第25章 王冠への泥道
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王冠への泥道
1943年5月10日 午前7時 インド洋 セイロン島・コロンボ海軍基地
英インド防衛軍地下司令部
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蒸し暑い海風が換気口から吹き込む地下司令部には、大英帝国という国家の「終焉」を告げる死臭が立ち込めていた。
「……通信傍受班より最終報告です。アメリカ軍のモロッコ上陸部隊は、アルジェリアのオラン、アルジェを完全制圧。しかし、エジプト側から急行したロンメルのドイツ・アフリカ軍団とチュニジア近郊で激突し、戦線は完全に膠着。北アフリカは地獄の泥沼と化しました。もはや、彼らがスエズを越えて我々を救出に来ることは不可能です」
通信・情報参謀であるチャールズ・ラルフ中佐は、血の気を失った顔で司令官へと報告した。
英インド防衛軍司令長官、ジェームズ・サマヴィル大将は、手元の熱い紅茶を見つめたまま、重く息を吐き出した。 本国ロンドンはナチス・ドイツの軍靴に踏み躙られ、国王と首相はカナダへと逃亡した。西のアフリカ戦線は米独の巨大な質量が激突する挽肉機と化し、そして東からは、東洋最大の要塞シンガポールを粉砕した日本の双頭の軍隊が、ビルマの密林を抜けてインド国境へと迫りつつあった。
さらに彼らを絶望させているのは、インド国内の状況である。 日本特務機関の支援を受けたチャンドラ・ボース率いるインド国民軍が、カルカッタやデリーで大規模な反英一斉蜂起を扇動。数百年間にわたり大英帝国に搾取されてきたインド人たちのルサンチマンが、亜大陸全土で火柱となって噴き上がっていたのである。
「本国は消滅し、援軍は来ない。足元では奴隷どもが反乱を起こしている、か」
サマヴィル大将は立ち上がり、壁に掛けられた巨大なインド洋の海図を睨みつけた。
シンガポールへ向かった最新鋭の執行艦隊(Z部隊)が消滅した今、彼の手元に残されているのは、速力21ノットしか出ない『リヴェンジ』『ロイヤル・ソヴリン』などR級旧式戦艦4隻と、装甲の薄い旧式空母『エルメス』を主力とする、質において絶望的な艦隊だけであった。 しかし、彼らには一つだけ「異常な力」があった。 それは、ダイナモ作戦で英仏海峡の防衛を見捨ててまで、チャーチルが「豊秋津島のインフラ強奪」のために極東へ逃がしていた、112隻の駆逐艦と156隻のコルベットという、天文学的な数の小型艦艇の群れである。
「ラルフ中佐。日本軍は必ず海路と陸路の両方からインドを潰しにくる。だが、我々にはまだこれだけの数の船がある」
サマヴィル大将は、海図のコロンボ沖に密集する無数の小さな駒を太い指で叩いた。
「質で勝てぬなら、数だ。100隻を超える駆逐艦とコルベットで、戦艦と空母を幾重にも取り囲む『ハリネズミの防空陣形』を形成しろ。弾薬が尽きるまで高角砲とポンポン砲を上空へ撃ち上げ続けろ。大英帝国最後の王冠の宝石を、東洋のサルどもにそう易々と渡してなるものか」
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同日 午後1時 ビルマ・インド国境 インパール・アッサム地方山岳地帯
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ビルマからインド亜大陸へと通じるアラカン山系の密林は、気が狂うような湿気と、鼓膜を物理的に破壊する巨大な重機の咆哮に支配されていた。
「遅いぞ! 泥の深さを言い訳にするな! キャタピラの回転を同調させろ!」
第一機動陸戦旅団・工兵特務曹長の西郷隆は、アメリカ海軍から強奪した黄色いキャタピラー社製D8ブルドーザーの操縦席から身を乗り出し、後続のトラック部隊へ向かって怒声を張り上げた。
シンガポールを陥落させた「双頭の鉄脚」は、マレー半島からビルマを経由し、休む間もなくインド国境へと突入していた。 西郷が駆る大馬力ブルドーザーの巨大な排土板が、数百年手付かずだった原生林の巨木を根本からへし折り、泥濘を強引に削り取って「道」を形成していく。そのすぐ後ろを、加賀・前田発動機製の高出力ディーゼルエンジンを積んだ三九式四輪駆動大型トラックの群れが、細川ゴム工業製の特殊熱帯用タイヤで泥を蹴立てながら、時速数十キロという猛烈な速度で追随する。
「前方の尾根に英軍のトーチカ陣地! 距離2,000!」
トラックの助手席から、分隊長の島津忠久少将が野戦双眼鏡を覗き込みながら吠えた。国境線を守る英印軍(グルカ兵)の陣地から、機関銃の猛烈な曳光弾がジャングルを切り裂いて飛んでくる。
「西郷曹長、道を譲れ! ここから先は、幕府の旦那方(伝習隊)の仕事だ!」
島津の合図とともに、ブルドーザーとトラック部隊がジャングルの左右へ散開する。その中央を割って地響きとともに前進してきたのは、前田発動機の装軌牽引車に引かれた、水戸徳川造兵工機製の巨大な一五〇ミリ重加農砲の砲列であった。
「重砲隊、展開! 仰角二五度! 池田の遅延信管を装填せよ!」
伝習隊重砲兵連隊の中隊長、野村健太郎大尉が、泥まみれの軍刀を振りかざして号令を下す。 備前・池田化学が合成した新型爆薬が巨大な薬室に詰め込まれ、数十人の砲兵が汗だくになりながら閉鎖機を叩き込んだ。
「撃てェッ!!」
野村大尉の軍刀が振り下ろされると同時に、150ミリ重加農砲が一斉に火を噴いた。 重量40キロを超える榴弾が、アラカン山系のジャングルを飛び越え、英印軍のトーチカへと正確に降り注ぐ。遅延信管がコンクリートの分厚い壁を貫通してから内部で炸裂し、山肌ごと数十人のグルカ兵を肉片へと変えて吹き飛ばした。
「トーチカ沈黙! 全車、突撃!」
越前松平重工業製の三五式中戦車改が、分厚い防盾で残存する機銃弾を弾き返しながら、開いた突破口へと雪崩れ込んでいく。 インパール国境の第一防衛線は、幕府の圧倒的な鉄量と、外様財閥の機動力の前に、わずか数時間で粉砕された。
だが、尾根を越え、眼下に広がる景色を見た山下奉文少将と島津少将は、双眼鏡を下ろし、重い沈黙に包まれた。
彼らの眼下に広がっていたのは、緑のジャングルなどではない。地平線の彼方まで続く、絶望的なまでに広大なインド亜大陸の赤茶けた平原であった。 そしてその平原には、先ほど粉砕した陣地の十倍、いや百倍以上の規模で、無数の塹壕が掘られ、大英帝国に忠誠を誓う「英印軍」の無尽蔵の兵士たちが、アリの群れのようにうごめいているのが見えた。
「……マレーやシンガポールのようにはいかんな」
山下少将は、埃にまみれた軍帽を深く被り直した。
「アメリカの重機でジャングルを切り開こうと、我が水戸徳川の重砲でトーチカを吹き飛ばそうと、この国土の広さと数億の人口の前には、ただの点でしかない。敵は広大な後背地を利用して、無限にゲリラ戦と遅滞戦闘を仕掛けてくるだろう」
島津少将も、忌々しげに葉巻に火をつけた。
「ええ。ここから先は電撃戦ではない。果てしのない血と泥の『面』の制圧だ。……本当の泥沼は、ここからですよ、将官」
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翌日 午前10時 インド洋 セイロン沖合 200浬
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陸軍がインパールの泥沼に足を踏み入れたのと時を同じくして、海からもまた、帝国の「規格化された刃」がインド洋へと突き立てられていた。
第二機動艦隊司令長官・小沢治三郎中将率いる、装甲空母『大鳳』を旗艦とする空母打撃群である。
「目標、セイロン島コロンボ沖に遊弋する英東洋艦隊残存。……第一次攻撃隊、発艦始め」
小沢の静かな号令とともに、『大鳳』の重装甲甲板から、岐州重工製の三九式艦上攻撃機『流星』と、四〇式艦上戦闘機『烈風』の巨大な編隊が、次々と紺碧の空へと射出されていった。
「敵艦隊、視認! ……なんだあれは! 海が船で埋め尽くされているぞ!」
『流星』雷撃隊長・村田重治少佐は、操縦席から眼下のコロンボ沖を見下ろし、思わず息を呑んだ。 そこにいたのは、旧式戦艦『リヴェンジ』などを中心として、その周囲を文字通り海面が見えなくなるほどに覆い尽くす、100隻以上の駆逐艦とコルベットの巨大な群れであった。
「全艦、対空戦闘! 一機も通すな!」
英艦隊のサマヴィル大将の絶叫とともに、100隻の小型艦艇から一斉に高角砲と多連装ポンポン砲が上空へ向けて撃ち放たれた。それはもはや「狙って撃つ」という次元を超えていた。海面から空へ向かって、逆落としの雨のように無数の曳光弾と黒煙が吹き上がり、巨大な「鉄の壁」を形成している。
「突っ込め! 弾幕の隙間を縫え!」
『烈風』隊を率いる進藤三郎大尉が、1500馬力級液冷発動機『水星』の出力を全開にして、英軍の防空網へと突入する。 しかし、いかに『烈風』が速く、島津の防弾鋼板が厚かろうとも、この「異常な数の暴力」が張る弾幕の前では無傷では済まなかった。数機の『烈風』がポンポン砲の直撃を受け、翼を吹き飛ばされてインド洋へと墜ちていく。
「怯むな! 敵は図体がデカいだけの旧式戦艦だ! 魚雷を叩き込め!」
村田少佐は機体を海面すれすれまで降下させ、無数の水柱を掻き分けながら肉薄雷撃を敢行する。 投下された二九式改航空魚雷が、旧式戦艦『ロイヤル・ソヴリン』の分厚い水線下装甲を正確に打ち抜いた。毛利の防長化学が開発した新型高爆速火薬が炸裂し、老朽化した巨艦が凄まじい水柱とともに断末魔の呻きを上げる。
しかし、一隻の戦艦を大破させても、周囲を群がる無数の駆逐艦は狂ったように上空へ弾幕を張り続けている。 『流星』の急降下爆撃が駆逐艦の数隻を真っ二つに叩き割っても、その穴はすぐに別のコルベットが埋めに来る。大英帝国が本国を見捨ててまで極東へ逃がした「ダイナモ作戦の残党」の執念は、日本の規格化された精鋭パイロットたちに、予想以上の出血を強いていた。
「……敵戦艦2隻大破、駆逐艦12隻撃沈。しかし、我が方の未帰還機も20機を超えました。敵の対空火網は依然として濃密です」
『大鳳』の作戦室で、大野健二飛行長が苦渋に満ちた報告を行った。
小沢中将は、双眼鏡を下ろし、静かに腕を組んだ。
「これ以上の強攻は無用だ。攻撃隊を帰還させろ。……敵の戦艦は旧式で足が遅く、我が方の脅威にはならん。だが、あの無数の小型艦艇をすべて海から掃除するには、相当な時間と弾薬が必要になるな」
海戦そのものは日本の圧倒的な勝利であった。しかし、インド洋全域のシーレーンを完全に制圧し、亜大陸を無血で封鎖するという計画は、イギリス軍の「数の暴力と意地」の前に頓挫した。 インド攻略は、陸でも海でも、終わりの見えない泥沼の消耗戦へと突入したのである。
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1943年5月15日 午後3時 帝都・東京
江戸城本丸跡・幕府最高臨戦評議場
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インパール国境突破と、セイロン沖海戦の「勝利」の報告は、すぐさま江戸城地下の最高臨戦評議場へと届けられた。
しかし、報告を読み上げた永井信强大尉の表情は硬かった。
「……陸軍はインパール方面で国境線を突破したものの、広大なインド平原で無数の英印軍の遅滞戦闘に直面し、進撃速度は著しく低下。海軍の小沢艦隊も、コロンボ沖で敵主力に打撃を与えましたが、100隻を超える敵小型艦艇の群れを完全に排除するには至っていません。陸海ともに、インド亜大陸の完全制圧には『数年単位』の泥沼の出血が予想されます」
永井の懸念に満ちた報告に対し、雛壇の上座に座る幕府最高財務査定官・水野忠徳は、扇子を開いて愉しげに笑った。
「結構なことだ、永井大尉。明日明後日にインドが落ちるなどという甘い幻想は、この評議場の誰も抱いておらんよ」
水野の言葉に、永井は驚いたように顔を上げた。
「では、この泥沼化は計算通りだと仰るのですか?」
「当然だ」
外務副卿の小栗忠純が、葉巻の紫煙を細く吐き出しながら冷徹に答えた。
「我々の真の目的は、インドを『統治』することではない。あの広大な亜大陸に、大英帝国の残党と、彼らを支援しようとするアメリカの資源を『釘付けにすること』だ」
小栗は立ち上がり、壁面の巨大な世界地図の「インド」と「北アフリカ」を指し示した。
「現在、アメリカとドイツは北アフリカの砂漠で、無意味な戦車戦に天文学的な資源を浪費している。そして東では、我々がインドに血みどろの戦線を構築したことで、イギリスの残党は死に物狂いでインド防衛に物資を注ぎ込まざるを得なくなった。……これで、何が起きるか分かるか?」
永井の視線が、インドの北、ヒマラヤを越えた先にある「中国大陸」と「ソ連」へと向かった。
「……まさか。アメリカとイギリスが、ユーラシア大陸の南側から蒋介石の国民党軍や、ソ連の残党へ武器を送る『援蒋・援ソルート』が、物理的に機能しなくなる……!」
「その通りだ」
評議場総裁にして永世宰相たる徳川家正が、眼鏡の奥の瞳に鋭い光を宿して重々しく頷いた。
「アメリカの無限の生産力も、ドイツの狂気も、アフリカとインドという巨大な『ゴミ箱』へすべて吸い込まれる。欧米の連中が他人の大地で血と鉄を浪費し、互いに疲弊していく間に、我々は多良加の原油と豊秋津島の資源を使って、アジアの絶対的なブロック経済圏を内側から完全に要塞化するのだ」
家正宰相は、江戸城の分厚いコンクリートの天井を見上げ、冷酷に笑った。
「インドの泥沼は、世界を分断するための巨大な罠だ。……さあ、ルーズベルトとヒトラーに、終わりのない世界総力戦の『地獄の底』を見せてやろうではないか」
1943年初夏。 大英帝国最後の王冠の宝石たるインド亜大陸は、日本の武力と、欧米の野心が交錯する底なしの泥沼へと変貌した。 それは、世界が完全に分断され、誰一人として降りることのできない「狂乱の総力戦」がいよいよ本格化したことを告げる、死の号砲であった。




