第29章 地中海の死闘
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1943年7月5日 午前8時 イタリア南部・ナポリ
ドイツ南方総軍司令部
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北アフリカ・チュニジアの灼熱の砂漠で、アメリカ軍の無限とも思える物量を相手に、一進一退の血みどろの機動防御を指揮し続けている「砂漠の狐」ことエルヴィン・ロンメル元帥。彼の頭脳には、いまだ壮大な戦略的野望が燃え盛っていた。
『チュニジアで米軍を出血させ続け、隙を突いて東のエジプトへ反転・突破する。スエズ運河を制圧し、中東を抜けてインドへ至れば、そこでインドへ進攻している日本軍と物理的に接触できる。枢軸国によるユーラシア大陸の完全なる横断・打通だ』
ロンメルがベルリンへ打電し続けたこの「打通の夢」は、枢軸国にとって連合国を完全に屈服させるための、最後にして最大の希望であった。
しかし、その野望を実現するための大前提──すなわち、イタリア本土から地中海を越えて北アフリカへと至る「弾薬と燃料の絶対的な補給線」は、今や風前の灯火となっていた。
「……ロンメルの夢物語も、ここまでだ」
イタリア南部・ナポリの南方総軍司令部で、アルベルト・ケッセルリンク元帥は、偵察機が持ち帰った大量の航空写真を机に放り投げ、重々しい溜息をついた。 そこに写っていたのは、地中海対岸のアルジェリアやチュニスの港を埋め尽くす、天文学的な数の米英輸送船団と、口を大きく開けた新型の上陸舟艇(LST)の群れであった。
「連合軍は、アフリカのロンメルを無視する気だ。彼らの目標はアフリカの完全制圧ではない。地中海を直接北上し、イタリア本土の入り口たる『シチリア島』への大規模上陸(ハスキー作戦)を企図しているのは明白である」
ケッセルリンクの冷徹な分析に、司令部の参謀たちは息を呑んだ。
「もし連合軍の大艦隊がシチリア周辺の制海権を握れば、アフリカのロンメルへ渡る補給線は完全に切断され、彼らは砂漠で干上がって死ぬ。ロンメルの打通の夢も、南ヨーロッパの防衛も、すべては『地中海の制海権』を維持できるかどうかに懸かっている」
ケッセルリンクは、地中海の海図を強く叩いた。 「敵がシチリアへ上陸する前に、地中海上で敵大船団を海の底へ沈めろ! ルフトヴァッフェ(ドイツ空軍)の全残存戦力と、海軍のUボート群狼部隊に全力出撃を命じる。これは、ヨーロッパの生命線を賭けた決戦だ!」
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1943年7月8日 深夜 地中海中部 シチリア島南方沖合
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ケッセルリンクの厳命を受け、漆黒の地中海を音もなく潜航していたのは、大西洋で「群狼」として恐れられたドイツ海軍の誇るUボート部隊であった。
「……ソナーに多数のスクリュー音。大型の輸送船団です。目標はシチリア島方面へ向かっています」
UボートVII型・U-552の艦長、ハンス・ディーター・モア少佐は、潜望鏡深度を保ったまま、暗闇の海上に広がる巨大な船影の群れを睨みつけた。
「よし、攻撃準備。魚雷発射管一番から四番、注水」
かつての大西洋であれば、彼らは夜の闇に紛れて浮上し、肉眼で狙いをつけて輸送船の横腹に魚雷を叩き込むことができた。 だが、彼らが狙いを定めた直後、U-552の艦内に、不気味な高周波の警戒音が鳴り響いた。
「艦長! 敵駆逐艦からの強力な探信音を感知! さらに、海上の全方位から、未知の電波(マイクロ波レーダー)が照射されています! 我々は完全に捕捉されました!」
「なんだと!? まだ浮上すらしていないのに!」
モア少佐が驚愕した瞬間、海上の闇を切り裂くように、数十隻のアメリカ製『フレッチャー級』護衛駆逐艦が、狂乱したような速度でUボートの群れへと殺到してきた。 アメリカの工業力は、輸送船だけでなく、それを護衛する駆逐艦をも狂気的なペースで量産し、艦隊の周囲に「隙間のない探知の網」を形成していたのである。
「急速潜航! 深度150メートルまで沈め!」
U-552が艦首を下げて深海へと逃れようとしたが、頭上の駆逐艦から投射されたのは、従来のドラム缶型の爆雷ではなかった。敵のソナーと連動し、着水と同時に弾幕のように降り注ぐ多連装対潜迫撃砲「ヘッジホッグ」の雨であった。
直撃した瞬間だけ起爆するヘッジホッグの弾頭が、U-552の耐圧殻に正確に命中した。 深海の暗闇の中で凄まじい爆発が起こり、厚い鋼鉄の船体が飴細工のようにひしゃげる。
「浸水! 隔壁閉鎖不能……!」
モア少佐の最後の絶叫は、一瞬にして艦内に押し寄せた数千トンの水圧によって押し潰された。 地中海の底で、かつて無敵を誇ったドイツの群狼たちは、アメリカの圧倒的な量産護衛艦と最新のレーダー網の前に、浮上することすら許されず、次々と圧殺されていったのである。
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1943年7月9日 午前6時 地中海・シチリア島南方沖合 上空
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海中のUボート部隊が一方的にすり潰された翌朝。 地中海の制海権を取り戻すべく、今度は空からルフトヴァッフェの精鋭たちが、シチリアへ迫る連合軍の大船団へと襲いかかった。
「見ろ、海が船で埋め尽くされている。まるで動く都市だ」
ドイツ空軍の第30爆撃航空団・中隊長のクルト・マイヤー大尉は、Ju88爆撃機の操縦席から眼下の光景を見下ろし、思わず息を呑んだ。 そこには、無数のLST(戦車揚陸艦)と輸送船が、シチリア島のジェーラ海岸を目指して巨大な絨毯のように広がっている。
「各機、目標は大型の揚陸艦だ。急降下爆撃で一隻残らず海の底へ叩き送れ!」
マイヤー大尉の号令とともに、数十機のJu88とJu87(スツーカ)が、一斉にサイレンを鳴らして急降下態勢に入った。 しかし、彼らが敵艦隊の上空へと突入した瞬間、彼らを待ち受けていたのは、アメリカの
「マニュファクチャリング・モンスター」が生み出した、規格外の技術的暴力であった。
「敵艦隊より対空砲火! ……いや、何だあれは!」
マイヤー大尉の悲鳴のような声が無線に響く。 眼下のアメリカ艦隊から打ち上げられた無数の5インチ両用砲弾は、ドイツ軍機に直撃する前に、機体の周囲の空中で次々と自動起爆し始めたのだ。
空全体が一瞬にして、隙間のない「黒い爆発の壁」へと変わった。
太平洋のフィジー沖で、日本の熟練パイロットたちを火だるまにしたのと同じ、アメリカの大量生産技術の結晶「VT信管(近接信管)」による狂気的な防空弾幕であった。直撃せずとも、航空機から反射される電波を感知して最適な距離で炸裂するこの悪魔の信管は、急降下を試みるドイツの精鋭たちを、文字通り「面」として空中で粉砕していった。
「左翼被弾! 機体が……操縦不能ッ!」 「炎上しています! 隊長、脱出──」
マイヤー大尉の目の前で、僚機が次々と巨大な火の玉となって地中海へと突き刺さっていく。
さらに悪いことに、上空からはアメリカ製のP-51戦闘機やイギリスのスピットファイアの無数の群れが、圧倒的な数の暴力で襲いかかってきた。 もはや爆撃の狙いをつけることすら不可能だった。VT信管の黒い壁と、空を埋め尽くす連合軍戦闘機の前に、ドイツ空軍の精鋭部隊は為す術もなくすり潰され、マイヤー大尉自身も、燃え盛るJu88と運命を共にした。
空と海で展開された地中海の制海権争いは、戦術や職人技が介入する余地など一ミリもない、純粋な「技術と物量の暴力」によるアメリカの完全勝利に終わったのである。
地中海の制海権を完全に掌握した連合軍の大船団は、一隻の損害も出すことなく、いよいよヨーロッパの「柔らかい下腹」であるシチリア島へと、その巨大な上陸の牙を突き立てようとしていた。
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1943年7月12日 午後3時 帝都・東京
江戸城本丸跡・幕府最高臨戦評議場
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ドイツの空海軍が地中海で完敗し、連合軍がシチリア島への上陸を完全に確実なものとしたという防諜報告は、地球の裏側にある江戸城の地下要塞へと、小栗の『紫式部』暗号網を通じて即座にもたらされていた。
「……報告の通りです。ドイツ軍は地中海の制海権を完全に喪失しました。これで、アフリカのロンメルがエジプトを打通し、我が国のユーラシア経済圏と接続するという野望は、物理的に不可能となりました。アフリカのアクシス(枢軸)軍は、遠からず完全に干上がり、降伏するでしょう」
防諜局からの最終レポートを読み上げた永井信强大尉の声に、幕府最高財務査定官・水野忠徳は、持っていた扇子をパチンと鳴らして冷徹に頷いた。
「ルーズベルトの矛先が欧州の南腹へ向かったことで、ヒトラーは致命的な出血を強いられる。我が国としては、欧米が互いの大地で血と鉄を浪費してくれる分には一向に構わん」
しかし、幕府特務・防諜総監である小栗忠純の表情は、氷のように険しかった。
「水野殿、喜んでいる場合ではありません。シチリアでの戦闘データから、我々が直視すべき真の脅威が明確になりました」
小栗は、竹中数理演算所が弾き出した分厚いデータファイルを机の中央へ押し出した。
「フィジー沖で我が国の機動艦隊を撤退に追い込んだアメリカの『VT信管(近接信管)』と『マイクロ波レーダー』。これらが、今度は地中海でドイツの精鋭空軍とUボートを完全にすり潰しました。奴らの技術と量産能力は本物です。大和魂やゲルマンの精神論など、あの機械的な暴力の前には何の役にも立ちません」
評議場総裁にして永世宰相たる徳川家正は、眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせ、静かに口を開いた。
「アメリカの大量生産された工業力が、兵站という血液を得て、ついに世界中で完璧な殺戮マシーンとして実体化したということだな。……小栗殿、鍋島へ命じていた対抗策の進捗はどうなっている?」
「ハッ」
小栗は即座に答えた。
「フィジー沖で回収したVT信管の破片解析は、黒田精機と佐賀精密機械の主導で進んでおります。すでに、敵の近接信管の電波を狂わせる強力な『野戦電波妨害機』の量産体制に入り、順次、全艦艇および主要基地への配備を開始しています。また、航空機に関しても、液冷を捨てて2500馬力の超大出力空冷発動機と極厚装甲を併せ持つ次期主力機『四二式・天風』のロールアウトを極限まで前倒しさせております」
家正宰相はゆっくりと立ち上がり、巨大な太平洋の海図を睨みつけた。
「ドイツがヨーロッパで血を流し、アメリカの物量を地中海に釘付けにしてくれている時間は、我々にとっての黄金の猶予だ。この時間を使って、太平洋の絶対国防圏を『絶対に突破不可能な死の要塞』へと作り変えろ」
家正の冷徹な声が、地下要塞に重く響く。
「いずれルーズベルトの矛先は、ヨーロッパの泥沼を越えて、必ずこの太平洋へと向かってくる。その時、我々は敵の技術を丸ごと食い破った新たな牙をもって、アメリカの鉄の津波を真正面から粉砕する。……太平洋のすべての島々を、敵の血で染め上げる準備を急ぐのだ」
1943年夏。 ロンメルの野望が地中海の底へ沈み、イタリアの落日が決定的となる中。 豊栄大日本帝国は、ドイツの敗北すらも冷徹に観測し、アメリカのマニュファクチャリング・モンスターを迎え撃つための、狂気的な「技術のアップデート」と要塞化へと、国力のすべてを注ぎ込み始めていた。
世界総力戦の天秤は、いよいよ血と鉄の削り合いという、真の地獄のフェーズへと傾いていくのである。




