第50章 四頭の巨獣と燃え盛る羅針盤
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1943年12月下旬
カナダ・オタワ 英亡命政府臨時首都
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
凍てつくような北米の吹雪が、オタワの港湾を白一色に染め上げていた。
しかし、その港を埋め尽くしているのは雪だけではない。アメリカ合衆国のカイザー造船所が狂気的な速度で進水させた無数の戦時標準船(リバティ船)の群れが、ひっきりなしに入港しては、凍りつくような寒さの中で莫大な量の兵器と弾薬を陸揚げし続けていた。
「……見ろ、アンソニー。我々がかつて世界の海を支配した大英帝国の王立海軍の誇りは、今やアメリカから恵んでもらったこの無骨な貨物船の群れに完全に取って代わられた」
大英帝国首相、ウィンストン・チャーチルは、暖炉の火が燃える臨時首相執務室の窓辺から、氷の海を見下ろして低く呻いた。彼の太い指に挟まれたハバナ産の葉巻からは、紫煙が重々しく立ち上っている。
傍らに控える外務大臣、アンソニー・イーデンの顔にも、亡国という癒えぬ傷痕が深く刻まれていた。
1943年は、大英帝国にとって文字通り「底なしの地獄」であった。
前年8月にナチス・ドイツの軍靴にロンドンを踏み躙られ、世界の富を支配した「ザ・シティ」のイングランド銀行は灰燼に帰した。それだけでなく、豊秋津島の日本のインフラを合法的に強奪するために人質に取っていた「天文学的なポンド建て国債の原本」を、日本の特務機関とドイツ軍の結託によって物理的に消滅させられ、大英帝国は日本に対する債権者としての国際法上の実体すら失った。
さらに極東では、東洋最大の要塞シンガポールが日本軍の双頭の陸軍(伝習隊と財閥遊撃隊)に粉砕され、中東では地中海艦隊がターラントの独伊合同艦隊との死闘の末に壊滅。アレクサンドリア要塞はドイツの砂漠の狐・ロンメル元帥に奪われ、インド洋の制海権も日本の機動艦隊に蹂躙された。
「本国を失い、海軍の主力を喪失し、あまつさえインドでは、日本の支援を受けたチャンドラ・ボースが二億の民を扇動して反英暴動の火の手を上げている。……並の国であれば、とうの昔に膝を屈して歴史から姿を消していただろう」
チャーチルは窓ガラスに映る老いた己の顔を睨みつけ、そして、獰猛な獅子のように牙を剥いて笑った。
「だが、大英帝国は滅びん。アメリカのルーズベルト大統領が『マニュファクチャリング・モンスター(大量生産の怪物)』の全出力を稼働させた今、我々はこの新大陸の無限の生産力に完全に寄生し、その質量を操る頭脳として生き延びるのだ」
チャーチルは、執務机の上に広げられた巨大なヨーロッパの海図を太い指で叩いた。
「ルーズベルトは太平洋でハワイを奪われ、日本軍の絶対防衛圏の前で完全に足踏みをしている。だからこそ彼は、ヨーロッパでの勝利を急いでいるのだ。我々イギリス亡命政府は、アメリカのM4シャーマン戦車とP-51マスタング戦闘機を無制限に吸い上げ、まずは北アフリカからイタリアへ突き上げているアメリカ軍の盾となる。……そして来年(1944年)、必ずや英仏海峡を逆横断し、この手でロンドンの土を踏みしめるのだ」
プライドを完全にアメリカへ売り渡してでも、最後に戦勝国のテーブルの真ん中に座る。
すべてを失った老獅子は、アメリカの強大な筋肉を利用してヨーロッパの支配権を取り戻すという、老獪極まる復讐の炎を新大陸の雪の中で静かに燃やし続けていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1943年12月下旬
東プロイセン ラステンブルク 総統大本営『ヴォルフスシャンツェ(狼の巣)』
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
カナダの凍てつく寒さとは対照的に、東プロイセンの分厚いコンクリートに覆われた地下要塞の中は、熱狂と狂気に煮え滾っていた。
「偉大なる大ゲルマン帝国の将兵諸君! 我々は今、人類の歴史上かつていかなる征服者も到達し得なかった、究極の頂点に立っている!」
総統アドルフ・ヒトラーの甲高い演説が響き渡ると、国防軍最高司令部(OKW)の将官たちから、靴の踵を打ち鳴らす凄まじい「ハイル」の歓声が巻き起こった。
1943年の年末。ナチス・ドイツの支配領域は、まさにユーラシア大陸の西半分を完全に呑み込む巨大な怪物と化していた。
ロンドンを占領してイギリスをヨーロッパから完全に駆逐した西方総軍(司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥)は、フランスからノルウェーに至る大西洋岸に、アメリカ軍の上陸を永遠に拒絶するための難攻不落の要塞線『大西洋の壁』を完成させつつある。
そして北アフリカでは、エルヴィン・ロンメル元帥率いるドイツ・アフリカ軍団(DAK)がアレクサンドリアを突破し、スエズ運河を握って中東の油田地帯への打通を目前に控えていた。
「ソビエトのスターリンは首都モスクワを失い、ウラル山脈の東側でシベリアの泥と雪に塗れて震えている! アメリカのルーズベルトは北アフリカへ軍を進めたが、我が無敵の『ティーガーI』重戦車の8.8センチ砲の前に、何百両ものM4シャーマンを鉄屑に変えられて砂漠で泣き喚いているのだ!」
ヒトラーは作戦机の地図を力任せに叩き、陶酔に満ちた目で高官たちを見渡した。
「すべては我が天才的な指導力と、アーリア人種の優越性の証明である! 極東の日本という同盟国も、よくやってくれた。奴らがアジアでイギリスやアメリカの軍隊を惹きつけてくれたおかげで、我々は背後を突かれることなくヨーロッパを制覇できたのだからな」
しかし、ヒトラーのその言葉には、極東の同盟国に対する致命的な「侮蔑」と「無知」が隠されていた。
「いずれ、アメリカとソ連を完全に息の根を止めた暁には、あの黄色いサルどもが我が物顔で占領している蘭印(オランダ領東インド)の油田や、アジアの富も、すべて本来の持ち主たる白人社会……すなわち大ゲルマン帝国の完全なる統制下へ置くべきである。彼らには名誉アーリア人の称号と、東洋の端の島々を与えて飼い慣らしてやれば十分だ!」
ヒトラーは高らかに宣言したが、彼の狂気的な人種至上主義に曇った眼には、豊栄大日本帝国がすでに1年以上も前、ロンドン陥落のドサクサに紛れてオランダ亡命政府から蘭印の全主権を「合法的買収」という形で完璧に割譲させている事実など、微塵も映っていなかった。
日本が敷いた法理の防壁の恐ろしさを知る者は、ロンドンで日本の特務機関と対峙した第9軍のハンス・フォン・ルック少佐など、前線の一部の将校だけであった。
「来年(1944年)は、我が大ゲルマン帝国が千年続くための完全な仕上げの年となる。大西洋の壁でアメリカを海に沈め、ウラル山脈を越えてソ連の残党を歴史から消去するのだ!」
狂気に魅入られた狼は、自らの首に「日本の法理」という見えない鎖が巻き付いていることにも気づかぬまま、東西の荒野へと向けてその鋭い牙を剥き出しにしていたのである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1943年12月下旬
米国ワシントンD.C. ホワイトハウス 大統領執務室
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
一方、アメリカ合衆国の首都ワシントン。オーバル・オフィス(大統領執務室)の空気は、鉛のように重く、そして底知れぬ殺意に満ちていた。
ルーズベルトの充血した双眸が、壁に掛けられた太平洋の海図を睨みつける。
1943年、アメリカは国家の全産業を強制的に戦時体制へと移行させる『ヌードセン・プラン』を発動し、デトロイトの自動車工場とカイザー造船所をフル稼働させて、天文学的な質量の兵器を太平洋へと投射した。しかし、彼らが「日本の兵站を断ち切る」と信じて疑わなかったタラワ環礁の戦いは、日本の巧妙な遅滞戦術と機動艦隊のフェイントによって完全に空回りさせられ、その裏でハワイを奪われるという最悪の戦略的敗北を喫したのである。
「大統領。ハワイを失ったことで、我々が太平洋を西進するための前線基地は、西海岸のサンディエゴか、北のアリューシャン列島、あるいはオーストラリア東岸の孤立した英連邦租界を起点にするしかありません」
陸軍参謀総長のジョージ・C・マーシャル大将が、海図の端を指揮棒で叩いた。
「しかし、絶望するには及びません。日本の化け物どもがハワイを占領し、タラワの勝利に酔いしれているこの瞬間にも、我々の『マニュファクチャリング・モンスター』の心臓は、さらに狂気的な速度で鼓動を速めています」
マーシャルは、真新しい統計レポートを机の上に広げた。
「タラワでエセックス級空母を含む8隻を奪われましたが、我が国の造船所では現在、同じエセックス級がさらに24隻、そしてハワイを失った太平洋を直接横断するための巨大な護衛空母(カサブランカ級)数十隻が、ブロック工法によって毎週のように海へ吐き出されています。さらに航空機も、防弾性能に特化したF6Fヘルキャットや、長大な航続距離を持つP-51マスタング、超重爆撃機B-29が、毎月数千機というペースでロールアウトしています」
「それだけではない」
キング大将が言葉を継いだ。
「ハワイ陥落の直前、ニミッツ大将の決断によって、暗号解読部隊(ステーションHYPO)の頭脳と、IBMが開発した『真空管式・電磁計算機』のデータは、潜水艦によって無事にアメリカ本土へ脱出しました。彼らは現在、サンフランシスコ郊外のサンタクララバレーの地下施設に新たな情報センター(新ハイポ)を構築し、日本の通信トラフィックの『統計解析』を再開しています」
ルーズベルト大統領は、へし折れた万年筆を投げ捨て、車椅子を進めて海図に手を置いた。
「日本がどれほど精緻な職人技で戦艦を造り、ハワイの要塞化を進めようとも、所詮は資源に限りがある島国だ。我々には無尽蔵の鉄と油、そして計算機の頭脳がある」
だが、ルーズベルトの顔に宿った冷酷極まる復讐の炎は、単なる「兵器の量産」だけにとどまらなかった。
執務室の暗がりから、一人の将校が分厚いブリーフケースを抱えて一歩前へ出た。マンハッタン工兵管区司令官、レスリー・リチャード・グローヴス陸軍少将である。
「大統領閣下。もう一つの『究極の兵器』についても、ご報告がございます」
グローヴス少将は、極秘の封印が施されたファイルをルーズベルトの前に開いた。
「ニューメキシコ州のロスアラモス研究所、およびテネシー州のオークリッジにおいて、ロバート・オッペンハイマー博士らが主導する『マンハッタン計画』は順調に推移しております。ウランの濃縮およびプルトニウムの生産ラインは完全に軌道に乗りました。……あと2年。遅くとも1945年の夏には、都市を一つ、文字通り『太陽の熱で蒸発させる』ことのできる核分裂爆弾が完成いたします」
「神の火、か」
ルーズベルト大統領は、その破壊力の予測値を記した数式を見つめ、氷のような笑みを浮かべた。
「1944年。我々はこの太平洋へ、タラワの十倍、二十倍に及ぶ『絶望的な質量』を叩きつける。飛び石作戦などという生ぬるい真似はもう終わりだ。日本の絶対防衛圏を、鉄と炎の津波で外側から順番に物理的にすり潰す。……そして最後には、この『神の火』を彼らの帝都へ直接落とし、あの東洋の怪物を国ごと歴史から消去してやるのだ」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1943年12月下旬
帝都・東京 江戸城本丸跡・幕府最高臨戦評議場
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
世界が絶望と復讐の狂気に煮え滾る中、そのすべての震源地たる帝都・東京の地下要塞──分厚いコンクリートと鉛に囲まれた「脳髄」の部屋には、極めて冷徹なソロバンの音だけが響いていた。
「……1943年度の総合戦果報告、および国家決算を総括します」
国家財務総監・水野忠徳が、重厚なマホガニーの円卓の上に分厚い極秘台帳を置き、扇子をパチンと開いた。
「ハワイ・オアフ島およびミッドウェイ環礁の完全制圧。タラワ沖における米第5艦隊・主力空母8隻(エセックス級3隻、エンタープライズ、サラトガ、ホーネット、プリンストン、ベロー・ウッド)の無傷での鹵獲。さらにインド戦線における英印軍の拘束。そして何よりも、我が国が蘭印(オランダ領東インド)の油田地帯を国際法上完全に合法的買収によって割譲させた事実。……すべては、評議場の計算通りに推移しております」
水野の報告に、幕府特務・防諜総監の小栗忠純が、葉巻の紫煙を細く吐き出しながら静かに頷いた。
「太平洋の西半分は、名実ともに完全な我が豊栄大日本帝国の『内海』となりました。ハワイを東の絶対要塞として奥州鉱業(伊達家)の動力削岩機で地下要塞化し、水戸徳川造兵工機の46センチ要塞砲を据え付けたことで、アメリカの大艦隊が太平洋を直接横断することは物理的に不可能となっています」
世界を圧倒した帝国の「完全なる全盛期」。
しかし、評議場総裁にして永世宰相たる徳川家正の、眼鏡の奥の鋭い瞳には、一切の慢心や歓喜の甘さは存在していなかった。
「我々が手にしたのは、あくまで『第一段階の勝利』に過ぎん」
家正宰相はパイプを灰皿に置き、ゆっくりと立ち上がって壁面の巨大な世界地図を睨みつけた。
「アメリカの真の恐ろしさは、ハワイを失い、主力空母を8隻も奪われてなお、その生産のペースが一切落ちていないことにある。黒田精機と竹中数理演算所の電磁防諜網が捉えたサンタクララバレーの通信トラフィック増大は、奴らが『計算機』を用いて我々の急所を再び炙り出し、来年(1944年)、タラワの数十倍という『鋼鉄の津波』を直接西海岸から放ってくることを意味している」
家正の言葉に、評議場の空気が一瞬にして氷結した。
「だからこそ、我々はアメリカの生産スピードを逆手に取り、奴らの兵器を丸ごと『我が国の牙』へと錬成し直すのだ。……鹵獲した空母群の改装状況はどうなっている?」
家正の問いに、特例で招集されていた佐賀精密機械の総帥、鍋島直泰が一歩前へ出た。
「ハッ。タラワで鹵獲したアメリカの空母8隻は、現在、浅野港湾や藤堂製作所、そして多良加の軍港にて、昼夜を問わぬ狂気的な突貫工事で解剖と大改装を受けております。越前松平の特殊装甲鋼板による飛行甲板の完全重装甲化、我が佐賀精密機械の高圧油圧カタパルトへの換装、そして機関部から電子兵装に至るまですべてを『堺公差』の規格で完全にコピー・新造し、帝国独自の『鷲型正規空母(飛鷲、猛鷲など)』として、来年春には完全に我が軍の戦力として就役いたします」
鍋島の報告に、水野忠徳が愉しげに笑う。
「アメリカがベルトコンベアで粗製濫造した鉄の箱を、帝国の職人技と極限の規格化で『究極の空母』へと錬成し直す。ルーズベルトが送り込んでくる艦隊を、ルーズベルト自身の船で海に沈めてやるというわけだ」
「それに加えて」
小栗忠純が、一枚の極秘写真を円卓の中央へ滑らせた。
「フィジー沖で回収したアメリカの『VT信管』の破片解析は完全に完了し、黒田精機による『野戦電波妨害機』の量産配備が全艦艇で進んでいます。さらに、航空機に関しても、液冷を捨てて2500馬力の超大出力空冷星型発動機を搭載した次世代主力戦闘機『四二式・天風』が、ついに岐州重工(織田家)のラインからロールアウトを開始しました。これで、アメリカのF6Fの分厚い装甲も、正面から力ずくで叩き割ることが可能です」
帝国の脳たちは、アメリカの「大量生産の暴力」を恐れるのではなく、そのテクノロジーを限界まで咀嚼し、自らの「質の暴力」をさらなる高みへとアップデートさせていた。
「だが、それだけではアメリカの無限の心臓を止めることはできん」
家正宰相は、指揮棒で海図のアメリカ大陸──その南端にある細い運河を鋭く叩いた。
「島津重工(西国重工)の地下ドックで建造させている『第十八号型特型潜水母艦(伊四百型潜水空母)』の進捗をさらに急がせろ。来年、この巨大潜水艦が就役し次第、アメリカの大西洋から太平洋への動脈である『パナマ運河』を、海中から奇襲して物理的に破壊する」
家正の口から放たれたその恐るべき非対称戦略に、評議場の重鎮たちも息を呑んだ。
「パナマ運河が破壊されれば、アメリカが大西洋の造船所で狂気的に量産している新鋭空母や戦艦群は、南米のマゼラン海峡を大きく迂回しなければ太平洋へ出られなくなる。奴らの圧倒的な工業力を、地理的な遅延によって強制的にへし折るのだ」
武力、法理、技術収奪、そして地政学の極致。
徳川家正という希代のマキャベリストが描くグランドデザインは、もはや単なる戦争の枠を超え、地球規模の「巨大なチェス盤」を完全に支配しつつあった。
「1944年。欧州ではアメリカとドイツが互いの大地で血と鉄を浪費する泥沼に沈むだろう。その間隙を突き、我々はアメリカの太平洋反攻を正面から叩き割り、アジアの絶対的な『豊栄大連邦』のブロック経済を永遠に固定化する」
家正宰相は、薄暗い地下要塞の天井を見上げ、冷酷かつ壮大な笑みを浮かべた。
「狂気と物量に魅入られた巨獣たちよ。我らが祖先が340年かけて築き上げたこの東洋の防壁が、いかに絶望的な厚みを持っているか。……来年、貴様らの血と鉄で、その身に思い知らせてやる」
1943年末。
ユーラシアの東西と太平洋を舞台に、イギリスの執念、ドイツの狂気、アメリカの物量と核の影、そして日本の冷徹な合理主義が、それぞれに巨大な刃を研ぎ澄ませていた。
四頭の巨獣がその全生命力を懸けて激突する「真の世界総力戦」の幕が、いよいよ開かれようとしていたのである。




