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第30章 悲哀の同胞と血塗られた海

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1943年7月11日 午後9時 イタリア南部 ターラント軍港

秘密地下司令部

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むせ返るような重油の匂いが、ターラント軍港の暗闇に立ち込めていた。


「……ケッセルリンク元帥。これは、いかなる奇跡の魔法ですか」


イタリア王立海軍主力艦隊司令官、カルロ・ベルガミーニ提督は、目の前の海図テーブルに置かれた『重油輸送・引渡証明書』を震える手で押さえながら、ドイツ南方総軍司令官アルベルト・ケッセルリンク元帥を見上げた。


「魔法などではない。アドルフ・ヒトラー総統閣下からの特例措置だ」


ケッセルリンクは、軍服の襟を正しながら重苦しい声で答えた。


「東部戦線での夏季攻勢(ツィタデレ作戦)のために備蓄されていた装甲師団用の特別予備燃料・計8万トン。そのすべてを、貨車でアルプスを越えさせて貴官の艦隊へ回した。総統は東部での完全勝利を先送りにしてでも、この地中海を守り抜く決断を下されたのだ」


ベルガミーニ提督の目に、熱いものが込み上げた。 数日前、空と海の防衛線をアメリカ軍の『VT信管(近接信管)』と圧倒的な物量によって無慈悲にすり潰され、シチリア上陸(ハスキー作戦)の大船団が迫り来る中、イタリア海軍は燃料ゼロという屈辱の底で、ただ港で爆撃されて沈むのを待つしかないと絶望していた。


「シチリアへ向かっている連合軍の上陸大船団には、天文学的な数の上陸舟艇(LST)と輸送船がひしめいている。これを水際で防ぐことは陸軍の力では不可能だ」 ケッセルリンクが海図のシチリア島を指差す。

「だが、防空戦で我々を粉砕したアメリカ軍の大艦隊には、決定的な、そして極めて論理的な『弱点』が存在している。……リュッチェンス提督、説明を」


司令部の暗がりから一歩進み出たのは、ドイツ海軍地中海派遣艦隊を率いるギュンター・リュッチェンス提督であった。彼は昨年末、アメリカ軍がモロッコへ上陸(トーチ作戦)する直前に、ヒトラーの密命を受けてジブラルタル海峡を極秘裏に夜間突破し、地中海へと水上打撃艦隊を滑り込ませていた男である。


「はっ」


リュッチェンスは海図の上に、連合軍の護衛艦隊の配置を示す駒を並べた。


「アメリカは狂気的なペースで巡洋艦や駆逐艦を量産し、防空網を敷いている。しかし、水上砲撃戦の要たる『最新鋭戦艦』の姿が、この地中海には一隻も存在しないのです」


「……どういうことだ?」


ベルガミーニが眉をひそめる。

「地球の裏側にいる『東洋の化け物』のせいです」 リュッチェンスは冷ややかに笑った。


「太平洋において、日本海軍が誇る大和型戦艦群と、西国財閥の機動部隊が暴れ回っているため、ルーズベルトは最新鋭の『アイオワ級』や『サウスダコタ級』といった30ノットを超える新鋭戦艦群のすべてを、対日戦線(太平洋)に張り付けざるを得ないのです。結果として、この地中海の上陸支援に回されている護衛戦艦部隊は、本国を失い逃げ延びてきた『イギリス亡命艦隊』の旧式戦艦と、自由フランス軍の残党艦隊だけです」


ケッセルリンクが深く頷く。


「空の防空網がどれほど硬かろうと、夜間水上砲撃戦に持ち込めばVT信管は役に立たない。そして純粋な大口径砲の撃ち合いならば、貴官らの『最新鋭の装甲と巨砲』が、連合軍の老朽艦を完全に凌駕する。……出撃せよ、ベルガミーニ提督。地中海の制海権を取り戻し、アフリカで孤立しているロンメル元帥への補給路(打通の夢)を切り開くのだ」


ベルガミーニは背筋を伸ばし、完璧な敬礼を返した。


「イタリア海軍の誇りにかけて。侵略者の船団を、残らず地中海の底へ沈めてみせます」


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同日 午後11時 ターラント軍港 岸壁

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深夜のターラント軍港に、かつてない規模の重低音が地響きのように鳴り響いていた。 ドイツから運び込まれた重油を胃袋の底まで飲み込んだ、イタリア王立海軍が誇る最新鋭・超弩級戦艦『リットリオ』『ローマ』『ヴィットリオ・ヴェネト』の三姉妹が、長きにわたる沈黙を破り、巨大なタービンを咆哮させていた。


そして、そのイタリア艦隊の背後から、漆黒の迷彩塗装を施された異形の艦隊が合流する。リュッチェンス提督が率いる、ドイツ海軍地中海派遣艦隊であった。


超弩級戦艦『リットリオ』、『ローマ』、『ヴィットリオ・ヴェネト』

高速戦艦『シャルンホルスト』、『グナイゼナウ』

鹵獲フランス戦艦『ダンケルク』、『ストラスブール』

重巡洋艦3隻、駆逐艦24隻。


イタリア王立海軍の誇る最新鋭戦艦3隻、ドイツ海軍の高速戦艦およびヴィシー政権から鹵獲した戦艦計4隻を中核とする、総勢34隻。 それは、地中海の制海権を力ずくで奪還せんとする枢軸国の威信を懸けた巨大な合同水上打撃艦隊であった。彼らは夜の闇に紛れ、シチリア島を目指して怒涛の出撃を開始した。


『リットリオ』の前部1番主砲塔。 分厚い装甲に覆われた砲塔内部では、砲手長のアントニオ・ルッソ曹長が、汗と油にまみれながら砲員たちを鼓舞していた。


「いいかお前ら! 燃料がなくて港で腐っていた日々は終わりだ! ドイツの野郎どもに油を恵んでもらったのは癪だが、弾を敵にぶち込むのは俺たちイタリア人の仕事だ! 38.1センチ(15インチ)砲の装填手順、もう一度確認しろ!」


「おう!」 若き装填手たちが、巨大な揚弾機のチェーンに油を差しながら力強く応える。彼らの瞳には、本土に迫る侵略者を叩き潰すという、決死の覚悟が燃え盛っていた。


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1943年7月12日 午前2時30分 地中海中部 シチリア島南方沖合

連合軍 上陸支援・護衛艦隊

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一方、シチリア島のジェーラ海岸を目指して地中海を北上していた連合軍の大船団は、数千隻のLST(戦車揚陸艦)と輸送船が文字通り海を埋め尽くす、規格外の巨大な陣容であった。

しかし、その圧倒的な物量を護衛する水上打撃部隊の旗艦、イギリス戦艦『ネルソン』の艦橋は、重苦しい緊張感に包まれていた。


「……レーダーに反応。北東方向、距離3万メートル。異常な数の大型艦影です。速度28ノット以上で本艦隊へ直進してきます!」


レーダー員の報告に、イギリス亡命艦隊司令官、アンドリュー・カニンガム提督は、パイプを握る手に力を込めた。


「イタリア艦隊か。燃料が尽きているという諜報はフェイクだったというわけだな」


カニンガムの傍らで、米陸軍第7軍司令官・パットン中将が忌々しげに舌打ちをした。


「くそったれ! トーチ作戦に参加した『マサチューセッツ』やアイオワ級の新鋭戦艦が数隻でもいれば、マカロニ野郎の艦隊などアウトレンジで海の底に叩き込んでやるものを! ルーズベルトめ、太平洋の日本軍に怯えて最新鋭艦をすべて西海岸へ回しやがって!」


パットンの罵倒は事実であった。太平洋の日本艦隊を抑え込むため、アメリカは地中海に最新鋭戦艦を回す余裕がなかった。そのため、この歴史的な上陸作戦の盾となっているのは、ロンドンを失い逃げ延びてきたイギリス海軍と、自由フランス軍の残党による寄せ集めの「亡命艦隊」であった。


戦艦『ネルソン』、『ロドネー』、『ウォースパイト』

自由フランス戦艦『リシュリュー』

重巡洋艦3隻、軽巡洋艦5隻、駆逐艦22隻。


最大速力23ノットの鈍足艦や第一次大戦の老兵を含む、亡命戦艦4隻を中核とする計34隻。 空の防空戦ならばVT信管を搭載したアメリカの護衛駆逐艦群が無敵を誇るが、水上の大口径砲の撃ち合い、しかも夜間となれば、装甲と砲の威力がすべてを決定する。


「パットン将軍。我が大英帝国の王室と政府はスコットランドに追いやられたが、王立海軍ロイヤル・ネイビーの誇りまでもが死んだわけではない」


カニンガム提督は、静かに、しかし鋼のような意志を込めて言った。


「『ネルソン』と『ロドネー』の16インチ(40.6センチ)砲9門の火力は、依然として世界最高峰だ。輸送船団を後方に退避させろ。我が亡命艦隊が盾となり、ファシストの艦隊を迎え撃つ」


そして、亡命艦隊の最後尾を進む自由フランス戦艦『リシュリュー』の艦橋でも、フィリップ・オーボワ艦長が、レーダーの光点を見つめながら血の涙を流すような覚悟を固めていた。


「艦長、敵艦隊のデータ解析が出ました。イタリア戦艦の他に……ダンケルク級のシルエットが2隻確認できます。ナチスの旗を掲げていますが、あれは間違いなく……」


「ヴィシー政権からドイツに鹵獲された、我が祖国の船だ」


オーボワ艦長は、軍帽を目深に被り直した。


「同じフランスの造船所で産声を上げた兄弟艦と、ここで殺し合う運命になるとはな。……総員戦闘配置! 自由フランスの十字旗(ロレーヌ十字)を高く掲げろ! 同胞の船であろうと、ナチスの犬に成り下がった鉄塊は、我々の手で海の底へ沈めるのだ!」


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同日 午前3時10分 シチリア南方沖合・艦隊決戦

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漆黒の地中海。波の音だけが支配する空間に、星明かりすら届かない深い闇が広がっていた。 距離2万2000メートル。両艦隊の先頭を進む駆逐艦同士の距離が詰まり、互いの肉眼で艦影を捉えるか捉えないかの限界距離。


静寂を破ったのは、イタリア艦隊旗艦『リットリオ』の巨大な砲身であった。


「目標、敵先頭の大型艦ネルソン! 測距よし! 方位盤、連動!」 ベルガミーニ提督が右手を鋭く振り下ろした。 「撃て(フォーコ)!!」


ドゴォォォォォンッ!!!


『リットリオ』の38.1センチ主砲9門が一斉に火を噴き、凄まじい閃光が夜の地中海を真昼のように照らし出した。重量885キロの徹甲弾が、初速850メートル毎秒という驚異的な速度で闇を切り裂く。 その数秒後、続く『ローマ』と『ヴィットリオ・ヴェネト』、さらにドイツの『シャルンホルスト』の主砲が次々と咆哮を上げ、空を裂く砲弾の轟音が海面を震わせた。


「敵弾接近!」


『ネルソン』の艦橋で叫び声が上がった直後、艦の周囲数メートルの海面に、巨大な水柱が林立した。 イタリア戦艦の初弾は直撃こそしなかったものの、異常に散布界の狭い完璧な夾叉きょうさであった。


「……見事な砲術だ。だが、我々も黙って沈むつもりはない!」


カニンガム提督が吠える。


「全主砲、反撃開始! 目標『リットリオ』! 16インチ砲の威力を見せてやれ!」


『ネルソン』の前甲板に集中配置された3基9門の16インチ砲が、地獄の底からの咆哮のような轟音とともに反撃の火を噴いた。続いて『ロドネー』、『ウォースパイト』、そして自由フランスの『リシュリュー』の38センチ砲が火線を放つ。


数十発の大口径徹甲弾が、夜空でオレンジ色の曳光を描きながら交差する。 太平洋で日米が繰り広げている航空機によるアウトレンジ戦とは全く異なる、純粋な鋼鉄と装甲、そして巨砲の暴力が正面から激突する、前世紀から続く海戦の極致──「艦隊決戦」の火蓋が、地中海のど真ん中で切って落とされた。


「被弾! 右舷水線部に16インチ弾直撃!」


『リットリオ』の艦内が激しく揺動し、アントニオ・ルッソ曹長のいる1番主砲塔の足元から、金属が引き裂かれる不気味な悲鳴が響いた。


「構うな! 装甲帯で弾いている! 次の弾を装填しろ! 手を止めるな!」


ルッソ曹長が装填手たちを怒鳴りつけ、油圧揚弾機が新たな38センチ砲弾を薬室へと押し込む。

一方、艦列の後方では、歴史上最も凄惨な「悲劇」が幕を開けようとしていた。 ドイツ海軍の軍艦旗を掲げた鹵獲フランス戦艦『ダンケルク』の33センチ四連装砲が、自由フランスの十字旗を掲げる戦艦『リシュリュー』へ向けて、正確な砲撃を開始したのである。


「敵弾命中! 第2副砲塔大破! 火災発生!」


『リシュリュー』の艦橋で、オーボワ艦長が血を流す部下たちを見下ろしながら、操舵輪を握る手に爪が食い込むほど力を込めた。


「主砲塔、旋回急げ! 目標『ダンケルク』! 同胞の心臓を、我が手で撃ち抜け!」


暗黒の海を焦がす炎と、鋼鉄を叩き割る轟音。 VT信管も空母も介在しない近距離の殴り合いは、双方の艦隊の装甲を削り落とし、生身の兵士たちを血の海へと引きずり込む、終わりのない地獄の挽肉機へと変貌していった。

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