第19章 灰燼の王冠と狂狼
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1942年11月上旬
大不列顛島南部 ロンドン・バッキンガム宮殿跡
ドイツ国防軍 西方総軍臨時司令部
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かつて世界の富の四分の一を支配した大英帝国の心臓、ロンドン。
その象徴であったバッキンガム宮殿の大部分は、ルフトヴァッフェ(ドイツ空軍)の猛爆によって無残に崩落し、黒焦げの石積みを晒していた。しかし、焼け残った大広間には豪奢なシャンデリアが持ち込まれ、軍靴の足音と乾杯の喧騒が響き渡っている。
「総統万歳! 大英帝国の死と、第三帝国の栄光に!」
上質のフランス産シャンパンの入ったグラスを高く掲げ、ナチスの党員バッジを光らせているのは、第9軍師団付の政治将校、フランツ・バウアー大尉をはじめとする党高官たちであった。
彼らの顔は、欧州全土を完全に支配下に置いたという圧倒的な勝利の美酒と、人種的な優越感で真っ赤に紅潮していた。
「極東の黄色いサルどもも、我々アーリア人の世界制覇のために良い仕事をしてくれた! 奴らがアジアのジャングルで野蛮な戦闘を繰り広げ、イギリスの本国艦隊を間引いてくれたおかげで、我々はこうしてロンドンの美酒を味わうことができている!」
「左様! 奴らには戦後、東洋の端の島々を『名誉アーリア人』の居住区として与え、我が大ゲルマン帝国のアジアにおける忠実な番犬として飼い慣らしてやろうではないか!」
高官たちの傲慢な笑い声が広間に響き渡る中、その喧騒から離れた広間の片隅で、冷徹な視線を交わしている二人の将校がいた。
西方総軍司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥と、ロンドン市街地への先遣突入を指揮した第9軍のハンス・フォン・ルック少佐である。
「……酒に酔った豚の遠吠えほど、聞いていて不快なものはないな」
ルントシュテット元帥はグラスの酒に口をつけることなく、吐き捨てるように呟いた。
「同感です、閣下」
ルック少佐は短く同意し、周囲の目を盗んで、一通の書類をルントシュテットの手に滑り込ませた。
「スイスのベルンに潜伏させている我が軍の特務機関から、先ほどもたらされた情報です。ロンドン占領の混乱で我々が見落としていた、極東の『同盟国』に関する極めて不可解な事実が判明いたしました」
「不可解な事実だと?」
「はい。日本は蘭印(オランダ領東インド)の油田地帯を手に入れるため、大規模な軍事侵攻作戦を準備している……我々も、ベルリンの総統も、ずっとそう信じ込んでおりました。しかし、違ったのです」
ルック少佐は声を潜め、書類の該当箇所を指し示した。
「日本は、蘭印に対して一発の銃弾も撃っていません。彼らは数ヶ月前、我々がロンドンを陥落させるより『前』の段階で、ロンドンにいたオランダ亡命政府の全権特使と密かに接触し、亡命政府が抱える天文学的な対外債務を肩代わりすることと引き換えに、蘭印全域のすべての主権と権益を、合法的かつ永久に『買収(割譲)』していたのです」
「……何だと?」
ルントシュテットの灰色の瞳が、驚愕に見開かれた。
「オランダの特使が日本の条約文書にサインした事実を、スイスの国際決済銀行のルートが裏付けました。彼らは軍事力で略奪したのではなく、国際法上、一切の非の打ち所のない『正当な売買』として、あの広大な石油の海を自らの王土へと書き換えたのです」
ルントシュテットの背筋に、冷たい戦慄が走った。
もし日本が蘭印を「武力で強奪」していれば、ロンドン陥落によってオランダ本国の主権を握ったドイツ軍は、戦後、「あそこは我がドイツの正当な戦利品である」として日本に返還を要求し、東進する大義名分を得ることができた。
しかし、日本がロンドン陥落の前に「合法的な売買」を完了させてしまっている以上、蘭印の油田は完全に「日本の固有領土」である。もし将来、ドイツ軍がアジアへ向けて軍を動かせば、それは正当な国際法理に守られた日本への「直接的な侵略行為」となり、ドイツ側が完全な国際的無法者となってしまうのだ。
「奴らめ……。我々をロンドンの『借用書の焼却炉』として都合よく使い捨てただけでなく、我々が将来アジアへ手を伸ばすための法的な楔まで、あらかじめ完璧に打ち込んでいたというのか……!」
ルントシュテットが呻く横で、ルック少佐の脳裏に、数ヶ月前、イングランド銀行の地下金庫で対峙したあの東洋人の男──幕府特務調役・鳥居忠道の、冷徹極まる眼差しがフラッシュバックしていた。
ナチスの政治将校が「紙切れなど燃やしてしまえ」と嘲笑う中、あの男は債務の原本を気密ケースに収め、「借用書の原本を債務者が物理的に回収することこそが、法理における最も完璧な勝利の証明だ」と言ってのけた。
(あの時、あの東洋人は、我々ドイツ軍を『血を流して暴れ回るだけの狂狼』として、心の底から見下していたのだ……!)
「閣下」
ルック少佐は、広間でバカ騒ぎを続けるナチス高官たちを冷ややかに見つめながら言った。
「我々は、あの極東の帝国を『我々の戦争を助ける番犬』程度に考えていました。しかし現実は違います。武力と法理を完璧に融合させ、戦わずして他国の王土を喰らい尽くすあの国は、いずれ我々ドイツの首輪をも力づくで引き絞る、本物の『怪物』です」
ルントシュテットは無言で頷き、焼け落ちた天井の隙間から見える、暗く冷たい夜空を見上げた。
欧州を制覇したというこの勝利の美酒は、いずれ東洋から突きつけられるであろう冷徹な算盤の前に、ひどく安っぽい泥水のように感じられた。
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1942年11月中旬
スコットランド エディンバラ城
英亡命政府 臨時首相執務室
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冷たい北海の風が、古城の分厚い石壁を叩いていた。
臨時首相執務室の暖炉の火は弱々しく、部屋の空気を暖めるには到底至っていない。
大英帝国首相、ウィンストン・チャーチルは、トレードマークであるはずの葉巻に火をつけることもせず、机の上に広げられた絶望的な報告書の山を、鋭い血走った目で見つめていた。
ロンドンは陥落し、世界の金融を支配していた「ザ・シティ」は灰燼に帰した。イングランド銀行の地下金庫に眠っていたはずの日本の借用書はドイツ軍によって焼却されたと報告され、ポンドは国際市場において完全に紙屑と化した。
極東では、東洋最大の要塞シンガポールが日本軍の双頭の陸軍によってすり潰され、豊秋津島に残されていた英連邦租界の守備隊も、一滴の補給も届かぬまま白旗を揚げた。
大西洋の西側からインド洋に至るまで、大英帝国の心臓と手足は、完膚なきまでにへし折られていた。
「首相閣下……。王室の方々、および政府高官の脱出手配が完了いたしました」
外務大臣のアンソニー・イーデンが、軍服姿で執務室に入ってきた。
「グラスゴー沖に、大西洋艦隊の残存艦艇が集結しております。また、新大陸カナダのオタワにて、臨時亡命政府を樹立するための受け入れ態勢が完全に整いました。アメリカ海軍の護衛艦隊も、公海上で我々を待ち受けております」
イーデンの報告を受け、チャーチルはゆっくりと立ち上がった。
かつて世界を支配した帝国の首都を追われ、新大陸へ逃げ延びる。それは英国王室と政府にとって筆舌に尽くしがたい屈辱であったが、老いたる獅子の瞳からは、闘志の炎は微塵も消えていなかった。
「大英帝国は、一つの島に縛られるような矮小な国家ではない」
チャーチルは真新しい葉巻を噛みちぎり、太い声で唸った。
「イングランドという島は、一時的にナチスの狂犬どもの軍靴に踏みにじられたかもしれない。極東の拠点は、日本の怪物たちに奪われたかもしれない。だが、我々の帝国の版図はまだ終わっていないのだ」
チャーチルは、壁に掛けられた巨大な世界地図を見上げた。
「大西洋を越えれば、カナダの広大な大地と莫大な鉱物資源がある。インド洋の向こうには、二億の民を抱える英領インド帝国という無尽蔵の人的資源庫が健在だ。エジプトを抑え、中東の石油を守り抜く中東軍も無傷で残っている。……我々はまだ、世界の四分の一の領土と資源を握りしめているのだ」
チャーチルが言う通り、ロンドンとシンガポールを失ったとはいえ、大英帝国にはまだ、世界中に張り巡らされた連邦ネットワークと、世界有数の海軍力(大西洋・地中海艦隊)が残存していた。これらをすべて新大陸の指揮下へ再編し、アメリカの工業力と結びつけることができれば、必ず反撃の芽は育つ。
「イーデン。ワシントンのルーズベルト大統領から、親書の返電は届いているか」
チャーチルの問いに、イーデンはアメリカ軍の最新鋭暗号機から出力された電文を差し出した。
「はい。……ルーズベルト大統領は、我が国のカナダへの亡命政権樹立を公式に承認し、同盟国としての全面的な支援を確約いたしました。さらに……」
イーデンは電文の後半を読み上げた。
『──合衆国のマニュファクチャリング・システムは、今まさに臨界点に達した。我々はこれより、太平洋のソロモン海域において、東洋の怪物の動脈を断ち切るための大反攻の火蓋を切る。貴国におかれては、カナダにて速やかに戦力を回復させ、特に「英領インド」を日本軍の西進から死守されたい。武器弾薬および一切の物資は、レンドリース(武器貸与法)の枠組みを無制限に拡張して我が国が保証する。』
その電文を聞き、チャーチルは深く、力強く頷いた。
「ルーズベルトもようやく、中立の檻を破る覚悟を決めたようだな」
かつて世界一の債権国であった大英帝国は、今やアメリカのレンドリースに完全に頼り切る「債務国」へと転落した。だが、チャーチルは国家のプライドを売り渡してアメリカの完全な「属国」になる気など毛頭なかった。
アメリカの底なしの生産力を「利用」し、大英帝国が持つ広大な植民地ネットワークと残存海軍力をアメリカの戦略と巧みに噛み合わせることで、戦勝国としての発言権を維持したまま、帝国を復活させる。それが、老練なる政治家の冷徹な生存戦略であった。
「日本の怪物どもは、蘭印とシンガポールを飲み込み、次は必ずや我々の最後の巨大な牙城──英領インド帝国へとその触手を伸ばしてくるだろう。あの国を失えば、大英帝国の命脈は真に途絶える」
チャーチルは外套を羽織り、執務室のドアへ向かって歩き出した。
「我々はカナダへ飛ぶ。そこで軍を再編し、新大陸の力を借りて旧世界を救済するのだ。インドを死守し、大西洋を制圧し、いつの日か必ず、ロンドンの地に再びユニオンジャックを打ち立てる。大英帝国は、血の最後の一滴が枯れ果てるまで、決して降伏しない」
スコットランドの冷たい雨の中、王立海軍の残存艦隊に守られたチャーチルたちは、再起を誓って新大陸へと抜錨していった。
世界は今、決定的な転換点を迎えていた。 ロンドンの灰燼の上で傲慢な勝利の美酒に酔うドイツと、新大陸・カナダへ本拠地を移し、インド防衛に帝国の命運を懸ける不屈のイギリス。
しかし、その欧州の狂乱と悲壮な脱出劇の裏側で、極東の怪物と西半球の巨人は、まだ互いに直接の引き金を引くことなく、冷徹に次なる盤面を見据え続けていた。
蘭印とシンガポールを飲み込み、絶対的な全盛期に君臨する豊栄大日本帝国。彼らは現状に満足することなく、大英帝国の命脈を完全に絶つべく、その猛烈な視線をさらに西の巨大な資源庫──「英領インド」へと向け始めている。
一方、中立の檻の中で限界まで生産力を溜め込んでいるアメリカ合衆国は、太平洋の日本と大西洋のドイツを同時にすり潰すための、恐るべき「両洋作戦(二正面作戦)」の準備を極秘裏に完了させつつあった。
日、米、英、独。四つの巨大な国家が、それぞれの野望と生存を懸けて新たな羅針盤を回し始める。人類史上未曾有の大戦は、まだその真の地獄の幕を上げてはいなかったのである。




