリ装甲、そして8.8センチ(88ミリ)砲の圧倒的な火力をもってことごとく食い破ってきたのだ。
「中隊長殿! 本部から明日の渡河作戦の命令書は届きましたか? スエズを越えて、早くアジアの地を踏みたいものです!」
装填手のギュンター・フランク兵長がハッチから顔を出し、血と硝煙にまみれた顔に無邪気な笑みを浮かべた。
だが、クライスト大尉の顔は、スエズの青い水面を見つめたまま、氷のように強張っていた。
「……命令書など来ない。フランク兵長、来るはずがないのだ」
「え……? なぜですか?」
「燃料計を見てみろ。我が中隊に残されたティーガーのガソリンは、あと数キロ走れば完全に底を突く。88ミリの徹甲弾も、一両あたり平均して5発しか残っていない。……我々はスエズの水を前にして、文字通り『干上がっている』のだ」
クライストの言葉に、フランク兵長の顔から笑みが消えた。
ティーガーIは間違いなく地上最強の戦車であったが、重量57トンの巨体を650馬力のマイバッハ・エンジンで動かすその燃費は、最悪の一語に尽きた。燃料がなければ、この無敵の怪物もただの重い「鉄の棺桶」に過ぎない。
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1944年2月15日 午後2時
エジプト・カイロ郊外
ドイツ・アフリカ軍団(DAK)前線司令部
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スエズ運河の目前で進撃を停止せざるを得なかった本当の理由。
それは、アフリカ軍団司令官、エルヴィン・ロンメル元帥の顔に深く刻まれた疲労と苦悩の皺が、すべてを物語っていた。
「……トリポリの港から出発した我が軍の補給トラック200台のうち、無事にエジプトの前線まで到着したのは、わずか45台。残りの155台は、道中でアメリカ軍の航空機による機銃掃射、あるいはエンジントラブルで砂漠の屑鉄と化しました」
アフリカ軍団参謀長、フリッツ・バイエルライン少将が、血の気の引いた顔で報告書を読み上げた。
ロンメルは、埃にまみれた軍服のまま、作戦机に広げられた北アフリカの広大な地図を重苦しい目で見つめた。
彼らが最大の補給拠点としているリビアの首都トリポリから、ここエジプトのスエズ運河まで、その距離は優に2,000キロメートルを超える。ヨーロッパ大陸を横断するほどの絶望的な距離である。
「海軍の状況はどうなっているのだ! なぜイタリアの港からもっとピストン輸送できない!」
ロンメルの怒声に対し、司令部の隅に控えていたドイツ海軍地中海派遣艦隊・連絡将校のハンス・クレーマー大佐が一歩前へ出て、重々しく首を振った。
「元帥閣下。イタリア王立海軍の主力艦隊および我がドイツ地中海艦隊の残存艦艇は、ターラントやナポリの軍港から一歩も動けない状態にあります。昨年のシチリア沖などでの血みどろの海戦で被った損傷が激しく、修復用のドックと資材が圧倒的に不足しており、いまだ完全復旧には至っていません」
クレーマー大佐は、さらなる絶望的な事実を付け加えた。
「それに加えて、絶望的な燃料不足です。船を動かすための重油は一滴残らず枯渇しており、地中海の制海権を主張する物理的な盾は、すでに崩壊しているのです」
「……ならば、バルカン半島からのルートはどうだ」
ロンメルは地図の東側、ギリシャから地中海を挟んだクレタ島への線を指でなぞった。
「イタリア(ナポリやタラント)からの最短ルートが危険なら、ブルガリアの港から物資を積み出し、ギリシャ・クレタ島を経由して北アフリカ東部やアレクサンドリアへ直接陸揚げするルートがあるはずだ。これならば、連合軍がシチリアを抑えようとも、我々の補給線が『完全に』遮断されることはないだろう」
「仰る通りです、元帥閣下」
バイエルライン少将が頷く。
「確かに、ブルガリア・クレタ島経由の東地中海ルートを用いれば、補給線そのものは完全には死にません。しかし……その航路はあまりにも遠回りで、輸送に使える船舶の数も限られています。前線で日々膨大な弾薬とガソリンを消費する数十万のアフリカ軍団を支えるには、その輸送量では到底需要を満たせません。我々は『餓死』は免れても、ひどい『栄養失調』のままこのスエズに縛り付けられることになります」
大英帝国の王冠たるスエズを物理的に制圧しながらも、その玉座はあまりにも脆い砂の上に築かれていた。
マイスター(職人)の極致たる兵器を点として運用することには長けていたが、長大な兵站を面として維持する「システム」を持たないドイツ軍の致命的なアキレス腱が、ここで完全に露呈したのである。
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1944年2月10日 午後1時
アルジェリア・アルジェ 連合国遠征軍最高司令部
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ロンメルがスエズの西岸で補給の栄養失調に喘ぎ始めていることを察知した連合国の最高司令部では、全く異なる次元の冷徹な「算盤」が弾かれていた。
巨大な作戦会議室に集っていたのは、連合国を代表する四人の最高位の将官たちである。
連合国遠征軍最高司令官、ドワイト・D・アイゼンハワー大将(米陸軍)。
アメリカ合衆国陸軍・第7軍司令官、ジョージ・S・パットン中将。
イギリス陸軍・第8軍司令官、バーナード・モントゴメリー中将。
そして、ワシントンから飛来したアメリカ陸軍需品軍団(兵站部門)司令官、ブレホン・B・サマーヴェル中将であった。
「……ロンメルの軍団がスエズ運河を制圧し、エジプトが陥落しました。大英帝国にとって、これは痛恨の極みです。直ちにエジプト奪還のための反攻作戦を……」
モントゴメリー中将が焦燥に満ちた声で進言するが、最高司令官のアイゼンハワー大将は、コーヒーカップを置きながら冷ややかに首を振った。
「モントゴメリー将軍。我々はロンメルをエジプトから追い出すために、わざわざ数千キロの砂漠を東へ向けて進軍するつもりはない」
「なに……? スエズを見捨てると仰るのか!」
「見捨てるのではない。戦略的『放置』だ」
アイゼンハワーは、壁に掲げられたヨーロッパ全域の地図を指示棒で叩いた。
「サマーヴェル将軍。現在のロンメルの兵站状況は?」
兵站の最高責任者であるサマーヴェル中将は、分厚いバインダーを開き、事務的な口調で答えた。
「破綻寸前です。トリポリからスエズまでの2,000キロの補給線は、我が陸軍航空隊のピストン攻撃により、トラックの損耗率が75パーセントを超えています。もちろん、イタリア半島からのルートが封鎖されても、彼らにはブルガリアからクレタ島を経由する『東地中海ルート』が残されています。そのため、彼らの補給線が完全にゼロ(遮断)になることはありません。……しかし、その細いストローでは、巨大な装甲師団の胃袋を満たすことは物理的に不可能です。ロンメルはスエズという『袋小路のドン突き』で、常に弾薬と燃料の枯渇に苦しみながら座して待つしかありません」
「聞いた通りだ、モントゴメリー将軍」
アイゼンハワーは、冷酷な目でイギリスの将軍を見た。
「敵の最も優秀な将軍と最強の戦車部隊が、満足な補給もない袋小路で勝手に動きを止めてくれているのだ。放っておけばいい。我々の巨大な物量と時間を、砂漠での追いかけっこに浪費する理由などどこにもない。……我々が叩くべきは、尻尾ではなく『柔らかい下腹』だ」
アイゼンハワーの指示棒が、地中海を越えてヨーロッパ本土──イタリア半島の先端に位置する「シシリー島」へと移動した。
「前年(1943年)夏に一度頓挫した『ハスキー作戦(シシリー上陸)』。これを、今度こそ実行に移す。上陸決行のXデーは、10日後の『1944年2月20日』とする」
「待っていましたぜ、アイク(アイゼンハワーの愛称)」
それまで葉巻を噛み締めながら黙っていたパットン中将が、獰猛な笑みを浮かべて身を乗り出した。
「ロンメルにかまけている間に、カイザー造船所から送られてきた新型の戦車揚陸艦(LST)と歩兵揚陸艇(LCI)は、すでにアルジェリアとチュニジアの港に溢れんばかりに集積されている。ヨーロッパ本土に直接風穴を開け、マカロニ野郎を戦争から脱落させれば、ヒトラーは南の防衛に数十個師団を割かざるを得なくなる」
「問題は、地中海に展開しているドイツとイタリアの航空戦力ですが」
モントゴメリーが慎重に懸念を口にする。
「それも心配無用だ」
アイゼンハワーは、ワシントンから届いたばかりの極秘文書を机に広げた。
「太平洋のジャップ相手にエセックス級空母の大半が振り向けられているのは事実だ。しかし、我が合衆国のマニュファクチャリングは西海岸だけのものではない。……東海岸のニューヨーク海軍造船所やニューポート・ニューズ造船所で建造を終え、就役したばかりのエセックス級空母群──『イントレピッド』をはじめとする数隻を、大西洋を経由してこの地中海へ回した」
「なんだと? 東海岸の巨大ドックから直接地中海へ……!」
モントゴメリーが驚愕の声を上げる。
「ルーズベルト大統領の『ヨーロッパ第一主義』の賜物だよ」
アイゼンハワーは笑みを見せずに答えた。
「我々には、海を埋め尽くすLSTと、東海岸から届いたエセックス級空母群の分厚い防空の傘、そして『VT信管(的近接信管)』がある。昨年の海戦で傷つき、燃料もなしに港で震えているイタリアの戦艦群や、息も絶え絶えのルフトヴァッフェ(ドイツ空軍)に、このマニュファクチャリングの暴力を防ぐ手立てはない。……全軍、出撃準備。我々アメリカ軍の手で、ヨーロッパの扉を直接こじ開ける」
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1944年2月20日 午前4時
地中海中部 シシリー島南方沖合
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夜明け前の地中海に、人類史上かつて誰も見たことのない、異常なまでの「規格化された鉄の暴力」がその全容を現した。
アメリカ第7軍とイギリス第8軍を乗せた上陸部隊。
攻撃輸送艦(APA)、攻撃貨物輸送艦(AKA)、そしてカイザー造船所がこの作戦のためだけに暴力的速度で大量建造した戦車揚陸艦(LST)300隻と、歩兵揚陸艇(LCI)400隻。その後方には、戦時標準船(リバティ船)の群れが地平線の果てまでびっしりと黒い影を連ねている。
総艦艇数、じつに3,000隻。総上陸兵力、約16万名。
この大船団を海上で統括するアメリカ海軍 第8艦隊司令官、ヘンリー・K・ヒューイット中将は、旗艦の艦橋から暗闇の海を双眼鏡で眺め、力強く頷いた。
「これだけの船を並べても、まだ背後から次々とリバティ船が湧いてくる。デトロイトとカイザーの生産力は、もはや魔法だな」
さらにその大船団の頭上には、東海岸から地中海へ投入された新鋭大型空母『イントレピッド』をはじめとする空母群から発艦した、数百機のF6Fヘルキャット戦闘機が、空を真っ黒に染め上げるほどの分厚い防空の傘を形成していた。
『イントレピッド』の艦橋では、艦長のトーマス・スプレイグ大佐が、整然と発艦していく艦載機の爆音を聞きながら防空指揮を執っていた。
「VT信管の弾幕とヘルキャットの重装甲の前に、ドイツの航空機が入り込む隙間はない。我々の空母は、地上部隊の頭上に完全なる『無菌室』を提供するのだ」
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同日 午前5時45分
シシリー島の防衛陣地
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「……信じられん。なんだあの船と飛行機の数は……! 海が、見えない!」
沿岸の強固なコンクリート製トーチカから双眼鏡を覗き込んだイタリア陸軍・沿岸防衛第207師団のトーチカ守備隊長、アルベルト・ロッシ大尉は、絶望に顔を青ざめさせ、その場にへたり込んだ。
「大尉! ターラントの海軍から援軍は来ないのですか! 空軍の爆撃機は!」
観測手のマリオ・ビアンキ伍長が、震える声で叫ぶ。
「来るわけがないだろう! 昨年の海戦で船は傷だらけで、修理する資材も動かすための燃料も一滴も残っていないのだ! 空軍の連中だって、あのアメリカの戦闘機の数を見れば逃げ出すに決まっている!」
ロッシ大尉が絶叫するよりも早く、沖合に展開したアメリカ軍の旧式戦艦群や無数の巡洋艦から、数千発に及ぶ艦砲射撃の火球が一斉に解き放たれた。
地響きとともにシシリー島の海岸線が土砂もろとも吹き飛び、防衛陣地は瞬く間に更地へと変貌していく。
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同日 午前6時30分
イタリア王国 シシリー島南岸 ジェーラ海岸
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「LST、全艦前進! 砂浜に直接乗り上げろ!」
揚陸指揮を執るパットン中将が号令を下すと、何百隻もの戦車揚陸艦が浅瀬の海水を蹴立てながら、そのままシシリー島の砂浜へと突進した。鋼鉄の艦底が砂を擦る凄まじい摩擦音が響き渡り、巨大な艦首の観音開きドア(バウ・ドア)が左右に開く。
そこから、フォードの工場で電気溶接されたばかりの新品の『M4シャーマン中戦車』が、エンジンを咆哮させて次々と砂浜へと吐き出されていく。
職人技の精鋭部隊で急所を突くドイツ・日本とは異なる、「兵器も人間も消費財として戦場へ投射し、質量で圧殺する」というアメリカ合衆国の冷酷なマニュファクチャリング・ドクトリンが、ついにヨーロッパ本土の大地を直接踏み躙った瞬間であった。
1944年2月20日。
スエズ運河でロンメルが燃料の枯渇に苦悶し、打通の夢が砂上の楼閣として停滞しているその背後で。
アメリカとイギリスの巨大な鉄槌は、枢軸国の柔らかい下腹であるイタリアを内部から完全に破壊すべく、容赦のない致命的な一撃を振り下ろしたのである。




