第26章 ユーラシアの孤児たち
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1943年5月15日 午前6時 ウラル山脈東麓・エカテリンブルク
ソビエト連邦亡命政府・臨時地下司令部
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シベリアの長く過酷な冬が終わりを告げ、広大な大地は雪解け水による果てしない泥濘へと姿を変えていた。
「──報告します。西のウラル防衛線で対峙しているドイツ国防軍・東方軍の兵力は185万名。現在、泥濘によって大規模な装甲部隊の進撃は停止しております。しかし、南のインパールの陥落により、アメリカからのレンドリース(武器貸与)物資が届くはずだった『ペルシャ・インドルート』は完全に機能不全に陥りました」
赤軍防衛司令官、ゲオルギー・ジューコフ上級大将は、泥にまみれた長靴のまま、地図を指し示して報告した。
机の奥でパイプを咥えている男──ソビエト連邦共産党書記長、ヨシフ・スターリンは、その報告を聞いても表情一つ変えなかった。 1941年11月のモスクワ陥落により、ドイツ軍の軍靴はウラル山脈の西側まで迫っている。さらに、太平洋側のムルマンスク航路はドイツ海軍に、極東の海は日本の機動艦隊に封鎖されていた。
並の国家であれば、とうの昔に干上がって白旗を揚げている絶望的な包囲網である。 しかし、大祖国戦争を戦うソビエト連邦は、決して死んではいなかった。
「アメリカのトラックや小麦が届かぬのなら、我々自身の血と泥で造り出すまでだ」
スターリンが、低く地鳴りのような声で呟いた。 モスクワが陥落する直前、彼らは天文学的な規模の重工業施設と労働者を、ウラル山脈の東側、この広大なシベリアへと「疎開」させることに成功していた。劣悪な環境の中、屋根すらない工場で、凍え死ぬ労働者の死体を乗り越えながら、彼らは自国製の『T-34中戦車』を昼夜問わず狂気的なペースで増産し続けている。 この広大な国土と無尽蔵の人的資源こそが、ソ連の真の武器であった。
「日本の極東における海上封鎖とインド進攻は、確かに我々の首を絞めている。だがジューコフよ、我々の主敵は誰だ?」
「無論、首都モスクワを奪い、我が同胞を虐殺しているファシスト・ドイツです、書記長同志」
「その通りだ」
スターリンはパイプを灰皿に叩きつけた。
「日本軍は、インドや東南アジアで資源を強奪しているが、我々のシベリア領土には一歩も攻め込んできていない。ならば、極東は放置しろ。我々のすべての鉄、すべての石油、すべての血を一滴残らず西へ向けろ。日本軍との国境紛争は一切禁ずる。我々はここで力を蓄え、雪解けが終わった夏、必ずやドイツ国防軍の喉元へ反攻の牙を突き立てるのだ」
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同日 午後1時 満州・シベリア国境地帯(ハルビン北東方面)
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スターリンの「対独優先」の命令は、シベリア・満州国境を守る赤軍兵士たちにとって、過酷な飢えと忍耐を強いるものであった。 ウラル方面の対独戦線にすべての物資が優先されるため、極東の第42歩兵師団への配給は限界まで切り詰められていた。
国境の泥濘に掘られた塹壕の中から、ミハイル・ヴォルコフ中尉と、小銃分隊長のイワン・ペトロフ軍曹は、双眼鏡越しに国境の向こう側──豊栄大日本帝国が支配する満州鉄道の沿線を睨みつけていた。
「中尉同志……昨日、統制を離れた第3中隊の脱走兵約100名が、食糧を求めて日本側の満州鉄道拠点へ越境しました」
ペトロフ軍曹の報告に、ヴォルコフ中尉はギリッと奥歯を噛み締めた。 その直後、彼らの視界の先、満州側の地平線に、地響きを立てて巨大な黒い影が姿を現した。
「──越境した武装難民を確認。距離6,000。光学測距儀にて捕捉完了」
満州鉄道本線の軌道上を滑るように現れたのは、満州鉄道警備軍・第1独立装甲列車旅団に所属する超重装甲列車『鎮海』であった。
機関車を含め計15両の重装甲車両を連結したこの怪物は、前後の砲塔車両に、水戸徳川造兵工機が削り出した戦艦用14センチ副砲を搭載している。
「目標、越境したソ連軍脱走兵。弾種、榴弾。……主砲、撃て」
『鎮海』の車長を務める黒木剛太少佐が、暖房の効いた車内から冷徹に命令を下す。 主砲照準手の高田清次伍長が引き金を引いた瞬間、14センチ砲が火を噴き、重量38キロの榴弾が6,000メートルの彼方へ正確に降り注いだ。
凄まじい爆発が泥土を吹き飛ばし、食糧を求めて越境したソ連兵たちを文字通り木端微塵に粉砕する。
「……敵集団、沈黙。軌道上の障害は排除されました」
高田伍長の淡々とした報告に、黒木少佐は双眼鏡を下ろし、小さく頷いた。
「機関車前進。我々の任務は、この『線(鉄道)』を死守することだけだ。シベリアの泥沼に踏み込む必要はない」
国境線のこちら側で、その一方的な虐殺の光景を見せつけられたペトロフ軍曹は、怒りに震えてモシン・ナガン小銃のボルトを引こうとした。
「撃つな、イワン!!」
ヴォルコフ中尉が、ペトロフを泥濘の中へ力ずくで引き倒した。
「奴らの挑発に乗るな! 今ここで日本軍と戦端を開けば、祖国は東西から完全に挟み撃ちにされる。我々の真の敵は、モスクワを奪ったドイツ軍だ……! ここは泥を啜ってでも耐えるんだ!」
日本軍は、シベリアの奥深くへ大軍を派遣して面を支配するような、無駄な真似は一切しなかった。彼らはただ、資源を運ぶための動脈たる「満州鉄道」の沿線に10万名の警備軍を配備し、超重装甲列車などの圧倒的な火力を集中させて『線』だけを冷酷に防衛し続ける。 ソ連は広大な国土と執念で死を免れてはいたが、日本の「不干渉ドクトリン」の前に、極東ではただ沈黙を強いられていた。
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1943年5月20日 午前11時 中国内陸部・重慶(国民政府臨時首都)
国民革命軍総司令部
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ユーラシアの北でソ連が耐え忍んでいる頃、南の中国大陸においては、外部からの生命線切断が「国家の内部崩壊」という最悪の形で表面化しつつあった。
「スティルウェル将軍! これはいったいどういうことだ! 先月から、アメリカからの武器と弾薬の供給が完全にゼロになっているではないか!」
国民政府主席にして国民革命軍総司令である蔣介石は、怒りに顔を紅潮させ、米軍事顧問のジョセフ・スティルウェル中将を怒鳴りつけた。
スティルウェルは、冷ややかな目で蔣介石を見返した。
「怒鳴られても困る、総統。物理的な道が存在しないのだ。先月、山下奉文と島津忠久率いる日本軍がインド・ビルマ国境を完全に蹂躙したことで、君たちへの唯一の命綱であった『ビルマ・ロード(援蒋ルート)』は完全に消滅したのだからな」
「ならば空輸だ! ヒマラヤ山脈を越えて輸送機を飛ばせ!」
「その輸送機も、燃料も、今この瞬間、北アフリカとインド洋の泥沼で文字通り弾け飛んでいるのだよ!」
スティルウェルが、机を激しく叩き返した。
「ルーズベルト大統領がモロッコへ上陸させた部隊は、ロンメルのドイツ軍と死闘を繰り広げ、日々天文学的な数の弾薬とトラックを浪費している。アメリカの巨大な兵站線は、すべてアフリカとヨーロッパの戦場へ吸い込まれているのだ。極東のジャングルに取り残された君たちへ回す弾薬など、ただの一発も残ってはいない」
蔣介石は、力なく椅子へ崩れ落ちた。
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同日 午後3時 雲南省・ビルマ国境地帯
国民党軍前線陣地
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重慶での絶望的なやり取りは、最前線の兵士たちの胃袋に直結していた。
雲南省の泥濘に掘られた塹壕の中で、国民革命軍・第88師団大隊長の李文少校は、泥水をすすりながら空腹に耐えていた。隣では、歩兵班長の陳宝下士が、草の根を噛みちぎりながら空を睨んでいる。
彼らは、インド国境を突破した日本軍が、そのまま雲南省へ雪崩れ込んでくることを極度に警戒していた。 しかし、春になっても日本の戦車や歩兵は一向に姿を現さなかった。日本軍は沿岸部の港湾と、主要な鉄道の結節点を強固に要塞化するだけで、広大な中国の内陸部へは一歩も踏み込んでこなかったのである。
「……少校、日本軍はなぜ攻めてこないのでしょうか。彼らが攻めてくれば、我々も『抗日』の大義名分で戦えるのに」
陳宝下士の虚ろな問いに、李文少校は絶望的な笑いを浮かべた。
「攻め込む価値すらないからだ。奴らは我々を檻の中に閉じ込め、兵站を絶って、自滅するのを待っているのだよ」
共通の敵(日本の積極的侵攻)という外圧が消滅したとき、飢えた人間の集団はどうなるか。
「陳宝……総統からの命令だ」
李文は、泥まみれの命令書を取り出した。
「明日、我々の部隊は北へ向かう。目標は、毛沢東率いる共産党軍(八路軍)が支配する陝西省方面の穀倉地帯だ。日本軍ではなく、あのアカ共から、明日の食糧を力づくで奪い取る」
「抗日統一戦線(国共合作)」という大義名分は完全に崩壊した。中国大陸は再び、イデオロギーではなく「明日の食糧」のために中国人が中国人を殺し合う、凄惨な国共内戦の泥沼へと沈んでいくのであった。
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1943年5月25日 午前11時 陝西省・延安(共産党根拠地)
黄土の洞窟
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「……蔣介石の国民党軍が、我々の支配地域へ向けて露骨な武力挑発を開始しました。彼らは完全に飢えており、我々の食糧を狙っています」
八路軍(共産党軍)司令官の林彪が、薄暗い黄土の洞窟の中で報告を行った。
中国共産党中央委員会主席、毛沢東は、粗末な木机の上で筆を走らせながら、静かに、そして不気味に嗤った。
「蔣介石め、ついにアメリカからのミルクが止まり、同胞を食い殺しに来たか」
「主席、日本軍の動きが不気味です。彼らは我々と国民党軍が衝突している華北の荒野を、ただ鉄道警備のトーチカから見物しているだけで、一切介入してきません」
「当然だ。あの東洋の島国の頭脳たちは、我々の全滅など最初から望んでいない」
毛沢東は筆を置き、冷徹な目で林彪を見据えた。
「日本軍の不干渉ドクトリンの真意は、我々を檻に閉じ込め、内戦で互いの国力を完全に空費させることにある。彼らにとって、我々が共食いをしてくれることが最高の安全保障なのだ。……だが、それは我々共産党にとっても、千載一遇の好機である」
毛沢東の眼に、野心の火が宿った。
「日本軍という巨大な外敵が動かない以上、我々が倒すべき真の敵は蔣介石ただ一人だ。国民党軍が飢えと腐敗で自滅していく隙を突き、我々が農村部から人民を組織し、大陸の実権を完全に掌握する。日本軍の思惑に乗ってやるフリをしながら、最後には我々が中国大陸の勝者となるのだ」
数日後、華北の荒野に建つ一つの巨大な穀物サイロを巡り、王金連長率いる八路軍の遊撃中隊と、李文少校率いる国民党軍の大隊が激突した。 日本軍の機関銃が睨みを利かせる鉄道線のすぐ傍で、同じ言葉を話す中国人同士が、泥にまみれ、銃剣で互いの内臓を抉り出し合う凄惨な殺し合い。 それを、日本の鉄道警備兵たちは、安全なコンクリートのトーチカの中から、ただ無機質に、冷ややかに見下ろしているだけであった。
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1943年5月28日 午後3時 帝都・東京
江戸城本丸跡・幕府最高臨戦評議場
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「……報告の通りです。シベリアのソ連軍は国境での挑発を避け、対独戦への反攻準備に完全に集中しています。そして中国大陸では蔣介石と毛沢東が、食糧を巡って国共内戦を再発させました。両戦線において、我が軍は一発の弾丸も消費することなく、敵の無力化と封じ込めに成功しております」
防諜局からの報告を読み上げた永井信强大尉の声に、幕府最高財務査定官・水野忠徳は、深く刻まれた老い皴を愉しげに歪めた。
「完璧だな」
水野は、扇子を開いてパチンと鳴らした。
「ソ連にはドイツと血みどろの殺し合いをさせ、中国は檻の中で共食いをさせる。大軍を送って『面』を支配するなどというコストの無駄を放棄し、動脈たる『点と線』だけを防衛する。これこそが、我が帝国が築き上げた絶対的なブロック経済圏の完成形だ」
評議場総裁にして永世宰相たる徳川家正も、眼鏡の奥の瞳に満足げな光を宿し、深く頷いた。 世界は分断され、帝国の南洋権益は無傷のまま莫大な富を吐き出し続けている。戦略は、これ以上ないほど完璧に機能していた。
だが、幕府特務・防諜総監である小栗忠純だけは、手元の分厚いファイルを見つめ、一切の笑みを浮かべていなかった。
「水野殿。喜ぶのはまだ早いようです」
小栗の冷徹な声が、評議場の弛んだ空気を一瞬で凍りつかせた。 小栗は、黒田精機と竹中数理演算所の暗号解読班が命懸けで解析した、アメリカからの極秘通信および中立国経由の諜報情報の束を机の上に放り投げた。
「これは、ユーラシアの内陸の話でも、極東の話でもありません。ルーズベルトが抱える真の生産力が、いよいよ本格稼働したという防諜報告です」
小栗の言葉に、家正宰相の顔色が変わった。
「アメリカ国内の造船所から、異常な数の艦艇が次々と進水を始めています。それも、開戦前から建造が始まっていた基準排水量3万トン級の新鋭正規空母『エセックス級』は、年産5隻から10隻という常識外れのペースで就役へと向かっています。さらに、インディペンデンス級軽空母や、カイザー造船所でブロック工法によって粗製濫造されるカサブランカ級などの護衛空母数十隻、新鋭のアイオワ級戦艦、巡洋艦、フレッチャー級駆逐艦、ガトー級潜水艦、戦車揚陸艦、そして無数の輸送船に至るまで……暴力的な速度で大量生産しつつあります」
評議場が、死のような静寂に包まれた。
「艦艇だけではありません。デトロイトの自動車工場を全面転用した航空機ラインからは、海軍のF6FヘルキャットやF4Uコルセア、陸軍のP-51戦闘機、さらにはB-17やB-24といった四発重爆撃機や輸送機に至るまで、あらゆる機種が毎月数千機という天文学的ペースでラインから吐き出されています。戦車や野砲、トラックに至っても同様です」
「待て、小栗」
水野忠徳の扇子を持つ手が、微かに震えていた。
「いくら我が国の『堺公差』を遥かに超える大量生産能力を持っていようと、兵器は人間が動かすものだ。とくに空母の着艦訓練やパイロットの養成には年単位の時間がかかる。機体だけ作っても、操縦する人間も、受け入れる基地インフラもなければただの鉄屑だろう!」
「それが、彼らの真の恐ろしさなのです」
小栗は、冷酷な現実を突きつけた。
「彼らは機体を大量生産するのと並行して、広大な国内に無数の飛行場と訓練基地を急造しました。職人技を排除し、マニュアル化されたカリキュラムによって、何万人もの若者を促成栽培でパイロットに仕立て上げています。熟練度に欠ける分は、機体の極厚の防弾鋼板で生存率を強引に引き上げる。さらに、西海岸やハワイの港湾・航空基地のインフラを猛烈な勢いで拡張し、空母16隻に対してその数倍の予備機と予備パイロットを配置する『巨大な兵站システム』を完全に機能させているのです。彼らは兵器だけでなく、前線のパイロットすらも巨大な工場の『消費財』としてシステムに組み込みました」
徳川家正宰相は、ゆっくりと立ち上がり、巨大な世界地図を睨みつけた。
「……規格化された巨大な暴力が、兵站という血液を得て、ついに完全な怪物へと羽化したか」
「ええ。ですが宰相閣下」
小栗は、世界地図の「欧州」と「アフリカ大陸」を指し示した。
「ルーズベルトが今、その溢れんばかりの暴力的な質量を最優先で叩きつけているのは、我々が守る太平洋の壁ではありません。ヨーロッパ第一主義に基づき、彼らの巨大な兵站線と大量生産された兵器の過半数は、大西洋を渡ってアフリカ大陸へと注ぎ込まれています」
アメリカの無限の物量が、モロッコとアルジェリアから東へ向けて怒涛の進撃を開始している。 そしてその先には、砂漠の狐・ロンメル元帥が率いるドイツ国防軍の精鋭「アフリカ軍団」が、必死の防衛線を敷いていた。
「アメリカとドイツ。大量生産の怪物と、人種至上主義の狂気が、いよいよ正面から激突したのです」
1943年初夏。 ユーラシアの東でソ連と中国が泥沼の封じ込めの中にある一方、西のアフリカ大陸では、アメリカの「マニュファクチャリング」とドイツの「マイスターの狂気」が、血と油を際限なく浪費する地獄の挽肉機を回し始めていた。
太平洋の本格的な反攻を前に、連合国と枢軸国がその全精力を傾けて殺し合う「北アフリカの死闘」が、灼熱の砂漠を真っ赤に染め上げようとしていたのである。




