第28章 苦悩の刻と未来への序奏
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1943年6月25日 午前8時 ビルマ・インド国境 インパール・アラカン山系
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鬱蒼とした熱帯のジャングルは、絶え間なく降り続く狂気的なモンスーン(雨季)によって、文字通り底なしの「泥の海」へと姿を変えていた。
「クソッ、キャタピラが空回りする! 泥が深すぎるぞ!」
第一機動陸戦旅団・工兵特務曹長の西郷隆は、南太平洋でアメリカ軍から鹵獲したキャタピラー社製D8ブルドーザーの操縦席で、顔にこびりつく泥を拭いながら悪態をついた。 数ヶ月前、彼らがアメリカ製の大型重機で強引に切り拓いたはずの「即席道路」は、連日の豪雨によって完全に液状化していた。細川ゴム工業の熱帯用特殊タイヤを履いた前田発動機製の四輪駆動大型トラック群でさえ、車軸まで泥に埋まり、身動きが取れなくなっている。
「前進停止! 重砲の牽引車も泥にスタックした! 無理に引っ張れば砲架が歪むぞ!」
伝習隊重砲兵連隊の中隊長、野村健太郎大尉が、泥水に腰まで浸かりながら、水戸徳川造兵工機製の一五〇ミリ重加農砲の巨大な車輪に丸太を噛ませようと絶叫した。 シンガポールを陥落させた「双頭の鉄脚」たるマレー攻略軍は、印度方面軍として再編され、山下奉文少将の指揮のもとインパール国境へと雪崩れ込んでいた。しかし、いかに圧倒的な鉄量と自動車化機動力を誇ろうとも、大自然の猛威の前にその進撃速度は時速数キロにまで落ち込んでいた。
さらに最悪なことに、この泥濘で足を止められた日本軍の長大な兵站線を、目に見えない「ゲリラ」が容赦なく食い破り始めていた。
「──後方の第3輜重中隊より緊急入電! 補給のトラック12両が奇襲を受け、全焼! 敵はジャングルの奥深くへ消えました!」
通信兵の悲痛な報告に、野村大尉は奥歯を強く噛み締めた。 敵の正体は、英印軍のオード・ウィンゲート准将が率いる特殊空挺部隊「チンディット」であった。彼らは陸路からの泥濘の補給を完全に放棄し、アメリカ軍が提供したC-47輸送機からパラシュートで弾薬や食糧の「空中投下」を受けながら、ジャングルの奥深くを自在に移動している。 日本軍の重砲がどれほど強力であろうと、姿を見せずに背後の補給物資だけを焼き払って消えるゲリラに対しては、全くの無力だった。
「……前線への弾薬輸送率は、計画の30パーセントを下回りました。これ以上の前進は、部隊を飢えさせるだけです」
後方司令部の天幕で、参謀の報告を聞いた山下奉文少将は、雨音の響く重苦しい空気の中で目を閉じた。
「……進撃を一時停止しろ」
山下は、苦渋に満ちた声で絞り出した。 「全軍、現地にて強固な防御陣地を構築。モンスーンが明けるまで、動くことは罷りならん」
圧倒的な武力で東南アジアを蹂躙してきた帝国陸軍が、インドの泥沼と、米英の航空ロジスティクスを背後につけた見えない敵の前に、初めて明確な「出血と進撃停止」を強いられた瞬間であった。
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1943年7月2日 午前5時30分 南太平洋 フィジー諸島沖合 200浬
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インド国境で陸軍が泥濘に足をとられていた頃、太平洋においても、帝国の無敗の艦隊が「見えざる壁」に激突しようとしていた。
南太平洋の米豪遮断を完璧なものとするため、最後の要衝であるフィジー諸島の攻略へと進発した、山口多聞中将率いる「第三機動艦隊」である。
「目標、フィジー・ナンディ港の敵飛行場および港湾施設。……第一次攻撃隊、発艦始め」
第三機動艦隊の旗艦、装甲空母『鳳凰』の羅針艦橋で、山口中将が静かに号令を下した。 それに呼応するように、後衛の大型空母『瑞鶴』から、高橋赫三少佐が率いる攻撃隊が次々と紺碧の空へと飛び立っていく。
そして、『瑞鶴』のさらに後方。元は財閥の豪華客船として建造されながら、開戦に伴い長大な飛行甲板を与えられて『改装正規空母』へと生まれ変わった『隼鷹』の甲板上でも、鍋島家の佐賀精密機械が削り出した高圧油圧カタパルトが重低音を響かせていた。
「第二小隊、俺に続け! 太平洋の制空権は我々がもらう!」
『隼鷹』戦闘機隊長、橘 晃一大尉が、防喉マイク越しに獰猛に吠え、愛機である岐州重工製・四〇式艦上戦闘機『烈風』のスロットルを全開に押し込んだ。 1500馬力級液冷発動機『水星』が爆発的な推進力を生み出し、橘大尉の機体は重力から解き放たれたようにフィジーの空へと舞い上がる。これまで連戦連勝を重ねてきた橘たちの士気は、これ以上ないほどに高揚していた。
しかし、彼らがフィジー諸島の上空へ到達した直後、『隼鷹』の艦橋から信じられない緊急電報が飛び込んできた。
「──橘隊長! 母艦の電探に異常な反応! フィジーの東方30浬の海上に、基準排水量3万トンを超える超大型の艦影が最低でも4隻! さらに、我々の正面から、異常な数の航空機群が接近してきます!」
「なんだと!? 敵の新鋭空母群が待ち伏せしていたというのか!」
橘が驚愕して視線を巡らせた瞬間、雲の隙間から、まるで銀色のスズメバチの大群のような敵機が、太陽を背にして一斉に急降下してきた。
「敵機接近! なんだあの機体は……デカい!」
それは、橘たちがこれまで散々叩き落としてきたF4Fワイルドキャットでも、イギリスのハリケーンでもなかった。 ルーズベルト大統領の「マニュファクチャリング・モンスター」がデトロイトの工場から月産数百機単位で吐き出し始めた怪物。2000馬力級エンジンと極厚の装甲を纏った米海軍の新型主力戦闘機、『F6Fヘルキャット』の狂気的な大編隊であった。
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同日 午前6時15分 フィジー沖合 空海戦
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「ジャップの戦闘機部隊だ! サッチ・ウィーブ(二機一組の交差戦法)を維持しろ! 乱戦には付き合うな、速度と火力で一撃離脱だ!」
F6F戦闘機隊の隊長、デイヴィッド・ミッチェル大尉が、無線機越しにアメリカの若きパイロットたちへ冷静に指示を飛ばした。 彼らはもはや、日本の『烈風』と一対一で格闘戦を行うような愚かな真似はしない。
「舐めるな! 液冷の機動力を見せてやる!」
橘大尉は操縦桿を蹴り込み、『烈風』の機体を鋭く横滑りさせてF6Fの後部へ喰らいついた。20ミリ機銃のトリガーを引く。曳光弾がF6Fの太い胴体と主翼の付け根に正確に命中した。
「やった!」
橘が確信した瞬間、しかし彼の目の前で信じられない光景が起きた。
20ミリ機銃を数発食らったはずのF6Fは、火を噴くどころか、その分厚い装甲板で弾丸をパラパラと弾き返し、2000馬力エンジンの圧倒的な出力に任せてそのまま急上昇して離脱してしまったのだ。
「馬鹿な……20ミリ弾を弾き返しただと!? どれだけ重い装甲を積んでいやがるんだ!」
さらに、米軍のF6F部隊の数は、橘たちが展開している直掩機の倍以上に及んでいた。一機を狙っている間に、死角から別のF6Fがブローニング12.7ミリ重機関銃の猛烈な火線を浴びせてくる。 『烈風』は運動性能こそ勝っていたが、アメリカの「数と装甲の暴力」の前に、空戦は容易に敵を落とせない泥沼の消耗戦へと引きずり込まれた。
だが、真の地獄は、空戦空域のさらに下──米軍の新鋭『エセックス級』空母群の頭上へ肉薄雷撃を仕掛けようとした、日本の攻撃隊を待ち受けていた。
「突っ込め! 対空砲火をすり抜けろ!」
大型空母『瑞鶴』から発艦した『流星』の雷爆撃隊が、海面すれすれを這うように敵艦隊の輪形陣へと突入する。
「迎撃開始。マジック・フューズ(VT信管)、弾幕展張」
米艦隊の防空指揮官の無機質な号令とともに、数十隻の護衛艦艇から一斉に5インチ両用砲とボフォース40ミリ機関砲の火線が噴き上がった。 次の瞬間、『流星』の編隊の周囲の空間そのものが、無数の「黒い爆発の壁」へと変わった。
「なんだこの対空砲火は……! 直撃していないのに、空中で弾が勝手に起爆しているぞ!」
日本の熟練パイロットたちが悲鳴を上げた。 アメリカが極秘裏に大量生産に成功していた「VT信管(近接信管)」。目標に直撃せずとも、航空機から反射される電波を感知して最適な距離で自動起爆するこの悪魔の技術は、肉薄攻撃を試みる『流星』や『天山』の群れを、文字通り空中で「面」として削り落としていった。
火だるまになった『流星』が、次々と海面へと突き刺さっていく。
「……攻撃隊より入電。敵の対空砲火、異常に濃密。さらに新型戦闘機の圧倒的多数により、未帰還機が続出しております。……我、直掩網を抜かれました!」
装甲空母『鳳凰』の羅針艦橋で、通信士の報告が響き渡った直後、艦隊の最後尾に位置していた改装正規空母『隼鷹』の上空から、数機のF6Fが急降下爆撃を仕掛けてきた。
ズゴォォォンッ!!
『隼鷹』の飛行甲板に500ポンド爆弾が命中し、巨大な火柱が噴き上がる。
「『隼鷹』被弾! 飛行甲板大破、発着艦不能!」
山口多聞中将は、燃え上がる『隼鷹』の姿と、電探に映る終わりの見えない米軍の大編隊の光点を前に、血の滲むような力で拳を握りしめた。 このまま強行突破を続ければ、残りの空母も無傷では済まない。敵の技術と物量は、彼らの事前の見積もりを根底から覆すレベルで実体化していたのだ。
「……退くぞ」
山口中将の絞り出すような声に、艦橋の参謀たちが息を呑んだ。
「これ以上の無意味な損耗は避ける。攻撃隊を全機収容し、ただちにフィジー水域から離脱しろ。……フィジー攻略は、一時中止だ!」
無敗を誇った帝国の外洋機動航空艦隊が、ルーズベルトの「マニュファクチャリング・モンスター」の初弾の前に、初めて明確な「撤退」の苦汁を舐めさせられた瞬間であった。
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1943年7月8日 午後1時 帝都・東京
江戸城本丸跡・幕府最高臨戦評議場
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インド・インパールでの進撃停止と出血、そしてフィジー沖海戦における第三機動艦隊の『隼鷹』大破・未帰還機多数による撤退という衝撃的な報告は、江戸城地下の最高臨戦評議場を重苦しい沈黙で包み込んでいた。
「……報告の通りです。南太平洋において、米軍はすでに基準排水量3万トン級の新鋭正規空母『エセックス級』を複数隻実戦投入しており、さらに彼らの対空砲弾には、空中で自動起爆する未知の『近接信管』が採用されているとのこと。我が軍の航空機損耗率は、開戦以来最悪の数値を記録しました」
小栗忠純の報告を聞き、幕府最高財務査定官・水野忠徳は、持っていた扇子をパチンと閉じた。
「ついにアメリカの工場の歯車が、前線で物理的な殺戮マシーンとして実体化したか。職人技で相手を一方的にアウトレンジする魔法の時間は終わったというわけだ」
水野の言葉に、諸侯院から特例で招集されていた佐賀精密機械の総帥、鍋島直泰が悔しげに顔を歪めた。
「宰相閣下。被害が拡大する前に、これ以上の太平洋の南方への拡張を停止し、絶対国防圏の防衛のみに全生産力を集中させるべきかと存じます。米軍の生産力は常軌を逸しております。今は専守防衛に切り替え──」
「防衛戦だと?」
評議場総裁にして永世宰相たる徳川家正が、冷ややかな声で鍋島の言葉を遮った。 家正の眼鏡の奥の瞳には、一切の恐怖も焦燥もなく、ただ底知れぬマキャベリズムの冷光が宿っていた。
「ここで守りに入り、絶対国防圏の殻に引き籠もれば、いずれアメリカの無限の物量に外堀から順に押し潰されるだけだ。我々は、この程度の出血で足を止めるつもりなど毛頭ない」
家正宰相はゆっくりと立ち上がり、巨大な太平洋の海図を睨みつけた。
「このフィジーからの撤退は、決して敗北ではない。より巨大な反撃へ転じるための、冷徹な『バネの収縮』だ。……小栗殿、前線の第三機動艦隊は、撤退時に敵機の残骸を回収しているな?」
「ハッ。撃墜したF6Fの装甲板の一部と、不発で海面に落ちた米軍の特殊信管(VT信管)の破片を回収し、現在、潜水艦で本土へ緊急輸送中です」 小栗が即座に答えた。
「鍋島殿。貴家の佐賀精密機械と、黒田精機、竹中数理演算所の全知全能を挙げて、その破片を直ちに解析せよ」
家正は、鍋島を鋭く指差した。
「敵が装甲で弾くなら、より巨大な出力の牙で噛み砕け。2500馬力の超大出力空冷星型発動機を搭載した次期主力機『四二式・天風』のロールアウトと量産ラインの構築を限界まで前倒しにせよ。そして黒田精機には、敵の近接信管の電波を狂わせる強力な『野戦電波妨害機』を全艦艇に搭載させよ。奴らの技術を、丸ごと食い破るのだ」
鍋島直泰は、家正の「先手必勝の執念」に圧倒されながらも、深く頭を下げた。
「……承知いたしました。ただちに帝国全土の工廠をフル稼働させ、対抗技術の量産を急がせます」
「急げ。我々には休んでいる暇などない」
家正宰相は、海図の上の「フィジー」、そしてさらにその先にある「サモア」、太平洋のへそたる「ハワイ」、さらには北方の「ダッチハーバー(アリューシャン列島)」を次々と指で叩いた。
「ルーズベルトの生産力が完全に整う前に、新たな牙をもって先手を打ち、アメリカの飛び石をすべてへし折る。この一時撤退は、いずれ必ず太平洋の全拠点を一気に叩き潰す絶対攻勢を『完璧な勝利』とするための準備期間に過ぎない」
江戸城の地下要塞に、帝国の恐るべき宣言が響き渡る。
「我々は一歩も退かん。アメリカの巨大な波を、さらに巨大な鉄の津波で飲み込んでみせる」
1943年夏。 アメリカのマニュファクチャリング・モンスターが太平洋で初めてその牙を剥き、帝国に血を流させた。 しかし、異形の諸侯連衡国家は、その傷口を舐めるどころか、敵の技術を咀嚼し、さらに凶暴な「絶対攻勢の刃」へと自らを鍛え直すための、助走を開始したのであった。




