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第3章 異形の帝国とシティの罠


豊秋津島を目指した棄民達は、過酷な自然環境と先住民との衝突を乗り越えながら、数世代をかけて数百万規模の「武士と領民の町(藩領)」を築き上げた。のちにイギリスの探検家キャプテン・クックがこの大陸に到達したとき、彼が目にしたものは未開の地ではなく、すでに強固な日系ネットワークと武装要塞によって実効支配を完了していた巨大な文明圏であった。欧州列強も、国際条約によってこの地に対する日本の主権を認めざるを得なかったのである。


1800年代初頭、ナポレオン戦争によって欧州が大混乱に陥り、オランダ本国が消滅する。この千載一遇の隙を突き、日本は東インド諸島の東半分セレベスやニューギニアを保護領として事実上接収した。


同じ頃、豊秋津島の大地から無尽蔵に出土する鉄鉱石、石炭、ボーキサイト、そしてニッケルが、帝国に決定的な進化をもたらしていた。

豊富な資源と、御朱印貿易で蓄積された富。それらを背景に、帝国は日本本土と豊秋津島の双方において、欧米列強に50年先駆ける「産業革命」を達成する。


かつて領地を治めていた大名たちは、その莫大な富と権力を近代的な重工業財閥へと脱皮させていった。


上流の資源採掘は、豊秋津島の巨大な鉄鉱山やレアメタルを支配する伊達家の「奥州鉱業」と、南太平洋の最高級天然ゴムを独占する細川家の「南海殖産」が担った。

中流の精錬と化学工業は、後に多良加の原油から100オクタンガソリンや新型高爆速火薬を生み出す毛利家の「防長石油・防長化学」が独占した。

そして下流の精密加工と兵器製造は、後に大和型戦艦や装甲空母『大鳳』の巨躯を組み上げる島津家の「西国重工」と、精緻な航空発動機や油圧兵装を削り出す鍋島家の「佐賀精密機械」が担うこととなった。


これら三百諸侯の末裔たちが構築したサプライチェーンは、米英の資源に1パーセントたりとも依存しない、完全無欠の「ブロック経済」を完成させていた。


しかし、いかに物理的な資源の自給率が100パーセントに達しようとも、日本は西洋的な意味での「近代国家」とは呼べないいびつさを抱えていた。幕藩体制という封建制度を維持したまま産業革命を成し遂げたこの異形の国は、「国際金融」というもう一つの不可視の戦場において、致命的なアキレス腱を晒していたのである。その原因は「幕藩体制」という統治構造そのものにあった。


徳川宗家を頂点とし、各大名が独立した国家のように領地と財閥(企業)を運営する「幕藩体制」のシステムは、諸侯同士の熾烈な競争と技術革新を促す反面、国家全体の資本を中央集権的に一箇所へ集中させる「近代的な中央銀行制度(金融の近代化)」の構築を著しく阻害した。各大名の金庫には米や小判、あるいは独自の藩札が唸っていたが、それらは国際市場で通用する流動性の高い「外貨」ではなかった。


19世紀後半から20世紀初頭、豊秋津島(豪州)の過酷な大地を横断する数千キロの大陸鉄道、数万トンの大艦隊が停泊できる大水深の港湾インフラ、そして多良加タラカンの密林にそびえ立つ近代的な巨大原油精錬プラントを、欧米列強に先駆けて短期間で構築しなければならないという焦燥。

そのためには、欧州から最新鋭の工作機械や初期技術シード・テクノロジーを大量に買い付け、大陸規模の土木工事を同時多発的に立ち上げるための、幕府と全大名の総資産を足し合わせても到底足りないほどの莫大な「初期投資資金」が必要だった。


国内の金庫にどれほど米や小判、独自の藩札が唸っていようとも、それらは国際市場においてはただの紙切れやローカルな交換券に過ぎない。欧米から最新の重工業設備を買い付けるためには、当時の絶対的な世界基軸通貨であった「ポンド」が不可欠であった。


この大陸規模の超巨大プロジェクトを完遂するだけの、天文学的な外貨ポンドを一度に調達できる場所は、当時の地球上にただ1カ所しか存在しなかった。大英帝国の心臓部であり、世界の富とゴールドの過半を支配する国際金融の最高峰、ロンドンの「シティ」である。


19世紀末のシティは、北米の大陸横断鉄道から南米のインフラ開発に至るまで、世界中の巨大プロジェクトの資金をことごとく引き受けていた「資本の帝国」そのものであった。パリやニューヨークの市場では、到底この規模の起債には耐えられない。自国資本の限界を悟った幕府および各大名財閥の使節団は、ロスチャイルドやベアリングスといった冷徹な英国の銀行家マーチャント・バンカーたちが支配するこの魔窟へ赴き、彼らの巨大な信用創造のシステムに頼るしかなかったのである。


「条件は一つです、ミスター・ミズノ。これほどの天文学的資金を融資するからには、我々投資家を納得させる絶対的な『担保』が必要です」


豪奢なマホガニーの机越しに、冷徹な笑みを浮かべて羊皮紙の契約書を差し出したのは、ロンドンの金融街を支配するマーチャント・バンカーの巨頭、アーサー・ベアリング卿であった。 幕府全権財務使節・水野忠幹みずの ただもとは、その契約書の裏面に記された付帯条項を一読し、屈辱に唇を噛み締めた。


「……万が一、利払いが滞った場合、多良加の油田、豊秋津島の鉄鉱山、および港湾・鉄道のすべての所有権と主権を大英帝国へ譲渡する、だと? 我らが祖先が血と泥にまみれて切り拓いた王土を、丸ごと差し出せと申すか」


水野の怒りに満ちた声に対し、随行していた外様財閥の若き代表、薩摩島津家次期当主・島津忠義しまづ ただよしが、扇子を閉じて静かに口を開いた。


「呑むしかありませぬ、水野殿。ここで彼らのポンド(外貨)を手に入れねば、帝国の重工業化は半世紀遅れ、やがては白人列強の武力によって国ごと蹂躙される。この屈辱的な証文は、未来の豊栄を築くための『劇薬』です」


「……分かっておる。この借用書は、我々が血を吐いてでも利払いを完遂し、いずれただの紙切れにしてやる」


水野は震える手で万年筆を握り、帝国の未来を抵当に入れる屈辱の借用書にサインを刻んだ。


彼らはシティの金融市場で莫大な額の「ポンド建て南洋開発インフラ国債」を発行し、基軸通貨による外貨を得て急速な重工業化を成し遂げた。だが、その債券の裏面には、冷徹な国際金融のルールに基づく「担保接収条項」が刻まれていた。

すなわち、万が一日本がポンドでの利払い・返済を履行できなかった場合、借金のカタとして「多良加の油田、豊秋津島の鉄鉱山、および港湾・鉄道のすべての所有権と主権を大英帝国へ譲渡する」という一文である。


大英帝国の冷徹な搾取は、単なる証文の押し付けに留まらなかった。 彼らはこの巨額の債務と、当時国内で起きていた「資金拠出を渋る徳川幕府」と「利権を握られたくない外様財閥」の意地の張り合い(冷戦)に巧みに介入したのである。 大陸規模のインフラ整備で資金繰りに窮した日本側が、債務の返済猶予や追加融資を求めた際、英国はその絶対条件として、豊秋津島における天然の良港であり、日系開拓民の手がまだ十分に回っていなかった南東岸のシドニー、メルボルン、そして西岸のパースといった戦略的要衝の「99年間租借」と、「租借地内における英連邦法の適用(事実上の自治権)」を突きつけた。


国内のパワーバランス維持に汲々としていた幕府と財閥は、目先の外貨のためにこの屈辱的な条件を受け入れてしまう。結果として、シドニーやメルボルンは、日本の主権下でありながらも大英帝国が独自の軍隊(英連邦守備隊)を駐留させ、独自の経済網を敷く「巨大な英連邦租界(実質的な占領地)」へと変わり果ててしまったのである。


祖先たる棄民たちが340年かけて泥をすすり、血を流して築き上げてきた鉄と油の帝国生存圏。

ロンドンのシティに巣食う国際金融資本は、ナチス・ドイツの猛攻によって大英帝国が国家破産の危機に瀕した1941年秋、この数十年前の古い証文を最大の「兵器」として抜いた。


もちろん、帝国はこれまで利息の支払いを滞らせていたわけではない。豊秋津島(豪州)の鉱脈から産出される現物金ゴールドの輸出や、一部の戦略物資の売却によってポンドを稼ぎ出し、毎年の莫大な利払いを履行し続けてきた。ロンドンの銀行家たちに、担保接収の口実となるデフォルト(債務不履行)の隙を1ミリたりとも与えなかったのである。


だが、イギリスが抜いた伝家の宝刀は、「利払いの遅延」に対するペナルティなどという生易しいものではなかった。彼らが発動したのは、欧州での戦乱という非常事態を根拠とした悪魔の条項であった。


「ポンド建て国債の、即時かつ全額の一斉繰り上げ償還」


利息ではない。莫大なインフラ投資にかかった天文学的な「元本」そのものを、今すぐ全額返せという要求である。

毎年の利息分であれば、現物金や貿易黒字で補填できていた。しかし、自らの経済圏(円・豊秋津ゴールド経済圏)の中だけで完全に自給自足し、ポンドの巨大な外貨準備高など持ち合わせていない日本に、期日までに元本をポンドの現金で耳を揃えて用意できるはずがない。


イギリスの狙いは最初から現金の回収ではなく、真面目に利息を払い続けてきた日本を「合法的に」デフォルトへ追い込み、担保接収条項を強制発動させることだった。書類1枚の手続きで、アジア太平洋で手つかずのまま眠る日本の莫大なインフラ資産を合法的かつ無条件に丸ごと強奪し、破産寸前の大英帝国を延命させるための燃料(兵站基地)として接収しようとしたのである。


法と帳簿を盾にした、国家ぐるみの巨大な略奪。

その真意を完璧に読み切っていたからこそ、東京の首相官邸は1分の迷いもなく開戦を決断したのだ。ロンドンの帳簿の執行力を極東の海で物理的に焼き捨てるため、帝国はこれまで連綿と整備してきた軍備をもって、ジャワ海へと大艦隊を進発させたのである。


かくして1941年11月、ジャワ海に放たれた第一撃は、340年の時を経て帰還した棄民たちの、世界秩序に対する冷徹なる逆襲の始まりであった。

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