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第6章 金縛りのホワイトハウス

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1941年11月25日 午前6時(東部標準時)

米国ワシントンD.C. ホワイトハウス 大統領執務室

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冬の冷気を含んだ灰色の夜明けが、オーバル・オフィス(大統領執務室)の窓を叩いていた。

車椅子に深く身を沈めたフランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領は、一口もつけていない冷めきったコーヒーカップを机に置いたまま、窓外の虚空を睨みつけていた。


彼の前には、何枚もの緊急電報の束を震える手で押さえている、コーデル・ハル国務長官が立っている。その顔からは完全に血の気が引いていた。


「……たった今、ロンドン経由でマニラの海軍情報部から大至急電が入りました。ジャワ海です」

ハルは掠れた声を絞り出した。

「イギリス海軍が極東に展開させていた東洋艦隊──通称Z部隊が、日本の第二機動艦隊によるアウトレンジの航空攻撃を受け、事実上、全滅いたしました」


ルーズベルトの端正な顔が、驚愕で強張った。

「全滅だと……? チャーチルが豊秋津島の資産差し押さえの脅しのために送り込んだ、あの『本国艦隊の過半数』が、一戦で消し飛んだというのか」


ハルは苦渋に満ちた表情で、電報に記された絶望的な陣容を読み上げ始めた。

「戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』、『キング・ジョージ五世』、『デューク・オブ・ヨーク』の三隻。巡洋戦艦『レパルス』、『レナウン』の二隻。装甲空母『イラストリアス』、『インドミタブル』の二隻。……これら主力7隻に加え、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦6隻、駆逐艦18隻。大英帝国が国家の命運を賭けて南半球へ回航させた大艦隊のほぼすべてが、目視の距離にすら近づくことなく、水平線の彼方から放たれた日本海軍機の餌食となりました。撃沈、あるいは大破自沈……極東の海原に、大英帝国の矛はもう一隻も残っていません」

ルーズベルトは、役に立たない自らの脚を叩くように、激しく机を拳で打った。

「なんという惨劇だ。チャーチルが本国防衛を空っぽにするほどの大博打に出るのを、私は知っていながら止め立てしなかった。いや、むしろ歓迎すらしていたのだ。我が方のハル・ノートという『外交の檻』と、彼らの大艦隊という『物理的な威嚇』……その二段構えの包囲網があれば、あの東洋の怪物とて完全に身動きが取れなくなり、座してこちらの要求を飲むしかなくなると踏んでいたからだ。それが……目視の距離にすら近づけず、一戦で文字通り蒸発したというのか!」


ルーズベルトの端正な顔が、怒りと、そして底知れぬ恐怖で歪んだ。


「手遅れだったわけではありません、大統領」

ハルは深くため息をついた。

「奴らは、我が方とロンドンの計算を完璧に読み切った上で、その『隙間』を突いてきたのです。日本軍は英領マレーにも、仏領インドシナにも、蘭印の領土にも、まだ一歩も侵略の足を踏み入れていません。彼らは、累積外債の強制取り立てを盾に豊秋津島のインフラを合法的に乗っ取ろうと迫ってきたイギリスの『執行艦隊』を、公海上における正当な自衛権の発動として公然と迎撃したのです」


「……法理のグレーゾーン、か」

ルーズベルトは忌々しげに呟いた。


アメリカが突きつけたハル・ノート第一条は、「欧州列強の植民地領土への武力進出」を禁じた現状維持ステイタス・クオの強制であった。しかし、徳川家正宰相率いる公武合体政府は、他国領土への侵略という「不法なファースト・ショット」を徹底して回避した。


彼らは、イギリスによる資産差し押さえの武力威嚇(Z部隊の進発)を国権に対する重大な侵犯とみなし、国際法に則った「自衛の宣戦布告」を公式に発告。その上で、他国領海を侵すことなく、牙剥く大艦隊を公海上で合法的に叩き潰すという、冷徹極まるリーガル・カウンターを放ってきたのだ。


これにより、日本はハル・ノートの檻に一ミリも触れることなく、アメリカが介入するための一切の法的大義名分を完全に奪い去ったのである。


なぜ、ワシントンはこれほどまでに日本の動きを見誤ったのか。その原因は、合衆国が建国以来積み上げてきた「成功体験」と、それゆえの傲慢な対日観にあった。


大西洋の片隅、わずか13州の独立から始まったアメリカ合衆国は、「明白なる天命マニフェスト・デスティニー」の旗印のもと、西へ西へとフロンティアを拡張してきた国である。ネイティブ・アメリカンを駆逐し、メキシコを破り、広大な大平原の富と圧倒的な工業力を背景に、世界最大の経済大国へと急速に上り詰めた。


その過程でアメリカが磨き上げた覇権の真髄は、単なる軍事力ではない。彼らの武器は、自らが創り出し、他国に守らせる「法、条約、そして国際金融(ドル決済・市場)」という名の「ルールの檻」であった。銃火を交えずとも、自らの作った経済システムという見えない鎖に他国を嵌め込めば、富は自動的にワシントンとニューヨークへ還流する。これが合衆国の絶対的な必勝パターンであり、外交哲学のすべてであった。


このアメリカのレンズを通して見たとき、東洋の「豊栄大日本帝国」は、あまりにも奇妙で、歪な存在に映っていた。


1853年にペリー代将を浦賀に派遣した際、合衆国は強烈な先制パンチを喰らっている。砲艦外交で脅しをかけるはずが、浦賀沖で彼らを包囲したのは、重低音のディーゼル音を響かせる幕府海軍の「国産石油発動機巡洋艦」であったのだ。豊秋津島の豊富な石炭・鉄鉱石と多良加の石油を融合させ、欧州とほぼ同時に独自の産業革命を成し遂げていた日本を、アメリカは最初から対等な主権国家として認めざるを得なかった。


しかし、その後もワシントンの歴代政権は、日本を恐れつつも心の底で侮り続けていた。

「奴らは近代国家の皮を被った、巨大な封建大名たちのカルテル(談合組織)だ。技術と資源はあっても、金融を知らない素人だ」と。


実際、日本には国家全体の資本を集権的にコントロールする近代的な中央銀行制度がなく、各大名財閥が独自の金庫を抱える歪な統治構造(幕藩体制の温存)を維持していた。だからこそ、19世紀末の大規模なインフラ整備に際し、日本はロンドンのシティから天文学的な外債を募るという、致命的な足枷を自ら嵌めることになったのだ。


アメリカの対日政策の本質は、常にこの「金融の首輪」を前提に組み立てられていた。

日本はすでに独自の経済圏で完結している「持てる国」である。ならば、これ以上大きくさせないために、ワシントン体制やハル・ノートという「現状維持ステイタス・クオ」の檻を突きつけ、大英帝国の借金爆弾と連動させて大人しくコントロールすればいい。もし日本がこの檻を破って暴発すれば、合衆国の誇る最強の武器である「ドル決済網からの永久追放」という金融の鎖を完全に引き絞り、世界経済から村八分にして数年後に財政破綻させてやる。それがワシントンの計算であり、日本を戦わせずに従わせるための絶対的な包囲網のはずだった。


だが、ハル国務長官は、その計算が根底から崩壊したことを、認めざるを得なかった。


「大統領、我々のミスです……。『ドル決済を止めれば、数年後に経済死することを恐れて日本は大人しくなる』という計算は、豊栄大日本帝国には通用しなかった」

ハルは苦渋に満ちた声を絞り出した。

「奴らは総人口1億3700万人を抱え、燃料は海に捨てるほどあり、鉄は無限といっても差し支えない。さらに世界恐慌以降、禁輸を予測してカナダや中南米から力づくで買い漁ったレアメタルが、5〜7年分は戦時全力ベースで山積みにされています。今後数年間は兵器を大増産し続けられる、完全独立した国体を持っているのです」


「……だからこそ、奴らはじわじわと金融・貿易制裁で殺される未来(黄昏)を拒絶した、と言うのだな」

ルーズベルトは、窓外の暗雲を見つめながら低く呻いた。


そう、豊栄時代の大日本帝国は今、完璧に満たされている。「今この瞬間が、国家の全盛期であり、世界で最も強い」という事実を、東京の公武合体政府は百も承知だったのだ。

だからこそ、数年後に大人しく国際金融の檻の中で不渡りを出して死ぬくらいなら、世界最強の海軍力が発揮できる「今」、世界システムそのものを力づくで破壊し、新秩序を自らの手で再構築するという、破格の、そして冷徹極まる大博打に打って出たのだ。


アメリカが日本の動きを止めるために用意した「金融の鎖」という脅しこそが、皮肉にも、マキャベリストたる徳川宰相に「今、武力を行使することこそがこの不条理を覆す唯一の合理的選択である」という冷徹な計算を成立させ、全面戦争への舵を切らせる決定的な要因となってしまったのである。


「チャーチルからは?」

「一時間おきに悲鳴のような直電が届いています。極東で本国艦隊の過半数を一網打尽にされたイギリスは、今や英仏海峡を守る物理的な防壁を完全に喪失しました。モスクワを占領し、東部戦線を終結させたナチス・ドイツの数百万の軍事力が、ドーバー海峡の向こう岸で、数千隻の上陸舟艇とともに発動の瞬間を今か今かと待っています。防空神話も大洋の支配権も失ったロンドンは、あとはドイツ軍の上陸を無防備に待つだけの肉塊に成り下がりました。チャーチルは『アメリカが今すぐ参戦して海峡の盾とならねば、大英帝国は年を越せずに地上から消滅する』と狂乱しています」


「参戦だと? そんなことができるわけがないだろう!」

大統領の声が、激昂を孕んで執務室に響いた。

「我が国には、イギリスがどこで誰に借金のもつれで殴られようとも、自動的に参戦するような軍事同盟の義務などない。何より、日本は我が星条旗に対して一発の銃弾も撃ち込んでいないのだぞ!」


ワシントンの首脳陣を縛り付けているのは、アメリカ国内に根深く渦巻く孤立主義と、それを法的に明文化した『中立法』の檻であった。日本側がアメリカの領土や艦船を直接攻撃しない限り、大統領といえども議会から宣戦布告の承認を勝ち取ることは絶対に不可能であった。


さらに、ハル長官が差し出したもう一つの電報が、大統領に決定的な絶望を突きつけた。


「……太平洋艦隊司令長官、ハズバンド・キンメル大将からの報告です。ハワイ沖の公海上に、日本の第一艦隊──大和型4隻を含む超弩級戦艦群が遊弋を開始。真珠湾の我が艦隊は、完全にその射程内に捉えられています」


「金縛りか」

ルーズベルトは天を仰いだ。

日本軍は真珠湾を奇襲などしていない。ただ、国際法上合法的な公海上に、世界最強の海上兵力を浮かべているだけだ。「アメリカから一発でも撃てば、ハワイを灰塵に帰す。大人しく檻の中で見ていろ」という、無言の恐喝。


経済制裁の書類をいくら並べ立てようとも、水平線の向こうで微笑む徳川の宰相と、すべてを灰にする機動部隊、そしてハワイを睨む大和の巨砲という破壊力の前には、あまりにも無力だった。


世界大戦の砂時計は、日本の完全なる全盛期を指したまま、大英帝国の崩壊に向けて猛烈な勢いで落ち始めていた。アメリカという巨人は、自ら作った法と中立の檻の中で牙を剥くこともできず、ただ東洋の怪物が新秩序を構築していく様を、血の涙を流しながら見つめるしかなかったのである。

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