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第16章 沈黙の真珠湾と電磁の牙

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1942年9月中旬 米国ハワイ準州・オアフ島 

真珠湾 太平洋艦隊司令部

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ハワイの空は、どこまでも澄み切った痛いほどの青色をしていた。だが、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将が真珠湾の司令部で睨みつける海図には、その美しいハワイの海域を汚すように、巨大な鉛色の山がいくつもマークされていた。


「……現在時刻マル・ハチ・マル・マル。哨戒中のPBYカタリナ飛行艇より定時報告。敵艦隊、依然としてオアフ島沖四万ヤード(約三六・五キロメートル)のラインを遊弋中。一ヤードたりとも、十二海里の領海内には侵入しておりません」


傍らに立つ太平洋艦隊情報参謀、エドウィン・レイトン中佐が、手元の海図にコンパスを当てながら静かに報告した。その声には、隠しきれない疲労と苛立ちが滲んでいた。


「見事な操艦と規律だ」 ニミッツは、机の上に広げられたばかりの偵察機からの現像写真を睨みつけながら、低く呻くように言った。 「彼らは、自分たちが海の上にどこに線を引けば、我々アメリカ海軍が最も苛立ち、かつ国際法上、手を出せなくなるかを完璧に理解している」


偵察機のレンズが上空から捉えたその白黒写真には、白い航跡を引いて進む巨大な艦影が鮮明に写し出されていた。それは、徳川幕府直轄の天領国軍が誇る超弩級戦艦『大和』『武蔵』『信濃』『甲斐』の四隻を中核とし、準新鋭戦艦『長門』『陸奥』が脇を固める、世界最大の水上打撃部隊である。 彼らは十二海里の領海線を絶対に越えることなく公海上を堂々と航行し、四六センチ(一八インチ)という常軌を逸した巨砲の砲口を、常に真珠湾へと真っ直ぐに向けていた。最大射程四万ヤードを超えるあの巨砲から見れば、現在の遊弋位置は文字通りの「必殺の射程圏内」である。


これこそが、開戦以来九ヶ月間にわたってアメリカ太平洋艦隊を港内に縛り付けている「金縛り」の正体であった。 もし真珠湾から米艦隊が外洋へ出ようとすれば、即座にあの巨砲群の十字砲火を浴びて海底の屑鉄と化す。かといって、アメリカから先に発砲すれば、それは「中立国からの不法な先制攻撃」となり、中立法を盾にする議会の手によって、ルーズベルト大統領は即座に弾劾される。


「撃ちたくとも撃てない」という法理の檻と、「出港すれば沈められる」という物理的な脅威。東洋の怪物が仕掛けたこの完璧な抑止戦略の前に、アメリカ海軍は太平洋の覇者としてのプライドを粉々に打ち砕かれ、屈辱的な雌伏を強いられていた。


司令部の窓から眼下の真珠湾を見下ろせば、港内には無数の戦艦や巡洋艦が肩を寄せ合うように停泊している。甲板の上では、血の気の多い若い水兵たちが、見えない敵艦隊の方向を睨みつけながら、ただ無力に甲板を磨くことしかできずに鬱憤を溜め込んでいた。


「ワシントンの大統領は、ついに国家総力戦への最終承認書ヌードセン・プランにサインをした」


ニミッツは窓から視線を戻し、白手袋の束を強く握りしめた。


「だが、宣戦布告の議会承認が下りるまでは、我々はまだ檻の中だ。焦るな、レイトン。血の涙を流してでも、今は耐え忍ぶ時だ。……ロシュフォートの班はどうなっている?」


ニミッツの問いに、レイトン中佐は足元を指差した。


「地下のHYPO(戦闘情報班)は、文字通り不眠不休で稼働しております。IBMから派遣された特別技術支援チームも加わり、例の『計算機』は二十四時間、一度も電源を落としていません」


「行ってみよう。我々が反撃の糸口を掴むとすれば、あの狂気じみた熱の箱からしかないからな」


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同刻。真珠湾司令部 地下情報室(HYPO)

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真珠湾の地下深くに建造された暗号解読室(HYPO)の重い鉄扉を開けた瞬間、強烈な熱気と、鼓膜を劈くような機械の駆動音がニミッツたちを包み込んだ。空調はフル稼働しているはずだが、室内の気温は優に四十度を超えている。


「長官、地獄へようこそ。ここは今のハワイで一番暑くて、一番うるさい場所ですよ」


シャツを汗で肌に張り付かせ、赤いスモーキングジャケットを羽織った情報主任、ジョセフ・ロシュフォート中佐が、充血した目でニミッツを出迎えた。彼の足元はスリッパ履きであり、何日もベッドで寝ていないであろう無精髭が顎を覆っている。


彼の背後では、部屋の壁一面を埋め尽くすほどの巨大な機械が、無数の真空管の青白い光を点滅させながら、凄まじい音でパンチカードを読み込み続けていた。「カチカチカチッ!」という何千もの電磁リレーの切り替わる音が、まるで巨大な昆虫の羽音のように地下室に響き渡っている。 ワシントンでルーズベルト大統領の密命を受けたIBM社長トーマス・J・ワトソンが極秘裏に手配した、「世界初の真空管式・電磁計算機」の試作機であった。


「……例の、日本の二重暗号の解読は進んでいるか?」


ニミッツが声を張り上げて尋ねると、ロシュフォートは首を横に振った。


「『紫式部』の論理アルゴリズムは、狂気的と言えるほど完璧です。美濃の竹中数理演算所が組み上げたあの暗号論理は、文字の置換則が天文学的な速度で変動しており、内容の『完全解読』は、この電磁計算機を使っても向こう百年間は不可能です。筑前の黒田精機が削り出した通信ハードウェアのノイズの少なさも異常で、我々の傍受精度を嘲笑っています」


「解読不可能……。では、この巨大な熱の箱は何のために動かしているのだ? IBMの技術者たちを何十人も抱え込んで、ただ熱波を発生させているわけではあるまい」


「中身を読むのではありません。長官。箱の外側の『癖』を炙り出しているのです」


ロシュフォートは、壁一面に張り出された無数の折れ線グラフを指し示した。


「我々は暗号の内容解読を完全に諦め、計算機の暴力的な処理速度による『通信パターンの統計的推測トラフィック・アナリシス』へとシフトしました。竹中の暗号論理がいかに完璧な鉄壁であろうと、彼らも物理的な『通信の増減』や、広大な太平洋を移動する船団の『発信源の偏り』までは隠しきれない。この計算機は、その膨大な通信量と電波の発信源を二十四時間休まず統計処理し、彼らのロジスティクスの『結節点』を正確に弾き出しています」


ロシュフォートが机の上に広げた南太平洋の海図には、赤い鉛筆で無数の線と点が書き込まれていた。計算機が吐き出したパンチカードのデータが、視覚化されてそこに集約されていた。


「ニューカレドニアとニュージーランドを奪われたことで、我が方が南からシドニーの英連邦租界へ介入するルートは完全に閉ざされました。さらに現在、マレー半島でも奴らの『双頭の陸軍』が無敵の進撃を続けており、大英帝国のシンガポール陥落は時間の問題です」


ロシュフォートは、海図の赤道付近、ソロモン諸島やギルバート諸島の小さな島々に赤鉛筆の先端を突き立てた。


「しかし、奴らの帝国生存圏が広がれば広がるほど、それを維持するための兵站線(胃袋)は必ず伸び切ります。計算機が弾き出したデータによれば、このソロモンの『ガダルカナル』や、ギルバートの『タラワ』といった外縁部の島々への輸送ダイヤに、わずかな綻びと遅延の『癖』が見られます。日本本土の軍需工廠から運び出された物資が、前線に届くまでにここで渋滞を起こしているのです。奴らは無敵に見えますが、その胃袋の先には確実に隙がある」


ニミッツの目が、海図の上の赤い点に釘付けになった。 宣戦布告前である現在、大規模な艦隊行動は起こせない。だが、開戦の火蓋が切られた瞬間、どこを突けば東洋の巨人の動脈を断ち切れるのか。その「急所」が、計算機の暴力的な演算によって明確に可視化されていた。


「奴らの職人技と竹中の算盤に対し、我々は機械の計算速度でヒビを入れるということか」


「ええ。日本の電磁暗号は完璧な盾ですが、アメリカの電気と真空管の圧倒的な処理速度は、その盾の表面についた僅かな『傷』を絶対に見逃しません。我々はこの計算機を使って、日本の兵站の血流をすべて丸裸にしてみせます」


ニミッツは小さく頷き、ロシュフォートの肩を軽く叩いた。


「見事だ、中佐。そのまま解析を続けろ。ただし、倒れる前にシャワーくらいは浴びておくんだな」


地下の熱気と騒音を背にして、ニミッツは地上へと歩みを向けた。


真珠湾の地上へ戻ったニミッツは、司令部の裏側──すなわちアメリカ本土(西海岸)側へと続く港湾区画に広がる、異常な光景を見下ろした。


水平線の彼方から、数え切れないほどの巨大なリバティ船(戦時標準船)の船団が、真珠湾のドックへと続々と入港してくる。造船の怪物・ヘンリー・カイザーの造船所で、熟練工を必要としないブロック工法により、わずか数週間で湧き出すように建造された「鋼鉄の津波」であった。


港の拡張区画には、クレーンによって次々と陸揚げされる真新しい機体の群れがズラリと並んでいる。 視察に訪れたニミッツの前に、航空隊の若い指揮官が歩み寄り、敬礼した。


「長官、本土からの第三次機体搬入、完了いたしました」


「ご苦労。……この無骨な図体の機体が、我々の新たな矛というわけか」


ニミッツが陸揚げされたばかりの戦闘機を見上げて言うと、若い指揮官は誇らしげに頷いた。


「はい。新型のF6Fヘルキャットの初期量産型です。……日本の岐州重工が造り上げた『烈風』は、確かに恐るべき運動性能を持つ職人技の芸術品だと聞いています。しかし、芸術品ゆえに量産には限界があるはずです。対して、我々のこの機体は違います」


指揮官は、分厚い鋼板で覆われた機体の機首を力強く叩いた。


「プラット・アンド・ホイットニー社製の二〇〇〇馬力級エンジンを強引に積み込み、パイロットの座席と燃料タンクの周囲を分厚い装甲で囲んだだけの、ただの空飛ぶ鉄の塊です。ですが、誰が操縦しても素直に飛び、少々の被弾ではビクともしません。何より、デトロイトの自動車工場を転用したベルトコンベアから、一日に何十機も湧き出してきます。奴らの芸術品を、我々はこの規格化された鉄のハンマーの量で叩き潰してやるつもりです」


「職人が刃を研ぐ時代は、もう終わるのだな」


ニミッツは、夕日を受けて鈍く光る無骨な鋼鉄の塊を見つめながら、静かに呟いた。


「あの完璧な大和型の金縛りの裏側で、我々がただ指をくわえて震えていたわけではないことを、いずれ奴らに思い知らせてやる」


真珠湾の海面は、相変わらず穏やかであった。 だが、その地下では真空管が敵の急所を無慈悲に炙り出し、背後からは西半球の全生産力を結集したマニュファクチャリング・モンスターの質量が、溢れんばかりに到達しつつあった。


世界が法理と中立の檻の崩壊を待つ中、アメリカ合衆国という名の怒れる巨人は、東洋の怪物の喉元へ突き立てる分厚い電磁の刃と鋼鉄の津波を、地下深くで静かに、そして確実に研ぎ澄ませていた。


彼らは急がなかった。国家の全生産力という名のマグマが完全に臨界点に達し、振り下ろす一撃が「必殺」となるその『時』を、フランクリン・ルーズベルトは冷徹に待ち構えていたのである。

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