第5章 灰燼に帰す証文と檻の中の巨人
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1941年11月25日 午後8時
東京・永田町 首相官邸
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分厚いマホガニーの扉が開き、海軍省の武官が足早に執務室へと滑り込んできた。その手には、一枚の暗号電文が固く握りしめられている。
「……第二機動艦隊司令長官・小沢治三郎中将より入電。暗号『ツルギマルマワセ』完遂せり。ジャワ海にて英東洋艦隊Z部隊を完全に撃滅。我が方の損害、軽微」
室内に、重苦しい沈黙が数秒だけ流れた。
革張りのソファに深く腰掛けていた男。長年の英国駐在経験を持つインテリジェンスの塊にして、徳端なる譜代官僚の頂点に立つ徳川宗家第十七代当主・徳川家正宰相は、葉巻の紫煙をゆっくりと吐き出しながら、傍らに座る男に視線を向けた。外様大名の末裔であり、帝国の下流精密加工を支配する「西国重工」の総帥である島津忠重である。
「島津殿。そなたの工廠で組み上げたあの鉄の鳥たちは、見事に大英帝国の威信を海の底へと沈めてくれたようだな」
「過分なお言葉にございます、宰相閣下」
島津は仕立ての良い洋装の襟を正し、冷徹な笑みを浮かべた。
「ここに至るまでの道程は、決して平坦なものではありませんでしたな」
島津の言葉に、徳川宰相は静かに頷いた。
江戸城地下の最高臨戦評議場で、本多忠晃や酒井忠正ら「六人執政閣」が開戦を内定した直後、表の帝国議会たる「諸侯院」では凄まじい予算の分捕り合いが繰り広げられていた。天領の防衛を優先する親藩・譜代閥と、外洋での権益拡大を狙う島津ら外様閥。三百諸侯の末裔たちが、それぞれの重工業財閥の利害を剥き出しにして激突したのだ。しかし、裏の談判で合意が形成されると、議会は一転して満場一致で戦時特別予算を即日可決した。
その巨額の戦費を即座に捻出したのは、特権御用商人の鴻池善右衛門であった。彼は中央銀行の不在を逆手に取り、各大名の金庫に唸る独自の藩札と現物金を強引にリンクさせ、ロンドンへの利払いを即時凍結。浮いた外貨と現物をすべて国内の軍需増産へと強制転換させるという、帝国独自の金融の荒業を成し遂げていたのである。
「毛利の防長石油が精製した100オクタンガソリンと、岐州重工が削り出した液冷発動機『水星』の1,500馬力級エンジン……。これらが組み合わさった時、ロンドンの銀行家たちが信仰する『大艦巨砲と金融の常識』など、容易く覆るという物理的な証明がなされたに過ぎません」
徳川宰相は、机上に置かれていた一枚の書類──ロンドンのシティから突きつけられた、天文学的な数字が並ぶポンド建て国債の「一斉繰り上げ償換要求書」を手に取った。
「府元元年(開府)より340年、我らが祖先たる棄民たちが泥をすすり、血を流して築き上げてきた鉄と油の帝国生存圏。それを、この薄っぺらい紙切れ一枚で合法的かつ無条件に丸ごと強奪しようとした傲慢の代償だ。極東の執行艦隊が消滅した今、やつらの要求は物理的に執行不能となった」
徳川宰相は、その書類をクリスタル製の巨大な灰皿に放り込み、無造作にマッチで火を放った。
ロンドンの魔窟が紡ぎ出した黄金の鎖は、オレンジ色の炎を上げて静かに灰燼へと帰していく。
「外務当局を通じ、駐日ドイツ大使館へ至急電を回せ。ベルリンの総統官邸へ『極東の盾は砕け散った。海は空である』と伝えよ。密約の通り、ロンドンの旧体制たる決済網を物理的に叩き潰し、我々の債務をすべて紙切れにせよ。我々は対価として、多良加の原油と豊秋津島のレアメタルを格安で供給し、彼らの兵站を支える」
「承知いたしました。……して、ワシントンの動きはいかがなさいますか」
島津の静かな問いに対し、徳川宰相の眼鏡の奥の双眸が、冷たい光を放った。
「アメリカのハル国務長官が突きつけてきた、現状維持を強制するあの文書……。彼らは我々が暴発し、先に手を出してくるのを待っている。だが、その手には乗らん。すでに我が国が誇る大和型4隻を擁する第一艦隊が、ハワイ沖の公海上に遊弋している。日本側から一発も撃たない限り、ルーズベルトは国内の強力な反戦世論と『中立法』の檻に縛られ、自動参戦の引き金を引くことはできん。アメリカ太平洋艦隊は、目の前の大艦隊にただ金縛りにされるしかないのだ」
国際金融システムという見えない鎖で、最強の巨人を絞め殺そうとした英米の謀略。
物質的には完璧に満たされ、向こう5〜7年分の戦時全力生産に耐えうるレアメタルと燃料を地下倉庫に山積みにしたこの東洋の超大国は、座して技術的黄昏を迎えるよりも、その全盛期の武力をもって世界システムのルールそのものを力づくで書き換える大博打を選択したのだ。
「檻の中の巨人は喚かせておけ。我々はその隙に、南洋の新秩序を完成させる」
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同刻。赤道直下 ジャワ海
第二機動艦隊旗艦 装甲空母『大鳳』 羅針艦橋
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第二機動艦隊司令長官・小沢治三郎中将は双眼鏡を下ろし、夕闇が迫る西の空へと冷徹な視線を向けていた。
遥か数百海里の彼方で行われた惨劇など、機動艦隊の周囲の海からは微塵も感じられない。水平線の先にあるのは、ただ静まり返った熱帯の海原だけである。しかし電信室からは、途切れることなく攻撃隊からの無慈悲な戦果報告が上がってきていた。
『敵主力、キング・ジョージ五世ナラビニ、デューク・オブ・ヨーク、撃沈確実』。
大英帝国が極東に送り込んできた最強の執行艦隊は、小沢の艦隊から放たれたアウトレンジの航空打撃力により、目視する距離に近づくことすらなく、海の底へと沈められたのである。当然、敗軍の救助に向かうような無駄な時間も、その意思も、この艦隊には最初から存在しなかった。
やがて、夕闇の空気を震わせて、凄まじい発動機の咆哮が近づいてきた。
空母の遥か彼方から、戦いを終えた銀翼の群れが次々と姿を現す。英艦隊の防空網を切り裂いた最新鋭の『烈風』と、圧倒的な高速で戦艦の土手っ腹に魚雷を叩き込んだ『流星』の編隊である。それに続くように、堅実な戦果を挙げた歴戦の三八式艦上戦闘機『凱風』、三八式艦上爆撃機『彗星』、三六式艦上攻撃機『天山』が、アレスティング・ワイヤーを正確に引っ掛け、鍋島家が削り出した高圧油圧カタパルトの機構を横目に、分厚い装甲甲板へと次々と舞い降りていく。
プロペラが停止し、風防を開け放ったパイロットたちが、熱気と硝煙の匂いを纏いながら次々と甲板へ降り立った。
「おい、見たかよ。あの巨大な戦艦が、腹を上に向けてひっくり返るザマを!」
軍服を汗で濡らした村田少佐が、飛行帽を脱ぎながら豪快に笑う。
「ああ、見事な雷撃でしたよ隊長。放った魚雷が、文字通り敵の横腹を抉り取ってましたからね。毛利の新型爆薬は化け物だ」
隣を歩く鈴木一飛曹が興奮気味に相槌を打つと、そこに『烈風』から降りた進藤大尉と坂本飛曹長も歩み寄ってきた。
「こっちの『烈風』も最高だ。直掩のイギリス機に後ろを取られて機銃を浴びたが、島津の防弾鋼板が全部弾き返しやがった。機体は穴だらけだが、パイロットにはかすり傷一つねえよ!」
興奮冷めやらぬ搭乗員たちの獰猛な歓声と、整備兵たちが機体に群がり即座に補給を開始する怒号が交差する。これこそが、豊栄時代の大日本帝国が誇る戦闘力の正体であった。
小沢の頭上、艦橋の頂部で回転している電探は、1930年代後半、欧州に張り巡らせた帝国の諜報網が英国の軍事研究所からかすめ取った初期の電磁波技術の図面を基にしている。それを鍋島家の佐賀精密機械が数年の歳月をかけて秘密裏に解析し、本艦の最終艤装のタイミングに合わせて独自の改良を施し、実用化に漕ぎ着けたものであった。
さらに、護衛の艦艇にハリネズミのように配備された対空機関砲群も、開戦前にダミー会社を通じてスウェーデンから買い付けたボフォース40ミリ機関砲の機構を、国際特許など一切無視して丸ごとコピーし、弾道特性を毛利家が製造する自国製の高爆速火薬に合わせて最適化した代物であった。
使える技術は他国の懐からでも躊躇なく奪い、自らの血肉として咀嚼し、元の持ち主へと撃ち返す。この冷徹極まる合理主義こそが、米英に依存しないブロック経済圏を守り抜く「異形の帝国」の強さを支える真髄であった。
「全機収容完了。未帰還機、わずか数機です」
「よし」
小沢は短く頷くと、西の空から、帝国の生存圏たる豊秋津島(豪州)が広がる南の海域へと視線を転じた。
ジャワ海での勝利は、あくまで借金取りの用心棒を始末したに過ぎない。帝国の次なる標的は、大英帝国が南半球に残した最後の楔を引き抜くことである。
「これより本艦隊は転進する。目標は、豊秋津島西部に睨みを利かせる英海軍の最重要拠点、パース」
小沢の静かな、しかし有無を言わせぬ号令が伝声管を通じて艦内へ響き渡る。
「大英帝国がインド洋から我が領土へ干渉する手足を、完全に切断する。パースの軍港施設および港湾インフラを徹頭徹尾、無力化せよ」
鍋島家が削り出した巨大なタービンが咆哮を上げ、鋼鉄の巨城が南へと舳先を巡らせる。
340年の時を経て極東の海に帰還した棄民たちの怨念と野心は、大英帝国という巨獣を解体すべく、次なる獲物へと冷徹に牙を剥いたのであった。




