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第2章 棄民たちの版図

1941年のジャワ海で、大英帝国が誇る無敵の艦隊を文字通り消し炭に変えた元号「豊栄」時代の大日本帝国。彼らがなぜ、米英の資源に1滴たりとも依存しない国力を保有するに至ったのか。


その答えを知るためには時計の針を340年前、1600年の秋へと巻き戻さねばならない。


1600年(慶長5年)、秋。

関ヶ原の野を血で染め上げた天下分け目の大戦は、徳川家康の勝利をもって決着した。しかし、覇権を握り、新たな秩序の頂点に立った家康の双眸に映っていたのは、太平の世の到来ではなく、足元で不気味に蠢く不穏分子の存在であった。


表向きは恭順の意を示しながらも、依然として強大な軍事力を温存し、牙を研ぎ続ける島津や毛利ら西国の大名たち。戦場という存在意義を奪われ、不満を抱えたまま巷に溢れ返る三十万とも言われる牢人(浪人)の群れ。さらに家康を悩ませたのが、国法や将軍の威光よりも「海の向こうの神(教皇)」を絶対視するキリシタンという、既存の封建統治を根底から揺るがす異質なイデオロギーであった。


内側に抱え込んだこの膨大な暴力と不満のエネルギーは、力で押さえつければ必ず数十年後に暴発し、徳川の天下を内側から焼き尽くす。

類まれなるマキャベリストであった家康は、この「内なる熱」を国内で処理することを放棄し、外洋へと放熱する冷徹なグランドデザインを描いた。


その構想を具現化するため、家康は旧友であり、欧州の海を知り尽くしたイギリス人航海士・三浦按針ウィリアム・アダムスを密かに呼び寄せた。


江戸城の奥深く、灯明の揺らぐ一室。家康は茶釜の湯気を越しに、青い瞳を持つ異国の友を鋭く見据えた。


「按針よ。南蛮の者どもは、なぜ武具より先に宣教師を先兵として送り込んでくるのだ。やつらの真の狙いは何だ」

按針は居住まいを正し、流暢な日本語で静かに答えた。


「大御所様。カトリックを奉じるスペインやポルトガルにとって、布教とは領土簒奪の『くさび』にございます。信徒を増やし、内乱を誘発させ、それを保護する名目で軍隊を送り込む。それが奴らの常套手段です」


「法や将軍の威光ではなく、海の向こうの神を第一と説くあの教えは、確かに統治の毒だ。だが、お前の祖国も同じ『南蛮』であろう」

家康の疑念に対し、按針は少しも臆することなく首を振った。


「私の祖国イギリスやオランダ(プロテスタント)は違います。我らが求めるのは神の国ではなく、純粋な『富と交易』のみにございます。我々は他国の信仰や内政には一切干渉いたしません。必要なのは、帳簿の上の利益だけです」


按針のこの地政学的な解説は、家康の合理主義と完璧に合致した。

「ならば、その『富と交易』の船を、我が国で作らせよ。宗教を振りかざす宣教師どもは叩き出すが、お前たちの持つ大砲と造船の技は、残らず我が徳川が大枚を叩いて買い取る」 大洋の覇権を奪い取るための、冷徹なる契約。家康がニヤリと笑みを深めたその決断が、すべての始まりであった。


すなわち、国家の主権を脅かすイデオロギー(カトリック)は国境線の外へ徹底的に叩き出す。しかし、彼らが持つ大洋を渡るための航海技術と重火器の製造技術、すなわち「商業至上主義のプロテスタントの物理力」は、大枚を叩いてでも貪欲に吸収する。


按針の進言を全面的に受け入れた家康は、翌1601年(慶長6年)、ただちに長崎・平戸に幕府直轄の近代造船所を設立させた。

それまでの日本船(和船)は、波の穏やかな沿岸航海を前提とした平底の構造であった。幕府はそこに、オランダやイギリスの造船技師を破格の禄で雇い入れ、外洋の荒波と嵐に耐えうる船の背骨「竜骨キール」を持つ新型帆船(和製ガレオン船)の建造を急ピッチで開始した。


巨大な帆と多数の砲門を備えた武装船が次々と進水していく中、家康は国内情勢を悪化させる不穏分子をターゲットとした棄民政策を開始する。


国内で燻る西国大名の次男・三男、戦を求める牢人、さらには禁教令によって行き場を失うであろうキリシタンたちに対し、幕府公認の海外渡航許可証「朱印状」と武器を与え、「開拓団」という甘美な名目で南方未開の荒海へと放逐したのである。


「南の海には無尽蔵の富がある。己の腕と刀で、その地を切り拓いてみせよ」


それは希望に満ちた新天地への誘いなどではない。熱帯のマラリアや未知の風土病、そして現地の過酷な自然環境と戦わせ、「死ねば国内の火種が減って御の字。運良く生き残り、現地の富を日本へ送ってくるならば、それは国の利益となる」というものあった。


国内の不穏分子を、そのまま外洋を制圧するための「侵略の矛」へと変換する。

のちに340年をかけて南半球全域を呑み込むことになる大日本帝国の生存圏は、一人の老獪な覇者の決断によって一歩を踏み出したのである。


1601年に帆を上げた国策武装朱印船『剣丸』の出航は、あくまで壮大な実験の始まりに過ぎなかった。


「棄民政策」を、単なる小規模な海外渡航から、国家規模の巨大な暴力の輸出へと昇華させる決定的な転換点となったのが、1614年から翌年にかけて勃発した「大坂の陣」である。


豊臣家を完全に滅ぼし、名実ともに天下の覇権を確立した徳川幕府であったが、戦後の焼け野原には、主君を失った10万を超える敗残の牢人や、豊臣方に与して幕府に牙を剥いたキリシタンたちが残された。これらを国内で徹底的に処刑・弾圧すれば、莫大な軍資金と労力が失われ、新たな反乱の火種を生むだけである。

ここで家康は、冷酷極まる究極の事後処理を発動した。


「斬首か、それとも南の海か」


大坂の陣の敗残兵たちに対し、幕府は恩赦という名目で南洋への片道切符を突きつけたのである。堺や長崎の港には、すでにオランダやイギリスの技術を取り入れて量産された巨大な和製ガレオン船団がひしめき合っていた。武器を取り上げられることなく、むしろ火縄銃や弾薬を持たされた数万の「戦闘のプロフェッショナル」たちが、次々と暗く不衛生な船底へと詰め込まれ、赤道直下の未知の海域へと、まるで散弾銃のように撃ち放たれたのだ。


1610年代から20年代に入る頃、その第一波が押し寄せた馬尼刺マニラの地は、凄まじい地殻変動を起こしていた。

当時マニラを支配していたスペイン総督府は、波状攻撃のように押し寄せる、実戦経験豊富で死を恐れない数万の「日本刀と火縄銃で武装した難民」の群れを前に、完全に統治能力を喪失した。武力衝突の末にスペイン側が妥協を強いられる形で、マニラの一部は日本側の完全な治外法権区域として割譲されたのである。

そこへ、西国の大名たちが競うように御用商人を送り込み、兵站と資金を投下した。こうしてマニラは単なる日本人町ではなく、幕府が間接統治する東南アジア最大の「巨大な共同租界」、そして交易と金融の中枢へと変貌を遂げていった。


しかし、次から次へと日本本土から吐き出されてくる棄民たちの歩みは、マニラだけでは到底収まりきらなかった。彼らは独自の生存圏を求め、さらに南へ、スペインやオランダすら手を焼く底なしの密林へと足を踏み入れていった。


ボルネオ島からさらに東、赤道直下の島々。そこは、凶暴な風土病やマラリアを媒介する蚊が飛び交い、現地の首狩り族が潜む、文字通りの緑の地獄であった。

幕府から見捨てられ、刀の錆となってジャングルの泥に沈んでいく者たちの屍は数知れない。だが、1630年代、その屍の山を乗り越え、多良加タラカン島へと流れ着いた生き残りの開拓者たちは、密林を切り拓く泥まみれの手で、大地から湧き出す奇妙な「黒く粘り気のある泥」を発見する。


強烈な異臭を放ち、火を近づければ猛烈に燃え上がるその黒い液体。古くから日本国内の越後国などで「臭水くそうず」と呼ばれてきた燃える水と同じものであったが、その地表へ染み出す湧出量は日本の比ではなく、文字通り無尽蔵であった。

それこそが、のちに帝国の全軍需産業と大艦隊の血流を支え、世界大戦の帰趨すら決することになるエネルギーの心臓部、「多良加原油」の発見であった。


開拓者たちからの報告と、オランダの蘭学知識を通じてこの「南洋の臭水」の真の価値(当時は主に灯火用や燃焼兵器としての用途)の片鱗を理解した幕府は、ただちに多良加島を「天領(直轄地)」として宣言し、強力な武装船団を派遣して厳重な保護下に置いた。


この大坂の陣から始まった場当たり的な南進政策を、冷徹かつ決定的な国家の巨大システムへと昇華させた出来事。それが、1637年(寛永14年・府元35年)に九州で勃発した「島原の乱」である。


本来であれば、原城に立て籠もった3万7000のキリシタンや一揆勢は、幕府軍の兵糧攻めと総攻撃によって一人残らず撫で斬りにされる運命にあった。しかし、鎮圧の総指揮を執った老中・松平信綱は「知恵伊豆」と恐れられた稀代の官僚はである。膨大な砲弾と兵糧を浪費し、将来の労働力となるはずの数万の領民を単なる死体の山へと変えてしまう「国内での処刑」がいかに非生産的であるか、そのコストの無駄にいち早く気づいていた。


原城を包囲する幕府軍の陣幕内。先陣を争って無闇に兵を損耗させた佐賀藩主・鍋島勝茂なべしま かつしげや福岡藩主・黒田忠之くろだ ただゆきら西国の諸将が、「明日こそは総攻撃を」「伴天連どもを一人残らず血祭りに」と息巻く中、上座の松平信綱は冷ややかに軍扇を開いてその喧騒を制した。

「これ以上の無益な突撃は罷りならん。鍋島殿、黒田殿、これ以上無闇に兵を死なせてどうする。城内の三万七千を撫で斬りにしたところで、後に残るのは誰も耕す者のいない死の荒野だけだ。それは幕府の『大損』である」 「しかし伊豆守様! 妖術使いのごとき切支丹どもを生かしておいては、徳川の威信に関わりまする!」 食い下がる黒田忠之を、信綱は氷のような視線で一蹴した。 「ならば、その妖術使いの怨念すらも、帳簿の利益に変えるまでよ」


信綱にとって、死すら恐れぬキリシタンたちの狂信的なイデオロギーは、国内にあっては封建体制を根底から崩壊させる猛毒である。しかし、一度それを外洋の未開の地へ向けてやれば、底なしの密林すら切り拓く「最強の開拓戦力」へと反転するのだ。


「内なる火種は、外の荒野で燃やし尽くせ」

信綱は陣幕の隙間から、遥か南の空を見据えて諸将に告げた。


「連中に恩赦の使者を送れ。キリストの教えを捨てずともよい。その代わり、南の未開の島、多良加タラカンへ永久追放の船に乗れと伝えよ。現地の首狩り族や風土病と戦い、それでも生きてあの地を切り拓いたなら、そこを神の国として認めてやる、とな」

海外渡航を禁止して国を閉ざす(鎖国)という選択肢は、もはや幕府の頭にはなかった。


信綱の冷徹な計算のもと、幕府は反乱軍を殲滅するのではなく、「南洋への永久追放」という恩赦を突きつけて降伏を迫ったのである。彼らを多良加のような熱帯の未開の地へ送り出し、現地の過酷な自然や疫病、首狩り族と戦わせて擦り潰す。過酷な環境で全滅すれば、国内の憂いがタダで消滅して御の字。だが、もし彼らが狂信的な団結力で密林を切り拓き、運良く土地に定着することがあれば、その開拓地はそのまま幕府(帝国)の新たな資源供給拠点として合法的に接収されるのだ。


この極めてマキャベリズム的な「棄民の輸出」を、血の通わない物流システムとして完全に定着させたのが、幕府が長崎に設立した国営貿易トラスト「御朱印貿易総会所」である。


オランダ東インド会社(VOC)の株式会社制度を徹底的に研究・模倣し、各大名や豪商から莫大な資本を集めて設立されたこの巨大組織は、単なる交易機関ではなかった。それは、国内の不満分子、弾圧されたキリシタン、あぶれた牢人、さらには重税に苦しむ農民たちを「開拓労働力」という名の商品として無慈悲にガレオン船の船底へ詰め込み、南洋の死地へと絶え間なくピストン輸送する巨大なポンプとして機能した。


そして帰りの船倉には、棄民たちの血肉と引き換えに見出された南洋の臭水(原油)や香辛料、希少な鉱物資源が満載され、日本本土へと莫大な富を還流させたのである。

国家権力が主導する冷酷な人的配置と、資本主義的な利益追求が完璧に融合した「御朱印貿易総会所」。オランダ東インド会社すら凌駕するこの冷徹極まる循環システムが完成したことで、帝国の南進はもはや誰にも止められない歴史の必然メカニズムとして回り始めたのであった。


そして1680年代から1740年代(元禄〜享保期)にかけて、帝国の生存圏は劇的な飛躍を遂げる。

泰平の世が長く続き、日本国内は深刻な人口過剰に陥っていた。土地を持たない農民の次男・三男、そして刀を振るう場所を失った下級武士や浪人たちが、一攫千金を夢見て「武装開拓団」として巨大なガレオン船団に乗り込んだ。


彼らが目指したのは、赤道をはるかに越えた南の果てに広がる広大な未知の大陸である東豪州こと「豊秋津島ひのあきつしま」である。

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