第20章 四つの巨人と次なる羅針盤
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1942年10月下旬
帝都・東京 江戸城本丸跡・幕府最高臨戦評議場
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江戸城の地下深く、分厚い鉛とコンクリートに守られた「脳髄」の部屋に、静かな、しかし確かな勝利の余韻が漂っていた。
「──シンガポールのアーサー・パーシバル中将が完全無条件降伏の調印書に署名。これをもって、大英帝国の極東における全拠点の陥落、およびロンドンの借用書焼却作戦は、我々の完全な勝利をもって完遂いたしました」
国家財務総監・水野忠徳が、マホガニーの円卓に置かれた決算書を指で弾きながら報告した。
「ご苦労だった」
徳川宗家第十七代当主にして永世宰相・徳川家正は、パイプに火をつけ、深く紫煙を吐き出した。
「ジャワ海でのZ部隊殲滅から始まり、パースの無力化、蘭印の合法的割譲、そしてマレー半島の完全制圧……。我々は、我が国を金融の鎖で縛り殺そうとした大英帝国という巨獣の心臓と手足を、完璧な法理と武力で切断してみせた」
家正の背後にある巨大な世界地図では、かつてアジア・太平洋を覆っていた大英帝国の「赤色」が完全に消滅し、豊栄大日本帝国の「青色」が広大な生存圏を覆い尽くしている。
「しかし、宰相閣下。我々が祝杯をあげるのはまだ早すぎます」
外務副卿にして幕府特務・防諜総監の小栗忠純が、冷徹な声でその余韻を断ち切った。小栗は、一通の赤いスタンプが押された極秘ファイルを円卓の中央へ滑らせた。
「筑前の黒田精機と美濃の竹中数理演算所が運用する二重暗号『紫式部』の傍受網が、大西洋を飛び交う極めて強固な通信トラフィックを解読しました。……ウィンストン・チャーチルは生きています。彼はロンドンの灰燼を脱出し、新大陸・カナダのオタワにて亡命政府を樹立。あろうことか、アメリカのルーズベルト大統領に対し、自国の全権と引き換えにレンドリース(武器貸与法)の無制限支援を引き出しました」
その報告に、水野忠徳の顔から笑みが消えた。
「アメリカの莫大な生産力に完全に寄生し、大英帝国の血を繋ぐつもりか。……だが、本土もシティも失ったチャーチルに、アメリカへ提供できる担保が残っているのか?」
「残っています。それこそが、我が帝国にとっての最大の懸念です」
小栗は地図の西側、ユーラシア大陸の南腹に広がる巨大な亜大陸を指し示した。
「『英領インド帝国』です。二億の無尽蔵の人的資源と、中東の油田地帯へ至る戦略的防波堤。イギリスがこのインドという巨大な牙城を保持し続ける限り、大英帝国の命脈は決して断たれません。アメリカの兵器とインドの兵士が結びつけば、いずれ彼らは必ず極東へ向けて反撃の巨大な津波を起こします」
「……ならば、その残った最後の手足も、根本から切り落とすまでだ」
家正宰相はパイプを灰皿に押し付け、鋭い眼光を放った。
「大英帝国の搾取に苦しむインドの民衆は、長年にわたり独立の炎を燻らせていると聞く。小栗、直ちに特務機関を動かせ。チャンドラ・ボースをはじめとするインド独立運動の闘士たちと極秘裏に接触し、彼らに我々の武器と資金を与えよ。内側からの巨大な反乱を誘発させるのだ」
「承知いたしました」
小栗が深く頷く。家正は続けて、傍らに控える軍務局の将校たちへ重々しい命令を下した。
「同時に、外からインドの門を叩き割る。マレー半島を平定したばかりの外様財閥の『諸藩混成遊撃旅団』、および幕府直轄の『伝習隊』の主力をただちに再編し、ビルマ(ミャンマー)からインド国境へと向けて進発させよ。また、多良加で休息中の小沢治三郎率いる第二機動艦隊を、インド洋のさらに奥深くへと進出させ、セイロン島の英艦隊残党とシーレーンを完全に粉砕する。……これより、我が豊栄大日本帝国の全火力を、インド洋方面の完全制圧へと再配置する」
帝国の脳たちは、現状の全盛期に決して満足することなく、イギリスの息の根を完全に止めるための次なる巨大な羅針盤を回し始めたのであった。
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同刻
東プロイセン(現ポーランド北東部) ラステンブルク
ドイツ国防軍 総統大本営『ヴォルフスシャンツェ(狼の巣)』
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うっそうと茂る暗い森の奥深く、分厚いコンクリートで作られた総統大本営の会議室は、狂気じみた熱狂と傲慢さに支配されていた。
「偉大なるゲルマン民族の同志諸君! 我々はついに、忌まわしきアングロ・サクソンの心臓、ロンドンを我が軍靴の裏で踏み潰した!」
総統アドルフ・ヒトラーの甲高い演説が響き渡ると、国防軍最高司令部(OKW)の将官たちやナチス高官たちが、一斉に熱狂的な拍手と「ハイル」の歓声を上げた。
前年11月のモスクワ陥落に続き、イギリス本土の制圧という歴史的偉業を成し遂げたヒトラーにとって、今の自分はヨーロッパの歴史上、ナポレオンすら超えた「絶対的な神」に等しかった。
「だが、我々の闘争はまだ終わっていない! アーリア人種による千年帝国の礎を盤石なものとするため、我々はさらに二つの巨大な『掃除』を完了せねばならない!」
ヒトラーは巨大な作戦机に広げられた地図を、激しい身振りで叩いた。
「一つ目は、東だ! モスクワを追われ、ウラル山脈の東側へと逃げ延びたスターリンと、劣等民族たるスラヴの残党ども(ソ連赤軍)がいまだにシベリアの雪原で抵抗を続けている! 冬が明け次第、我が無敵の装甲師団をウラル以東へと進発させ、彼らを一人残らず歴史から抹殺する! そして、コーカサスから中東にかけての無尽蔵の油田地帯を、大ゲルマン帝国の新たな血液として確保するのだ!」
高官たちが再び歓声を上げる中、ヒトラーはくるりと振り返り、今度は地図の西側──大西洋へと鋭い視線を突き刺した。
「二つ目は、西の海だ! 卑怯なチャーチルは新大陸カナダへ逃げ込み、ユダヤ資本に操られたアメリカのルーズベルトをそそのかして、我々の神聖なるヨーロッパへ干渉しようと目論んでいる!」
ヒトラーは、海軍総司令官のカール・デーニッツ大将へ向けて叫んだ。
「デーニッツ! 貴様のUボート(潜水艦)部隊を大西洋の全域へ解き放て! アメリカとカナダから出港するすべての輸送船を海の底へ沈め、大西洋の血流を完全に切断するのだ(群狼作戦)! 同時に、ノルウェーからスペインに至る西海岸全域に、いかなる軍隊の侵攻も許さない難攻不落の要塞線『大西洋の壁』をただちに構築せよ!」
「ハイル・ヒトラー! 総統の御心のままに!」
デーニッツ大将が踵を鳴らして敬礼した。
ヨーロッパの覇者となったドイツ首脳陣の頭の中には、すでに日本という存在は「イギリス海軍の気を逸らしてくれた、都合の良い極東の番犬」程度の認識しか残っていなかった。
彼らは夢にも思っていなかった。その「番犬」が、すでにロンドンでオランダ亡命政府から蘭印(オランダ領東インド)を「合法的」に買収し、ドイツが将来アジアへ進出してくるための大義名分を根底から奪い去っていることなど。
狂気に魅入られた狼は、自らの首に目に見えない法理の鎖が掛けられていることにも気づかぬまま、次なる流血の宴を求めて東と西の荒野へと牙を剥いたのであった。
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1942年11月上旬
カナダ オタワ 英亡命政府臨時首都
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凍てつくような新大陸の風が吹くオタワの港湾には、祖国を追われた大英帝国の悲哀を吹き飛ばすかのような、異様なほどの熱気と活力が渦巻いていた。
港を埋め尽くしているのは、アメリカのカイザー造船所でブロック建造された無数の「リバティ船(戦時標準船)」である。それらの巨大な船倉からは、最新鋭のM4シャーマン戦車、数え切れないほどの火砲、P-51マスタング戦闘機、そして天文学的な量の弾薬と食糧が、まるで湧き出す泉のように次々と陸揚げされていた。
「……ルーズベルトの奴め、約束通り、合衆国の莫大な『マニュファクチャリング』の蛇口を全開にしてくれたようだな」
港を見下ろす臨時政府庁舎の窓辺で、大英帝国首相ウィンストン・チャーチルは、ようやく手に入れたハバナ産の上質な葉巻を噛みちぎりながら、低く唸った。
その背後では、外務大臣のアンソニー・イーデンが、届いたばかりの膨大な兵站目録を抱えて立っている。
「はい、首相閣下。アメリカのレンドリース(武器貸与法)の枠組みは事実上無制限に拡張されました。これら米国の兵器と、我がカナダが誇る工業力をフル稼働させれば、ドイツのUボートの脅威に晒されている大西洋艦隊の再建は、必ずや成し遂げられます」
「大西洋はアメリカ海軍と共同で必ず取り戻す。……だが、アンソニー。私が今最も危惧しているのは西ではない。東だ」
チャーチルは窓から離れ、執務室の壁に広げられたアジアの地図へと重い足取りで歩み寄った。
「日本の連中だ。あの極東の怪物たちは、シンガポールを落としたことで決して満足はしない。奴らは必ず、大英帝国の最後の心臓──『英領インド』へとその凶悪な双頭の鉄脚を踏み出してくる」
チャーチルは、ビルマ(ミャンマー)からインド国境にかけての険しい山岳地帯を太い指でなぞった。
「インドの二億の人的資源と中東の油を日本軍に奪われれば、我々は名実ともに、アメリカに寄生するだけの哀れな難民へと転落する。インドだけは何としても死守せねばならん。マレーから撤退させた残存兵力と英印軍をすべて国境地帯へ集結させろ。さらに、オード・ウィンゲート准将が提唱している特殊部隊『チンディット』をジャングルの奥深くへ浸透させ、日本軍の補給線を徹底的に攪乱するのだ」
祖国を焼かれ、プライドをアメリカへ売り渡してでも生き残ることを選んだ不屈の老獅子は、次なる主戦場となるであろう灼熱のインド・ビルマ国境へ向けて、残されたすべての闘志を注ぎ込もうとしていた。
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1942年11月中旬
米国ワシントンD.C. ペンタゴン(米国防総省)
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人類史上最大にして最強の「マニュファクチャリング・モンスター」が、ついにその重い瞼を完全に開いた。
ペンタゴンの地下深く、眩い蛍光灯に照らされた最高作戦会議室。フランクリン・ルーズベルト大統領は、車椅子の上で深く頷き、目の前に並ぶ陸海軍の最高トップたちを見渡した。
「国家戦時生産本部長のヌードセンから、最終報告が上がってきた」
「日本の第一艦隊がトラック泊地へ引き返し、ハワイの『金縛り』が解けた今、我々を縛るものは何もありません。ソロモンのガダルカナル島に海兵隊を上陸させ、圧倒的な物量で局地的に押し潰す。これを起点として、日本の絶対防衛圏を一つずつ物理的にすり潰しながら東京へと迫る『飛び石作戦』を開始いたします」
ルーズベルトは、机の上の万年筆を手に取った。 それはアメリカの全生産力を結集した巨大な軍隊を、太平洋と大西洋の最前線へと秘密裏に一斉配置させるための『両洋大反攻展開・最終承認書』であった。 宣戦布告は、まだしない。すべての牙が敵の喉元に物理的に到達し、反撃の一撃が「必殺」となるその瞬間まで、ルーズベルトは中立の仮面を被ったまま冷徹に時を待つ腹であった。
「東洋の怪物と西の狂狼よ。我々の沈黙を『臆病』と勘違いした代償を、高く払わせてやる」
ルーズベルトが書類に力強くサインを刻んだ瞬間、アメリカ合衆国という巨大な歯車が、世界を完全にすり潰すための猛烈な回転の準備を完了させた。
インドを狙う日本の刃。 ソ連残党と大西洋分断を目論むドイツの狂気。 カナダで再起を誓い、インド死守に命を懸けるイギリスの執念。 そして、二つの大洋へ規格外の質量を叩きつけるべく、冷徹に「その時」を待つアメリカの怒り。
四つの巨人の戦略が出揃い、臨界点まで膨れ上がったエネルギーは、もはや外交の帳簿や法理で抑え込める次元を完全に超えていた。
世界は今、二つの大洋とすべての大陸を舞台にした、人類史上未曾有の純粋な「総力戦(鉄と血の直接対決)」という真の地獄の蓋が開く直前の、嵐の前の不気味な静寂の中にあったのである。




