表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/43

第27章 狂狼の柔らかい下腹

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1943年6月10日 午前5時30分 北アフリカ・チュニジア カセリーヌ峠周辺

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

夜明けの冷たい砂漠を、耳を聾するような金属の摩擦音と、空気を震わせる重低音が支配していた。 モロッコから東進を続けてきたアメリカ合衆国・第1機甲師団の先鋒が、チュニジアの切り立った渓谷──カセリーヌ峠へと差し掛かったのである。


「よし、このまま峠を抜けるぞ。先行する偵察隊から、敵影の報告はない」


M4シャーマン中戦車の砲塔から身を乗り出し、双眼鏡を覗き込んでいた車長、ウィリアム・G・ガーナー軍曹が、車内通話機越しに操縦手へ指示を出した。 彼が乗るM4戦車は、デトロイトのクライスラー戦車工場からロールアウトしたばかりの新品であり、周囲には同じく緑色に塗装されたM4が約60両、砂煙を上げて進撃している。彼らは圧倒的な物量と航空支援を背景に、枢軸軍をチュニジアの袋小路へと追い詰めていると確信していた。

だが、その慢心こそが、砂漠の狐・エルヴィン・ロンメル元帥が周到に仕掛けた「死の罠」であった。


「……アメリカの素人どもめ。戦車の量産はできても、戦術の量産はできないようだな」


カセリーヌ峠を見下ろす岩山の稜線。完璧なカモフラージュネットに覆われたVI号戦車(ティーガーI)の車長席で、ドイツ・アフリカ軍団(DAK)第10装甲師団の戦車中隊長、ハインツ・フォン・クライスト大尉が冷酷に笑った。


「距離1,500。目標、先頭のアメリカ戦車。……撃て(フォイア)」


クライストの命令とともに、ティーガーIに搭載された8.8センチ(88ミリ) KwK 36 L/56 戦車砲が凄まじい咆哮を上げた。 初速800メートル毎秒を超える徹甲榴弾が、1,500メートルの空間を瞬時に切り裂き、ガーナー軍曹の斜め前方を走っていたM4シャーマンの前面装甲を、まるでボール紙のように貫通した。内部に搭載されたガソリンと弾薬が誘爆し、30トンの鋼鉄の塊が一瞬にして巨大な火柱へと変わる。


「敵襲! 右手の稜線だ! 88(アハトアハト)だぞ!」


ガーナー軍曹が絶叫し、砲手のロバート・ミラー伍長が慌てて75ミリ砲の砲塔を旋回させる。

しかし、反撃の暇などなかった。 稜線に隠蔽されていた20門の8.8センチ高射砲(対戦車水平射撃陣地)と、15両のティーガーIが一斉に火を噴いた。アメリカ軍が誇るM4シャーマンの75ミリ砲では、ティーガーの前面100ミリの垂直装甲を貫通することは不可能だが、ドイツ軍の88ミリ砲は、M4をどこから撃っても容易く貫通する。


「クソッ、砲弾が弾かれた! 相手の装甲は化け物か!」


「退がれ! 煙幕を焚いて後退しろ!」


一方的な虐殺であった。わずか30分の戦闘で、谷底に取り残されたアメリカ軍のM4シャーマン約40両が火だるまのスクラップと化し、ガーナー軍曹も炎上する戦車から這い出して、這々の体で後方へと敗走した。

ロンメルの天才的な機動防御と装甲の質的優位が、アメリカの進撃を完全に打ち砕いたのである。

しかし翌朝、クライスト大尉が双眼鏡越しに見た光景は、戦術的勝利の余韻を根底から凍りつかせるものであった。


「……馬鹿な。昨日、あれだけの損害を与えたというのに」


地平線の彼方から、再び砂煙を上げて進撃してきたのは、昨日完全に粉砕したはずのアメリカ軍第1機甲師団であった。破壊された40両のM4戦車は、一晩のうちに後方から届けられた「新品のM4戦車」と、アメリカ本土から大量に送り込まれた「促成栽培の新兵たち」によって完全に補充されていたのだ。 ガーナー軍曹もまた、新しい戦車を受領し、再び同じ峠へと向かわされていた。


「奴らには、恐怖も兵站の限界もないのか……!」


クライストのティーガーは無敵だったが、エンジンを動かすガソリンも、88ミリ砲弾もすでに底を突きかけている。 戦術と職人技の極致たるドイツ軍と、無限に兵器と人命を消費財として投射してくるアメリカのマニュファクチャリング。北アフリカの砂漠は、両者が一進一退の血みどろの殺し合いを続ける、終わりの見えない挽肉機ミートグラインダーと化していた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1943年6月20日 午前11時 モロッコ・カサブランカ 連合国・欧州方面最高司令部

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「ロンメルの抵抗は予想以上だ。このままチュニジアの砂漠でドイツ軍のティーガーと真正面から殴り合いを続ければ、我々の大量生産ラインがいかに強大であろうと、兵站と時間を空費するばかりだ」


カサブランカの司令部に極秘裏に飛来したフランクリン・D・ルーズベルト大統領は、苛立ちを隠そうともせずに葉巻を灰皿に押し付けた。


アメリカは太平洋で、日本に対抗するための「エセックス級空母群」の大量建造を急ピッチで進めている。ヨーロッパの決着に時間をかけすぎれば、日本の絶対防衛圏はさらに強固なものになってしまう。


「大統領、砂漠での正面突破が泥沼化しているのなら、迂回すれば良いのです」


作戦会議の席上、野太い声で進言したのは、米陸軍第7軍の司令官に任命された猛将、ジョージ・S・パットン中将であった。

パットンは、指揮棒で地中海の地図を叩いた。


「北アフリカで耐えているドイツ軍の背後──すなわち、ヨーロッパ本土である『イタリア』は、装備も士気も最悪のどん底にあります。アフリカの完全制圧に固執せず、我々の無尽蔵の揚陸艦と物量を地中海へ向け、ヨーロッパの『柔らかい下腹』であるシチリア島およびイタリア本土へ直接、大規模上陸作戦を仕掛けるのです。作戦名『ハスキー』。イタリアを脱落させれば、ヒトラーは南ヨーロッパの防衛に数十個師団を割かざるを得なくなり、アフリカのロンメルも干上がります」


「……柔らかい下腹か」


ジョージ・C・マーシャル参謀総長も、その大胆な戦略に頷いた。

「太平洋方面からの要請は待たせておく。最優先で地中海に揚陸艦と上陸部隊を集結させろ。ファシストの牙城を、内側から崩壊させるのだ」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1943年7月5日 午後3時 イタリア・ローマ ヴェネツィア宮殿 および ターラント軍港

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

アメリカ軍の巨大な矛先がシチリア・イタリア本土へ向けられようとしているという防諜情報は、地中海を挟んだイタリア王国に、確実な死の恐怖をもたらしていた。


「……北アフリカの戦線はすでに限界です。我が軍のアルベルト・マリーニ中尉が率いる歩兵大隊は、弾薬も食糧もないまま砂漠に放置され、アメリカの戦車に蹂躙されて全滅しました。もはや、兵士たちに戦う意志はありません」


ヴェネツィア宮殿の執務室で、陸軍参謀が絶望的な報告を行った。 国家統領ベニート・ムッソリーニは、青ざめた顔で頭を抱え込んだ。


「海軍はどうしている! 我がイタリア王立海軍には、地中海を制する強大な戦艦群があるではないか!」


その怒号に対する答えは、イタリア南部・ターラント軍港から届けられた、海軍主力艦隊司令官カルロ・ベルガミーニ提督の血を吐くような悲痛な報告であった。

ターラント軍港の岸壁には、基準排水量4万トン、38.1センチ(15インチ)砲9門を誇る、世界でも最新鋭の超弩級戦艦『リットリオ』や『ローマ』が、威容を誇って停泊していた。 しかし、その煙突からは一筋の煙も上がっていない。


「船はあります、ドゥーチェ(統領)。ですが……動かすための重油が、ただの一滴もありません」


ベルガミーニ提督は、微動だにしない巨大な戦艦の甲板を歩きながら、拳を強く握りしめた。


「ドイツは我々を見捨てました。彼らはすべての燃料を東部戦線の戦車とアフリカのロンメルへ回し、我が海軍の要請を完全に黙殺しています。アメリカの大船団がシチリアへ迫ろうとも、我々は港に浮かんだただの巨大な鉄の標的として、爆撃されて沈むのを待つしかないのです」


北アフリカの喪失と、燃料の枯渇。 ムッソリーニの威信は完全に地に墜ちていた。イタリア王室(サヴォイア家)や軍内部の将官たちの間では、すでに「ドイツを裏切り、アメリカと単独講和(降伏)して国を救う」という、クーデターの密議が決定的な動きを見せ始めていた。

大英帝国に続き、ヨーロッパにおけるファシズムの一角が、ついに脱落の淵へと追い詰められようとしていた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1943年7月10日 午後1時 帝都・東京

江戸城本丸跡・幕府最高臨戦評議場

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

北アフリカでの凄惨な泥沼の攻防と、焦燥したアメリカが「イタリア本土上陸(ハスキー作戦)」を準備しているという防諜情報は、地球の裏側、江戸城地下の最高臨戦評議場へと正確に届けられていた。


「……小栗の防諜局からの報告通りです。アメリカは北アフリカの制圧を後回しにし、地中海を越えてシチリア島およびイタリア本土へ数千隻の揚陸艦団を差し向けようとしています。イタリア国内では反ムッソリーニのクーデターの機運が高まっており、脱落はもはや時間の問題です」


巨大な壁面地図の前に立ち、欧州・地中海情勢を読み上げたのは、永井信强大尉であった。 その報告を受け、幕府最高財務査定官・水野忠徳は、扇子を手のひらで軽く叩きながら、冷ややかに笑った。


「ロンメルはよくやっている。アメリカの天文学的な物量を砂漠に釘付けにしてくれている間に、我々は太平洋の絶対防衛圏を強化する時間を十分に稼ぐことができた。そしてアメリカがイタリアに上陸すれば、欧州は我々の計算通り、完全に地獄の二正面作戦へと突入する」


水野の視線が、地図のドイツとイタリアを鋭く射抜いた。


「イタリアが脱落すれば、ヒトラーはアルプス以南の防衛に数十個師団という膨大な兵力を張り付けねばならなくなる。そうなれば、ソ連の完全攻略を仕掛けようとしていたドイツの計画は完全に崩壊する。アメリカの物量がヨーロッパ全体を永遠の泥沼に突き落とすことこそが、我々にとっての最大の安全保障だ」


評議場総裁にして永世宰相たる徳川家正も、眼鏡の奥の瞳に深い知性を宿して頷いた。


「欧米が他国の大地で血みどろの殺し合いを続け、自らの国力を際限なく空費している今こそ、我々がなすべきことは、このアジア・太平洋の『ブロック経済圏』を、永遠に揺るがぬ盤石なものへと昇華させることだ」


家正宰相はゆっくりと立ち上がり、壁面地図の「豊秋津島オーストラリア」「多良加タラカン」「蘭印インドネシア」といった、広大な南方生存圏を見渡した。


「水野殿。これまで我々は、これらの土地から資源を吸い上げ、一方的な搾取と軍備増強に邁進してきた。だが、力による抑圧や単なる資源の強奪は、かつて大英帝国がインドで反乱を起こされたように、いずれ必ず現地民の蜂起という形で破綻を招く」


家正の声には、数百年の統治を担ってきた徳川宗家としての、冷徹かつ壮大な国家構想が響いていた。


「我々が目指すべきは、単なる植民地帝国ではない。豊秋津島の日系開拓民はもちろん、蘭印やマレーの現地民に対しても、徹底したインフラ投資と教育(同化政策)を施すのだ。道路を敷き、鉄道を通し、現地の経済を豊かにして彼らの生活水準を根本から引き上げる。そしていずれは、彼ら自身の手で自治を行わせ、独立した国家として『豊栄大連邦』という一つの巨大な経済共同体の傘下へ組み込む」


「大連邦制、ですか」


外務副卿の小栗忠純が、葉巻の煙を細く吐き出しながら応じた。


「その通りだ」


家正は力強く頷いた。


「武力による支配は一時的なものに過ぎないが、『経済的恩恵』と『共通の防衛利益』で結ばれた連邦の絆は永遠だ。アメリカがいくら空母を量産して我々を物理的に叩き割りにこようとも、現地民が自らの意志で『日本の連邦経済圏にいる方が豊かで安全だ』と信じてともに銃を取るようになれば、このブロック経済圏は絶対に崩壊しない不落の要塞となる」


水野忠徳も、深々と頭を下げた。


「御意に。直ちに大蔵省および各財閥の総帥たちに命じ、南方への開発投資と教育機関の設立予算を倍増させます。資源を吸うだけでなく、アジア全域に『ソロバンの富』を循環させるのです」


1943年夏。 アメリカの巨大な鉄槌がイタリア本土の柔らかい下腹へと振り下ろされ、欧州のファシズムが内部から崩壊の悲鳴を上げ始めるその裏側で。 豊栄大日本帝国は、単なる軍事独裁国家から、アジア・太平洋全域を経済と教育で束ねる「巨大な連衡連邦国家」へと、その国家のOS(基本設計)を根本から書き換えようとしていた。


流血と泥沼の世界総力戦が続く中、未来の千年を見据えた「国づくり」が、いよいよ動き出したのである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ