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第17章 極東全盛と戦利品の饗宴

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1942年9月下旬

帝都・東京 江戸城本丸跡・幕府最高臨戦評議場

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江戸城本丸跡の地下数十メートルに建造された、分厚いコンクリートと鉛の壁に守られた幕府最高臨戦評議場。外界の喧騒から完全に隔絶され、常に一定の低い室温に保たれたこの冷厳な空間は、大日本帝国という巨大な怪物の「脳髄」そのものであった。


部屋の正面を覆い尽くす巨大な世界地図の前に、三人の男が立っていた。

徳川宗家第十七代当主にして帝国の永世宰相・徳川家正。

国家財務総監・水野忠徳。

そして、幕府特務・防諜総監の小栗忠純である。


彼らの視線の先にある地図は、開戦からわずか九ヶ月の間に、世界の勢力図がいかに暴力的な速度で書き換えられたかを視覚的に証明していた。

ユーラシア大陸の西側は、モスクワを叩き潰し、英仏海峡を渡ってロンドンを制圧・占領したナチス・ドイツの「黒色」で完全に塗りつぶされている。

そして極東から太平洋、インド洋にかけての広大な海域と大陸は、豊栄大日本帝国が誇る「青色」の版図が、荒れ狂う津波のようにすべてを呑み込んでいた。


かつて、この地図の上の要所要所に誇り高く突き刺さっていた大英帝国の「赤色」のピンは、今や完全に消滅していた。


「……アーサー・パーシバル中将の署名が入った、完全無条件降伏の調印書原本です」


水野忠徳が、重厚なマホガニーの円卓の上に一通の書類を静かに置いた。

それは数週間前、マレー攻略軍総司令官の山下奉文少将と、外様遊撃隊を率いた島津忠久少将が、シンガポールのフォード自動車工場跡地でイギリス極東軍から合法的にもぎ取ってきた、大英帝国の東洋支配の終焉を告げる「死亡診断書」であった。


「ご苦労だった、水野」

家正宰相は、調印書を一瞥すると、満足げに深く頷き、パイプに火をつけた。

「前年11月、ジャワ海でのZ部隊殲滅から始まった、ロンドンの帳簿の物理的焼却作戦……。ここに、我々の勝利は完全なものとなった。シンガポールが陥落したことで、マラッカ海峡から南シナ海に至るすべてのチョークポイントは我が国の完全なコントロール下に置かれたのだ」


家正が地図に歩み寄り、インド洋から豊秋津島オーストラリアへと視線を這わせる。


「西のパース、東のニューカレドニア、南のニュージーランド。これら周辺の要衝はすべて我々が手中に収めた。そして蘭印の油田地帯は、ロンドンに逃れたオランダ亡命政府から合法的買収によって割譲が完了している。……残るは、豊秋津島大陸の沿岸にへばりついている、シドニーとメルボルンの英連邦租界のみだな」


家正の言葉に、小栗忠純が冷徹な笑みを浮かべて応じた。


「宰相閣下、あの租界はもはや軍事的な脅威ではありません。彼らは海からの補給線(アメリカからのレンドリースや本国からの増援)を、我々が占領したニューカレドニアとニュージーランドの防壁によって完全に切断されております。陸側は我が方の『第五山岳鎮撫兵団』をはじめとする外様財閥の私兵たちが、ブルーマウンテンズ山脈から何重にも完全包囲陣を敷いている。一滴の油も、一粒の麦も届きません。彼らに残された道は、我々の弾薬を消費させることなく、ただ飢えと渇きに耐えかねて租借権返上の白旗を揚げることだけです」


「見事なものだ」

家正は深く煙を吐き出し、地図に描かれた青い帝国の広大な版図を見渡した。


「1600年の関ヶ原から始まり、この国から放逐された『棄民』たちが、340年の時をかけて南洋の泥をすすり、血を流して築き上げてきた鉄と油の帝国生存圏。それを、19世紀のインフラ整備の際に行き詰まった我々が借り入れた天文学的なポンド建て国債を盾に、大英帝国は書類一枚で合法的かつ無条件に丸ごと強奪せんとした……。我々は、その首根っこを締め上げる国際金融の鎖を、武力と法理で完璧に断ち切った。これより、豊栄大日本帝国は歴史上かつてない『完全なる全盛期』を謳歌することになる」


その言葉通り、現在の日本は、米英の資源に一滴たりとも依存しない、完全無欠のブロック経済圏を完成させていた。

豊秋津島の西秋津ピルバラから出土する鉄鉱石と石炭、南天カルグーリーの金、南太平洋の天然ゴム、そして多良加タラカンや蘭印から湧き出す無尽蔵の原油。これらすべての資源のパイプラインが、他国の干渉を一切受けることなく、日本本土や前線の重工業地帯へと途切れることなく還流しているのだ。


「戦い終わって、さらに富が膨れ上がるとは、我ながら恐ろしい国を造り上げたものだ」

水野忠徳が、手元の分厚い財務台帳をパラパラと捲りながら皮肉げに笑った。


「宰相閣下。現在、大手町の諸侯会館や、帝国議会の上院たる諸侯院の議場は、連日連夜、凄まじい熱狂と祝勝ムードに包まれております。外様大名たち──島津、毛利、伊達、鍋島、細川らの巨大財閥は、南太平洋やマレー戦線から持ち帰った『戦利品の山分け』に狂喜乱舞している有様です」


水野の報告によれば、帝国のロジスティクスは今や、戦前をはるかに凌駕する怪物的な規模へと膨れ上がっていた。


南太平洋のニューカレドニアやニュージーランドの地下倉庫で、アメリカが極秘裏に集積していた武器貸与法レンドリースの物資──未開封の航空ガソリン、弾薬、医薬品、そして組み立て待ちの新型機群。これらは戦時国際法に基づく合法的戦利品として、芸州・浅野港湾が誇る高速輸送船団によって、本土やマレーの最前線へと休むことなくピストン輸送されていた。


「特に凄まじいのが、奴らの技術収奪リバースエンジニアリングの貪欲さと消化速度です」

水野は台帳の数字を指で弾きながら言った。


「米海軍のシービーズから強奪したキャタピラー社製の大型ブルドーザーや重機群は、すでに加賀の前田発動機が内燃機関の構造を完全に丸裸にしました。伊勢の藤堂製作所が油圧系を解析し、肥後の細川ゴム工業が熱帯の泥濘を走破するための特殊パッドを履かせている。外様財閥の連中は、アメリカが心血を注いだ最新土木テクノロジーをタダで自国のインフラ整備に組み込み、豊秋津島の鉱山開発や、多良加の油田プラント拡張にフル稼働させております」


水野はそこで一度言葉を区切り、呆れたように肩をすくめた。


「昨夜も、諸侯会館ではその鹵獲重機の『分配』を巡って、前田と藤堂が取っ組み合い寸前の激論を交わしておりました。彼らはアメリカの重機を単なる戦利品としてではなく、次世代の帝国インフラを握るための『黄金の種』として奪い合っているのです。最終的には、島津が割って入り、南天の金鉱脈拡張を優先させる形で強引に場を収めたようですが……彼らの胃袋は、戦争をすればするほど巨大化していく」


内政においては激しく反目し合い、国庫からの資金拠出を渋り合う幕府と外様財閥であったが、いざ外敵の富を強奪するとなれば、一瞬の躊躇もなくその「牙」を連動させる。諸侯連衡しょこうれんこう国家のその剥き出しの合理主義と野心が、帝国の全盛期をさらに盤石なものとしていた。


「外様どもには、十分に甘い汁を吸わせておけ。彼らが肥え太れば肥え太るほど、国家の矛は鋭さを増すのだからな」

家正宰相はそう言って鷹揚に笑ったが、ふと、傍らで黙り込んでいる小栗忠純の冷たい視線に気づいた。


「どうした、小栗。大英帝国という巨獣を葬り去り、これだけの富を手にしたというのに、貴様の顔には一欠片の歓喜も浮かんでおらんではないか」


小栗忠純は、細い葉巻の灰をクリスタル製の灰皿に静かに落とし、冷徹な双眸を家正に向けた。


「宰相閣下。イギリスは確かに倒れました。もはや彼らは歴史の敗残兵です。しかし……私が懸念しているのは、太平洋の向こう側で不気味な沈黙を続けているもう一つの巨人、アメリカ合衆国の動向です」


小栗は、小脇に抱えていた革張りのファイルを円卓の上に広げた。

そこには、美濃岩手の「竹中数理演算所」から送られてきた、難解な数式と折れ線グラフがびっしりと書き込まれた報告書が綴じられていた。


「ハワイ沖に展開している我が国の第一艦隊──大和、武蔵、信濃、甲斐の四六センチ砲の『金縛り』は、依然として完璧に機能しております。太平洋艦隊は真珠湾から一歩も動けず、ルーズベルト大統領も中立法と反戦世論の檻に縛られたまま、我々に対して宣戦布告を行えずにいる。……表向きは、そうです」


小栗は、グラフの一箇所を指差した。


「しかし、筑前の黒田精機が構築した電磁傍受網と、竹中の電磁自動算盤が弾き出したデータによれば、先月中旬から、アメリカ本土の西海岸からハワイに至る海底ケーブルおよび無線通信のトラフィック(通信量)が、異常なほどの増大を見せています。さらに、真珠湾の地下から発せられる電磁波の波長に、これまで観測されたことのない、極めて強力で規則的な『熱と駆動音のノイズ』が混じり始めている」


「熱と駆動音のノイズだと? それは一体何を意味している」

水野忠徳が訝しげに眉をひそめた。


「推測の域を出ませんが」と小栗は前置きし、言葉を継いだ。

「アメリカは、我々の二重暗号『紫式部』の解読を諦めたのかもしれません。その代わり、彼らはIBMなどの民間企業が持つ『計算機』の技術を軍事転用し、天文学的な数の真空管を用いた『電磁的な計算機械』を稼働させている可能性があります。目的は暗号の内容ではなく、我々の通信の増減や、輸送船団の自動運行ダイヤの『癖』を、暴力的な計算速度で炙り出すこと……いわゆるトラフィック・アナリシス(通信解析)です」


小栗は机の上のグラフを指でなぞりながら、底知れぬ警戒心を露わにした。


「竹中数理演算所の頭脳たちは、アメリカがその『計算』を行っている間に生じる微弱な電磁的余波カウンター・ノイズを逆に探知し、見えない電磁空間での恐るべき水面下の攻防戦がすでに始まっていることを警告しています。竹中の報告によれば、アメリカの計算機械は、連日連夜休むことなく稼働を続け、その処理速度は人間の脳髄の数千倍に達しているとのこと。彼らは我々の完璧な暗号の『壁』を登るのではなく、その壁の『影』の形から、我々の兵站の胃袋の弱点を割り出そうとしているのです」


その言葉に、評議場の空気が一瞬にして凍りついた。


日本が誇る『紫式部』は、文字の置換則が天文学的な速度で変動する完璧な論理暗号であり、人間の脳では百年かかっても解読は不可能である。しかし、もしアメリカがその「人間の限界」を機械の処理速度で突破し、暗号の箱の「外側」から帝国のロジスティクスの血流を丸裸にしようとしているのだとすれば。


「さらに、です」

小栗は別の写真を提示した。それは、潜水艦の潜望鏡越しに撮影された、アメリカ西海岸の港湾の様子だった。


「カイザー造船所をはじめとする彼らのドックでは、熟練工の技を必要としないブロック工法によって、驚異的な速度で新型艦艇が量産され始めています。デトロイトの自動車工場はすべて航空機と戦車の量産ラインへと組み替えられ、規格化された兵器がベルトコンベアから文字通り『湧き出している』状態です。彼らの生産スピードは、職人技に頼る我が国の工廠の比ではありません」


小栗はファイルを閉じ、重い声音で結論を口にした。


「イギリスが倒れ、我が国が戦利品の饗宴に酔いしれているこの九ヶ月間。ルーズベルトは決して指をくわえて怯えていたわけではありません。彼は中立法の檻の中で血の涙を流しながらも、国家の全産業を戦時体制へと強制移行させ、アメリカ合衆国という巨大な『マニュファクチャリング・モンスター(大量生産の怪物)』を完全に目覚めさせたのです。彼らが振り下ろす一撃が臨界点に達した時、真珠湾の金縛りなど、質量と計算機の暴力で強引に引きちぎられるでしょう」


深い沈黙が、地下要塞の評議場を支配した。

諸侯会館で祝勝ムードに浮かれる外様大名たちとは次元の違う、冷徹で大局的な危機感が、三人の男たちの間で共有されていた。


「……なるほどな」

家正宰相は、再びパイプを口に運び、ゆっくりと紫煙を吐き出した。その端正な顔には、焦りよりもむしろ、好敵手の覚醒を迎え撃つ冷酷な闘志が浮かんでいた。


「機械の計算速度と、ベルトコンベアによる規格化された鉄の津波か。かつて1853年にペリーの黒船を我が国の石油発動機巡洋艦で包囲して以来、我々はアメリカを『金融の鎖に頼る商人』と侮ってきたきらいがあったが……。どうやら彼らも、本気で世界システムのルールを暴力で書き換える覚悟を決めたようだな」


「いかがなさいますか、宰相閣下」

水野忠徳が、眼鏡の奥から鋭い視線を向けた。

「アメリカが国家の全生産力という名のマグマを臨界点に達せさせ、反攻の牙を極限まで研ぎ澄ましているのならば、我々がこのまま現状維持ステイタス・クオに甘んじて防衛線を固めているだけでは、いずれその質量に押し潰されます」


「その通りだ」

家正は力強く頷き、再び巨大な世界地図へと向き直った。


「アメリカが動くのを、ただ待っている理由などない。先手を打つ。我々が構築した太平洋の『絶対不落の防波堤』を、さらに彼らの喉元深くへと押し広げ、反攻の起点となる拠点を物理的・地政学的に完全に塞ぐのだ」


家正の太い指が、地図の上の太平洋の海原をなぞった。ハワイ諸島のさらに西側、そして南太平洋の外縁部に位置する島々──ソロモン諸島やギルバート諸島、あるいはアリューシャン列島方面へとその指先は向けられた。


「竹中の自動算盤のロジックにヒビを入れようとしているのなら、その計算の前提となる地政学的な『盤面』そのものを我々の手で書き換えてやるまでだ。外洋からの飛び石作戦を企てているならば、その飛び石となる島々をすべて我が国の要塞へと変えてしまえばいい。外様財閥の奴らにも、戦利品の消化ばかりにかまけている暇はないと伝えろ。次なる進撃の準備だ」


「承知いたしました」

小栗忠純と水野忠徳が、同時に深く一礼した。


大英帝国という古い巨獣の死骸を喰らい尽くし、絶対的な全盛期に到達した豊栄大日本帝国。

しかし、その絶頂の瞬間は、太平の眠りを約束するものではなく、さらなる巨大な血みどろの闘争──マニュファクチャリング・モンスターたるアメリカ合衆国との、真っ向からの物理と知略の激突へのカウントダウンの始まりに過ぎなかった。


極東の「脳」たちは、見えない電磁波の向こうで怒れる巨人が牙を剥くその瞬間に向けて、次なる冷徹な一手の布石を打ち始めたのである。

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